2016年12月31日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)



エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)

前回述べたように、劣等コンプレックスというのは説明として直感的にわかりやすいけれども、一方、一部のケースはエディプスコンプレックスからの方が上手く説明できる事例もまた確かに存在し、一概にどちらが根源的なコンプレックスだと云い難いものがあるということです。

従って、この両者はいかなる関係に立つと考えるべきか、という問題が生じることになりますが、この点、ジャック・ラカンによる「疎外と分離」「対象 a と根源的幻想」という理論的整理が、一応の整合的説明として成功しているというべきでしょう。

疎外と分離〜欲動と欲望の相転移

まず、フロイトの規定する根源的衝動は周知の通り「欲動」です。もっとも一般的なフロイト理解では「性欲」などと言われますが、性欲といっても幼児性欲のそれであり、むしろ「愛情衝動」と言った方が適当と言えるでしょう。

このあたりの誤解がフロイトという人の不遇たる所以でもあるわけですが、それはともかくいずれにせよ、我々は原則としてこの欲動を完全円満に満足させた状態でこの世に生を受けているということです。これは一人の例外もありません。何となれば、母の胎内は新しい命に必要なすべてが満たされているからです。これはラカンがいう「享楽」と呼べる状態です。

ところが、そこにずかずかと邪魔者が入ってくることで「享楽」は霧消してしまいます。子どもは自らと母親は〈他者〉であり渾然一体でも何でもないことを悟ります(疎外)。そして次に、それどころか母親の関心の対象は自分ではなく、まさにその邪魔者であることに気づくわけです(分離)。

こうして当初の「享楽」は失われてしまい、もはやすべてが満たされることはなくなったのです。しかしこの時に子どもの中には、これを少しでも奪回したいという願いが生じる。

これを称して「欲望」という。これが「母に欲望されたいという母への欲望」という「〈他者〉(へ)の欲望」です。

よくわからないけれども満たされている享楽と異なり、欲望は「〜がしたい」という「言葉」、すなわちシニフィアンで表現されます。いわば人は欲望を持つ者となり初めて「象徴界=理性の世界」へ参入できると言えるでしょう。ここにフロイト第二局所論でいう「超自我」の形成を見出すことができるわけです。

対象 a と根源的幻想

こうして、子どもの中に芽生えた「欲望」は、以降、かつての享楽の残滓物達、すなわち「欲望の原因=対象 a 」により駆動され、死ぬまで満たされない永久運動に従事することになります。ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは「乳房、糞便、声、まなざし」の4つあり、以降の人生で見出す様々な対象 a はこれら4つのバリエーションと言えるでしょう。

そしてこの欲望と対象 a の関係性を規定する態度をラカンは「根源的幻想」と呼びます。ヒステリー者と強迫神経症者の根源的幻想は対象 a に対する両極的アプローチといえます。疎外以前に逆行して「対象 a を完全に所有したい」と欲望するのが強迫神経症者である、他方で、分離に執着して「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」と欲望するのがヒステリー者です。


いずれにせよ「欲望」とは「欲動」を禁じられ初めて生じるものであり、両者は相転移の関係にあると言えるのです。

例えば、の話ですが、生まれてからずっと絶海の孤島に絶世の美少女と二人っきりで、それが当たり前の暮らしだった所に、ある日突然、イケメンが現れたとします。

少女はそのイケメンを未だ見せたことのない恍惚の眼差しでうっとりと見つめている・・・そんな情景を思い浮かべてみて下さい。そうすれば、それまでなんとも感じなかった少女との関係性が、たちまちにして、これ以上なく掛け替えの無い大切な物だったように感じらませんか?要するに、その時、湧き上がるであろう何とも名状しがたい感情、これが「欲望」の正体です。

こういう風に説明すれば、少しは想像できるかとは思いましたが・・・却って、わかりにくかったらごめんなさい。

第三項としての〈父の名〉

ともかくも、このように「満たされた享楽」の禁止と相転移的に「満たされない欲望」が生成されるわけです。この一連の疎外と分離の過程において、母と子の「享楽」を切り裂く邪魔者こそが、エディプスコンプレックスを引き起こす第三項、すなわち〈父の名〉に他ならないのです。

要するにフロイトがエディプスコンプレックスと呼んだものは、子供の発達過程における母子分離の神話的表現なんですよ。この世に生まれ落ちた時は動物となんら変わりない「エスの塊」である赤ちゃんに「超自我=理性」を内在させる力動作用と言い得るでしょう。つまり〈父の名〉を担うのは現実的な父親に限りません。

〈父の名〉とは「母の欲望」を名付ける「シニフィアン」という一種の概念であり、母と子を分かつ第三的力動作用であればそれは現実の父親どころか人でさえある必要はなく、例えば母子家庭における母のパート労働による日常的な不在も、そういいう意味で〈父の名〉として機能すると言えるでしょう。

エデイプスコンプレックスVS劣等コンプレックス

このようにして見てみると、「疎外と分離」により「欲望」の萌芽から「根源的幻想」の形成に至るまでの論理の動線はアドラーの優越性の追求からライフスタイルに至るそれと極めて近似していることに気付かされます。

まず、母子分離の過程においてエディプスコンプレックスによる欲動が抑圧されることで、欲望=優越性の追求が発生し、根源的幻想=ライフスタイルが形成されます。

そして、この根源的幻想=ライフスタイルが何らかの挫折経験などで著しく歪んだ時、アドラーが言うところの「〜だから〜できないという偽の因果律」である合理化作用によって劣等コンプレックスが形成されます。

ものすごく端的に言えば、エディプスコンプレックスは欲動の抑圧作用であり、劣等コンプレックスは欲望の合理化作用といえるでしょう。つまり両者は構造的には似ているものの作動する位相が全く異なっているというわけです。

なお、強迫神経症者もヒステリー者も「対象 a を完全に所有したい」「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」という支配関係、つまり縦の関係であり、端的な劣等コンプレックスと言えるでしょう。

つまり、劣等コンプレックスというのは神経症圏においては根源的コンプレックスではあることは間違いない。なので神経症圏を生きる大多数者にとって劣等コンプレックスが直感的に響く説明であることはある意味当然であるといえるのです。

また、劣等コンプレックスは多種多様な亜種を生み出します。カインコンプレックス、学歴コンプレックス、メサイアコンプレックス、クリスマスコンプレックスなどなど・・・学童期以降の子供が同性親に抱くエディプス的な愛憎も理論的には劣等コンプレックスということになります。

この点、エディプスコンプレックスは「異性親への愛情と同性親への憎悪」という、このひとつだけです。つまり言い換えればエディプスコンプレックスというのは多くの人に共通する精神力動と言えるでしょう。

これはユング心理学の個人的無意識と集合的無意識を想起させるものがあります。すなわち、ユングの理論体系に従えば、神経症圏=個人的無意識、精神病圏=集合的無意識、という対応関係となり、個人的無意識というのはエディプスコンプレックス=父性原理による切断により発生するという理解を導き出すことができるわけです。

結語〜根源的幻想の横断と共同体感覚の獲得

さて。最後はなんだかとっ散らかった印象論を並べただけではありますが、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスというものが決して対立するものでないという趣旨がなんとか伝わったのであれば幸いです。

ところで精神分析が目指す分析目標は「根源的幻想の横断(ラカン)」であり、これは畢竟、「〈他者〉との分離」だといえるでしょう。

他方、アドラーの個人心理学の治療目標は「共同体感覚の獲得」であり、これはどちらかといえば「〈他者〉との調和」に重きをおいているように見受けられます。

もちろん「課題の分離」「勇気付け」を始めとするアドラーの数々の技法が日々の暮らしにも簡単に応用できる実用性に優れたものであることは言うに及ばないことですが、これだけアドラー理論が多くの共感を集めるというのは「自己責任」とか「空気を読む」ということが折に触れ強調される現代日本社会の精神病理を端的に例証しているような気がするんですよね。

そういうわけで、今年もいよいよ年の瀬、なんかあっという間でしたね。皆様におかれましてもどうか、よいよいお年を。

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神託的発話としての解釈と根源的幻想の横断、あるいは「この世界の片隅に」

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2016年12月25日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)



心理療法における一般論としてですが、人の症状や問題行動は、その人に内在するコンプレックスによって引き起こされると言われます。そして、最も根源的なコンプレックスとは何かという問題について、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスがしばし対立的なものとして説明されます。

しかしながら両者はほんとうに「対立」しているのでしょうか?仮にそうでないのであれば両者はどのような関係に立つと言えるのでしょうか?

そういうめんどくさいわりにはあんまり需要のなさそうなテーマについて、自分なりに現時点で整理したことに基づく解釈を2回に分けて書いてみようと思ったのが本稿の着想の発端だったりします。何卒よろしくお願いします。

エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックスとは周知の通り、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの「発見」によるものでして、これを定義的に述べれば「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになります。

フロイトは当初、ヒステリー患者の供述を真に受けて、神経症の原因は幼少期における親からの性的な誘惑体験であるとする「誘惑理論」なる説を唱えていましたが、程なくこれをあっさり放棄してしまいます。何となれば当時のウィーンでは、神経症に苦しむ若い女性が相当数に上っており、彼女たちの父親全員がペドフェリア的な性的倒錯者だと考えるというのはいくら何でも苦しい説明だと言わざるを得ないからです。

誘惑理論を放棄したフロイトは当時の親友ヴィルヘルム・フリースとの幾度とない往復書簡を通じて自己分析を重ねていった結果、自らの内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という秘められた感情を発見するに至ります。

そして、この感情こそ、神経症の原因を形成する「早期幼児期の一般的な出来事」だと看破したフロイトはこれをギリシア神話のエディプス王の悲劇になぞらえて「エディプスコンプレックス」と名付けました。

しかし、現代の日本社会においてエディプスコンプレックスなどと言われても、何か荒唐無稽な御伽噺を聞かされている気分になるでしょう。普通の人に対して「あなたは近親相姦ないし父殺しの願望がある」などと言い放ったところで、多分、困惑されるか、ヘタすれば怒らせてしまうかもしれません。

劣等コンプレックス

これに対してフロイトと並び称される心理学の巨峰、アルフレッド・アドラーが擁する劣等コンプレックスは遥かに解りやすく、シンプルです。

アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償としての優越性の追求」だと規定します。その優越性に追求の駆動された結果として形成される動線、つまり個人的な信念・世界観を「ライフスタイル」と呼びます。ライフスタイルと言うのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と考えて差し支えないでしょう。

人は自らのライフスタイルを正当化し論証する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)。

そして、いかなるライフスタイルを形成するかといういわば「目的の原因」は畢竟、「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくる(対人関係論)。

ここで対人関係を「縦の関係」、すなわち操作したり評価する支配関係として捉えてしまえば、歪んだライフスタイルが形成される。これがアドラーのいう劣等コンプレックスに他ならないのです。

そこでアドラー心理学では対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、共感、感謝といった関係で捉える「共同体感覚」というライフスタイルの涵養が目標とされ、かかる共同体感覚を育むための援助技法を「勇気付け」と呼んでいるわけです。

精神病圏におけるエディプスの欠落

こうして並べてみると、どう考えても劣等コンプレックスの方が説明としてはスマートですよね。例の「嫌われる勇気」の空前の大ヒットを待つまでもなく、日本ではもともと「コンプレックス=劣等感」というイメージが成り立っているので、アドラーの理論は直感的に響くものがあると言えます。

しかしながら、なかなか一筋縄でいかないと言べきでしょうか。一方でエディプスコンプレックスの方がより上手く説明できるケースというのもまた確実に存在します。例えば、パラノイア(妄想性障害)という精神病は、その急性期においては精神自動症や言語性幻覚などと呼ばれる意味不明な幻聴が発生しますが、これらは多くの場合、患者が何らかの社会的責任(昇進・結婚・妊娠)を引き受けた時に発症することが臨床上、確認されています。「社会的責任を負う」とはまさに自らの父性機能(理性やセクシュラリィティ)を参照するべき場面に他なりませんが、パラノイアの場合、参照すべき父性原理がないが故に、その参照エラーが意味不明な幻聴などの形で返ってくるわけです。また、その安定期においては、よく荒唐無稽な妄想的世界観が患者の口から披瀝されることが少なくないですが、これらの妄想も父性原理の不在を自分なりに補完しようとして作り上げた代替原理ということができます。

このような症状はエディプスコンプレックスの欠落という点から初めて合理的に説明ができるでしょう。すなわちエディプスコンプレックスは精神病圏と神経症圏を分かつ重要なメルクマールであり、換言すれば、人はエディプスコンプレックスを経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するということです。そういう意味からいえばエディプスコンプレックスとはむしろ「引き起こされなければならないもの」といえるのです。

神経症圏と精神病圏の鑑別診断

なお、このように神経症圏と精神病圏を区別することは精神分析の臨床上も極めて実際的な問題となります。例えば精神病圏者に自由連想を施して解釈を投与した場合、父の名の参照エラーが生じ精神病的症状が発症してしまう危険があると言われており、このため通常は分析の前段階の予備面接において、精神病圏と神経症圏の鑑別診断が実施されるわけです。

ただ、誤解しないで頂きたいのは、決して精神病圏の人が神経症圏の人に比べ「劣っている」という意味ではない、ということなんですよ。これらの精神構造の相違は「優劣」ではなく、あくまでも「個性」として理解すべきものだということです。このことはどれだけ強調しても、決してし過ぎることはないでしょう。

こうしてみると、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスは「あれかこれか」という二項対立的な関係に立つものではないことが明らかになります。では両者はどのような関係に立つのでしょうか?

(後編に続きます)

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)

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2016年10月01日

しあわせ・享楽・対象 a

最近、オキシトシンという神経伝達物質が「幸せホルモン」とか「愛情ホルモン」などと呼ばれて、脚光を浴びるようになりました。

かつてはもっぱら分娩時の子宮収縮薬や陣痛促進剤などが主な用途だったんですが、近年の研究において心筋梗塞の予防、降圧作用、肥満防止や睡眠の質などの体の様々な領域に深く関係することがわかりまして、さらに不安やストレスを緩和させ人間関係に積極的になったり寛容になったりするといった精神に対する作用も認められるようになります。

オキシトシンの点鼻薬投与により、従来から根本的治療がないとされていたアスペルガー症候群などの自閉症スペクトラム障害(ASD)の症状改善が認められたという話題も耳新しいでしょう。

自閉症に効くオキシトシン、使用量増が症状改善 福井大:朝日新聞デジタル

母子の絆の「愛情ホルモン」が自閉症の治療に コミュニケーション力を高める効果に期待 : J-CASTヘルスケア

そもそも、オキシトシンというのは9種のアミノ酸がつながった構造のペプチドホルモンで、下垂体後葉部から分泌され、ドーパミンやセロトニンの調整を担う物質でして、授乳時に大量に分泌されることは古くから知られており、昔はもっぱら母親になった時に初めて分泌されるホルモンだとか思われていたんですね。

ところが90年代半ばからは脳内での働きについての研究が進み、オキシトシンは性別や年齢に関係なく分泌されることが判明しました。親しい相手とのスキンシップといった物理的接触、さらには、例えば優しい言葉、温かいまなざし、あるいは誰かに対する親切心、そういう精神的な触れ合いによっても、オキシトシンは分泌されることがわかった。



それでね、ふと思ったんですが、これって完全にラカンでいう「対象 a 」なんですよね。つまり、ラカン派の精神分析で言う所の「享楽」の正体ってオキシトシンなんじゃないのかなって。

説明します。まず「享楽」というのは、まあ定義的にはいろいろあるんですけど、すごく端的に言えば、胎児期、乳児期における母子が渾然一体となった「求めるだけ与えられる」という万能感に満たされた欠如なき完全円満な世界のことです。

胎児は出産、離乳といった母子分離のイベント(ラカン的にいうと「疎外と分離」)を通じて、この始めの享楽を漸進的に失っていく。そして結局、始めの享楽の残滓ともいうべき欠片だけが僅かに残るのみとなってしまう。

この欠片こそが、あの名高きラカンの「対象 a 」でして、こうして人は、言語の獲得(ラカン的にいうと「象徴界への参入」)と引き換えに始めの享楽を失い、以後の人生に於いては、対象 a を通じて得られる僅かな享楽(より正確には「ファルス的享楽」)を求めて、終わり無き反復運動に終生を費やすことになる。ラカンはこれを称して「欲望」といい、対象 a は「欲望の原因」と呼ばれるわけです。

ある物がある人にとって「それを得る事で僅かでも享楽を回復できるだろうと信じるもの」であれば、なんでもそれは対象 a になります。従って、何が対象 a になるかは人それぞれとしか言いようがないですが、ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは4つ。「乳房、糞便、声、まなざし」です。

この中で糞便というのは一見、異様ですが、排泄物は子どもの母親への最初の贈り物と言われており、他人に対し、優しく親切にするっていう原初的な感情に他ならない。お判りでしょうか?対象 a はオキシトシンの分泌条件と完全に重なっているわけです。

こうして、対象 a を通じて得られる享楽の正体とはまさしく、オキシトシンではないかという仮説が得られることになります。両者ともに最も高まるのはオルガズムの時であるとされるのもやはり強力な傍証たりうるでしょう。

オキシトシンが幸せホルモンとして注目され始める30年以上も前に享楽や対象 a の概念を提唱したラカンの慧眼にはただ脱帽するしかないですね。オキシトシン生成という神経科学の観点から、精神分析はもちろん諸般の心理療法の理論や技法を捉え直すことは面白い試みだと思ったりもするんですが如何でしょうか?と最近、思うんですよね。

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posted by かがみ at 02:22 | 心理療法

2016年09月01日

「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というキャッチコピーの功罪

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アルフレッド・アドラーの慧眼は、精神病圏へのアプローチの可能性をばっさり切り捨てて、敢えて神経症圏に特化した理論体系を構築し、精神分析の奇怪なテクニカルタームを誰にでも分かるシンプルで優しい言葉に翻案したという点にあるのではないかと、個人的には思っていたりもするんですが、それはそれとして、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の二部作はアドラー=岸見理論をコンパクトに、かつ面白可笑しくパッケージした近年稀に見る自己啓発の名著であることは争いの無い処でしょう。

ただ、例の「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というキャッチコピー。あれって結構、罪作りだと思うんですよね。真面目な人ほどそれを真に受けて「叱らない、褒めない」コミュニケーションを「実践」し、結局、失敗したという事例も割と散見されます。

果たして「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というテーゼは、例えば「バカモノ!」「ダメじゃないか!」「まだまだ半人前だ」などという「叱責の言葉」、あるいは「えらいねえ」とか「すごいねえ」とか「がんばったよね」などといった「褒め言葉」といったものを「使ってはいけない」ということまでも意味しているでしょうか?

「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というのは、つまり「対人関係を縦の関係に捉えてはいけない」ということです。「叱る、褒める」というのは能力がある人がない人を評価する行為であり、「縦の関係」であり、「縦の関係」は劣等コンプレックスを形成する要因となるからです。

ここでおさらいしましょうか。精神分析における人の根本衝動はお馴染みの「性欲動」だとされますが、これに対して、アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償としての優越性の追求」だと規定して、その優越性に追求の駆動された結果、形成される動線、つまり個人的な信念・世界観を「ライフスタイル」と呼ぶ。

ライフスタイルと言うのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って結構です。人は自らのライフスタイルを正当化し論証する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)。

そして、いかなるライフスタイルを形成するかといういわば「目的の原因」は畢竟、「対人関係」をどのように捉えるかにかかってきます(対人関係論)。

ここで対人関係を「縦の関係」、すなわち操作したり評価する関係として捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成され、逆に対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、共感、感謝といった関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成される。

つまり、アドラーが提案するように、「勇気づけ」により、劣等コンプレックスを上書きして、共同体感覚の涵養を目指すのであれば、教育やカウンセリングはどこまでも「横の関係」でなければならないのです。

すなわち、この「横の関係」こそが「勇気づけ」の本質であり、「縦の関係」は理論上、絶対に勇気付けになり得ない。だから「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というテーゼが帰結されるわけです。

こんな風にアドラーの理論は極めてシンプルです。でもね。そうだからといって、「叱責」「褒め言葉」が直ちに縦の関係に結びつくと考えるのはこれも早計過ぎる話です 。

「叱責の言葉」にせよ「褒め言葉」にせよ、いずれにせよ当たり前の話ですが「言葉」なんですよね。「言葉」というのは言語学的に言いますと「シニフィアン(聴覚像)」と「シニフィエ(意味作用)」の側面があります。ここも面倒くさい理論が色々ありますけど、簡単に言えば、あるシニフィアンは一つだけでは意味をなさず、他のシニフィアンと結合することで初めてシニフィエが形成されるという関係が成り立っています。

さて。「叱責の言葉」「褒め言葉」というのはいずれもシニフィアンです。これに対して、「叱る」「褒める」「勇気付ける」はシニフィエの位相にある。

従って言語構造的には「叱責の言葉」「褒め言葉」というシニフィアンは単体では直ちに「叱る」「褒める」という意味作用を持たず、他のシニフィアンと結びつくことで「勇気づけ」のシニフィエを形成することもあるわけです。

アドラー心理学的に言えば、要するに「横の関係」という基本的態度が大事なわけで、どんな言葉を使えばいいのかはそう重大な問題ではないということです。

こうして「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というのは、キャッチコピーとしては秀逸ですが、それをなんかドグマティークに理解してしまうと、「あれもいけない、これもいけない」となってしまい、かえって対人関係は不自然になってしまうと思うんですよね。
posted by かがみ at 10:35 | 心理療法

2016年07月07日

鏡像段階の反復運動としての共感的理解

誰かから「悩み相談」など受けた時、ついつい、人というのは何かしらの「アドバイス」をしたくなるものです。しかし、アドバイスは概して役に立たないことが多い。時にはその内容が正論であればあるほどに反感を買ってしまうこともある。悩みを打ち明ける人はアドバイスを聞きたいのではなく、共感が欲しくて悩みを打ち明けていることが多いのです。

一般的には「悩み相談に対してはアドバイスではなく、共感的理解が大事」だと言われていますよね?共感的理解とはカウンセリングの神様と言われたカール・ロジャーズの定義に依れば「クライエントの内的な主観的世界を、セラピストがあたかも自分のものであるかのように感じ取り、 しかも巻き込まれずに、『あたかも〜のような(as if)』という性質を失わないこと」などと言われます。

それではなぜ人は共感を求めるのでしょうか?ここを原理的に理解せずして、単に話し手のキーワードをマニュアル的に鸚鵡返しして、適当な所で「辛かったんだよね」とか「苦しかったね」などとリフレクションしていれば共感的理解になるとか思ってしまうと、そういう気持ちはあっさり話し手に見抜かれてしまうでしょう。

なので自分なりに「なぜ共感をすべきなのか」という物語を持っておく事は大事なんだと思うんですよ。この点、一つの説明としてこれは人が共感を求めるのはそれは「かつての鏡像段階を反復しているからである」ということが言えると思います。

鏡像段階というのは簡単に言えば、生後6ヶ月から18ヶ月の間の時期の幼児が鏡を見て自我を獲得するという、フランスの精神分析家ジャック=ラカンの提唱した発達段階概念です。生まれて間もない赤ちゃんは、いまだ神経系が未発達であるため、寸断された身体イメージの中に生きている。鏡像段階において、幼児は身体興奮の束に過ぎなかったみずからの身体イメージを、鏡の中にはじめて全体的・統合的なものとして発見し、そこにおいて自己イメージを先取りする。

そしてこの鏡とは他者のことをも意味します。つまり、人は、他者を鏡像として、他者の中に自らを見出すということです。すなわち「これが自分だ」と自己イメージを同定し、自我を生じさせる為には「他者」が必要なのです。

この「他者」という用語にはまた少々注釈が必要でしょう。鏡像段階を図式化したものとしてシェーマLですが、この図は自我aと想像的他者a'を結ぶ想像的軸と、無意識の主体Sと大他者Aを結ぶ象徴的軸により構成されるものです。



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Sとは主体を指します。これは自我という意味での「わたし」とは違います。Sは仏語のSujet(シュジェ)の頭文字であり、またフロイトの第二局所論でいう「エス・自我・超自我」における「エス」でもあります。英語で「雨が降る」は”It rains.”と表記しますが、丁度Sはこのときの”It”にあたるでしょう。”It”は形式上は主語であるが、それ自体に意味はない。言うなればSとは「わたし」という自我を越えた「その人の存在そのもの、生命そのもの」を指しているのです。

かかる主体Sと象徴的軸上において対極に位置するのが大他者Aです。これも「あなた」という誰か具体的な人ではありません。ざっくりいうと、この世界を形作る言語や倫理といった象徴的秩序のことをいいます。

これに対して、「あなた」というべき身近にいる人々は想像的他者a’として想像的軸上に配置される。大他者と想像的他者は概念上は区別されますが、もちろん実際は具体的な1人の人間が両者の役割を体現するケースも多いでしょう。例えば幼児にとって両親はもっとも身近な人々という意味では想像的他者a’であり、同時に世界の秩序を代表する大他者Aでもあります。

そして、幼児(主体)はこの想像的他者a’を鏡像関係として自らの自我aを形成するというわけです(鏡像段階)。つまり「わたし」は「あなた」によって作り出されることになります。

鏡像段階によって作り出された自我はその後も他者を鏡として二次的同一化を続けていき、その反復運動は死ぬまで続けられることになる。人は常に誰かに大他者Aあるいは想像的他者a'のイメージを投影して生きているのです。

以上、ものすごく乱暴に鏡像段階論とシェーマLを眺めてきましたが、ここから以下のような事が言えるでしょう。

まず「悩み相談」においてアドバイスが有効に機能するのは聴き手が大他者Aの位置に来る時、すなわち秩序の代弁者と見做される場合だけです。これは極めて限定的なものと見るべきでしょう。例えば連立方程式の解き方がわからない子が数学に詳しいクラスメイトに聞きに来たというような場合、あるいはiPhoneを買ったばかりの初心者がiPhoneに詳しい人に操作方法を聞きに来たというような場合、この時「数学に詳しい人」「iPhoneに詳しい人」は「連立方程式の解き方」「iPhoneの操作方法」といういうある意味での秩序を代弁する大他者の位置に来ます。従ってこの限りにおいては普通にアドバイスをしていればいい。

他方で、話し手の人生観や世界観といった私的な領域に密接に関連する悩み相談の場合、「正しい人生観や世界観」なるものが存在しない為、よっぽど相談者が助言者に心酔していない限り、助言者が大他者の位置に来ることは通常はありえないわけです。

すなわち、悩み相談において話し手にとっての聴き手とは基本的に想像的な軸上にいる想像的他者a’の位置にいるわけです。従って話し手(わたし)は聴き手(あなた)に「あたかも自分のものであるかのように」共感してくれる鏡としての役割を基本的に期待しているということになります。なので共感的理解が大事だという事になるわけです。

実際の「悩み相談」の場合、鏡を演じて話し手の感情を照射すべき場面と秩序の代弁者としてアドバイスをすべき場面が入り混じるんだと思います。ただ、何れにしても自分の価値観を押し付けるアドバイスというのは、基本的には自己陶酔にしかならないというべきなんでしょう。

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