2016年12月25日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)



心理療法における一般論としてですが、人の症状や問題行動は、その人に内在するコンプレックスによって引き起こされると言われます。そして、最も根源的なコンプレックスとは何かという問題について、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスがしばし対立的なものとして説明されます。

しかしながら両者はほんとうに「対立」しているのでしょうか?仮にそうでないのであれば両者はどのような関係に立つと言えるのでしょうか?

そういうめんどくさいわりにはあんまり需要のなさそうなテーマについて、自分なりに現時点で整理したことに基づく解釈を2回に分けて書いてみようと思ったのが本稿の着想の発端だったりします。何卒よろしくお願いします。

エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックスとは周知の通り、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの「発見」によるものでして、これを定義的に述べれば「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになります。

フロイトは当初、ヒステリー患者の供述を真に受けて、神経症の原因は幼少期における親からの性的な誘惑体験であるとする「誘惑理論」なる説を唱えていましたが、程なくこれをあっさり放棄してしまいます。何となれば当時のウィーンでは、神経症に苦しむ若い女性が相当数に上っており、彼女たちの父親全員がペドフェリア的な性的倒錯者だと考えるというのはいくら何でも苦しい説明だと言わざるを得ないからです。

誘惑理論を放棄したフロイトは当時の親友ヴィルヘルム・フリースとの幾度とない往復書簡を通じて自己分析を重ねていった結果、自らの内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という秘められた感情を発見するに至ります。

そして、この感情こそ、神経症の原因を形成する「早期幼児期の一般的な出来事」だと看破したフロイトはこれをギリシア神話のエディプス王の悲劇になぞらえて「エディプスコンプレックス」と名付けました。

しかし、現代の日本社会においてエディプスコンプレックスなどと言われても、何か荒唐無稽な御伽噺を聞かされている気分になるでしょう。普通の人に対して「あなたは近親相姦ないし父殺しの願望がある」などと言い放ったところで、多分、困惑されるか、ヘタすれば怒らせてしまうかもしれません。

劣等コンプレックス

これに対してフロイトと並び称される心理学の巨峰、アルフレッド・アドラーが擁する劣等コンプレックスは遥かに解りやすく、シンプルです。

アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償としての優越性の追求」だと規定します。その優越性に追求の駆動された結果として形成される動線、つまり個人的な信念・世界観を「ライフスタイル」と呼びます。ライフスタイルと言うのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と考えて差し支えないでしょう。

人は自らのライフスタイルを正当化し論証する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)。

そして、いかなるライフスタイルを形成するかといういわば「目的の原因」は畢竟、「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくる(対人関係論)。

ここで対人関係を「縦の関係」、すなわち操作したり評価する支配関係として捉えてしまえば、歪んだライフスタイルが形成される。これがアドラーのいう劣等コンプレックスに他ならないのです。

そこでアドラー心理学では対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、共感、感謝といった関係で捉える「共同体感覚」というライフスタイルの涵養が目標とされ、かかる共同体感覚を育むための援助技法を「勇気付け」と呼んでいるわけです。

精神病圏におけるエディプスの欠落

こうして並べてみると、どう考えても劣等コンプレックスの方が説明としてはスマートですよね。例の「嫌われる勇気」の空前の大ヒットを待つまでもなく、日本ではもともと「コンプレックス=劣等感」というイメージが成り立っているので、アドラーの理論は直感的に響くものがあると言えます。

しかしながら、なかなか一筋縄でいかないと言べきでしょうか。一方でエディプスコンプレックスの方がより上手く説明できるケースというのもまた確実に存在します。例えば、パラノイア(妄想性障害)という精神病は、その急性期においては精神自動症や言語性幻覚などと呼ばれる意味不明な幻聴が発生しますが、これらは多くの場合、患者が何らかの社会的責任(昇進・結婚・妊娠)を引き受けた時に発症することが臨床上、確認されています。「社会的責任を負う」とはまさに自らの父性機能(理性やセクシュラリィティ)を参照するべき場面に他なりませんが、パラノイアの場合、参照すべき父性原理がないが故に、その参照エラーが意味不明な幻聴などの形で返ってくるわけです。また、その安定期においては、よく荒唐無稽な妄想的世界観が患者の口から披瀝されることが少なくないですが、これらの妄想も父性原理の不在を自分なりに補完しようとして作り上げた代替原理ということができます。

このような症状はエディプスコンプレックスの欠落という点から初めて合理的に説明ができるでしょう。すなわちエディプスコンプレックスは精神病圏と神経症圏を分かつ重要なメルクマールであり、換言すれば、人はエディプスコンプレックスを経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するということです。そういう意味からいえばエディプスコンプレックスとはむしろ「引き起こされなければならないもの」といえるのです。

神経症圏と精神病圏の鑑別診断

なお、このように神経症圏と精神病圏を区別することは精神分析の臨床上も極めて実際的な問題となります。例えば精神病圏者に自由連想を施して解釈を投与した場合、父の名の参照エラーが生じ精神病的症状が発症してしまう危険があると言われており、このため通常は分析の前段階の予備面接において、精神病圏と神経症圏の鑑別診断が実施されるわけです。

ただ、誤解しないで頂きたいのは、決して精神病圏の人が神経症圏の人に比べ「劣っている」という意味ではない、ということなんですよ。これらの精神構造の相違は「優劣」ではなく、あくまでも「個性」として理解すべきものだということです。このことはどれだけ強調しても、決してし過ぎることはないでしょう。

こうしてみると、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスは「あれかこれか」という二項対立的な関係に立つものではないことが明らかになります。では両者はどのような関係に立つのでしょうか?

(後編に続きます)

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)

【関連】

精神病圏における〈父の名〉の排除、あるいは3月のライオン: かぐらかのん

「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というキャッチコピーの功罪: かぐらかのん

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posted by かがみ at 01:30 | 心理療法

2016年12月16日

神託的発話としての解釈と根源的幻想の横断、あるいは「この世界の片隅に」



精神分析の過程においては、自由連想がある程度、機が熟した時、分析家が患者の無意識の中を詳らかにすること、すなわち解釈投与が行われます。

とはいえ、どのような解釈が望ましいかは、諸派によって見解が分かれてくるところです。この点、ラカン派における「解釈」とは患者が意識レベルで納得するような「説明による安心」ではなく、むしろ「衝撃による動揺」を与える「神託的発話」であることこそが望ましいとされています。そのような解釈こそが、むしろ患者(主体)のFrustrationを呼び込み、連想過程を胎動させるということをラカン派においては熟知しているからです。

従ってラカン派においては「解釈」の意味は「解釈の解釈」を要する多義的なものであることが多いと言われます。その謎めいた意味作用は主体の内面で反響して、無意識の主体が鳴動し始める。日常的理性的な思考過程が退き、無意識の連想過程がこれに取って代わり欲望を弁証法化させていくことで、ずっといままで主体が言葉にできないまま、不安や症状として、その周囲の堂々巡りに終始していた「何か」を穿っていく。

この辺り、無意識の主体を顕現させるという意味で句読法や短時間セッションと同様の思想が通底しているといえるでしょう。フロイトの言葉を借りれば、「解釈とはその真偽よりも生産的であるか否かが問題」となるわけです。例えば、愛の言葉が多くの場合そうであるように、解釈とは相手の最も深い処、もっと大げさに言えば「いのちそのもの」に突き刺さらないといけない。そういう意味において「解釈とは現実的なものを打つ」ものでなければならない。

こうした過程を経ることで「欲望の主体(=代替可能な象徴的主体)」の中に、かつて母子分離の過程(ラカン派でいう「疎外と分離」)で失われた「欲動の主体(代替不能な現実的主体)」を再び顕現させることが可能となります。換言すれば、現実的なものが言語化、シニフィアン化されていくわけです(ラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールはこれを「干拓」と表現しています)。

これが、フロイトのいう「かつてエスがあったところに、自我を成らしめよ」という言葉の意味するところであり、ラカンがセミナールXI「精神分析の四基本概念」において宣明した「根源的幻想の横断」に他ならない。あるいはもっとシンプルに「〈他者〉からの分離」もしくは「自己実現の過程」とも言い得るでしょう。

さて、また長い前置きになってしまいましたが、そんなことをなんとなく考えているタイミングで「この世界の片隅に」という作品を観て参りました。柔らかいタッチの絵だけれども描写は細密。本作では徹底的な史実研究がされているそうで、穏やかな日常の営みにじわじわと戦争という「異物」が侵入してくる様相が、すずさんの視点から非常に丁寧に描き出されています。このような一つ一つのシークエンスの積み上げが、中盤以降で、物語に圧倒的かつ静かな狂気性を孕ませる動線となっている。

そのひとつの頂点に位置していたのは玉音放送の場面だったと思います。こうの史代さん自身もあの場面は「ヤマ」と考えておられたようで、映画では原作に比べてさらに演出が盛られており、一見かなり唐突な印象さえ与えます。

けれども、あの時を境に、彼女の世界観は、それまでの「私には右手がない(=もう生きている価値がない)」から「私には左手も両足もある(=生きていれば何でもできる)」というように、明らかに変容を被っています。

つまり、あの「玉音」はラカン的な意味での「解釈」として考えるべきなんでしょう。漢文で紡がれる難解極まりないディスクールは図らずも「説明による安心」ではなく「衝撃による動揺」を与える「神託的発話」としてすずさんの無意識に作用し、作品の文脈に沿って言えば一度喪失した「居場所」を回復したといえる。そういう意味で、そこには明らかな「根源的幻想の横断=自己実現」の過程が見て取れるでしょう。

少し穿った視点からの所感となってしまいましたが、普通に観ても「この世界の片隅に」は本当に素晴らしい作品なのは言うまでもありません。「君の名は。」や「シン・ゴジラ」を観て「イヤ、ホント凄く良かったけど、ちょっとね、何か足りないような・・・」と思った人にこそ、この作品は是非見て頂きたいですね。


posted by かがみ at 01:54 | 文化論

2016年11月27日

欲望とは〈他者〉の欲望であること、あるいは米大統領選2016



ラカンの、おそらく最も引用されることが多いであろう言葉の一つに「欲望とは〈他者〉の欲望である」というものがあります。要するに我々が何かを欲しいと思う感情は自分以外の誰かがそれを欲しいと思う感情のコピーにすぎないわけです。例えば、なぜ皆がiPhoneの最新機種を欲しいと思うのかというと、それを皆が欲しがっているからです。あるいは、なぜ誰も路傍に打ち捨てられたゴミを欲しいと思わないのかというと、それを誰も欲しがっていないからです。

精神分析過程において起きる「転移」という現象も、かかる「欲望とは〈他者〉の欲望である」テーゼの一つの臨床的発現として理解可能でしょう。

精神分析は転移によって駆動し展開して行くとすらいえます。転移とは定義的にはかつて過去に両親などに抱いた愛憎の感情が分析関係という「いま、ここ」に投射され反復されることをいいますが、この転移は分析家の「分析主体の無意識を詳らかにしたいという欲望」により発生します。

すなわち、かかる分析家のあくなき欲望を分析主体が自身の欲望としてコピーすることで、それまで彼が無意識下に抑圧されていた過去の感情が分析過程において現前するわけです。だからこそラカンは『精神分析の倫理』において「分析家は己の(分析家としての)欲望に背いてはならない」と主張したわけです。


そういう意味で、先の米大統領選におけるドナルド・トランプ氏のまさかの勝利は、精神分析の観点から言えば、一種の大規模な転移現象とも言えるでしょう。

不法移民やポリティカル・コレクトネスなどに対する、氏の「欲望」を剥き出しにした言葉は大手メディアの四面楚歌を物ともせず、サイレントマジョリティーの「欲望」に火をつけて瞬く間に延焼させていき、ついに「リベラルという理性」を蹂躙することに成功してしまったということです。

氏は数々の放言の一方で、ビジネスマンとしては真っ当な名言も残していますが、これらの共通項を仔細に見るに、そこには意外なことに「公正であること」「前向きであること」「誠実であること」「正直であること」といったトランプ氏なりの人生哲学が垣間見えてくるのは興味深いところです。4度もの破産申請を繰り返し、何度もどん底から這い上がったという印象も有利に働いたのでしょうか。

ドナルド・トランプ氏発言一覧、暴言、名言集(迷言集?)まとめてみた

トランプ氏の暴言は人気取り!その裏にある本当の人柄

ドナルド・トランプの名言

こうして見ると、トランプ氏の言動は『Fate/Zero』の征服王イスカンダルを想起させるものがあります。物語中盤、彼は聖杯問答において騎士王アルトリア(セイバー)の「正しき統制、正しき治世を望むことこそが理想の王の在り方である」という主張を次のように論破します。

「無欲な王など飾り物にも劣るわい!!・・・セイバーよ、”理想に殉じる”と貴様は言ったな。なるほど往年の貴様は清廉にして潔白な聖者であったことだろう。さぞ、高貴で侵しがたい姿であったことだろう。だがな、殉教などという荊の道に一体、誰が憧れる?焦がれる程の夢を見る?聖者はな、たとえ民草を慰撫できたとしても、決して導くことはできぬ。確たる欲望の形を示してこそ、極限の栄華を謳ってこそ、民を、国を導けるのだ!・・・王とはな、誰よりも強欲に、誰よりも豪笑し、誰よりも激怒する。清濁も含めて人の臨界を極めたるもの。そう在るからこそ臣下は王を羨望し、王に魅せられる。一人一人の民草の心に、”我もまた王たらん”と憧憬の火が灯る!(星海社文庫『Fate/Zero3』243頁)」


虚淵玄氏らしい絢爛豪華な表現ですが、後段はまさに「己の欲望に背いてはならない」「欲望とは〈他者〉の欲望である」というラカンのテーゼそのものでしょう。征服王の擁するランクEXの超宝具「王の軍勢」は彼の言葉の具現化と言えますが、今回、トランプ氏を支持したサイレントマジョリティーは氏の欲望に魅せられた「王の軍勢」だったのではないかとも思えるわけです。

これがいわゆるアメリカンドリームなどというものなのか、はたまた単なる悪夢なのかは今の時点では即断できませんが、少なくとも、いち泡沫候補からドンキホーテさながらの徒手空拳で頂点へ上り詰めた壮挙自体については「清濁も含めて人の臨界を極めたるもの」として素直に敬服の意を表するしかないでしょう。

ただ、精神分析においては、転移を発生させた後、これを「解釈」し「操作」しなければならない過程があります。果たしてトランプ氏が、これからこの大規模な転移をどう「解釈」し「操作」するのか、注視していくべきなんでしょう。いまはとりあえず、なんとも目の前に何が出るかわからないビックリ箱を置かれたような感じですね。



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posted by かがみ at 01:00 | 法律関係

2016年10月28日

現実・象徴・想像、あるいは『君の名は。』と『シン・ゴジラ』の間



ラカン派精神分析では、世界を「現実界」「象徴界」「想像界」という3つの異なった位相で把握します。現実界が文字通り、実在する客観的現実であるのに対して、象徴界は言語で構成された世界であり、想像界は意味やイメージといった個人の主観の世界です。我々は「本当の客観的現実」を直視しているわけではなく、常にイメージや言葉によって捉えたものを「現実」だと認識している。ざっくり言うとこんな風になります。


ラカンはフロイトのテクストを構造主義的に解明していった人でして、例えば、フロイトの有名ないわゆる第二局所論、「自我・超自我・エス」もちょうどこの三幅対へ対応している。すなわち、自我は想像界に、超自我は象徴界に、エスは現実界に、といった具合です。


さて、やや面倒な前置きが長くなりましたが、ラカンのこの理論はなかなか便利でして、「現実的なもの」「象徴的なもの」「想像的なもの」という三幅対で文芸作品や社会事象など様々なものを考察することができる。今回はこのラカン的三幅対を使って、「君の名は。」そして「シン・ゴジラ」という、間違いなく今年の日本映画を代表するであろう二大作品を見てみたいと思います。


結論だけを先にいいますと、両作は巨大災厄という「現実的なもの」への対応という点で共通しつつも、綺麗なコンストラストを成しています。すなわち「君の名は。」では「象徴的なもの」を排除することで「現実的なもの」と「想像的なもの」を直結させており、これに対して、「シン・ゴジラ」では「想像的なもの」を抑圧することで「現実的なもの」と「象徴的なもの」を対置させている、かなり圧縮していて言えばそのように言えるでしょう。


ではまず「君の名は。」から見てみますと、これはティアマト彗星という「現実的なもの」と少年少女の関係性という「想像的なもの」が直結しており、いわば本作は「想像対現実の物語」と呼ぶべきものです。

要するに物語の組み方が「セカイ系」なんですよ。クライマックスにおいて、かたわれ時の山頂での邂逅、計画の引き継ぎ、町長である三葉ちゃんの父親の説得、隕石の衝突・・・と場面が遷移していき、全住民が町長の指示により避難訓練を行い奇跡的に難を逃れたと言う結末が8年後の後日談として語られます。ところが、実際の住民の避難の様子については劇中まるで描写されていません。

このシークエンスの不自然な欠落は新海さんのルーツを考えれば、セカイ系に由来するものであることは明らかでしょう。セカイ系の構造的定義はいうまでもなく、「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、世界の危機などといった抽象的な大問題に直結する作品」です。本作では実際に避難を実施した「町長(行政機関)という具体的な中間項」を意図的に排除することで、瀧君と三葉ちゃんの関係性こそが、糸守というセカイを救ったかの如き詩情として立ち現れている。

これに対して、「シン・ゴジラ」のキャッチコピーはおなじみ「現実対虚構」ですが、ラカン的に言えば、巨大不明生物なる「現実的なもの」と政府・官僚組織機構という「象徴的なもの」が対置されており、本文の文脈でいうと「象徴対現実の物語」といえます。

本作は「もしも巨大不明生物が現代日本に出現したら」という一点のみに焦点が絞り切られ、その過程をこれ以上なく細密に描写し尽くすことで、怪獣映画というカテゴリを脱却し、極上のディザスタームービーへの昇華に成功した。その一方、当然の代価としてヒューマンドラマ的な「想像的なもの」に対しては抑圧的な態度をとらざるを得なかったわけです。



さて。このように見てみると、次のようなことが思い切って言えるかも知れません。つまり「君の名は。」がここまでの、まさに歴史的とも言える興行的成功を成し遂げた一つの大きな要因に、公開が「シン・ゴジラ」公開のちょうど約1ヶ月後のタイミングだった点が挙げられる、ということです。

まず先立って「シン・ゴジラ」が公開され、たちまちシリーズ空前の大ヒットを成し遂げた。日本中がこの「理想のプロジェクトX」に酔いしれ、現職国会議員まで巨大不明生物に対処するための法令解釈を大真面目に語るなど「象徴的なもの」に関する言説が津々浦々に溢れかえった。

けどそれは同時に、あの作品が意図的に抑圧した「想像的なもの」に対する欲望を反動形成的に生じさせる契機ともなった。

人の心は二律背反に満ちています。シン・ゴジラが時代のテーゼとして賛美されればされるほどに、「では、市井に生きる普通の個人の想いや絆の力などどうでもいい事なのか」という、そんな問いと共に、奇しくもかつてセカイ系としてオタク的なカテゴリーへと棄却されたはずの「想像対現実の物語」への希求がアンチテーゼとして回帰してきた。


「君の名は。」はそんなタイミングで公開されたわけです。どこにでもありそうな何気ない日常の営みを繊細で瑞々しく切り出していく極彩色の映像美術。徹底されたというシナリオ開発の賜物か程よく濾過されて、いわば一番綺麗な上澄みだけが上手に掬い出されたセカイ系的ナルシシズム。この理想的とも言える「想像対現実の物語」は、いわば「シン・ゴジラ」が切り開いた想像的欲望の空間に対して鏡像的に投影されることで、その感情量は増幅され、大きく反響したのではないでしょうか。


・・・これは勿論、相当に乱暴な印象論であることは承知です。けど、そのくらい両作品が持つ鮮烈なコントラストに共時的な巡り合わせを感じざるを得ない。もちろん「君の名は。」それ単体でも新海作品の一つの到達点というべき素晴らしい作品であることは、疑いもなく、いうまでもないことです。

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posted by かがみ at 22:40 | 文化論

2016年10月11日

精神病圏における〈父の名〉の排除、あるいは3月のライオン

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いよいよアニメが始まり、来年には実写映画を控え、社会現象の兆しも見せ始めている『3月のライオン』。ようやく原作12巻まで読了したので小感を書いておきます。

誠二郎氏の件の後、物語はあかりさんのパートナー探しへと遷移していきます。読んでいて思ったのは、いまの状態は、精神分析でいうところの「〈父の名〉の排除」の状態にあるのではないか、ということです。

もちろんいうまでも無く、誠二郎氏は、これほど漫画のキャラでイライラするクズも珍しいくらい、どうしようもない人間というのは疑いない。故に御本人に同情する余地は微塵もないことは明白で、娘達からの完膚無き拒絶は当然の結末でしょう。

ただ、かと言って、「私たちはこの3人でいい︎」っていう決断は美しくとも同時に相当に危うさをも孕んでいる状況ともいえる。


先に述べました〈父の名〉というのは現実の父親の名前というよりも母親と子供を切り離す「父性原理」ともいうべき一種の精神力動作用です。これが機能していないと、子どもは母親から心理的に自立ができません。具体的にいうと、言語機能に欠損が生じ、精神構造が精神病圏に留まることになる。

例によってラカン派の理論を参照するのであれば、人の精神構造は神経症圏、精神病圏、倒錯圏のいずれかに必ず帰属します。もちろん、これはあくまで精神構造の問題であり症状として発症するかどうかはまた別問題なんですが、ラカン的な意味での「いわゆる一般人」というのは「症状が顕現していない神経症者」ということになる(現代ラカン派では異論もあります)。

精神病圏とは父性原理の存在しない世界です。これが先に述べた「〈父の名〉の排除」という状態でして、例えばパラノイア患者の諸々の幻覚症状は父性原理の参照に失敗したエラー表示に他ならず、「世界の神になる」とかそういう誇大妄想は父性原理を代替する為に自分なりに作り上げた原理であると理解されうる(妄想性隠喩)。

つまり父性原理の設立により心的な意味での母子分離に成功すれば、子どもの精神構造は神経症圏に遷移し、失敗すれば精神病圏に留まるということになります。フロイトの主張した例の、エディプスコンプレックスなどと言う、一見すると荒唐無稽なストーリーは父性原理設立の神話的表現に他ならないのです。



さてさて。いろいろ長々と回りくどい説明が続いてしまいましたが、要するにはっきり言えば、いまの状況はモモちゃんの発達心理上、非常によろしく無いという事です。

モモちゃんにとってのあかりさんは疑いなく母親で、いい意味で普通の母親以上に母性原理に満ちている。他方、モモちゃんにとっての誠二郎氏は徹頭徹尾、「いきなり闖入したかと思えば、すぐさまつまみ出された『オトウサン』などと呼ばれている、よくわからないオッサン」に過ぎず、父性原理を体現する「父親」にまるで値していない。

要するに問題は目下、あかりさんからモモちゃんを心的に切り離す父性原理を起動させる人物が周りにいないということです。もちろんあかりさんに全然非は無いんですけど、現状このままではモモちゃんはあかりさんの重力圏を脱出できない危険性は極めて高いということです。これは精神分析の見地からのみならず、ユング派からもグレートマザーの脅威として理解可能な事象です。

だから、あえて誤解を恐れずに言うのであれば、早急に探し出さ無いといけないのは「あかりさんのパートナー」というより、「モモちゃんにとっての〈父の名〉」なんですよ。だから多分、羽海野さんはこのタイミングで藤本雷堂と言う、極めて解り易くファルス関数に忠実な「ある父」のエピソードを投入してきたんだと思うんです。

もちろん、藤本棋竜は誠二郎氏と行状こそ多少は似てるけども、対比には全くなってはいません。藤本さんは別居後もきちんと奥さんに生活費を入れて、一応は責任を取り(取らされ?)続けているし、何より御本人が後ろめたさを十分に自覚している。

けどそれでも、この寓話があかりさんとひなたちゃんに与えるインパクトは決して小さくないはずです。騒動の顛末における、あかりさん達のモノローグが仄かしているように「誠二郎は去ったが〈父の名〉という問題自体は全く終わっていない」ということではないでしょうか。

「本当はどうすれば良かったのかな…」

ーなんて問いが

痛みとともによぎるけど

ーどっちにしたって もう

「こっちを選んで正解だった︎」って思えるようなエンディングを目指して

私たちは

精いっぱい泳ぐしかないのだ…

したり顔の「運命」ってやつに

クロールのふりをして

「グー」でパンチを浴びせてやるその日迄……!︎

(Chapter.123)


そういうわけで、11巻が徹底した「〈父の名〉の排除」の物語だとすれば、12巻は「〈父の名〉の探索」へ旋回していく為の過渡期の話だったのかなって、そういう風に読めました。最後に出てきたあの人と、ごく普通にフラグも立ちましたし、月並みな結語ですが、これからの展開が楽しみです。
posted by かがみ at 01:27 | 文化論