【参考リンク】

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2021年07月25日

構造と欲望・享楽と希望・その紙一重の先にあるもの



* 実存から構造へ

時は1960年代、フランス現代思想のモードは「実存主義」から「構造主義」へと変遷しました。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は、人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しました。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義は、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事実を暴き出しました。

このような中、構造主義の立場から独創的な精神分析理論を立ち上げたのがジャック・ラカンです。ラカンが構築した理論の特徴は、基本的には構造主義の立場に依拠しつつも、その枠組みの中で「構造」と「主体」の統合を試みた点にあります。

すなわち、ラカンによれば「主体」とは「構造」によって産出される存在であると同時に「構造の外部」を絶えず希求する存在でもあります。こうしてラカンは構造主義における一つのリミットを示しました。


* オイエディプスから千の欲望へ

ところが1970年代になると、こうした構造主義およびラカンの理論を乗り越えようとする動きが台頭化します。その急先鋒となった論客がジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。彼らが1972年に発表した共著「アンチ・オイエディプス−−資本主義と分裂症(1972)」はいわゆる「68年5月」において人々が求めていた「何か」を理論的に究明し、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風を巻き起こしました。

今や目指すべきは構造の解明でも安定でもなく、それ自体の変革あるいは破壊でなければならない。AOでは激烈極まりない精神分析批判、近代資本主義批判が展開されます。オイエディプスの首を切り飛ばし、千の欲望を表出せよ!このようなドゥルーズ=ガタリのメッセージは当時、革命の夢が潰えた時代においてある種の解毒剤の役割を果たしました。こうしてフランス現代思想のモードは「構造主義」から「ポスト・構造主義」へと遷移しました。


* 制御社会と資本主義のディスクール

その後、約半世紀の月日が流れ「68年5月」は遠い記憶となり、フランス現代思想も半ば懐古趣味となってしまいました。2021年現在、オイエディプス的価値観はポストモダン状況の進行の中で完全に失墜し、いまや切り飛ばそうにもその首自体がもはや無いという状況ですらあります。

そして今、我々の生きる現代社会とはオイエディプスよりも「さらに悪いもの」が出現した社会です。こうした社会の到来をかつてドゥルーズは「制御社会」として的確に予見していました。制御社会においては、人々を命令と懲罰で従属させる「規律権力」よりも、人々の生活環境に恒常的に介入する「生権力」が優位となり、様々なアーキテクチャによる統制の下、個人はデータベース化され、あたかもモルモットか何かのように飼い殺されていくことになります。

一方、こうしたドゥルーズのいう制御社会の到来をラカンもかなり早い段階で「享楽」の変容という観点から捉えていました。もともとラカンのいう「享楽」というのは「構造の外部」にあると想定される到達不可能な過剰快楽です。ところが1970年以降の消費化/情報化社会の進行はこの「享楽」を「構造の内部」に取り込み始めます。享楽とはもはや「禁じられた遊び」ではなく「押し売られる商品」へと変わっていきます。こうした享楽のデフレーションを図式化したのが、1972年にラカンが提出した「資本主義のディスクール」です。

資本主義のディスクール.png

高度に消費化/情報化された資本主義システムの下では、人々の要求は、速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解は新製品や新サービスとして次々と市場に供給されます。こうしていまや享楽は到達不可能なジュイッサンスから計量可能なエンジョイメントへと変容し、人々は獰猛な超自我に「享楽せよ!」と命じられ、ただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。

こうした制御社会あるいは資本主義のディスクールの台頭は従来の神経症的欲望の衰退を引き起こします。実際に1952年の初版発行以来、今や精神医学のグローバル・スタンダードとして君臨する「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」は、1980年発行の第3版において「精神分析の母」とも言える「ヒステリー」を診断カテゴリーから削除しています。では「ポスト・神経症的欲望」とはどのようなものでしょうか?


* ふつうの精神病とふつうの倒錯

この点、ラカン派精神分析では、人の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相で捉えます。そしてラカンによれば、人の精神構造は「象徴界」を内在化させているか否かで「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに分類されます。ところが1990年代以降、ラカン派においても「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれにも収まらない臨床例が増加し出します。

こうした事態を受けて「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールは「ふつうの精神病」なる暫定的カテゴリーを提唱します。「ふつうの精神病」とは古典的な「並外れた精神病」のような幻覚や妄想はないけれど、その心的構造に明らかな精神病的特徴が見られるような主体をいいます。

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」を創設したジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢=享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという「積極的否認」により自らを主体化します。けれども「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという「消極的否認」にその特徴がある。そして、このような「ふつうの倒錯」における主体化を回避した主体を「ネオ主体」といいます。


* 倒錯的な精神病

そして日本では、もっぱらドゥルーズ=ガタリの強い影響下にある現代思想の文脈で「ポスト・神経症的欲望」をめぐる議論が活性化しました。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代の宮台真司氏のコギャル支持、そしてゼロ年代の東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代に一世を風靡した言説はまさにこうした流れの中に位置づけることができるでしょう。

この点、千葉雅也氏は「ポスト・神経症的欲望」を〈別のしかたでの欲望〉と名指した上で、これまでの議論を以下の三類型に整理しています。

(a)〈別のしかたでの欲望〉を全く精神分析的ではない「動物的な欲求」へと振り切れさせるパターン。これは東浩紀氏が「動物化するポストモダン(2001)」において展開した議論です。

(b)〈別のしかたでの欲望〉をあくまでも神経症的欲望を前提とした多かれ少なかれの倒錯化として捉えるパターン。これはスラヴォイ・ジジェクや斎藤環氏の立場に近いとされます。

(c)〈別のしかたでの欲望〉を肯定されるべき「分裂病」の解放とみなすパターン。これは古典的なドゥルーズ=ガタリ主義です。

こうした三類型を前提として氏が提示する〈別のしかたでの欲望〉とは「非-精神分析的主義(a)」と「(神経症の前提をカットした)故障させられた精神分析主義(b’)」を「倒錯的な精神病(c’)」を媒介として縫合するという、かなりアクロバティックな欲望です。

その論理はおおまかに言えば次の通りです。ドゥルーズ=ガタリはAOにおいて「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したが、その背景にはマゾヒズム論としての倒錯論が潜んでいる。この事実は〈別の仕方での欲望〉をいわば精神病と倒錯のオーバーダブとして捉える立場を示唆している。そうであれば、ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば「否認的な排除」であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになる、ということです。

こうした千葉氏の議論を現代ラカン派の枠組みの中に無理やり接続するのであれば、おそらく「(ふつうの)精神病」である「かのように」振る舞う「(ふつうの)倒錯」ということになるのではないでしょうか。


* 現代ラカン派の自閉症論

これに対して、松本卓也氏は、現代ラカン派の立場から「ポスト・神経症的欲望」の手がかりを自閉症の臨床に求めます。

ラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきましたが、1980年代以降、テンプル・グランディンの「我、自閉症に生まれて」や、ドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」といった自閉症者の伝記出版が相次ぎ、自閉症者の内的世界が徐々にあきらかになりました。そしてラカン派内部でも、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」とエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって、自閉症は精神病から決定的に切り離されることになります。

こうした観点から現代ラカン派における自閉症論を「縁の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」という三つ組の概念により体系化したのがジャン=クロード・マルヴァルです。このマルヴァルによる自閉症論の体系はドナ・ウィリアムスの次の言葉に集約されています。

これはふたつの闘いの物語である。ひとつは、「世の中」と呼ばれている「外の世界」から、私が身を守ろうとする闘い。もうひとつは、その反面なんとかそこに加わろうとする闘いである。

−−自閉症だった私へ(24頁)


世界から身を守りつつ世界へ加わろうとすること。閉じることによって開かれるということ。自閉症の世界における様々な事象は「症状」というよりも、むしろ世界に棲まうための「闘い」であり、もはやそれは一つの「技法」と呼ぶべきものでしょう。そしてこうした「自閉的技法」は「ポスト・神経症的欲望」を生きる我々現代的主体のパラダイムを照らし出しているように思えます。


* 一般性と特異性のあいだ

こうしてみるとなかなか百花繚乱の感はありますが「ポスト・神経症的欲望」を倒錯的に捉えるか自閉症的に捉えるかという議論は実質的にはかなり重なり合う部分があります。例えば、千葉氏のドゥルーズ論「動きすぎてはいけない(2013)」におけるセルフエンジョイメント論は、松本氏のラカン論「人はみな妄想する(2015)」における一者の享楽論に相当するでしょう。そして両者に共通するのは切断と再接続からなる一般性と特異性のあいだの往還運動です。

人はそれぞれその人だけの特異性をもった存在として、一般性の中で折り合いをつけながら生きています。こうした特異性と一般性の巡り合わせが良ければ、それは「個性」として承認されますが、その巡り合わせが悪ければ「社会不適合者」として排除されてしまいます。

本当に、この差はほんの紙一重なんだと思います。けれどそれでもなお、自らの特異性と上手くやるための試行錯誤をあきらめなければ、あるいはいつか自ずと一般性との巡り合わせも変わってくるかもしれません。こうした一般性と特異性のあいだを往還する中で見出される一つの希望こそが、おそらく「ポスト・神経症的欲望」の核心なのではないでしょうか。
















posted by かがみ at 23:35 | 精神分析

2021年06月26日

リゾーム・接続と切断・世界を有限化するということ



* ファルス−−〈欠如〉としての欲望

人間とは無限に欲望する生き物です。あれをしたい、これをしたい、あんな風になりたい、この人に愛されたい・・・といったように、人はある欲望を成就させても必ず次の欲望を産み出します。こうした欲望の無限連鎖をフランスの精神分析家ジャック・ラカンは〈欠如〉への欲望として捉えました。そして、ラカンはこのような〈欠如〉を示すシニフィアンである「ファルス」へと向かう欲望を「純粋欲望」と呼びました。

1950年代のラカンは「純粋欲望」を欲望の理念形として捉えていました。けれどもラカンがその範例として取り上げたアンティゴネーの悲劇がまさにそうであるように「純粋欲望」の実践は端的に人としての破滅を意味します。そこで1960年代になるとラカンはむしろ純粋欲望からの退避を強調するようになります。ここで「純粋欲望」に至る手前で欲望の無限連鎖を有限化する安全装置としての役目を果たすのが「対象 a 」です。

「対象 a 」は人や物や出来事といった様々な表象に宿り「欲望の原因」として機能します。こうして人は「ファルス」という究極的な欲望を憧憬しつつも、実際はその周囲で「対象 a 」を日常的に欲望し続けることを欲望することになる。そして、このような純粋欲望との「絶対的な差異」を得ようとする欲望こそ精神分析における欲望に他ならないとラカンはいいます。


* リゾーム−−別のしかたでの欲望

もっとも、こうしたラカン的欲望は「ファルス」という単一の超越論的シニフィアンが欲望の無限連鎖を吊り支える否定神学構造となっています。これに対してフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリはラカン的欲望とは異なる「別のしかたでの欲望」を提示しました。

いわゆる「1968年5月革命」において人々が求めていた「何か」を理論的に究明したドゥルーズ=ガタリの共著「アンチ・オイエディプス(1972)」は、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。そして、その続編「千のプラトー(1980)」においては「ファルス」に対するオルタナティヴとして「リゾーム」という概念が打ち出されます。

「リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいいます。このような「リゾーム(根茎)」は「ツリー(樹木)」と異なり全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただただ限りなく連結し、飛躍し、逸脱し、横断する諸要素の連鎖からなります。いかなる事物もリゾーム上に接続されており、あらゆる事物は相互に生成変化し続けていくということです。


* リゾームにおける接続と切断

こうしてみるとリゾームとはあらゆる事物が渾然一体となった「万物斉同の世界」のように見えます。そして実際、ありがちなドゥルーズ=ガタリ主義においてリゾームは概ねこうした「接続の原理」によって一元的に把握されてきました。けれども、そのようにリゾームを捉えてしまうと、単一の原理で全体を統制するという意味では結局のところラカン的ファルスと選ぶところがないということになってしまいます。

この点、気鋭のドゥルーズ研究者として知られる千葉雅也氏は晩年におけるドゥルーズの「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を導きの糸として、リゾームにおける「非意味的切断」を際立たせる読解を提示します。

確かにドゥルーズ=ガタリの魅力はあらゆる事物が渾然一体となった「万物斉同の世界」へと向かう華やかさと危うさにあります。けれどもドゥルーズは「華やかさ」と「危うさ」の裏で、同時に「慎重さ」をも求めています。持続可能な生成変化を行う上では「接続過剰」によるオーバードーズの手前での「いい加/減な切断=非意味的切断」が必要となるということです。

こうした観点からすれば、リゾームにおける生成変化は「接続の原理」と「切断の原理」のせめぎあいによって駆動しているという事になります。リゾームは多方向に接続されていくと同時に多方向に切断されていく。ではその具体的な過程はどのようなものでしょうか?


* 生成変化の原理

ドゥルーズ=ガタリによれば、ある事物Nへの生成変化とは、Nを模倣することでもNに同一化することでもありません。Nへの生成変化とは識別不可能かつ非人称的な〈知覚しえぬもの〉としての「x」への生成変化をいいます。

こうして我々はリゾームの中で潜在的に、言ってみれば「猫」になったり「トマト」になったり「魔法少女」になったりする事ができるわけですが、こうした様々な生成変化はいずれも〈知覚しえぬもの〉としての「x」へと「消去/匿名化」されることになる(Nになる=Nでなくなる)。けれどもその一方で「猫」とか「トマト」とか「魔法少女」などといった具体的な名辞は依然として「反復/維持」されることになる(Nになる=Nである)。

つまりドゥルーズ=ガタリにおいて「猫」とか「トマト」とか「魔法少女」などと言い表される「何か」への生成変化は、単数的な〈知覚しえぬもの〉としての「X」へ接続された「万物斉同の匿名化」ではなく、複数的な〈知覚しえぬもの〉としての「x」「y」「z」へと切断された「区別のある匿名化」であるということです。

要するに、ある事物Nへの生成変化とは「いわゆるN」とはズレた「分身としてのN’」の増殖であるということです。

この点、ドゥルーズ=ガタリは「区別のある匿名性」を「微粒子」と呼びます。すなわち、生成変化の原理は微粒子群を成立させる関係束(出来事=述語の束)の組み変わり(アレンジメント)にあります。

そして生成変化の実践は「モル状」ではなく「分子状」に行われます。ここでいう「モル状」とは「いわゆる〜」という粗雑なステレオタイプであり、これに対して「分子状」とはそのモル状の「いわゆる〜」を成り立たせる関係束が限定されずに、組み変わりへ開かれている状態をいいます。


* 身体と無意識

そして、こうした「関係束の組み変わり」としての生成変化は単なるパフォーマンスのレベルの変化に止まらず、脳神経のシナプス結合といった身体的なレベルの変化を引き起こします。

こうした生成変化論における心身問題の背景には、近世を代表する大哲学者の一人に数えられるバールーフ・デ・スピノザの心身並行論があります。スピノザはその主著「エチカ(1677)」において「精神」と「身体」は存在論的なレベルで全く対等に、同じ出来事をそれぞれ表現するといいます。

この点、ドゥルーズは「自らの認識の所与の制約を超えた身体の力能」を掴むことが、我々にもしできるようになるとすれば、同様の運動によって「自らの意識の所与の制約を超えた精神の力能」を掴むことができるようになるだろうと述べ「身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分」が、ここに発見されるといいます。

すなわち、生成変化に伴う身体の変容は、新たなる無意識の生産とパラレルの関係に立つということです。すなわちここにラカン的ファルスに回収されない「別のしかたでの欲望」との出会いが見出される事になります。


* 世界を有限化するということ

こうしたドゥルーズ=ガタリの生成変化論はある種の世界を有限化するアプローチでもあります。様々なネットワークによってリゾーム化した現代社会において我々の日常は放っておいても勝手に接続過剰になってしまう。そして我々はこうした接続過剰に耐えきれず、しばし自身の思い込みで世界を色々と決めつけてしまう。けれども決めつけた世界と現実は当然整合しない。このような決断主義的な有限化は生きづらさと隣合わせです。

これに対して、接続過剰に対する非意味的切断とはある種、自身と世界を「無関係化」する事で有限化するアプローチです。動きすぎるのでも動かないのでもなく、動きすぎないということ。世界とは無関係に普段の日常を半歩ずつずらす事で様々に関係束の組み変わりを繰り返していくということ。こうしたしなやかな有限化のアプローチとしてもドゥルーズ=ガタリの生成変化論は読めるように思います。












posted by かがみ at 21:39 | 精神分析

2021年05月24日

反復・自閉・リトルネロ



* 象徴的秩序における「時間」

我々は普通「時間」というものを「過去→現在→未来」へとあたりまえに進むものだと考えています。そして、こうした連続的に発展していく線状の「時間」の上に、我々は「記憶」を形成し「自己(物語的自己)」を規定しています。

もっとも、この「過去→現在→未来」という「時間」とは、あくまで人の象徴的秩序に属するものです。すなわち、我々の生きる「時間」とは自然発生的なものではなく、ある種の象徴的決定を経ることにより初めて生じるものであるということです。


*「記憶」の形成

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「盗まれた手紙のセミネール」において「Fort/Da」で有名な「エルンスト坊やの糸巻き遊び」を例に象徴的決定のシステムの組成を論じています。

すなわち、全くの偶然の連鎖にすぎない糸巻きの現前(+)/不在(−)は、コード化されることで、連鎖を支配する秩序が帰結される事になりますが、そこで同時に連鎖の不可能性が生じる事にもなる。

もっとも、ラカンによれば、まさにこの連鎖から常に抜け落ちる不可能な一点により我々は「記憶」が可能になるということです。


* 想像的縮約と象徴的共存

そして、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは「差異と反復」において、上のラカンの議論を下敷きにした時間論を展開します。

ここでドゥルーズは「時間」をある種の保存能力として捉えます。この保存能力は想像的縮約と象徴的共存の二段階があります。

まず、ある瞬間が次の瞬間には保持されていない不連続的瞬間が次々と継起する非時間的位相のカオス状態から、直近と直後の瞬間を「いま、ここ」という「現在」へ構成するのが想像的縮約です。これはドゥルーズの「反復」においては「裸の反復」に対する「着衣の反復」の行使として位置づけられます。

もっとも、想像的縮約は、あくまで直近の瞬間と直後の瞬間のみを暫定的な「現在」として留めることができるに過ぎない。そこで、不連続的瞬間を個別要素として縮約した「現在」それ自体を、さらに個別要素としてその中に含み保存する大域的な時間形式である「過去」を構成するのが象徴的共存です。


* タイムスリップ現象

こうした想像的縮約と象徴的共存という二段階の保存を経たものが、多くの人にとっての「時間」という事になります。けれども、その一方でこうした「時間」とはまったく別の「時間」が存在します。この別の「時間」の位相を端的な形で示すのが自閉症におけるタイムスリップ現象です。

タイムスリップ現象とは感情的な体験が引き金となり、同様の過去の記憶体験をあたかも現在の体験であるかのように扱う現象を言います。そして、その記憶体験は言語獲得以前(つまりは、ラカンのいう象徴的決定のシステムの組成以前)まで遡ることがあります。

こうした不思議な現象を理解するには、自閉症者の棲まう時間の特異性を考えてみる必要があります。すなわち、自閉症者において時間は「過去→現在→未来」と線状に進むのではなく、むしろその都度その都度の様々な時間が点状に散在している可能性があります。このような時間構造の中では、普通の意味での「自己(物語的自己)」は成立していないことになります。


* 点状に散在する「記憶」

すなわち、自閉症者にとっては過去の記憶は巨大なデータベースの中に、時間によって整序されていない等価な「あの出来事」「この出来事」として格納されているということです。つまり、これは一つ一つの記憶(出来事)がそれぞれ、他のものには還元できない「此性」をもっている事になります。

定型発達者の「記憶」とは言語により抽象化・一般化された記憶であり、言語獲得以前の時期に体験したことは記憶に残りません。反対に自閉症者の「記憶」は言語により抽象化・一般化されていない「此性」を持った「純粋な出来事」としての「記憶」である。ゆえに自閉症者は言語獲得以前の記憶をも持ちうるということです。

自閉症者はこうした点状に散在する「記憶」を生きていながら、社会的時間に適応するため、これらの「記憶」をなんとか自力で仮にまとめあげているということです。

けれども、そこに自身が揺さぶられるような不快な体験が起こったとしたら、その仮のまとめあげが崩れ、過去が現在に侵入してくる事になります。これがタイムスリップ現象の構造です。


*「能力/技法」としての自閉的行動

このタイムスリップ現象はドゥルーズの時間論を裏側から説明しているようです。すなわち、自閉症者は大域的な時間形式としての「過去」に支えられていない暫定的なまとまりである「現在」の連続としての「時間」を生きているということです。

これはまさに底沼なしのカオスと紙一重の綱渡りに他ならない。けれども、このことは同時に自閉症者が持つ特異的な「能力/技法」の存在を示唆しています。

例えばDSM-Xは自閉症スペクトラム障害の診断基準の一つとして「限定的で反復的な行動、関心、活動」をあげています。これは具体的には⑴常同的で反復的な行動⑵同一性保持、ルーティーンへの固執、儀式化された行動、⑶きわめて限局的で固定された関心、⑷感覚的入力や環境の特定の側面に対する鋭敏と鈍感、などを言います。

こうした常同的で反復的な行動がなぜ自閉症の特徴とされるのか?それは自閉症者の生きる「時間」と密接に関わっているからです。すなわち、自閉症における常同的で反復的な行動は「症状」というよりは、むしろ象徴的共存なきところでの想像的縮約により「裸の反復」に対する「着衣の反復」を生み出す「能力/技法」であるということです。



* リトルネロ

そして後に、ドゥルーズは後にこうした「裸の反復」に対する「着衣の反復」をより肯定的な概念へと洗練させます。すなわち、それがフェリックス・ガタリとの共著「千のプラトー」において提出された「リトルネロ」です。



暗闇に子どもがひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌を頼りにして、どうにか先に進んでいく。

歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものである。子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を早めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。

歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序をつくりはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険もある。

(千のプラトーより)



リトルネロ。同じ節や文句の反復。それは絶えず生成流転するカオスを相対的に減速させる暫定的な秩序を設立する営みに他ならない。もちろん、それはあくまで暫定的なものであり、ひとたび紡ぎあげたリトルネロも、いつまたバラバラになるかわからない。

こうしてリトルネロは、まさに子どもが暗闇の中で歌を口ずさむことで、おぼつかないながらも歩き出したり足を止めたりするように、途切れ途切れに展開していきます。それはある種の環境調整でもあると同時に、世界を「有限化」する技法でもあります。


* 世界に「住み処」を見出すということ

周知の通り「千のプラトー」の枢要概念となるのは「リゾーム」です。確かに近代秩序という「ツリー」が曲がりなりにも機能していた当時において、そのオルタナティブとしての「リゾーム」は、ある種の「華麗なる逃走」としての輝きを放っていました。

けれども、近代秩序という「ツリー」が完全に解体され、全世界がグローバル化/ネットワーク化という「リゾーム」に覆われた現代においては、むしろ接続過剰な世界の中に自分なりの「住み処」を見いだす「リトルネロ」の方に我々は賭け金を置くべきなのでしょう。

そういった意味で、現代における哲学/精神分析が切り開くべきフロンティアは、まさしく自閉症者の懸命な日常実践の中にこそ見出されるのではないでしょうか。











posted by かがみ at 23:19 | 精神分析

2021年04月25日

閉じることによって開かれるということ−−自閉症の世界



* はじめに

「自閉(Autism)」という言葉の起源は1911年、スイスの精神科医、オイゲン・ブロイラーの統合失調症論に見出されます。ここで「自閉」とは、外界との接触が減少して内面生活が病的なほど優位になり、現実からの遊離が生じることを指しています。

それからおよそ30年後の1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表し、ここで「自閉」という言葉は単独の疾患概念となります。もっとも当時は自閉症は幼児期に発症した統合失調症と考える見解が依然として多数でした。ところがその後、認知領域・言語発達領域における研究の進展に伴い、1970年代には自閉症は脳の器質的障害であり、統合失調症とは別の疾患だと考えられるようになります。

その一方でカナー論文の翌年、1944年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによる「小児期の自閉的精神病質」という論文が発表されています。このアスペルガー論文は諸般の事情があり長らく日の目を見ることがなかったわけですが、1980年代になってイギリスの精神科医ローナ・ウィングにより再発見されます。

ウィングは成人の症例にもアスペルガー論文の症例と同様の特徴が見られることを発見し、その一群をアスペルガー症候群と名付けます。アスペルガー症候群はカナー型自閉症の診断基準を部分的に満たす症例であり、とりわけ非言語的コミュニケーションに難がある点に特徴があります。

ここで自閉症は「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」として再定義されます(ウィングの三つ組)。こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-X)」において、カナー型自閉症とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」として統合されることになります。その診断基準は概ね以下の通りです。



以下のA、B、C、Dを満たしていること。

A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)

 1 社会的・情緒的な相互関係の障害。

 2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。

 3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。

B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)

 1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。

 2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。

 3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。

 4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。

C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。

D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。


その他、知的障害やその他の発達の遅れではうまく説明できないことが確認された時、当該疾患は自閉スペクトラム障害と診断されることになります。端的にいうと、ASDの特性とは「社会的コミュニケーションの持続的障害」と「常同的反復的行動・関心」という2点から成り立ちます。具体的には「相手の気持ちや場の空気を読めない」「言葉をそのままの意味で受け取ってしまう」「他人の表情や態度などの意味が理解できない」「相手が2人以上になるとわけがわからなくなる」「独自のルール・こだわりに執着する」といった特性をいいます。

もっとも自閉症における様々な臨床例は、こうしたDSMの操作的診断基準だけで捉えきれるものではありません。以下では、今日の精神病理学からみた自閉症の世界をいくつか素描してみようと思います。


* 同一性保持

いわゆる「症例ドナルド」は1943年にカナーが発表した自閉症における世界初の症例報告です。本症例の患者、ドナルドは驚くべきことに1歳の時点で多くの詩歌を暗唱することができて、2歳前には23番の讃美歌と長老派の25もの教義問答の質問と答えを覚えたそうです。

ところが彼は様々な言葉を覚えることは得意だけれども、これらをを分節化して臨機応変に組み変えて使うことができなかった。定型発達者の場合、おおよそ1歳で一語文を獲得して、2歳で二語文を獲得します。つまり定型発達における2歳児は「ママ、いた」「ぼく、ごはん」などのように、2つの言葉を組み合わせて使えるということです。これに対してドナルドは、最初の一語文しか使えない状態のままで様々な言葉を覚えてしまったわけです。

例えばドナルドは母親の「あなたの靴を引っ張って」というひとかたまりの言葉と「靴を脱ぐ」という行動を1対1で結びつけています。ドナルドにとって「あなたの靴を引っ張って」という母親の言葉は「あなた/の/靴/を/引っ張って」というふうにいくつかの単語が分節化されたものではなく、むしろ「開けゴマ!」のような「靴を脱ぐための呪文」として扱われています。ゆえにドナルドは「あなたの靴を引っ張って」という呪文を、後日、自分が靴を脱ぎたくなったときにもそのまま反復的に使用するようになります。

彼は最初に覚えた言葉を、まるでテープを再生するかのように同じ形で、つまりは臨機応変に組み変えることなく、最初に覚えた時のままの状態で繰り返しています。このような特徴をカナーは「同一性保持」と表現します。


* タイムスリップ現象

カナー型の自閉症例においては、しばし「此性」の充溢というべき事態が出現することがあります。その一つがタイムスリップ現象です。タイムスリップ現象とは感情的な体験が引き金となり、同様の過去の記憶体験をあたかも現在の体験であるかのように扱う現象を言います。そして、その記憶体験は言語獲得以前まで遡ることがあります。

こうした不思議な現象を理解するには、自閉症者の棲まう時間の特異性を考えてみる必要があります。普通、我々にとって時間とは「過去→現在→未来」へとあたりまえに進むものであり、記憶もまた過去のことが現在に至るまで連続的に発展してきたものとして与えられており、未来もまた現在から連続的に発展するものだと漠然と考えられます。そしてそのような線状の時間の上に、自分が何者であるかをある種の「物語」として規定する自己(物語的自己同一性)が成立します。

これに対して自閉症者において時間は「過去→現在→未来」と線状に進むのではなく、むしろその都度その都度の様々な時間が点状に散在している可能性があります。このような時間構造の中では、普通の意味での自己(物語的自己同一性)は成立していないことになります。

すなわち、自閉症者にとっては過去の記憶は巨大なデータベースの中に、時間によって整序されていない等価な「あの出来事」「この出来事」として格納されているということです。つまり、これは一つ一つの記憶(出来事)がそれぞれ、他のものには還元できない「此性」をもっている事になります。

定型発達者の記憶とは言語により抽象化・一般化された記憶であり、言語獲得以前の時期に体験したことは記憶に残りません。反対に自閉症者の記憶は言語により抽象化・一般化されていない「此性」を持った「純粋な出来事」としての記憶である。ゆえに自閉症者は言語獲得以前の記憶をも持ちうるということです。

自閉症者はこうした点状に散在する記憶を生きていながら、社会的時間に適応するため、これらの記憶をなんとか自力で仮にまとめあげているということです。けれども、そこに自身が揺さぶられるような不快な体験が起こったとしたら、その仮のまとめあげが崩れ、過去が現在に侵入してくる事になります。これがタイムスリップ現象の構造です。


* 此性の不在

その一方で、アスペルガー症候群においては逆に「此性」の不在というべき事態が出現します。これは具体的には人の顔や名前を覚えるのが苦手という事象として現れます。

定型発達者の場合、顔を一つのゲシュタルト(まとまり)として認識しています。ところがアスペルガー症候群の症例においては、他人の顔を一つのまとまりとして認識できないケースが見られます。その場合、人物の特定は、目や鼻や髪型など顔の構成要素、身体的特徴、あるいは出会う場所と時間など様々な情報の組み合わせによって行われます。従って、この組み合わせが少しでも変わってしまうと人物の特定がたちどころに困難になるわけです。

この点「此性」の機能は固有名をめぐる記述主義と反記述主義の対立から理解できます。記述主義の立場では固有名は確定記述(=その固有名を定義する属性や説明)の束に還元できるとされます。例えば「アリストテレス」という固有名は「古代ギリシアの哲学者」「アレクサンダー大王の師」といった一連の確定記述の束に還元されます。他方で反記述主義の立場からは、固有名は確定記述の束には還元できず、むしろ確定記述に還元しようのない「あのアリストテレス」「このアリストテレス」という「此性」こそが固有名を支えているとされます。

つまりカナー型自閉症に見られる「此性」の充溢は「固有名」を「此性」が支える反記述主義の立場から、アスペルガー症候群に見られる「此性」の不在とは「固有名」を「此性」が支えることなく確定記述の束に還元する記述主義の立場から、それぞれ並行的に理解できるということです。この二つのケースはまさしく両極端に見えますが、自閉症者の中ではしばしばこれらの特徴が矛盾なく同居することがあります。


* 志向性遮断とブラックホール体験

先述したドナルドは他者にまるで興味がなく、人見知りもせず、その一方でフライパン回しなど一人遊びを好み、それを他者に妨げられるとかんしゃくを起こすことがあったそうです。こうしたドナルドの振る舞いは他者から自分に向けられた「志向性」を遮断しているように見えます。

ここでいう「志向性」とは他者からの「まなざし」や「声」という形で自分の側に向けられたベクトルのことを言います。他者と自然と目を合わせたり、呼びかけに応じたり、他者の存在を前提にした振る舞いなどは志向性に気づくことで生じる間主観的な行動ということです。

他者からの「まなざし」や「声」を遮断することで自閉症者は自分だけの他者性のない安定した世界を作り上げようとします。そしてこの志向性遮断が破れ世界に他者性が侵入してくる時、自閉症者の世界は破滅的な状況に陥ってしまい、この混乱をより強い刺激で収めようとして、時には飛び降りやリストカットといった衝動的な自傷行為を起こしてしまうことがあります。

こうした破滅的な状況は「ブラックホール体験」と呼ばれます。この「ブラックホール体験」は自閉症の世界が「欠如の欠如した世界」であることを示しています。自閉症者がパニックに陥るのは他者の「まなざし」や「声」が彼らを触発して、その内的世界の中になんらかの「不在」が現れる時です。この点、定型発達者は不在を「あるべきものがない」という「欠如」として象徴的に処理します。ゆえに定型発達者は「不在」に対してそれほどパニックになることはありません。

ところが自閉症者はこの象徴化が上手くいっていない為「不在」を「欠如」として象徴的に処理することができない。こうして何の「不在」のないはずの「欠如の欠如した世界」の中に突如現れた「不在」はこれまで体験したことのない「現実的な穴=ブラックホール」として現れて根源的不安を引き起こすことになるわけです。


* 閉じることによって開かれるということ

このように見ていくと、自閉症における様々な「症状」は、定型発達者のように「言語」という象徴化の回路とは別の仕方でどうにか世界へ棲まうための営みという側面も持ち合わせているように思えます。

この点、ラカン派精神分析では自閉症を「シニフィアン」と「享楽」の2つの側面から把握します。まず、自閉症をもっぱら「シニフィアン」の側面のみで捉えた時、それはラカン派のタームでいうところの原初的象徴化の失敗、疎外の拒絶に他ならず、この限りにおいては自閉症と精神病(統合失調症)は同一圏内にあるということになります。こうしたことからラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきました。

ところが1980年代以降、テンプル・グランディンの「我、自閉症に生まれて」や、ドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」といった自閉症者の伝記出版が相次ぎ、自閉症者の内的世界が徐々にあきらかになりました。そしてラカン派内部でも、自閉症を「シニフィアンの病理」のみならず「享楽の病理」という側面から仔細な検討が加えられ、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」とエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって、自閉症は精神病から決定的に切り離されることになります。

こうした観点から現代ラカン派における自閉症論を「縁の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」という三つ組の概念により体系化したのがジャン=クロード・マルヴァルです。このマルヴァルによる自閉症論の体系はドナ・ウィリアムスの次の言葉に集約されています。

これはふたつの闘いの物語である。ひとつは、「世の中」と呼ばれている「外の世界」から、私が身を守ろうとする闘い。もうひとつは、その反面なんとかそこに加わろうとする闘いである。

−−自閉症だった私へ(24頁)


世界から身を守りつつ世界へ加わろうとすること。閉じることによって開かれるということ。自閉症の世界における様々な事象は「症状」というよりも、むしろ世界に棲まうための「闘い」であり、もはやそれは一つの「技法」と呼ぶべきものでしょう。そしてこうした「自閉的技法」はエディプス的幻想が失墜した「ポスト・神経症時代」における現代的主体のパラダイムを照らし出しているように思えます。












posted by かがみ at 21:28 | 精神分析

2021年03月27日

形而上学・否定神学・郵便空間



* 反-哲学としての脱構築

西洋哲学史はプラトン哲学の註釈史であるという有名な言葉があります。西洋哲学の父は周知の通りプラトンの師であるソクラテスですが、ソクラテス自身は何も書き残さなかった人ですので、ソクラテスの言葉を書き留めたプラトンの哲学をもって西洋哲学は始まったともいえます。
 
そしてプラトンが創始した哲学は別名「形而上学」と呼ばれています。形而上学は世界を「内部/外部」という二項対立へ切り分けることで構築されてきました。近代の自然科学の発展を支えたのも、まさしくこうした形而上学的思考に他なりません。
 
こうした形而上学に対して叛旗を翻したのが、しばし20世紀最大の哲学者と形容されるマルティン・ハイデガーです。ハイデガーの主著である「存在と時間」はこうした形而上学の歴史を「解体」することで、歴史の彼方に置き去りにされた根源的な「存在」の経験を問うという巨大な構想を持つものでした。
 
けれども、ハイデガーは、形而上学の解体をまさに当の形而上学の言葉で行おうとしたため「存在と時間」の構想は破綻し同書は未完の憂き目を見る。その後、同書はハイデガーの意に反して形而上学の極みともいえる「実存哲学の聖典」として祀りあげられた。その一方で、同書の真の目的であった「存在の問い」を遂行し続けた後期ハイデガーの言説は何かわけのわからない秘教的言説のように思われ、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきました。
 
いわばハイデガー哲学とは形而上学の「解体(デストルクチオーン)」を目指した「反-哲学」と呼べるものです。こうしたハイデガーの「反-哲学」を「脱構築(デコンストリュクシオン)」の名において継承したのが、フランスの(反)哲学者、ジャック・デリダです。
 

*「いわゆる脱構築」と「もう一つの脱構築」

「脱構築」とは既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」する事を言います。このような「脱構築」を武器に、1960年代におけるデリダは様々なシステム/テクストにおける「内部/外部」の二項対立を快刀乱麻の如く斬り捨てていきます(「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」)。ところが1970年代になるとデリダは何を思ったのか、これまでの明晰な文体を放棄して、何が言いたいのかよく分からない奇妙なテクストばかり書くようになります(「弔鐘」「絵葉書」)。

70年代におけるデリダのテクスト群は謎の実験文学として、デリダ研究の中でも長らく見て見ぬふりをされてきました。こうした中で「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いに徹底してこだわり、ここからデリダの「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」を取り出すことに成功したのが東浩紀氏のデビュー作「存在論的、郵便的」です。

同書はかつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏の激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の若き俊英として脚光を浴びることになりました。では、ここで示された「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」とは一体何なのでしょうか?


*〈かもしれない〉という幽霊

ある具体的なシステム/テクストの「こうである/そうでなかった」という解釈の背後には「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という「可能性の束」が無数にひしめいています。こうした「可能性の束」をデリダは「幽霊」と呼びます。

「幽霊」とは反復可能性がもたらす「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という変異のことであり、同時に事実としては「こうである/そうでなかった」という唯一性でもあります。所詮「幽霊」は「幽霊」でしかない。けれどこうした〈かもしれない〉という「幽霊」の声に真摯に耳を傾けようとした結果が、まさに70年代におけるデリダの変化でもあります。これがデリダの「郵便空間」です。


* 手紙は宛先に届かないかもしれない

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」はラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られています。

このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものです。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出します。

「言うなれば送信機は受信機から自分自身の伝言を逆さまの形式をとおして受け取るのです。それゆえ〈盗まれた手紙〉さらには〈保管中の手紙〉なる言葉の真意は、手紙というものはいつも送り先に届いているということなのです。(E41)」

これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないかもしれない」というテーゼを提出します。どういうことでしょうか?


* 形而上学・否定神学・郵便空間

この点、東氏によれば「真理の配達人」においてデリダは二重の批判を行なっている事になります。すなわち、それは「形而上学的システム」への批判と「否定神学的システム」への批判ということです。

まず形而上学的システムにおいて、全てのシニフィアンはそれぞれ対応するシニフィエに回付され、こうしたシニフィアンの循環運動は最終的には超越論的シニフィエによって担保されます。ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別される。この認識構造を図式化すれば底面が頂点によって吊り支えられた円錐構造となる。こうした形而上学的システムの例としてルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの論理実証主義やエトムント・フッサールの超越論的現象学があげられます。

これに対して否定神学的システムにおいては、シニフィアンの循環運動の完全性を不可能にする「穴」を発見する。しかしこの「穴」は「シニフィエなきシニフィアン」という超越論的シニフィアンで名指され、全てのシニフィアンの運動はこの超越論的シニフィアンに回収される。ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡される。この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となる。

こうした否定神学システムを整備したのがハイデガーの存在論であり、これをより洗練させたのがラカン派精神分析ということになります。すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事です。

否定神学システムは形而上学システムでは説明できない世界の「限界」や「過剰」を巧妙に説明してくれます。しかし同時に否定神学システムは世界の「限界」や「過剰」を単数的な超越性へと回収してしまいます。ここに複数的な超越性の「可能性の束=幽霊」を導入するのがデリダの郵便空間システムです。

すなわちデリダのいう「手紙は宛先に届かないかもしれない」とは「全てのシニフィアンは想定外のシニフィアンに誤配されるかもしれない」ということです。手紙は宛先に届かない〈かもしれない〉。仮にそれが正しい宛先に届いた時だって、別の宛先に届いた〈かもしれない〉。こうした「可能性の束=幽霊」が常に郵便空間には内在しています。


* 存在論的、郵便的

こうしたことから東氏はデリダの脱構築を二つに分けます。すなわち、まず「差延」などに代表される「いわゆる脱構築」をハイデガー由来の否定神学システムからなる「(論理的-)存在論的脱構築」として名指した上で、ここから逃れる「もう一つの脱構築」の可能性としてフロイト由来の「(精神分析的-)郵便的脱構築」を提示することになります。

この点、存在論的脱構築も郵便的脱構築も世界(Da)から排除された「不可能なもの」を言語化しようとする点では共通します。もっとも存在論的脱構築にとって「不可能なもの」とは単数的な観念です。そして「不可能なもの」の存在論化においては哲学素の固有名化が利用されるため、その言説は後期ハイデガーのようにかなり秘教じみたものになります。

これに対して、郵便的脱構築は「不可能なもの」を複数的な物質として捉えます。そしてここで用いられるのは精神分析における転移のメカニズムです。いわば哲学素の転移化です。

郵便的脱構築において用いられる転移技法は「古名」の操作と呼ばれます。これはまず⑴ある概念に還元される様々な確定記述が抜き取られ、次に⑵残ったその概念の名を利用した確定記述の「接木/拡張」という二段階で行われます。

こうした「古名」の操作を可能とするのが、あらゆるシニフィアン(表象)に宿る確定記述の束に等置不可能な「剰余(plus)」です。そしてこの「剰余(plus)」はあらゆるシニフィアンと、その背後に取り憑いている「コーラ(=器)としてのエクリチュール」との間に生じる差延から生じます。
 

* シニフィアンとエクリチュールの二重性

すなわち、ハイデガーとデリダの世界(Da)の相違は以下のようなものです。ハイデガーの世界(Da)はシニフィアン(存在者)のみで構成されており、そこにはひとつの穴(存在)が空いている。ここからクラインの壺の底面と頂点を短絡させるクラインの管を経由して超越的審級から「存在の声」が降り注ぎます。

これに対してデリダの世界(Da)はシニフィアン(存在)とエクリチュール(幽霊)の二重構造になっており、その二重性の間から崩落したものが無意識という「郵便空間」を経由して「幽霊の声」として再来する。こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」の可能性をあらゆるレベルのコミュニケーションに見出すのが「存在論的、郵便的」の理論的核心となります。


* 「大きな物語」の失墜と郵便的不安

「存在論的、郵便的」は「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いから出発しました。ではなぜ東氏はデリダの奇妙なテクストを読み解くテクストを書いたのでしょうか?それは畢竟、本書が書かれた当時の日本社会がまさにデリダ的な状況にあったからに他なりません。

1995年以降の日本社会は社会共通の価値観である「大きな物語」が失墜した、いわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況へと突入しました。これはラカン派精神分析でいうところの「象徴界の機能不全」と呼ばれる状況です。そして、こうした状況で生じる感覚を東氏は「郵便的不安」と呼びます。それは「大きな物語」という上位審級なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことです。

こうした郵便的不安から逃れるための処方としてひとまず考えられるのは、一方ではフェイクでもなんでもいいから「大きな物語」を強引に捏造する方向性と、他方ではただただ「小さな物語」の中で充足する方向性です。

けれども前者が極端化すればこれはカルト宗教となり、後者が極端化すればこれは引きこもりとなる。結局、一番穏当な処方としては両者の間をいく道でしょう。すなわち「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」の間を横に突き抜けていく契機を作り出すということです。

そこで必要なのは「コミュニケーションの失敗=誤配」から生じる「郵便的不安」から逃げるのではなく、これを反転させて、むしろ「郵便的享楽」とでも呼ぶべきものに変えていく方略です。デビュー以降、東氏の哲学の根底には一貫して、こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」をいかに肯定していくかという問題意識があります。


*「誤配」を歓待するということ

こうした東氏の問題意識は同時にゼロ年代という時代を規定した問題意識でもありました。そして、そのひとつの到達点が「つながり」という名の想像力です。

異なる物語を生きる他者同士の交歓から芽生える可能性への信頼としての「つながり」。それは一見して、異なる物語を生きる他者同士の理想の関係性の有り様に思えます。こうしたことから、ゼロ年代後半から2010年代初頭においては「つながり」こそが世界を変えるというどこか希望めいた空気感がありました。

もちろん、こうした「つながり」自体が直ちに悪いものというわけではありません。けれども、こうした「つながり」が閉じたものになるのであれば、それは自ずから「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちによる「動員と分断の時代」でもありました。

人は常に何かしらの物語に囚われてしまう存在です。けれども物語を内に閉じる限り、不可避的に他者は友と敵に切り分けられる。そうならない為には、物語を内に閉じることなく常に外に開き続ける必要がある。それがまさしく「誤配」を歓待するということです。

「誤配」を歓待するということ。物語の外で手を取り合うことで物語は書き換わる。人は物語に囚われてしまう存在です。けれど同時に人は物語を書き換える事ができる存在でもあります。そしてこの「ある物語」から「別の物語」への跳躍の間にこそ、人の実存的な生の輝きの在り処を見ることができるのではないでしょうか。












posted by かがみ at 23:59 | 精神分析