【参考リンク】

現代思想の諸論点

精神病理学の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2022年06月23日

世界の謎から日常の問題へ−−カント哲学と思弁的実在論



* 近代的意味での有限性としての「理性」

「近代」とは人間の新たな意味での「有限性」が発見された時代であるいえます。すなわち人間はその理性的認識の範囲内でしか世界を捉えることができないという意味での有限性です。18世紀末、こうした近代的意味での有限性を初めて明晰に分析したのがイマヌエル・カント(1724〜1804)の「純粋理性批判(1781)」です。

近代における「理性」は17世紀、ルネ・デカルトにより神の後見の下で見出されることになりましたが、18世紀になると神の後見によらずして「理性」を基礎付けることができるのかが問題となりました。つまり、これまでは神的理性によって支えられていたからこそ、人間理性と世界の合理性との調和が保障されもしたわけなのですが、そうした神的理性による媒介がないとすれば、この想定された調和には何の根拠もあり得ないことになるからです。

この点、イギリスにおける経験主義は、我々の持つ観念とはすべて経験的観念だと考えようとしました。しかしそうした考え方からすると数や幾何学といった観念も「たまたまそうであった」という蓋然的事実でしかない事になります。これに対してカントは神的理性の媒介を拒否しつつも我々の理性的観念に基づく認識と世界の合理性の調和を保証すべく、理性の超越論的機能の新たな基礎づけを行いました。

この点、カントによれば、理性が認識できるのは、決して対象それ自体の姿としての「物自体(Ding an sich)」ではなく、その認識の中で現れてくる「現象(Erscheinung)」でしかあり得ません。すなわち、理性は「物自体」に由来する色々な材料を受容し、整理統合することで「現象としての世界=現象界」を構成します。

この点、カント哲学においては物自体に由来する材料を「空間・時間」といった「直観の形式」により受容する能力を「感性」といい、受容した材料を「量・質・関係・様相」といった「思考のカテゴリー」により整理統合する能力を「悟性」と呼びます。そして、この感性と悟性により創り上げられた「現象界」だけに限れば、確かに我々の理性は世界を確実なものとして認識していることになります。

こうしてカントは、一方において古い独断的な形而上学を葬り去り、数学や物理学といった近代自然科学の普遍的妥当性を基礎付けるとともに、その一方において人は「現象界」の外部にある「物自体」への接近不可能性という近代的意味での有限性を示したことになります。

* 思弁的実在論とは何か

そして、カント以降において近代哲学には一つの暗黙の前提が作られることになりました。すなわち、人間は決して対象の実在それ自体を認識することはできず、人間固有の認識装置を通じてのみ対象は表象として認識されるということです。こうした近代哲学が築き上げた暗黙の前提に反旗を翻す現代哲学における新たな実在論が「思弁的実在論」と呼ばれる潮流です。

思弁的実在論(Speculative Realism)とは狭義には2007年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて行わ れた同名のワークショップの登壇者であったカンタン・メイヤスー、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマンら4名の思想の総称を指していますが、広義には同ワークショップを発端に生じた今世紀初頭の大陸哲学における実在論的潮流をいいます。

それは我々が生きるこの世界を構成する客観的な事物としての「実在」それ自体を、従来の実在論とは異なった「思弁的」といえる奇妙な理路によって捉え直すという新種の実在論です。こうした潮流はフランス現代思想の系譜において「構造主義」「ポスト構造主義」の後にくる、いわば「ポスト・ポスト構造主義」に位置付けられます。

* 相関主義の乗り越え

思弁的実在論において共有される問題意識は、その筆頭的立場にあるメイヤスーのいうところの「相関主義」の乗り越えにあります。

近代西洋哲学においては、カント以降、「存在(対象)」が何であるかは「思考(認識)」との関係によってのみ明らかにされるという前提が広く共有され、思考と存在の一方の項目だけにアクセスすることはできないと考えられるようになります。こうした近代哲学における思考と存在の相関関係をメイヤスーは「相関主義」と呼びます。

そしてメイヤスーは「相関主義」を前提とすると、思考不可能な「実在」の位置に任意に代入した非合理・非常識な命題こそがまさに世界の真実であるなどと主張する陰謀論的な「信仰主義」に対する反駁が困難となり、その帰結として(悪い意味での)ポストモダン的「相対主義」がもたらされるとします。

*「ただあるだけ」のこの世界

これに対してメイヤスーはこうした「相対主義」に対して常識的な自然科学的世界像を擁護するための理論を提示します。けれどもその理路は極めてアクロバティック=思弁的なものとなります。

まずメイヤスーは世界を構成する事物は人間の言語による意味づけとは無関係に、ただ端的な「実在」として客観的に存在しており、そしてそれは一義的に、つまり唯一の真理として「これはこういうものだ」といえるといいます。そしてこうした「実在」の客観性はメイヤスーによれば、唯一、数理的記述によって思考可能だとされます。

このようにメイヤスーは数理的記述こそが世界の揺るぎない客観性だというのですが、その一方で、まさにその世界の客観性を保証するために、メイヤスーはこの世界が現にこのようなあり方をしているという事実には全く必然性がなく、世界はたまたま偶然的にこうなっているのであり、木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則もすべては実際に崩壊し、世界は突然別様のものに変わるかもしれないという恐ろしく思弁的な主張を持ち出します。

すなわち、この世界のあり方に仮に必然性があるのであれば、世界には隠された存在理由(充足理由律)があるはずですが、メイヤスーはその存在理由が消去された完全に乾き切った「ただあるだけ」のこの世界を捉えます。そしてメイヤスーは自然科学的な世界像はこうした「事実論性の原理(非理由律)」によって哲学的に正当化できると考えました。いわばメイヤスーにおいては(悪い意味での)ポストモダン的相対主義に対して、より高い次元での相対主義をもって対抗する理論であると言えるでしょう。

* 否定神学システムとしてのラカン派精神分析

こうした議論を日本の現代思想シーンの中に位置づけるのであれば、それはおそらく、東浩紀氏が「存在論的、郵便的」において提出した否定神学システム批判に相当するでしょう。

ここでいう否定神学システムとはラカン派精神分析に代表される構図のことを指しています。この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは主体の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相によって把握します。「想像界」とはイメージの境域であり「象徴界」とは言語の境域であり「現実界」とはイメージや言語によって捉えることが不可能な境域です。

そしてラカンによれば「想像界」は「象徴界」により統御されており、その「象徴界」は「現実界」という「外部=穴」によって駆動しているという構造となっています。

こうしたラカン的構図は、カント哲学の現代版ともいます。つまり人の認識構造における「感性」が「想像界」に相当し「悟性」が「象徴界」に相当します。そしてこうした認識構造によって捉えられない領域としての「物自体」が「現実界」に対応しています。

* 世界の謎から日常の問題へ

こうした意味でメイヤスーのいう相関主義とは、東氏のいう否定神学システムとほぼイコールとなります。そして、こうした相関主義=否定神学システムに対する抵抗の拠点をメイヤスーは客観的な事物としての「実在」に求め、東氏はコミュニケーションの失敗としての「誤配」に求めたとひとまずはいえるでしょう。そして、そこにはかつてカントが見出した近代的な意味での有限性とは別の有限性が見出されることになります。

無限の解釈の外部へ向かうということ。日々の偶然性を肯定するということ。こうした世界像の中には世界の謎から日常の問題へと折り返していく主体のあり方を見出す事ができるでしょう。そしてそこには、決して辿り着けない「ここではないどこか」を目指して永遠に空回りする悲劇としての有限性ではなく、さしあたりの「いま、ここ」から別な「いま、ここ」へと跳躍する瑞やかな歓びとしての有限性が見出せるのではないでしょうか。
















posted by かがみ at 21:02 | 精神分析

2022年05月27日

神の存在証明と真理の在り処−−デカルト哲学と精神分析



* Cogito ergo sum

近代哲学の創建者、ルネ・デカルト(1596〜1650)は、その主著『方法序説(1637)』『省察(1641)』において、当時の主流派であったスコラ哲学における有機体的自然観に抗い、いまだ傍流であった数学的認識による機械論的自然観を哲学的に擁護することで、来るべき近代自然科学の未来を切り拓きました。

ここでデカルトの取った方法論が有名な「方法的懐疑」と呼ばれるものです。彼は「いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥けていき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちに残らぬであろうか」という問いを立て、まず我々の外的器官の教える外界の存在を疑い、次に我々の内官の教える自らの肉体の存在を疑い、さらには「2+3=5」といった数学的認識のような理性の教える法則さえも疑ってゆきます。

こうしてデカルトは世界のあらゆる一切を懐疑の坩堝の中に投げ込み、もやは「世界のうちには何ものもなく、天も地も、精神も身体も存在しない」という極限の境地において、世界のあらゆる一切を疑い続けるこの「私」だけは疑いなく存在するという確信を得ることで、今日において「私は考える、ゆえに我は存在する(Cogito ergo sum)」という言葉で広く知られるあの真理に到達しました。

* 理性の条件としての狂気

今日においてデカルトといえば、近代的主体を基礎付ける「理性」を確固たるものとして基礎付けた人のように思われていますが、実際のところ、デカルトは徹底的に「懐疑」することで「狂気」の中からかろうじて「理性」を取り出してくるという逆説的な手続きをとっています。

何か最高に有能で狡猾な欺き手がいて、私を常に欺こうと工夫を凝らしている。それでも、かれが私を欺くなら、疑いもなく私もまた存在するのである。できるかぎり私を欺くがよい。しかし、私が何ものかであると考えている間は、かれは、私を何ものでもないようにすることはけっしてできないだろう。それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。「私は在る、私は存在する(Ego sum,ego existo)」という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である。(『省察』より)


ここでデカルトが言っているのは、コギトとは「自分は狂気に取り憑かれているかもしれない」と徹底的に「懐疑」しているまさにその瞬間としての「いま、ここ」限りで「真」といえる刹那の拍動でしかないということです。

* 方法的懐疑と他者の欲望

フランスの精神分析家、ジャック・ラカンはこうしたデカルトの「方法的懐疑」のプロセスの中に精神分析の本質を考えるための手がかりを見てとっていました。デカルトが「懐疑」の中からかろうじて「コギト」の拍動を取り出したように、精神分析の主体もまた「懐疑」の中からかろうじて「無意識」の拍動を取り出しているからです。

もっともデカルトはその思考の中で言語の問題をほとんど考慮に入れていませんが、ラカンのいう精神分析の主体とは、とりもなおさず「言語という環境」の中で語る主体をいいます。

この「言語という環境」をラカンは〈他者〉といいます。この点、この世に生を受けた子どもはまずは母親的存在(養育者)との関係を通じて〈他者〉の領域に参入します。人間は極めて未発達の状態で生まれてくるが故に母親的存在(養育者)という〈他者〉の世話なくしてその生命を維持できません。そのため、この〈他者〉が何を考えて何を望んでいるかという「〈他者〉の欲望」は子どもにとっては生存に関わる真摯な問題となります。ここから「〈他者〉の欲望」を満たす存在でありたいという子ども自身の欲望が起動します。

それゆえラカンにおいては「人間の欲望とは〈他者〉の欲望」であると定式化されます。そして、ここでいう〈他者〉の機能を担うのは特定の個人のみならず、より一般的に社会全体を〈他者〉として捉えることもできます。

我々が行う選択の数々には大なり小なり「〈他者〉の欲望」が反映されています。こうした意味で「〈他者〉の欲望」とはある程度、我々の社会的な「正しさ」を担う真理の場として機能します。けれども「〈他者〉の欲望」を絶対視してしまうと、それは時として、我々を様々な病理や生きづらさで呪縛することがあります。

*〈他者〉としての神

ではデカルトにとっての〈他者〉とは誰だったのでしょうか。それは言うまでもなく『省察』において彼が存在証明を行なった「神」に他なりません。

もっともデカルトの中で〈他者〉は当初「欺く神」や「悪霊」という形で出現します。デカルトは数学的認識のような理性の教える法則を疑う段階において「欺く神」や「悪霊」といった存在が誤謬を真理だと思い込むよう誘導しているではないかと懐疑することで数学的認識をも究極的には不確かなものであると断じ去っています。

ここでデカルトは、果たして神がこのような誤謬を真理だと思い込むよう誘導するような悪意を持っているのかという「〈他者〉の欲望」をめぐる問いに直面しています。それゆえにデカルトはかろうじて確立したコギトを立脚点として「欺く神」でも「悪霊」でもない信頼に値する神は果たして存在するか否かという「神の存在証明」に向かいます。

* 神の存在証明

デカルトによる「神の存在証明」はおおよそ次のように進みます。まず二つの方法(観念に含まれる事象性による証明と「私」という存在の因果性による証明)で神の存在証明が行われます。続いて神の本質としての無限性を根拠にその至上の完全性が論証されます。

当然ながら、この神の完全性の論証の中には神の悪意の否定が含まれています。畢竟「欺く」という行為は不完全なものであり、不完全なものは神ではないということです。そしてここからデカルトは神の存在論的証明を経由して、その帰結として神の実在と善性を証明します。

こうしてひとたび神の実在と善性が証明された以上、神こそが真理と理性の最終根拠となるとともに、理性による真理への到達が保証されます。こうした観点からデカルトが唱えたのが、あまねく真理は神の意志によって決定されるという「永遠真理創造説」と呼ばれるものです。

すなわち、デカルトにとって真理とは、どこまでいっても「〈他者〉の欲望」以外の何者でもありません。〈他者〉としての神が望むのであれば「2+3」は5ではなく、もしかして-7だったり2√3だったりすることもあり得るということです。

* 真理の在り処

こうしてみると精神分析とは、ある地点までは(本来の意味での)デカルト主義的な営みであるけれども、その着地点はデカルトとは正反対であるといえるでしょう。

精神分析における分析主体にとって〈他者〉の役割を仮に果たすのは分析家ということになります。もちろん分析家は別に神の如く何もかもを知っているというわけではありません。分析家はあくまでも「知を想定された主体」である仮の〈他者〉として分析主体の前に現前します。

そして最終的に分析家が「知を想定された主体」の位置から転げ落ちるまさにその時に、精神分析は終結します。すなわち、それは分析主体にとって世界を意味付けなおす固有の真理を分析主体自身の中に見出すことができた時に他なりません。

デカルトと精神分析の主体は世界の自明性への「懐疑」という点においては一致しており、デカルトは神に、精神分析の主体は分析家に、それぞれ真理の場としての〈他者〉=知を想定された主体を仮託した点でも一致します。

もっともデカルトは一度は「〈他者〉の欲望」を問い直しながらも、最終的に真理の在り処を神という名の万能機関に丸投げすることで「〈他者〉の欲望」に従属してしまいました。これに対して、精神分析における真理の在り処とは、いわば「〈他者〉の欲望」を一旦は完全に投げ棄てることによって初めて創出される特異的な意味(ないし無意味)の中に見出されるということです。













posted by かがみ at 01:53 | 精神分析

2022年04月26日

自閉症スペクトラム障害とデータベース文学



* 自閉症文学としてのアリス

児童文学における不朽の名作「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」という稀有な作品を生み出したルイス・キャロル(本名:チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)は1832年、イギリスのダーズベリーに11人兄弟の第3子長男として生を受けました。ドジゾン家はアイルランド系の牧師の家庭であり、キャロルも敬虔なキリスト教徒でしたが、のちに英国国教会の儀礼主義への疑義を持って以降、生涯にわたり宗教的葛藤を抱えていたとされています。

長じてオックスフォード大学クライスト・チャーチカレッジに入学したキャロルは、特に数学に関して優秀な成績を収め24歳から同校の数学講師を務め、1898年に66歳で亡くなるまで終生大学寮で生活しました。そして同校の学寮長ヘンリー・リデルの娘であるアリスとの交流の中で「不思議」と「鏡」の物語は生み出されました。

近年においてキャロルは「自閉症スペクトラム障害」であったことが指摘されています。自閉症はかつて子どもの精神病とみなされていましたが、1970年代になると自閉症は精神病とは異なる脳の器質的障害と認識されるようになります。

さらに1980年代以降、古典的な自閉症である「カナー症候群」とその診断基準を部分的に満たす「アスペルガー症候群」を「スペクトラム(連続体)」として捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-X)」において両者は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」として統合されることになります。

ASDの特性とは端的にいうと「社会的コミュニケーションの持続的障害(場の空気が読めない)」と「常同的反復的行動・関心(独自のこだわりに執着する)」という2点から成り立ちます。

この点、キャロルの場合、アリスをはじめとするリデル家の少女の写真を執拗に撮って回り、リデル夫人の不興を買うもまったく意に解さず、あまつさえカメラをリデル家に置きっぱなしにしていたというエピソード(場の空気が読めない)や、鉄道模型の時刻表を自作したり、文通、来客、招待といった交流関係を逐一記録するというエピソード(独自のこだわりに執着する)が知られています。


*〈他者〉の回避

このようなキャロルのエピソードからは一つの傾向性を見出すことができます。それは端的にいうと制御不能なものとしての〈他者〉の回避です。そして、この〈他者〉の回避という視点から自閉症(ASD)の構造を捉えたのが、ロジーヌ・ルフォールとロベール・ルフォールの夫妻です。

1954年にフランスの精神科医ジャック・ラカンのセミネールにおいて自閉症の子どもの症例を発表して以来、50年以上の長きにわたりラカン派の自閉症研究を主導してきたルフォール夫妻はその集大成的な著作「自閉症の区別(2003)」において〈他者〉の回避という視点を導入することで、自閉症を神経症・精神病・倒錯という従来のラカン派の鑑別診断に還元不可能な「第四の構造」として捉える立場を打ち出しています。

この点、ラカンによれば子どもは〈他者〉の世界に参入することで主体化を果たすとされています。ここでいう〈他者〉とはまずは「母国語」という言語秩序(=象徴界)のことであり、次にこうした言語秩序の外部(=現実界)から到来する「まなざし」や「呼び声」といったラカンのいう「対象 a 」を指しています。そして、こうした〈他者〉を徹底して回避することによって自身において制御ないし計量可能な、いわば〈他者〉なき世界を作り上げるという構造が自閉症においては見出されるということです。


*「表面」の作家としてのキャロル

こうしたキャロルに見出される自閉症的な構造は「不思議」や「鏡」といったアリスの物語にも反映されているといえるでしょう。この点、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは「意味の論理学(1969)」において、キャロルを「表面」を体現する作家として位置付けています。

同書はその第13セリー「分裂症と少女」を境に前半と後半に分けられます。その前半では「意味=出来事」に規定された世界の「表面」の位相が論じられ、その後半では「表面」の下部構造としての「物体」に規定された世界の「深層」の位相が論じられます。

なお「意味=出来事」における命題の「真/偽」を判定する場が「表面」の上部構造である「高所」になります。そして、このような高所・表面・深層というドゥルーズの三層構造は神経症・倒錯・精神病というラカン派の鑑別診断に概ね対応するとされます。

同書においてドゥルーズはアリスの物語におけるキャロルの言葉遊びを取り上げ「意味=出来事」の本質とは「無-意味(ノンセンス)」であるというテーゼを提出します。例えばキャロルの造語である「スナーク」は「スネーク(蛇)」や「スネイル(蝸牛)」や「シャーク(鮫)」になったりと様々に生成変化します。

この点、ドゥルーズによれば特別な造語でなくとも「表面」においてはあらゆるシニフィアンは潜在的には「無意味(ノンセンス)」であり、そのコンテクスト次第で多方向に意味を発散させていくとされます(接続過剰)。これはラカンにおけるシニフィアン連鎖、デリダにおけるエクリチュールに相当する議論です。

そして、このような語の生成変化を規定する超越論的シニフィアンとして、ドゥルーズはひとつの〈裂け目〉を想定します。つまりキャロル的表面はこの〈裂け目〉が様々に駆け巡ることによって産み出されている事になります。

こうした〈裂け目〉がさらに裂ける=多孔化/複数化した世界が「深層」です。「深層」とはもはや「無-意味」すら生み出さない「非-意味」的な断片としての事物それ自体だけの世界です(切断過剰)。ここでドゥルーズが「深層」を体現する作家として位置付けたのが現代演劇に絶大な影響を与えたとされる作家、アントナン・アルトーです。

アルトーの文学はキャロル的な「無意味(ノンセンス)」を生産しない一方で「非-意味」的な断片によるメレオロジー的なまとまりを形成します。そして、ドゥルーズはこのようなまとまりをアルトーに倣い「器官なき身体」と呼びます。


* 深層の言葉と表面の言葉

「意味の論理学」においてドゥルーズは第13セリーの最後で「キャロルの全てを引き換えにしても、われわれはアントナン・アルトーの一頁も与えないだろう」と述べアルトーを称賛します。けれども、その直後、すぐさまに「(キャロルが描く)表面には、意味の論理のすべてがある」とも述べています。

このように「意味の論理学」の時点ではドゥルーズのキャロルに対する評価はある種の両義性を孕んでいます。けれども「意味の論理学」以降、ドゥルーズ哲学はアルトー的な「深層」を拒絶しキャロル的な「表面」を偏愛する方向に向かっていきます。

そして晩年のドゥルーズは「批評と臨床(1993)」において、キャロルは「表面」の言語を獲得することで「深層」から華麗に逃れることができたといいます。そしてドゥルーズはこうした「表面」の言語によって書かれた文学こそが、文学の描く世界のすべてになりうるとまで断言しています。


* アリスからライトノベルへ

キャロルがアリスの物語の中で駆使する数々の「無意味(ノンセンス)」はおそらくASD的な言語解釈のズレから産み出されたものだったのでしょう。いわばキャロルは言語を「母語=〈他者〉」ではなくある種の「情報の束=データベース」として読み出していたと思われます。そして、こうした「データベース」としての言語で紡がれたアリスの物語をドゥルーズは「表面」の言葉として称賛したのでした。

この点「批評と臨床」においてドゥルーズは、キャロルの他に、やはりASDの特徴を持つレーモン・ルーセルやルイス・ウルフソンといった作家を評価しています。彼らはアルトーのように言語の「深層」に魅入られるのではなく、言語の「表面」をある種のデータベースとして捉えて、その内側からハッキングすることで転覆させようとしました。そしてドゥルーズは、このような言語のハッキング、すなわち「言語をその慣習的な轍の外に引きずり出す」ことこそが、現代において「言語を狂気させる」ことに他ならないと述べています。

ここには、いわば「データベース文学」とでも呼べる文学観があります。この点、東浩紀氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において近代的な「大きな物語」が衰退したポストモダンにおいては、ポップカルチャーのデータベースから形成される人工環境に依拠した文学が台頭するといい、その典型例として氏は1990年代以降、文芸市場でその存在感を急速に強めてきた「ライトノベル」と呼ばれる作品群に注目していました。

こうしてみると、ライトノベルという文芸ジャンルは現代における「データベース文学」の一大潮流として捉えることが可能であり、翻ってアリスの物語はライトノベルの先駆的作品として読むことができるように思えます。











posted by かがみ at 22:32 | 精神分析

2022年03月25日

訂正可能性と誤配可能性



*「存在論的、郵便的」における固有名論

フランスの哲学者、ジャック・デリダ。一般的には「脱構築」として知られる彼の哲学的活動は60年代前半から始まりました。1967年に出版された「声と現象」「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」という三著作を契機としてデリダの仕事は急速に評価を獲得し、70年代において「脱構築」は一つの知的流行となり、結果的に80年代初めまでにデリダは「ポストモダン」を先導する哲学者の一人として広く認知されるようになります。

ところがその一方、1970年代初頭から1980年代にかけてデリダは「散種(1972)」「弔鐘(1974)」「絵画における真理(1978)」「葉書(1980)」などに代表される極めて難解で実験的なテクストを公刊します。これらのテクスト群は一種の哲学的パフォーマンスとして受け止められ、デリダ研究の中でも長らく見て見ぬふりをされてきました。

こうした中で、この時期のデリダのテクストに光を当て、独創的な〈超〉デリダ論を展開したのが東浩紀氏の「存在論的、郵便的(1998)」です。同書で氏は「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という素朴な問いを梃子として、デリダの「脱構築」をゲーテル的脱構築(否定神学的脱構築)とデリダ的脱構築(郵便的脱構築)に分けた上で、後者をハイデガー的思考への抵抗として位置づけると同時に、その背後にあるフロイト的思考の影響を突き止め、後期デリダのテクストを精神分析における「転移」のメカニズムから読み解いていきます。

こうした同書の展開の中で幾度となく再浮上を繰り返す一つの議論があります。すなわち、それは「固有名」をいかに扱うかという議論です。いわば同書の裏テーマともいえるこの議論はいかなる哲学的射程を持っているのでしょうか。

* 記述主義と反記述主義

1960年代まではゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルが提唱した記述理論によって「固有名」とは縮約された確定記述の束と見做されていました。例えば「アリストテレス」という固有名を我々は通常、その名が「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった様々な確定記述の束のいわば短縮形として用いられます。従って、ここでは固有名の指示対象とは、それら確定記述の束により決定されると考えられています。つまりここで固有名はあくまで言語体系の内部に位置しています。こうした立場を「記述主義」といいます。

しかしアメリカの分析哲学者、ソール・クリプキは70年に行われた「名指しと必然性」という講義において、この記述理論に重大な欠陥があることを指摘しました。例えばいま「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」という新事実が判明したとします。記述理論に従えば、その時我々は「『アリストテレス=アレクサンダー大王を教えた人』はアレクサンダー大王を教えていなかった」という論理的に矛盾した命題に直面します。

このように「アリストテレス」という固有名は少なくとも「アレクサンダー大王を教えた人」という確定記述とイコールではない。そして極論すれば「アリストテレス」に関するありとあらゆる確定記述を覆す事実が判明したという想定も可能です。けれども、それでも我々はその人を「アリストテレス」と呼ぶはずです。そうだとすれば結局「アリストテレス」なる固有名は常に確定記述の束に還元できないということになり、ここで記述理論は破綻します。

固有名は確定記述の束に還元されないというクリプキの命題は固有名はつねに、ある「剰余」が宿っていることを意味します。すなわち、固有名に宿るその剰余こそが「アリストテレス」という固有名の確定記述への還元不可能性を支えています。こうした立場を「反記述主義」といいます。

我々はあらゆる確定記述について、常にそれが否定された別の可能世界を想定することができます。そして固有名の同一性はそれら全ての可能世界を貫き維持されています。これは固有名の中に、いかなる言語内翻訳にも従わない非言語的な残余が存在することを意味します。その残滓をクリプキは「固定指示子」と呼び、言語外で生じた力の痕跡として説明しました。ここでは固有名には言語体系の外部としての「現実」が侵入すると想定されていることになります。

* 固有名の剰余の根拠

では、このような「剰余」はいつ固有名に宿ったのか。クリプキはその源泉を、最初の「命名行為」に求めました。そしてその痕跡は固有名の上に「固定指示子」として宿り、その言語外的な出来事の記憶は言語共同体における「伝達の純粋性」によって担保されます。

これは極めて荒唐無稽な想定です。もっともクリプキにせよそんな「現実」が実在すると主張したいわけではありません。言い換えれば、クリプキは記述理論を脱構築した結果、その理論的思考の残余=脱構築不可能なものについて語るために、彼は「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといった非現実的な神話を必要としたわけです。ここでは「語れるもの=確定記述」はすべて脱構築可能である以上、その剰余については「語れないもの」として語るしかないという否定神学的な思考運動が内在しています。

この点、スラヴォイ・ジジェクはクリプキの固有名論をラカン派精神分析の理論から読み直しています。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは主体の精神構造を「想像界(認識)」「象徴界(記号)」「現実界(剰余)」という三つの境域から考察する精神分析理論を創出したことで知られています。そしてジジェクによれば、固有名の剰余の根拠とは実証科学的な「現実」の中ではなく、ラカンのいう「現実界」にこそ求められなければならないとします。

すなわち「象徴界」を構成する「シニフィアン(表象)」から「シニフィエ(意味)」への循環運動はゲーテル的亀裂を抱え込んでおり、そこには必ずひとつの「他のシニフィエに送り返すことのできないシニフィアン=シニフィエなきシニフィアン」が存在します。これこそが「象徴界」の外部たる「現実界」に対応する特権的シニフィアンであり、固有名とはまさにその特権的シニフィアンとして機能するがゆえに、シニフィエ(確定記述)に送り返すことができないことになります。

つまり「アリストテレス」という固有名の剰余は、象徴界全体の不完全性により保証されていることになります。したがってそこでは特定の名が生まれる「現実」的な事情は、そこに宿る剰余とは何の関係もないわけです。そうであれば、固有名に宿る剰余を保証する「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといったクリプキの神話の想定は不要となります。

ここで固有名の剰余はもはや、個々の名に宿るとは考えられず、むしろラカンが「対象 a 」と呼ぶ主体の欠如の相関物として解釈されています。象徴界における不完全性=欠如を埋めるために主体は常に「対象 a 」を必要とし、社会的にはスターリズムにおけるスターリンのような崇拝対象、フェティッシュとしての貨幣、コカコーラなどの呪術的商品がその「対象 a 」として機能しています。つまり固有名の剰余の根拠について、クリプキが剰余の根拠を固有名の側に「固定指示子」として見出しましたが、ジジェクは固有名を受け取る側に「対象 a 」として見出したということです。こうして、クリプキの議論が宿していた否定神学性は、ジジェクが加えたこの洗練によって完成します。

* 固有名の訂正可能性

その一方で、クリプキの議論は別の角度から読み直す事ができます。クリプキは例えば「一角獣」といった空想の存在の固有名に剰余が宿ることを認めません。なぜなのでしょうか。

例えば「アリストテレス」という固有名であれば「実はアリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」などといった可能世界を必要とします。しかし「一角獣」という固有名には「実は一角獣は実在していた」などといった可能世界は必要としません。

なぜならクリプキにおいて「一角獣」が存在するかどうかは事実の問題ではなく言語の問題だからです。問題は「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が現実にいるかどうかではない。たとえ「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が明日発見されたとしても、我々はそれを「一角獣と全く同じ性質を持つ実在の動物」と呼ぶだけです。我々はそもそも「一角獣」という固有名を「いつの日かそれが発見されるかも知れない」という想定で使用していないのです。

つまり、ここでは可能世界の要否とは固有名の「訂正可能性」に対応していることがわかります。我々は「アリストテレス」という固有名と同時にその諸々の確定記述が訂正可能であるという前提も受け取っています。だからこそ「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という事後的訂正が可能となり、そこから遡行的に固有名の「剰余」が見出されます。しかし「一角獣」という固有名について我々は訂正可能であるという前提を受け取っていません。従って「一角獣」という固有名に剰余は宿らないということになります。

つまり固有名に剰余が宿るか否かは、その名に「訂正可能性」があるかどうかという伝達経路、すなわちコミュニケーションの社会的文脈によって規定されていることになります。

クリプキは固有名の剰余を説明するために最終的に「命名儀式」という非現実的な神話を持ち出しました。しかし以上の議論は固有名の剰余そのものが転倒の結果であることを教えています。

固有名の剰余とはもともと確定記述を訂正する根拠として仮設されたものですが、もしその訂正可能性がコミュニケーションの社会的文脈の中で規定されるのであれば、確定記述を訂正する根拠は固有名そのものではなく、むしろそのコミュニケーションの社会的文脈に見出されなければならないわけです。

つまり「アリストテレス」という固有名が流通するコミュニケーションの社会的文脈が、まずその訂正可能性を規定します。その訂正可能性から複数の可能世界が構成された結果、そこから事後的に全ての可能世界に共通する「アリストテレス」という固有名に元々「剰余」があるかの如き錯覚が生じていることになります。

* エクリチュールにおける誤配可能性

こうしたことから、東氏は固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界論と、伝達経路の脆弱さについて語るデリダのエクリチュール論を接続し「コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせる」という命題を導き出します。

この点、クリプキの可能世界論における確定記述の束に対する固有名の剰余=単独性の関係は、デリダのエクリチュール論における「多義性(パロールによって記述可能な意味の複数性)」に対する「散種(多義性に回収されたないエクリチュール固有の意味の複数性)」の関係と理論的にほぼイコールです。様々な伝達経路の中で固有名に事後的に「剰余」が生じるように、様々なパロールの中でエクリチュールに事後的に「散種」が生じるわけです。

そして、ここでいう「エクリチュール(綴り字)」とはコミュニケーションの誤配可能性一般を意味しています。氏はデリダはコミュニケーションをしばし「郵便」の隠喩で捉えているといいます。情報の伝達が必ず何らかの媒介を必要とする以上、すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故=誤配の可能性に曝されています。デリダにとってコミュニケーションとはその種の事故の可能性から決して自由になれない「あてにならない郵便制度」なのです。そして、このような不完全な情報伝達の媒介を「エクリチュール」といいます。

つまりここで「アリストテレス」という固有名=エクリチュールは、様々な伝達経路=郵便空間を通り抜け、我々の前に配達=誤配されてきた複数の名の集合体として理解される事になります。

そこでは様々なコミュニケーションの誤配の結果、必然的にそこでは複数の確定記述のあいだで矛盾が生じたり、その一部が行方不明になったり、他の名の確定記述と混同されてしまうといった様々な齟齬が生じることになります。だからこそ、それゆえに「アリストテレス」という固有名にはつねに訂正可能性に曝されています。このような固有名の訂正可能性を東氏はデリダの隠喩に倣い「幽霊」と呼びます。

「アリストテレス」という固有名はさまざまな「アリストテレスの幽霊(訂正可能性)」に取り憑かれているということです。そしてそれら幽霊(訂正可能性)は伝達経路の不完全性、すなわちコミュニケーションの誤配によって出現します。そしてこれらの伝達経路を抹消した時に、あの固有名の剰余=単独性が超越論的シニフィアンとして現れるということです。

* ゲーム的リアリズムと幽霊の主題

東氏のデビュー作である「存在論的、郵便的」という著作はその後の「動物化するポストモダン(2001)」「一般意志2.0(2011)」「観光客の哲学(2017)」といった一連の東氏の仕事の「基礎理論」を提示している感もあるテクストです。そしてこれまで述べてきた東氏の固有名論は「動ポモ」の続編である「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」におけるキャラクター論と極めて親和的であるように思えます。

日本は明治期に「言文一致体」を導入し近代文学の歴史を開きました。柄谷行人氏は「日本近代文学の起源(1980)」において「言文一致体」の導入により言語は近代以前の歴史的意味の充溢した「不透明」なものから「透明」なものとなり、ここから「風景」や「内面」といった近代的現実の発見を可能にしたといいます。

以降、長らくのあいだ文学とは風景や内面といった近代的現実を写生する知的営為であると見做されてきました。ところが1970年代以後、戦後児童文化の中で発達した漫画やアニメーションといった現代的虚構を写生しようとする新たなリアリズムが台頭し始めます。

この点、大塚英志氏は「キャラクター小説の作り方(2003)」において、このような「現実の写生」と「虚構の写生」という二つのリアリズムを「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉で対置させました。

こうした「まんが・アニメ的リアリズム」という文学観に支えられた小説の代表格が、1990年代以降の文芸市場において急速に存在感を見せ始めた「ライトノベル」と呼ばれる作品群です。大塚氏はこのような「ライトノベル」と呼ばれる作品群を近代文学における「私小説」との対比から「現実=私」ならぬ「虚構=キャラクター」を写生する「キャラクター小説」であると定義しました。

このような柄谷氏と大塚氏の議論を踏まえた上で、東氏は「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」において「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」の並立を「近代的現実」と「キャラクターのデータベース」というメタ物語的環境の並立として捉え、こうした状況を「想像力の二環境化」と呼びます。

さらに、東氏は前掲書においてライトノベルの中に「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた異なるリアリズムを見出しています。すなわち、キャラクターを基盤として描かれるライトノベルは一つの完結した物語でありながら、それは同時に「同じキャラクターによる別の物語」への幽霊的な想像力を召喚し、それは時としてメディアミックスや二次創作といった形で具現化することになります。こうしたキャラクターのメタ物語性に注目して、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を写し取るリアリズムは「ゲーム的リアリズム」と呼びます。

「ゲーム的リアリズム」とは、ゲームやインターネットといった「コミュニケーション志向メディア」が産み出すメタ物語が小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」を侵食するという境界線上で発生します。こうした状況を氏は「想像力の二環境化」に倣い「メディアの二環境化」と呼びます。

こうした「ゲーム的リアリズム」の概念は固有名の訂正可能性から基礎付ける事が可能でしょう。すなわち、メディアの二環境化(=複数の伝達経路)が同一キャラクターの別の物語(=幽霊)を生み出し、その効果としてキャラクター(=固有名)にメタ物語(=剰余)が生じるという事です。

そして、こうしたメタ物語的環境を読み手と作品との間に挟み込む読解技法を氏は「環境分析的読解」と呼び、従来の素朴な読解技法である「自然主義的読解」と対置させています。自然主義読解が作品に内在する「物語的主題」を読み解くのであれば、環境分析的読解は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていきます。そして時に同一作品において両者はまったく真逆のメッセージを発する事さえもあります。

ここでいう「構造的主題」とは、いわば「作品という固有名」に取り憑いた「幽霊の主題」ともいえます。こうした「幽霊の主題」を取り出す読解は、テクストの最終審級を無効化するような「いわゆる脱構築的批評」とは別の「もうひとつの脱構築的批評」の可能性を開くものではないでしょうか。

















posted by かがみ at 00:03 | 精神分析

2022年02月26日

世界の二重構造と幽霊の審級



* デリダはフロイトの中に何を見たのか

精神分析という営みは19世紀末当時、謎の奇病とされたヒステリーの治療法としてジークムント・フロイトによって産み出されました。その後、精神分析はフロイトの後継者達によって多様多彩な発展を遂げていく事になりますが、創始者フロイトが抱え込んでいた精神分析における「科学」と「精神療法」の間の矛盾は、そのまま米国自我心理学と英国対象関係論という学派的な対立に引き継がれていきました。

こうした中で構造主義的言語学の知見からフロイト理論を徹底的に読み直し「科学」と「精神療法」を統合した強力な精神分析理論を創り上げた人物がジャック・ラカンです。これに対してフロイト理論に真っ向から反旗を翻し、独自の分裂分析を提唱した論客がジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。

ところでラカンが緻密に読み解きドゥルーズたちが苛烈に批判したフロイトをまったく別の角度から読み直していたことで知られる同時代の人物がいます。その人物こそ、ポスト構造主義を代表する論客にして「脱構築」の名で一斉を風靡したフランスの哲学者、ジャック・デリダです。果たしてデリダはフロイトの中に何を見たのでしょうか。


* 「盗まれた手紙のセミネール」と「真理の配達人」

まずデリダは次のようにラカンを批判しています。ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」はラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られています。このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものです。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出しました。

これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないことがありうる」というテーゼを提出します。このデリダのテーゼにおいては「ありうる=確率可能性/反復可能性」という位相が重視されています。素朴に考えても実際、我々は自身の記憶を忘却したり勘違いをしたり、あるいは様々な情報を読み間違ったり書き間違ったりすることが「ありうる」でしょう。すなわち、デリダによればラカンはこの「ありうる=確率可能性/反復可能性」という位相を取り逃していることになります。


* 形而上学システムと否定神学システム

ここでデリダは二重の批判を行なっていることになります。すなわち「形而上学システム」と「否定神学システム」への批判です。

まず「形而上学システム」とは、すべてのシニフィアンからシニフィエへの循環運動は超越論的シニフィエ(形而上学的原理)という最終審級によって担保されると想定する思考です。

ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別されており、この認識構造を図式化すれば底面(オブジェクトレベル)が頂点(メタレベル)によって吊り支えられた円錐構造となります。

例えばプラトン以降の西洋哲学は典型的な「形而上学システム」です。また世の中の様々な法律や理論や思想は形而上学なテクストで記述されています。形而上学的システムは超越論的シニフィエを頂点とした体系的思考を展開します。けれどもいかなるシニフィエも、それは結局シニフィアンによって記述される以上、その体系の中には常に脱構築可能な「穴=ゲーテル的亀裂」を抱え込んでいます。

次に「否定神学システム」とは、シニフィアンからシニフィエへの循環運動の「穴=ゲーテル的亀裂」を発見した上で、この「穴=ゲーテル的亀裂」を「超越論的シニフィアン」で縫合し、全てのシニフィアンの運動をこの超越論的シニフィアンという最終審級へと回収してしまう思考です。

ここではオブジェクトレベルとメタレベルは短絡されており、この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となります。そして、こうした「否定神学システム」の代表例がマルティン・ハイデガーの哲学です。


* ハイデガー哲学が切り開いた境域

ハイデガー哲学は「存在」とは何かを思考します。我々の世界は様々な「存在者」が「存在」することで構成されています。そして、我々は「存在者(オブジェクトレベル)」を思考対象とする事はできますが、その存在者が世界に「存在(メタレベル)」するという思考形式それ自体を思考対象することは定義上不可能とされます(メタレベルはオブジェクトレベルにはならない)。

ところがハイデガーは様々な存在者の中に思考対象(オブジェクトレベル)と思考形式(メタレベル)が折り重なった「二重襞」を持つ特異的な存在者を発見しました。その特異的な存在者こそがまさしく、ハイデガーが「現存在」と呼ぶ我々人間のことです。

「現存在(人間)」は思考対象(オブジェクトレベル)でもあると同時に思考形式(メタレベル)の源泉でもあります。ゆえにハイデガーは「現存在=思考対象(オブジェクトレベル)」について思考する事は間接的に「存在=思考形式(メタレベル)」について思考する事にもなるのではないかと考えました。

このようなオブジェクトレベルとメタレベルを短絡させる二重構造=クラインの管は「実存論的構造」と呼ばれます。

こうした「実存論構造=クラインの管」を可能とする「穴=ゲーテル的亀裂」は「呼び声=実存性の開示」によって開かれます。「呼び声」はクラインの管を循環して、世界(Da)における「穴=ゲーテル的亀裂」をより高次において縫合する否定神学システムを構成します。

ここで「穴=ゲーテル的亀裂」を縫合する「呼び声」とは否定神学システムにおける超越論的シニフィアンの役割を担います。世界(Da)には「穴=ゲーテル的亀裂」が開いています(開示性)。しかしその「穴」が開くことで世界はむしろ閉じられるということになります(覚悟性)。


* ハイデガー哲学の功罪

1920年代における前期ハイデガーは以上のような実存論構造(=否定神学システム)の構造を思考しました。その成果が主著「存在と時間(1927)」における現存在分析です。そして1930年代における後期ハイデガーはこのような実存論構造(=否定神学システム)の成立根拠(=超越論的シニフィアン)へと遡行します。これがいわゆるハイデガーの「転回」と呼ばれるものです。

この点、後期ハイデガーにおいては存在の源泉を現存在には求めるのではなく、むしろ存在こそが現存在の源泉となると考えます。この時期から超越論的シニフィアンに相当する語も発信元不明な「呼び声」ではなく「存在」から「現存在」へ向けて発信される文字通りの「存在の声」と呼ばれるようになり、そこでは現存在分析以前の「存在」そのものが分析されることになります。

問題なのは後期ハイデガーが「存在」の分析において様々な哲学用語(哲学素)を「固有名」として読解した点にあります。その思考は詩的言語に支えられた差異の領域へ遡行し、ある種の神秘主義的なブラックボックス的言説を形成します。この点、ハイデガーの思考はルドルフ・カルナップが批判するように「論理形式の名詞化」を引き起こしています。

そしてハイデガーの影響を受けた1960年代のフランス現代思想シーンは、概ねこの「否定神学システム」の磁場に支配されていました。当時のラカン派精神分析にはその範例的な思考を見出すことができます。

いわば「否定神学システム」は表面的には「形而上学的システム」を脱構築する一方で、その残余=脱構築不可能なものを基礎付けるブラックボックス的言説を経由することで、いわば裏口から「形而上学システム」を再導入してしまう思考ともいえます。


* 存在論的脱構築と郵便的脱構築

ゆえに「真理の配達人」におけるデリダのラカン批判は間接的なハイデガー批判といえます。この点、東浩紀氏はデリダの「脱構築」には二つの側面があると言います。まず一般的に「いわゆる脱構築」として理解されているシステムの最終審級を無効化させる側面(ゲーテル的脱構築)と、次にその「いわゆる脱構築」が取り逃がした「剰余=(脱構築)不可能なもの」を捉えようとする側面(デリダ的脱構築)です。そして、このような後者の「不可能なもの」を捉える脱構築には「否定神学的-存在論的脱構築」と「郵便的脱構築」の2つのルートがあるとされます。

この点、存在論的脱構築にとって「不可能なもの」とは単数的な観念です。そして「不可能なもの」の存在論化においては哲学素の固有名化が利用されるため、その言説は後期ハイデガーのようにかなり秘教じみたものになります。

これに対して、郵便的脱構築は「不可能なもの」を複数的な物質として捉えます。そしてここでは精神分析のメカニズムを応用した哲学素の転移化が利用されます。郵便的脱構築において用いられる転移技法は「古名」の操作と呼ばれます。これはまず⑴ある概念に還元される様々な確定記述が抜き取られ、次に⑵残ったその概念の名を利用した確定記述の「接木/拡張」という二段階で行われます。

こうした「古名」の操作を可能とするのが、あらゆるシニフィアン(表象)に宿る確定記述の束に等置不可能な「剰余(plus)」です。そしてこの「剰余(plus)」はあらゆるシニフィアンと、その背後に取り憑いている「コーラ(=器)としてのエクリチュール」との間に生じる差延から生じることになります。


* 郵便=誤配システム

すなわち、存在論的脱構築も郵便的脱構築も世界(Da)から排除された「不可能なもの」を言語化しようとする点では共通しますが、以下のような相違があります。

ハイデガーの世界(Da)はシニフィアン(存在者)のみで構成されており、そこにはひとつの穴(存在)が空いており、ここからクラインの壺の底面と頂点を短絡させる管=クラインの管を経由して超越論的審級から「存在の声」が降り注ぎます。

これに対してデリダの世界(Da)はシニフィアン(存在者)とエクリチュール(幽霊)の二重構造になっており、その二重性の間から崩落したものがクラインの管が分岐化された空間=郵便空間を経由して「幽霊の声」として再来します。

このように「不可能なもの」を思考しつつ、なおかつ「否定神学システム」から逃れていく思考様式を東氏は「郵便=誤配システム」と呼んでいます。そして、このようなデリダの「郵便=誤配システム」の背景にはフロイトの影響が認められます。

デリダは「フロイトとエクリチュールの舞台(1966)」において、フロイトの著作群の中で「科学的心理学草稿(1895)」と「マジック・メモについてのノート(1925)」という、どちらかというと周縁的なテクストを高く評価しています。そして、ここでデリダが注目したフロイトのテクストからは、ラカンが緻密に読み解きドゥルーズたちが苛烈に批判したエディプス・コンプレックス至上主義者たる「いわゆるフロイト」とは異なる「もうひとりのフロイト」を見出すことができます。


* 経路

まず「科学的心理学草稿」においてフロイトは人の心=心的装置を「知覚表象の保持(=ニューロン)」とその間に張り巡らされた「経路(=ネットワーク)」として捉え、その情報処理の過程を心的エネルギー量の移動によって説明しています。

そして、フロイトは「二次過程(=意識的情報処理)」と「一次過程(=無意識的情報処理)」の差異をその心的エネルギーの流動性から区別します。一次過程の心的エネルギーは二次過程の心的エネルギーに比べて流動性が高く、その経路の途中に障害(例えば外傷的表象)がある場合はより抵抗の低い経路へと迂回/逸脱します。この迂回/逸脱を繰り返す過程で心的エネルギーは圧縮ないし分割されることになります。

すなわち、ここでは無意識における「経路(=ネットワーク)」の複数性が仮定されています。そして、夢・錯誤行為・神経症といった奇妙な表象(無意識の形成物)はこうした無意識における錯綜した情報処理によって形成されることになります。


* マジック・メモ

つぎに「マジック・メモについてのノート」においてフロイトが取り上げた「マジック・メモ」という装置は、暗褐色の合成樹脂あるいはワックスのボードに厚紙の縁を付けて、その上に二層構造のカバー(透明なセルロイドと半透明の薄いパラフィン紙)を取り付けた子供用のオモチャのことです。

この装置に棒や爪などで文字を書くと、その筆圧がかかった箇所ではカバー下層とボードが粘着し、その痕跡が黒い文字として視認できます(カバーが二層に分かれている理由は刺激に弱いパラフィン紙を保護するためです)。そして、その書き込まれた文字を消して新たに文字を書き込みたい場合は、今度はカバーを二層ごとに引き上げ、ボードとの粘着状態を元に戻します。

このような構造を持つマジック・メモにフロイトが注目したのは、この装置の構造が人の心的装置における特性をよく表していたからです。フロイトはカバー下層を知覚-意識系に、ボードを無意識にそれぞれ準えます。

そしてここでのポイントは知覚-意識系(カバー上層)が受容した情報は意識の上では忘却(カバーを剥がした)後も、その記憶は無意識(ボード)に物理的な文字の痕跡として残り続けるという点です。


* 語表象と物表象

この点、フロイトは「無意識について(1915)」という論文で「意識的な表象は物表象とそれに属する語表象を含むが、無意識的な表象は物表象だけである」という重要なテーゼを提出しています。

つまり心的装置は「二次過程(意識的情報処理)」においては「物表象」と「語表象」を用いることで「知覚同一性/思考同一性」という二種類の同一性論理で情報を処理しますが「一次過程(無意識的情報処理)」は「物表象」による「知覚同一性」の論理しか扱えないということです。

一次過程の典型例は我々が夜見る夢を生み出す無意識の作業(夢作業)です。この点、フロイトが「夢判断(1900)」で様々に例示するように、夢は二次過程に属するある表象(日中残余)を再び一次過程(夢作業)に差し戻します。この夢作業の過程で、その表象から語表象の資格が失われて、思考同一性の論理が剥奪されます。それ以降。当該表象は物表象となり、知覚同一性の論理によって分解・結合・圧縮される事になります。それ故に夢においては名詞と論理形式は混同され、論理形式が奇妙な形で名詞化=視覚化されることになります。


* 幽霊の審級

ここまでのフロイトの議論を先述のデリダの議論に接続すると、経路はクラインの管の分岐化に、マジックメモは世界(Da)の二重構造に、語表象はシニフィアンに、物表象はエクリチュールに相当します。

つまり世界(Da)の二重構造によりシニフィアンから引き剥がされたエクリチュールは無意識=郵便空間を経由して「幽霊の声」として回帰することになります。そして、否定神学システムとは、こうした郵便=誤配システムの効果として生じる仮象として処理されます。そして我々の日常的なコミュニケーションやテクスト読解もまた、こうした郵便=誤配システムによって駆動されているといえるでしょう。

こうしてみると真に脱構築的なコミュニケーションやテクスト読解とは「いわゆる脱構築」からイメージされるダブル・バインドの暴露による最終審級の無効化に止まることなく、その先にある「ありえたかも知れない」という「幽霊の審級」とでもいうべきものの出現を目指す営為ということになるのではないでしょうか。

















posted by かがみ at 23:47 | 精神分析