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ラカン派精神分析の基本用語集

2024年06月24日

少女のエディプス・コンプレックスと母娘関係




* エディプス・コンプレックスの諸相

時は19世紀末、オーストリアの精神科医ジークムント・フロイトは当時、謎の奇病とされたヒステリーの治療法を試行錯誤する中でその病因が患者の「無意識」にあることを突き止め、その症状を解消すべく精神分析を生み出しました。もっとも当初フロイトはヒステリーをはじめとする神経症の症状を患者が無意識へ抑圧した幼児期の性的外傷経験に求める「誘惑理論」なるものを提唱していましたが、やがてフロイトは患者の言葉は必ずしも現実の出来事を述べているのではなく、あくまでその心的な現実を述べているのであると考えを改め、自身の夢の分析を通じて幼児期における母親への愛情と父親への敵意を発見し、このような心的葛藤をギリシア悲劇になぞらえて「エディプス・コンプレックス」と名付けます。

フロイトによれば誰でもこのエディプス・コンプレックスの克服という課題に直面し、これに失敗した者が神経症に罹るとされます。そしてフロイトは幼児がエディプス・コンプレックスを克服するための条件となる別の心的葛藤を「去勢コンプレックス」と名付けます。つまり母親の身体にペニスがないことを知った幼児は自分のペニスを失う「去勢不安」から母親への愛情を断念して父親への同一化を目指すようになるということです。

確かに男児の場合、このようなフロイトの説明は一応は合理的といえるでしょう。しかし言うまでもなく女児の場合にはこの説明はまったく整合性を持ちません。そもそもペニスを持っていない女児においては「去勢」とは当初から見出されるものであり、男児のようにそれを怖れる理由がないからです。では女児においては、どのような過程を経てエディプス・コンプレックスが構成されることになるのでしょうか?

フロイトの説明はこうです。女児は自身におけるペニスの不在を知ると自身がひどく「損なわれている」と感じ、男児と同じようなペニスを持つことを熱望するようになりますが、同時に自らと同様に「損なわれている」存在である母親に幻滅し、父親なら自分にペニス(の代わりの子ども)をくれるかもしれないと、これまで母親に向けていた愛情をまるごと父親の方へ振り向けます。

ここでの女児のペニスへの執着をフロイトは「ペニス羨望」と呼びます。しかしこの願望が実際に満たされるわけでもなく、結局のところフロイトは「真のエディプス・コンプレックス」は男児にのみ生じるものであり、女児のエディプス・コンプレックスは克服されるというよりも自然に消滅していくと考えられるといういまひとつよくわからない結論に至ります。


* 精神分析における女性のセクシュアリティ

そして、このようなフロイトの置き残した課題に触発される形で、1920年代から1930年代にかけての精神分析界においては女性のセクシュアリティに関する論争が盛んになります。この点、フロイトの最側近であり英国精神分析の基礎を築いたアーネスト・ジョーンズはフロイト理論の忠実な守護者を自認しつつも、当時気鋭の女性分析家として頭角を表していたカレン・ホーナイやメラニー・クラインの影響の下で、女児の性的発達に関してフロイト説の実質的な修正を試みる議論を展開しました。

先述のようにフロイトの理論では女児の場合、エディプス・コンプレックスがなぜ始まりいつ終わるのかが今ひとつ明確ではありませんでした。これに対してジョーンズは女児においては母親から自らの女性器を破壊されるかもしれないという根源的恐怖があり「ペニス羨望」とは畢竟、この恐るべき結末を回避するための二次的な防衛にほかならないと主張し「去勢不安」と「ペニス羨望」をエディプス・コンプレックスからの撤退として一元的に把握することで女児においても男児とほぼ同様のエディプス・コンプレックスのメカニズムが作動しているとしました。

これに対して、当時の精神分析教育のメッカであったBPI出身の俊英、オットー・フェニヒェルはフロイト以来の象徴的等式である「ペニス=子ども」は時として「ペニス=少女」という形を取ることがあると主張し女性のセクシュアリティ論争において全く新しい機軸を打ち出しました。

ここで彼が引き合いに出すのは、覗き症の傾向を持つ一人の女性患者のケースです。この患者は2度にわたり「ペニスの代わりに子どもを腹からぶら下げた男(たち)」の夢を見ています。ここには「子ども=ペニス」に同一化するある種の「父体空想」を見出すことができます。この空想において、少女はペニスのように父の身体にぶら下がります。言い換えれば彼女は父と分かち難く結びつき、父の身体の部分になっています。この部分はあくまでも全体の一部に過ぎませんが、しかし、なくてはならない一部であり、その最も重要な部分に他なりません。

ここに見出されるのは、古来の伝説や御伽噺にお馴染みの、偉大な英雄の危機を救う少女というモチーフです。「彼」は強いけど、私がいないと何もできないのだから−−まさにこの少女の「全能空想」のうちにフェニヒェルはフロイトのいう「ペニス羨望」の克服の試みを認めます。ここからフェニヒェルはペニスの発見により脅かされた少女の幼児的全能感はペニスの象徴的等価物たる「ファルス」への同一化によって回復される「少女=ファルス」という結論を取り出してきます。


* 少女=ファルス

このような1920〜30年代の議論を総括し、1950年代に構造主義の立場からエディプス・コンプレックスを再解釈したのがフランスの精神分析家、ジャック・ラカンです。ラカンは、形式的にはフロイトの顔を立てつつ、実質的にはむしろホーナイやクラインの説に立つジョーンズの二枚舌を「弁証法的スケーティング」などと揶揄する一方で、フェニヒェルが打ち出した等式「少女=ファルス」への評価は常に肯定的です。

まず前提としてラカンは解剖学的存在としてのペニスと言語的存在であるファルスを厳密に区別します。ラカンはエディプス・コンプレックスを徹頭徹尾「ファルス」という特権的なシニフィアンを軸としたセクシュアリティの構造化の運動として捉えます。

ここでファルスはまず母親(養育者)の現前不在運動の超越論的シニフィエとしての場に現れます。これを「想像的ファルス」といいます。子どもはまずこの想像的ファルスへの同一化を試みます。この点、フェニヒェルが見出した等式「少女=ファルス」という無意識の幻想は、このような子どもの「(母親の)ファルスである」に根ざしているとラカンは述べています。

けれども当然母親(養育者)の現前不在は止まらないので、その同一化は失敗に終わります。そこで子どもそこにひとつの欠如を発見し、これが超越論的シニフィアンの場としてのファルスを構成します。これを「象徴的ファルス」といいます。男女のセクシュアリティはこの「象徴的ファルス」への態度の相違に起因します。

この点、ラカンにおいて「欲望」とは「要求」の間で弁証法的に生じてくるものであり、この二つの水準が男女のセクシュアリティにおける非対称性を生み出すことになります。すなわち、まず男女ともに「欲望の水準」においては「ファルスをもつ」というポジションを取ることになります。

ところが「要求の水準」においては「ファルスである」というポジションが女性のセクシュアリティを構成します。ここでは「少女=ファルス」というポジションが無意識へ一旦抑圧された上で回帰していることになります。そしてラカンはこうした意味での「ファルス」がレヴィ=ストロースのいう親族の基本構造を安定させる装置として長らく機能してきたといいます。

ここでラカンはセクシュアリティの問題を解剖学的性差から決定的に切り離す事に成功しています。しかしながらその一方で、ここでもやはり「ファルス」という〈父〉に由来する概念が軸となっています。すなわち、精神分析のいう〈成熟〉の条件とは大きくいえば〈父〉への何らかの意味での同一化が必要になるということです。ところがこうした中、日本の精神分析においてはその早期から〈父〉以上に〈母〉の影響が重視されてきました。


* 阿闍世コンプレックス

精神分析は意外と早い時期に日本に紹介されています。1900年代には既にいくつかの学術雑誌の論考において精神分析について言及がなされており、1917年(大正6年)にはアメリカでフロイト理論を学んだ久保良英の手による『精神分析』という本が公刊され、同年に中村古峡を主幹として創刊された『変態心理』という雑誌ではフロイト学説の紹介や翻訳がなされています。そして1926年(大正15年)には安井徳太郎の翻訳でフロイトの『精神分析入門(上)』が出版されました。こうして精神分析が日本においても徐々に盛り上がりを見せる中、日本独自の精神分析理論が生まれてくるようになります。とりわけ有名なのは戦後、日本精神分析学会を創立した古澤平作が提唱した「阿闍世コンプレックス」です。

阿闍世とは仏典に登場する古代インドの王子です。古澤はこの阿闍世物語の中にフロイトのいう「エディプス・コンプレックス」とは別種の「母を愛するがゆえに母を殺害せんとする欲望」という心的葛藤を見出し、これを「阿闍世コンプレックス」と名付けました。「阿闍世コンプレックス」に関する最初の論文は1931年、古澤が東北帝国大学医学部の機関紙『艮陵』に発表した「精神分析學上より見たる宗教」です。同論文はその後1954年、日本精神分析学会の学術雑誌『精神分析研究』第1巻第1号に「罪悪感の二種」と表題を変えて再喝されています。また古澤は1953年に出版された『続精神分析入門(フロイト選集第3巻)』の訳者あとがきにおいてもこの「阿闍世コンプレックス」を論じています。

そしてこの「阿闍世コンプレックス」は古澤の弟子である小此木啓吾氏により広く世間に知られるようになりました。もっとも古澤と小此木氏の下で語られる阿闍世物語は様々な紆余曲折を経て、その委細が幾度となく変化しています。『阿闍世コンプレックス』(2001)に収録された観無量寿経を原典とする小此木版阿闍世物語は次のようなものです。

韋提希は古代インドの王舎城の王頻婆娑羅の妃であった。そして、その息子、つまり王舎城の王子が阿闍世である。阿闍世を身ごもるに先立って、その母韋提希夫人は自らの容色の衰えとともに、夫である頻婆娑羅王の愛が薄れていく不安を抱いた。そして、王子を欲しいと強く願うようになった。思い余って相談した預言者に、森に住む仙人が三年後になくなり、生まれ変わって夫人の胎内に宿ると告げられた。

しかし、韋提希夫人は不安のあまりその三年を待つことができず、子供を得たい一念からその仙人を殺してしまった。ところが、この仙人が死ぬときに、「自分は王の子供として生まれ変わる。いつの日がその息子は王を殺すだろう」という呪いの言葉を残した。その瞬間に頻婆娑羅の妃である韋提希夫人が妊娠した。こうして身ごもったのが阿闍世であった。すでに阿闍世はその母のために一度は殺された子どもなのであった。しかもこの母は身ごもってはみたものの、お腹の中で胎児である阿闍世の恨みが恐ろしくて、産んでから高い塔から落として殺そうとした。しかし彼は死なないで生き延びた。ただし、小骨を骨折した。そこでこの少年は「指折れ太子」とあだなされた。この少年が阿闍世である。

阿闍世はその後すこやかに育った。しかし思春期を迎えてから阿闍世はお釈迦様の仏敵である提婆達多(だいばだった)から次のような中傷を受けた。「おまえの母はお前を高い塔から突き落として殺そうとした。その証拠に、お前の折れた小指を見てみろ」と言った(サンスクリット語のAjatasatruは「折れた指」「未生怨」の両方を意味する)。そして阿闍世は自分の出生の由来を知った。

この経緯を知って、それまで理想化していた母への幻滅のあまり、殺意に駆られて母を殺そうとする。しかし、阿闍世はその母を殺そうとした罪悪感のため流注という悪病(腫れ物)に苦しむ。そして、この悪臭を放って誰も近づかなくなった阿闍世を看病したのが、ほかならぬ韋提希その人であった。しかし、この母の看病は一向に効果が上がらない。そこでお釈迦様にその悩みを訴えて救いを求めた。この釈迦との出会いを通して自らの心の葛藤を洞察した韋提希が阿闍世を看病すると、今度は阿闍世の病も癒えた。そして阿闍世はやがて、世に名君とうたわれるような王になる。



*〈母〉という癒し

そして、こうした「阿闍世コンプレックス」を前提とした古澤や小此木氏が打ち出した精神分析的な治療論とは、言うなれば〈母〉の持つ癒しの力を重視する議論であったといえます。

まず古澤は「罪悪感の二種」においてには「あくなき子供の〈殺人的傾向〉が〈親の自己犠牲〉にとろかされて」はじめて子供に罪悪の生じたる状態になるとしています。ここで古澤は、母親から愛されたいという欲求を充足させることで母親への執着から解放され、他者を愛することができるようになるという、いわゆる「とろかし」技法の名で知られる治療機序を想定しています。

また古澤は『続精神分析入門』の訳者あとがきで、ある分裂強迫神経症患者の症例を挙げ、神経症の背景には患者の母親を独占したい強い欲求があることを指摘し、精神分析的治療はこの欲求を「何らの不安・恐怖をともなうことなく充足できるのです」と語り「そして、この欲求が満たされると、彼の精神生活は成長・成熟し、母親拘束から解放され、社会に適応し、他人を愛することができるパーソナリティに到達できるのです。ここにおいて精神分析学の真の目的が達成されるのです」と主張しています。

次に小此木氏は阿闍世物語を夫の愛を失うことを恐れた「母親のエゴイズム」に対する「息子の恨み」と、息子から殺意を向けられてなお、献身的に尽くす「母の愛」の物語として読み解き、こうした母子間における愛憎劇を乗り越えて母子が一体感を回復していく過程に一つの治療機序を見出しています。

そして小此木氏は「母性再考−−阿闍世の母韋提希の葛藤を辿る」(2003)という最晩年の論考で日本の母親像に関して「無償の愛とか、ゆるしとか、思いやりとか、やさしさとか、献身とか、自己犠牲とか、母性という言葉に含蓄されるすべて込められている。そのようにマゾヒズム的な母性の存在がいることで家庭でも職場でもうまく成り立って機能しているのだというのが日本人の阿闍世コンプレックス論の一つのテーマである」と述べています。


*〈母〉の持つ両義性

このように古澤と小此木氏の治療論の前提には、慈愛に満ちた存在としての〈母〉への素朴な信頼があるように思われます。ところがこれに対してユング派の心理療法家である臨床心理学者、河合隼雄氏は『母性社会日本の病理』(1976)において、当時、急増しつつあった登校拒否症やわが国に特徴的ともいわれる対人恐怖症の背景に日本社会における母性原理の優位性があることを指摘し、母性原理における「生み育てる」という肯定的側面の他に「呑み込む」という否定的側面に注目しています。

また戦後日本の文芸批評においても、古くは江藤淳氏が『成熟と喪失』(1967)において安岡章太郎氏や庄野潤三氏など「第三の新人」の作品を読み解く中で戦後日本における〈成熟〉の条件とは〈母〉を見棄てることによる「喪失感の空洞」のなかに湧いて来る「悪」を引き受けることであると主張し、近年においても宇野常寛氏が『母性のディストピア』(2017)において戦後日本における「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託からなる仮初めの〈成熟〉を「母性のディストピア」と名指し、宮崎駿氏、富野由悠季氏、押井守氏といった戦後アニメーションにおける巨匠たちの作品を読み解く中で現代の情報環境の中でますます肥大化する「母性のディストピア」の解除条件を論じています。

これらの議論において〈母〉とはいずれも乗り越えるべきものとして描き出されています。その一方で従来の〈母〉をめぐる議論ではもっぱら「母と息子」の関係における男性的な成熟が念頭に置かれていました。しかしながら、一般的にも「母と娘の関係はこじれやすい」としばし言われるように〈母〉の呪縛はむしろ「母と娘」の関係においてより強力に現れることがあります。


* 母娘関係の脱構築

こうした母娘関係の複雑さに光を当てた文芸批評として三宅香帆氏の近著『娘が母を殺すには?』(2024)があります。同書は母は娘に規範を与えるもっとも近しい存在であり、しばし娘は母の規範に成人してからも縛られていることを指摘し、娘はその〈成熟〉の過程で精神的な位相における〈母殺し=母の規範の相対化〉が必要であるといいます。こうしたことから同書では小説、漫画、ドラマ、映画などざまざまなフィクションの読解を通じて「母娘関係の脱構築」を提案します。

ここでいう「母娘関係の脱構築」とは母娘関係という名の二項対立に新たに第三項を導入することで母の規範を相対化させ娘の欲望を開いていく技法をいい、その理論的基盤としてポスト構造主義の哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリが『アンチ・オイディプス』(1972)で展開した非エディプス的な欲望観が参照されています。こうした同書の提案をこれまで述べてきた精神分析の語彙を使うと次のようにいえるでしょう。

もとより精神分析における「母娘関係の脱構築」はフロイトのいう「ペニス羨望」にはじまり、フェニヒェルのいう「少女=ファルス」やラカンのいう「象徴的ファルス」といった〈父〉に由来する第三項の導入によって行われていました(少なくとも理論的にはそのように想定されていました)。もっとも日本の場合は長らく「阿闍世コンプレックス」が唱えられてきたように〈母〉の影響が強く、こうした〈父〉に由来する第三項が十全に機能しない恐れがあります。そこで同書は「母娘関係の脱構築」を〈父〉とは異なる非エディプス的な経路からの第三項の導入によって行おうと提案しているということです。

もっとも同書によれば日本の文学史において母娘関係の複雑さが「発見」されたのは極めてごく最近になってからだとされています。そうであれば今後の日本文学においては、こうした母娘関係の複雑さとそこから抜け出るための第三項の在りようをこれまで以上に高い解像度で描き出していくことこそが、ひとつの大きなテーマとなるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 23:06 | 精神分析

2024年05月28日

西田幾多郎の哲学と精神病理学のあいだ



* 日本哲学のはじまりと西田幾多郎

日本における哲学の歴史は一般的にはPhilosophyを「哲学」という日本語に訳したことでも知られる西周が行った哲学講義によって始まったとされています。江戸幕府の洋学研究機関であった蕃書調所(のちの東京大学)の教授手伝並であった西は1862年(文久2年)に軍艦発注のために派遣された幕府の使節に随行し、オランダで法学や経済学と共に哲学を学び、明治維新後「育英舎」という私塾を開き1870年(明治3年)から「百学連環」という題目で哲学を含む学問全体を論じる講義を行っています。

やがて1877年に東京大学が創設された際には文学部に「史学、哲学及政治学科」が置かれ、1881年には独立した形での「哲学科」へと改編されました。この哲学科での教育に大きな役割を果たしたのがフェノロサやブッセやケーベルらの外国人教師であり、彼らの下からは近代日本を担う多くの人材が輩出されました。そして、このような受容期間を経て日本の哲学はついに自らの足で歩き始めます。そのことを示す記念碑的著作が1911年(明治44年)に公刊された西田幾多郎の『善の研究』です。

西田は旧制第四高等学校教授、学習院大学教授などを経て1910年に京都帝国大学文科大学助教授となり、1914年から1928年まで哲学講座の教授を務め「西田哲学」と呼ばれる独自の思想を創り上げ、その周囲には田辺元、和辻哲郎、三木清、九鬼周造、戸坂潤を始めとした錚々たる人材が集まり、いわゆる「京都学派」と呼ばれる一大知的ネットワークが形成されました。

西田の存命中も『善の研究』は繰り返し版を重ねましたが、戦後も特に1950年に岩波文庫版が出て以来、幅広い層に読み継がれて多くの研究書も出され、現在では英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語など多くの言語にも翻訳されています。

しばし同書は東洋の思想、特に禅の思想を西洋哲学の術語を用いて表現し直したものであると言われることがあります。もちろん西田は東洋の思想、特に儒教や仏教について深い理解を有していましたが、実際のところ同書はこれらの思想を積極的に論じるものではありません。もっともその一方で同書が問題とした「実在とは何か」「善とは何か」「宗教とは何か」といった問題を自らの力で考えていこうとするときに、東洋の伝統的な思想もまた、西田にとって大きな手がかりとなったことは確かです。いわば「西田哲学」とは西洋と東洋の間で練り上げられた思索であるといえます。


* 主客二元論と純粋経験

『善の研究』は第一編「純粋経験」、第二編「実在」、第三編「善」、第四編「宗教」の四つの部分からなっていますが、その中で最初に書かれたのが第二編「実在」です。そこで西田は同書で明らかにしようとする問題の所在を「天地人生の真相は如何なる者である、真の実在とは如何なる者であるかを明にせねばならぬ」と述べ、この問題に取り組むため「今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、凡ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑い様のない、直接の知識を本として出立せねばならぬ」と述べています。

そして、ここでいう「人工的仮定」について西田は「我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があって色々の働をなす様に考えている」と述べています。こうした考え方は哲学において一般的に「主客二元論」と呼ばれます。この「主客二元論」によれば「私」という主観と、その主観が働きかける「対象」としての客観とがそれぞれ独立に存在しており、この二つのあいだでさまざまな関係が成立するとみなされます。

けれども西田はこの「主客二元論」は事実をそのものとして捉えたものではなく、そこに既に「人工的仮定」としての先入観が持ち込まれてしまっており、それを取り除かなければなければ、ものの真のあり方を把握することはできないと主張します。このように同書の意図は西洋哲学を伝統的に規定している思考を根本から問い直すところにあります。

そして同書において西田が出した結論が「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」というものであり、ここでいう「意識現象」「直接経験の事実」を「純粋経験」と呼びます。

この「純粋経験」について西田は第一編「純粋経験」の冒頭で「純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである」と述べています。

これは何か特別な経験のことではなく、単にその辺の道に咲く花を見たりとか遠くから鳥の鳴き声が聞こえたりなどといった日常にありふれたごく普通の経験を指していますが、ここでは「色を見、音を聞く刹那」という点が重要となります。

ふつうに「経験」という場合、そこでは既に何かを見たり聞いたりする「私」というものが想定され、その「私」が見たり聞いたりする「対象」とのあいだに認識が成立するという枠組みが知らず知らずに作り上げられています。つまり、そこにはすでに「思慮分別」が入り込んでおり、そこで捉えられたものは、もうすでに我々はじかに経験したもの、物事の真相から離れているということです。


* 実在の在り処

これに対して物事の真相はその様な「思慮分別」が入り込む以前の「経験其儘の状態」であると言うのが西田の考え方です。我々は普通「私」という意識を持ち、例えば目の前に咲く百合の花を「この花は白い」などと判断したりします。しかし西田は「純粋経験」においてはただそこには白が白として意識されているだけであり、そこには「この花は白い」という判断も花を知覚しているという意識すらもないといいます。これが「色を見、音を聞く刹那」の意味するところです。

我々は通常、一方に自分の外にある対象を表象あるいは認識する「意識」を考え、そして他方でその意識によって表象される「物」を考えて、そのあいだに認識なり行為といった「関係」が成立していると考えます。そのような考えを徹底していくと意識の外部には我々が見たり聴いたり触ったりする以前の単なる物体の世界が広がっており、我々はその外的世界の情報を感覚器官を通して受け取りそれを脳に伝え、そこに色や音や手触りで満たされた内的世界が作りあげられていくことになります。

このような外的世界と内的世界を区別する立場からは当然、後者は前者を原因としてたまたま生じた結果であり、前者こそが第一次的な存在であり、後者は第二次的、あるいは派生的な存在であると考えが帰結されます。また外的世界は誰が計測しても同じ客観的世界であるのに対して、内的世界はそれを見たり聴いたり触ったりする人によって異なる主観的世界であるという見方が生じてきます。

しかし西田はそのような仕方で外的世界と内的世界を対置するのではなく、両者が一体になった世界のことを「経験其儘の状態」と呼び、そこにこそ実在が現前していると考えました。もちろん西田も我々が意識と対象を区別して感覚ないし意識する以前の対象そのものの存在を想定することを否定しているわけではなく、主客二分論的対立を前提とした科学的認識の持つ意義を認めています。西田が批判しようとしたのは意識に対置される対象が第一次的存在であり、我々の意識するものは主観的であやふやな反映に過ぎないという考え方です。 

我々が行っている具体的な経験においては、意識と対象とはひとつになっているし、その一つになった経験のなかにこそ、物のリアリティが現前しているというのが西田の考えです。それは決して主観的であやふやなものとして排除されるべきものではなく、それこそが「実在の真景」であり、そこに現前した物のリアリティこそが我々の生活を豊かにして意義あるものにしているということです。


*「もの」と「こと」

このように西田が『善の研究』において「純粋経験」という術語で展開した思索はいかにも思弁的な議論に聞こえてしまうかもしれません。けれども、我々の普段の認識や行為がこの「純粋経験」といかに密接に関わっているかはある種の精神の不調によって裏側から明らかになります。例えば西田哲学に造詣が深いことでも知られている精神病理学者の木村敏氏は「離人症 depersonalization」と呼ばれる症状との関わりでこの「純粋経験」を「もの」と「こと」の問題として議論しています。

ここでいう「離人症」という症状においては外界の事物や自分自身の身体についての実在感や現実感、充実感、重量感、自己所属感などといった感覚が失われるだけではなく、何よりもまず自分自身の自己がなくなってしまった、あるいは以前とすっかり違ってしまった、感情や性格が失われたという体験が訴えられています。

この点、木村氏は『時間と自己』(1982)においてこのような離人症において欠落する感覚を「こと」の消失として捉えています。すなわち、離人症においてはそれまでの日常において世界の「もの」的な知覚を背後から豊かに支えていた「こと」的な感覚が一挙に喪失して、世界はその表情を失ってしまうということです。

通常、我々が何かしらの対象ないし事物を具体的に見たり聴いたり触ったりするという経験の現場において、その対象ないし事物は我々の存在とはまったく関わりのない物体としてただ客観的に「もの」としてあるのではなく、そこで「もの」は「こと」と共生しており、これが「いま」という「あいだ」を構成することになります。これに対して離人症においては、この「もの」と共生しているはずの「こと」が、すなわち西田のいう「純粋経験」が失われてしまっているわけです。


* マインドフルネスと純粋経験

また西田は禅の思想に通暁し、自身も熱心に禅に取り組んでいたことで知られていますが、現代において禅の思想と実践は「いまこのとき」に意識を向けていくマインドフルネスアプローチとして心理療法の領域にも取り入れられています。

例えば第3世代の行動療法として注目される「アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)」ではさまざまな心理的・行動的な問題を言語と現実を混同した「認知的フュージョン」が引き起こす「体験の回避」の問題として一元的に捉え、マインドフルネスアプローチを基盤としてクライエントが「体験の回避」から「価値ある行動」に踏み出せるよう支援していきます。

このACTにおいては普段「わたし」と呼んでいる自分自身のイメージを「概念化された自己」と呼び、この「概念化された自己」への無自覚的な執着がしばし様々な精神の不調を生み出す原因になるとして、ここから自分自身を外側から客観的に見つめる「プロセスとしての自己」を経て、さらに俯瞰的に世界を眺める「文脈としての自己」への変容を促していきます。これは主客二元論における「わたし」を消去したところで生じる「純粋経験」の全面化であるともいえます。こうした観点からも思弁と実践が表裏一体になった哲学として『善の研究』を読み直すことができるのではないでしょうか。



















posted by かがみ at 22:26 | 精神分析

2024年04月23日

近代的有限化と別のしかたでの有限化−−自閉症スペクトラム障害における記憶の発達の見地から



*「自閉」から「自閉症スペクトラム障害」へ

「自閉 Autism」という言葉の起源は1911年、スイスの精神科医オイゲン・ブロイラーの統合失調症論に見出されます。ここで「自閉」とは「外界活動の離反を伴う内的生活の優位」と定義されています。それからおよそ30年後の1943年にアメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症 Early Infantile Autism」を報告し、ここで「自閉」という言葉は単独の疾患概念となります。

カナーはブロイラーの「自閉」を彷彿させる特殊な病態をこの病名で取り出しましたが、この段階では幼児自閉症は児童期に発症した統合失調症でありうると考えられていました。ところがその後、認知領域・言語発達領域における研究の進展に伴い1970年代には自閉症は脳の器質的障害であり統合失調症とは別の疾患だと考えられるようになり、さらにその病態の中心も言語の障害、ついで社会性障害へとシフトしていくことになります。

その一方でカナーの報告の翌年、1944年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーは子どもに見られる精神病質(今日的でいうパーソナリティ障害におおむね相当するもの)の一つとして、やはりブロイラーの自閉概念を参照しつつ「自閉的精神病質 Autistische Psychopathie」を報告しています。このアスペルガーの報告は諸般の事情があり長らく日の目を見ることがなかったわけですが、1980年代に入るとイギリスの精神科医ローナウィングが成人の症例にもアスペルガーの症例と同様の特徴が見られることを発見し、その一群を「アスペルガー症候群 Asperger Syndrome」と名付けます。

アスペルガー症候群はカナー型自閉症の診断基準を部分的に満たす症例であり、言語使用に関して特異的な発達が見られる一方で、コミュニケーションに関してしばしば適切さを欠いており、とりわけ非言語的コミュニケーションに難がある点に特徴があるとされています。ここで自閉症は「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」として再定義されることになります。これが世に知られる「ウィングの三つ組」です。

こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-X)」においてカナー型自閉症とアスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム障害 Autism Spectrum Disorder」という名のもとに統合されることになりました。

ASDの診断は現在では大きく2つの基準から行われます。その1つ目は社会的コミュニケーションの持続的障害です。その2つ目は常同反復的な行動や同一性へのこだわりなど限局化された興味や行動の様式です。これら以外にもASD児・者には感覚刺激への特異的な反応や記憶の異常や身体・運動技能の特異性といった多様な症状が見られます。


* 心の理論仮説

ASDの第一の診断基準である社会的コミュニケーションの持続的障害(対人相互的反応性の問題)とは(a)相手との注目・興味・関心の相互共有や双方向的な感情の交換や(b)目と目で見つめ合うことや表情身振りなど、他者に対する意思伝達的な仕草や行動や(c)状況に合わせて相手との関係を作り仲間を持とうとする傾向といった定型発達の子どもなら乳幼児期から自然に身につけているような対人行動上の間主観的な反応性が非常に弱かったり通常と異なっていることをいいます。

このようなASDの特徴については、その中核に人の心を読む能力(メタ表象能力)の困難があるという「心の理論仮説」というものが主張されました。そして、ここでいう「心の理論」の獲得のリトマス試験紙とみなされたのが「サリーとアンの課題」という名で知られる「誤信念 false belief」の理解を測る課題です。この課題ではある人物(サリー)が物をカゴに入れてその場を離れている間に、別の人物(アン)が物をカゴから別の場所にある箱に移してしまい、一連の様子を見ていた子どもに戻ってきたサリーが物を探すのはどこかを尋ねます。この課題に「カゴ」と答えるにはサリーは物を箱に移されたのを見ていないため、まだ物はカゴにあると勘違い(誤信念)しているはずだと推論しなければなりません。

定型発達児は4〜5歳ごろにこの誤信念課題に正解できるようになります。ところがASD児はたとえ6歳を超えても物が実際にある箱だと答えることが報告され、このことからASD児の障害は人の心を読む「心の理論」の欠陥にあるという仮説が唱えられることになりました。

しかしこの仮説の最大の問題点は実際には誤信念課題をパスしてしまうASD児がいるということです。ところが彼らはたとえ誤信念課題を解決できても現実の社会においては克服しがたい困難を示します。つまり日常生活で求められる社会的能力とは「心の理論」を用いた推論能力とは異なるということです。


* ASDの脳科学

このようにASD児における社会性障害は「心の理論」からは説明できません。彼らの困難は柔軟で即時的な、いわば直感的な人の心の理解にあります。こうした対人関係は計算や推論を行う以前に他者と情動を交換しつつ自らの感覚や身体を相手のそれと協調させる間主観的な相互作用により、自分と相手、および両者を取り巻く世界に意味づけを行う実体験として生じます。

人の行動は顔の表情、視線、声、目的的な動作など瞬間的な対人刺激に満ちており、定型発達者はそうした目に見える対人刺激からほとんど直感的に他者の行動を理解しているわけですが「心の理論」ではそこにあえて目に見えない「心」なるものがあるという前提を置いています。しかし、このような前提自体がむしろ定型発達的なコミュニケーションの実態を適切に説明できていない可能性があるわけです。

では対人刺激の直感的理解とは通常どのようにして生じるのでしょうか。この点、ヒトの脳には目や口の位置や方向などを見分けたり相手の表情や動作を見たりまねたりするときにだけ活性化する特定の領域群があり、これらの領域の多くはヒトでは脳の表面を覆う大脳皮質にありますが、これらの皮質領域は実はより深い皮質下の領域とも密接な連絡を持っており、こうした領域群と皮質下との相互作用が対人刺激を一瞬にしていわば自動的に拾って解読し、それに対する反応を調整し実行する独自の機構をなしていると考えられています。

そしてこのような直感的な対人理解を可能とする機構は生得的なものではなく、乳幼児以降の長い時間をかけて社会的な刺激に繰り返しさらされることで、そうした刺激に最も適した特殊な機構が形成されると考えられています。脳神経同士の連絡がまだ定まっていない乳幼児の脳では、さまざまな神経間連結が試された結果、頻繁に連絡のついたものだけが残り、徐々に安定した脳神経の連絡が決まっていきます。このよう脳神経の連絡が定型発達児とASD児では異なる発達の過程を辿っているものと考えられています。


* ASDの特性と記憶の発達

ここまで見たASDの第一の診断基準である社会的コミュニケーションの持続的障害については現在においては心理学や脳神経科学的で多くの知見が提出されています。これに対して第二の診断基準である限局化した興味や行動の様式をめぐる検討はあまり進んでいない状況にありますが、最近のASDの記憶に関する心理学的知見からある程度の考察を行うことが可能となっています。

人間の記憶はさまざまな情報を保持しています。保持できる期間の長さから記憶は大きく「短期記憶」と「長期記憶」に別れます。このうち「長期記憶」は「宣言的記憶(言語で表現できる記憶)」と「手続き的記憶(言語で表現できない身体感覚や運動・認知技能)」に分類され、さらに「宣言的記憶」は「エピソード記憶(自分自身の個人的な体験や出来事に関する記憶)」と「意味記憶(自分をとりまく世界に関する知識と概念)」に分類されます。

記憶形成のプロセスは常識的に考えれば、さまざまな「エピソード記憶」の蓄積から「意味記憶」が形成されていくように思われますが、実際は幼児は自分の体験したことをまず「意味記憶」として獲得してから「エピソード記憶」が定着するようになるといわれています。これは新奇の事象や環境に対応するための認知的負荷の軽減から説明されています。

「エピソード記憶」の発達には自己意識とコミュニケーション能力の発達が必要といわれています。この点、自己意識の指標となる「鏡映像認知(鏡に映っている人物がいまここにいる自分であるという意識)」は1歳半以降にならないと現れず、さらに子どもが自身の記憶をめぐり他者とコミュニケーションを行うにはどの情報をどのように語れば良いのかを取捨選択する学習が必要となります。このため一般的には最初の「自伝的記憶(自分の体験に関わるエピソード記憶)」は早くて3〜4歳以降に出現します。


* ASDにおける自己意識

そしてASDにおいては意味記憶は損なわれていない一方でエピソード記憶や自伝的記憶に特異性があることが知られています。ASD者のエピソード記憶には情報を自分に関連付けて記憶させる自己準拠効果が見られず、自伝的記憶においてもASD者は自分自身の体験として語られるエピソード記憶が定型発達者に比べて減弱しているとされています。

またASD者がしばし「タイムスリップ現象」や「サヴァン症候群」を示すことが知られています。タイムスリップ現象とは脈略や状況と無関連に何らかのきっかけで突然過去の感情体験を再現してしまう現象をいいます。また一部のASDが示すサヴァン症候群はバスや路線図や宇宙の惑星の名前をくまなく覚えていたり、過去の日付と曜日が瞬時にわかるカレンダー計算といった機械的記憶が知られています。このようにASDの記憶の特徴に共通するのは彼らの記憶が脱文脈的で断片的だということです。

この点、認知心理学者の内藤美加氏はASDの特性として自己体験意識(自分自身が体験したという強い想起意識)や心的時間移動(過去の追体験や未来の仮想的な事前体験)の減弱があるのではないかという仮説に基づき4〜6歳の定型発達児と知的な遅れのないASD児それぞれ94名(論考執筆時点)の参加者を対象に出典記憶課題(獲得情報の出典を想起し特定することを求める課題)と未来課題(新奇な未来事象のために必要な準備の段取りを尋ねる課題)の正誤を調べた結果から、ASD児は幼児期後半になっても時間的に拡張する一貫した自己意識や自己体験の意識が脆弱なままであり、それが成人になってもなお続くエピソード記憶の減退やタイムスリップといった記憶の混乱や特異性につながるのだと考えられると述べています。

このことから内藤氏はASDの記憶の特異性は社会性障害同様に神経学的基盤が関わっているとして、おそらく海馬を中心とする皮質下領域と上位皮質を結ぶエピソード記憶と未来思考の核となる神経組織の形成不全に起因するものであろうといいます。その一方で、特に自己に関わる情報の処理や自己意識は脳の特定の部位やネットワークが関連するという証拠はなく神経学的に局在しているわけではないことから、記憶と思考に関わる神経組織の形成の不全がもたらすひとつの帰結が記憶や時間性を伴う自己意識(心的時間移動)の特異性として現れるのではないかとして、このような自己意識の不全が「いまここ」にないものを想像し予期することへの困難や強い不安としてこだわりや限局化した興味などの症状と結びつくのではないかと推測しています。


* 近代的有限化と別のしかたでの有限化

その一方でこのようなASDにおける限局化した興味や行動の様式はASD者が断片化した自己をまとめ上げ、世界の中に自身が棲まうための「有限化の技法」であり、そしてこのような有限化は近代的有限化=主体化に対する別のしかたでの有限化であるともいえます。

例えば近代哲学を確立したイマヌエル・カントの超越論哲学においては我々が認識しているものは「現象」であり、その外部に不可知の「物自体」が想定されます。そして現代思想の領域において大きな影響力を行使するラカン派精神分析においてもこのようなカント的構図が引き継がれており、イメージの領域である「想像界」と言語の領域である「象徴界」の外部としてイメージや言語では意味づけができない「現実界」が想定されます。これらの構図はいずれも「物自体」とか「現実界」などといった到達不可能な外部から個人を有限化=主体化しようとする発想に立っています。

これに対して近年の哲学的潮流はこうした近代的有限化=主体化とは別のしかたでの有限化を提唱しています。例えば「思弁的実在論」や「オブジェクト指向存在論」といった現代実在論はカント以降、近代哲学を規定してきた「相関主義(世界には接近不可能なものがあり人間はそのような不可能性を整除した限りのものしか認識し得ないという立場)」を破棄し、人間による意味づけとは無関係に偶然的に実在する事物それ自体を問題にします。また現代ラカン派においてもラカンの娘婿であるジャック=アラン・ミレールが提唱する「逆方向の解釈」のようにシニフィアン連鎖以前に単独的に実在するシニフィアンとしてのララングの析出を重視します。

こうしたアプローチは「物自体」とか「現実界」などといった到達不能な外部から生み出される意味の無限増殖をいわばその「さらなる外部」としての実在レベルで有限化しようとする発想に立っています。こうした観点からいえばASDにおける限局化された興味や行動の様式は世界における意味のカオスを常同反復的な行動や同一性へのこだわりといった実在的なリズムで切断していく「有限化の技法」であるといえるでしょう。そして、このような近年の哲学的潮流の傾向性とASDの前景化は現代という時代におけるある種のコンステレーションとして把握することもできるのではないでしょうか。



参考:内藤美加「記憶の発達と心的時間移動:自閉スペクトラム症の未解決課題再考」『発達障害の精神病理T』(2018)所収

















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2024年03月25日

生命の〈あいだ〉



* 木村精神病理学の生命論的転回

日本を代表する精神病理学者である木村敏氏は統合失調症やうつ病をはじめとする様々な精神疾患を〈あいだ〉という独自の概念から読み解いていったことで知られています。ここでいう〈あいだ〉という概念とは個人が存在し、その個人どうしが取り結ぶ関係として成立するものではなく、むしろ個人に構造的に先行して個人の存在を根底で支える何者かを指しています。

そして、この〈あいだ〉という概念は「自己と他者」との関係のみならず「自己と自己」との関係に対しても適用されます。こうしたことから木村氏はうつ病(内因性うつ病)を自己と他者との〈あいだ〉が問題となる病理として捉え、統合失調症を自己と自己との〈あいだ〉が問題となる病理として捉えました。

やがて木村氏は、こうした〈あいだ〉を「時間」として論じられるようになり、氏の名を世に広く知らしめることになった著作である『時間と自己』(1982)においては〈もの〉としての時間と〈こと〉としての時間の〈あいだ〉としての時間が自己との等根源性をなすものとして析出され、時間構造と精神疾患を重ね合わせた「アンテ・フェストゥム(まつりのまえ)」「ポスト・フェストゥム(あとのまつり)」「イントラ・フェストゥム(まつりのさなか)」という三つ組からなる「祝祭論」が展開されることになります。こうして木村精神病理学はある種の人間学として名実とともに成熟期を迎えることになりました。

もっとも同書のあとがきにおいて木村氏はやや唐突に「私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか」「この夢の主は、死という名を持っているのではないのか」と述べています。同書の論旨からすれば逸脱としか思えないこの記述は、今から見ればまさしくその後の木村精神病理学の新たな展開を予告するものであったといえます。

果たしてここからの木村精神病理学は「生と死」をめぐる「生命」の領域へと旋回していくことになります。このような木村精神病理学の「生命論的転回」において特権的に参照される思想家がヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーです。


* ヴァイツゼカーの医学的人間学

ヴァイツゼカーは精神科医ではなく内科医、神経科医であり同時に哲学者でもあった人物ですが、彼は早くから客観主義的な自然科学的医学に対する批判を展開し、医学に「主体」を導入する「医学的人間学」を提唱したことで知られています。このような主張は今日的な医療倫理からみればごくあたりまえのことを言っているようにも聞こえます。しかし、ここでヴァイツゼカーのいう「主体」とはかなり奇妙な概念です。

彼のいう「主体」とは「客体」と対立する項としての「主体」でも、近代的自我という意味での「主体」でもなく、広い意味での「生きもの」とその外部である「環境世界」との邂逅それ自体を指しています。この点、彼は生きものがその生存を保持するため環境世界との間に保っている接触現象のことを「相即 Kohärenz」と呼びます。生きもの自身も環境世界も絶え間なく変転する中で、この「相即」は絶えず繰り返し中断されることになり、そのたびにそれに変わる新たな「相即」が樹立されて、生きものと環境世界との接触は引き続き保たれることになります。

このような「相即」と呼ばれる事態を、それによって生存を保っている当事者である生きものの側から見たものが、彼のいう「主体」ということになります。すなわち、彼のいう「主体」とは「相即」と呼ばれる環境世界との接触現象そのものであり、いわば生きものとその環境との〈あいだ〉の現象であると理解できます。

こうした意味で彼の主体概念において人間的な「意識」は要件とされておらず、その範囲は人間以外の全ての生物、それも随意運動の可能な動物だけではなく、植物から単細胞生物まで拡大されて適用されます。すべての生きものは環境世界と「相即」を成立させている限り「主体」として生きているということです。

こうしたことからヴァイツゼカーの主体概念は生きものが「生きている」という事実から切り離すことができません。「生きている」ということは一定の物質的組成を持った物体が「生命」と呼ばれる活動のうちに身をおき「生命」に根ざしているということです。このような生きものが自らの根拠としての「生命」に根ざしたあり方を、彼は「根拠関係」と呼びます。そして、このような「生命」への「根拠関係」こそが生きものを「主体」たらしめている「主体性」であり、ここから彼は医学への「主体」を導入する上ではこのような「主体」を成立せしめている「主体性」としての「生命」に関与することが必要になると主張します。


* 二重の主体性と生命論的差異

このようにヴァイツゼカーの医学的人間学は「患者さんの主体性を大事にしよう」などという常識的なヒューマニズムではなく、人の生死の問題を個人を超えた「生命」という局面から見ていくという意味ではむしろラディカルなアンチ・ヒューマニズムに立脚するものであるとすらいえます。

この点、木村氏はヴァイツゼカーの医学的人間学を高く評価しつつも「集団的主体性」という概念からその思想をさらに更新しようとします。ここでいう「集団的主体性」とは個人の「個別主体性」に先立つ共同的な主体性であり、このような「集団的主体性」は精神科の臨床はもとより、音楽の合奏や日常的な人間関係にも見出すことができるとして、通常は「個別主体性」の肥大で覆い隠されている「集団的主体性」を考古学的に発掘することによって人間学的な諸問題に新しい光を投げかけることができるのではないかと木村氏はいいます。

こうした「集団的主体性」を軸とした木村氏の生命論は1996年秋に開催された国際シンポジウム「生命論」における二つの講演でまとまったかたちで論じられています(いずれの講演も『こころ・からだ・生命』に収録されています)。

まず第一講演「心身相関と間主観性」で氏は「間主観性」を「公共的間主観性(認識や行動の基盤として客観性の基礎となる通常の意味での間主観性)」と「私的間主観性(本能的な次元で痛みや喜びや悲しみを共有する間主観性)」に区別した上で「公共的間主観性」が複数の主観的経験や主体的行動のあいだでいわば二次的に成立する関係であるのに対して「私的間主観性」とはむしろ〈あいだ〉そのものが個別の主観/主体から独立した独自の主観性/主体性を帯び、それ自体がある意味で独立の主観/主体として働いているような事態であるとします。

ここで氏はヴァイツゼカーの「相即」の概念を援用して〈あいだ〉の主体としての「私的間主観性」を「個別主体性」とは別の「集団的主体性」として位置付け、生きものを「個別主体性」と「集団的主体性」という「二重の主体性」の緊張関係を生きる存在であると捉えます。

さらに第二講演「人間的医学における生と死」で氏はまず「リアリティ」と「アクチュアリティ」の区別から出発して「生命そのもの」は生きている〈もの〉としての実在(リアリティ)ではなく、生きている〈こと〉という現実(アクチュアリティ)として捉えなければならないといいます。

そして、氏はこの生きている〈もの〉と生きている〈こと〉という生命論的差異を、第一講演で提示した「個別主体性」と「集団的主体性」からなる「二重の主体性」へと接続し「個別主体性」は個々の生きものに基盤をもつ「リアルな不連続性」を体現するものであるのに対し「集団的主体性」は「生命そのもの」に基盤をもつ「アクチュアルな非・不連続性」を実現しているとして、生きている〈もの〉としての個別的な生命が「自と他」の区別とともに「生と死」の区別を抱え込まざるをえないのに対して、生きている〈こと〉としての「生命そのもの」には「自と他」の区別も「生と死」の区別も存在しないと述べています。こうしたことから「生命そのもの」はヴァイツゼカーの言っているとおり(個の生死を問題とする限りにおいては)けっして死なないと木村氏は述べてます。


* 木村生命論の問題点と可能性

このようにおそろしく並外れたスケールで展開されていく木村氏の生命論に対しては当然のことながら「生命を実体化し過ぎている」という批判が向けられます。例えば山竹伸二氏は日本を代表するセラピストを論じた著作である『こころの病に挑んだ知の巨人−−森田正馬・土居健郎・河合隼雄・木村敏・中井久夫』(2018)において木村氏の生命論を「自己」が「自己ならざるもの」としての自他未分の「生命」から分離する物語になっていると捉えた上で、確かに「自己」は最初からあったわけではなく、どこかの時点で成立し、意識されるようになったに違いないけれど、こうした自己形成のプロセスを証明することは決してできないし、自他未分の「生命」の存在も仮説でしかありえないように思えるといいます。

この点、木村氏は「生命を実体化し過ぎている」という批判につき、ここでいう「生命」とはリアリティとして対象化された生命ではなく、アクチュアリティにおける生命を語っていることから、このような批判は見当違いであり〈もの〉の世界であるリアリティと異なり〈こと〉の世界であるアクチュアリティは主観的に関わる中でしか感じ取ることができないといいます

これに対して山竹氏は誰しも世界の中に生き生きした生命的なものを感じる瞬間はあるだろうし、木村氏の主張するアクチュアリティの世界について共感できる部分も少なくないとしつつも、木村氏の語る「生命」が対象化され得ないアクチュアリティにおける「生命」だとしても、その連続的な生命からの個別化を「自己」の形成として語るのは、やはり証明できない仮説といえるのではないかといいます。

ただその一方で山竹氏は木村氏自身の実存的な実感や体験に根ざしたその生命論は精神病理学でいうところの「自然な自明性(ブランケンブルグ)」や「現実との生ける接触(ミンコフスキー)」と同じ経験を指しているとして、こうした意味での生命を感じる経験の喪失は現象学的・人間学的精神病理学者たちが共通して重視してきたものであると述べています。確かに現象学が木村氏がいうところの「自分自身の経験に直接映ってくる景色をありのままに写生する」ための方法論であるとすれば、氏の生命論はむしろ現象学的精神病理学における可能性を大きく開いたものであったともいえるでしょう。


* 生命の〈あいだ〉

ところで木村氏は生きている〈こと〉と生きている〈もの〉の差異を神話学者カール・ケレーニイの知見に倣い、ディオニュソス的な生そのものとしての「ゾーエー Zoe」とアポロン的な個々の生命としての「ビオス Bios」の差異としても捉えています。

ここでいう「ゾーエー」も「ビオス」もともに「生」を意味するギリシア語ですが「ゾーエー」が今の英語の「動物学 Zoology」の語源になっており「ビオス」が同じく「伝記 Biography」の語幹になっているように、前者は「動物的/身体的」という含意があり、後者は「人間的/精神的」という含意があります。この意味で木村氏の生命論は人間と動物という生命の〈あいだ〉を論じたものであるともいえます。

この点、例えばハンナ・アーレントが公共性の概念をめぐる古典『人間の条件』(1958)において人間の生におけるゾーエーとビオスの位相をそれぞれ私的領域(オイコス)と公的領域(ポリス)の区別に重ねていたように、近代思想の基本的枠組みは人は私的には動物として生きて公的には人間として生きるという二項対立の上に成り立っていました。

しかしながら、その一方でアレクサンドル・コジューヴがヘーゲル的な「歴史」が終焉した後の人間の「動物化」を論じ、ミシェル・フーコーが「近代」の終焉としての「人間の消滅」を予告したように、現代思想の領域において動物と人間という二項対立に依拠した公共性のパラダイムは常に問いに付されてきました。

そして、現代ではフーコーのいう生政治の肥大化や生物工学や情報工学の飛躍的発展により、動物と人間の二項対立はまさしく現実的なレベルにおいて揺らぎを見せているといえます。こうした意味でこれからますます加速するであろう「ポスト・ヒューマニズム」とも呼びうる状況の中で、動物と人間の二項対立を超えたところで生命の〈あいだ〉を深くまなざす木村生命論は、あるいはこれまでとは全く異なる新たな輝きを見せてくれるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 23:51 | 精神分析

2024年02月22日

統合失調症中心主義とポスト・ヒューマニズム



* 存在と狂気 

20世紀最大の哲学者の1人に数えられるマルティン・ハイデガーが1927年に公刊した主著『存在と時間』は「存在の意味」の解明をその目的に謳っています。同書はまず上巻でその準備作業として現存在(人間)の実存論的分析を展開し、続く下巻では同書の本来の目的である「存在の意味」が解明されるはずでした。しかし同書上巻の公刊後「存在の意味」を問うための準備作業であったはずの現存在の実存論的分析がまさに「存在の意味」の解明という本来の目的を阻害するという構造的欠陥に気づいたハイデガーは同書下巻の公刊を断念します。

それ以降、ハイデガーは現存在を経由することなく「存在の真理」を直接問うようになります。これがいわゆるハイデガーの「転回 Kehre」と呼ばれるものです。そして、このまさにその「転回」を迎えつつある時期に執筆された「芸術作品の根源」という論文においてハイデガーは芸術を通じて「存在の真理」を論じています。

本論文でハイデガーは芸術作品を次のような4つの時代に区分けしています。まず、プラトンが『国家』において論じたような⑴芸術作品が模倣によって作られた時代があります。そのあと⑵芸術作品のうちに「存在」が据えられるようになる時代が来ます。次に⑶中世になると芸術作品は「神によって創作されたもの」としての存在者になります。そして⑷近代に入ると芸術という存在者は「計算」によって統御可能なものに変貌します。そして、ハイデガーはこの論文では⑷の近代以降の、いわば神が不在になった時代の芸術作品を論じています。

そして本論文の中でハイデガーはフィンセント・ファン・ゴッホが描いた百姓靴の絵画《古靴》(1888年)を近代以降の芸術における範例として取り上げています。一見するとこの絵は単に百姓靴を描いただけですが、ハイデガーはこの靴は道具としての靴が属する「世界」と道具としての靴を生み出す「大地」の「抗争」が力強く立ち現れているとして、絵画が事物と一致しているか(本物そっくりに描けているか)どうかは絵画において真理が生起しているかどうかとはまったく関係がなく、むしろ絵画は事物をこれまで気づかれていなかった新たな角度から描くことで、その見方を一変させて「不気味で途方もないものを衝撃的に打ち開き、同時に安心できるものと、人々が安心できるとみなすものとを、衝撃的に打ち倒す」ものであると主張します。

すなわち、絵画という芸術は事物を見る我々の視点を「移動=逸脱 Verrückung」させて、日常的な物の見方をすっかり変容させてしまう働きを持っているということです。ここからハイデガーは次第にこの「移動=逸脱」という言葉についての考察を深めていきます。例えば1937〜1938年の冬学期講義『哲学の根本的問い』の第一草稿の中でハイデガーはこの「移動=逸脱」という言葉を理性が正常から偏奇=逸脱 Verrückenした状態を指す「狂気 Verrücktheit」と関連づけて論じています。

この点、ハイデガーは神の庇護を失った西洋の近代人には人間という存在の変貌が生じており、かつてあったような自分の所在地を失ったという意味において危機的な状況にあるとして、そのような時代には人間の本質の根拠へと「移動=逸脱」することが必要となり、そのように「移動=逸脱」はしばし「狂気」として現れるといいます。こうしてハイデガーは近代における特権的な芸術家として、時に「狂気の詩人」とも呼ばれるドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンを繰り返し論じ、彼の詩作の解明を通じて「存在の真理」の探求を行っていく事になります。


* ヘルダーリンと統合失調症

ヘンダーリンは1770年3月20日にネッカール湖畔の小さな町で出生しました。父親は修道院と教会の管理人でしたがヘンダーリンが2歳の時に亡くなっています。ヘルダーリンは元来傷つきやすく孤独を好み、どこか人生によそよそしさを感じており、他者に対してはしばしば猜疑心を起こすメンタリティの持ち主だったようです。

十代の頃より詩作に深い関心を寄せていたヘルダーリンは1791年に「調和の女神への讃歌」で詩人としてデビューし、当時を代表する詩人であったフリードリヒ・フォン・シラーの知遇を得て、1794年にはシラーが編集する雑誌に「断片ヒューペリオン」を発表し、1797年には『ヒューペリオン』第1巻を刊行します。しかしその後、恋愛トラブルと生活苦に陥り、この頃から精神に不調をきたし始めます。

1799年の『ヒューペリオン』第2巻の刊行後、ヘルダーリンの頭には新たな文学的・美学的・哲学的雑誌を創刊するという考えが閃きますが、シラーの協力を得られず、その閃きは結局のところ実現化することはありませんでした。その後、ヘルダーリンの精神の危機はいよいよ深刻なものとなり、痴呆化が徐々に潜行し、叫んだり暴れたりする狂暴発作を繰り返すようになり、まさに「狂気」というべき様相を呈していきます。こうしてヘルダーリンは1807年には『ヒューペリオン』の熱心な読者の家に引き取られ、以後、1843年に73歳で没するまでの生涯をその家の塔の中で過ごすことになりました。

もしもカルテが残っていればヘルダーリンの「狂気」は現代においては統合失調症と診断されていた可能性が高いといわれています。そして「パンと葡萄酒」といった彼の代表的な詩作はまさにその発病前後からその極相を迎えた時期にかけて作られたものでした。この点、精神病理学者カール・ヤスパースは1922年の『ストリンドベリとファン・ゴッホ』において統合失調症者においては一時的に「形而上学的な深淵」が啓示されるとして、1801年から1805年にかけてのヘルダーリンがまさにそのような状態にあり、それゆえに彼は優れた詩作を行うことができたのだと主張しました。


* ハイデガー哲学の統合失調症化

そしてハイデガーは、この「狂気」の中でヤスパースのいうところの「形而上学的な深淵」に不可避的に引き寄せられながら詩作を行ったこの詩人を範例として「存在の真理」をめぐる自身の思索を深めていきます。

例えば1936年の講演「ヘルダーリンと詩の本質」でハイデガーは詩人が行う詩作は神に名前を与えることであるが、詩人が神に名前を与えることができるのは、神の側が詩人に「合図 Wink」を送り、その合図のなかで詩人たちのことを話題にするかぎりにおいてであるといいます。すなわち、神のような超越的な他者から人間に向けて何らかの謎めいた「合図」が起こられ、その「合図」が人間に対して「何か」を仄めかすという体験はまさに統合失調症の初期から急性期にしばしば報告されるものであり、ハイデガーによる神の「合図」の記述はまさに統合失調症の体験を描写しているかのようでもあります。

この点、精神病理学者の松本卓也氏は『想像と狂気の歴史』(2019)において病跡学的な観点からいえば「転回」以後のハイデガーによるヘルダーリンの詩をめぐる議論は統合失調症の精神病理学に肉薄していると指摘し「統合失調症化」した後のハイデガー哲学はいわゆる「否定神学」的な構造を持つようになると述べています。ここでいう「否定神学」というのは神は人間の認識や言語では捉えられないが、むしろその「捉えられなさ」という否定性それ自体が重要だとみなす考え方をいいます。そして、この「否定神学」では「神は現れないが『現れない』という仕方で現れる」という思考法がしばし用いられます。

こうした意味でハイデガーのヘルダーリン論における「否定神学」的な構造が最もよく現れているのが1946年の「何のための詩人たちか」という論文です。この論文の中でハイデガーはヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」を参照しながら、ヘルダーリンを「乏しい時代 dürftiger Zeit」の詩人であると規定します。ここでいう「乏しい時代」とは、神によって支えられていた時代が過ぎ去った後に到来する神なき時代のことをいいます。

そして、ハイデガーによればヘルダーリンのような詩人の詩作とは、いまや逃げ去ってしまった神々の「聖なるもの」としての「痕跡」を感知し、その「痕跡」に名を与えることで、再び人間が神々と出会うことのできる場を準備し、将来において神々が到来する可能性を確保する営為に他ならないということです。つまり神が人間の前に姿を現さなくなった時代においても人々は「痕跡」という否定的な形で神と出会うことができるということです。すなわち、ハイデガーが論じる「神」とは人間の通常の認識や言語では捉えられないものですが、むしろその「捉えられなさ」という否定性それ自体が、神との出会いや将来における来るべき神の到来を保証する条件になっているということです。


* 詩の否定神学と統合失調症中心主義

こうしたハイデガー哲学における否定神学的な傾向は1950年代以降の詩論においてより洗練された形態をとって反復されることになります。例えば1952年の講演をもとにした「詩における言葉−−ゲオルク・トラークルの詩の論究」という論文でハイデガーはトラークルの詩を題材にしながら、偉大な詩人が作り上げる個々の詩は、そのすべてが唯一の「語られぬまま」の詩、すなわち不在の詩の場所から由来しているとして、詩人の偉大さとは「詩人の心がこの唯一のものにどの程度まで吐露されており、それによって詩人がその詩の言葉をこの唯一のものの中でどれ程純粋に保ちうるに至っているか」によって測られると主張します。この考え方にも(神の)不在の近くに留まりながらその不在に忠実であることから詩作が行われるという否定神学的な構造を見ることができます。

さらに1958年の講演「語」では再びヘルダーリンの詩「パンと葡萄酒」が参照され、ここでハイデガーは「かつて神々が立ち現れた場所は、かつてはそこに語があったのに、いまでは拒絶された語である」と述べ、シュテフィアン・ゲオルゲの詩「語(ことば)」における「語の欠けるところ ものあるべくなし」という一節を「(語が欠けた場所においては)語るという行為 Sagen が転換し、語りえない言い伝え unsäglichen Sage がほどんど隠されたざわめく歌のように反響するようになる」と解釈します。ここでもやはり「語」の欠落という否定性は、むしろその欠落した語を暗示する言葉に向かうという否定神学的な構造が語られています。

このようなハイデガーの語る詩作における否定神学的な構造は統合失調症の発病時にみられる現象とよく似ています。統合失調症は進学、結婚、出産、就職、昇進といったライフイベントの際にしばしば発病することが知られていますが、発病直後に多く見られる幻聴は単にデタラメな内容の声が聞こえてくるのではなく「何か」を暗示するような言葉として現れます。こうして統合失調症者は自分に聞こえてくるようになった声が正体不明の「何か」を仄めかしていることに気づき、やがてその「何か」はしばしば「FBIに狙われている」などといった妄想の形をとることになります。

こうしたことから松本氏はハイデガーの展開した一連の詩論を「詩の否定神学」と名指し、このような思考が「創造と狂気」における「統合失調症中心主義」として20世紀の精神病理学/病跡学を決定的に規定することになったといいます。

ここでいう「統合失調症中心主義」とは統合失調症を患っていたと考えられる傑出人の創造性に特に注目し、反対にうつ病や躁うつ病(双極性障害)のような病を患っていた傑出人の創造性にはあまり注目せず、それどころかこれらの病や創造性を統合失調症と比べて「二流の病」「二流の創造性」として扱う考え方です。

そして、このような「統合失調症中心主義」はヤスパースのいう「形而上学的な深淵」のように統合失調症を理想化して「統合失調症者は理性の解体に至る深刻な病に罹患することと引き換えに、人間の本質にかかわる深淵な真理を獲得するに至った人物である」という「悲劇主義的パラダイム」に支配されていました。けれども、その一方で定量的な研究によれば統合失調症よりもうつ病や躁うつ病のような気分障害の方が創造性と関係しているというデータが多数得られているという事実もあります。


* 統合失調症中心主義とポスト・ヒューマニズム

なぜ統合失調症は長らく精神病理学/病跡学において特権的な狂気に祭り上げられてきたのでしょうか。この点、ポスト構造主義を代表する思想家の1人であるミシェル・フーコーは『狂気の歴史』(1961)において近代以降、人々は狂気の中に真理を見るようになったと述べています。フーコーはこういう態度を「弁証法的人間 homo dialecticus」と呼びます。つまり自分(理性的人間)にとっての他者(非理性としての狂気)の中に自身の真理をみるという態度です。

すなわち「統合失調症者は理性の解体に至る深刻な病に罹患することと引き換えに、人間の本質にかかわる深淵な真理を獲得するに至った人物である」という「悲劇主義的パラダイム」に支配された「統合失調症中心主義」とはこうしたフーコーのいう「弁証法的人間」の一つのバリエーションであるということです。

もっとも、現代においては統合失調症は病それ自体が軽症化しているといわれており、創造性に関しても統合失調症以外の病理、例えば境界例や躁うつ病、最近では自閉症スペクトラム等が注目されはじめていることから、長らく精神病理学/病跡学を規定してきた「統合失調症中心主義」はその覇権を徐々に失っていくかもしれない、と松本氏はいいます。

この点、フーコーは彼を時代の寵児に押し上げた主著『言葉と物』(1966)において「人間の消滅」という挑発的なテーゼを提示しています。同書においてフーコーは西洋の歴史における「エピステーメー(ある時代における思考様式)」はルネサンス期(16世紀以前)における「類似」から、古典主義時代(17〜18世紀)における「表象」を経て、近代(19世紀以降)における「人間」へと不連続的に変化してきたと主張しています。その上でフーコーはいまや「人間」も主役の座から降りようとしているといい、同書は「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」と結語しています。

もちろん、フーコーのいう「人間の消滅」とはあくまでも「人間」という観念の終焉を指す思想的な出来事でした。しかし21世紀に入ると生物工学(ゲノム編集)や情報工学(人工知能)といったテクノロジーの発展によって「人間の消滅」がいよいよ現実のものとなり始め、ここから従来の「ヒューマニズム(人間中心主義)」を揺るがす「ポスト・ヒューマニズム」というべき状況が前景化してくることになります。こうした意味で「人間(弁証法的人間)」を前提とする精神病理学/病跡学における「統合失調症中心主義」も目下加速する一方であるポスト・ヒューマニズム的な状況の中で抜本的に問い直される時が来ているといえるでしょう。















posted by かがみ at 23:53 | 精神分析