【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2018年02月28日

影の元型と羽川翼の善性



「虫が好かない」という言葉があります。ある特定の誰かを見るとなぜが無性にイライラしてしまうという経験はありませんか?別に具体的に実害を被っているわけでもなく、いやむしろ公正に考えれば好人物のはずなのに、どうも何か嫌な感じを覚えてしまうという、そういう人が今まで一人や二人、いませんでしたか?

ユング心理学ではこれを「影の働き」であると考えます。

ユングによれば、影とは無意識に潜む自我と相反する傾向を言います。つまり影とはエゴアイデンティティの形成過程で切り捨てられた「生きられなかったもう一人の自分」に他なりません。

人は自分の影を否定するため、その影を誰か他人に投影するということはよく見られる傾向です。冒頭の例はまさにそういうことを言っているわけです。

また、自我の統制が弱くなったとき、普段抑圧されている影が姿を表すことがあります。例えば、普段はおどおどしていて自己主張できない人が、酔っ払った時に急に強気な言動を取ったりする現象はユング的には影の作用として説明できるでしょう。さらにその極端な例として二重人格が挙げられます。

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このような影元型の端的な例としては「イブホワイト・イブブラック」が非常に有名ですが、「化物語」の最後を飾る「つばさキャット」も典型的な影の物語と言えるでしょう。

主人公、阿良々木暦のクラス委員長である羽川翼は、博学聡明、品行方正、そして誰に対しても公平で優しい委員長中の委員長。けれどもそれは、羽川の錯綜した家庭事情ゆえに「非の打ち所のない良い子」としてエゴアイデンティティを形成せざるを得ない結果でもあった。

高校3年のゴールデンウィーク、羽川は車に轢かれた猫の亡骸を埋葬したことがきっかけで、怪異「障り猫」に取り憑かれてしまう。結果、裏人格としてブラック羽川が出現。町中を暴れまわり傍若無人の限りを尽くすことになる。

ブラック羽川は羽川翼が両親や阿良々木暦に対するストレスの結果として、生み出された怪異です。「障り猫は委員長ちゃんにどんぴしゃだ」と忍野メメは言います。羽川翼は障り猫を取り込むことで、「博学聡明、品行方正、そして誰に対しても公平で優しい委員長中の委員長」というエゴアイデンティティを一切損ねることなく、同時に全く別人格のブラック羽川としてストレスを解消していた。

つまり、ユング的な読みから言えば、ブラック羽川とは、羽川翼が自らの清く正しく美しい善性を維持するために切り捨てられた影元型の顕現に他ならないということです。

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ユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、無意識をも含めた心の全体の枢要に「自己」という元型を仮定します。そして、両者の間の適切な相互作用関係を確立する過程を称して「自己実現」といいます。

「自己実現」とは自己が自らの全体性を回復に向けて、相対立なものを円環的に統合していく相補性の原理が作用しています。その意味では、自らの影との対決は、まさしくこれもひとつの「自己実現」の過程であるということです。

ここで冒頭の例に戻りますと、「虫が好かない人」というのは、これまで自分が抑圧してきた思考や願望を投影していたりする対象なのかもしれません。

なので、そういう人に対して「あいつは嫌いだ」って決めつけて距離を置くののではなく、あえて立ち止まり、なぜ自分はそう思うのかというのを客観的に考えてみるのも決して悪くないでしょう。そこには案外、人生を実り豊かなものにするヒントが隠れていたりもするわけです。




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posted by かがみ at 02:22 | 文化論

2018年01月31日

「無意識」という怪異



* シニフィアンとシニフィエ


「作詞や創作にみられる意味作用の効果が生じてくるのは、別の言葉で言えば、問題となっている意味作用の出現の効果が生じてくるのは、記号表現と記号表現の置き換えによっていることを示しています」

(ジャック=ラカン「無意識における文字の審級」〜エクリ516頁より)



近代言語学の祖であるフェルディナン・ド・ソシュールによれば、ある言葉の「シニフィアン(音響イメージ)」と「シニフィエ(概念)」は不可分に結び付いているとされます。

これに対してフランスの精神分析医ジャック=ラカンは、ソシュールのダイヤグラムを逆転させ、シニフィアンとシニフィエを切り離した上で、シニフィアンの優位性を強調します。

ラカンの有名なテーゼの一つに「無意識とは言語のように構造化されている」というものがあります。ラカンのいう無意識とは単なる本能や欲動の座ではなく言語構造全体の座あるいは場だということです。

ラカンによれば無意識においてシニフィアンは互いに結び合い一つの網目のような構造をなしており、その効果には隠喩と換喩という二つの側面があります。

この点、換喩とは、例えば「船」を「帆」で表すような、あるシニフィアン(船)から、関連する他のシニフィアン(帆)への置き換えをいいます。これは単なる横滑りであり新たな意味を創造している訳ではありません。

これに対して、隠喩は「ボアズ」を「麦束」で表すように、あるシニフィアン(ボアズ)を、全く関連のない他のシニフィアン(麦束)への置き換えをいいます。

この時、元々のシニフィアン(ボアズ)は新たに置かれたシニフィアン(麦束)の中に保存され、これが新たな意味作用の創造へとつながるわけです。そして諸々の神経症的症状もラカンからすれば、ひとつの隠喩であるということになります。

また、後年、ラカンは無意識を「時間的拍動」として捉えます。すなわち、無意識は「言違い」「機知」「夢」など「無意識の形成物」を通じて一瞬の裂け目として開かれるも、そこに意味が与えらるや否や再び閉じてしまうという開閉運動を繰り返しているということです。


* 「体重=おもい」と『感情=おもい」


この点、「化物語(西尾維新)」の冒頭を飾る「ひたぎクラブ」は極めて寓話的です。体重を失った少女、戦場ヶ原ひたぎは、ずっと抑圧していたかつての性的虐待経験を言葉した時、怪異「おもし蟹」に直面することになる。これは端的に、無意識の顕現を表しています。つまり、彼女が失った「体重=おもい」は「感情=おもい」の隠喩であるということです。

「おもし蟹」を目の当たりにしたひたぎは一瞬立ち竦んでしまいます。これは「時間的拍動」としての「無意識の閉鎖の時」と言えるでしょう。無意識はそれを意識した瞬間、無意識ではなくなり、人は無意識の外部に主体として排出される、すなわち疎外されるということです。

ここで忍野メメはすかさず「おもし蟹」を踏みつけにする行動に出ます。この忍野のトリックスター的な振る舞いはひたぎにとって「対象 a =欲望の原因」として作用しています。まさに彼が踏みつけにしているそれはひたぎの「無意識=抑圧された母親への想い」に他ならないからです。

結果、ひたぎの中で「母親への想い」を取り戻したいという欲望が弁証法化される。こうして、彼女は「感情=おもい」を取り戻す事で「体重=おもい」を取り戻すことができたわけです。


* 「無意識」という〈他者〉

我々は自らの存在を何となく「我思う。ゆえに我あり」といったデカルト的主体だと理解する一方、思わぬ言い間違い、見たくもない悪夢、そして不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状といった、まさしく「何者か」によって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥ってしまうわけです。

この「何者か」の正体こそが自我の制御の及ばない領域、すなわち「無意識」という〈他者〉に他なりません。

要するに、我々も「無意識という怪異」に住み憑かれているということです。そういう意味で、不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状を抱え思い悩んでいる人に向かって「自信を持って」「大丈夫だよ」などという、上から目線の根拠無きアドバイスは無益どころか迫害的ですらあるというわけです。



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posted by かがみ at 23:05 | 文化論

2017年12月31日

欲望と享楽の円環、根源的幻想の横断、あるいは「魔法少女まどか☆マギカ」



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「根源的幻想を横断した主体は欲動をどのように生きるのでしょうか。分析の彼岸とはこのことであって、いまだかつて接近されたことがありません。」

(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」368頁より)


フランスの精神分析医ジャック=ラカンによれば、人のこころは「想像界」「象徴界」「現実界」というそれぞれ異なった3つの位相によって構成されています。

「想像界」とは感覚器官を通じて知覚される領域、「象徴界」とは言語によって認知される領域、「現実界」とは知覚や認知の外側にある客観的現実そのものの領域です。

まず「想像界」は「鏡像段階」において成立します。生後6〜18ヶ月の子どもは外部の鏡像を通じて自己イメージを視覚的に先取りする。ここで人は「自我」を獲得することになります。

ついで「象徴界」はエディプス段階における「父性隠喩」によって成立します。子どもにとっての「母親の現前-不在」という原象徴的秩序が〈父の名〉というシニフィアンによって言語化された結果、主体の中に「象徴界」が無意識として内在化され、同時に意味作用として「欲望のシニフィアン」となる「象徴的ファルス」が成立する。ここで人は「言語」と「欲望」を獲得することになります。

その一方、子どもは「現実界」から〈他者〉である象徴界に参入した代価として、その外部に主体として「疎外」されつつ、自らと〈他者〉の欠如が重なり合う内に「欲動の対象=対象 a 」を見出すことで〈他者〉から「分離」を果たし再び現実界に回帰します。ここで人は「享楽」を獲得します。

もっとも、人は象徴界に参入した以上、〈他者〉からの完全な分離はあり得ません。そこで、主体は分離を否定するため、対象 a を「欲望の原因」と看做して、「〈他者〉の欲望」に同一化する。こうして主体の「欲望のあり方」を示す〈おはなし〉が作り出される。これが「根源的幻想」と呼ばれるものです。

人は一人では生きていけません。根源的幻想は人が〈他者〉と関わって生きる為には必要なものです。けれども、あまりに「〈他者〉の欲望」に縛られてしまうと今度は神経症的症状を典型とする様々な「生きづらさ」が生じてくるわけです。

そこで人は「欲望」と「享楽」を調和させ、〈他者〉と繋がりつつも、主体が〈他者〉からの自由を獲得する必要があるわけです。この営みこそがラカンが精神分析の目標として宣明する「根源的幻想の横断」と呼ばれるものです。

では、ラカン自身が問うように、根源的幻想を横断した果ての、その彼岸には一体、何があるのでしょうか?「魔法少女まどか☆マギカ」はこのような問題に対して見事な回答を与えた作品と呼ぶべきでしょう。

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「まどか」の世界における魔法少女とは、どんな願いも一つだけ叶えられるという条件と引き換えに不思議な生物「キュゥべえ」と契約し、その代償として魔女と戦う使命を課せられた存在です。

魔法少女の契約の際には「ソウルジェム」と呼ばれる、魔法力の源である宝石状のアイテムが生み出されますが、その生成過程は先に見た父性隠喩の構造式と極めて類似した関係に立っています。

まず、契約者の少女が述べる「願い」とは「誰かの願い=〈他者〉の欲望」を名付けるシニフィアンである〈父の名〉に相当します。

結果、彼女の中に「魔法という言語=象徴界」が内在化される。そして同時に「ソウルジェム=象徴的ファルス」が成立し、魔法力を起動させる為の源泉として機能する。

実際、ソウルジェムの形状は「象徴的ファルス」にそっくりです。すなわち魔法少女とはまさしく「欲望の主体」と呼びうるものです。

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物語の後半になり、ソウルジェムの濁り切った魔法少女は魔女になるという戦慄の事実が発覚します。キュゥべえの真の正体はインキュベーターと呼ばれる地球外生命体端末であり、彼らの目的は魔法少女が魔女となる「希望と絶望の相転移」の瞬間に発生する莫大なエネルギーの搾取にあった。

そんな中で、本作の主人公、鹿目まどかは優れた魔法少女となる可能性を持ちながらも様々な葛藤から傍観者に留まり続けます。

そして最終話、ついにまどかは魔法少女となる。それまでずっと願いを見つけられなかった彼女が願ったそれは「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で」と言う途方もなく壮大なものでした。

まどかはいう。「今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる」と。

こうしてまどかは魔法少女として、全ての魔法少女の、まさしく「〈他者〉の欲望」を「欲望」し、ありとあらゆる時間軸における魔法少女を魔女化する前に救い出す。果たして彼女の願いは瞬く間に成就されることになる。

ここで、まどかの壮大な願いは同じ規模でそのまま莫大な呪いに転換します。希望と絶望の相転移。これは〈他者〉の欲望はどこまでも〈他者〉に依存するという「欲望の限界」を端的に表しています。

しかし、まどかの願いは「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で」であり、まどか自身もその例外ではありません。地球規模の呪いを溜め込んだまどかは「別のまどか」、つまり「概念としてのまどか」から放たれた一閃によって、消滅する。

この「概念としてのまどか」こそが、「魔法少女」という「根源的幻想」を横断したその彼岸にある領域、象徴界から干渉不能な現実界において、初めもなく終わりもなく、常に既に満たされている「享楽の主体」に他ならないということです。

このように「欲望」と「享楽」は一見似ていますが、異なる位相にあります。これはマミの「あなたは希望を叶えるんじゃない。あなた自身が希望になるのよ」という言葉が端的に表しているでしょう。すなわち「欲望」とは「希望を願う」ことであり、これに対して「享楽」とは「希望そのもの」だということです。

翻って考えれば我々の生も、欲望の生成と享楽への回帰が螺旋のようにめぐりゆく、ある意味で円環の理とも言えるものではないでしょうか。

そして仮に「幸せのありか」なるものがあるとすればそれは、両者の重なり合う領域に存在するのでしょう。

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こうして先の問いの答えは既にもう明らかになったと思います。根源的幻想を横断した果ての、その彼岸には一体、何があるのでしょうか?つまりそれは、まどかの言う、ともすればありきたりな、次の言葉の通りなのでしょう。

「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます。」

(「魔法少女まどか☆マギカ」第12話より)





posted by かがみ at 23:52 | 文化論

2017年11月29日

「全体性の回復」としての影とアニマ、あるいは「Fate/stay night」



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ジークムント・フロイトによれば、人の心は意識(前意識)と無意識に分けられるとされます。これに対して、フロイトと一時期盟友関係にあったカール・グスタフ・ユングは無意識をさらに「個人的無意識」と「集合的無意識」に分けることを提唱し、フロイトとその袂を分かちました。

集合的無意識というのは、ユングによれば個人的体験を超えた人類に共通する先天的な精神力動作用である「元型」によって構成されるといいます。世界中の神話、伝説、昔話の間に何らかの一定の共通した典型的なイメージが認められるのは、この「元型」の作用に他ならないということです。

典型的な元型として例えば「グレートマザー」という「母性の元型」があります。母性はその根源において「何かを産み育ていく」という肯定的な側面と、そして「何もかもを呑み込んでしまう」という否定的な側面を併せ持ちます。ユング派の分析家である河合隼雄氏は、いわゆる対人恐怖症は母性原理の強い日本社会の特質に根ざしていると指摘しています。

さらにユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、無意識をも含めた心の全体の枢要に「自己」という元型を仮定しました。そして自我と自己との間に適切な相互作用関係を確立する過程を称して「自己実現」といいます。

自己実現の過程とは自己がまさにその全体性を回復していく個性化の過程であり、そこには相対立ものを円環的に統合していく相補性の原理が作用しています。

つまり、このユング的な「自己実現」とは、その辺のキラキラワードとして安易に用いられる「自己実現(笑)」とは違い、自分の心の奥底に潜む「元型との対決」に他なりません。

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「Fate/stay night」という物語は衛宮士郎という自我に歪みを抱えた人間がその全体性を回復していく物語として読むことができます。

あらすじはこうです。とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨み、最後の一組となるまで互いに殺し合う。

10年前、第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害の唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた魔術師である衛宮切嗣に憧れ、いつかは切嗣のような「正義の味方」となって困っている人を救い、誰もが幸せな世界を作るという理想を本気で追いかけていた。

しかしこれは「自分だけが生き残ってしまった」という罪悪感の裏返しにすぎないのです。「正義の味方」とは彼にとっては「願い」というより「呪い」ともいうべきものであった。

「Fate/stay night」の原作はどの選択肢を選ぶかで展開が変わってくるビジュアルノベルゲームです。ルートはメインヒロイン毎に大きく3つに分岐します。

3ルート合わせて総プレイ時間は平均60時間という、この壮大な物語は、衛宮士郎が「影」や「アニマ」という元型との対決を通じて、自己の全体性を回復していく過程を見事に描き切っています。

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士郎はまず、いわゆる凛ルートである「Unlimited Blade Works」において、自らの「影の元型」と相対します。

影とは自我からみて受け入れ難い人格傾向をいいますが、士郎にとってアーチャーは自らの理想に絶望した未来の自分の成れの果てであり、まさに影といえる存在です。

かつて自ら抱いた「正義の味方」という理想が不可能な偽善であることを身を以て知り尽くしているアーチャーは、過去の自分である士郎に「理想を抱いて溺死しろ」と言い放つ。

これに対し、士郎は自らの理想は借り物であり偽善であると認めた上で、それでもそれは決して間違いではなかったことを再確認することで、自分の影を自我に統合していくことになる。

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そして、いわゆる桜ルートである「Heaven’s Feel」において、士郎は自らの「アニマの元型」と相対することになります。

アニマとは男性がペルソナ形成の過程で切り捨ててきた女性的要素をいいます(女性にとってのそれはアニムスです)。そして、ここでアニマを演じるのは間桐桜という少女です。

桜はこれまでのルートにおいて「穏やかな日常の象徴」として描かれてきましたが、実はその体内には聖杯(小聖杯)の器としての機能を宿しており、桜ルートではこの機能が覚醒し、桜は聖杯の器として、大聖杯の中に潜む反英雄アンリマユとリンクしてしまう。

このまま桜を放置すれば「この世全ての悪」と呼ばれる災厄が顕現することになる。そのため桜の実姉である遠坂凛は魔術師としての立場を貫き「桜を殺す」と言う。そこで士郎は「正義の味方か、桜の味方か」というという極めて困難な問いをつきつけられる。

この点、原作ゲームは士郎が桜の味方となる選択を物語のトゥルーエンドとします。確かにここは賛否の分かれるところであり、Fate/stay nightを一つの英雄譚として読むとき、これまでの信念を放棄して1人の女の子を救おうとする行為は「変節」あるいは「挫折」にも映るでしょう。

けれども「全体性の回復」というユングの視点から言えば、士郎にとって桜と最後まで真摯に向き合っていくことは、「アニマの元型」を受け入れていく道と言えるでしょう。

アニマと向き合うことは影との対決以上に困難を伴います。アニマの起源は「太母の元型」であり、アニマを求めるということは同時にグレートマザーに飲まれる危険も伴うということです。実際、桜もその強い依存心の裏返しからあらゆる形で士郎を飲み込もうとしています。

けれども、それでも士郎は言う。自分を殺したがっている桜もひっくるめた全てから桜を守る、と。こうして彼はどこまでも桜の味方であり続けることによって、借り物でも偽善でもない彼だけの正義を手に入れて、ようやく10年前から続く「正義の味方という呪い」から救われたわけです。

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このようにユング的な自己実現の道とは自らの「影」や「アニマ(アニムス)」から目を背けず、正面から対決することであり、それは痛みを伴ういばらの道です。

これはなかなか厳しい考え方ではありますが、見方を変えると、人生で出会う困難に肯定的な意味合いを付与する考え方とも言えるかもしれません。

人は時として内的に凄まじい体験をしつつも、この日常を生き抜くことによって、自我はより高次の統合へ導かれ、そこから実り多い、豊かで素敵な人生というものが開けてくるということなんでしょうか。

posted by かがみ at 21:30 | 文化論

2017年10月30日

転移の水準と愛の水準、あるいは「カードキャプターさくら」







「フロイトは、非常に早くから、転移の中で生じる愛は真正のものかどうかという問題を提起しました。一般的には、それは端的に言うと一種の偽の愛、愛の影であると考えられています。」

(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」162頁より)


「転移」とは一般的には精神分析の場において、両親などの過去の人物との間の感情を反復することなどと言われますが、より本質的なことを言えば「象徴的他者=〈他者〉」に対する「わたしを愛して」という「要求」に他なりません。

では〈他者〉とはなんでしょうか?〈他者〉とはその辺の「他人」とはまた違う、ある人にとって絶対的な象徴的秩序を体現する存在をいいます。

一般的に言えば、人生最初の〈他者〉は「〈母親〉=実母あるいは養育者」ということになるでしょう。ヒトの子どもは出生を経て現実界から象徴界に参入する代償として「享楽」を決定的に失うため、これを回復するための運動を試みます。これがフロイトが規定した人間の根本衝動、つまり「欲動」です。

ゆえに子どもは「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象を媒介として「わたしを愛してね」と〈母親〉に「欲動の言葉」を以って「要求」し、自らの欲動を満たそうとする。

これが転移の起源に他なりません。その後、子どもは後に見るように「das Ding」に直面した後も「要求」の水準にある程度の固着を残しているため、以後の人生において、誰か他人の中に〈他者〉のイメージを投影した時、やはり彼に対して「わたしを愛してね」と「要求」するわけです。

そういう意味において精神分析における「無意識のスクリーン」としての分析家、つまり「知っていると想定された主体(sujet suppose savoir)」としての分析家はまさに転移の対象となる〈他者〉の典型と言えるでしょう。

ところで上記の引用のようにラカンは転移を「偽の愛」であるといいます。では、転移ではない純粋な意味での「愛」とやらは果たして何処にあるのでしょうか?

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CLAMPさんの不世出の名作「カードキャプターさくら」は、この「転移」と「愛」という似て非なる2つの感情の差異を大変繊細な筆致で、かつ明確に描き分けることに成功した作品の一つでしょう。

「カードキャプターさくら」という作品は大きく分けると「クロウカード編」と「さくらカード編」という二部構成となっています。まず「クロウカード編」のあらすじは、主人公の木之本さくらが、相棒のケルベロス、親友の大道寺知世、そして後に相手役となる李小狼とともに伝説の魔術師クロウ・リードの作り出した「クロウカード」を全て集め、カードの正式な主となる・・・というものです。

そしてその後、さくらの前に謎めいた転校生柊沢エリオルが現れ、その直後より奇妙の事象が続けて発生する。クロウカードはなぜか事象に対して効果が無効化されてしまう。そこでさくらは「クロウカード」を自らの魔力を込めた「さくらカード」にアップデートすることで事件を解決していく・・・これが「さくらカード編」のあらすじとなります。

こうして物語も佳境に入りつつある中、さくらの通う小学校の模擬店大会が開催され、その日、さくらは兄の桃矢の親友であり、ずっと慕っていた存在だった雪兎へその想いを告げる。これに対し、雪兎は次のような言葉を返します。

雪兎「…ぼくもさくらちゃんが好きだよ」

雪兎「でも…さくらちゃんの一番はぼくじゃないから」

雪兎「さくらちゃん、お父さんのこと大好きだよね?」

さくら「はい」

雪兎「ぼくのことは?」

さくら「…好きです」

雪兎「その気持ちは同じじゃない?」

雪兎「お父さんが大好きな気持ちと、ぼくを好きだと思ってくれてる気持ち、すごく似ていない?」

さくら「…似てます」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


物心つく前に母親を亡くしているさくらにとって、父親である藤隆は父親であると同時に母親でもある、つまり、象徴的秩序を体現する〈他者〉というべき存在です。

雪兎はさくらの自分への想いが〈他者〉に対する「転移」であることを見抜いていたからこそ、そのことをさくらに気づかせるため、このような言葉を返したわけです。

雪兎「ぼくを好きな気持ちのせいで、さくらちゃんの本当の一番を見つけるが遅れちゃいけない……」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


もっともこの時、さくらは雪兎への感情の中に、父へのそれと同じではない、つまり転移以外の別の感情を抱いていたことに気づく。これが後々の展開におけるアリアドネの糸となる。

さくら「…でもね、そうじゃない『好き』も雪兎さんにはあったの…」

さくら「ほんのちょっとだけど…お父さんとは違った『好き』が…」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


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そしてその後、さくらは一連の騒動の黒幕であったエリオルと東京タワーで対峙。エリオルの正体は伝説の魔術師クロウ・リードその人であった。闇を呼び、知世や桃矢を含めた街中の人を眠らせてしまうエリオル。そこから3×3の頂上決戦の末、小狼の助力もあり、さくらは最後まで残っていた「光」と「闇」のカードをさくらカードへアップデートを果たし、なんとかエリオルの魔法を破り事態を収拾します。

なんでエリオル、というかクロウ・リードがこういう回りくどいことを企てたのかという経緯はここでは触れませんが、ともかくも目的を達したエリオルはイギリスへ帰国することになります。そして出立の際、さくらにこう告げます。

エリオル「さくらさん、僕がイギリスに帰るって聞いてどう思いました?」

さくら「え?」

さくら「残念だなあって…」

エリオル「………お願いがあるんです」

エリオル「同じことが起こった時に…あなたのそばにいるひとが遠くへ行ってしまう前にあなたがどう思うか」

エリオル「その気持ちは僕の時とどう違うかよく考えてください」

エリオル「そうすれば、あなたが本当に誰を『一番』だと思っているかが、わかりますから」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


この直後、さくらは小狼から告白されるわけですが、しばらくの間、さくらは自分の中にある感情の正体をうまく言語化することができません。その正体がはっきりと分かるのは小狼が香港に帰ることを知った時です。

さくら「エリオル君がイギリスに帰っちゃうってわかった時はすごく残念だった」

さくら「また会えるといいなとか、お手紙書こうとか、いろんなこと考えていた」

さくら「でも小狼君の時は…」

さくら「そんなのやだ…やだよ…」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


ここでさくらは「das Ding」に直面しているわけです。

先に見たように、子どもの「欲動」はまず第一次的には「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象に結びつきますが、「欲動」とは本質的に「死の欲動」であり、その究極的な対象は母子一体的な「享楽」の在処、つまり「das Ding」といういわば「無の場所」です。

しかしながらフロイトが「快楽原則の彼岸」で述べるように「死の欲動」は「生の欲動」によって抑止される関係に立つことから、人は生きている限り「das Ding」への到達は原理的に不可能ということになります。つまり欲動それ自体は決して満足することはなく、ゆえに「das Ding」とは子どもにとって一種の煉獄の場と言えます。

そこで、子どもは「das Ding」に到達する不可能性を一つの「禁止」とみなすことで、その禁止の遥か彼方に一つの可能性を見出そうとする。これが「欲望」と呼ばれるものの本質に他なりません。

これは何も幼児期の発達過程に限った話ではなく、我々は日々、何かの不可能性に直面することで生起する感情に「欲望」の名前を無自覚的につけています。とりわけ、その「禁止のヴェール」に「das Ding」を描き出し、その不可能性を何か尊いものへと昇華させようとする営為を我々は「芸術」とか「愛」などと呼ぶわけです。

従って、もし仮に「転移」ではない純粋な意味での「愛」というものがあるとすれば、それは「わたしを愛してね」という「要求」の水準ではなく、「わたしは愛してる」という「欲望」の水準にあるということです。

さくら「ちゃんとわかったよ」

さくら「私が小狼君のこと、どう思っているか」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


こうして、さくらは小狼の帰国という「das Ding」に直面することにより、これまで形にならなかった自分の中にある想いを初めて言葉にすることができた。これは一つの欲望が生成される瞬間をよく表していると言えるでしょう。

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このように「転移」と「愛」はその概念として截然と区別されることになる。もちろん実際問題として誰かが誰かに恋愛感情を懐く時、この二つは無い混ぜとなり、渾然一体となった和音として鳴り響くのでしょう。

けれどもその時、どの音階が自分の心の中で一番高鳴っているかを理解することは決して無益なことではないでしょう。

むしろ、そうすることによって、人は「私を愛してくれないこの苦しみ」を「それでも私はあなたを愛している」へと転回し、昇華することができる、ある一つの道標を得ることができるのではないでしょうか。


posted by かがみ at 23:12 | 文化論