【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集 現代アニメーションのいくつかの断章

2018年07月23日

享楽の在処としての〈もの〉、あるいは神尾観鈴の不安発作



* 不安の時代

ソーシャルネットワークの爆発的普及による情報過多、ライフスタイルの急速な変化、コミュニケーション能力の重視、そして何かと「イノベーション」や「価値創造性」が求められる昨今。

およそ現代は「不安の時代」と言って良いのかもしれません。精神医学的に「不安障害」という診断名がつくかどうかはともかくとして、我々は程度の差はあれ、日々否応なくわき起こる不安とどう向き合っていくかを問われているとも言えます。


* 享楽の在処としての〈もの〉

このような不安という感情はどこから来るのでしょうか?ラカン派精神分析の観点からは、これは〈もの〉の回帰に対する防衛のモードとして理解します。

セミネールZ「精神分析の倫理」においてラカンは〈もの〉という概念を取り上げます。


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〈もの〉とは、人が感覚器官を通じて捉えた外的刺激を心的装置に記録する過程で決定的に取り逃がした「何か」です。

周知の通り、ラカンの有名な標語からすれば「無意識とは言語によって構造化されたものである」ということになります。つまり外的刺激は「言語=シニフィアン」に変換され、言語的な無意識である「象徴界」を構成する。

けれども、この分節化の過程でどうしてもシニフィアンによって補足し切れなかった残滓が生じるわけです。これらが〈もの〉として「現実界」を構成する。

我々は身体に言語を刻み込まれ象徴界の主体として生きている。つまり主体と〈もの〉の間には「言葉」という壁がある。そうである以上、我々は〈もの〉に到達することは不可能です。そこは内的な外部であると言うことになります(外密性)。

この点、象徴界は不快を避けて快楽を追求する快楽原理のシステムで駆動しています。従って〈もの〉とは快楽原理では処理不能な過剰快楽である「享楽」の在処ということになります。

また、これをエディプスコンプレックスの観点からいえば、通常〈父の名〉という法を受け入れることで我々は〈もの〉への到達を禁じられていると言えるでしょう。これを一般的な精神分析用語で「去勢」とか「原抑圧」などと言うわけです。

人はしばし享楽を快楽原理の彼岸にある絶頂をもたらすような究極的快楽と想定する。そして〈父の名〉という法を侵犯しさえすれば〈もの〉へ到達できるのではないかという幻想に魅せられる。

こうして人は原理的に到達不可能な〈もの〉へ至らんとする永続的徒労に人生を費やすことになる。これを称して「欲望」というわけです。


* 防衛としての症状

今しがた述べたように我々は〈もの〉に到達することは不可能です。それにもかかわらず、我々はその日常において、かつて喪失したはずの「〈もの〉の痕跡」にしばし遭遇することになります。

例えば「罪悪感」として、あるいは「不気味なもの」として、もしくは「崇高なもの」として「〈もの〉の痕跡」は快楽原理を撹乱するような「過剰なもの」として断片的に侵入してくる。

これらは〈もの〉そのものではありませんが、かつてあった〈もの〉を想起させるものです。そして、そのような「〈もの〉の痕跡」を防衛するための一つの処方。これがまさに不安という症状に他なりません。

つまり人は「〈もの〉の痕跡」の前に症状を置くことで「この症状さえなければきっと幸せが手に入るのに」という、ある種の享楽を引き出しているわけです。

なお、ラカンはその後「転移」「同一化」「不安」とセミネールを重ねていくごとに、このような「〈もの〉の痕跡」を例の、後に名高き「対象 a 」の概念に洗練させていくわけです。


* 神尾観鈴の不安発作

このような「〈もの〉の痕跡」との遭遇を描いた例として 「AIR」における神尾観鈴の不安発作があります。


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『AIR』(エアー)は、Keyが制作した2作目の恋愛アドベンチャーゲーム、およびそれを原作としてメディアミックス的展開がなされたアニメやコミックなどの作品群。

前作『Kanon』と同様に少年少女の恋愛劇に不可思議要素を絡めたアドベンチャーゲームであり、シナリオが感動に特化した泣きゲーとして支持を集めた。

Wikipedia


観鈴ちゃんには友達がいません。その理由は誰かと仲良くなれそうになる時に限って起きるーーー癇癪を起こしたように泣きじゃくってしまうーーーあの不安発作によるものです。

これは観鈴が最後の翼人である神奈備命の転生体であることに由来しています。

1000年前の当時、翼人は人に不幸をもたらすものとして畏れられており、それゆえに神奈には呪いが掛けられていた。それは親しくした他者を死に至らしめるという、呪い。

翼人とは星の記憶を継ぐ者であり、最後の翼人は幸せな記憶を星に返す必要があった。けれども、この呪いによって親しい者を作ることができない為、幸せな記憶を星に返すことができず、神奈は延々と輪廻を繰り返すことになる。

ともかくもこういったことから観鈴の身体は翼人の呪いに蝕まれており、誰かと親しくすれば、その誰かを不幸してしまう。

すなわち、観鈴にとって「誰かと仲良くなること」というのは禁じられた〈もの〉の体験に等しいものです。

こうしたことから彼女が誰かと仲良くなろうとして〈もの〉への到達不可能性を否定する度に、それは罪責感という「〈もの〉の痕跡」という形をとって回帰してくる。

ここでいう罪責感とは〈もの〉との結合を断罪する内なる非難によるものです。結果、その防衛行動として、あの不安発作が発症するわけです。


* 言葉という呪い

ところで観鈴ちゃんの不安発作は症状だけみればSAD(社交性不安障害)辺りに近いものがあるでしょう。

つまり、我々も日常において「観鈴の病理」に直面することがしばしあるということです。翼人の呪いなどなくとも、人はどこかで任意の誰かと親しくなることで「本当の自分」を知られる事に恐れを抱いている。

例えば親しい人の不可解な行動や理不尽な感情に当惑した時の事を想起してみればいいでしょう。もしも、その原因に全く思い当たる節がないのであれば、背景にはこういう「観鈴の病理」が潜んでいるのかもしれません。

こうして考えると「言葉」とは我々と〈もの〉との間を断絶させるという意味においてある種の「呪い」ということになるのかもしれませんね。



posted by かがみ at 03:17 | 心理療法

2018年06月29日

「La femme」あるいは「普遍」から「例外」を夢想すること。


性別化の式.png

* 男性側の論理式と女性側の論理式

セミネールXX「アンコール」において、ラカンは性別化の式の完成形を提示しています。性別化の式は上記図のように左側の男性側の論理式と右側の女性の論理式によって構成されています。

まず、男性側の論理式は以下の通りです。

・∀xΦx(普遍肯定命題)・・・「全ての男性はファルス関数に従う」

・∃xΦx(個別否定命題)・・・「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する」

そして、男性側の論理式を反転させる事で女性の論理式が得られます。

∃xΦx(個別否定命題の否定)・・・「ファルス関数に従わない女性がいるわけではない」

∀xΦx(普遍肯定命題の否定)・・・「全ての女性がファルス関数に従うわけではない」

古典的ラカン理論は男性側の論理式に収められます。男性側の論理式は「トーテムとタブー」に出てくる原父のような「例外」が「普遍」を安定化させるという否定神学です。

「∀x」とは「全てのxは〜である」という量化記号であり「Φx」とは「xはファルス関数に従う(去勢されている)」ことを示しています。

最初の「∀xΦx(全ての男性はファルス関数に従う)」とは男性が得ることができる享楽はファルス享楽だけであるという「普遍」に関する命題です。つまり、男性の享楽はファルス関数に制御された身体的享楽(ファルス享楽)に留まり、対象 a を超えて「La femme=女性なるもの」に到達するような享楽(絶対的享楽)ではありえない。

そこで男性はこのようなファルス享楽のアポリアから逃れる為、この世界の何処かには絶対的享楽がきっとあるという「例外」のファンタスムを作り上げる。

このような「普遍」の側に立ちながら「例外」を夢想することを「〈他〉の享楽の想定」といいます。

* 「La femme=女性なるもの

例外として機能する典型例は「トーテムとタブー」に出てくる原父のような全能者ですが、その他にも例外として機能するものとして「La femme=女性なるもの」があります(〈父〉のバージョン違い)。

この「La femme=女性なるもの」への到達を夢想する一つの形式としていわゆる宮廷愛が考えられます。

宮廷愛とは12世紀ヨーロッパに始まる詩歌の一つのジャンルの中で歌い上げられる愛の形式です。多くの場合、ある高貴な女性(大体は既婚)を対象としています。そして、その愛は騎士道的な愛であり、その対象たる女性への肉体的接触は一切断念されているのが特徴です。

すなわち、ある任意の対象との間にあえて障壁を置くことで「La femmeへの接近不可能性」という問題を、「その障壁さえなければいいのに、という禁止」の問題に置き換え、その禁止の向こう側に「La femme」を想定することを可能にしているわけです。

例えば「猫物語〈黒〉(西尾維新)」において阿良々木暦は羽川翼に「失恋」していますが、これは宮廷愛の形式から読むことができます。阿良々木が羽川の中に「La femme」を見出したが故の表裏の関係として彼は「失恋」しているわけです。



「あいつのことがたまらなく好きだけれど─ ─でも、この気持ちは恋じゃあないな」  

呟き続けながら─ ─決意を。  

ひとつの決意を、新たにする。  

それは多分、最初から決まっていることだった。  

決まりきっていることに─ ─僕は今更気付いたのだ。  

僕の羽川への想いは、募り過ぎて─ ─  

もうとっくに恋を越えていた。  

一生一緒にいたい、どころか。

「だって僕は、 羽川のために死にたいって思ってるんだもん」

(西尾維新「猫物語(黒)」)



* 例外そのものになること

なお、男性側の式における宮廷愛的なリミットを超える道は一応あることはあります。すなわち、例外を空想するのにとどまらず、自ら「例外そのもの」になり切ってしまうことです。

しかし「例外そのもの」になるとは「アンドロメダの支配者」とか「神の女」などという自らの妄想の世界の中だけで生きることに他なりません。そして我々はこれを称して「精神病」と呼ぶわけです。


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posted by かがみ at 20:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理療法

2018年05月30日

資本主義のディスクールと精神分析の可能性



* 4つのディスクール

ジャック=ラカンはセミネール17巻「精神分析の裏面」において、我々が生きる社会における様々な言説を分類した「4つのディスクール」を示します。

4つのディスクール.png

これは、真理(左下)、動因(左上)、他者(右上)、生産物(右下)という4つの位置に、主人(S1)、知(S2)、主体($)、対象(a)の4つの項がどのように配置されるかによって、それぞれのディスクールが規定されるものです。

基本的な法則としては「真理」によって支えられた「動因」が「他者」に命令し、結果、生産物ができるものですが、その際、真理と生産物の間には遮蔽線があるということが重要になります。

・主人のディスクール・・・あるシニフィアン(S1)が他のシニフィアン(S2)に対して主体($)を代理表象し、結果、始原的享楽を失った代償としての剰余享楽(a)が生産される。こうして$♢aの構造が生じ、主体はその幻想の中で欠如を求める欲望を抱く。

・大学のディスクール・・・科学的真理が探求される大学では、普遍的な知(S2)が話をしているように見える。しかしその知は権威としての真理(S1)に支えられている。普遍的な知(S2)が話しかける先にいるのが学生(a)である。結果、真理からは遠い主体$が生産されてしまう。つまり、大学のディスクールは主人のディスクールを温存する「倒錯した主人のディスクール」である。

・ヒステリー者のディスクール・・・ヒステリー者は自分の症状がなぜ生じているのかを医師などの「理想の父親」を体現する主人(S1)に向けて問うことになるが、結果、生産される知(S2)は、症状の背後にある真理としての剰余享楽(a)とは繋がりを持っておらず、結果、主人は主人としての位置から失墜する。

・分析家のディスクール・・・分析家は剰余享楽(a)のふりをして、その背後に知(S2)を想定されたものとして分析主体($)の前に現れる。結果、主人のシニフィアンの他なる様式である(S1)が析出される。これは他のシニフィアン(S2)から切り離された無意味のシニフィアン(S1)である。こうして分析主体は幻想を横断することが可能となる。


* 資本主義のディスクール

そして翌年には5番目のディスクールである「資本主義のディスクール」が付け加えられます。これは主人のディスクールを左側を反転させ、$とaを直結させたものです。

資本主義のディスクール.png

このように資本主義のディスクールとは主人のディスクールを基本としつつ、そこにヒステリー者のディスクールと大学のディスクールの特徴を組み合わせたものになります。

つまりこういうことです。我々、現代を生きる労働者($)はヒステリー者の如く日々の暮らしに不平不満(S1)を述べ、それはマーケティングという名において統計学的アルゴリズム(S2)によって処理され、終わりなき工業製品の消費(a)が続くということです。

これはいわば「欲望の搾取」を意味します。資本主義のディスクールが氾濫し、「消費せよ!」という享楽の命令が優位になるとき、欲望する主体は死滅するということです。


* メランコリーとデプレッション

例えば、現代における「新型うつ病」なるものの蔓延は、資本主義のディスクールの倒錯性が生み出した産物であるとも言えます。

古典的なうつ病であるメランコリー(内因性うつ病)と「新型うつ病」の多くが当てはまるであろうデプレッション(神経衰弱・精神衰弱)は共にDSM上においては「大うつ病性障害」に位置付けられますが、両者は相当性質を異する疾患です。

メランコリーは「感情精神病」とも呼ばれ、感情自体が廃棄されている為、楽しいことがあったり状況が好転したとしても、それによって直ちに抑うつ症状は好転するわけではない。これに対してデプレッションは何か楽しいことがあったり状況が好転すれば病自体も好転する。また、いわゆる「うつ病患者に頑張れと励ましてはいけない」という原則はデプレッションに関しては当てはまらない。

この点、フロイトは、デプレッションの心理的メカニズムについて身体的性的興奮の加重が不十分な形で解除されている可能性を指摘しています。これはラカンの文脈で言えば剰余享楽との関連で問題となるものです。

主人のディスクールにおいては主体が対象 a から隔離維持されていますが、これに対して資本主義のディスクールでは主体が対象 a に直接アクセスできるという相違があります。

絶え間ない剰余享楽の供給は欲望の主体を死滅させます。ここに「欲動の処理不全」が起きるわけです。つまり「新型うつ病」とは、ある意味で享楽・欲望に関する生活習慣病であるとも言えるでしょう。


* ひとつきりのシニフィアン

ところで上述の4つのディスクールのなかで「分析家のディスクール」だけは「資本主義のディスクール」と一切共通点がありません。

これは注目すべきことなのではないでしょうか。すなわち、精神分析とは現代社会を覆う閉塞感を打ち破る可能性を秘めた営みでもあると言えるでしょう。

分析家のディスクールによって析出されるS1とは、個々人が持つ「特異的享楽=〈一者〉の享楽」を表す「ひとつきりのシニフィアン」です。人は「ひとつきりのシニフィアン」と向き合うことで自らの特異的享楽と「上手くやっていく」ことが可能となるわけです。

posted by かがみ at 22:22 | 心理療法

2018年04月30日

シニフィアンと享楽の関係



1970年代に展開されることになるいわゆる後期ラカン理論とは一体何なのでしょうか?当然のことながら多彩な論点と観点は数限りなくあるでしょう。けれどここでは差し当たり「シニフィアン」と「享楽」の関係ついて書いてみたいと思います。

* 1950年代〜相反関係としてのシニフィアンと享楽

1950年代のジャック・ラカンは神経症圏と精神病圏を〈父の名〉の有無により切り分け、フロイトのエディプスコンプレックスを構造化する事によって神経症圏の成立を論証しました。

すなわち、母親の現前不在が〈父の名〉へと隠喩化されることで象徴的秩序が統御され、その意味作用としてのファルスはセクシュアリティを規範化するということです。

この点からいうと「症状」とはもっぱら「シニフィアン」によって構成される象徴的なものであり、隠喩によって作られるファリックな意味作用を孕むものであると捉えられます。

ところが症状の象徴的側面だけであらゆる症例を説明することは困難です。分析主体が症状をなかなか手放そうせず、分析の進展にもかかわらず症状が延々と反復する現象は、症状が「シニフィアン」だけではなく「享楽」とも関係を持っている事に起因します。

そこで、症状の把握にあたっては「シニフィアン」という象徴界の観点のみならず「享楽」という現実界の視点が不可欠となるわけです。

この点、セミネールVII「精神分析の倫理(1960)」の時点では、シニフィアンと享楽は本来的には二律背反する相反関係(あれかこれか)に立ち、享楽の回帰は「〈もの〉の侵入」としか言いようのないイレギュラーという扱いでした。

* 1960年代〜主従関係としてのシニフィアンと享楽

そこで、1960年代のラカン理論においては、臨床において享楽を操作可能とすることに主眼が置かれ、享楽は「〈もの〉の侵入」から「対象 a」へと洗練されていきます。

そして、セミネールXI「精神分析の四基本概念(1964)」において「疎外」と「分離」という二つの演算が示され、分析における主体と対象 a の関係が定式化されるに至ります。

「疎外」が主体の象徴界への参入の過程(S1→S2)であるとすれば、「分離」とは主体が対象 a を通じて再び現実界に(部分的)に回帰する過程($→a)です。

そして、主体は対象 a との関係性を再定義する事で〈他者〉とつながりつつも〈他者〉からの自由を獲得する事が可能となる。これを「根源的幻想の横断」といいます。

これは確かに一つの到達点です。けれど、まだこの時点では依然として、シニフィアンが主で享楽は従という関係(あれとこれと)になっているわけです。

* 1970年代〜統合関係としてのシニフィアンと享楽

しかしながらその後、ラカンはセミネールXVII「精神分析の裏面(1970)」において、ディスクールの理論を導入することで、シニフィアンそれ自体が剰余享楽を生み出す装置として扱うようになります。

さらには、セミネールXX「アンコール(1973)」においては一般的な「ファルス享楽」とは異なる「〈他〉の享楽」の可能性が論じられ、これを契機にラカンは「知のシニフィアン=S2」を重視する「存在論」から「〈一者〉のシニフィアン=S1」を優位に置く〈一者〉論への転回を果たします。

つまり、この一連の流れではシニフィアンと享楽は統合的に捕捉される関係(あれもこれも)に立っているわけです。

こうして見ると各年代毎にかなり鮮明なコントラストが生じているのがわかるでしょう。このように、1970年代のラカン理論というのは、シニフィアンと享楽を相反するものでも主従としてでもなく、まさに統合的に捕捉する試みであると言えるわけです。

そしてそれはエディプスコンプレックスを相対化し、フロイトの「終わりなき分析」のアポリアを乗り越える試みであるとも言えるのではないでしょうか。



posted by かがみ at 22:22 | 心理療法

2017年08月31日

ラカン派精神分析と自閉症圏



疎外と分離

まずはおさらいですが、ラカン派精神分析においては人の精神構造は概ね3つに分類されます。すなわち精神病圏、神経症圏、倒錯圏です。

そして、ある主体が精神病圏から神経症圏へ遷移するには心的な母子分離が必要とされます。この点、1950年代のラカンはフロイトのエディプスコンプレックスを構造化して〈父の名〉というシニフィアンの有無で神経症と精神病を鑑別していました。すなわち〈父の名〉を持っていれば神経症、持っていなければ精神病、ということになる。

ところが、シニフィアンという「象徴界」の水準のみでは精神病内部でパラノイアとスキゾフレニアを鑑別するのは不十分だという憾みが残るわけです。そこで1960年代のラカンは享楽や対象 a という「現実界」の水準を視野に入れて鑑別診断を再構成することになります。これが「疎外と分離」の理論です。

「疎外」が主体の象徴界への参入の過程であるとすれば、「分離」とは主体が再び現実界に(部分的に)回帰する過程ということになります。

われわれは「原生的主体=S」として現実界に一つの生命として生まれ落ちる。その後、Sは「疎外」の操作によって象徴界に参入すると同時に、代価として「欲動の満足=享楽」を喪失し「失われた主体=$」となってしまう。

もっとも$は「分離」の操作によって、失った「享楽」の一部を「欲動の対象/欲望の原因=対象 a 」を通じて再び回復し得る。こうして「対象 a 」に急き立てられる「欲望する主体=神経症的主体」が出来上がる。

以上のような「疎外と分離」の観点から、「享楽」が「対象 a 」として切り出されていれば神経症、「享楽」が〈他者〉に回帰すればパラノイア、「享楽」が身体全域に回帰していればスキゾフレニアという鑑別診断が帰結されるわけです。


疎外を拒絶する子供たち

さて、このようなラカン派の鑑別診断の中で「自閉症」はどこに位置付けられるのでしょうか?かつて自閉症はスキゾフレニアの早期発症、あるいは精神遅滞と混同されるような存在でしたが、ブルーノ・ベッテルハイムの母原病説が退けられる一方、ローナ・ウィングによる「3つ組の障害」の定式化を経て、2013年のDSM-Vにおいてはカナー型とアスペルガー型が「自閉症スペクトラム」として統合され、自閉症は一つの独立的なカテゴリーを形成します。

ラカン本人は自閉症をスキゾフレニアと近縁のものとして捉えていた節があるようですが、上記のような歴史的経緯を踏まえ、現代ラカン派においては、もはや自閉症を精神病の一種とは考えません。

確かに自閉症者もスキゾフレニアも原初的象徴化に失敗している点では同様であり、いわゆる「排除」の範疇ということになるでしょう。このようにシニフィアンの水準のみから言えば自閉症とスキゾフレニアを切り離すことができません。しかし、享楽や対象 a の観点から言えば、決してこの限りではないということです。

まず、「疎外と分離」の図式において、自閉症者は「疎外の入り口」に位置付けられます。つまり、自体性愛的享楽に結びついた原初的言語である「ララング=S1」と、知的言語体系を織り成す「その他のシニフィアン=S2」の連携が切断されている状態にあるということです。

定型発達過程においてはS1にS2を付け加えていく作業がなされ、次第にララングとの折り合いがついていくわけですが、自閉症はS1のみを常同反復し自閉的な享楽を得ていると解釈される。いわば、自閉症者とは疎外の入り口に立ちつつも、疎外の領野に入ることを拒絶した、あるいはせざるを得なかった子供たちと言えるでしょう。

このように自閉症者は疎外においてS1とS2の連携が機能していないため、カナー型にせよアスペルガー型にせよ、その言語使用は自ずと「S1かS2か」の二者択一関係となる。アスペルガー型の自閉症者が定型発達者を凌駕するような豊富な語彙量を有する一方で、方言や比喩・皮肉が理解できなかったりする現象はかような点から了解され得ます。

また、自閉症とスキゾフレニアは享楽の回帰モードで区別されます。スキゾフレニアにおいては享楽が身体全域に回帰するのに対し、自閉症では享楽は身体の中でも「縁」の上に焦点化されている。

「緑」とは口や耳といった縁取り構造を持つ身体器官のことです。自閉症に見られる場面緘黙は「声」という対象 a を〈他者〉に手渡そうとせずに保持しておこうとする一種の防衛ともいえるでしょう。

すなわち、自閉症者にとっての「縁」は、安心できる既知の世界と、混沌とした外の世界を分割する境界線であり、外的世界へ関わるための起点でもあるということです。


自閉症は「個性」なのか

ところで、自閉症の遺伝子がいつまでたっても進化論的に淘汰されない理由として人類という種のニューロダイバーシティを確保するためという説があります。

つまり、自閉症者は想像力や共感能力に欠けるのではなく、定型発達者が「社会」に対して、自閉症者は「自然」に対して、それぞれ想像性・共感性が優れているという「質の違い」に過ぎないと言うわけです。

この説の真偽のほどは専門外なのでよくわかりません。ただ、これまで見てきたように精神分析的観点からは自閉症は最も「現実界」に近い存在であることは確かです。

けど、このような「特性」を「個性」と言って良いのか?というと躊躇を覚えます。自閉症は「障害」ではなく「個性」とラベリングすることで、今度はそれを活かしきれてないのは「自己責任」みたいなところに議論がスライドしやすくなってしまうからです。

思うに、自閉症という「特性」は、能力や社会的実績がある程度の「閾値」に達した時、初めて「個性」として花開くものだと思うんですよ。

例えば同じくらいの演奏レベルのプロのピアニストが2人いたとします。ひとりは「ただのピアニスト」、もう一人は「自閉症スペクトラムのピアニスト」。この場合、後者がある意味で「個性的」なのは確かでしょう。

けど、そこまでの「閾値」に達していない場合、自閉症からくる生きづらさはただただ、逆風そのものでしょう。ゆえに「自閉症は個性」などという一見するとポジティブな響きを持つ言葉の取り扱いにはゆめゆめ気をつけないといけないということです。「障害か個性か」などといったあまり生産性のないラベリングよりも、彼ら彼女らがいま何に困っているのか、そしてどのような支援を必要としているのか、結局そういった視点こそが本当に大事なことではないでしょうか。



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posted by かがみ at 21:37 | 心理療法