* 象徴界から現実界へ−−ラカン理論の転回
精神分析とは19世紀末、オーストリアの精神科医ジークムント・フロイトが当時、謎の奇病とされたヒステリーの治療法を試行錯誤する中で産み出された理論と実践です。そしてフロイト以後の精神分析が米国自我心理学や英国対象関係論を始めとした様々な学派に分かれていく中で、構造主義の見地からフロイト理論を深く読み直すことで独創的な精神分析理論を生み出した人物がフランスの精神分析家ジャック・ラカンです。
ラカンは人の心的次元を「想像界 I'imaginaire」「象徴界 le symbolique」「現実界 le réel」という三つの位相によって把握しています。まず「想像界」とはイメージの領域です。ここでいうイメージの最たるものとして人の「身体」が挙げられます。この点、精神分析的知見によれば「身体」とは神経系の発達に先立ち視覚的な客体化によって得られるものです。そして、このような「身体」の客体化を担う典型的な装置が「鏡」です。すなわち「身体」を起動させるためには自分の姿を「鏡」に映し、統一的なものとして把握する契機が必要となります。このような契機こそが世に名高い「鏡像段階」です。
これに対して「象徴界」とは言語の領域です。ここでいう言語は「シニフィアン」によって構成されています。この点「シニフィアン」は「記号」とは異なり、それ自体では意味を持たず、意味作用が生じるには他のシニフィアンと連接させることが必要となります。例えば突然「ハシ」と言われてもそれだけでは何のことか意味がわかりませんが「ヲワタル」とか「デタベル」といった他のシニフィアンに接続されることで初めて「ハシ」というシニフィアンの意味が遡及的に明らかにされることになります。このようなシニフィアンで構成される象徴界は人の秩序である〈法〉を形成し、イメージの世界である想像界を統御します。
そして「現実界」とは言語やイメージをはみ出すような領域です。当初、ラカンは現実界を単なる物理的な世界として位置付け、人間の心的現実を考える上では物理的な世界としての現実界ではなく言語的な世界としての象徴界に注目しければならないと考えていました。ところが後にラカンはむしろ象徴界では語り得ない「不可能性」を指し示す領域を現実界と呼ぶようになりました。
こうしたラカン理論の展開を精神病理学者の松本卓也氏は卓抜したラカン論である『人はみな妄想する』(2015)において「神経症と精神病の鑑別診断」という精神病理学的観点から読み解いています。ここでいう「神経症」とは生理学的には説明ができない様々な神経系の疾患を幅広く指し「精神病」とは幻覚や妄想や精神機能の衰退といった重篤な障害を指しています。この点、ラカン派における神経症の下位分類は「ヒステリー」「強迫神経症」「恐怖症」から構成されており精神病の下位分類は「パラノイア」「スキゾフレニー」「メランコリー」「躁病」から構成されています。
精神分析の臨床においてはある分析主体の心的構造が神経症構造なのか精神病構造なのかが極めて重要な問題となります。両者においては分析の導入から介入の仕方まで、全てのやり方が異なってくるからです。そして同書はラカンの生み出した様々な概念とは突き詰めればこのような「神経症と精神病の鑑別診断」という臨床的な要請によるものであったといいます。
この点、1950年代のラカンはエディプス・コンプレックスの構造論化を行い、次のような神経症と精神病の理解を提示します。周知の通りフロイトはヒステリーをはじめとする神経症の治療法を試行錯誤する中で人の無意識の内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という心的葛藤を発見し、このような心的葛藤をギリシアのオイディプス悲劇に準えて「エディプス・コンプレックス」と名づけました。
この「エディプス・コンプレックス」なる仮説によれば、幼児は当初、母親との近親相関的関係の中にあり、やがてこれを禁じる者としての父親がもたらす去勢不安によって、幼児の自我の中に両親の審級が落とし込まれ、ここから自我を統制する超自我が形成されることになります。そしてフロイトによれば、男児と女児では去勢不安への反応は異なるものとされており、男児はペニスの喪失を怖れる結果、父親のような強い存在を目指すようになり、女児はペニスの不在に気付いた結果、父親に愛される存在を目指すようになるとされます。
ラカンの功績の一つはこのエディプス・コンプレックスなる一見すると荒唐無稽でしかないフロイトの神話を「構造」として解明したことにあります。そこでは心的システムの「正常な(神経症的な)」構造化は⑴象徴界の前駆的領域である原-象徴界(シニフィアンのセリー)が「象徴的父=〈父の名〉」によって統御されること、および⑵象徴界におけるセクシュアリティを「象徴的ペニス=ファルス」が規範化=正常化することによって完了すると考えられています。こうした一連の操作は「父性隠喩」と呼ばれます。
その一方で精神病では⑴〈父の名〉が導入されておらず⑵セクシュアリティが規範化されていないことが明らかにされます。精神病の発病はこの構造的異常を露呈するものであり、精神病の経過はこの構造的異常を神経症における父性隠喩の代替としての妄想性隠喩によって補填するものです。これが、50年代ラカンが到達した一つの標準的理論です。
このように1950年代までのラカン理論は主として「象徴界」の構造の解明に注力していたといえます。これに対して1960年代のラカン理論は「象徴界」の理論では取り扱うことができない「現実界」をどのように捕捉するかという問題へと向かいます。ここで導入される概念が、鏡像段階とともにラカンの代名詞をなしているかの名高い「対象 a 」です。
あらためて「対象 a 」とは何でしょうか。「対象 a 」とはいかにして現れ、いかなる機能を持つのでしょうか。そしてそこからいかなる鑑別診断が導き出されるのでしょうか。
*〈物〉と享楽
まずラカンは「現実界」を〈物〉という概念で刺し止めようとします。ここでいう〈物〉という概念はセミネール7『精神分析の倫理』(1959年〜1960年)のなかで、フロイトの1896年12月6日付ヴィルヘルム・フリース宛の書簡や「草稿K」および「心理学草案」等のテクストを少々強引に読解することによって導入されることになります。
まずフロイトはフリース宛の「書簡」のなかで人間の心的装置を論じています。ここでは外界からの刺激が知覚(W)として受容されることからはじまり、その知覚が知覚標識(Wz)→無意識(Ub)→前意識(Vb)という三つの記録の層にわたって翻訳され、最終的に意識(Bew)へと至るさまが示されています。
乳幼児は外界(母)から様々な満足体験を受け取っていますが、その満足体験の知覚は、記録の層へと翻訳される際に、決定的に変質してしまいます。なぜならこの記録の層における翻訳には「量的調整への傾向」があるために、「一定の材料については翻訳が行われない」からです。つまり、最初の満足体験のうち心的装置に記録されることができるのは量的に表現することができるものだけであって、その他のものに関しては翻訳が拒絶されてしまい、その結果、心的装置は最初の満足体験の一部を決定的に取り逃がしてしまいます。ここで取り逃がされたものが、ラカンのいう〈物〉に相当します。
またフロイトは「心理学草案」において「隣人のコンプレックスは二つの構成部分に分割されるのであって、その一方は恒常的な組織体によって印象を与え、物 Dingとしてまとまっているが、他方は想起の作業によって理解されうる」といいます。ここで「隣人」と呼ばれているのは、子供の「叫び」の宛先となる身近な人物であり、具体的には母親に代表される養育者(以下〈母〉)のことです。この〈母〉をめぐる心的複合体(コンプレックス)は、心的装置のなかでは二つの部分に分割されることになるとフロイトはいいます。
その一方は〈母〉から得られた満足体験のうちの量的な部分のまとまりであり、授乳の満足体験が指しゃぶりという象徴的等価物によって再体験されうるように、子供はこの満足体験を「想起」によって再体験することができます。しかし他方は〈母〉から得られた満足体験のうちの恒常的な領域として組織される「物」のまとまりであり、これは想起によって再体験されることができないものです。
以上のような議論をラカンはおおよそ次のように翻案します。まず乳幼児は満足体験を与えてくれる「隣人=〈母〉」に出会います。この「隣人=〈母〉」は象徴化され表象(=シニフィアン)へと翻訳されることによって無意識の層に書き込まれ「象徴界(正確にはその前駆的領域である原-象徴界)」を形成します。しかしこの書き込みの際に表象へと翻訳されることができなかった部分は、象徴化不可能な〈物〉として「現実界」を構成します。こうして人はもはや原初的な満足体験そのものにはアクセスできないことになります。
すなわち〈物〉とは人間がシニフィアンとかかわり言語の世界に参入する際に、もはや取り返しのつかないような形で失われてしまう原初的対象を指しています。フロイトがいうように人間は不快を避けて快を追求する快原理に従って行為をなしています。しかし、この快原理はシニフィアンのシステムそのものであり、この原理に従っているかぎり〈物〉の水準の原初的な満足体験に到達することはできません。こうした快原理の彼岸にある〈物〉の水準にある禁じられた満足体験をラカンは「享楽」と呼びます。
そして、このような「享楽」がシニフィアンのシステムという法によって禁止されているという事実は「〈物〉へと到達を禁止している法を侵犯しさえすれば、〈物〉へと到達しうるのではないか」というファンタスムを掻き立てることになります。こうして、人間は〈物〉を再発見しようとする永続的運動を開始することになりますが、そもそもの定義からしてシニフィアンを経由することによっては決して〈物〉に到達することができません。こうした不可能を目指して空回りし続ける永続運動こそが「欲望」と呼ばれるものです。
*〈物〉から対象 a へ
この『精神分析の倫理』以後、セミネール8『転移』(1960〜1961年)、同9『同一化』(1961〜1962年)、同10『不安』(1962〜1963年)のなかで、ラカンは次第に〈物〉を「対象 a 」という概念から捉え直していくことになります。
先述のように人が言語の世界へと参入する以前には「はじめに〈物〉があった」とでもいいうる神話的な段階があります。この段階では人は「十全な満足 volle Befriedigung」としての享楽を得ているとされます。しかしこのような享楽をもたらす〈物〉はシニフィアンの導入によって取り返しのつかないような形で喪失されてしまいます。
しかし人間の生活のなかには喪失したはずの〈物〉の痕跡がしばしば顔をのぞかせることになります。この痕跡こそが「対象 a 」と呼ばれるものに他なりません。つまり〈物〉の喪失の場に〈物〉の痕跡をとどめる特権的な対象を置くことによって、主体と〈物〉のあいだに一定に関係を作り、主体の「欲望」を支えることになります。それゆえに「対象 a」は「欲望の原因」と呼ばれます。
こうした意味で精神分析家ドナルド・ウィニコットが「移行対象」と呼んだものは人生の最初期における「対象 a 」であると考えられます。ここでいう「移行対象」とは幼児が全能性を喪失する(=享楽を喪失する)際に現れる特権的な対象を指しています。例えば子供は特定の毛布を手放さず、つねに手元においておこうとすることがありますが、ここではこの毛布が「移行対象」にあたります。
この「移行対象」は母親の乳房のような母子関係における重要な対象の代理であることをウィニコットは指摘しています。また「移行対象」は子供のときにだけみられるのではなく、後の人生のなかでもフェティッシュとして現れます。実際ラカンは対象 a が欲望の支えであることをフェティッシュの機能を参照しながら論じています。
ここでいうフェティッシュとは例えば母親の身体におけるペニスの不在を発見した子供がその欠如を覆い隠すことのできるもの(例えば下着)として採用する任意の対象をいいます。このフェティッシュは母親の身体そのものではありませんが、その身体の痕跡となり人間の欲望の原因として機能します。この意味で「対象 a」とは〈物〉そのものではありませんが〈物〉の断片であるといいうるものです。
* 疎外と分離
このように1960年代前半のラカンはシニフィアンを重視する構造論的な理論から〈物〉あるいは対象 a を重視する力動論的な理論へと大きく軸足を移動させます。しかし、その理論化の作業が一段落しかけたときにラカンは独自の技法である「短時間セッション(変動時間セッション)」が問題となりフランス精神分析協会から除名処分を受けることになり、その結果『〈複数形の父の名〉』を主題とするサンタンヌ病院でのセミネールは1963年11月20日の初回講義だけで中断されてしまいます。
しかしラカンは1964年に自身の学派となる「パリ・フロイト派」を立ち上げ、セミネール11『精神分析の四基本概念』をパリ高等師範学校で再開します。このセミネールとそれと同じ内容を含む論文「無意識の位置」のなかで、ラカンは60年代前半の議論を「疎外と分離 aiiénation et séparation」という二段階の操作にまとめています。この理論的変遷によって神経症と精神病の鑑別診断もまた「疎外と分離」という観点から再び展開されることになります。
まず「疎外」とは、シニフィアンの世界(象徴界)への参入によって、享楽の喪失と引き換えに主体を表れさせる操作です。ラカンによれば子供が象徴界に参入していく際に自らの原生的主体(S)を何らかのシニフィアン(S1)によって代理表象してもらわなければなりません。この代理表象の結果、主体はひとつにシニフィアン(S1)によって表されることになりますが、このシニフィアン(S1)はひとつきりで存在するだけでは無意味であり、そこに意味を生じさせるためにはペアとなるシニフィアン(S2)を必要とします。すると主体(S)は、あるシニフィアン(S1)によって別のシニフィアン(S2)に向けて代理表象されることになります。
ラカンは次のような例をあげてこのことを説明しています。砂漠で象形文字(S1)が書かれた石板を見つけたとき、我々はその文字を書いた主体が存在していたことを理解します。しかし主体が存在したということができるのは、その象形文字(S1)が他の文字(S2)と関係しているからです。
こうして主体は二つのシニフィアンのペア(S1→S2)に取って代わられ、一方では象徴界のなかで何らかの意味を持つことができるようになります。しかし他方ではシニフィアンに取って代わられた主体は、象徴化不可能な享楽を内包する「存在の生き生きした部分 part du vivant(de i'étre)」を決定的に喪失してしまいいます。こうして、原生的主体は「存在の生き生きした部分」を象徴界の外部へと落下させて(-φ)、それと引き換えに斜線を引かれた主体($)として登場することになります。
* 対象 a の享楽
このように「疎外」の操作によって人は象徴界に参入するとともに、享楽を喪失します。この議論は『精神分析の倫理』において、象徴界に参入した主体にとって〈物〉が接近不可能になったことに相当します。つまり、ここではシニフィアンと享楽は二律背反の関係に立つことになります。
ところが話はそれだけでは終わりません。『精神分析の四基本概念』のなかでラカンが「分離」と呼ぶ第二の操作では、失った享楽を別の仕方の享楽(対象 a の享楽)として回復することが試みられます。言い換えれば、「疎外と分離」の理論の導入はセミネール『精神分析の倫理』のようにシニフィアンと享楽を二律背反的なものとして捉えることをやめ、むしろシニフィアンと享楽の緊密な結びつきを考えることを可能にする大きなパラダイムの転換点といえます。では両者はいかにして結びつくのでしょうか。
先述のようにシニフィアンによる疎外をこうむった子供は、自由をもたない主体($)となります。なぜなら象徴界の中での主体のありようを決定するものが大他者(既存の言語)に由来するシニフィアンの連鎖(S1→S2)である以上、子供がそこに何か別のものを付け加えることは不可能だからです。これは現実の水準では、子供が「排泄しなさい」「眠りなさい」といった大他者(=母)が発する要求に従うだけの不自由な存在となってしまうことを意味しています。
しかし子供にはこのような要求にあふれた息苦しい世界から脱出する道がひとつ存在します。「存在の生き生きした部分」を、すなわち享楽を喪失した子供はひとつの欠如を抱え込んでいますが、それと同じように子供を疎外している大他者(=母)の側にもひとつの欠如があるということを子供が発見することが、子供を大他者の要求の鎖から解放する契機となります。
子供はこの大他者における欠如に対して、自分が先に失った欠如である「存在の生き生きした部分」(-φ)を持って答えます。この二つの欠如を重ね合わせる操作が「分離」と呼ばれるものです。こうして、疎外によって失われた「存在の生き生きした部分」、すなわち享楽が大他者(=シニフィアンの体系)における欠如に重ね合わされることになります。そして、この重ね合わされた欠如の点に到来するものこそが「対象 a 」です。
つまり「対象 a 」とは、大他者における欠如(Ⱥ)を埋め合わせてくれる対象であるとともに、主体が原初的に喪失した「存在の生き生きした部分」を部分的に代理し、主体に別種の満足を獲得させてくれる対象でもあります。
この満足はたしかに享楽と呼ぶことができる何かです。しかしそれは原初状態にあったと想定される〈物〉を全体的に回復するような享楽ではありません。すでに象徴界に参入した主体にとってそんなことは不可能だからです。分離の操作によって獲得される享楽とはむしろフロイトが部分欲動と呼んだものに相当する部分的な享楽です。
この部分的な享楽は身体の全体から享楽を掠め取り、それを身体の一部分(器官)に凝縮したものとなります。実際、ここでラカンは欲動は生殖という究極的な目標に達することなしに、口唇や肛門のような部分的器官の周囲を経巡することによって目的を達してしまうというフロイトの説を援用しています。すなわち、この享楽は〈物〉そのものを目指すのではなく、〈物〉の断片としての「対象の周りを経巡る」ものであるということです。このような享楽は後にラカンによって「ファルス享楽」ないし「器官の享楽」と呼ばれます。
以上のように『精神分析の倫理』の時点ではシニフィアンと享楽は完全に分断されており、両者の交通の可能性はほとんどありませんが『精神分析の四基本概念』の時点ではシニフィアンと享楽のあいだの交通が部分的なものとして再建されています。ここで享楽はもはや不可能なものではなく「対象 a」という抜け道を通って獲得可能なものになります。かくして「対象 a」はシニフィアンと享楽のあいだの分断を繋ぎ合わせる理論的接着剤として機能することになります。
* 分離の失敗としての精神病
では、このような「疎外と分離」という観点からは、どのように神経症と精神病の鑑別診断を考えることができるのでしょうか。まず問題となるのは、64年の疎外と分離の理論が、それ以前の理論とどのような関係にあるのかということです。先述のように疎外と分離(特に分離)では、大他者における欠如(Ⱥ)に直面した主体がその欠如を対象 a によって埋め合わせ、それと同時にセクシュアリティの制御(ファルス享楽の体制の確立)が行われます。そうであれば分離は50年代ラカン理論における〈父の名〉の導入という「父性隠喩」の成立に相当すると考えられます。
実際、ラカンは論文「無意識の位置」のなかで「父性隠喩とは、分離の原理である」と述べており、分離を、父性隠喩を受け継ぐ概念として構想していたと考えられます。言い換えるなら、疎外と分離は50年代に構造化されたエディプスコンプレックスを、その規範性を相対化しつつ論理操作へと抽象化し、さらに洗練させたものといえます。それゆえ、60年代のラカン理論を基盤とする神経症/精神病の鑑別診断は、分離の成功/失敗という観点からなされることになります。
この点、分離の操作によって行われるセクシュアリティの制御(ファルス享楽の体制の確立)とは換言すれば享楽を制御し身体器官に局在化させることを意味しています。それゆえに分離の操作に失敗している精神病では享楽は制御されず身体器官に局在化されていません。その結果として、精神病者は「脱局在化された、荷崩れした、象徴化不可能な享楽から侵襲をうける危険性」があります。この享楽の侵襲のあり方によって精神病の下位分類であるパラノイアとスキゾフレニーの二つを区別することができます。
まずパラノイアの場合、享楽が大他者の場に回帰します。その結果、大他者が主体を享楽するようになります(つまり、主体が大他者の享楽の対象となります)。例えばフロイトの「症例シュレーバー」においては、神や主治医のフレックシヒ教授が彼を性的な慰み者として利用しているという訴えがみられますが、このような現象は、享楽が大他者の場に見出されるために生じていると考えられます。このことをラカンは、パラノイアとは「大他者それ自体の場に享楽を見出す」者であると表現しています。
これに対してスキゾフレニーの場合、享楽は身体に回帰します。通常(すなわち、神経症の場合)では、享楽は身体から分離されています。神経症者の言語使用のなかに性的な(ファリックな)意味作用があふれるのは身体の多くの部分が享楽の機能を担わない代わりに言語が享楽の機能を担うからです。しかしスキゾフレニーの場合、その享楽は直接的に身体に回帰します。この享楽の身体への回帰は臨床的な水準では陰部を撫で回される、頭をもやもやしたもので覆われる、あるいは体のいたるところに電気が走るといった異常感覚体験として現れます。
以上のように60年代のラカン理論は、もはや精神病を父性隠喩の失敗によるシニフィアンの脱連鎖として把握するだけではなく、精神病では享楽が局在化されておらず、それゆえに通常とは異なった場所に享楽が回帰すると考えます。そして、パラノイアとスキゾフレニーは、その享楽の回帰する場所によって区別されるということです。
* 疎外と分離からみる神経症
では神経症では疎外と分離はどのように機能しているのでしょうか?前述の通り父性隠喩が分離の原理である以上、父性隠喩の成功によって特徴づけられる神経症は疎外と分離を終えた主体である考えられます。つまり精神病者が疎外だけを経験しているのに対して、神経症者は疎外と分離の両方を経験しているということです。もっとも神経症の下位分類であるヒステリーと強迫神経症では疎外と分離に対してとる態度はそれぞれ異なっており、その違いが両者の構造を決定づけています。
まずヒステリー者とは、疎外と分離を終えたあとも分離の操作に執着する主体です。つまり、ヒステリー者は大他者に欠如しているもの(-φ)を見出し、その欠如に自分自身(a)を捧げようとします。例えばフロイトの「症例アンナ・O」では父が病気になり、その父の看病をするようになったときにヒステリーを発病させ、あるいは「症例ドラ」では不能の父の欲望の支えとなることを自らの行動において実現していました。
つまり、ヒステリー者にとっては大他者における欠如(病気)がきわめて重大な発症の契機となり、その症状は大他者における欠如に対して彼女たちが結ぶある種の自己犠牲的かつ支配者的な関係のなかで展開されるということです。反対に「ヒステリーの主体にとって不安の重大な源泉となるのは、おそらく、大他者のなかに彼ないし彼女(=ヒステリー者)の場所がなくなってしまうこと」です。
これに対して強迫神経症者は、疎外と分離を終えたあとに、以前の疎外の操作にたちもどり、疎外を拒絶しようとする主体です。先述のように疎外とはあるシニフィアン(S1)が主体($)を他のシニフィアン(S2)に対して代理表象する操作でした。この操作は、ひとつのシニフィアンによって、ふたつのシニフィアン(S1とS2)を同時に表現することをヒステリー者に可能にします。その結果、例えばヒステリー者はある人物に対する愛情(彼の欲望を支えること)と憎悪(彼の不能を暴くこと)という対立するふたつの情動を、ひとつの表現でまかなうことができるようになります。
他方、強迫神経症者は疎外を拒絶し、S1とS2の二つのシニフィアンを両方とも保持しようとします。するとある人物に対する愛情と憎悪は、ヒステリー者のようにひとつの表現でまかなわれるのではなく、ひとつずつ独立して現れざるをえなくなります。例えばフロイトの「症例ねずみ男」では愛する女性の車が通る予定の道路にある石を取り除き(=愛情の表現)、その後で、石をふたたび元の道路に置き直す(=憎悪の表現)という奇妙な行動が見られますが、このようなしばしば無意味な−−本人にも無意味であることがわかっている−−儀式的強迫行為は強迫神経症におけるシニフィアンの性質(S1とS2の保持)によって繰り返されているということです。
また、強迫神経症者が疎外を拒絶するということは、享楽を内包する「存在の生き生きした部分」の喪失を拒絶することでもあります。強迫神経症者は疎外と分離を終えており、実際には享楽をすでに喪失しています。しかし彼は、自分のファンタスムのなかでは、享楽を喪失せずに保持していると考えています。「症例ねずみ男」で患者がメガネの代金を支払うように上司から命令されたことでひどく混乱してしまったのは、この支払いが、いわば「享楽の喪失」という未払いのツケを−−「父親が返さなかった負債」を−−払うことに相当するものと空想されていたからに他なりません。
* 去勢の想像的解釈
以上のようにヒステリー者は分離の操作に執着し大他者の欠如を見出し、その欠如を自分で埋めようとする主体であり、強迫神経症者は疎外を拒絶し、享楽の喪失を避けようとする主体であるということです。
では、神経症者はそもそもなぜ大他者に対してこのような態度をとるのでしょうか。それは「神経症者は、ヒステリーと強迫のどちらであっても……大他者の欠如を大他者の要求と同一視する者」だからです。疎外と分離の操作を終えた神経症者は「大他者は、大他者自身の欠如(Ⱥ)を埋めるために、私に何かを要求している。大他者は、私が自分の享楽を大他者に差し出し、私が去勢されることを私に要求しているのだ」と想像しますが、当然ながらこのような大他者の要求に応えることはできません。
こうした大他者に対する強迫神経症者の戦略は疎外を拒絶することで、そもそも大他者に享楽される余地を作らないようにするものです。これに対してヒステリー者の戦略は大他者に欠如を認めることによって彼の不能を暴き、その欠如をあらかじめ自分から埋めておくことで大他者がそれ以上自分を享楽しないようにするものです。
いずれにせよ神経症者は自分の享楽を大他者に差し出すことを恐れています。しかし、彼らは疎外と分離を経験している以上、そもそものはじめから享楽を喪失しているはずですし、そのときにはすでに去勢を経験しているはずです。ではなぜ彼らは享楽を差し出すことや去勢を要求されることを恐れているのでしょうか?
その答えは、「去勢とは、結局のところ、去勢の解釈の瞬間にほかならない」(S10,58)という点に求められます。すなわち、神経症者は「去勢」を経験はしているもののその経験を「想像的な水準」(E826)で解釈してしまっているということです。
去勢を想像的な水準で解釈するとはどういうことでしょうか。それは、自分を去勢する誰かがどこかに存在していると空想することです。もし自分を去勢する人物が存在するのであれば、その人物を打倒することができれば、神経症者は去勢から回復することができることになります。しかし、実際には去勢はそのようなものではありません。去勢(享楽の喪失)は人間がシニフィアンの世界に参入し、その世界のなかで自らのセクシュアリティを何らかの形で制御していく操作のなかにロジックとして最初から組み込まれています。
すなわち、原初的に喪失した「存在の生き生きした部分」を取り戻すことが不可能なように、私たちは去勢を回復することができません。しかし神経症者はそのことを理解できません。彼らは疎外と分離の操作を終えてはいるものの、すでに終わってしまった喪失を、喪失として受け入れることができていないということです。人がしばしば陥ってしまうこのような想像的誤認、すなわち去勢の想像的な解釈こそが人を苦しめる、いわゆる「生きづらさ」を生じさせています。
精神分析の目標のひとつはこのような去勢についての想像的な解釈を変更することにあります。その解釈の変更作業はこの時期のラカンが分析の終結に位置づけていた「ファンタスムの横断 traversée du fantasme」(S11,246/368)に相当するでしょう。
ここでいうファンタスムとは主体と対象 a との結び付きから構成される幻想ないし空想のことをいいます。こうしたファンタスムを横断し「大他者が私たちの去勢を要求している」という想像的な解釈を打ち捨てることができてはじめて、人は自らに固有の欲動のあり方へと向かうことができるようになるということです。
* 対象 a とファンタスム
では、このような「ファンタスムの横断」とは具体的にいかにしてなしうるのでしょうか。片岡一竹氏は画期的なラカン入門書『疾風怒涛精神分析入門』(2017)においてファンタスムの機能を「未来への希望(〈もの〉の再発見の欲望)」を生み出すと共に「現在の満足(対象 a の享楽)」をも生み出すものとして整理した上でファンタスムの役割を次のように論じています。
まずファンタスムは個人の人生においてどういった形で満足を得ていくかという享楽の型(モード)を規定するものであると同時に、どういった形で変化していくかという欲望の指標となります。ところが人生の途上において既存のファンタスムで対応できない出来事が生じることがあります。例えば環境の変化や出会いや別離といった出来事です。しかし人はなかなかそれまでのファンタスムを捨て去ることができず、いわば幻想と現実の狭間で苦悩することもあるでしょう。
しかしファンタスムは幻想=フィクションである以上、構築することもできれば解体することもできます。そこで既存のファンタスムを解体し、新たなファンタスムを再構築することこそがファンタスムの横断と呼ばれるものです。そして、それは対象 a と〈理想〉の癒着を引き剥がすことによって可能となります。
ファンタスムが強固なのは何かしらの享楽ないし欲望の対象(対象 a )が同時に何かしかの理想的な存在(自我理想)になっているからです。しかしファンタスムを横断するとき、こうした〈理想〉は文字通りのただの享楽ないし欲望の対象に変わります。つまり「そうした理想を作り出すことで自分は何がしたかったのか」が分かるということです。こうして人は「あの理想を求めていたのは必然的なことではなかった。自分は他にやりたいことがあったじゃないか」と考えられるようになり、新たなファンタスムの構築へと向かうことができると同書はいいます。
もちろん、こうしたファンタスムの横断を根源的な無意識レベルで成しうるのは極めて困難です。けれども例えば「あれが手に入れば」「あそこに行けば」「あの人がいれば」といった意識レベルの〈理想〉であれば、ある程度はその〈理想〉という名の幻想と距離を置くことも可能でしょう。こうした意味で自身における〈理想=幻想〉をいわば形式化して外側から見つめ直す上で対象 a という概念は有益な参照点となるのではないでしょうか。