2016年06月24日

アドラー心理学の「目的論」を「原因論」として解釈してみる

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
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「つまり、ご友人には『外に出ない』という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。アドラー心理学では、これを『目的論』と呼びます。(嫌われる勇気27頁)」


フロイトは過去に無意識へと抑圧された表象や観念が「原因」となり現在の症状や問題行動を産み出していると考え、無意識に抑圧されたトラウマを暴き出すことで問題を解決できると考えた。これに対し、アドラーはフロイト的なトラウマを否定し、症状や問題行動は「目的」を達成するために産み出していると説く。

目的論の論拠として、もし仮に過去が現在を規定するという原因論が正しいとすれば、「同じような過去を持っている人は同じような『現在』を生きていないとおかしい」いうことが言われる。『嫌われる勇気』の例で言えば「両親から虐待を受けて育った人は、すべてがご友人と同じ結果、すなわち引きこもりになっていないとつじつまが合わない(26頁)」。そして、アドラー心理学は不適切な目的として@賞賛要求、A注目喚起、B権力闘争、C復讐、D無能証明、という5段階論を唱えている。


・・・と、まあ、以上が目的論の一般的な説明なのかもしれませんが、これはある意味で実際に対人恐怖や引きこもりで悩んでいる人から見れば腹立たしい立論でしょう。

実際に社交不安障害やパニック障害などは動悸や過呼吸などの身体症状として現れます。なので、当事者から「自分はこれこれこういう症状があるから、いまこうやって苦しんでいるのであって、断じてそういう変な『目的』を持っているわけではない」と言われたら、上記の論理だけでは返す言葉もない、と言わざるを得ない。

果たして、アドラー心理学でいう「目的」とは一体なんなんでしょうか?これを理解するためには「目的論」をあえて「原因論」で捉え直して見ることが必要ではないかと思います。

まず、アドラーによれば、人の根本衝動は「優越性の追求」であり、その表裏の関係に「劣等感」があるといいます。優越性の追求(劣等感)の結果、そのひとの個人的な傾向、世界観が形成される。これを「ライフスタイル」と呼び、このライフスタイルが拗れてしまった類型を「劣等コンプレックス」といいます。

「ライフスタイル」とは「信念・世界観」である以上、人は自ら形成したライフスタイルを正当化する思考や行動をとることになる。ライフスタイルが不適切であれば、そこから派生する思考や行動も当然不適切になる。

つまり、「目的」の正体とは、この「ライフスタイル」そのもの、あるいはそこから派生する思考に他ならないということになります。

この「ライフスタイル」というのは認知行動療法でいうスキーマに相当するものと以前書きましたが、意識・無意識という観点から位置付けるとすれば、これはちょうどユング心理学でいうところの個人的無意識のレベルでしょう。アドラー心理学はあくまで方法論とし「無意識」を重んじないだけで、べつに「無意識」という精神領域が無いとは言ってはいません。そして、ユング派ではこの個人的無意識に抑圧された心的葛藤をまさに文字通り「コンプレックス」と呼んでおり、神経症とはかかる「コンプレックス」が抑圧される結果として生み出す代理満足に他ならないということです。

さて、以上を踏まえて、「目的論」を「原因論」で捉え直した結果、以下のように言えるのではないでしょうか?

「目的(=ライフスタイルないし、そこからの派生思考)」とは前意識下あるいは無意識下に抑圧された心的葛藤(=ユング派でいうコンプレックス)であり、動悸や過呼吸という身体症状はこの「目的」という「原因」により生じた「結果」であるという風に理解できる。この一連のメカニズムは全て無意識下で為されるわけですから、当人が症状を生み出している「目的」に無自覚的なのも当然であると言えるわけです。

こうしてみると「原因論」も「目的論」も全く正反対のことを言っているわけではなく、真理を違う角度から説明しているだけ、という言い方もできるでしょうね。
タグ:こころ
posted by かがみ at 02:11 | 心理療法

2016年06月17日

劣等コンプレックスと認知行動療法

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嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
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【書評】アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』〜劣等感と劣等コンプレックスは違う: かぐらかのん

『嫌われる勇気』の続編タイトルは『幸せになる勇気』。例の「青年」は更にめんどくさい人になって帰ってくる模様。: かぐらかのん

「すべての人は劣等感を持っている。しかし、劣等感は病気ではない。むしろ、健康で正常な努力と成長への刺激である。無能感が個人を圧倒し、有益な活動へ刺激するどころか、人を落ち込ませ、成長できないようにする時、初めて、劣等感は病的な状態となるのである。(個人心理学講義:45頁)」

「現在、わが国では『コンプレックス』という言葉が、劣等感と同義であるかのように使われています。ちょうど『わたしは一重まぶたがコンプレックスです』とか『彼は学歴にコンプレックスを持っている』というように。これは完全な誤用です。本来コンプレックスとは、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態を表す用語で、劣等感とは関係ありません。(嫌われる勇気:81頁)」


まずよく言われる「劣等感と劣等コンプレックスは違う」というのはどういうことかという問題について、アドラー心理学の基礎理論から順を追って考えてみましょう。

フロイトは人の根本衝動をおなじみ「性的欲動」と位置付けましたが、これに対しアドラーは人の根本衝動を「優越性の追求」であるとしました(・・・本当は2者択一の関係ではないと思うんですが、話がごちゃごちゃになるのでまた別の機会に)。

ともかく優越性の追求は「自己のあるべき理想」に向けて行われる自己実現衝動ともいうべきものです。

そして優越性の追求と表裏の関係にあるのが「劣等感」です。優越性を追求するということは、現状は「自分の思い描く理想には程遠い」という自己認識があるから、優越性の追求が存在するということは劣等感が存在するということなんですね。

別に「自己のあるべき理想」なんて高尚なもの持っていない・・・などと仰る方もいるかもしれませんが、なんにも「劣等感」を感じないということはないでしょう。「劣等感」とはドイツ語で「Minderwertigkeitsgefühl(価値がより少ない感覚)」といい、「理想と現状の落差を認識している状態」に他なりません。どんなひとにでも無自覚的・無意識的なものかもしれませんが「あるべき理想」というものは持っています。

こうした「あるべき理想」への優越性の追求(劣等感)の結果、そのひとの個人的な傾向、世界観が形成されていきます。これを「ライフスタイル」と呼ぶ。このライフスタイルこそが認知行動療法でいうところのスキーマに相当します。

そして何らかの理由でー「無能感が個人を圧倒し、有益な活動へ刺激するどころか、人落ち込ませ、成長できないようにする時」ーこのライフスタイルが拗れてしまった状態が「劣等コンプレックス」ということになります(場合によっては、その劣等感を補償するために優越コンプレックスが出現します)。

こうして順を追っていけば、劣等感と劣等コンプレックスは全く違うレベルの問題であることがわかります。劣等感を持つというのは健全な状態ですが、これが拗れて劣等コンプレックスになるのがまずいというわけです。

以上をすごく乱暴に定式化してしまうと「歪んだライフスタイル=歪んだスキーマ=劣等コンプレックス」という風に理解が可能かと思われます。

つまり、認知行動療法の治療目標がスキーマの適正な上書きにあるのと、ほとんどパラレルな関係で、アドラー心理学の目的はライフスタイルの適正な上書きということになります。アドラー心理学が認知行動療法の源流と言われますが、こうしてみると基本モデルは全く同じということがわかる。

アドラー心理学の独自性は「望ましいライフスタイル」の積極的な提案という点にあるでしょう。これが「共同体感覚」であり、共同体感覚を育むための援助の方法を「勇気づけ」と呼ぶわけです。


アドラー本人の著作である『個人心理学講義』は総評的には「読みづらい」とかまあ、言われますけど、今述べた優越性の追求、劣等感、劣等コンプレックス関係の箇所の解説に関して言えばものすごくわかりやすいです。『嫌われる』の補足にお勧めです。
タグ:こころ
posted by かがみ at 22:11 | 心理療法

2016年06月14日

「叱ってはいけないし、褒めてもいけない」というのは「何もしなくていい」というわけではない

アドラー心理学にハマって離婚危機に!? 実践して大失敗しちゃった人たちの悲痛な叫び - 新刊JPニュース

アドラー心理学の強みはスティーブジョブズのプレゼンとかに通じるそのシンプルな教えにありますが、「シンプル」であればあるほど誤解される可能性も大きくなる危険はあるわけです。

記事中の失敗例をやや註釈しますと、要するに、アドラー理論の色んな前提がすっ飛ばされて、「褒めてはいけない」とか、「他者信頼」とか、そういうキャッチコピーだけを「実践」したという感があります。

「褒めてはいけない」ではなくて、「勇気付ける」ということなんですよ。間違っても不作為に放ったらかしにするわけではない。そして、何が勇気付けになるかはその時その状況における発信者と受信者の相関関係で決せられるわけでして、「褒め言葉」や「勇気挫き」と言われる言葉でも、状況次第で勇気付けとなるケースもあります。

こういう判断は認知論や主体論といったアドラー心理学の基礎理論についてある程度の素養があってこそ、よくなし得るものであり、要するに勇気付けるというのは単に褒めることよりも遥かに難しいんですよね。

で、「他者信頼」というのも、あくまで「交友のタスク」の支配原理なので「仕事のタスク」に無条件に適用すべきものではない。「仕事のタスク」の起源は「個体として劣った人類が過酷な自然環境を生き延びるため」なので、当然、優先されるべきは条件付きの「信用」なのです。

ええっと、この辺りは「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」をきちんと読み込めば解るはずなんですけどね・・・?アドラー心理学はあくまで心理学的法則に則った「ルール」なので、適用条件を誤れば当然、誤った結論しか出てこないわけです。

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タグ:こころ
posted by かがみ at 00:41 | 心理療法

2016年06月01日

【書評】アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』〜劣等感と劣等コンプレックスは違う

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本書は成立における諸般の事情も相まって「読みにくい」とか「体系だっていない」という評価もありますが、それはその通りだと思います。また『嫌われる勇気』で大きくクローズアップされている、勇気づけ、課題の分離などについてはあまり立ち入った考察はされていないです。

よってアドラー理論を生活の中でいますぐ役立てたいという人向きではないと思います。ただ、アドラー理論の中核である、優越性の追求からライフスタイルの形成、劣等コンプレックスに至るまでの論証はとても詳細でわかりやすい。

フロイトの精神分析によれば、人の根本衝動はおなじみ「性欲」とされますが、アドラーはこれを否定して、人の根本衝動を「いまよりより良くなろう」とする「優越性の追求」であるとする。

つまり、人はあくなき優越性を追求する生き物であり、逆に言えば現状に常に満足していない。これを称して「劣等感」という。劣等感は否定されるべき感情ではなく、より良くなろうとする優越性の追求と裏表の関係(相補的関係)にあります。

そして優越性の追求(劣等感)の結果、形成された個人的な信念や世界観をライフスタイルと呼び、何らかの挫折経験でライフスタイルを拗らせてしまった状態が「〜だから俺はダメなんだ」という劣等コンプレックスと呼ばれるものということになります(そういう意味で劣等コンプレックスというものは精神分析でいうエディプスコンプレックスとは位相を異にするものであり、どちらが根本的なコンプレックスかという二者択一的な議論はやや的外れのように思えます)。

やや話が逸れましたが、こういったアドラー心理学の根本を為すともいえるロジックが本書において実に詳細に展開されている。アドラー自身が本書の結語で述べている通り、個人心理学の方法論は劣等感の問題に始まり、劣等感の問題に終わるということがよく理解できる。本書でアドラーに入門するのはお勧めできないですが、参考書としては必読ともいえるでしょう。
posted by かがみ at 05:11 | 心理療法

2016年05月31日

【書評】向井雅明『ラカン入門』。

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)
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「入門」とは銘打っているものの、初心者には難しい。なんかラカンってサブカル評論でよく出てくる名前だし、さくっと全体像だけ掴みたいな的なニーズには向かない本かもしれません。もちろんそれだけ濃密な内容ということなので、一通りの全体像を見渡せるようになってもう一度再読すればかなり勉強になりそう。

最初読んだときは文章が若干回りくどいと感じられて、読書メーターでも申し訳ないことに初読の率直な感想をそのままにそういう書評を書いてしまったんですが、その後、新宮本やフィンク本などに当った後に再読するにあたって思うのはこれは多分、ラカニアンの方の中では相当わかりやすい部類なんじゃないでしょうか、ということです。かなり誠実に書かれているように思う。本書はもともと「ラカン対ラカン」という表題で出版されたものの改訂版であり、奇怪難解で知られるラカンの理論体系をラカン自らを以って明らかにしようとした試みでもあります。

ラカン読解の手順としてはとりあえず現実・想像・象徴といった例の三幅対を抑えた後は前期理論の集大成と言われる「欲望のグラフ」の解析に取り組むべきなんでしょうかね・・・向井さんは欲望のグラフについて本書でかなりのページを割いて丁重に解説されています。

欲望のグラフにせよ父性隠喩にせよ、ラカンの理論の中核は一貫してフロイトのエディプスコンプレックスの構造的・理論的解明なんですよ。いまどきエディプスコンプレックスなんて大真面目に言うと嘲笑されるのかもしれませんが、そもそもあれは分析主体の個人的経験として理解するべきではないんでしょう。人間に先天的に内在する母性原理と父性原理の止揚の過程における一つの神話的な説明であるというという理解であれば、ある程度、納得できる部分もあると思われます。
タグ:こころ
posted by かがみ at 01:45 | 心理療法