* 力動精神医学からみた統合失調症
精神病理学の方法論には大きく記述的精神病理学、現象学的精神病理学、力動精神医学という三つの立場があります。この点、記述的精神病理学は症状の「形式」のみを扱いますが、現象学的精神病理学と力動精神医学は症状の「内容」をも扱います。そして精神分析の考え方を導入した力動精神医学は「内容」を意識的なものに限らず「無意識」をも想定し、さらにその内容が刻一刻と姿を変えていく力動的な状態を捉えようとするものです。この点、精神分析といえば神経症の治療法として知られていますが、統合失調症に関しても多大な知見が蓄積されています。
まず精神分析の創始者ジークムント・フロイトは1903年に刊行されたダニエル・パウル・シュレーバーの『ある神経病者の回想録』を読み解き、独自の統合失調症論を作り上げました。この点、フロイトは人間のセクシュアリティを3段階で考えていました。まず第1段階は「自体愛/自体性愛」であり、これは自分の身体の諸部分においてバラバラに快を得ている状態です。続く第2段階は「ナルシシズム」であり、これは自分の身体のバラバラな諸部分がまとまってできた身体イメージを性愛の対象とする段階です。そして第3段階が「対象愛」であり、自分の身体イメージではなく外界の他者やモノを性愛の対象とすることができる段階でです。
そして、フロイトは統合失調症者においてはセクシュアリティの発達がナルシシズムの段階で固着していると考えていました。すなわちフロイトによれば、人生における重大なイベントに直面し統合失調症を発症した患者は、それまで曲がりなりに築いてきた疑似的な対象愛が崩れて「ナルシシズム」への退行が生じ、それまで外的世界に備給されていたリビードが全て撤収される事になります。
結果、リビードの備給を失った外的世界はあらゆる日常的な意味を失って今にも破綻してしまいそうな感覚が訪れる体験が生じることになります。このことをフロイトは「世界破局」や「世界没落」などと表現しています。そして、統合失調症における妄想形成はこうして破局してしまった世界を再構築する過程の中で生じる回復の試みという事になります。
このようなフロイト理論を継承し英国対象関係論の基礎を築いたメラニー・クラインは人の精神を「妄想分裂ポジション」と「抑うつポジション」という二つの体勢から捉えています。クラインによると、およそ生後3〜4ヶ月までの時期の子どもはまだ母親を一つのまとまりを持つ全体対象として認識することができておらず、快を与えてくれる「良い対象」と不快をもたらす「悪い対象」という2つの別個の部分対象として捉えています。そして子供は自分を迫害してくる「悪い対象」に対して子供は攻撃性を向ける。これが「妄想分裂ポジション」です。
しかし、生後4〜6ヶ月ごろになるとやがて子どもはこれまで「良い対象」と「悪い対象」と思っていたものが実は同じ1人の母親という全体対象であったことに気づき始めます。となれば、これまで攻撃性を向けていた「悪い対象」が実は「良い対象」でもあったことになり、それによって子どもは自分はこれまで「悪い対象」をずっと攻撃してきたけれども、その攻撃によって「良い対象」も同時に破壊しようとしていたのだと気づいてしまい、それが抑うつ状態につながるとクラインは考えました。これが「抑うつポジション」です。
この二つのポジションは生後1年間の幼児の発達の中で前者から後者へと移り変わるものですが、クラインはこの二つのポジションは成人後でも頻繁に入れ替わりながら現れてくるといいます。こうしたクラインの理解からは統合失調症を他の精神障害から区別することは困難な場合が生じます。それは彼女が統合失調症を「妄想分裂ポジション」という誰にでも生じうる体勢から説明しているからです。
* ジャック・ラカンの精神病論とエディプス・コンプレックスの構造論化
これに対して、精神分析中興の祖とも呼ばれるフランスの精神科医ジャック・ラカンは精神病(統合失調症)における厳密な鑑別診断論を展開しました。1951年からラカンは後に「セミネール」と呼ばれる通年講義を自宅で開始します。ついで1953年から1963年までの10年にわたってその講義はサンタンヌ病院で行われるようになります。このセミネールにおいてラカンが初めて本格的に精神病の構造について論じたのが1955年から1956年にかけて行われた第3回目のセミネール『精神病』です。このセミネールにおいてラカンはシュレーバーの回想録を検証し「シュレーバー議長には、どうみても『父である』というこの基本的シニフィアンが欠けている」と結論づけます。すなわち、精神病の構造的条件とは「父である」という〈父の名〉というシニフィアンの排除にあるとラカンはいいます。
ラカンによれば〈父の名〉というシニフィアンは人生の重大な局面において頻繁に参照される「幹線道路」のようなものであるとされます。例えば結婚を機に夫となることや、子供を持つことは「父である(家族に対して責任を負う)」という家父長制的シニフィアンを参照することなしには非常に困難であるからです。しかし精神病者においてはこの幹線道路となる家父長制的シニフィアンが「排除」されています。その結果、彼らは父性を担うよう呼び掛けられた際にこの幹線道路を利用することができず、代わりに彼はその周囲(縁)に張り巡らされた小道をさまよいながら妄想的な仕方で父性を実現させることになるとラカンはいいます。そして、こうした『精神病』における議論を体系化するため以降数年にわたりラカンは「エディプス・コンプレックス」の構造論化に取り組むことになります。
周知の通りフロイトは神経症の治療法を試行錯誤する中で、人の無意識の内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という心的葛藤を発見し、このような心的葛藤をギリシアのオイディプス悲劇になぞらえて「エディプス・コンプレックス」と名付けました。この「エディプス・コンプレックス」なる仮説によれば、幼児は当初、母親との近親相関的関係の中にあり、やがてこれを禁じる者としての父親がもたらす去勢不安によって、幼児の自我の中に両親の審級が落とし込まれ、ここから自我を統制する超自我が形成されることになります。そしてフロイトによれば、男児と女児では去勢不安への反応は異なるものとされます。すなわち、男児はペニスの喪失を怖れる結果、父親のような強い存在になろうとします。これに対して、女児はペニスの不在に気付いた結果、父親に愛される存在になろうとします。
このような一見すると荒唐無稽としか思えない「エディプス・コンプレックス」なるフロイトの神話をラカンは構造言語学の知見を援用して再解釈します。まず第4回目のセミネール『対象関係』(1956〜1957)においてラカンはエディプス・コンプレックスを「フリュストラシオン(象徴的母を動作主とする現実的対象の想像的損失)」「剥奪(想像的父を動作主とする象徴的対象の現実的穴)」「去勢(現実的父を動作主とする想像的対象の象徴的負債)」という「対象欠如の三形態」として捉え直し、対象(の欠如)をめぐって人間のセクシュアリティがどのように規範化(=正常化)されるかを明らかにします。ついで第5回目のセミネール『無意識の形成物』(1957〜1958)においてラカンはエディプス・コンプレックスにおける象徴的父、すなわち〈父の名〉への同一化の過程を「エディプス三つの時」として捉え直し、母の現前不在という気まぐれな法が、いかにして父の法によって統御されるようになるのかを明らかにします。
* 父性隠喩
そして、このような「セクシュアリティの規範化」と「象徴界の統御」というエディプス・コンプレックスが持つ二つの機能をラカンは「父性隠喩」と呼ばれる一つの論理に圧縮します。そのアルゴリズムは以下のようなものです。

まず原初的な母子関係においては「母の現前と不在」という気まぐれなリズムが繰り返されることによって「+」と「−」が連続する象徴的なセリーが形成されます(fort-da)。これが前駆的な象徴機能(原-象徴界)であり、ラカンはこれを「母の欲望」と呼んでいます。そこで子どもはラカンのいう「母の欲望(原-象徴界)」というシニフィアンに対応するシニフィエを問うことになります(DM/x)。そして〈父の名〉、すなわち象徴的父が「母の欲望」を統御することで象徴界はひとつの体系として安定化することになります(NP/DM)。
すなわち、ここでは〈父の名〉が「母の欲望」を置き換える「隠喩」として介入しています。この点、ラカンにとって「隠喩」は「換喩」と対を成す概念です。そして隠喩と換喩の違いは新しい意味作用を生み出すかどうかという点にあります。そして父性隠喩においては「母の欲望」が〈父の名〉のシニフィアンによって置き換えられた結果、象徴界が統御されると同時にその全体に隠喩によって生成されるファリックな意味作用が波及するようになります。換言すれば父性隠喩の導入により、象徴界に属するあらゆるシニフィアンの意味が究極的にはすべてがファルスへ還元されることになります(A/ファルス)。
このように〈父の名〉は象徴界の秩序を安定させるシニフィアンであるとすれば、ファルスは象徴界におけるすべてのシニフィアンがファリックな意味作用を持つことを保証するシニフィアンです。これがラカンが1956年から1958年にかけて行ったエディプス・コンプレックスの構造論化の到達点です。すなわち、エディプス・コンプレックスは〈父の名〉の導入による父性隠喩によって完成し、神経症構造はこの父性隠喩によって規定され、逆に精神病構造は〈父の名〉が排除され父性隠喩が失敗していることによって規定されるということです。
* シェーマIにおける垂直方向と水平方向
こうした一連のエディプス・コンプレックスの構造論をもとにラカンが1958年に執筆した論文が「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について」です。同論文においてラカンは「シェーマI」と呼ばれる次のような図式を用いて精神病における発病と治癒のプロセスを論じています。

(松本卓也「水平方向の精神病理学に向けて」(『atプラス30』所収)より引用)
ラカンによれば精神病者には元来、象徴界を統御するシニフィアンである〈父の名〉が欠けていますが、発病前の精神病者はその欠陥を、すなわち〈父の名〉の排除を直視せずに済ませており、多くの場合は自分と同性の隣人を一種のロールモデル(想像的杖)とすることによって現実社会に適応しています。しかし、何らかの形で彼/彼女に父性の問いを突きつけるトリガーとなるような父的存在が現れた時、彼/彼女はたったひとりで父性の問題に直面することになり、その際に〈父の名〉の排除が明らかになり、精神病が本格的に発病することになります。
そして精神病者は〈父の名〉の排除(P0)とその帰結であるファルスを起点とするセクシュアリティ形成の失敗(Φ0)を、妄想の中で補修することによって神経症者の「父性隠喩」に相当する「妄想性隠喩」を構築するに至ります。例えばシェーマIが念頭に置いている症例シュレーバーでは〈父の名〉の排除によって不安定化した象徴界(言語領域)を安定させるため「世界を秩序づける」という妄想の軸(M→I)と、〈父の名〉の排除の帰結としての想像界(イメージ領域)における男性的同一化の失敗を防ぐため「神の女になる」という妄想の軸(i→m)がそれぞれ生じ、この二つの妄想の軸を結合した結果として最終的にあの有名な「世界を秩序づける神の女になる」というシュレーバーの妄想(=妄想性隠喩)が生み出されることになります。
しかしながら話はここで終わりではありません。このシェーマIにおいて精神病の妄想は象徴界と想像界のそれぞれに空いた二つの穴(P0/Φ0)の周囲を二つの曲線(M→I/i→m)が垂直方向に旋回することで生じているように見えますが、その上下にはさらに二つの直線が水平方向に走っています。ラカンはこの「私たちに向けられている/妻を愛する」という二つの直線が「現実が主体のために修復された際の諸条件を表している」のだといいます。すなわち、シュレーバーの妄想は垂直方向の曲線だけでは際限なく拡大し、現実を極端なほどに歪めてしまう可能性がありますが、水平方向の直線が妄想に一定の枠を与えることで、現実を生き延びる可能性を開くことになります。
こうしてみるとラカン派においてしばしば語られてきた精神病の治癒像としての妄想性隠喩は実は真の治癒像ではないといえます。シェーマIに描かれたシュレーバーの真の治癒は「私たちに向けられている」と「妻を愛する」ことによって起こっています。すなわち、垂直方向の高みにある神のような超越的他者に向かうのではなく、水平方向のフィールドにおいて病者の語りを聴き取る者である「私たち(臨床家)」や、絆をつなぎ止める「妻(パートナー)」に向かうということです。
* サントームと水平方向の精神病理学
もっともラカンは同論文においてはこの「私たちに向けられている/妻を愛する」という二つの水平方向の直線を、それぞれ「患者が訴えかける読者としての我々が、彼にとっていったい何であるのか」「彼の妻との関係に関して残っているもの」であると説明するだけでこの話題を終えています。しかしラカンはその後、1975年から1976年にかけて行われた第23回目のセミネール『サントーム』の中で精神病を疑わせる微細な症状を持ちながらも本格的な発病に至らなかったアイルランドの作家のジェイムズ・ジョイスを論じ、ジョイスにとって彼の妻のノラが果たした役割を「サントーム」にあたると述べています。
1970年代においてラカンはサンタンヌ病院で行っていた患者呈示を通じて、幻覚や妄想といった症状が顕著では「ない」にも関わらず、身体感覚の欠如、独特の浮遊感、特異な言語使用、集団からの逸脱といった様々な特徴から精神病圏にあると判断せざるを得ない患者と多く出会うことになります。そして、こうした非定型的な精神病を晩年のラカンは「サントーム」という概念から読み解いています。ここでいう「サントーム」とは「症状」の古い綴り方であり、ラカンはこの術語によって自分の症状を社会の中で生きうるようになった神経症者や精神病者のあり方を示そうとしていました。
この点、晩年のラカンは人の精神構造を「想像界」「象徴界」「現実界」の3つの環からなるボロメオ結びとして捉えていましたが、サントームはこの3つの環を繋ぎ止める「原症状」としての機能をもっているとされます。そして、こうした「サントーム」を構築した精神病を近年のラカン派では「ふつうの精神病」と呼んでいます。
1998年、École de la cause freudienne(フロイト大義学派)において、ラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールにより「ふつうの精神病」なるカテゴリーが提唱されます。ミレールは次のようにいいます。
「精神分析の歴史においては、並外れた精神病に、ほんとうに何もかもぶち壊すような人々に、監視が向けられてきたことは言うまでもない。
シュレーバーがわれわれの間で精神病の「顔」になってどれくらいの時間がたつだろう。ところが、われわれがここで注目しているのはもっと控えめな精神病者たちであり、彼らはあっと驚かせるというのではなく、ある種の凡庸さの中に溶け込んでしまいうる。
代償機能がうまく働いている精神病、サプリメント入りの精神病、発症せざる精神病、加療された精神病、セラピー中の精神病、分析中の精神病、進行しつつある精神病、サントームつきの精神病ーーーそんな言い方ができるだろう。
〜「La psyshose ordinaire,Agalma/Seuil」より」
ここで述べられているように近年になると、シュレーバーのような華々しい妄想を持つ精神病患者は影を潜めていく一方で、妄想らしい妄想、幻覚らしい幻覚を持たず、さりとて神経症的葛藤も持たないという奇妙な症候を持つ患者群が前景化することになります。こういった一群の症例に与えられた暫定的カテゴリーが「ふつうの精神病」です。精神分析の予備面接において、神経症であるという確たる決め手がなく「ふつうの精神病」の特徴が見られる場合、寝椅子に寝かせて自由連想をさせることを控えるべきであるとミレールはいいます。
「ふつうの精神病」の主体はシュレーバーのように華々しい妄想や奇抜な行動を示す代わりに、社会的、身体的、主体的といったものの外部へと「脱接続」するという特徴があります。「ふつうの精神病」の臨床的特徴として、子どもの精神病のための精神分析的治療相談施設「クルティル」をブリュッセルに立ち上げたアレクサンドル・ステヴェンスは⑴ 想像的他者への同一化に基づく社会的紐帯の調節、⑵ 主体の内面的生活における独特の空虚感、⑶ 説明のつかない奇妙な身体的な痛みや違和感、⑷ 様々な形を取った彷徨い行動、⑸ 象徴界のポワン・ド・キャピトン(出来事を理解するための知的枠組み)に見られる奇妙さという5つの指標を挙げています。
このような特徴を持つ「ふつうの精神病」についてはミレールが「サントームつきの精神病」と述べているように、ラカンが最晩年に示したサントームの理論から捉えることができます。主体がボロメオの環の解体を防ぐため無意識的に作り上げる症状=サントームは「主体の真の固有名」にあたり、そこには各々の主体において異なる特異的=単独的な享楽のモードが刻み込まれていると考えられています。
この点、精神病理学者の松本卓也氏はこのようなサントームの持つ「反-垂直方向」の運動性に注目し、ここからマルティン・ハイデガーの存在論の影響下にある従来の「垂直方向の精神病理学」に対して「水平方向の精神病理学」の可能性を構想しています。そして、こうした観点から近年の精神医療の現場において注目を集めている当事者研究やオープン・ダイアローグなどを「水平方向の精神病理学」として読み解くこともできるようにも思えます。