2016年06月01日

【書評】アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』〜劣等感と劣等コンプレックスは違う

個人心理学講義―生きることの科学 (アドラー・セレクション)
アルフレッド アドラー
アルテ
売り上げランキング: 32,480


本書は成立における諸般の事情も相まって「読みにくい」とか「体系だっていない」という評価もありますが、それはその通りだと思います。また『嫌われる勇気』で大きくクローズアップされている、勇気づけ、課題の分離などについてはあまり立ち入った考察はされていないです。

よってアドラー理論を生活の中でいますぐ役立てたいという人向きではないと思います。ただ、アドラー理論の中核である、優越性の追求からライフスタイルの形成、劣等コンプレックスに至るまでの論証はとても詳細でわかりやすい。

フロイトの精神分析によれば、人の根本衝動はおなじみ「性欲」とされますが、アドラーはこれを否定して、人の根本衝動を「いまよりより良くなろう」とする「優越性の追求」であるとする。

つまり、人はあくなき優越性を追求する生き物であり、逆に言えば現状に常に満足していない。これを称して「劣等感」という。劣等感は否定されるべき感情ではなく、より良くなろうとする優越性の追求と裏表の関係(相補的関係)にあります。

そして優越性の追求(劣等感)の結果、形成された個人的な信念や世界観をライフスタイルと呼び、何らかの挫折経験でライフスタイルを拗らせてしまった状態が「〜だから俺はダメなんだ」という劣等コンプレックスと呼ばれるものということになります(そういう意味で劣等コンプレックスというものは精神分析でいうエディプスコンプレックスとは位相を異にするものであり、どちらが根本的なコンプレックスかという二者択一的な議論はやや的外れのように思えます)。

やや話が逸れましたが、こういったアドラー心理学の根本を為すともいえるロジックが本書において実に詳細に展開されている。アドラー自身が本書の結語で述べている通り、個人心理学の方法論は劣等感の問題に始まり、劣等感の問題に終わるということがよく理解できる。本書でアドラーに入門するのはお勧めできないですが、参考書としては必読ともいえるでしょう。
posted by かがみ at 05:11 | 心理療法

2016年05月31日

【書評】向井雅明『ラカン入門』。

ラカン入門 (ちくま学芸文庫)
向井 雅明
筑摩書房
売り上げランキング: 22,900


「入門」とは銘打っているものの、初心者には難しい。なんかラカンってサブカル評論でよく出てくる名前だし、さくっと全体像だけ掴みたいな的なニーズには向かない本かもしれません。もちろんそれだけ濃密な内容ということなので、一通りの全体像を見渡せるようになってもう一度再読すればかなり勉強になりそう。

最初読んだときは文章が若干回りくどいと感じられて、読書メーターでも申し訳ないことに初読の率直な感想をそのままにそういう書評を書いてしまったんですが、その後、新宮本やフィンク本などに当った後に再読するにあたって思うのはこれは多分、ラカニアンの方の中では相当わかりやすい部類なんじゃないでしょうか、ということです。かなり誠実に書かれているように思う。本書はもともと「ラカン対ラカン」という表題で出版されたものの改訂版であり、奇怪難解で知られるラカンの理論体系をラカン自らを以って明らかにしようとした試みでもあります。

ラカン読解の手順としてはとりあえず現実・想像・象徴といった例の三幅対を抑えた後は前期理論の集大成と言われる「欲望のグラフ」の解析に取り組むべきなんでしょうかね・・・向井さんは欲望のグラフについて本書でかなりのページを割いて丁重に解説されています。

欲望のグラフにせよ父性隠喩にせよ、ラカンの理論の中核は一貫してフロイトのエディプスコンプレックスの構造的・理論的解明なんですよ。いまどきエディプスコンプレックスなんて大真面目に言うと嘲笑されるのかもしれませんが、そもそもあれは分析主体の個人的経験として理解するべきではないんでしょう。人間に先天的に内在する母性原理と父性原理の止揚の過程における一つの神話的な説明であるというという理解であれば、ある程度、納得できる部分もあると思われます。
タグ:こころ
posted by かがみ at 01:45 | 心理療法

2016年04月11日

日本一わかりやすいラカン入門書

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)
斎藤 環
筑摩書房
売り上げランキング: 89,953


自称「日本一わかりやすいラカン入門書」。多分その看板にそこまで偽りはないと思いますが、何年も前の本ですし、いまさらこんなところで初学者が書評めいたことを書いてもどうかと思いますので、現時点での私的なラカン理解をノート風にまとめておきたいと思います。

要するに、我々(主体)は日々、位相が微妙にずれた三つのセカイを同時に生きているわけです。これをラカン用語で現実界、想像界、象徴界といいます。これは意識-前意識-無意識みたいな階層構造ではなく、互いにもたれかかった円環構造をなしており、三つのセカイは相互に連関しているとされます。

まず「現実界」は絶対に認識することは不可能な世界です。そうです、この「現実」は絶対にどんなことがあっても認識できない。

・・・もうなんかこの時点でお前は何を言っているんだという感じですが、これはちょっと考えればわかります。我々が日々暮らしているこの「現実のようなもの」は、感覚器官を通じて得た情報を脳内で「想像」したものに過ぎません。従って、我々がいま見ている「現実のようなもの」は「想像界」と呼ばれます。

そして、我々はこの現実を「言語(ラカンでいう「シニフィアン」)」というツールで理解する。例えば目の前に花が咲いているとします。我々はそれが「花」だと思う。ここに事象の認知→言語の選択という変換動作が介在するわけですが普段我々は「さあ今から目の前の『それ』を『花』だと理解するぞ」などと思ってやっていませんよね?従ってこの変換動作は無意識的なものということになります。つまり「言語」というのは無意識という別の世界(ラカンでいうところの「大文字の他者」)に存在するものというわけです。

さすがにこの辺りは精神分析の基礎理論がないとイメージしずらいかもしれませんが・・・ともあれ「言葉」とは何かを「象徴」するものであることからこの無意識的世界を「象徴界」と呼びます。文脈を外れたわけのわからないことを言う人を世間では「精神病」とか「統合失調症」などと言いますが、これは象徴界が壊れてボロメオの輪が外れかかっている現象と言えるわけです。また言語により現実全てを把握できるわけがなく、その掬い取りきれなかった残滓が欲望の原因と言うべき対象 a である・・・こういう理解で良いのでしょうか・・・?この辺りはまだよくわかっていませんので、他のいろんな本も読んでいって都度その成果(?)をここに書き連ねていきたい、などと思っています。

あとはもうどうでもいい私事ですが・・・昔、『ユリイカ』と言う雑誌で「魔法少女に花束を」っていうまどか☆マギカの特集があってて、その冒頭の評論を書かれていましたのが斎藤環さんです。その、内容はなんか・・・難しくてよくわからなかったんですけど、ただ「ラカン」と言うキーワードだけはよく憶えていて。いつかちゃんと勉強したいなって思いつつ、ようやく時ここに至るという感じでしょうか。ラカンに初めて触れた人は皆抱く印象なのかもしれませんが、本書でも何度か引用されているフランスの作家の言葉「変われば変わるほど、変わらない(Plus ça change, plus c'est la même chose.)」ならぬ「解れば解るほど、解らない」という、今はとりあえずそんな感じです。
タグ:こころ
posted by かがみ at 23:52 | 心理療法

2016年04月01日

原因論と目的論

アドラー心理学の特徴は言うまでもなく、その目的論思考にあります。例えば、引きこもりは何か過去のトラウマなどの「原因」があって部屋から出れないのではなく、対人関係に直面して傷つきたくないとか、両親に構って欲しいという「目的」の為、彼は部屋を出ないということになります。

この目的論については「では彼はなぜそのような目的を持ったのか」という「目的」を持つに至った「原因」があるのではないかという疑問が浮かんでくるでしょう?アドラー心理学は個人の判断・決定はその自律的主体性によるものという主体論を取りますから、おそらく先の問いに対しては「彼自身がそういうライフスタイルを取ると決めたから」という答えとなるとおもわれます。

しかしそれでもなお「何が彼のそういうライフスタイルを形成させたのか」という疑問はどこまでも残るわけです。これをフロイト風に「欲動」というかどうかは別として、どうしてもそこには個人の心的過程における意識レベルを超える無意識的な精神力動の存在を措定せざるをえないわけです。

ところで、フロイトとアドラーは一般的には「原因論」対「目的論」という2項対立で理解されますが、フロイトも言われているほど原因論ではないんですよね。確かに初期のフロイトは、幼少期の性的外傷体験が無意識下に抑圧されてヒステリーの核となるという「誘惑理論」なる説を提唱していましたが、ヒステリー患者の父親がみなロリコンというわけでもないでしょう。後にフロイトは誘惑理論を放棄し、ヒステリーの核となるのは実際の外傷体験ではなく、患者の「心的な現実」、言って見れば無意識下に抑圧されたファンタジーであるという風に自らの理論に訂正を加えてることになります。エディプス・コンプレックスなどは(これも結構誤解されていますが)まさに巨大なファンタジーといえるでしょう。

このあたりの変遷が一般的にはうまく理解されていないという点がフロイトの不遇といえば不遇なんですが、このような観点から言えば、目的と原因はいうほど2項対立的ではなく、相補性の原理により円環的に絡み合っているのが実相のように思えます。

個人心理学講義―生きることの科学 (アドラー・セレクション)
アルフレッド アドラー
アルテ
売り上げランキング: 22,893
タグ:こころ
posted by かがみ at 22:26 | 心理療法

2016年03月11日

【書評】『幸せになる勇気』。運命の人などいないのか、という問題。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII
岸見 一郎 古賀 史健
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 5


「結論から申し上げますと、アドラーの思想はペテンです。とんだペテンです。いや、それどころか、害悪をもたらす危険思想と言わざるをえません。(本文より)」

現実に打ちひしがれ3年ぶりに「哲人」の書斎を訪れる「青年」。物騒な雰囲気の中で幕が上がる劇薬の哲学問答第二幕です。

前作『嫌われる勇気』についてはいまさら云々するまでもないでしょう。本書は前作の補完という位置付けなので、前作の方から先に読んでおくべきなのは言うまでもないです。逆に『嫌われる勇気』を読んだ後でアドラー心理学の関連本に色々と手を出した人が本書を読むと、知識的にはわりと知っていることばかりになってしまうので、哲学的(?)なインパクトは当然、前作ほどは無い、ということになります。むしろ、それらにいちいち驚愕、憤激する「青年」の初々しさが微笑ましく見えるでしょう。

けど、既存知識もこういう対話の形で読むと別の発見があるのはもちろんです。前半で特筆すべきは問題行動における5段階目的論の詳細な解説。知っている人にとっても良い復習になります。後半はライフタスク(人生の課題)への深い考察が展開されています。終盤の「愛のタスク」論に関しては、本書の中でも特に賛否が分かれるところでしょう。

「『運命の人』などいない」。そう平然と断じ去る「哲人」の「忌々しい洞察」には「青年」でなくとも素朴な反感を覚える人も多いと思います。勿論、「運命の人」の存在なんて科学的に証明しようが無いですけどね。ですけど、この言葉はそういうあたりまえな、シニカルな意味合いでは無いことは前作における「哲人」の「人生に特に意味など無い」という言葉の意味と合わせて考えると自ずと理解できるでしょう。アドラー心理学は決定論を退けて主体論を打ち出していますから、「運命」など最初から決まっていない、自らの決断で選びとるものだと、そういうことなんだと思います。

ちょっと話が逸れましたが、とにかく既知のアドラー関連の類書の中で、「愛のタスク」についてここまで深く切り込んだ洞察は寡聞にして知りません。もっともこのあたりはアドラーよりもエーリッヒ・フロムからの引用の方が多く、わりと岸見先生の独自性が出ているのかもしれないですね。

最後は割と淡々とした終わり方でしたが、すっきりした読後感はありました。いちおう前向きな感じで終わってはますが、「青年」のあまりの拗らせぶりにとうとう「哲人」が愛想を尽かしたという穿った見方もできなくはないですね(笑)
タグ:書評 こころ
posted by かがみ at 01:44 | 心理療法