【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2017年08月31日

ラカン派精神分析と自閉症圏



疎外と分離

まずはおさらいですが、ラカン派精神分析においては人の精神構造は概ね3つに分類されます。すなわち精神病圏、神経症圏、倒錯圏です。

そして、ある主体が精神病圏から神経症圏へ遷移するには心的な母子分離が必要とされます。この点、1950年代のラカンはフロイトのエディプスコンプレックスを構造化して〈父の名〉というシニフィアンの有無で神経症と精神病を鑑別していました。すなわち〈父の名〉を持っていれば神経症、持っていなければ精神病、ということになる。

ところが、シニフィアンという「象徴界」の水準のみでは精神病内部でパラノイアとスキゾフレニアを鑑別するのは不十分だという憾みが残るわけです。そこで1960年代のラカンは享楽や対象 a という「現実界」の水準を視野に入れて鑑別診断を再構成することになります。これが「疎外と分離」の理論です。

「疎外」が主体の象徴界への参入の過程であるとすれば、「分離」とは主体が再び現実界に(部分的に)回帰する過程ということになります。

われわれは「原生的主体=S」として現実界に一つの生命として生まれ落ちる。その後、Sは「疎外」の操作によって象徴界に参入すると同時に、代価として「欲動の満足=享楽」を喪失し「失われた主体=$」となってしまう。

もっとも$は「分離」の操作によって、失った「享楽」の一部を「欲動の対象/欲望の原因=対象 a 」を通じて再び回復し得る。こうして「対象 a 」に急き立てられる「欲望する主体=神経症的主体」が出来上がる。

以上のような「疎外と分離」の観点から、「享楽」が「対象 a 」として切り出されていれば神経症、「享楽」が〈他者〉に回帰すればパラノイア、「享楽」が身体全域に回帰していればスキゾフレニアという鑑別診断が帰結されるわけです。


疎外を拒絶する子供たち

さて、このようなラカン派の鑑別診断の中で「自閉症」はどこに位置付けられるのでしょうか?かつて自閉症はスキゾフレニアの早期発症、あるいは精神遅滞と混同されるような存在でしたが、ブルーノ・ベッテルハイムの母原病説が退けられる一方、ローナ・ウィングによる「3つ組の障害」の定式化を経て、2013年のDSM-Vにおいてはカナー型とアスペルガー型が「自閉症スペクトラム」として統合され、自閉症は一つの独立的なカテゴリーを形成します。

ラカン本人は自閉症をスキゾフレニアと近縁のものとして捉えていた節があるようですが、上記のような歴史的経緯を踏まえ、現代ラカン派においては、もはや自閉症を精神病の一種とは考えません。

確かに自閉症者もスキゾフレニアも原初的象徴化に失敗している点では同様であり、いわゆる「排除」の範疇ということになるでしょう。このようにシニフィアンの水準のみから言えば自閉症とスキゾフレニアを切り離すことができません。しかし、享楽や対象 a の観点から言えば、決してこの限りではないということです。

まず、「疎外と分離」の図式において、自閉症者は「疎外の入り口」に位置付けられます。つまり、自体性愛的享楽に結びついた原初的言語である「ララング=S1」と、知的言語体系を織り成す「その他のシニフィアン=S2」の連携が切断されている状態にあるということです。

定型発達過程においてはS1にS2を付け加えていく作業がなされ、次第にララングとの折り合いがついていくわけですが、自閉症はS1のみを常同反復し自閉的な享楽を得ていると解釈される。いわば、自閉症者とは疎外の入り口に立ちつつも、疎外の領野に入ることを拒絶した、あるいはせざるを得なかった子供たちと言えるでしょう。

このように自閉症者は疎外においてS1とS2の連携が機能していないため、カナー型にせよアスペルガー型にせよ、その言語使用は自ずと「S1かS2か」の二者択一関係となる。アスペルガー型の自閉症者が定型発達者を凌駕するような豊富な語彙量を有する一方で、方言や比喩・皮肉が理解できなかったりする現象はかような点から了解され得ます。

また、自閉症とスキゾフレニアは享楽の回帰モードで区別されます。スキゾフレニアにおいては享楽が身体全域に回帰するのに対し、自閉症では享楽は身体の中でも「縁」の上に焦点化されている。

「緑」とは口や耳といった縁取り構造を持つ身体器官のことです。自閉症に見られる場面緘黙は「声」という対象 a を〈他者〉に手渡そうとせずに保持しておこうとする一種の防衛ともいえるでしょう。

すなわち、自閉症者にとっての「縁」は、安心できる既知の世界と、混沌とした外の世界を分割する境界線であり、外的世界へ関わるための起点でもあるということです。


自閉症は「個性」なのか

ところで、自閉症の遺伝子がいつまでたっても進化論的に淘汰されない理由として人類という種のニューロダイバーシティを確保するためという説があります。

つまり、自閉症者は想像力や共感能力に欠けるのではなく、定型発達者が「社会」に対して、自閉症者は「自然」に対して、それぞれ想像性・共感性が優れているという「質の違い」に過ぎないと言うわけです。

この説の真偽のほどは専門外なのでよくわかりません。ただ、これまで見てきたように精神分析的観点からは自閉症は最も「現実界」に近い存在であることは確かです。

けど、このような「特性」を「個性」と言って良いのか?というと躊躇を覚えます。自閉症は「障害」ではなく「個性」とラベリングすることで、今度はそれを活かしきれてないのは「自己責任」みたいなところに議論がスライドしやすくなってしまうからです。

思うに、自閉症という「特性」は、能力や社会的実績がある程度の「閾値」に達した時、初めて「個性」として花開くものだと思うんですよ。

例えば同じくらいの演奏レベルのプロのピアニストが2人いたとします。ひとりは「ただのピアニスト」、もう一人は「自閉症スペクトラムのピアニスト」。この場合、後者がある意味で「個性的」なのは確かでしょう。

けど、そこまでの「閾値」に達していない場合、自閉症からくる生きづらさはただただ、逆風そのものでしょう。ゆえに「自閉症は個性」などという一見するとポジティブな響きを持つ言葉の取り扱いにはゆめゆめ気をつけないといけないということです。「障害か個性か」などといったあまり生産性のないラベリングよりも、彼ら彼女らがいま何に困っているのか、そしてどのような支援を必要としているのか、結局そういった視点こそが本当に大事なことではないでしょうか。



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posted by かがみ at 21:37 | 心理療法

2017年07月28日

それは貴方だけの夢じゃない




ジャック=ラカンの示す有名なテーゼの一つに「欲望とは〈他者〉の欲望である」というものがあるわけです。

つまり、人の欲望というのは自然発生的に湧いてくるわけではなく、常に「〈他者〉からもらうもの」だということです。

例えば、なぜ皆がiPhoneの最新機種を欲しいと思うのでしょうか?それを皆が欲しがっているからでしょう。あるいはなぜ誰も路傍に打ち捨てられたゴミを欲しいと思わないのでしょうか?それを誰も欲しがっていないからでしょう。


「欲求不満」から「欲望」へ


では、なぜ「欲望とは〈他者〉の欲望」なのでしょうか?これは欲望の生成過程に深く関わる問題です。

ヒトの子供は、他のほとんどすべての動物と異なり、未熟な状態で誕生して自立まで長い期間を要します。寄る辺ない存在である子どもはその間の身の回りの世話を養育者である〈他者〉(多くは母親)に頼らざるを得ない。

子どもは母親に生理的な「欲求」を伝達するため、例えば「おぎゃあ」という「ことば」を発する。ここで「欲求」が〈ことば〉によって剪定され「要求」となった結果、この「要求」には「生理的な要求(ミルクがほしい)」と「愛の要求(あなたが側にいてほしい)」という二重の意味が含意されることになる。

母親が常に子どもの側にいれば両方の要求は満たされますが、母親も別に四六時中、子どものそばにいるわけでもなく「現前-不在」を繰り返しているわけです。従って二つの要求は両方とも拒絶されることがあれば、どちらかだけが満たされることもあるでしょう。

そこで二つの要求の間には一つの裂け目が生じることになり、子どもはよくわからない不快と不安に満ちたイライラを感じることになる。これを「欲求不満」という。

子どもは当然このイライラをなんとかして解消しようと母子一体の回復を目指すことになります。これをラカン的に言うと「子どもは母親の想像的ファルスになろうとする」ということです。

しかし実際問題、どうやっても母親の現前不在は終わらないわけです。そこで子どもは必然的に自分と母親以外の第三者の存在を帰結する。つまり母親は持ってないものがあり、それがほしいから、「それ」を持っている何者かのところに行くので不在になるという論理です。

この第三者の機能を担う存在を便宜上「父親」と呼びます。そして父親の持つ「それ」こそが、母親の現前不在を「欲望」として象徴的に名付ける「欲望の名前」であり、これをラカン的に言うと「象徴的ファルス」といいます。

こうして子どもは決して想像的ファルスになれない事実に直面する。つまりこのよくわからないイライラがこれから先もずっと続くということです。

この現実をどうにか受け入れるために想像的ファルスが無理なら、せめて母親を欲望させる象徴的ファルスをいつか自分も手に入れようと自分も「欲望」するしかない。つまり「これ(欲求不満)はこういうこと(欲望)なんだ」という理解を強制的に強いられるわけです。

このように子どもは「母親の欲望」を発見することで、自らの「欲求不満」を「欲望」に変換することができるわけです。従って「欲望とは〈他者〉の欲望である」ということです。

いちいち難解奇怪な理論でおなじみのラカンですが、その治療方針は普通にシンプルでして、ひとまず目指すのはクライエントの「欲望の活性化(弁証法化)」にあります。


なぜマサムネは沙霧ちゃんを「エロマンガ先生」と呼ぶのか?



「なあ、沙霧・・・俺にも夢ができたぞ。すっげえビッグな夢。俺はこの原稿を本にする。このままじゃあ話にならないから、練り直して企画書を書いて、担当編集に認めさせて、そんなところからだけど・・・でも、必ず本にするよ。たくさんの人を面白がらせて、主人公やヒロインを好きになってもらって、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらい、お金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!・・・こんなんは前準備だ!うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、バカ高いスピーカーも用意して、豪華なケーキにロウソク立ててさ、お前を部屋から連れ出して、2人でアニメを観るんだ!俺が原作でお前がイラストを描いた、俺たちのアニメだ!そうしたら、きっとスッゲー楽しいと思うんだよ!悲しいことなんて吹っ飛んじまうかもしんねえぜ!?それが俺の夢だ!絶対に叶える目標だ!!どうだ!?スッゲーだろ!?」

「貴方は昔からそうだね。和泉先生・・・いつもオレに夢をくれる。いいぜ、和泉先生。やってやろうじゃん!そんな面白そうなこと、一人でやらせてたまるかよ!それは貴方だけの夢じゃない。オレたち2人の夢にしよう!」

(エロマンガ先生第4話)



エロマンガ先生(アニメ公式)

沙霧ちゃんはDSM的に言えばおそらく社交性不安障害の診断基準に該当すると思われますが、「引きこもり」のケースというのは、ラカン的な視点で言えば、欲望が停滞・固着している状態に他なりません。精神科医の斎藤環氏が言うように、引きこもり本人に欲望を持ってほしいのであれば、家族が率先して〈他者〉として欲望を表明することが大事になってくるわけです。

義兄であるマサムネは沙霧ちゃんのことを時折、エロマンガ先生と呼ぶことで、作家とイラストレーターという社会的な〈他者〉性を強調し、愛憎渦巻くドロドロの想像的関係に転落することを防ぐ一方で、沙霧ちゃんの「妹」ではなく「女の子」としてみてほしいという「要求」に対して「ラノベ主人公」的態度で沙霧ちゃんを常に「欲求不満」の状態で宙吊りにする。

そして、その裂け目のなかに「世界一の妹ラノベを書いて、そのアニメを妹と家の居間で見る」などという強烈な「〈他者〉の欲望」を投入することで、沙霧ちゃんのなかにも「私もそれが欲しい」という「欲望」を生み出し、これが治療的な方向にも作用している。上記のマサムネと沙霧ちゃんの台詞は「欲望とは〈他者〉の欲望」の適切な範例といえるでしょう。



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posted by かがみ at 04:19 | 心理療法

2017年06月25日

いつも世界は私を拒絶する



認知行動療法の発展に多大なインパクトを与えたアーロン・T・ベック博士によれば、うつ病を引き起こす認知の三大特徴として「自己否定(自分はダメだ)」「過去否定(世の中悪いことばかり)」「将来否定(この先いいことなんかあるわけない)」があると言われます。

ここでいう認知とは知覚した事象の捉え方をいい、人それぞれで異なるものです。認知、行動、気分、生理は円環的に連関しており、どのような認知をもっているかはその人の気分、行動、体調に多大な影響を及ぼすといわれます。

そして認知のレベルは自動思考とスキーマに分けられ、自動思考とはある状況に対して瞬間的に浮かぶ「状況の捉え方」をいい、スキーマとは自動思考の背景にある自己認識、価値観、世界観などの個人的な中核信念、つまり「その人の生き方を規定するルールのようなもの」をいいます。スキーマは精神分析でいうコンプレックスに相当するものであり、「その人にとってあまりにも自明すぎる」が故に、普段は意識に上ることが少ないといわれます。

例えば、職場の同僚に挨拶をして相手が返してくれなかったというよくある場面を想定してみましょう。このとき特に明確な理由もないのに「無視された」「やっぱり嫌われている」と考えてしまうのが自動思考です。その根底には「私は誰からも必要とされてない」「私は欠陥人間だ」という悲観的なスキーマの存在が伺い知れます。

ベックの開発した認知療法は、日々の自身の思考の流れを客観的に観察し記録するなどの外在化を通じ、非適応的認知を見つけ出し、これをより適応的認知へ変容させることで症状を消去することを目標とする。非適応的認知とは事実を歪曲したり、根拠のない憶測を元に物事を判断することをいい、適応的認知とは物事を事実に即して判断することです。

先の例で言えば、「忙しくて気がつかなかったのかもしれない」「今日は体調が悪くて、返事できる気分じゃなかったのかもしれない」「仮にあの人から嫌われていたとしても、別に世界中から嫌われているわけではない」と考えることが適応的認知と言えるでしょう。


だから、いつも世界は私を拒絶する

「私は・・・龍だ」

「龍の死を知った村人は、とても悲しんだ・・・え?」

サクラクエスト11話「忘却のレクイエム」


こういう観点から是非とも、サクラクエスト11話「忘却のレクイエム」を視ていただきたいと思います。

サクラクエストのあらすじをざっと述べますと、就職活動全滅状態だった短大生の木春由乃が、いろいろな手違いを経て、寂れた田舎町、間野山で「国王」として、観光協会職員の四ノ宮しおり、商店会会長の孫である織部凛々子、元女優の緑川真希、WEBデザイナーの香月早苗たちと協力して町おこしに奮闘するという、いわゆる「地方創生」をキーワードとするアニメ作品です。

その11話は凛々子に焦点を当てた回ですが、いま書いた不適応認知から適応認知への変容の流れが僅か20分で物語として見事に纏められています。

高校卒業以来、基本引きこもり気味に過ごしてきた凛々子はなかなか人の輪に入れない自らの境遇を間野山に伝わる「龍の娘」の民話に重ね合わせているところがあります。

精神分析的観点からいえば、この同一化は「私は特別」という凛々子の全能感保存の表れに他ならず、その背景に、彼女の複雑な生い立ちと「ファリックマザー」としての千登勢の存在があることは容易に読み取れるでしょう。

いずれにせよ、何かにつけてネガティブな過去ばかり回想して落ち込むところや、後に触れるように、龍の民話をあまり公にして欲しくない立場である金田一1人の言葉から「誰もそんな話聞きたいと思ってない」と思い込むところなど、先の自動思考で言えば「過度の一般化」「マイナス化思考」「結論の飛躍」といったいわゆる「推論の誤り」が見て取れます。

ところが、図書館で凛々子は龍の娘の民話には別に解釈が存在することを知る。実は村人たちは龍を歓迎しており、龍の死を悲しみ歌を作ったという全く真逆の解釈が。

この「間野山はよそ者を排除する土地ではない」という別の解釈の存在が、竜の娘と自身を同一視している凛々子の自動思考に対して「自分の人生も決して拒絶されてばかりではなかったかもしれない」という反駁として作用する。

その後、凛々子は図書館で知った真実を皆に話そうとするも、ちょうど村おこし婚活イベント真っ最中で間が悪く、金田一から「空気読んでよ」と拒絶されてしまう。


ドラゴンは仲間たちに囲まれて、少しだけ、笑えました


「ずっと変。私は変な子・・・私のことなんか、誰も認めてくれない。誰も理解してくれないって・・・私には無理。由乃みたいになれない。知らない「間野山踊り」を教えてって、何の抵抗もなく言える由乃。田舎から東京に出る事が出来た由乃。自分が普通だってことが、コンプレックスの由乃。全部、私と逆!私が持ってないもの、私が出来なかったことを何でもできる!・・・ごめんなさい。別に私、由乃みたいになりたい訳じゃない。私は私。でも私のことなんか、誰も認めてくれない・・・誰も理解してくれないって」

「みんな凛々子ちゃんのこと、分かってるよ。もちろん私だって。私からすれば、凛々子ちゃんの方が凄いって思う。好きなものがいっぱいあって、周りに簡単に流されたりしなくて、私には真似出来ない。私、そんな凛々子ちゃんが好きだよ。」

サクラクエスト11話「忘却のレクイエム」



由乃の前で珍しく感情をあらわにする凛々子に対して由乃は言葉を紡いでいきます。

これは多分、普通であることを徹底的に嫌う由乃の率直な心境なのかもしれないんですけど、ここでの由乃の介入は凛々子の「私は変な子」という自己スキーマを揺るがして、「自分の世界を持ってる子」という新たなスキーマが対提示されるという、いわゆるリフレイミング効果として作用している。そういえば、龍の民話を、調べようとしたきっかけにも由乃の介入があるといえばあるんですよね。

そしてイベント最終日、蛍の舞う中、皆の前で「龍の唄」を歌唱を披露するという行動を通じて、「いつも世界は私を拒絶する」という非適応的認知から「決して世界は私を拒絶しているわけではない」という適応的認知の再構成へ向けて歩み始めたわけです。


「私もこの歌を伝えたい、何十年、何百年先の、誰かに」

「ドラゴンは仲間たちに囲まれて、少しだけ、笑えました」

サクラクエスト11話「忘却のレクイエム」


地方創生〜保守的な風土が有能なイノベーションの芽を潰す?

TVアニメ「サクラクエスト」公式

サクラクエスト(wikipedia)

「サクラクエスト」は「花咲くいろは」「SHIROBAKO」に続く「P.A.WORKSお仕事シリーズ」第3弾のオリジナル作品。「内定したのは国王だけでした」というキャッチコピーが秀逸。さすがにオリジナルアニメを多く手がけたP.A.WORKSだけあって、実によくまとまっており、安心して観れます。

メインキャラ5人のバランスもいいですね。「普通というコンプレックス」を抱える由乃ちゃんをはじめとして、皆それぞれ際立った個性がありますが、凛々子ちゃんはスピンオフのコミカライズも予定されており、おそらく視聴者の共感を最も多く得たキャラであろうことが窺えます。

物語全体を貫く「地方創生」というキーワードに対してもそれなりの問題提起がされており、作品に一層の奥行きを与えている。

常によくある地方創生論で「保守的な風土が有能なイノベーションの芽を潰す」というのがありますが、所詮、イノベーションというのは後になって遡及的に「あれはイノベーションだった」と初めて評価可能なものであって、それまではただの海のものとも山のものとも分からないに過ぎないということです。

本作において千登勢さんをはじめとした保守的な立場に立つ商店街側を一方的な敵役として描いていないというのは、そういう点を意識しているのではなかろうかと思われます。


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posted by かがみ at 21:14 | 文化論

2017年05月27日

受容・共感・自己一致

日常の社会生活を送っていると、他人の「悩み相談」に出くわす場面は多いですよね。そんなときどう接すればいいのでしょうか?やっぱり折角の機会だし、何か気の利いた「アドバイス」をしたい、そういった誘惑に駆られることも多いでしょう。

しかしアドバイスというのはこういう時あんまり役に立ちません。多くの場合、アドバイスした側の自己満足で終わります。

実はこういった日常の「悩み相談」の場合、相手は「解決」ではなく「共感」を求めていることの方が多いわけです。従って、こういう時は妙なアドバイスをするより相手の話にただただ聴いてあげたほうがよっぽど「役に立った」といえるでしょう。

ロジャーズの中核三原則

ところで、傾聴やコミュニケーションの本ではよく「ロジャーズの中核三原則」というものが出てきます。これはカウンセリングの神様とまでいわれたアメリカの心理学者カール・ロジャーズの提唱したセラピストの基本的態度のことです。カウンセリングや心理療法をちょっとでも勉強したことのある人でしたら、だいたいご存知かとは思われますが、改めて定義的に整理すると次のようなものです。


無条件受容・・・クライエントの表現したものがどんな内容であろうとも、それはその人の体験に基づいたその人なりの言葉であるということを認め、批判や評価などの一切の価値判断をせず、ありのままに受容すること。


共感的理解・・・クライエントの「いま、ここ」にある私的な内面世界を、「as if(あたかも自分の事の様に)」感じ取ること。そして「as if(あたかも自分の事の様に感じ取る)」という態度をどこまでも失わないこと。


自己一致・・・自身のなかに流れる感情や思考と云った体験に対して在るがままに、驚く時は驚き、悲しむ時は悲しむ、と云った自身の内的体験と自己表出のとの間に不一致がないこと。



ロジャーズの説くところによれば、人は誰しも先天的に「自己を成長させ、実現する力(自己実現傾向)」そして「自らの力で心と体を治していく力(自己治癒能力)」を持っているそうです。

なので、植物が光・水・養分・空気があれば、生命のもつ本来の力でひとりでに育っていくように、人も心に適した環境さえあれば、その人の自己実現傾向・自己治癒能力が発現して症状や悩みが解消に向かうということになる、ということになります。

そして、ここでいう「光・水・養分・空気」に当たるものが、セラピストの態度としての「受容・共感・自己一致」ということになります。

中核三原則の孕む理論的ディレンマ

受容・共感・自己一致。これらはひとつひとつはそれ自体疑いなく正しいものだと思いますし、なんかこれだけ聞けば誰でもカウンセリングができそうな気もしないでもない(笑)

けれども例えば、相手が「死にたい」とか「私は生きている価値がない人間なの」などと、ネガティブなことを延々と繰り述べている場合どうすればいいんでしょうね?

どうも相手の話に同調し難いが、ともかく「無条件受容」や「共感的理解」に努めないと、などと思いながら、表面上取り繕って「うん、うん」などと返している。でもこれって内心と態度が「自己一致」していないんじゃないでしょうか?

こうして受容・共感・自己一致を誠実に意識すればするほど「私はあの人の話を聴けていなかった、気持ちにしっかりと寄り添えていなかった・・・」などと自己嫌悪に陥ってしまう可能性もあるでしょう。こういう風に中核三原則というのはかなり理論的なディレンマを孕んでいるわけです。

ゆえに中核三原則は一種の理想あるいは解脱の境地のようなものであり、その趣旨はひとつの理想として意識しつつも、ある程度は距離を置いて、日々の現実の中で生起する問題と適当に折り合いをつけていかなければならない・・・これも一つの然るべき態度ということになります。

傾聴における「想像的水準」と「象徴的水準」

ただね、中核三原則が一見矛盾に満ちているように見えるのは、畢竟、我々が人の話を「想像的水準」で聴いていることに起因するようにも思われるんですよ。

想像的水準とは「わたし」や「あなた」といった自我意識の水準をいい、「わたしと、あなた」あるいは「わたしか、あなた」という愛憎入り混じる関係になります。

「わたしと、あなた」のうちはまだいいんですが、「わたしか、あなた」になってしまえば「想像的軸上における食うか食われるかの双数関係」に陥ってしまいます。

このような想像的水準から離脱し「象徴的水準」で聴くことで初めて中核三原則は矛盾なく機能し始めると言えるでしょう。すなわち、言葉の「シニフィエ(意味)」ではなく「シニフィアン(音)」の水準で受け止めるということになります。

新米の分析家にとって、語られている話に囚われてしまうことが最も大きな罠である。新米の分析家達は、自分の関心に近いとか、個人であれ臨床家としてであれ彼らに関わっていたり、影響することのように思えると、それだけその話にたやすくとらわれてしまう。

(中略)

分析主体は、自分が話していることのうち、意識的に理解してもらおうと考えていること以外のことを分析家に聞き取ってほしいなどという期待をはっきり抱いて分析を始めることはほとんどない。

一方、分析家は通常の習慣的な仕方で話を聞く態度から離れること、話の内容を理解することより、むしろその話が語られる仕方を聞くことが重要であることを自覚しなければならない。

(ブルース・フィンク「精神分析技法の基礎〜ラカン派臨床の実際」15頁)


つまり話し手の「ことば」の「意味」はひとまず括弧に入れ、価値判断などを一切加えず、言い間違いなども含めたあらゆる「音」を「平等に漂う注意」で拾い上げ、聴取し、句読点を打ち込み区切っていく。

そして、聴き手は一個の自我を離れて、話し手の「無意識」を投影する「鏡」もしくは「スクリーン」としての役割に徹することになります。

ラカン派の臨床においては、このように分析家が分析主体の「無意識のスクリーン」を演じることで、徐々に分析主体の抑圧が解除され、無意識的なものが意識化されてくると言われています。

そしてこの過程が分析主体のパーソナリティの変容、ラカンの用語でいえば「幻想の横断」に繋がっていくのであり、これはロジャーズの説く「自己実現傾向」「自己治癒能力」と軌を一にしたものだと言えるでしょう。

傾聴における「現実的水準」

さらにここから踏み込んで「現実的水準」で聴くという態度も考えられるでしょう。

「言葉から出る」というのは、「ぼくは学校へ行っていないんです」ときいて、「学校」や「ぼく」ということから離れて、いっぺん外へ出るということです。離れて、「おお!」と思わないといけないのです。「おお!」というところへ出てから、その次に、もの(言葉)を言っていかないといけない。

(河合隼雄「カウンセリング講話」113頁)


言葉を言葉以前の「おお!」としか言いようがない境域で一度受け止める感覚は、これは象徴化される以前の現実的水準、〈もの〉の水準に相当するでしょう。もっと言えば、話し手の言葉を「欲望の原因としての声」、ラカンでいう対象 a のレベルにまで昇華させることにより、「あなたをもっと理解したい」という聴き手のメッセージ(欲望)をより強力に発信することが可能となるわけです。

何れにせよ今述べたことは理論上のものであり、実践の困難さはまた別のところにあるのは言うまでもあります。

しかし日常的な対人関係の中においても誰かの声に真摯に耳を傾けてあげないといけない時というのは必ずあるでしょうから、そういう時のためにも、自分なりの中核三原則の理解をもっておくのがいいのかもしれませんね。



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posted by かがみ at 22:53 | 心理療法

2017年04月01日

対象 a ・承認欲求・絶対だいじょうぶの魔法。

ラカン派精神分析の理解によれば、子どもは「疎外と分離」という母子分離の過程を経ることで、母子一体的な欲動満足である「享楽」の喪失と引き換えに「言語」を獲得し「欲望する主体」となり、精神病圏から神経症圏へと遷移するわけですが、「疎外と分離」の、特に「分離」の成否は、かつての享楽の残骸が「欲望の原因」として機能するかどうかにかかってきます。

この「欲望の原因」をラカンは「対象 a」と呼びます。子どもはいわば対象 a を抱えることで初めて母の世界を脱出できるわけです。

対象 a とは、かつてあった「享楽=母なるもの」すなわち「乳房、排泄物、声、眼差し」の代理物、すなわち欲動の対象に値するものをいいます。ひとがアプリオリに人肌を求め、あるいは善行を為し、あるいは詩、音楽、絵画、映像などの芸術作品をこよなく愛するのはそれらが対象 a だからです。いわゆる欲望とは享楽を可及的に回復しようとする決して満たされることのない永久反復運動に他ならないということです。

だから最近よく言われる「承認欲求」と呼ばれるものの正体も結局はこの「対象 a」なんですよ 。他者からの賞賛の声、羨望のまなざし。「承認欲求を否定せよ」などという流行りのキラキラワードがありますが、ラカン的には承認欲求というのは少なくとも神経症圏の人間(いわゆる一般人)にとっては己の存立を支える根源的な欲望であり決して否定できるものではないということになります。

このような観点から言えば、承認欲求とは「否定する」すべきものではなく「操作する」すべきものです。仮に誰からも承認されないのであれば、自分で自分を自己承認すればいいということになります(理論的には。実践は難しいでしょうが・・・)。

例えば、先日読んだマインドフルネス関連本の中で、感情がイライラした際には呼吸に集中するとともに「かならずよくなる」などとポジティブワードを呟いてみる方法が推奨されてたんですが、こういうのも自分で自分に声をかけてまなざして、対象 a の享楽を作り出す自己承認の方法と言えますね。

さて。今日はエイプリルフールですが、そんなことよりも「カードキャプターさくら」の主人公・木之本さくらちゃんの誕生日ですね。

さくらちゃんといえば名台詞「絶対だいじょうぶの魔法」。さくらちゃんはカードキャプターとしてバラバラになったクロウカードを集める使命をケロベロスから無理矢理押し付けられますが、途中、もう一人のクロウカードの守護者ユエの第一配下カード「闇」に飲み込まれそうになった時「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」と自分に言い聞かせて窮地を乗り切ります。これを「闇」と対になるクロウカードの「光」は「絶対だいじょうぶの魔法」と評します。

「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」。これ以上にシンプルで力強い響きもそうそうないでしょう。日々の暮らしで気が滅入った時に、自己承認の魔法の言葉としては何気につぶやいてみる習慣というのもいいかもしれませんね。


posted by かがみ at 23:04 | 心理療法