2017年05月27日

受容・共感・自己一致

日常の社会生活を送っていると、他人の「悩み相談」に出くわす場面は多いですよね。そんなときどう接すればいいのでしょうか?やっぱり折角の機会だし、何か気の利いた「アドバイス」をしたい、そういった誘惑に駆られることも多いでしょう。

しかしアドバイスというのはこういう時あんまり役に立ちません。多くの場合、アドバイスした側の自己満足で終わります。

実はこういった日常の「悩み相談」の場合、相手は「解決」ではなく「共感」を求めていることの方が多いわけです。従って、こういう時は妙なアドバイスをするより相手の話にただただ聴いてあげたほうがよっぽど「役に立った」といえるでしょう。

ロジャーズの中核三原則

ところで、傾聴やコミュニケーションの本ではよく「ロジャーズの中核三原則」というものが出てきます。これはカウンセリングの神様とまでいわれたアメリカの心理学者カール・ロジャーズの提唱したセラピストの基本的態度のことです。カウンセリングや心理療法をちょっとでも勉強したことのある人でしたら、だいたいご存知かとは思われますが、改めて定義的に整理すると次のようなものです。


無条件受容・・・クライエントの表現したものがどんな内容であろうとも、それはその人の体験に基づいたその人なりの言葉であるということを認め、批判や評価などの一切の価値判断をせず、ありのままに受容すること。


共感的理解・・・クライエントの「いま、ここ」にある私的な内面世界を、「as if(あたかも自分の事の様に)」感じ取ること。そして「as if(あたかも自分の事の様に感じ取る)」という態度をどこまでも失わないこと。


自己一致・・・自身のなかに流れる感情や思考と云った体験に対して在るがままに、驚く時は驚き、悲しむ時は悲しむ、と云った自身の内的体験と自己表出のとの間に不一致がないこと。



ロジャーズの説くところによれば、人は誰しも先天的に「自己を成長させ、実現する力(自己実現傾向)」そして「自らの力で心と体を治していく力(自己治癒能力)」を持っているそうです。

なので、植物が光・水・養分・空気があれば、生命のもつ本来の力でひとりでに育っていくように、人も心に適した環境さえあれば、その人の自己実現傾向・自己治癒能力が発現して症状や悩みが解消に向かうということになる、ということになります。

そして、ここでいう「光・水・養分・空気」に当たるものが、セラピストの態度としての「受容・共感・自己一致」ということになります。

中核三原則の孕む理論的ディレンマ

受容・共感・自己一致。これらはひとつひとつはそれ自体疑いなく正しいものだと思いますし、なんかこれだけ聞けば誰でもカウンセリングができそうな気もしないでもない(笑)

けれども例えば、相手が「死にたい」とか「私は生きている価値がない人間なの」などと、ネガティブなことを延々と繰り述べている場合どうすればいいんでしょうね?

どうも相手の話に同調し難いが、ともかく「無条件受容」や「共感的理解」に努めないと、などと思いながら、表面上取り繕って「うん、うん」などと返している。でもこれって内心と態度が「自己一致」していないんじゃないでしょうか?

こうして受容・共感・自己一致を誠実に意識すればするほど「私はあの人の話を聴けていなかった、気持ちにしっかりと寄り添えていなかった・・・」などと自己嫌悪に陥ってしまう可能性もあるでしょう。こういう風に中核三原則というのはかなり理論的なディレンマを孕んでいるわけです。

ゆえに中核三原則は一種の理想あるいは解脱の境地のようなものであり、その趣旨はひとつの理想として意識しつつも、ある程度は距離を置いて、日々の現実の中で生起する問題と適当に折り合いをつけていかなければならない・・・これも一つの然るべき態度ということになります。

傾聴における「想像的水準」と「象徴的水準」

ただね、中核三原則が一見矛盾に満ちているように見えるのは、畢竟、我々が人の話を「想像的水準」で聴いていることに起因するようにも思われるんですよ。

想像的水準とは「わたし」や「あなた」といった自我意識の水準をいい、「わたしと、あなた」あるいは「わたしか、あなた」という愛憎入り混じる関係になります。

「わたしと、あなた」のうちはまだいいんですが、「わたしか、あなた」になってしまえば「想像的軸上における食うか食われるかの双数関係」に陥ってしまいます。

このような想像的水準から離脱し「象徴的水準」で聴くことで初めて中核三原則は矛盾なく機能し始めると言えるでしょう。すなわち、言葉の「シニフィエ(意味)」ではなく「シニフィアン(音)」の水準で受け止めるということになります。

新米の分析家にとって、語られている話に囚われてしまうことが最も大きな罠である。新米の分析家達は、自分の関心に近いとか、個人であれ臨床家としてであれ彼らに関わっていたり、影響することのように思えると、それだけその話にたやすくとらわれてしまう。

(中略)

分析主体は、自分が話していることのうち、意識的に理解してもらおうと考えていること以外のことを分析家に聞き取ってほしいなどという期待をはっきり抱いて分析を始めることはほとんどない。

一方、分析家は通常の習慣的な仕方で話を聞く態度から離れること、話の内容を理解することより、むしろその話が語られる仕方を聞くことが重要であることを自覚しなければならない。

(ブルース・フィンク「精神分析技法の基礎〜ラカン派臨床の実際」15頁)


つまり話し手の「ことば」の「意味」はひとまず括弧に入れ、価値判断などを一切加えず、言い間違いなども含めたあらゆる「音」を「平等に漂う注意」で拾い上げ、聴取し、句読点を打ち込み区切っていく。

そして、聴き手は一個の自我を離れて、話し手の「無意識」を投影する「鏡」もしくは「スクリーン」としての役割に徹することになります。

ラカン派の臨床においては、このように分析家が分析主体の「無意識のスクリーン」を演じることで、徐々に分析主体の抑圧が解除され、無意識的なものが意識化されてくると言われています。

そしてこの過程が分析主体のパーソナリティの変容、ラカンの用語でいえば「幻想の横断」に繋がっていくのであり、これはロジャーズの説く「自己実現傾向」「自己治癒能力」と軌を一にしたものだと言えるでしょう。

傾聴における「現実的水準」

さらにここから踏み込んで「現実的水準」で聴くという態度も考えられるでしょう。

「言葉から出る」というのは、「ぼくは学校へ行っていないんです」ときいて、「学校」や「ぼく」ということから離れて、いっぺん外へ出るということです。離れて、「おお!」と思わないといけないのです。「おお!」というところへ出てから、その次に、もの(言葉)を言っていかないといけない。

(河合隼雄「カウンセリング講話」113頁)


言葉を言葉以前の「おお!」としか言いようがない境域で一度受け止める感覚は、これは象徴化される以前の現実的水準、〈もの〉の水準に相当するでしょう。もっと言えば、話し手の言葉を「欲望の原因としての声」、ラカンでいう対象 a のレベルにまで昇華させることにより、「あなたをもっと理解したい」という聴き手のメッセージ(欲望)をより強力に発信することが可能となるわけです。

何れにせよ今述べたことは理論上のものであり、実践の困難さはまた別のところにあるのは言うまでもあります。

しかし日常的な対人関係の中においても誰かの声に真摯に耳を傾けてあげないといけない時というのは必ずあるでしょうから、そういう時のためにも、自分なりの中核三原則の理解をもっておくのがいいのかもしれませんね。



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posted by かがみ at 22:53 | 心理療法

2017年04月01日

対象 a ・承認欲求・絶対だいじょうぶの魔法。

ラカン派精神分析の理解によれば、子どもは「疎外と分離」という母子分離の過程を経ることで、母子一体的な欲動満足である「享楽」の喪失と引き換えに「言語」を獲得し「欲望する主体」となり、精神病圏から神経症圏へと遷移するわけですが、「疎外と分離」の、特に「分離」の成否は、かつての享楽の残骸が「欲望の原因」として機能するかどうかにかかってきます。

この「欲望の原因」をラカンは「対象 a」と呼びます。子どもはいわば対象 a を抱えることで初めて母の世界を脱出できるわけです。

対象 a とは、かつてあった「享楽=母なるもの」すなわち「乳房、排泄物、声、眼差し」の代理物、すなわち欲動の対象に値するものをいいます。ひとがアプリオリに人肌を求め、あるいは善行を為し、あるいは詩、音楽、絵画、映像などの芸術作品をこよなく愛するのはそれらが対象 a だからです。いわゆる欲望とは享楽を可及的に回復しようとする決して満たされることのない永久反復運動に他ならないということです。

だから最近よく言われる「承認欲求」と呼ばれるものの正体も結局はこの「対象 a」なんですよ 。他者からの賞賛の声、羨望のまなざし。「承認欲求を否定せよ」などという流行りのキラキラワードがありますが、ラカン的には承認欲求というのは少なくとも神経症圏の人間(いわゆる一般人)にとっては己の存立を支える根源的な欲望であり決して否定できるものではないということになります。

このような観点から言えば、承認欲求とは「否定する」すべきものではなく「操作する」すべきものです。仮に誰からも承認されないのであれば、自分で自分を自己承認すればいいということになります(理論的には。実践は難しいでしょうが・・・)。

例えば、先日読んだマインドフルネス関連本の中で、感情がイライラした際には呼吸に集中するとともに「かならずよくなる」などとポジティブワードを呟いてみる方法が推奨されてたんですが、こういうのも自分で自分に声をかけてまなざして、対象 a の享楽を作り出す自己承認の方法と言えますね。

さて。今日はエイプリルフールですが、そんなことよりも「カードキャプターさくら」の主人公・木之本さくらちゃんの誕生日ですね。

さくらちゃんといえば名台詞「絶対だいじょうぶの魔法」。さくらちゃんはカードキャプターとしてバラバラになったクロウカードを集める使命をケロベロスから無理矢理押し付けられますが、途中、もう一人のクロウカードの守護者ユエの第一配下カード「闇」に飲み込まれそうになった時「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」と自分に言い聞かせて窮地を乗り切ります。これを「闇」と対になるクロウカードの「光」は「絶対だいじょうぶの魔法」と評します。

「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」。これ以上にシンプルで力強い響きもそうそうないでしょう。日々の暮らしで気が滅入った時に、自己承認の魔法の言葉としては何気につぶやいてみる習慣というのもいいかもしれませんね。


posted by かがみ at 23:04 | 心理療法

2017年03月03日

少女のエディプスコンプレックス


さて、本日は桃の節句なので、女の子のエディプスコンプレックスの話でも書いてみたいと思います。エディプスコンプレックスというのは定義的には「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになりますが、その経過は男の子と女の子では若干異なってきます。まずそのあたりの精神分析の説明から始めてみます。

想像的水準と象徴的水準におけるPhallus

ラカンの有名な定式に「人の欲望は他者の欲望」というものがありますが、寄る辺ない存在である子供にとっては他者の欲望というのは重要な関心の対象になります。人という生き物は他の動物と異なり、独りでは生きられない寄る辺無い姿で生まれて来る為、他者の助けなくこの世界では生きていけません。そこで初めて出逢う他者は母親です。

なので、まず男の子も女の子も、この世界で生きていく為に母の欲望を埋める愛情の対象になりたいという欲望を持たざるを得ない。ラカン風に言うと子供は愛情という想像的水準において母のPhallusになろうとしている。

ところが、母親も日常生活の中で四六時中子供と一緒にいるわけではなく、現前-不在を繰り返します。そこで子供の中には次のような心象が沸き起こります・・・なんでお母さんはいつもボク/ワタシと一緒にいてくれないんだろう、ボク/ワタシはお母さんの欲望の対象じゃ無いのかな・・・?お母さん、貴女が欲しいものはボク/ワタシ以外の「何か」なの・・・このように子供は不安に駆られます。

そして、この不安はやがて確信に変わります。母の紡ぎ出す言葉の節々に見え隠れる「オトウサン」なる存在。母曰く「オトウサンに叱ってもらいますからね」「オトウサンが見てなんていうでしょうね」「オトウサンに相談してから買いましょうね」云々・・・つまり、暴力、権力、財力という象徴的水準でのPhallusを保有している絶対的な第三者が「オトウサン」ということになります。

こうして父親は満を持して子供の前に登場し、子供はこれが母の欲望の対象に違い無いと確信し、こうして子供は想像的水準で母のPhallusになれないことに絶望するしかない。

では、自らの存在意義を失った子供はどうすればいいのでしょうか?ここで男女の違いが生じてきます(もちろん現代においては上記のような典型的な母親-父親像は揺らぎつつあります。あくまで子供の心象風景モデルの話です)。

エディプスコンプレックスと去勢コンプレックス

男の子の場合、去勢不安から母親を諦めざるを得ない。結果として多くの場合は父親側に同一化して、象徴的水準でPhallusを所有したいと願う。つまり「父のような人になって母のような人をものにしたい」と欲望することに自らの存在意義を見出す。こうして、男の子の場合、エディプスコンプレックス→去勢コンプレックスと進んでいき、母親を諦めた時点で、エディプスコンプレックスはフロイト曰く「粉々に砕け散る」。以降、男の子は畢竟、(象徴的な)Phallus関数に支配された存在となり果てる。

女の子の場合、最初から去勢されているため、結果として多くの場合は母親側に同一化して象徴的水準でPhallusそれ自体になりたいと願う。つまり「母に成り代わり父に欲望されたい」と欲望することに自らの存在意義を見出す。女の子の場合、男の子とは逆に去勢コンプレックス→エディプスコンプレックスと進んでいく。

つまり、女の子の場合、エディプスコンプレックスは消滅するまでの期間が長いということです。女性のセクシュアリティが男性に比べて遥かに複雑になるのはこういう事情によります。男性は基本的に「Phallus関数に支配される者」と積極的な定義が可能ですが、女性は「Phallus関数に支配される者、とは限らない者」と消極的に定義せざるを得ない。すなわち、女性は「娘」でもあり「妻」でもあり「母」でもあり、さらには「男性」でもあり「それ以外の存在」とも言える。ラカンの「女性なるものは存在しない」という例の悪名高い迷言(?)はそういう観点から理解されるべきなんでしょう。

あかりのケースと香子のケース

ところで、このエディプスコンプレックスの消滅過程で少女が強烈な外傷経験に出会った場合、セクシュアリティの一面が歪んだ形で先鋭化されることがあります。いわば「エディプスコンプレックスの補償」という問題です。

何が言いたいのかというと、「3月のライオン」という作品は、この問題について、かなり自覚的に描き出しているように思えるんですよね。物語のサブヒロイン的な立ち位置にいるあかりと香子は、様々な点で両極に対置されており物語のコントラストをキャラクターレベルで支えていますが、境遇はわりと似ています。同世代であり、長女であり、そして、両者とも思春期の只中で「父に棄てられた存在」という点においても共通した要素を持っているわけです。

あかりの場合、父親である誠二郎に家族ごと放り出されており、「お前を愛してない」という想像的水準で父に棄てられている。そして現在、あかりは妹たちを過剰に溺愛しており、特にモモちゃんに対してはファリックマザーそのものと言っていい一方で、家族以外の人間関係については基本的に禁欲的な態度を貫き通している。当たり前ですが、ひなちゃんもモモちゃんも誠二郎氏の娘です。従って、あかりさんとしては心外かもしれませんが、精神分析の観点から言うと、誠二郎氏という欲望の対象は変わらず、その在り様が象徴的水準におけるファルスへの同一化から想像的水準でのファルスの所有へとスライドしていると言わざるを得ない。

香子の場合、父親である幸田氏から奨励会退会を申し渡され、「お前には期待してない」という象徴的水準で父に棄てられている。そして現在、香子は20も歳上の妻帯者であり、かつ父親の弟弟子でもある後藤正宗に一方的に惚れ込んでいる。つまり、象徴的水準でのファルスへの同一化という欲望の在り様は変わらず、その対象が父と似たような相手にスライドしていると言える。

こうしてみると、父親からの棄てられ方から欲望の有り様まで、あかりの場合は想像的水準で動いており、香子の場合は象徴的水準で動いていることに気付かされます。これは必ずしも理論的な対応関係は無いはずですが、あかりと香子が鮮烈に放つ両極性はこの辺りの差異に起因しているような気がするんですね。

結構強引な解釈なのかもしれませんが、こういう対比を念頭に置きつつ、3月のライオンの原作を読み返してみるとまた違った発見があるのかもしれません。


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posted by かがみ at 23:08 | 文化論

2017年02月14日

ドラマ版「嫌われる勇気」に日本アドラー心理学会が抗議文

ドラマ版「嫌われる勇気」を最初観たときは完全に口開けてポカンの状態でして、なんというか、よくまあ、ここまで思い切った改変をしたものだと別の意味で制作サイドの「嫌われる勇気」を見た気がしましたが、ここに来てやっぱり日本アドラー心理学会から抗議が来た模様です。

香里奈主演「嫌われる勇気」に「日本アドラー心理学会」が抗議文 - ライブドアニュース

日本アドラー心理学会のホームページ|INDIVIDUAL PSYCHOLOGY

株式会社フジテレビジョン 『嫌われる勇気』製作責任者御机下

抗議文は「放映の中止か、あるいは脚本の大幅な見直しをお願いしたいと思っております 」と結ばれており、まさにドラマ版主人公の庵堂蘭子の決め台詞である「明確に否定します」と言わんばかりです。

この抗議は極めて正当だと思います。ドラマ版はキャストの誰某の演技が大根だとか、事件解決にアドラー心理学がまったく絡んでいないとか、巷ではそういうところでも辛辣に批判されているみたいですが、アドラー心理学という観点からの本質的な批判はもっと別のところにあります。

それは抗議文にあるように、現状、ドラマ版においては、アドラー心理学の生命線ともいえるべき概念である「共同体感覚」「勇気づけ」の視点が完全に欠落している点に他なりません。この点、抗議文ではわりと端的な指摘に留まっているので、ここで大変僭越ながらも、ざっくりと私なりの理解から書いてみたいと思います。


劣等コンプレックスと共同体感覚

まずはそもそも論というか、アドラー心理学の基礎理論の整理から始めます。

精神分析の創始者でおなじみのジークムント・フロイトは人の根本衝動を「性欲動」だと規定しましたが、これに対して、アルフレッド・アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償」による「優越性の追求」だと主張します。要するに、人は無力な寄る辺ない存在としてこの世に生を受けるが故に「もっと成長したい、もっとあるべき理想に近づきたい」という動機が生まれてくるということです。

人は無力な存在としてこの世に生を受けます。そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。

(嫌われる勇気:79頁)


こうした劣等感の補償ないし優越性の追求に駆動されていった結果、形成されていく個人的な信念・世界観といった個人のパーソナリティをアドラーは「ライフスタイル」と呼びます。

ライフスタイルというのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って差し支えないでしょう。人は知らず知らずのうち、自らのライフスタイルを正当化し維持する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)

よく言われる「トラウマは存在しない」というのは、過去の出来事は現在のライススタイルに整合する形で認知されるため、結果、同じ事実が「美しい思い出」にも「忌むべきトラウマ」にも、可能性としてはどちらにもなり得るいうことでしょう。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)

つまり主体としての個人の有り様によってライフスタイルはいつでも変えられるというわけです。「ライフスタイル」という呼び方もその着せ替えできるような「軽さ」を強調するためと言われます。

そして、ある人がいかなるライフスタイルを形成するかは、その人が「対人関係」をどのように捉えるかにかかってきます(対人関係論)

対人関係を「縦の関係」、すなわち支配、評価の関係として捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成されていきます。逆に対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、感謝の関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成されていくわけです。

課題の分離の二つの側面

以上から、共同体感覚の涵養こそがアドラー心理学の目標となります。そしてその実践プロセスは以下のとおりです。

まず、自他の問題領域を切り分けます。いわゆる「課題の分離」です。

実は課題の分離には二つの側面があります。まず第一に「他者の課題に踏み込まないこと」。これはわかりますよね??庵堂さんがたまにドヤ顔で言い放つ「それはあなたの課題です」というアレですよ。(原作の)「嫌われる勇気」でも強調されている通り、他者からの評価というのも「他者の課題」ですから、いわゆる「承認欲求を否定する」というのもここに通じるものがあります。

そしてもうひとつ、第二に「自分の課題に誠実にとり組むこと」。これは巷のアドラー解説本ではあまり強調されていない気もしますが、普通に考えれば第一の点と密接な関係になるはずです。だってそうでしょう??「相手の課題に踏み込まないこと」だけだと、単なる自分の殻に閉じこもって何もしない人と何ら変わらないじゃないですか??

では自分の課題とは何でしょうか?私の理解ではこれこそが「勇気づけ」の実践です

「勇気づけ」の実践その1〜自分を勇気づける

勇気づけとは「横の関係に基づく援助」と呼ばれますが、基本言葉が「ありがとう」「嬉しいです」「助かります」とあるように、より端的に言えば尊敬・感謝の表明です。勇気づけの実践は、まずはいまの自分を勇気づけるところから始まります。

自分なりの言葉で、いまのありのままの「交換不能なわたし」を直視し受け入れて、いわば自分で自分を援助するということなんですよ。これを「自己受容」といいます。(原作の)哲人の言葉で言えば「肯定的なあきらめ」。「あきらめ」というのはもともと「明らかに見る」という意味合いだそうです。カウンセリングにおけるロジャーズ三原則でいえば「自己一致」という概念に近いでしょう。

「勇気づけ」の実践その2〜他者を勇気づける

そういうわけで、自分を勇気づけることができるようになれば、次のステップとして他者を勇気づけます。他者を尊敬し感謝の念を表明する。「他者信頼」「他者貢献」です。

「他者信頼」というのは他者にイエスマンのごとく追従する態度とは全く異なります。アドラー派に「結末技法」というものがありますが、相手の存在を尊敬・信頼することと、相手の間違った行為を間違っているときっぱり断じ去ることは全く別のことです。「明確に否定します」という言葉はここに通じます(ただ原作の哲人がいう「明確に否定します」とドラマ版の庵堂さんがいう「明確に否定します」は相当ニュアンスが違ってますが・・・)。ロジャーズ三原則でいえば「無条件受容」「共感的理解」に相当するものでしょう。

「他者貢献」は最も重要です。実際に何かを貢献したかどうかではなく、重要なのは「貢献感」が得られたかどうかです。人は「貢献感」を得ることで自分の価値を実感できるというわけです。こういう風に書くと何か胡散臭い雰囲気を感じる方もいるでしょうが、このメカニズムの神経学的な解明は現代においてかなり進んでおり、例えば「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンという神経伝達物質は、親しい相手とのスキンシップ、優しい言葉、温かいまなざしといった物理的、精神的接触の他にも、誰かに対する親切心によって分泌が促進されるそうです。

兎も角も、こうして「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。この三つの要件が揃って初めて、人は劣等コンプレックスの磁場を抜け出し、共同体感覚(=横の関係)の領域に遷移するということができます。

本当に難しいのは共同体感覚を「持ち続けること」

そして大事なのはこれを継続することです。実は、共同体感覚を瞬間的に得ること自体はそんなに難しくないんですよ。誰だって自分がうまくいっているときは余裕がありますから、周りに受容的な態度をとることはそんなに難しいことではないでしょう。

けど、一度上手くいかなくなれば、やっぱり妬みや僻みという負の感情が出てきます。いったんは共同体感覚に遷移しても、簡単に劣等コンプレックスに転落してしまいます。

それでも、どんな苦境に立たされようが、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を一貫して維持し続ける。これはもはや至難の技と言わざるを得ない。だからこそ共同体感覚というのはアドラーの言うように「到達できない理想」なのです。

世界はシンプルであり、人生もまた同じである。しかし、「シンプルであり続けることはむずかしい」と。そこには「なんでもない日々」が試練となるのです。

(幸せになる勇気:275頁)


我々凡人は劣等コンプレックスと共同体感覚という二つの両極の間をウロウロするのが実際のところなんでしょう。そんな中、せめて少しでも、共同体感覚寄りの「斜めの関係」を維持できれば、まあ御の字なのかもしれませんね。

嫌われる勇気とは自己中心的な生き方ではない

さて、これでもう明らかだと思いますが、要するにドラマ版はこれまで観た限りでは、庵堂さんの振舞いには「他者を勇気づけること」、すなわち共同体感覚中核三要件の「他者信頼」「他者貢献」が欠落していると言わざるを得ない。

これは片手落ちどころの話ではないでしょう。そんな主人公を哲人ポジションにいる人が「ナチュラル・ボーン・アドラー」などと持ち上げるわけです。

そうすると当然、原作未読の視聴者から「嫌われる勇気というのはこの女みたいな周りを顧みない自己中心的な生き方か、これがアドラー心理学か」と、こういう風に認識されても仕方がないでしょう。

もしかしたらあるいは万が一、今後の展開で、そういう共同体感覚的な側面が出てくる予定の構成になっているのかもしれません。けど百歩譲って仮にそうだとしても、最初の数話で呆れて視聴をやめてしまった人の中にはやっぱり、上に書いたような誤解がずっと残ってしまうことになるわけです。こうなるとアドラー心理学の普及団体としては苦情のひとつも言いたくなるでしょうね。

香里奈「嫌われる勇気」に放映中止要求 本家・アドラー心理学会の抗議理由 : J-CASTニュース

今のところ、制作サイドとしては放映中止は考えてない模様。最初、原作サイドの監修はなかったのか疑問でしたが、一応、岸見先生がアドラー理論の解釈部分のチェックは行っていたみたいですね。岸見先生的にはドラマのストーリーがどう作られるかについては、あくまで「他者の課題」というご認識なのかもしれませんね。

長くなったので要旨をまとめておきます。

【まとめ】

・(動因)劣等感の補償/優越性の追求→(形成物)ライフスタイル

・対人関係を縦に捉える(支配・評価の関係)ライフスタイル=劣等コンプレックス

・対人関係を横に捉える(尊敬・感謝の関係)ライフスタイル=共同体感覚

・課題の分離=他者の課題に踏み込まない(承認欲求の否定)+自分の課題に誠実に取り込む(勇気づけの実践)

・勇気づけ=自分を勇気づける(自己受容)+他者を勇気づける(他者信頼・他者貢献)→共同体感覚


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posted by かがみ at 19:47 | 心理療法

2017年01月31日

パロール・ディスクール・ユーフォニアム!



「主体の発するParoleは、主体の知らない内に、Discourantの限界の向こう側に達しますーーー話す主体の諸限界の内部に留まっていることは確かですが(ジャック=ラカン「セミナールT・フロイトの技法論(下)」172頁)」

精神分析の目標はラカン風の表現で言えば「根源的幻想の横断による欲動の主体の顕現」であり、この境地へ至るため、臨床技法として自由連想と解釈投与という作業が行われるわけですが、そこで用いられる「言葉」という点に付き、ラカンはパロールとディスクールを明確に区別しています。

「話すこと(パロール)」は、「語ること(ディスクール)」よりも広い概念です。上に示すセミネールの引用はパロールによってディスクールの限界を超える瞬間があることを明らかにしたものです。

ディスクールとは極めて表層的な意識レベルでなされる言語活動です。これに対して、パロールとはより深層の意識レベルで行われます。パロールを繰り返すことで「無意識」が徐々に姿を表してくる。この時、多くの場合、胸が一杯になって涙が溢れたり、怒りが湧き起こるなどの情動的反応が起こることもあるでしょう。

このような経験を積み重ねることで「無意識」を徐々に意識レベルに再統合していく。これこそが「根源的幻想の横断」の過程に他ならないのです。イメージとしては、こころという深い湖の一番底(無意識層)にタッチして湖面(意識層)まで帰ってくるという往復運動を何回も繰り返すような感じと言えばいいのでしょうか。

このようなディスクールとパロールの違いを鮮明なまでに見事描き分けた好例として「響け!ユーフォニアム」という作品を取り上げてみたいと思います。TVシリーズ屈指の神回として名高い第2期10話の、久美子ちゃんが、母親の介入で全国大会出場を断念したあすか先輩を説得する場面です。

久美子ちゃんはあすか先輩に「コンクールに出てください」と、普段の彼女からは想像もできない高圧的な態度で迫ります。しかしながら、その主張の論拠として持ち出してくるのは所詮「みんな言ってます。あすか先輩が良いって・・・」とか、「低音パートの皆や、夏希先輩(註:あすかの代役)は絶対、あすか先輩に出てほしいって思ってます」などという、ラカン風に言えばまさに「他者の欲望」の枠から一歩も出ることのない言動ばかりです。

なるほど理性的ではありますが、同時に防衛的な態度とも言えるでしょう。これがまさにディスクールの典型です。

しかし、あすかが繰り出す論理的な反駁、そしてえげつのない精神攻撃の数々に、久美子ちゃんは逆に窮地に追い込まれて進退極まってしまう。しかしここから、久美子ちゃんの鼠猫を噛むかの如き、渾身の咆哮であすかを圧倒していきます。

だったら何だって言うんですか!?先輩は正しいです!部のこともコンクールのことも全部正しい!!

でもそんなのはどうでもいいんです!あすか先輩と本番に出たい・・・私が出たいんです!!

子供で何が悪いんです!?先輩こそなんで大人ぶるんですか!?全部わかってるみたいに振舞って!自分だけが特別だって思い込んで!!

先輩だって、ただの高校生なのに!そんなの、どこがベストなんですか!?

先輩、お父さんに演奏聴いて貰いたいんですよね・・・誰よりも全国行きたいんですよね・・・それをどうして無かったことにしちゃうんですか・・・ガマンして諦めれば丸く収まるなんて、そんなのただの自己満足です!!

悔しいです・・・待っているって言っているのに・・・諦めないで下さいよ・・・後悔するって解っている選択肢を、自分から選ばないで下さい・・・諦めるのは最後までいっぱい頑張ってからにして下さい!!

私は、あすか先輩に本番に立ってほしい!あのホールで先輩と一緒に吹きたい!!先輩のユーフォが聴きたいんです!!!


久美子役の黒沢ともよさんの鬼気迫る演技と、京都アニメーションの神掛かった演出によって産み出された映像は圧巻の一言に尽きます。もはや余計なコメントは一切不要でしょう。これがパロールです。ディスクールの限界を超えて「無意識の主体」が現れる瞬間を見事に描き切っている。

この場面は久美子ちゃんが初めて剥き出しの感情を露わにする処でもありますが、いままでの久美子ちゃんの失言キャラ付けの積み重なりが手伝って、唐突感が全然ないんですよねーーーフロイトはかの「精神分析入門」の一章をまるまる「錯誤行為(言い間違い)」に割いていたりもするんですがーーーよもやここまで計算していたとすれば見事と言うしかないでしょう。

まためんどくさい解釈を色々と書いてしまいましたが、本作「響け!ユーフォニアム」という作品自体、アニメーション史に残る名作と言い切って過不足無い、シナリオ、作画、美術、演出が極めて高い次元で統合された青春群像劇の傑作と言えるでしょう。もしかして、タイトルの「響け!」とはパロール、「ユーフォニアム」とは久美子ちゃん自身のことなんでしょうか・・・?そういう風に考えてみると、精神分析的にはなかなか面白いものがあります。

「根源的幻想を横断した主体は、欲動をどのように生きることができるのでしょうか?これは分析の彼岸であり、これまでだれも取り組んだことがなかったことです(ジャック=ラカン「セミナールTX・精神分析の四基本概念」368頁)」

それはもちろんーーーーそして、次の曲が始まるのです\(^o^)/

posted by かがみ at 20:54 | 文化論