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2026年06月23日

セカイ系と文学の困難



* セカイ系とは何だったのか

ゼロ年代の文芸批評シーンを賑わしたキーワードとして「セカイ系」という言葉があります。ここでいう「セカイ系」とはライトノベルとその周辺の独特な想像力を形容するものとして、だいたい2003年ごろから使われるようになった言葉です。これはネットユーザーのあいだで自然発生的に生まれた言葉なので、確かな定義があるわけではないですが、一般的には主人公と(多くは)その恋愛相手とのあいだにおける「ぼくときみ」というべき小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力を意味すると理解されています。

このような構図は現代思想の世界でよく使われるラカン派精神分析の用語を借りていえば「想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」という表現でより一般的に定式化できます。ここでいう「想像界」とは恋人や家族など親密圏内部での幻想の世界を指し「象徴界」とは社会の公共的な約束事や常識をいい「現実界」とはそんな幻想も常識もともに壊すリアルなものです。

セカイ系の初期の代表作としては、高橋しん氏の漫画『最終兵器彼女』、新海誠氏のアニメ『ほしのこえ』、秋山瑞人氏のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』といった作品がよく挙げられます。このようなセカイ系の想像力はゼロ年代の半ばには若者向け小説市場全体に波及し、多くの作品にその特徴が認められるようになります。例えばゼロ代を代表するライトノベルの一つである谷川流氏の〈涼宮ハルヒの憂鬱〉シリーズも、しばしセカイ系に分類されることがあります。

そしてそのようなセカイ系の評価をめぐっては評論家のあいだでも賛否両論、様々な議論がありました。そもそも、この「セカイ系」という言葉自体に「セカイ系の作品は、物語内で世界の危機を描いているようでいて、実際はなんのリアリティもない子どもっぽい設定しか導入していない、それらの作品が描いているのは「世界」ではなく「セカイ」にすぎないのだ」といった揶揄が込められています。つまりセカイ系は売れているわりに必ずしも評判が良くなかったということです。

セカイ系と呼ばれる作品は視点人物のまわりの小さな日常と世界や死をめぐる抽象的な観念ばかりを描き、そのどちらでもない複雑な社会的現実をほとんど描写しません。というより、そこではそんな描写はそもそも必要だと考えられていません。「世界の危機」「この世の終わり」といった構図だけが重要で、それが具体的にどのような事態なのかといった細部の設定は驚くほどなおざりにされています。ではなぜこのようなものがゼロ年代の文芸批評シーンにおいて注目されたのでしょうか。改めてセカイ系とは何だったのでしょうか。


* 虚構と現実の断絶と再縫合

この点『動物化するポストモダン』(2001)や『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)といった著作でゼロ年代批評をリードした批評家の東浩紀氏はゼロ年代におけるこうしたセカイ系的な想像力の台頭には『大きな物語の消尽』『データベース消費』『まんが・アニメ的リアリズム』といった術語で言い表されるポストモダン的な諸々の条件が反映されているという議論を展開しました。つまり、そこで問題とされているのは文学やサブカルチャーにおける一時的な流行ではなく、数十年単位で生じている大きな社会的な変化であるということです。

こうした問題意識から氏は『セカイからもっと近くに』(2013)という文芸評論集において文学やサブカルチャーにおいて「社会を描けない」「社会を描かなくていい」「社会を描く気になれない」という問題を「セカイ系の困難」と呼び、こうした問題は文学やサブカルチャーの領域を超えて、今では日本文化全体に拡がっているといいます。 

「文芸評論という、いまや古びたあまり見向きのされないジャンルがあります。本書はそのジャンルに属する本です」という書き出しで始まる同書の主題は現代において「想像力と現実が関係を持つことのむずかしさ」です。ここでいう想像力を代表する文学はかつて、現実で生きる人々の喜びや苦しみを汲み取り、芸術表現に昇華するという役割を担っており、文学こそが社会改革の原動力になると信じた人々も少なくありませんでした。つまりかつては想像力と現実はきちんと接続されていた(と信じられていた)ということです。

ところが現代日本ではその理想に反して、大衆に支持される創作物は現実の政治的葛藤や社会問題をほとんど反映しておらず、想像力と現実が切り離された時代であり、いまや文学が社会に与える影響はかつてなく小さく、逆に社会が文学に与える影響もかつてなく小さいと同書はいいます(急いで付け加えるとすれば、ここで指摘されているのは、現代の文学が社会問題にまったく向き合っていないとかではなく、あくまで文学をはじめとする創作物がもっぱらエンタメとして消費されてしまう現代の大きな傾向のことだと思います)。

そして同書は以上のような状況認識のもとで、それでも虚構と現実を、あるいは文学と社会を、それぞれの方法で再縫合しようと試みて「しまっている」作家の主要作品の読解を試みます。試みて「しまっている」とは、作家が必ずしもその再縫合の試みを自覚していないことを意味しています。つまり、彼ら彼女らはその作品を虚構として完成させようと試みているにもかかわらず、その作品は虚構としての完成からどうしようもなくずれていってしまい、いつのまにか現実の痕跡が招き入れられているということです。このずれの構造こそが同書が読解を試みる当のものです。

その意味で同書は「普通の」文芸評論ではないと氏は述べます。想像力と現実の結びつきを前提とした「普通の」文芸評論は想像力と現実が結びつかない以上、本来成立しないものですが、同書は「想像力と現実が結びつかない、その現実を想像力の分析を通して浮かびあがらせよう」とする文芸評論であり「文芸評論の不可能性について文芸評論の手法で論じようとしている、かなりねじまがった本」であるということです。


* セカイ系の起源と剰余

こうした観点から同書が取り上げる最初の作家が新井素子氏です。新井氏は1977年に高校生でデビューし、1980年代の半ばに至るまで若い読者に圧倒的な人気を誇り、SF史とライトノベル史に大きな足跡を残した作家として知られています。1990年代以降の活躍は相対的に目立ちませんが、文芸評論家の大塚英志氏による言及がきっかけでキャラクター小説の文法を確立した作家として批評的な注目を浴びています。

新井氏の作品はラカンのいう想像界と現実界が短絡しているように見えるため、しばしセカイ系の起源として挙げられます。例えば1981年刊行の『ひとめあなたに…』にという小説のあらすじは次のようなものです。

主人公である女子大生の山村圭子には森田朗という彫刻家志望の恋人がいますが、朗はある日がんの告知を受けます。もはや余命は幾許もなく、助かったとしても右手切断を免れないという状況で希望を失った朗は圭子に別れ話を持ち出します。混乱した圭子はやけ酒を浴び一夜を過ごしますが、その夜に唐突に地球はあと1週間で巨大な隕石が衝突し、人類は全員滅びるというニュースがもたらされることになります。

圭子はこのニュースをきっかけに自分を取り戻し、もう一度朗に会おうと決意し、世界の破滅を前にした混乱のなか、最初は徒歩で、途中からはバイクに乗って練馬から鎌倉に向かい、果たして浜辺で朗と再会し、2人は愛の言葉を交わし、波の音を聞きながら世界が破滅する時を待ちます。しかしその一方で巨大隕石の詳細は全く明かされず、それが引き起こす社会の混乱もほとんど描写されません。

このように同作は「隕石の衝突」という非社会的な設定(現実界)を、社会の描写(象徴界)をなおざりにして、ただひたすらに圭子と朗の恋愛(想像界)を描くための舞台装置として利用している小説であり、ここにはセカイ系における想像界と現実界の短絡という構図がはっきりと見て取れます。しかし同時にこの作品はこのようなセカイ系的構図から大きく逸脱する剰余を抱えています。


* 社会から家族へ

実は圭子は練馬から鎌倉に向かう途中で由利子、真里、智子、恭子という4人の女性ないし少女に順々に(厳密に言えば恭子の場合はその夫の語りを通して)出会っています。この4人はいずれも表面的には幸福な日常を送っていましたが、世界の破滅を前にしてその基盤の脆弱さが暴かれ(例えば夫の浮気が明らかになるなど)、精神の均衡を失ってしまっています。

つまり、この小説には圭子と朗の恋愛譚とは別に4人の女性ないし少女との出会いが含まれており、圭子は彼女たちの出会いを通じて成長し、恋人と再会を果たすことになります。新井氏自身は同作をあくまで圭子と朗の恋愛譚として描きますが、実際の描写の力点は分量的にも内容的にも明らかに圭子と朗の恋愛より4人との出会いの方に傾いています。

つまりこの小説はセカイ系的な恋愛譚を描こうとしたにもかかわらず、実際のところその大半はセカイに辿り着くまでの話に費やされているということです。ここには明らかにセカイ系の困難(社会を描けない/描かない/描きたくない)に対する作家の無意識的な抵抗(にもかかわらず完全に書かないわけにはいかない)の力学が作用しています。

そして、この4人の物語に共通するのは「崩壊する家族」というモチーフです。同作において世界の破滅(現実界)と小さな恋愛(想像界)は単純に短絡することはなく、両者は家族とその崩壊というモチーフを通じて結び付けられています。さらに同作に限らず新井の小説には家族のモチーフが頻繁に登場します。

このように新井氏はセカイ系の先駆者でありながら、同時に家族というモチーフを執拗に描き続けた作家でもありました。つまり氏は象徴界が抜け落ち、もはや社会をきちん描くことができないという感覚を、のちのセカイ系のように想像界と現実界との短絡で処理するのではなく、家族的想像力によって埋め合わせているということです。それこそが新井素子という作家がセカイ系の困難に対して与えた答えであると東氏は述べています。


* セカイ系と文学の困難

さらに新井氏の中でこの家族的想像力は「拡張された家族」として現れます。1983に公刊された『・・・絶句』という小説では「新井素子」という名の大学2年生の主人公が自宅で小説を書いていると突然、素子が今まさに書き記していた小説の登場人物たちが室内に現れるところから始まります。この小説でも想像力の基本的な軸は象徴界の欠如を「家族」で埋めるという構図で作られていますが、同作における「家族」とは物語から独立したメタ物語的性格を持つ「キャラクター」の集合体(東氏のいうデータベース)として描かれています。

このように新井氏はセカイ系の起源とされる作家でありつつも、セカイ系の困難(社会を描けない/描かない/描きたくない)という虚構と現実の断絶を社会の代わりに「拡張された家族」を描くことで抗おうとした作家であるといえます。ところがゼロ年代におけるセカイ系になるとこうした虚構と現実の断絶に対してもはや何らかの抵抗を試みるのではなく、むしろ両者の断絶という現実それ自体が想像界と現実界の短絡という構図としてあからさまに描かれてしまうことになります。

しかしながら、まさにこの地点にこそゼロ年代におけるセカイ系の革新性を逆説的に見出すことができるでしょう。すなわち、その革新性とは虚構と現実の断絶という現代における文学の困難を想像界と現実界の短絡というアクロバティックな回路を経由することで曲がりなりにもひとつの文学ジャンルへと昇華した点にあるということです。そうであれば、ここからセカイ系の困難としていまや織り込み済みの前提となった文学の困難という問題をいかに深めるか、もしくはいかに乗り越えるか、あるいはいかにやり過ごすかというある種の「ポスト・セカイ系」という批評的観点から現代におけるさまざまな想像力を読み解いていくこともできるのではないでしょうか。






















posted by かがみ at 00:18 | 精神分析

2026年05月22日

オイディプスと格差社会



* 68年5月とアンチ・オイディプス

1960年代、フランス現代思想のモードは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は、人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しました。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義は、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事実を暴き出しました。

1960年代中盤、構造主義の栄華は頂点に達します。多くの知識人や文化人は自らを構造主義者であるとして、中には構造主義的再編でチームの成績向上を図るなどと言いだすサッカーの監督もいたそうです。ところが1960年代後半になると構造主義は早くもその栄華に陰りを見せ始めます。こうした流れを決定的なものにした出来事が1968年に起きた「パリ5月革命」です。

「68年5月」において学生たちが異議を申し立てたのは「Egalité! Liberté! Sexualité!(平等!自由!セクシュアリティ!)」というスローガンが端的に示すように、大学や社会が押し付ける旧態依然とした父権主義的な「構造」に対してでした。ここで構造主義は「構造は街頭に繰り出さない」などとラディカルに批判されることになります。

そしてこの「68年5月」を駆動させた人々の「欲望」を原理的に考察することで構造主義を超出する新たな思想を提示したのがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)です。同書は発売されるや否や若年層を中心に熱狂的に歓迎され、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。こうして「ポスト・構造主義」の時代が幕を開けることになります。


* 欲望諸機械とは何か

同書は端的にいえば「欲望」を起点とする主体と社会の変革の哲学を提示するものであり、その基本的なテーゼは「世界のすべては欲望のフローから構成されている」というものです。ここでドゥルーズ=ガタリは「欲望」を自然、生命、身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な「機械 machine」に宿る非人称的な力の作用として捉えており、こうした機械の接続を「欲望諸機械」と呼びます。

すなわち、同書は構造主義的な差異の体系としての「構造 structure」とその偶然的変動としての「出来事 événement」ではなく「機械」による欲望的生産の絶えざる変容の「過程 processus」を重視しているということです。そして、こうした欲望的生産の過程とは機械と機械を接続し切断する欲望のフローの過程であり、それは社会の絶えざる変容の過程でもあります。このような欲望的生産をドゥルーズ=ガタリは「生産の生産」「登録の生産」「消費の生産」から論じ、欲望諸機械の特性を次の三つに分けています。

第一に「接続的総合(生産の生産)」という特性です。機械は諸々の物質的フローに接続し、そのフローを切断して採取します。「例えば口機械は母乳機械に接続され、そこからミルクのフローを切り取り、採取」します。さらにこうした機械が接続する諸々の物質的なフローそのものもまた、別の機械によって生産される以上、機械とフローの接続は機械同士の接続ということになります。また機械と機械の接続は必ず新たなフローを生産しますが、それは第三の機械に接続され採取されることになります。こうした欲望諸機械相互の接続が欲望の生産性そのものを生産します。これが「接続的総合(生産の生産)」という欲望諸機械の根源的条件です。

第二に「離接的総合(登録の生産)」という特性です。あらゆる機械はその中に一種のコードを組み込んでおり、そのコードは極めて多様な断片を保持しています。そして、それらの断片はコードから自由に離脱してそれぞれ他の機械に接続され、そこからコードの剰余価値を引き出します。その例としてドゥルーズ=ガタリはスズメバチと蘭の間のコードの接続と、それによるコードの剰余価値の生産を挙げています。蘭はスズメバチが花粉を雌しべから雄しべへと運搬することなしには自らの再生産を行うことができません。それゆえに蘭はスズメバチの生殖器を真似てスズメバチのイマージュとなり、スズメバチのコードと接続され、そこから受粉と再生産というコードの剰余価値を生産することになります。

こうした多様なコードが登録される登録平面ないし内在平面の役割を果たすのが「器官なき身体 corps sans organes」です。ここでいう「器官なき身体」とは欲望諸機械の流れが登録されるゼロ強度の「欲望の不動の動者」であり、同時にその流れを引き留め、反発し、組織化しようとする抵抗面でもあります。そして、このような多様なコードとそれらの接続から生まれるものが多様体としての主体です。

ここから「連接的総合(消費の生産)」という第三の特性が導き出されることになります。ドゥルーズ=ガタリにおいて主体とは欲望諸機械が欲望のフローを採取、消費することによってその傍らに残余として生産されるものであり、その意味において主体とは意識によって中心化された人称的主体ではなく、無意識において諸特異性から構成され、生成変化を繰り返す脱中心化された非人称的主体であるということです。


* オイディプスと社会的生産

このように欲望諸機械は常に生産の働きを止めず、相互に接続を繰り返して、非人称的諸特異性から構成された生成変化の主体を生産します。こうした意味で「欲望はその本質において革命的」なのであり、欲望的生産は潜在的に社会を破壊するような強度的力能を持っています。

しかしドゥルーズ=ガタリによれば資本主義下における「オイディプス化」がそのような徹底した生産性を抑圧します。ここでいう「オイディプス化」とは多様な欲望の流れを父・母・子という家族三角形に縮減することで、欲望の多様性を抑圧し、自己同一性自我の形成を促す操作をいいます。

この点、ドゥルーズ=ガタリは社会的「抑制」と心的「抑圧」を区別します。社会的「抑制」は権力諸装置による作用であり、権力に従順な主体を形成して社会構成体の権力関係や抑制的構造を再生産します。そして社会的「抑制」はその道具として心的「抑圧」を、すなわち「オイディプス化」を必要とします。

つまり欲望的生産は社会的生産と表裏一体であり、社会的生産は欲望的生産に働きかけて欲望的生産が自ら「抑制=抑圧」を欲望するような体制を作りあげていきます。こうしたことからドゥルーズ=ガタリは「社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も、欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。この組織がどのような条件において出現するかを、まさに私たちは分析しなければならないだろう」と述べています。

それゆえにドゥルーズ=ガタリは政治哲学の根本問題として「人々はなぜ、あたかもそれが自らの救済であるかのように、自らの隷属を求めて闘うのか」「人々はなぜ、より多くの課税を、より少ないパンを、と叫ぶのか」「人々はなぜ数世紀もの間、搾取、屈辱、奴隷状態に耐え、それらを他人だけでなく自分自身にも望んできたのか」という問いを提示します。

この問いはかつてスピノザが『神学政治論』で提出した問いであり、ウィルヘルム・ライヒがそれを大衆のファシズムへの欲望という形で再発見した問いでもあります。「権力への服従化」の社会的生産とは「権力への服従化の欲望」の社会的生産に他なりません。そしてオイディプス的家族はそのような「権力への服従化の欲望」を生産する社会秩序の縮図であるということです。


* オイディプスと服従集団

こうしたことからドゥルーズ=ガタリはオイディプスが欲望的生産に対して心的抑圧を課し、権力への服従化の欲望を生産する過程を次のように説明します。第一に接続的総合のオイディプス化です。接続的総合は欲望諸機械が横断的に互いに接続と切断を繰り返す過程からなるのでした。

彼らはこの過程を接続的総合の「部分的、非特殊的使用」と名付けていますが、この過程がオイディプス化によって「包括的、特殊的使用」へと包摂されます。この接続的総合の「包括的、特殊的使用」によって子供は近親相姦の禁止を通じて同性の親に同一化(オイディプス化)し、さらに自らが親となる異性愛的な婚姻関係においてオイディプスを再生産することになります。

第二に離接的総合のオイディプス化です。欲望諸機械はそれぞれが独自のコードを内包し、そのコードは多様であり、常に断片化されて他のコードと接続され、そこからコードの剰余価値を生み出し得ます。しかしオイディプス化はそのようなコードの多様性を抑圧し、父・母・子という家族三角形に縮減します。

第三に連接的総合のオイディプス化です。欲望諸機械はそれらが接続され、諸々のフローを消費することによって、その傍らに常に変容を続ける非人称的主体を生産します。ドゥルーズ=ガタリはこのような変容の主体の生産を連接的総合の「遊牧的、多義的使用」と名付けています。しかしオイディプス化によってそれは「隔離的、一対一対応的使用」に変容されます。

彼らのいう「隔離的、一対一対応的使用」とは社会野の規定と家族的規定との間に「一対一対応」の関係を形成し、その一対一対応に基づいて欲望的生産にオイディプス関係を写像して、欲望的生産の多様性を抑圧するものであり、それによって諸特異性からなり絶えず変容を繰り返す非人称的主体はオイディプス化された人称的主体へと個体化されることになります。

さらにオイディプス化は人種、国家、宗教といったある一つの超越的シニフィアンの下に統合された「集団」へと諸主体を同一化させることで「服従集団」の形成を導きもします。ここでいう「服従集団」とは「主体集団」に対立する概念であり、いずれもガタリが『精神分析と横断性』(1972)において導入した概念です。そしてドゥルーズ=ガタリは「服従集団」と「主体集団」を集団幻想との関係において定義しており、このような集団幻想としてのオイディプスこそが服従集団の形成に本質的な役割を果たしているということです。


* 資本主義と家族

以上のように欲望諸機械の徹底した生産性は反生産をもたらすオイディプスによって抑制=抑圧され、諸個人は服従集団へと全体化されることになります。そしてドゥルーズ=ガタリはオイディプス化を資本主義体制に固有の抑圧装置であると考えます。彼らによれば資本主義は「貨幣-資本」という形を取る生産のフローと「自由な労働者」という形を取る労働のフローとの出会いによって発生します。つまり資本主義は前資本主義におけるコード化や超コード化に代わる脱コード化の運動によって定義されることになります。

資本主義はこのようにフローの脱コード化という絶対的極限へと向かう分裂症的運動によって定義されます。しかし、その一方で資本主義は自らが解放したフローを公理系によって抑制し、内在的な相対的極限へと閉じ込めます。つまり国家とはこのような資本の公理系に要請されて脱コード化した諸々のフローを調整する装置に他なりません。こうした国家の役割は社会主義国家でも福祉国家でもさらには新自由主義国家においても同様に要請されることになります。

そして資本主義によって社会体が「貨幣-資本」として純粋に経済的なもの、抽象的なものとなることによって、家族は社会の外に置かれることになります。ドゥルーズ=ガタリはこれを家族の「私域化 privatisation」と呼びます。こうして家族が社会の外に置かれることで資本主義の公理系によって生み出された個人の社会的イメージ(言表の主体)はオイディプス化によって私的=家族的イメージ(言表行為の主体)へと「写像」されることになります。

このようなオイディプス化された主体の形成により、言表の主体(意識の主体)である社会的自我が言表行為(無意識の主体)である超越論的自我によって統御されるミシェル・フーコーのいうところの「経験的-超越論的二重体」としての「人間」が成立することになります。この経験的-超越論的二重体は権力に従順な仕方で自己を統治する服従化された主体そのものであり、そうした主体は欲望の生産性を自ら心的に抑圧することによって社会的抑制のメカニズムに自ら服従することを欲望します。この意味でオイディプス化は社会的統治のメカニズムであり、服従化の、そして服従集団の形成メカニズムであるといえます。

このようにオイディプス化は資本主義社会の再生産を欲望の水準において確保する、社会的統治のメカニズムであるといえます。しかしドゥルーズ=ガタリによればオイディプス化された主体が欲望の分子状多様体へと変容し、ヒエラルキー的な「服従集団」が横断的な「主体集団」へと変容するとき、資本主義はその下部から掘り崩されるといいます。そしてそのような変容は資本主義社会の再生産の「因果性の破断」、すなわち利害の水準における革命を通じて実現されることになります。

この点、革命的ポテンシャルをプロレタリアートに求める『アンチ・オイディプス』では服従集団から主体集団への変容はブルジョワジーに対するプロレタリアートの階級利害の追求を通じて実現されるということになります。こうした意味で服従化された諸主体としてのプロレタリアートは階級としての利害追求という革命的契機、いわゆる「レーニン的切断」によって、それまで社会体に服従させられていた欲望の生産的力能を発見します。

しかし同時にプロレタリアートが階級利害の追求に留まる限り、資本主義的利害に従属した服従集団から脱することはありません。けれどもプロレタリアートが階級利害の追求から欲望的生産を解き放つ「切断の切断」によって階級外集団である分裂者の主体集団を形成するとき、資本主義はその下部から掘り崩されることになります。


* オイディプスと格差社会

では、このようにドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で提示した「利害から欲望へ」という政治プログラムは現代においてはいかなる局面で発動するのでしょうか。例えばドゥルーズ=ガタリの著作を「切断の哲学」という観点から論じた佐藤嘉幸氏と廣瀬純氏の共著『三つの革命−−ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(2017)はこうした階級の二極化(新たな階級の構成)を、2000年代以降の日本におけるプレカリアート運動の中に見出しています。

小泉政権の新自由主義改革の一環として雇用規制緩和が急速かつ強力に推し進められる中で、2000年代中頃に非正規雇用労働者の労組が複数創設されるなど日本でも本格化したプレカリアートの運動は、世界的経済危機が始まった2008年に「反貧困」の旗印の下で一気に可視性を獲得することになります。さらに2010年代になってアベノミクスが開始されると彼らは「反貧困」に変わる新たなスローガンとして「反富裕」を掲げるようになります。

この点「反貧困」がプレカリアート運動を「利害の水準」で規定するものだったとすれば「反富裕」は同じ運動を「欲望の水準」で規定し直すものであったといえます。今日の日本のプレカリアート運動において「反富裕」は互いに対立する二つの異なる意味を付与されています。一方は運動を「反貧困」と連続させ、他方は運動を「反貧困」から切断し、一方は労働者階級に敵対する新たな階級(プレカリアート)として割って出るアンダークラスの階級利害を強調し、他方はプレカリアートからさらに分裂者が階級外主体集団として割って出る欲望を表現します。

すなわち「反富裕」とは第一に貧者の富を収奪する富者への敵対を意味します。ここでいう「富者」とはブルジョワジーだけではなく、ブルジョワジーとの個別的な労働力の売買が従来通り等価交換にとどまっているタイプの労働者(主として正規雇用労働者)も含まれます。こうした今日的「富裕」に反対することが「反富裕」の第一の意味であり、これは「反貧困」のうちに既にそのネガとして含意されるものでした。

しかし「反富裕」はまた、労働者階級からプレカリアートが割って出る敵対的切断としての「反貧困」のさらなる切断(切断の切断)という意味でも語られます。常にいっそう豊かになりたい、常にいっそう富を蓄積したいというのは畢竟「欲望」の問題であって、その当人が富者であるか貧者であるは関係がありません。そして資本主義はこの欲望(オイディプス化)を社会的に生産し、家族や学校、マスメディア、ソーシャルメディアなどの装置を通じて一人ひとりの個人に刻みつけます。

「反富裕」の第二の意味はここから生じることになります。それはすなわち「反貧困」においてはまだ温存されていたオイディプス化との決別に他なりません。換言すればプレカリアート運動とは文字通りの「アンチ・オイディプス」として「反富裕」から資本主義をその下部から掘り崩していく創造的過程であるともいえるでしょう。こうした観点からいえばドゥルーズ=ガタリが提示した「切断の哲学」は様々な文脈において格差が拡大しつつある今日の社会における人々の欲望を問い直すための処方箋としても読めるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 22:55 | 精神分析

2026年04月25日

リゾームとリトルネロ、あるいは〈自閉〉から世界制作へ



* ハイモダニティとしての現代社会

現代はしばしポストモダンの時代であると呼ばれます。ここでいう「ポストモダン postmoderne」とはフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』(1979)において提示した近代以降の時代を形容する概念です。それによれば近代とは「大きな物語 grand récit」によって意味と方向を与えられていた時代であり、ポストモダンはそうした「大きな物語」の終焉によって特徴づけられます。この概念をリオタール自身は近代の科学的知の正当化と、その基礎や準拠をめぐる議論のなかで用いていましたが、その後、この概念はリオタール自身の意図からある程度独立して近代から区別されるものとしての現代社会のあり方を表現するものとして広く用いられるようになります。

ここでいう「大きな物語」とは例えば、人間が知や啓蒙によって無知や隷属から解放されるという理念や、歴史が必然的に進歩するといった包括的な物語のことをいいます。こうした物語は科学を含む人間のさまざまな営みの正当化の基礎や準拠となり、それらに意味や方向を与えてきました。すなわち「大きな物語」の終焉であるポストモダンは、人間のさまざまな営みから安定した基礎や準拠が、そして統一的な意味や方向が失われる状況を意味しています。

これに対してイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは現代社会の様態を近代における世界像の変化のさらなる徹底と浸透を意味する「ハイモダニティ highmodernity」という概念から把握しています。ギデンズによれば近代以前では人々の営みやアイデンティティは彼らの所属する共同体やその伝統といったローカルで具体的な制度に枠付けられていましたが、近代はこうしたローカルで具体的な制度が諸々のグローバルな「抽象的システム」に変化していくことになります。

ここでいう「抽象的システム」とは特定に時間と場所を超えて流通し、利用、参照されるシステムであり、ギデンズはその例としてさまざまな物の交換を可能にする貨幣のような媒体や専門的な知識やサービスを挙げています。こうした「抽象的システム」のさらなる徹底と浸透した世界のあり方、自己のあり方を形容するのが「ハイモダニティ」です。つまりリオタールのいう「ポストモダン」が近代と現代との間にある種の断絶を見出す概念であるとすれば、ギデンズのいう「ハイモダニティ」は近代と現代を連続的に捉える概念であるといえるでしょう。

そして、こうした「ハイモダニティ」の中核に見出されるメカニズムが「再帰性 reflexivity」と呼ばれるものです。再帰性とは制度であれ人間であれ、自らのあり方を何らかの情報に照らして省りみることをいいます。近代以前には、その参照先は共同体やその伝統であり、これらの制度は当の制度自体に対しても人間に対しても、相対的に変化せず安定したものでしたが「ハイモダニティ」における参照先である「抽象的システム」は高度に専門化され絶えず更新され変動するようになります。

その結果、個人は自らのあり方を省みる上で、多様化を続ける情報を絶えず追跡、選択、フィードバックして、それに対する不断のモニタリングと修正が必要となります。しかも、その試みは当のその試みそのものによっても変化していく情報をさらに考慮に入れなければならず、こうなるともはや把握も統御も困難であり、定まった正解もゴールもないといった状態に陥ります。こうして「ハイモダニティ」における再帰性は個人に方向感覚の喪失をもたらすことになります。


* 存在論的安心と存在論的不安

ギデンズはこうしたハイモダニティにおける世界と自己のあり方を精神分析理論を援用し「存在論的安心 ontological security」と「存在論的不安 ontological enxiety」という観点から論じています。まずギデンズは『近代とはいかなる時代か?』(1990)において「存在論的安心」を「人間が自己アイデンティティの連続性に関して、そして行動の社会的および物質的な周囲環境の恒常性に関して持っている確信」と定義します。

我々は普段、自分の心臓が次の瞬間に鼓動を停止するのではないかとは通常考えません。いま歩いている地面が次の一歩で崩落するのではないかとも普通は考えないでしょう。 目を離して視界から消えた対象は、消滅するわけではなく、再び目を向ければそこにあると思っているし、眠るなどして意識が途切れても、自分というものが消えてなくなるわけではないと思っています。

そうした停止、崩落、消滅の可能性は絶対にないわけではなく、むしろ常にその可能性はあるのですが、そんなことをいちいち考慮していたら日々の生活は成り立たないでしょう。つまり、我々の日常が成り立つには自己の連続性と世界の恒常性はあらゆる検証に先立ってまず信じられていなければならないということです。この連続性や恒常性への意識されざる信頼や確信といったものがギデンズのいう「存在論的安心」です。

このように「存在論的安心」はそれを直視したなら日常が破綻しかねないような停止、崩落、消滅などの可能性を「括弧にくくる」こと、あるいはフィルタリングすることを可能にします。そしてギデンズはアメリカの精神分析家エリク・エリクソンの議論に基づいて、こうした「存在論的安心」の源泉を幼児期に母子関係を通して育まれた「基本的信頼 basic trust」に求めています。

エリクソンは『幼児期と社会』(1950)において人間の発達段階の最初期に達成され、アイデンティティの基礎となるものを「基本的信頼」として定式化しています。それは、幼児のさまざまな要求に、その庇護者たる母親が応答すること(世話を行うこと)を通して確立される信頼であり、こうした「基本的信頼」によって幼児は母親がいないときでも母が戻ってくると信じて耐えることが可能となります。いわば幼児は母が「見えなくても、離れていても大丈夫」というかたちで自己の連続性と世界の恒常性が信じられるようになるということです。

ギデンズはまた、イギリスの精神分析家ドナルド・ウィニコットが、やはり幼児期の母子関係のなかで切り開かれると考えられる「潜在空間 potential space」という概念を援用しています。ウィニコットが『遊ぶことと現実』(1971)で「潜在空間」と呼ぶものは幼児が母から分離するという外傷的で破滅的になりうる出来事に際して、現前と不在のあいだのある種の「緩衝帯」の役割を担い、それらを両立させ、なだらかに移行させる中間領域のことです。こうした「潜在空間」は「基本的信頼」を背景に機能するものであり「いま-ここ」という時-空間にないものを潜在的に携えておく力を育んでいきます。

これに対して「存在論的不安」とは、こうした「存在論的安心」における自己の連続性や世界の恒常性を信じることが困難な事態に他なりません。ギデンズは『モダニティと自己アイデンティティ』(1991)においてスコットランドの精神科医R・D・レインが報告する「根本的な存在論的不安の観点からのみ生じると示唆されるであろう不安や危険」を参照し、そのような不安や危険においては、自己の来歴の継続性についての一貫性の感覚の欠如や実存の危機の懸念への強迫的な固執などが見られるといいます。

そしてギデンズはこうした「存在論的不安」が今や病理や障害に限らず、ハイモダニティとその再帰性ゆえに今や多くの人々が「存在論的不安」を生きつつあるという可能性を示唆しています。ギデンズにおいてその可能性を示唆するのが日常的な習慣としてのルーティーンをめぐる議論です。ここでギデンズはその再帰性の中で「存在論的安心」が当然の前提ではなくなり「存在論的不安」が前景化してくるハイモダニティにおいて「存在論的安心」を維持していくものとしてルーティーンを位置付けています。


*〈自閉〉とリトルネロ

これに対して、小倉拓也氏は『〈自閉〉の哲学』(2026)において「存在論的安心なきルーティーン」から〈自閉〉という概念を問い直します。ここでいう〈自閉 Autismus〉とはかつては統合失調症に顕著な外界から内界への撤退を指す言葉でしたが、その後、それからは区別される症候群を指すものとなり、近年では「発達障害」の社会的な前景化、とりわけ「自閉症 autism」への注目をもとに哲学、とりわけ現代思想において大きな関心を集めています。

アメリカ精神医学会が刊行している『精神疾患の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :DSM』の最新版(DSM-V-TR)では「自閉スペクトラム症 Autism Spectrum Disorder:ASD」の診断基準となる行動上の特徴として「社会的コミュニケーションおよび対人的相互作用における持続的な欠陥」に加え「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」が記されています。ここでいう「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」とは具体的には⑴常同的、反復的な行動、対象の使用、発話、⑵同一性への固執、ルーティーンへのこだわり、儀式的な行動、⑶きわめて限定的で固定的な関心、⑷感覚刺激に対する過敏と鈍感、環境の感覚的側面に対する並外れた関心です。

こうした〈自閉〉における行動上の特徴をめぐる従来の議論は、それは治療すべき症状であると否定的にみるにせよ、あるいは反対に、それは才能や美点であると肯定的にみるにせよ、いずれにしても、いわゆる「正常」と比べて何かが決定的に「欠けている」という意味での「異常」として捉える点では一致していると思われます。これに対して同書は〈自閉〉についてそれが何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を哲学的に洞察していきます。つまり〈自閉〉における常同的、反復的行為には、それ自体は必ずしも欠如ではない「同じでいる力」「反復する力」があると同書は考えます。

ここで同書の重要な参照項となるものがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『千のプラトー』(1980)において提示した「リトルネロ ritournelle」と呼ばれる哲学概念です。「リトルネロ」とは本来は音楽用語であり、楽曲のなかの反復し、循環する部分を指すものですが、ドゥルーズとガタリはこれを独自の哲学的な概念へと練成していきます。

ドゥルーズとガタリは前後左右不覚でただ立ち尽くすしかない「カオス」と呼ばれる状況において我々が自己を確保し、歩き出したり、立ち止まったりすることができるのは、あらかじめ備わった一貫した主体性によってではなく、暫定的で局所的なテリトリーを構築しようとする常同的、反復的行為を通してであると考えます。

こうしたリトルネロという観点からいえば、哲学や精神分析において「主体」とか「他者」などと呼ばれる超越論的審級は本来的なものではなく、むしろ常同的、反復的な行為の効果として、それが構築するテリトリーとともに形成されるものであるということです。このことは本来的でそれゆえに内面的とされる秩序やその中心が、実は非本来的でそれゆえ外面的な水準においてその都度形作られることを示唆しています。

すなわち、同書の問う「存在論的安心なきルーティーン」としての〈自閉〉とは、同書が〈現前〉と呼ぶ世界が自己にあらわとなり自己が世界にさらされる無媒介的かつ情報過多的かつ感覚過敏的な状況において、本来的にインストールされているべき超越論的審級なしに、非本来的な常同的、反復的な行為をとおして、外面的な工夫によって生き抜いていくための生の技法であるといえるでしょう。


* それでもひとりでいる力

このように同書は〈自閉〉における常同的、反復的な行為が何を「欠いているか」ではなく、何を「行なっているか」を問います。もっとも、こうした問題提起をすでにウィニコットが半世紀以上前に「ひとりでいる能力」(1958)という名高い論文において行なっているものです。しかしウィニコットが考える「ひとりでいる能力」と同書のいう〈自閉〉には決定的な違いがあります。

この点、ウィニコットは「ひとりでいる能力」をある種の逆説として提示しています。それは、ひとりでいることが「他の誰かがいるときにひとりでいるという経験」に、より具体的には「幼児や小さな子どものように、母がいるところでひとりでいるという経験」に基づいているという逆説です。このウィニコットの逆説は先述した基本的信頼及び潜在空間と同様の論理に依拠しています。つまりウィニコットのいう「ひとりでいる能力」とはギデンズのいう「存在論的安心」と不可分のものであり、それゆえに「存在論的安心」を欠く場合、人は「ひとりでいる能力」を行使することは原理的にできないということです。

またエリクソンにも同様の問題を見出すことができるでしょう。エリクソンは『幼児期と社会』において、子どもの「ひとり遊び」を自分自身の身体を対象にして遊ぶ「自己宇宙 autocosmos」から始まり、おもちゃを思いのままに操作する「小宇宙 microsphere」を経て、他者と共有する世界である「大宇宙 macrosphere」へ至る展開として把握しています。しかし同時にエリクソンは「自己宇宙」における「母との相互作用」を、子どもの生にとって決定的なものとみなしています。すなわち、エリクソンにとって子どもの「ひとり遊び」とは「ひとり」でいるように見えて実際には母との相互作用からなる「基本的信頼」に支えられて、はじめて可能になっているということです。

こうしたことから同書は〈自閉〉における常同的、反復的な行為が持つ、つまりリトルネロにおける「同じでいる力」「反復する力」を基本的信頼や潜在空間や存在論的安心といたものがなかったとしても「それでもひとりでいる力」であると位置付けます。それはすなわち〈現前〉のなかで〈現前〉に抗して〈現前〉とともに生きる力であるということです。


* リゾームとリトルネロ、あるいは〈自閉〉から世界制作へ

周知のようにドゥルーズとガタリは1970年代の大陸哲学に大きなムーヴメントを巻き起こした『アンチ・オイディプス』(1972)において人間の欲望を「欠如」を埋める運動ではなく、生産する力として捉え直し「欲望機械」という概念を提示しました。ここでいう「欲望機械」とは身体、社会、制度といった諸要素が相互に接続しながら現実を生み出す生成の装置であり、欲望はこうした機械的連結を通じて絶えず流れ、切断され、再び結びつくものであるとされます。

そして『千のプラトー』において、こうした欲望観は「リゾーム」と呼ばれる世界観として提示されることになります。ここでいう「リゾーム」とは中心や階層を持たず、どこからでも接続し増殖していく地下茎のようなネットワークであり、欲望機械の連結が社会、文化、知の配置として広がる様態を示すものです。

こうしたリゾームという世界観の展開を支える脱領土化/再領土化という反復運動がリトルネロであるといえるでしょう。つまりリゾームが無数の接続と展開のネットワークだとすれば、リトルネロはリゾームの展開を実際に駆動させる具体的なプロセスだと言ってよいでしょう。こうした意味で「存在論的安心なきルーティン」としての〈自閉〉がもたらす「それでもひとりでいる力」とは同時に「世界を制作する力」であるといえるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 23:00 | 精神分析

2026年03月20日

権力とセクシュアリティ



* アセクシュアルとアロマンティック 

近年においては「LBGT」や「LGBTQ」といった言葉で性的マイノリティの認知度が高まり、そうした人々に対する差別を問題視する考え方も広まりつつあります。その一方で従来の性的マイノリティに関する議論から取りこぼされてきたセクシュアリティとして「アセクシュアル」と呼ばれる人々や「アロマンティック」と呼ばれる人々がいます。

「アセクシュアル」とは「他者に性的に惹かれないという性的指向」のことをいいます。これは世界最大規模のセクシュアルコミュニティであるAVEN(Asexual Visibility and Education Network)のウェブサイトで掲げられている定義です。アセクシュアルの「ア a」という接頭辞は「否定」を意味しています。つまり文法的にいえば「セクシュアルではない」という意味です。またここでいう「性的指向 sexual orientaion」とは「どの性別の人に対して性的に惹かれるのか」を表す言葉であり、異性愛や同性愛、バイセクシュアルやパンセクシュアル(性的に惹かれるかどうかの基準に性別が無関係であるセクシュアリティ)などが含まれます。

「アロマンティック」とは「他者に恋愛的に惹かれないという恋愛的指向」のことをいいます。ここで重要なのは「性的」ではなく「恋愛的」という言葉が使われている点です。ここでいう「恋愛的指向 romantic orientation」とはどの性別の人に対して恋愛的に惹かれるのかを表す言葉です。そしてこの恋愛的指向と性的指向の区別は両者が必ずしも一致しないということを意味しています。恋愛的惹かれはないけれど性的に惹かれることがある場合や、逆に性的惹かれはないけれど恋愛的に惹かれることがある場合や、性的に惹かれる対象と恋愛的に惹かれる対象が異なる場合もあるということです。

これに対してアセクシュアルやアロマンティックではない人は「アローセクシュアル」「アローロマンティック」と呼ばれます。ここでいう「アロー allo」という接頭辞は「他のものに向かう」という意味で用いられています。異性に惹かれる人のみならず同性に惹かれる人であっても他者に惹かれるという意味では同じ括りに入ります。

なぜわざわざアローという言葉が使われるのかというと、アセクシュアルやアロマンティックでは「ない」人は「普通」であるという発想を問い直すためです。すなわち「普通」とされるマジョリティの人々のあり方も性的指向や恋愛的指向の一つとして位置付けられるものにすぎないということです。

またアセクシュアル/アロマンティックとアローセクシュアル/アローロマンティックの間を連続的なスペクトラムとして捉える言葉として「グレーセクシュアル」や「グレーロマンティック」という言葉があります。さらに詳しい要素を言い表す言葉(マイクロラベル)として「デミセクシュアル/デミロマンティック(基本的に他者に性的/恋愛的に惹かれることはなく、情緒的なつながりができた相手にのみ性的/恋愛的惹かれを抱くことがある)」「リスセクシュアル/リスロマンティック(他者に性的/恋愛的に惹かれることはあるが、相手からその感情を返してほしいとは感じない)」「エーゴセクシュアル/エーゴロマンティック(性的/恋愛的表現を愛好したり性的/恋愛的空想をしたりするが、自ら性愛/恋愛に参与したいとは望まない)」などがあります。

そしてこのような様々なマイクロラベルを含めた総称としてAro/Aceという言葉が使われることがあります。アセクシュアル・スペクトラムについて包括的に表す言葉がAceであり、アロマンテック・スペクトラムを包括的に表すのがAroです。このように一方でマイクロラベルの細分化によって多様な経験を言語化しつつ、他方でさまざまなマイクロラベルを包括する総称によって連帯を志向するというAro/Aceにおける実践はセクシュアリティをめぐる様々な常識を根本的に問い直す実践であるともいえます。


* 病理化から性的指向へ

性的欲望が低い状態は19世紀ごろから精神医学の中で「冷感症 frigidity」や「性的不感症 sexual anesthesia」などとみなされ病理化されてきました。このような理解を提示している典型例が性的倒錯の研究で知られる19世紀の精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの著作であり、この議論は日本でも精神医学的な知識として輸入・翻訳されてきました。ここでは性的欲望を欠いている人は端的に病気であり、治療すべきものだとみなされていました。

これに対して20世紀中頃になると、性科学の領域でもアセクシュアルに近い概念が生み出されることになります。その初期の例がアルフレッド・キンゼイの研究です。キンゼイは人間の性的指向は異性愛から同性愛まで連続的なものだという発想から「キンゼイ・スケール」を提示したことでも知られています。この理論は完全な異性愛(0)から完全な同性愛(6)まで7段階のグラデーションがあるというものです。

ところがこの議論の中でキンゼイは7段階のスケールのどこにも当てはまらない人々がいると指摘しています。それが「社交的性的接触または反応でないもの」を指すグループ「X」です。ここではアセクシュアルという単語自体は出ていませんが、性的接触や性的反応を欠いている人々が異性愛-同性愛のグラデーションの外側として位置付けられたことになります。

1970年代後半から1980年ごろになるとアセクシュアルという言葉を性的なあり方のひとつに明示的に位置付ける研究が登場します。そのひとつがマイケル・ストームスの研究です。ストームスは異性に対する性的欲望の程度を横軸に、同性に対する性的欲望の程度を縦軸にしたふたつの軸による四象限図式を提示し、この四象限のうち、異性への欲望も同性への欲望も「低い」という位置が「無性的」と表記されました。この時期からアセクシュアルな人々の存在が意識されるようになったといえます。

その後、アセクシュアルをめぐる議論に大きな影響を与えたのがカナダの心理学者アンソニー・ボガートの研究です。これは1994年にイギリスで行われた全国調査を再分析したもので「誰に対しても性的惹かれをまったく感じたことが一度もない」人の割合が約1パーセントだということを示したものです。この数値をもとにボガードはイギリスのアセクシュアル人口は約1%だと論じています。

これはアセクシュアルの人口割合を計量的に示した画期的な研究であり、アセクシュアルに関する研究や議論を活発化させる大きなきっかけとなりました。そして現在ではアセクシュアルは性的指向のひとつとして扱われており、アセクシュアルを病理とみなす発想が明確に批判されています(もっともボガードが「真の」アセクシュアルは「性的惹かれや性的関心の完全な欠如」であり「ハードコアなアセクシュアル」であると定義した点にはアセクシュアル(あるいはセクシュアリティ一般)の実態に即しておらず、さらに何らかの基準でアセクシュアルを「本物」か「偽物」かに二分することでスペクトラムの人々を無視することになるという批判もあります)。


* DSMの変遷とアセクシュアル

こうした性科学の議論は精神医療の臨床にも影響を与えてきました。そのことを見て取れるのがアメリカ精神医学会が出版している『精神疾患の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :DSM』です。このマニュアルは何度か改訂されており、2013年に第5版(DSM-V)が刊行され、現在ではその修正版(DSM-V-TR)が最新版として使われていますが、第5版に改訂されるまでアセクシュアルは実質的には病気として扱われていました。

まず1952年の第1版(DSM-T)と1968年の第2版(DSM-U)では「冷感症 frigidity」や「膣けいれん vaginismus」や「性交疼痛症 dyspareunia」といった用語が掲載されています。だた、この時期には「性欲がない」状態は治療対象として扱われていませんでした。しかし1980年の第3版(DSM-V)では「性心理的障害 psychosexual disorders」という項目が導入され、そのなかに「機能性不感症」「機能的膣けいれん」「性的欲求の抑制」といったものが含まれていました。

そして1987年に第3版の改訂版が出版されますが、その時に「性的欲求低下障害 Hypoactive Sexual Desire Disorder:HSDD」が記載され、診断すべき病気として扱われるようになります。ここでいうHSDDとは「持続的または再発的に性的な空想や性行為への欲求が欠落している、または欠如している」と定義されていました。その後、1994年の第4版(DSM-W)ではHSDDは「苦痛」を伴うものであるという要件が追加され、当人が苦痛を感じていなければHSDDとは診断しないと明示されました。

こうしたHSDDの診断基準にはアセクシュアルの立場から批判がなされていました。HSDDとアセクシュアルがいずれも「性的関心の欠如」という点で一致していることから、両者が混同されやすいという問題があるからです。また「苦痛」という要件にも疑問が提起されていました。「性的欲望を欠いていることで苦痛を感じる」といっても、その苦痛の原因は「性的欲望を欠いていること」それ自体ではなく、性的欲望があることを「当たり前」で「望ましい」ものとみなす社会的風潮にあるのではないかということです。

こうしたことからアセクシュアルの当事者団体であるAVENはアセクシュアル研究者やフェミニスト研究者とともにDSMの改訂に向けた働きかけを行い、2008年に始まったDSM改訂会議においてアセクシュアルに関する調査報告と提言を行います。そのような活動を通じて第5版(DSM-V)においてはHSDDの代わりに「女性の性的興奮/関心の障害」と「男性の性欲低下障害」という診断項目がそれぞれ設定されることになります。そしてそこでは「アセクシュアルを自認する人は診断されない」という例外規定が明記され、アセクシュアルは「病気ではなく性的指向」して位置付けられることになります。


* 周縁化と規範性

以上で見たようにアセクシュアルは近年まで実質的に「病気」であるとみなされており、現在においても社会では医療や教育の現場を含め、依然としてこうした見方が存在しています。松浦優氏が昨年上梓したAro/Aceについての包括的な概説書である『アセクシュアル/アロマンティック入門』(2025)では英語圏での調査をもとに、こうしたAro/Aceが被る差別や困難を@病理化、A性的/恋愛的衝突、B社会的孤立、C認識的不正義として整理しています。

最後の認識的不正義とはイギリスの哲学者ミランダ・フリッカーの造語で「人種、民族、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、国籍などの社会的アイデンティティに対する悪質なステレオタイプが原因で、一部の人々が知識の主体としての能力を貶められる不正のこと」と定義されます。現在では様々なタイプの認識的不正義があると指摘されていますが、フリッカーが当初に挙げたのが証言的不正義と解釈的不正義です。

まず証言的不正義とは「聞き手、偏見のせいで話し手の言葉に与える信用性 credibility を過度に低くしてしまう」というものであり、Aro/Aceにおける典型例としてはカミングアウトした当事者が「まだいい人に会っていないだけ」などと相手に打ち消されてしまうケースです。次に解釈的不正義とは「人々が自分たちの社会的経験を意味づける際に、集団的な解釈資源にあるギャップのせいで、不利な立場に立たされてしまう」というものであり、Aro/Aceにおける典型例としてはアセクシュアルやアロマンティックという言葉を知る機会がなかったため、自分の経験や感覚をうまく言語化できず思い悩むというケースが挙げられるでしょう。

こうしたAro/Aceが社会の中で周縁化されてしまう背景には恋愛や性愛を「あたりまえ」のものとみなす社会規範があることはいうまでもありません。同書は性的なマイノリティについての研究分野であるクィア・スタディーズの知見をもとに、こうしたAro/Aceを取り巻く「〜べきである」という様々な規範を取り上げています。

この点、クィア・スタディーズにおいてセクシュアリティに関する規範としてまず挙げられるのが「異性愛を当然のものとして誰もが異性愛者であるはずだ」とみなす「異性愛規範 heteronormativity」です。もっとも異性愛が相対化され同性愛差別が批判されたとしても、それでもなお取りこぼされる「誰もがセックスを欲望するはずだ」という思い込みを問い直すため生まれた概念が「強制的性愛 compulsory sexuality」です。また「一対一の恋愛や結婚には特別な価値がある」という思い込みは「恋愛伴侶規範 amatonormativity」と呼ばれます。

これらの概念は英語圏に由来するものですが、日本語圏でも草の根的に提起されてきた関連概念として「対人性愛中心主義」が挙げられます。これはマンガやアニメなどのいわゆる「二次元」の性的創作物を愛好しつつ生身の人間に性的惹かれを経験しないという人々が使い始めた言葉です。本書がいうように、こうした人々は一見するとアセクシュアルとは無縁のように思われるかもしれませんが「生身の人間には性的惹かれを経験しない」という点でアセクシュアルの人々と重なる部分があるといえます。


* 性の言説化とセクシュアリティの装置

では、このようなセクシュアリティや恋愛に関する規範性はどのようにして存在するのでしょうか。またどのようにすれば変化させることができるのでしょうか。こうした規範性を把握するための理論を打ち出した重要な論者として同書はミシェル・フーコーを取り上げます。フーコーは西洋におけるセクシュアリティの歴史を分析した『性の歴史T』(1976)において近代社会においてはセクシュアリティに関する言説が激増したことを指摘しています。例えば「同性愛は抑圧すべきだ」と主張する言説も「同性愛を抑圧することは不当だ」と主張する言説も、その内容は相反していますがどちらも同性愛について積極的に語っています。近代社会では同性愛に限らずさまざまなセクシュアリティについて、こうした性の「言説化」という現象が生じたとフーコーはいいます。

そしてフーコーはこうした性の「言説化」のメカニズムとして人々は性について語ることを「権力」によって煽り立てられていると主張します。ここでいう「権力」の典型例がキリスト教における「告解」です。「告解」というのは司祭に向かって自らの罪を洗いざらい告白するという実践です。告解そのものはカトリックの伝統として近代以前から行われてきましたが、17世紀になると性的なことがらが告解のなかで非常に重大なものとみなされるようになり、自らの性的な行為や欲望について包み隠さず言語化するよう極めて執拗に促されるようになります。さらに18世紀になると性について語らせる仕組みが宗教的なものから科学的なものに広がっていき、性的な事柄は特に医学、精神病理学、教育学、犯罪学などの学問の対象となります。こうした学問をフーコーは「告白という科学」と呼びます。

そしてこうした言説の中で例えば「同性愛者」といった概念が生み出され、こうした分類が出来上がることで同性と性行為をする人々は「同性愛者」という分類を押し付けられ、その結果、彼らに「同性愛者」というアイデンティティが生じることになると同時に「同性愛者」と分類された人々をターゲットとして例えば治療や差別といった形で権力による介入が行われることになります。もちろんこれは同性愛者だけに限った話ではなく、そもそもセクシュアリティなる領域そのものがこうした言説と権力の絡み合いを通して生み出されてきたといえます。こうして誰もがセクシュアリティを内に秘めているという発想とともに「私は何者か」というアイデンティティ問題が性的なことがらと強く紐づけられることになりました。

以上のような事態をフーコーは「セクシュアリティの装置」と呼んでいます。「装置」といっても何かしらの物理的な機械ではなく「性についての言説を生産する仕組み」のことを指しています。こうした意味でのセクシュアリティの装置は様々なものによって構成されており、制度、施設、社会通念、学術的な知識などが要素として挙げられています。


* 権力とセクシュアリティ

では、フーコーはこうした状況を変えるにはどのような抵抗をすればよいと考えていたのでしょうか。この問題についてはフーコーが「権力」というものをどう考えていたかが重要になってきます。権力というと支配者が弱い人を力づくで一方的に従わせるというイメージが強いかもしれませんが、フーコーの考える権力とは「無数の力関係」のことです。フーコーは権力を数多くのモノや人が関わる錯綜した網の目の中を色々な「力」が流れているというイメージで捉えています。

それゆえに権力は変化する可能性に開かれています。一見、強固な権力もいくつかの力の流れが合流することで結果的に出来上がるものであり、水路の水の流れを変えるように、新しい流れを生み出したり、流れの量を調整することで、こうした権力もゆっくりではあるかもしれないけれども変わっていく可能性があるということです。

こうした権力観を踏まえた上でフーコーが提示する抵抗戦略の一つが支配的な言説を逆手に取るというものです。その例としてフーコーが挙げるのが同性愛者の社会運動です。同性愛者の社会運動は精神医学の言説によって生じた「同性愛者」という概念を当事者が奪い取って自分達の反差別運動へと流用することで展開されました。こういった抵抗の重要性をフーコーは高く評価します。

ただし同時にフーコーはこうした戦略の限界も指摘しています。セクシュアリティをめぐる言説を逆手にとって流用するという戦略は依然としてセクシュアリティの装置の内部で起きるものであり、セクシュアリティの装置を構成している個々の要素は変化するかもしれませんが、あくまでセクシュアリティの装置そのものは温存されることになります。

では、セクシュアリティの装置はどうすれば解体できるのでしょうか。換言すれば誰もがセクシュアリティなるものに囲い込まれる状況はどうすれば崩すことができるのでしょうか。この問題についてフーコーは即効的な特効薬は示していませんが、いくつかのヒントや方向性を提示していると同書はいいます。

その一つがセクシュアリティの装置がどのようなあり方をしているのか、精緻に捉えていくというものです。セクシュアリティが重要なものと見做されている状況そのものを、じっくりと分析し、セクシュアリティの装置をメタ的に捉え直すことで、そこから距離をとることが可能となります。フーコーが『性の歴史T』で行ったことはまさしくこの作業であったといえます。

こうしてみるとアセクシュアルやアロマンティックについての議論は例外的な少数者に関する議論ではなく実は多くの人々にも深く関わってくるものといえるでしょう。そもそも人が誰か「好きになる」とはどういうことなのでしょうか。答えはいろいろあるでしょう。性的に魅力を感じる、恋愛感情を抱く、美しいと感じる、面白いと思う、尊敬や憧れを覚える等々。「好き」という言葉には様々な要素が含まれています。そしてこれらの要素は必ずしも結びついているとは限りません。例えば性的魅力と恋愛感情は必ずしも結びついているとは限りません。あるいは性的欲望は必ずしも実際の性交渉への欲望に結びついているとは限りません。

そしてアセクシュアルやアロマンティックと呼ばれる人々はこうした「好きになる」という漠然とした枠組みでは捉えられないような経験を言語化していく過程で性や恋愛に関する認識を精緻化してきました。それゆえにアセクシュアルやアロマンティックに関する議論は一見ありふれた日常的な営みであるとみなされがちな「性」や「恋」をより深く理解する契機にもつながってくるといえるでしょう。























posted by かがみ at 00:17 | 精神分析

2026年02月26日

交換・誤配・享楽、あるいは世界を制作しなおすということ



* 4つの交換様式

戦後日本を代表する文芸批評家の1人である柄谷行人氏はデビュー作『畏怖する人間』(1972)において小林秀雄、江藤淳、吉本隆明に続く次世代を担う評論家として注目されますが、氏にとって文芸批評とは単なる文学作品の解釈でなく、あくまで自身の実存的な危機意識に基づく「存在の自覚」「自己の資質の検証」というべき思索であり、やがて氏は文芸批評そのものからの脱却を試みるようになり、この脱却作業において「他者」や「外部」といった概念が提出されることになります。さらに、こうした「他者」や「外部」の問題は後期になると、それらとの邂逅や交流の問題へとシフトして、ついには共同体と共同体のあいだの「交換」という問題に行き着きます。

柄谷氏は後期の主著である『世界史の構造』(2010)において「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」という3つの「交換」のあり方から社会や歴史を論じています。ここでいう「交換様式A(互酬)」とは北アメリカの北西岸に広がる「ポトラッチ」のように互いに贈与をし合う「交換」をいい「交換様式B(略取-再配分)」とは王と臣民の関係のように征服者が略取によって得た富をあらためて自分に従う側に再配分する「交換」をいい「交換様式C(商品交換)」とは近代市民社会に広く流布している貨幣を媒介とする「交換」をいいます。

このような「交換」の三つ組の概念はもともと経済人類学者カール・ポランニーによって社会統合の基礎概念として提出されたものですが、柄谷氏はこの概念を利用しながらもポランニーとは異なった独自の構想を発展させていくことになります。この点、柄谷氏によればこれら3つの「交換」はそれぞれが持つ固有の権力に基づいた社会を構成することになります。すなわち、まず「交換様式A(互酬)」は「掟」に基づく「ネーション」を構成します。次に「交換様式B(略取-再配分)」は「暴力(武力)」に基づく「国家」を構成します。そして「交換様式C(商品交換)」は「貨幣」に基づく「資本」を構成します。そして近代社会においてはこれらの3つの「交換」が三位一体として一つの複合体を構成しており、このような「交換」の複合体を柄谷は「ボロメオの環」に準えています。

このように柄谷氏は近代における「交換様式A(互酬)」「交換様式B(略取-再配分)」「交換様式C(商品交換)」からなる共時的な相補的構造を論じるとともに、同じ交換様式論を使って近代に至るまでの社会構成体の通時的な展開過程を説明します。

ここで氏はカール・マルクスが『経済学批判』で挙げている初期氏族社会の無階級原始社会、農業と専制を特徴とするアジア的生産様式、古代の奴隷制社会、中世の封建制、ブルジョワ的資本主義的生産様式といった5つの発展形態を踏まえつつ、自身の立てた交換様式論に照合して社会構成体の展開過程を次のように分類します。

すなわち⑴交換様式A(互酬)を特徴とする氏族的社会構成体と⑵交換様式B(略取-再分配)を特徴とするアジア的社会構成体、古典古代社会構成体、封建的社会構成体と⑶交換様式C(商品交換)を特徴とする資本主義的社会構成体という分類です。その上で氏は交換様式A(互酬)を特徴とする氏族的社会構成体において「定住」を強調します。つまり、論理的にはそれ以前には「定住」がなかった遊動的な段階があることを想定しています。

こうして交換様式Aの彼岸に「遊動民」という特別な観念が立ち上がることになります。そしてこのような「遊動民」によって行われる「交換」のあり方を氏は「交換様式D(氏はしばしこれをXと表現しています)」として位置付けます。

この新たに立てられた「交換様式D(ないしX)」には「交換様式A」と同じく互酬の原理が当てられていますが「交換様式D」は「交換様式A」への単純な回帰ではなく、それを否定しつつも、高次元において回復するものであると氏はいいます。すなわち、交換様式Dとは定住を開始する前の遊動民にみられる「交換」のあり方です。遊動民においては生産物を蓄積することができないため、その生産物は共同体間で平等に分配されることになります。また他の部族と遭遇した場合に戦争を避けるために贈与を行うことがあったとしても、その遭遇は一期一会のものであるため、返礼の義務は発生しません。このように遊動民は交換様式Bや交換様式Cとは無縁であり、つまり交換様式Dは資本制的な結合体に回収されないものとなります。

そして、このような「交換様式D」に対応する社会構成体ないし運動体を氏は「アソシエーション」と呼び、その理念を体現する「遊動民」の範例をかつて柳田国男が探求した山人論ないし固有信仰論に見出していきます。

もっとも柄谷氏自身は具体的にこの「交換様式D」につきあいまいな規定しか明示しておらず「アソシエーション」とはいかなる実践を表すのかという問いはいまだに開かれています。現代において交換様式Dは具体的にいかなる実践として捉えられるべきでなのでしょうか。


* 誤配と訂正可能性

日本における現代思想の古典的名著『動物化するポストモダン』(2001)で知られる哲学者・批評家の東浩紀氏は近年において、この交換様式Dを「誤配」から捉え直す議論を提出しています。氏は『観光客の哲学』(2017年)において現代を「ナショナリズム」と「グローバリズム」という二つの層が折り重なって併存する「二層構造の時代」と位置づけ、今世紀初頭に世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『帝国』(2000)が描き出すグローバリズム(帝国)における市民運動の担い手である「マルチチュード」を先行モデルとしつつも、ネグリたちのいう「マルチチュード(否定神学的マルチチュード)」が抱え込む神秘主義的な欠陥を回避すべく、ネットワーク理論の知見を導入し、人間社会というネットワークの「つなぎかえ=誤配」を担う主体である「観光客(郵便的マルチチュード)」を構想しました。

続いて同書は「観光客」のアイデンティティを「家族」という言葉に求め、その構成原理として「強制性」「偶然性」「拡張性」の3つを挙げています。人は皆何かしらの形で「家族」に属していますが、その「家族」は一方的に押し付けられるものであり(強制性)、その選択に必然的な理由はありません(偶然性)が、その境界は実に柔軟であるともいえます(拡張性)。すなわち、ある視点から見れば閉鎖的で抑圧的な共同体であり、別の視点で見れば開放的で自由な共同体でもある「家族」の構成原理はこのように調和しない3つの性格が共存しているということです。

ここから同書は柄谷氏のいう「ネーション」「国家」「資本」とは、それぞれ同書のいう「家族」「国家」「市民社会」に対応するものであるとして、柄谷氏のいう「アソシエーション」を「家族」の「高次元での回復」として捉え直します。換言すれば、柄谷氏のいう「交換様式D」は観光客のもたらす「誤配」から捉え治されるということです。

そして東氏は同書の続編である『訂正可能性の哲学』(2023年)において「観光客」がもたらす「誤配」の作用をルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインとソール・クリプキの言語哲学を参照し「訂正可能性」という概念から理論化しています。20世紀を代表する哲学者の1人であるウィトゲンシュタインは後期の代表的著作である『哲学探究』(1953)において「人は言語を使ったゲームをルールを知らないままプレイしている」という驚くべき主張を行い、こうしたウィトゲンシュタインの発見をクリプキは『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(1982)において「ルールとは共同体がプレイヤーを選別することではじめて確定する」という裏返った共同体論によって論証しました。

もっとも、このような「訂正」は共同体からプレイヤーに向けられるだけではなく、同時にプレイヤーから共同体に向けられることにもなります。すなわち、共同体のルールとは静的に確定したものではなく、常に動的に流動するものであり、しかもいつの間にか「じつは・・・だった」という形で更新されてしまう「訂正可能性」を孕んでいるということです。

確かに柄谷氏が交換様式Dの理念を体現する遊動民にみられる「交換」のあり方は、交換というよりむしろ「誤配」といった方が相応しいようにも思えます。そしてそこにはもちろん、共同体間のルール、あるいは共同体同士のルールが「じつは」の論理で更新されていく「訂正可能性」を見出すこともできるでしょう。


* 享楽社会と分析家のディスクール

また精神病理学者の松本卓也氏は『享楽社会論』(2018)においてフランスの精神分析家ジャック・ラカンの理論を援用し、柄谷氏のいう「交換様式D」はちょうどラカンが「分析家のディスクール」を「資本主義からの出口」と評したことに対応するとしています。

精神分析を創始したオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトはヒステリーをはじめとする神経症の治療を試行錯誤していく中で神経症患者の心的現実を基礎付ける根源的衝迫を「欲動」と規定し、ラカンはこうした欲動が満たされた状態を「享楽」と名付けました。もっとも、こうしたフロイト=ラカンの観点からすれば欲動の本質とは「死の欲動」であり、その性質上、欲動の完全な満足という事態はあり得ません。それゆえにラカンのいう「享楽」とはそもそもの意味では「不可能」と同義でした。

こうしたことから1960年代中盤までのラカン理論においてはあくまで享楽とはシニフィアンの取り逃した〈もの〉としての現実界の側にあり、シニフィアンの世界である象徴界からは「対象 a 」を通じて辛うじて「侵犯」することができるものとして捉えられていました。ところがラカンは1960年代後半から、社会における様々な言説(ディスクール)を分類した「4つのディスクール」の理論を導入する事で、享楽とはむしろシニフィアンという装置により「生産」されるものとして捉え直すことになります。

4つのディスクール.png

ここでいうディスクールとはその字義通りの言説のみならず広い意味での社会的紐帯のあり方を意味しています。すなわち、主人のディスクールは主体の構造を、大学のディスクールは強迫神経症者のあり方を、ヒステリー者のディスクールはヒステリー者のあり方を、分析家のディスクールは精神分析の構造を、それぞれ示しています。

さらに上記の4つのディスクールが出そろったのちに、ラカンは「新しい主人のディスクール」と言うべき「資本主義のディスクール」を提出します。この資本主義のディスクールにおいて「主体($)」が「主人(S1)」に向けて述べたてる要求は統計学的処理によってデータベース的「知(S2)」を構成し、その最適解として市場には新製品や新サービスという「対象(a)」が氾濫することになります。

資本主義のディスクール.png

こうして資本主義システムにおける享楽とは、もはや到達不可能なジュイサンスではなく大量生産されるエンジョイメントへと変容し、こうした享楽の変容のもと、人々は獰猛な超自我に「享楽せよ!」と命じられるままに、市場に氾濫する対象 a の洪水の中でただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送ることになるのでしょう。

このようなエンジョイメントとしての「享楽」が氾濫する社会を同書は「享楽社会 society of enjoyment」と呼びます。その上で同書はこうした「享楽社会」からの突破口を「分析家のディスクール」に見出しています。ここでいう分析家のディスクールとは例えば「エディプス・コンプレックス」のような既存の知(S2)の専制を脱し、主体の自体性愛的な享楽(身体の出来事)が刻まれた一つのシニフィアン(S1)を析出させる営為ですが、ここで析出されたシニフィアン(S1)こそがラカンのいう〈一者〉的な、ひとつきりの享楽のシニフィアンであり、新たな主体化の核となり己の人生を非エディプス的なかたちで特異的=単独的なかたちで新たに生き直すことを可能とするものです。

換言すればそれは人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な力に抗い「すべてではない(すなわち、決して「すべて」を構成しない)」生のあり方を発明し、それを生きることにつながるであろうと氏は述べています。このように来るべき新たなシニフィアンは「すべて」の論理によって構成される世界を「すべてではない」ないものとして撹乱し、世界の見え方を根底から変えてしまうポテンシャルを持っており、ちょうど革命的な作家がまったく新しい文学を創作するときのように、それを知る前と知った後では世界の見方が一変してしまうようなシニフィアンを到来させることがオルタナティヴを可能にするのであるということです。

ここにはまさに「誤配」による「訂正可能性」のメカニズムを見出すことができるでしょう。世界は常に「じつは」の論理で変わっていくということです。


* 自由になるための自己破壊としての「深い勉強」

そして千葉雅也氏は『勉強の哲学』においてこのような「分析家のディスクール」を理論的基盤として同書が「深い勉強」と呼ぶ「有限化」の技法を提示しています。同書は受験勉強や資格試験や生涯学習などといった人生における何かしらの局面において「勉強」が気になっているすべての人を「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」へと誘う本です。

まず同書は「勉強」の本質とは人が「自由」になるための「自己破壊」であると規定します。すなわち、人がその生において多様な可能性を開いていく上では、これまでの自分を壊していく必要があるということです。そして、こうした「自由」とは自身が現在置かれた「環境」に「いながらにして距離を取る」ことから生じるものであると同書はいいます。

ふつう我々は日々、学校や会社や家庭といったある一定の「環境=他者関係」の中で「こういうもんだ」というある種のお約束に従って生きています。このようなお約束を同書は「環境のコード」と呼び、こうした「環境のコード」への依存を「ノリ」と呼ぶ。そして、こうした「環境のコード」から生じる「ノリ」から「自由」になるための鍵として同書は「言語」に注目します。

そもそも人は「言語」を通じて特定の環境におけるノリを身につけます。けれども「言語それ自体」はこの現実(と思っている世界)とは異なる秩序に属しています。つまり、ある環境における言語の意味づけは必然的ではなく、その「意味」はいつでもバラしてしまうことが可能であるということであるということです。こうしたことから同書のいう「深い勉強」とは言語の持つ解放的な力について考えるところから始まります。

この点、いわゆる一般的にいう「勉強」とはある「ノリ」から別の「ノリ」へ引っ越すという事を意味しています。これに対して同書は、このような「ノリ」と「ノリ」の「あいだ」に注目します。そこには「環境のコード」から切り離された「ただの音」としての「言語」があります。そして本書はこの「ただの音」としての「言語」を様々な意味を生み出す可能性を秘めた「器官なき言語」と呼びます。

通常、人はある環境の中で言語を「道具的」に使用しています。しかし、そのような環境から切り離された時、人は言語を「玩具的」に使用できるようになります。すなわち「深い勉強」とはこうした意味での「言語」との出会い直しによって、これまでの環境のノリを引き剥がし、自己目的的なノリを獲得する「自己破壊」を目指す営みになるということです。

* アイロニー・ユーモア・享楽

そして、このような同書のいう「深い勉強」は「アイロニー」「ユーモア」「享楽」を頂点とする「勉強の三角形」によって成り立っています。まず、ここでいう「アイロニー」とは、いわゆる「ツッコミ」のことです。日常の場面で生起する様々な「こういうもんだ」という「環境のコード」にツッコミを入れて、それをなるべく大きく抽象的なキーワードとして括り出して行くことで勉強のテーマを見つけていきます。

けれども、ここで注意すべきなのはアイロニーをやり過ぎないという事です。アイロニーによって「環境のコード」の根拠を疑った結果、その上位コードである「超コード」が出現し、この「超コード」に対してさらにアイロニーを入れると、さらなる「超コード」が出現するというように、そのプロセスは無限に遡行して、最終的に言語の意味づけは「無意味(言語なき現実のナンセンス)」に至ってしまいます。

そこで時に人は「アイロニーの有限化」により特定の価値観を絶対化してしまう「決断主義」に陥ってしまいます。もちろん、これは一つの精神安定のための処方箋としてはあり得るかもしれませんが、これはある種の「信仰」であって、決して「勉強」ではありません。そこで本書はこうした弊害に陥らないため「アイロニー」を突き詰める事を一旦やめて「ユーモア」に折り返すことを勧めています。

「ユーモア」とは、いわゆる「ボケ」のことです。ある「環境のコード」の中であえてボケてみることで、勉強のテーマは多重化されることになります。けれどもユーモアもやはり無限に飽和して、やはり最終的に言語の意味づけは「無意味(意味飽和のナンセンス)」を帰結します。そこで今度は思考をズレた方向に広げる「拡張的ユーモア」から思考のある特定のポイントに過度に集中する「縮減的ユーモア」に転回することになります。

この「縮減的ユーモア」を規定しているものが「意味」以前に自身に刻まれた偶然的で強度的な「享楽的こだわり」としての「非意味(形態のナンセンス)」です。すなわち、個々人が持つ「享楽的こだわり」がユーモアの飽和を非意味的に切断し有限化することで思考の足場をいわば「仮固定」するということです。このような「ユーモアの有限化」としての「仮固定」を同書は「決断」との対置で「中断」と呼びます。そしてこの仮固定された享楽の場に再びアイロニーを入れていくことこそが同書のいう「深い勉強」ということになります。

こうした「アイロニー」「ユーモア」「享楽」を頂点とした「勉強の三角形」というべきサイクルを繰り返すことで、人は環境に振り回されるだけの「ただのバカ」ではなく、環境と距離を置きつつも上手くやる柔軟な思考を身につけた「来たるべきバカ」へと変身することができると同書はいいます。

同書のいう「享楽的こだわり」とは分析家のディスクールで析出される〈一者〉的な享楽のシニフィアン(S1)を想起するものがあり、こうした意味で同書が示す「言語」から「享楽」へ旋回する「深い勉強」とはある種の自己精神分析の実践であるともいえるでしょう。


* 世界を制作しなおすということ

さらに千葉氏は『勉強の哲学』の文庫版に追加した「補章 意味から形へ−楽しい暮らしのために」において「勉強の哲学」をさらに「制作の哲学」へと展開させています。もとより同書における勉強論は「自分自身を作り直す」ような何らかの制作行為につながるものであると氏はいいます。文章を書いたり、料理をしたり、あるいは部屋の模様替えをすることまで含めて、言ってみればすべてが「自己制作」ということです。そしてそのための具体的な方法として氏は同書が展開するアイロニーとユーモア、そして自分の身体にもとづく享楽という三つの頂点を持つ「勉強の三角形」を応用した「楽しい暮らしのモデル」を提案します。

まず価値観の本質的な無根拠性を暴くアイロニーから別の価値観を提示するユーモアへの折り返しを実生活で応用してみると、他者とのコミュニケーションやメディアの情報など生活空間に溢れるさまざまな言葉に対して、多様な解釈のいわば「交差点」としての、ただ言われたこと、ただ起こっている出来事に向き合うことができるようになります。これはいわば世界を「小説」のように捉えるということです。つまり純文学小説のように両義性や多義性を重んじ、あたかも自然を観察するかのように出来事をありのままの複雑さで記述していくという態度です。

また、このように言葉についての価値判断や、それに結びついた喜怒哀楽の変化を一時停止して、ただ自然を観察するようにしてみると、さまざまな言葉や行動はそこに付随する「意味」から離れ、ただの動きとしての「運動の形」になってきます。そうするとだんだん世界が自己目的なダイナミックな「運動=リズム」の連鎖として立ち現れてきます。それはすなわち、日々の出来事を「ダンス」としてみるということです。

そして、このような世界を「運動=リズム」として捉えるというダンス的な見方をさらにラディカルに言語そのものに向けると、そこには「詩」が発生します。とりわけラディカルな現代詩になってくると常識的な意味伝達はそこで崩壊して、曖昧な比喩であったり、言葉のダジャレ的なつながりだったり、言葉自体が持つ物質性とでもいうべきものを操作するようになります。つまり現代詩は言葉そのものを「面白い形」として取り扱っているということです。

この点「5・7・5」「5・7・5・7・7」という定型的なリズムのなかでリズムと意味の両面で遊んでいる詩が「俳句」や「短歌」です。とりわけ俳句はある風景を瞬間的に切り取るものが多く、その面白さは「写真」に近いものがあるでしょう。そうであれば逆に写真を撮る時は何か意味を伝えるという発想なしで、ただ、ある形やリズムを切り取ればいいという俳句的発想でとってみればいいということです。

このように同書は言語を「運動の形」で捉えることを提唱していますが、より直接的に「形で遊ぶ」ジャンルとして「絵画」があります。ここでも同書は家とか自然とか動物などといった一定の記号性をもつ対象をその記号性を全否定はせずに、いわば記号への抵抗運動としての何か記号的ではない線や記号から逃れていく線を書くという意識の持ち方を勧めてており、同様に「音楽」においても一般的な近代西洋音楽のルールから外れて、形それ自体に、リズムそれ自体に向かっていくという方向性を提示します。

以上のように同書はアイロニーからユーモアの折り返しにより、さまざまな芸術のジャンルをただの形として操作し、ただその無意味な享楽を楽しんでみることでみるという「制作」のあり方を論じています。そしてこうした「制作」のあり方を突き詰めていけば、そこには自分自身のミニマムで根本的な「個性=特異性」が現れてくることになります。さらにこうした「制作」のあり方はひいては芸術的制作だけでなく日常生活や仕事という広義の制作における意識の持ち方にもつながってくるといいます。

そしてここで提示される「意味からリズムへ」という論点は千葉氏の近著『センスの哲学』(2024)においてさらに深く論じられることになります。アイロニーからユーモアへと折り返すことでさまざまな物事における「意味」が蒸発し、ただの非意味な出来事として「リズム」の表れます。そしてこうしたリズムの反復と差異のなかに見出される「どうしようもなさ」としての享楽的なこだわりを追求することで、そこから新しい世界が立ち上がってくることもあるでしょう。こうした意味で「勉強の哲学」と、その更なる展開としての「制作の哲学」とは「有限化」という観点から、いわば世界を制作しなおす哲学であるといえるでしょう。























posted by かがみ at 23:56 | 精神分析