現代思想の諸論点
現代批評理論の諸相
現代文学/アニメーション論のいくつかの断章
フランス現代思想概論
ラカン派精神分析の基本用語集
2024年11月23日
いないいないばあの原理
* 生成変化論と存在論
「哲学」なる営為は紀元前6世紀に古代ギリシアのイオニア地方(現在のトルコ西部)から始まったとされています。「万物は水からできている」と考えたタレス(前625頃〜前548頃)を創始者として「万物の始源は無限である」と考えたアナクシマンドロス(前610頃〜前546頃)、「万物の始源は空気である」と考えたアナクシメネス(前578頃〜前527頃)など、当時の哲学者たちはさまざまに生成変化する世界の成り立ちに目を向け、万物の「始源(アルケー)」がなんであるかを説明しようとしました。
彼らはイオニア地方の中心的なポリスであるミレトスで活躍したので「ミレトス学派」と呼ばれています。そしてミレトスより少し北にあるエフェソスではヘラクレイトス(前540頃〜前480頃)が独特の思索を展開し「万物は流転する」というテーゼを提示しました(もっとも「万物は流転する」は後世の作とされており、ヘラクレイトス自身の言葉では「同じ川には二度と入ることができない」という断片が残されています)。
紀元前5世紀に入ると哲学の舞台はイタリアに移り、その思索はより思弁的になっていきます。この点「三平方の定理」の発見者として知られているピュタゴラス(前572頃〜前494頃)は宇宙の調和の根拠を「数」に求めました。そしてエレア出身の哲学者パルメニデス(前520頃〜前450頃)はイオニアの自然哲学から影響を受けながらも、彼らのいうような生成変化を否定して永遠不変の存在が「ある」という想定のもと「あるは、ある。ないは、ない」というテーゼを提示しました。
こうしたことからパルメニデス以降の哲学者たちは「万物は流転する」という立場と「あるは、ある。ないは、ない」という立場を両立させるための説明を試みるようになります。例えばエンペドクレス(前490頃〜前430頃)は「火・土・水・空気」という4つの元素が「愛の力(結びつける力)」と「憎しみの力(引き離す力)」によって集合離散を繰り返すと考えました。さらにデモクリトス(前460頃〜前370頃)をはじめとする原子論者たちは多種多様な「原子(アトム)」が空虚(何もない空間)の中を運動してさまざまに結びつくと考えました。
ともあれ、ここでは世界のあり方として大きく「万物は流転する」と「あるは、ある。ないは、ない」という二つの考え方が提示されていることになります。前者は「生成変化論」と呼ばれ、後者は「存在論」と呼ばれるものです。もっともこの二つの立場のどちらが哲学的あるいは自然科学的に「正しい」かを考えてみたところで(少なくとも日常生活レベルにおいては)あまり実用的な議論になるとはいえないでしょう。けれどもこの二つの立場をこの世界がもたらす二つの異なる「リズム」であると捉えるのであれば、このような古代哲学で展開された思索は我々の日常におけるものの見方や生き方を大きく変革する視点をもたらしてくれるように思えます。
* リズムにおけるうねりとビート
千葉雅也氏は近著『センスの哲学』(2024)において「総合的な判断力」としての「センス」を努力では何ともならないものとは考えずに、むしろ人を解放し、より自由にしてくれる可能性を開くものとして育てていくための方法論を考究しています。まず同書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで同書はまず、このような理想的なモデルを再現するというゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると同書はいいます。
そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった様々な要素の「でこぼこ」としての「リズム」を即物的に捉えるということです。
ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると同書はいいます。
そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つのリズムの捉え方が冒頭で述べた「生成変化論」と「存在論」という古代哲学の二つの立場に対応しています。
つまり、ここではリズムというのはまずは複雑に絡み合った生成変化であると捉えられます。しかし同時にこのようなリズムを例えば大きさとか長さとか色合いといったなんらかのパラメータに注目して単純化するのであれば、複雑な生成変化も「1=存在」と「0=不在」の明滅に還元できるいうことです。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが千葉氏のいうリズム経験です。
* 欠如を埋めるものとしての物語
このように同書は「リズム」においては原理的には「うねり」が「ビート」に先立つという優劣関係を示しつつも、実際のところ人は小説にせよ絵画にせよ音楽にせよ、ある作品にいかなる意味が「ある」のかといった、あるなしの問題に引っ張られてしまい、このあるなしの切り替わりとしての「ビート」によって喜んだり不快になったりしてしまうといいます(なお、パルメニデスも「あるは、ある。ないは、ない」という真理をしっかりと掴んだと思った刹那にたちまち「ある」と「ない」を混同してしまう思い込みに転落する危険があることを示唆しています)。
この点、小説などの物語では通常、宝物とか勝利とか謎とか愛といったものを追い求めるようなストーリーが展開されます。つまり物語とはなんらかの「存在」を求める「不在」を起点にして進行するということです。そして人間にとって「不在」とは「ただ単にない」のではなく「あって欲しいのにない」というニュアンスを持っていることから、それゆえにここでいう不在とはむしろ「欠如」という言い方がふさわしいでしょう。つまり物語への没入とはそこに「欠如」という大問題を見て、そのビートにシンクロすることで起きるといえます。
こうしたことから小説では「欠如を埋める」ための物語が展開されることになり、この「欠如を埋める」ことをいかに面白く行うかを追求していけばエンターテイメント性の強い作品になります。これに対して「欠如を埋める」ことに直結しない、その脇にあるようなディテールを細かく追求していけば芸術性の強い作品になりますが、その分、娯楽作品としての面白さは分かりにくくなるでしょう。
そして同じことが絵画や音楽についても考えられます。すなわち、芸術においてはどんなジャンルでも「存在/不在(欠如)」というはっきりした「ビート」に注目するか、もっと微妙なところの「うねり」に注目するかという二つの観点があるということです。
* いないいないばあの原理
ここで同書は「いないいないばあ」という子どもの遊びを一つの原理として説明します。この「いないいないばあ」という遊びにおける「いないいない(何かが隠された状態)」から「ばあ(何かが露わにされる状態)」への転換は根本的な「不安(0)」と「安心(1)」の交代を表しています。この遊びを子どもが喜ぶのはそれが人間の根本に触れているからだと同書はいいます。
そして重要なのはこれがあくまで「遊び」であることです。実際に「不安と安心」をじかに経験するのではなく、それを「遊び」というかたちにパッケージして間接化することで、子どもは欠如がもたらす寂しさを引き受けつつも、そこから離れて自立したリズムを生み出していくことになります。
精神分析を創始したジークムント・フロイトは「死の欲動」の概念を打ち出したことで知られる「快原理の彼岸」という論文において、子どもの「糸巻きあそび」を論じています。ここでフロイトは子どもが糸巻きを投げて遠くに転がっていった時に「おーおーおーお(いないいない)」といい、それから糸を引っ張って手元に戻す時に「いた(ばあ)」という反復動作に注目し、このような遊びによって子どもは母の存在と不在(欠如)の反復をみずから上演することによって母の欠如の埋め合わせをしていたと解釈しました。
一般的に生物には安定状態を維持して緊張状態を避けようとするホメオスタシスと呼ばれる傾向がありますが、未成熟な状態で生まれてくる人間の場合は、安定状態を目指すという生物としての傾向が、自身を保護してくれる母親(に代表される他者)を求めるという事態と結びついています。それゆえに「いないいないばあ」における0と1のビートには母(他者)の欠如がもたらす寂しさが表れているといえます。
けれども、やがて子どもはこのような0と1のビートからなる存在論的なリズムがもたらす寂しさを複雑なうねりをなす生成変化のリズムに上書きすることで乗り越えていきます。こうした意味で反復されるものとしてのリズムは人間が安定的に生きていくために必要なものであるといえます。だからこそ我々はあえて安定状態を乱して緊張状態(ストレス)を作り出すシュミレーションのパッケージとしての遊びや芸術を必要としているということです。
* 日常におけるサスペンス=いないいないばあ
つまり、遊びや芸術とは緊張状態(ストレス)をあえて作り出すものであり、小説などの物語における「サスペンス」とは、このような意図的に作り出された緊張状態(ストレス)を指しています。ここでいう「サスペンス」とは英語で「宙吊り」という意味ですが、その解決に至るまでのプロセスが緊張状態として遅延され、小さな山が次々と発生し、その一つ一つには0→1の小さな解決があり、その連続と重なりがうねりを生んで、複雑なリズムになります。すなわち「サスペンス」とは畢竟、母の欠如を埋めようとする「いないいないばあ」の原理によって規定されているということです。
この点、このような「サスペンス=いないいないばあ」としての物語において一般的なわかりやすさを追求するのであれば、もちろん0から1へという移行が強調されることになりますが、その0から1へ移行するあいだにおいてこそ、複雑なリズムが織りなす面白さが見出されることになります。もちろん物語のみならず絵画や音楽の表現においても同じく、こうした「サスペンス=いないいないばあ」の構造を見出すことができます。
さらには日常におけるさまざまな営為の中にも「サスペンス=いないいないばあ」の構造を見出すことができます。例えば料理とか片付けといった日常動作をあえてていねいに行なうことで、そこには日常動作の開始(0)と完了(1)からなるビートには還元されることのない複雑なうねりを見い出すことができるでしょう。こうした意味で近年、精神医療やビジネスシーンで注目を集める「マインドフルネスアプローチ」とは様々な日常動作を徹底して生成変化の側から捉え直したものであるといえます。
もちろん、ありとあらゆる日常動作のすべてをていねいに行なっていたら時間がいくらあっても足りないので、そこはある程度の取捨選択が必要となってきます。しかし少なくとも普段は何気に行っている日常動作をいったん「リズム」として捉え直してみることで新たな気づきに出会うこともあるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 23:30
| 精神分析
2024年10月22日
オイディプスから機械状無意識へ
* 制度論的精神療法とは何か
ポスト構造主義を代表する哲学書『アンチ・オイディプス』(1972)をジル・ドゥルーズと共に世に放ったフェリックス・ガタリはフランスのラボルド精神病院において精神科医ジャン・ウリと共に精神病(統合失調症)の治療実践に取り組んだことでも知られています。ガタリによれば彼がラボルドで働き始めた当時、フランスの精神医療はその多くの場合「ほとんど動物を飼うような管理システムで精神病を扱っていたので、患者は一日中そこいらをぐるぐる歩き回り、頭を壁に打ち付け、叫んだり殴り合ったりし、汚物や糞尿のなかにうずくまっているといった光景が普通」であったとされます。そのような環境を抜本的に見直し、病院の制度や集団性を根本的に改革する運動こそがラボルドでガタリの実践した「制度論的精神療法」です。
この点、ウリによれば「制度論的精神療法」とは異質な諸領域や行動を組み合わせて欲望を循環させるためのさまざまな「仕掛け」を組み立てるための制度分析のことをいいます。そしてラボルドにおいてガタリが取り組んだ仕事とは、まさにこうした領域や行動が常に変化しながら循環する横断的な制度を構成すること、そして常にその制度を見直し、不断に再組織化することでした。
1972年に刊行されたガタリの著作『精神分析と横断性』のなかに収録された「制度論的精神療法入門」「制度論的精神療法に関する哲学者のための考察」「転移」といった論考においてはガタリ自身の実践を通した制度論的精神療法の課題と方法、そしてその哲学的含意が検討されてます。これらの論考はいずれも1950年代の経験を踏まえて1960年代前半に執筆されたものですが、こうしたガタリの実践を踏まえた考察が『アンチ・オイディプス』における革新的な議論へと結実したことは疑いないでしょう。
* 集団における横断性
精神病治療の現場とは大きく精神科医と精神病患者という二つの集団から構成されますが、ガタリは何よりそうした「集団の発話」を問題にしました。すなわち、精神医療において患者は発話へのアクセスを持っているのか、あるいは患者の集団は言表行為の主体でありうるのかという問題です。例えば精神科医が患者の言葉に耳を傾ける時でも、患者の言葉は精神科医という専門家の集団が共有する言語、すなわち「精神医学」における「制度的転移」として表出され、その言葉もあくまで精神医学という枠組みのなかで受容ないし理解されることになります。
そして、このような「集団の発話」の問題は精神分析にも当てはまります。ジークムント・フロイトの創始した精神分析はカウチに横たわる患者が紡ぎ出す自由連想に対して分析家が解釈を投与するという二者関係において展開することになりますが、そこでもやはり患者の言葉は精神分析家という専門家集団が共有する言語、例えば「エディプス・コンプレックス」などという「神話」によって解釈されてしまいます。
このような集団間の構造的格差に基づく発話行為における非対称的な関係性を維持する限り、患者は自らが「「なにごとかをなしうる」ということを本気でうそいつわりなく言うことができるのだろうか」とガタリは問います。それが実際にできないのであれば「なにごとかをなしうる」「うそいつわりなく言うことができる」新たな関係性を構築しなければなりません。そのためには患者と精神科医との上下関係はもちろんのこと、精神科医と施設スタッフとの上下関係をも抜本的に転換し、定型化された役割やプログラムによるのではなく、その時々の不確定な出来事や会話の進行から思いもかけないかたちで生起する相互のコニュニケーションを通じて、患者が「なにごとかをなしうる」と思えるような場を作りだすことが必要となります。
こうしたことからガタリは「集団における横断性」という概念ないし方法論を提起します。すなわち、精神病院における階層化され序列化された集団を解体し、人やモノの空間的・時間的配置を自在に組み直して異質な要素が横断的に結びつく、垂直的にも水平的にも脱中心化した連携からなる環境を創出し、精神科医や精神分析家といった集団の言語に依拠することなく、患者の特異な語りや言葉にすらならない身振りに現れる「結晶化されていないシニフィアン」に照準を合わせることで、患者の実存的生としての「宇宙」を押しつぶすことなく切り開いていく実践の(再)発明が目指されることになります。
* 機械と構造
人やモノの配列を横断的に組み替えて、既存の解釈枠組みによることなく、患者の「宇宙」を切り開くということ。これがガタリがラボルドで得た洞察であったといえます。もっとも1960年代前半の時点では、人やモノの配列の変更による集合的アジャンスマン(アレンジメント)によって患者の言表が産出されるという機序に関する理論的検討は十分なかたちで行われていませんでした。何より患者が自身の内的な声を外に向かって「発する」という、いわば「欲望」の生産の問題に関しては未解明であったといえます。
そこでガタリは無意識(正確には前-意識)のうちに声を発してしまうこと、身体が動き出すことといった欲望の生産を「マシーン=機械」という独自の概念を用いて考察しました。この概念が登場するのは「機械と構造」(1969年)という論考からです。同論考においてガタリは「構造」と「機械」を区別します。まず「構造」とは「それを構成する諸要素の位置を諸要素相互にある反転システムによって決定するもの」と規定し「したがって、構造自身が別の構造に対してひとつの構成要素として関係づけられることもありうる」と述べます。ここでいう「反転システム」とは裏表の反転、明暗の反転、プラスマイナスの反転のような二項の差異によって各要素の相互の機能が決定されるものであり、ここでは構造主義のいうところの「構造」が念頭に置かれています。
またガタリは「主体的行為は構造のなかに包摂される」と指摘し「全体が非全体化される構造的プロセスが主体を取り囲み、そのプロセスは主体をある別の構造的限定の内部に回収しうる場合にしか離そうとしない」と述べます。つまり「構造」が可変的な「非全体化される構造的プロセス」であるにしても、主体は常に何かしらの「構造的限定の内部に回収」されることになるということです。
これに対してガタリは「機械」とは「本質的に主体的行為とは無縁である。主体はどこか他の場所にある」として「機械の浮上は構造的表象とは異質の画期、切断をしるしづけるのである」と指摘します。ここでいう「機械」とはひとまず通常我々が思い浮かべるメカニカルな工業機械や産業機械のみならず、マテリアルな質料を伴う物質すべてを含む概念として定位されています。人間や動物の身体も、植物の根も葉も茎も、そして鉱物や大地もガタリのいう「機械」です。
* 対象-機械 a
そしてガタリは「人間存在は機械と構造の交差のなかにとらわれている」といいます。そしてここでいう「交差」を三つの局面からガタリは捉えています。この点、第一の交差は技術革新による新たな機械の登場によって、従来の安定的な構造が揺らぐ事態をいいます。第二の交差はガタリが「反生産」と呼ぶ機械による切断によってもたらされた不均衡や揺らぎを、機械が登場する以前の過去の賛美や機械の登場によって描かれる未来の賛美といった「想像上の再均衡」による「構造的な空間」が立ち現れる事態をいいます。
第一の交差が機械から構造に差し向けられたベクトルであるとすれば、第二の交差は逆に構造から機械に向けられたベクトルであるといえるでしょう。これに対して第三の交差は第二の交差であった「想像上の再均衡」をはかる「幻想の生産」がなされたとしても「対象 a 」が「個人の構造的均衡のなかに仕掛け爆弾のように嵌入する」ことで「幻想の生産」が切断されるという特殊な交差として出現することになります。
ここでいう「対象 a 」は周知のようにフランスの精神分析家ジャック・ラカンが提唱した概念です(ガタリはもともとラカンに師事していました)。ラカンは主体を斜線を引いた「$」と表記し、この斜線は主体がある種の〈欠如〉を抱えていることを示しており、これを精神分析では「去勢」と呼びます。そして人は欠如を抱えた$として、この欠如を埋めようと欲望することになりますが、畢竟この欠如を完璧に埋めることはできず、欲望する$は欠如のひとまずの覆いとして、何らかの対象にこだわりつづけることになります。このような「欲望の原因」を担う対象をラカンは「対象 a 」と名指し、$が対象 a を捉え損ねて延々と空回りをする構図を「幻想 $♢a」と呼びました。
つまり、ガタリはラカンから対象 a という概念を一旦は継承した上でこれを「機械状化」しようと目論んでいるということです。ガタリは$をラカンのように唯一の欠如にこだわり続ける主体ではなく、自分を切り刻んで n 通りに変化する主体として捉え直し、このような主体の相関者としての対象 a もまた、n 個の「対象-機械 a」として捉え直しました。すなわち、ガタリのいう「対象-機械 a」とは「構造」の、つまり代理-表象作用としてのシニフィアン連鎖の交差点であると同時に、その存在はシニフィアン連鎖から切断された「それ自身でしかないもの」であるということです。
このように「構造」と「機械」との間の交差は上述した三つの局面から把握されます。主体は確かに「構造」の座標軸の中にあり「機械」はとって主体は「他の場所」に存在します。しかしながら主体は「機械」とは無縁ではなく「機械」による「切断」の傍らにあり、かつこの「機械」は「構造」としてのシニフィアン連鎖からの「切断」を促す作動原因として、新たな主観性の生産に直接的に結びついているということです。
* オイディプスから機械状無意識へ
こうしてガタリが「構造と機械」で展開した「機械」の概念はドゥルーズとの共著『アンチ・オイディプス』において発展的に継承されることになります。同書では身体を「器官機械」として、自然界の対象を「源泉機械」として、さらには星や虹や山岳といった景色までも機械として把握され、こうした複数の機械の連結プロセスの総体である「欲望機械」による「欲望生産」が行われることが主張されます。
ここで重要なのは「欲望機械」による「欲望生産」は予め「主体」が存在し、その主体が能動的に欲望を抱くようなプロセスではないということであり、機械と機械が相互に連結する際に生成する欲望はあくまでも意識作用が働く前の前-意識作用の層で生起します。こうした視点から「無意識」を性的抑圧からの帰結として捉え「父-母-子」の三項図式から、つまりオイディプス図式から説明する精神分析の方法が批判されることになります。
すなわち、無意識とは抑圧された性的トラウマが浮上し再演され、さらに精神分析家によって解読される「劇場」なのではなく、何ものかを新たに生産する「工場」であるということです。ガタリとドゥルーズが照準しているのはあくまでこの機械連結から生まれる「機械状無意識」の生成に他なりません。
このような「機械状無意識」は後にガタリの著作『機械状無意識』(1979)では「共立平面 plan de consistance」の問題系として、さらにドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』(1980)では「内在平面 plan d' immanence」の問題系として論じられ、意識作用がはじまる手前の前-意識的な身体の情動が触発される地平が一貫して問題にされていくことになります。
こうしてみると我々の日常はさまざまな「機械」によって成り立っているといえるでしょう。人がその主観性を構成する発端には機械の連結が存在します。すなわち、主観性の構成とは例えば部屋に溢れかえるモノであったり、SNSでたまたま目に留まった何気ないつぶやきであったり、四季をめぐる花々の彩りであったりと、さまざまな機械との連結がその基盤にあるということです。
そして、こうした機械と機械との連結による欲望生産とは自らの「宇宙」を構築できるかという問いにまっすぐにつながります。そうであれば、かつてガタリがラボルドで試行錯誤を繰り返したように、このようなさまざまな「機械」の配列をさまざまに組み替えてみることで、我々は新たな欲望に出会い直し、自らの「宇宙」を切り開いていく日常を(再)発明することができるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 22:17
| 精神分析
2024年09月22日
精神病理と民俗
* 強迫性障害の諸相⑴
「強迫性障害 Obsessive-Compulsive Disorder:OCD」とは強迫観念や強迫表象と呼ばれる不安を伴う思考やイメージを解消するため何らかの強迫行動を繰り返し日常生活に支障が出てしまう精神疾患です。「強迫 Zwang」という概念そのものは1867年にリヒャルト・フォン・クラフト=エビングが用いた強迫表象の語に由来し、このような強迫表象をカール・ウェストファルは「強迫表象とは、知能は正常で、感情状態或いは感動状態に関係がなく、当人の意志に反して、或いは意志に矛盾して意識の前景にあらわれ、追い払うことができず、観念の正常な流れを妨げ、当人にとって異常で無縁なものに思われ、健康な意識に対立している」であると定義しています。
このウェストファルの定義によれば強迫にとって第一義的なものは強迫表象ないし強迫観念であって、強迫行為は二義的なものとなりますが、これに対して強迫観念や強迫表象はその背後にある不安に対する防衛として生じているという見解もあります。
フランス語圏では強迫を一種の「狂気 délire」とする見解もありますが、ジークムント・フロイトらの精神分析的な研究により長らく強迫性障害は「神経症」の一種と見做される傾向にありました。もっともDSM-5ではそれまで不安障害 anxiety disorderという大分類の中で転換症などと一緒に並べられていた強迫性障害が大分類として独立させられており、これは強迫性障害の生物学的な基盤が近年はっきりとしてきたことを受け、かつての神経症とは区別して捉えらえようというニュアンスを持った変更であるとされます。
また近年の傾向として、強迫を単一の定まった精神障害としてではなく「強迫スペクトラム障害 Obsessive-Compulsive Spectrum Disorder」として捉え、醜形恐怖、心気症、摂食障害、抜毛症、強迫買い物症、さらには妄想性障害や自閉症の一部を含むものとして考える動きも出てきています。
* 強迫性障害の諸相⑵
強迫性障害においてしばし見られる強迫観念としては、手にばい菌がついているのではないかと不安になる洗浄強迫、特定の動作がきちんとできていないのではないかと不安になる確認強迫、自分が汚れているのではないかと不安になる不潔恐怖、自分が不注意によって他人に危害を加えたのではないかと不安になる加害恐怖、自分に被害が及ぶのではないかと不安になる被害恐怖、重大な病気にかかってしまったのではないかと不安になる疾病恐怖などが挙げられます。また重大なものを捨ててしまうのではないかと思いから、ありとあらゆるものを溜め込んでしまい、結果として家がゴミ屋敷のようになってしまう「強迫的ためこみ compulsive hoarding」も知られています。
そして、洗浄や確認といった強迫行為は必ず強迫観念や強迫表象の後に生じる二次的なものであり、強迫観念や強迫表象なしに強迫行為が一次的に出現している場合は脳炎などの器質性精神障害を考えるべきとされています。
強迫性障害の治療には大きく分けて薬物療法と精神療法があります。薬物療法では主としてセロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)が用いられています。強迫性障害の精神療法はかつては力動的なアプローチがなされていましたが、現代では薬物療法に加えて行動療法や認知行動療法が行われており、特に「暴露反応妨害法 Exposure and Response Prevention:ERP」という方法がよく用いられています。
この方法ではまず患者が不安に思っていることを多数書き出し、それらを不安の強さに基づいて階層化します。そしてなるべく不安の強さの低いものから順に、不安を引き起こす事柄に「暴露」されても、強迫行為を行わないようトレーニングしていきます。このような作業を反復的に行うことによって徐々に不安が低減されるようになるといわれています。
* 民俗神経症
精神科医の成田善弘氏は「強迫観念にとりつかれると、今まで健全で、信頼しうる合理的な空間が後退し、世界が変質する。明るい表層の現実が後退し、暗い、不気味な、本来秘密で隠されてあるべきものが顕在化してくる。彼らはいたるところに崩壊、腐敗、死の影を見るため、それを防衛する呪術を展開せざるを得ない」と指摘しています。すなわち、同じ時空間を生きながら強迫症の患者はまったく違う日常を生きているということです。
ところで、このように強迫性障害の特徴である「強迫観念/強迫表象→強迫行動」という「繰り返し」は、ある面において「民俗」と呼ばれるものと共通する要素を持っています。この点、民俗学者の及川高氏は「来るべき日の民俗学−ルーチン・フィードバック・スケール−」(『現代民俗学研究』二号(2010)所収)という論考において民俗学の対象とは人びとが一日、一年といった単位で繰り返す「ルーチン」、すなわち繰り返される日常であり、現代民俗学が解明していくべきは繰り返されるルーチンとそれらが生み出すフィードバックの機制であるというように論じています。
そして、こうした観点から民俗学者の辻本侑生氏は「繰り返すことの民俗学 日常・クィア・強迫症」(『現代思想』2024年5月号「民俗学の現在」所収)という論考において強迫性障害(同論考では強迫症と表記)への民俗学的アプローチの試みを論じています。
まず同論考において氏は精神科医、北山修氏の「病的であれ日常的なものであれ、私たちが共有する祟り、祓い、汚れなどの習俗に根ざした訴えを同形に共有する事例を私は「民俗神経症」と呼んでいる」という言葉を引用しつつ、民俗学と比較的親和性のある強迫症の症例報告をいくつか取り上げています。
例えば「忌み言葉」など縁起担ぎと呼ばれる民俗事象がありますが、縁起担ぎの度が超えるとその人が「縁起が悪い」と思っているものに触れた途端、着替えたり、必要以上に手を洗ったり、といった行動に支配され、日常生活が困難になる「縁起強迫」と呼ばれる症状となります。また神仏への信仰も日常に根ざした民俗事象ですが、これが一線を超えて例えば神仏像の前を通るたび「ごめんなさい」と謝罪しなければ気が済まなくなったりすれば、それは「瀆神強迫」と呼ばれる強迫行為となります。
* 民俗学的手法と当事者研究
このように精神病理学においては強迫症に見られる「民俗的なるもの」の要素を指摘しています。では民俗学においては強迫症にいかなるアプローチができるのでしょうか。
この点、辻本氏自身、2015年から強迫症に罹患しており、特に「他人に何か危害を加えてしまったのではないか」という「加害恐怖」に支配され、それを打ち消すため、本当に危害を加えていないか、来た道を何度も確認する強迫行動に支配される日常を繰り返していたそうです。もっとも症状がひどい時には恐怖が原因で新宿区の打ち合わせ会場から当時暮らしていた品川区の実家まで来た道の確認を繰り返し、帰宅するのに5時間かかったことがあると氏は述べています。
そこで氏は日々の生活をノートに記録した上で、どういうタイミングに強迫観念が襲い掛かるのかという分析を行ったそうです。これは日常生活を捉える民俗学的手法であると同時に、精神疾患を有する人々が自身の症状を分析し、より良い生を送ろうとする「当事者研究」と呼ばれる手法に強く影響を受けているとのことです。
そして分析の結果、氏は楽しかった飲み会や自身が進行して首尾よく議論が進んだ仕事での会議の帰り道など、幸せなことや物事が上手くいったことの後に加害恐怖が襲い掛かりやすいことが明らかになったといい、このような幸せなことがあった後に強迫観念が襲い掛かるという分析結果は川島秀一氏がフィールドワークをもとに示した東北地方太平洋沿岸部の災害観と極めてよく似ていると述べます。
ここで川島氏が漁師から聴き取ったという「大漁が続いた後には、何か不幸なことが起こる」という感覚は幸福と災害が繰り返し現れ、幸福なことの後に不安に苛まれるという強迫症ではない人々も有する民俗的な心性を見出すことができるでしょう。ここでは個人的な日常に生起する状況を理解する上で、一見離れた地域の災害観が極めて重要な補助線をなしており、こうした事例をつなぎ合わせることで日常的な「被災」状況を過ごしている強迫症の人々は「異常」とされない人々が生きている日常に自らを接続することができるのであると辻本氏は述べています。
* 精神病理と民俗
日本民俗学の祖、柳田国男は民俗学の対象となる「民俗資料」を「有形文化」「言語芸術」「心意現象」に分類しています。これは「三部分類」と呼ばれています。その第一部「有形文化」は日々の暮らしの物質的側面であり、物体として可視的に存在するゆえに目によって観察ができるため、それは誰でも採集が可能なものです。その第二部「言語芸術」は暮らしの中にある言葉の営みであり、口から語られ耳で聴き取られるものであるため、それは当該言語を理解する者によって採集されます。
そして、その第三部「心意現象」は人の心に刻まれ心で感じるものであることから、それは「同郷人」によって採集されることになります。なお、ここでいう「心意現象」の典型は「〇〇をしてはいけない」という「禁忌」であり、また「同郷人」とはこのような「心意現象」を共有できる広い意味での当事者を意味しています。
こうしてみると強迫性障害の枢要部にある強迫観念や強迫表象はいわば属人的な「心意現象」であるといえるでしょう。そしてある地域社会において「伝統」や「風習」や「しきたり」などと呼ばれる民俗的事象とは、その地域における集団的な強迫行為であるともいえそうです。
すなわち、精神病理学が扱う「疾患」とは決して「異常」な「非日常」ではなく、むしろ民俗学が扱うような「伝統」や「風習」や「しきたり」などと呼ばれる「正常」な「日常」と地続きであるといえるでしょう。そうであれば、こうした観点から精神病理学と民俗学を架橋することにより「正常/異常」や「日常/非日常」といった二項対立を揺るがしていくような知を得ることができるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 21:23
| 精神分析
2024年08月23日
生命の円環
* 生命一般の根拠
日本を代表する哲学者、西田幾多郎は『善の研究』(1911)においてこの世界を構成する実在として主観と客観の二分法という反省が加えられる以前の主客未分の状態である「純粋経験」を位置付けました。その後西田は「純粋経験」を捉え返す「自覚」を経て、その基盤となる「場所」の根源としての「絶対無」へと到達します。さらにここから晩年の西田は「絶対無」を破断的に内在させた「個物=生命」の世界を描き出していきます。
このような「個物=生命」による相互限定からなるポイエシス的作用を西田は「行為的直観」と呼びます。この点、西田は「行為的直観」とは「作られたものは作るものを作るべく作られたのであり、作られたものと云うことそのことが、否定せられるべきものであることを含んで居るのである。併し作られたものなくして作るものと云うものがあるのではなく、作るものは又作られたものとして作るものを作って行く」と述べてます。
かなり難解な言い回しですが、要するに「個物=生命」とは世界によって「作られたもの」であると同時に世界を「作るもの」でもあるということです。そして、こうした「個物=生命」による「行為的直観」が織りなす世界を西田は「絶対矛盾的自己同一」と呼びます。
ここで西田は「行為的直観」や「絶対矛盾的自己同一」という術語を用いてある種の生命哲学を展開しています。そして、こうした西田哲学を基盤として独自の精神病理学理論を築いた木村敏氏はその「生命論的転回」の嚆矢となった著作『あいだ』(1988)において次のような仮説を提示します。
この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである。
(木村敏『あいだ』より)
生命の実体や生命の起源についての研究は現代における先端科学の中心的課題の一つであることは言うまでもなく、この先いつか生命の構造が余すところなく解明される日が来るかもしれません。もっとも、そのような科学的視野に中にある「生命」とはどこまでいっても「生命物質の生命活動」のことです。たとえ「生命物質の生命活動」が余すところなく解明できたからといって、個々の「生命物質の生命活動」とはまったく位相を異にする「生命それ自身」ともいうべき存在様式が明らかになったとはいえません。
このような「生命それ自身」は「生命物質の生命活動」のように個別的な認識の対象になりませんが「生命それ自身」はこの地球上に存在するすべての生きものが現に「生きている」ということの根拠となっています。すなわち、すべての生きものが「生きている」とはこの意味においての「生命一般の根拠とのつながり」が保たれている、あるいは切れていないということに他なりません。そうであれば我々が世界や自己における経験を事実のままに説明するためにはどうしてもこのような「生命一般の根拠」というべき存在を仮定しなくてはならないということです。
* ヴァイツゼッカーの医学的人間学
そして木村氏がこうした生命論を展開する上で西田と共に特権的に参照する思想家がヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーです。ヴァイツゼッカーは精神科医ではなく内科医、神経科医であり同時に哲学者でもあった人物ですが、彼は早くから客観主義的な自然科学的医学に対する批判を展開し、医学に「主体」を導入する「医学的人間学」を提唱したことで知られています。このような主張は今日的な医療倫理からみればごくあたりまえのことを言っているようにも聞こえます。しかし、ここでヴァイツゼッカーのいう「主体」とはかなり奇妙な概念です。
彼のいう「主体」とは「客体」と対立する項としての「主体」でも、近代的自我という意味での「主体」でもなく、広い意味での「生きもの」とその外部である「環境世界」との邂逅それ自体を指しています。この点、彼は生きものがその生存を保持するため環境世界との間に保っている接触現象のことを「相即 Kohärenz」と呼びます。生きもの自身も環境世界も絶え間なく変転する中で、この「相即」は絶えず繰り返し中断されることになり、そのたびにそれに変わる新たな「相即」が樹立されて、生きものと環境世界との接触は引き続き保たれることになります。
このような「相即」と呼ばれる事態を支えている知覚と運動の円環構造をヴァイツゼッカーは「ゲシュタルトクライス」と呼びます。そしてこのような構造を生存を保っている当事者である生きものの側から見たものが、彼のいう「主体」ということになります。すなわち、彼のいう「主体」とは、いわば生きものとその環境との「あいだ」の現象であると理解できます。
こうした意味で彼の主体概念において人間的な「意識」は要件とされておらず、その範囲は人間以外の全ての生物、それも随意運動の可能な動物だけではなく、植物から単細胞生物まで拡大されて適用されます。すべての生きものは環境世界と「相即」を成立させている限り「主体」として生きているということです。
こうしたことからヴァイツゼッカーの主体概念は生きものが「生きている」という事実から切り離すことができません。「生きている」ということは一定の物質的組成を持った物体が「生命」と呼ばれる活動のうちに身をおき「生命」に根ざしているということです。このような生きものと「生命」の「あいだ」を、彼は「根拠関係」と呼びます。そして、このような「生命」への「根拠関係」こそが生きものを「主体」たらしめている「主体性」であり、ここから彼は医学への「主体」を導入する上ではこのような「主体」を成立せしめている「主体性」としての「生命」に関与することが必要になると主張します。
* 世界とのかかわりと生命とのつながり
この点、木村氏は世界とのかかわりとしての「主体」と生命とのつながりとしての「主体性」という二つの主体概念の関係を音楽を例にして説明します。この点、音楽の演奏は少なくとも次のような三つの契機から成り立っています。すなわち⑴瞬間瞬間の現在において次々と音楽を作り出していく行為と⑵自分の演奏している音楽を聞く作業と⑶これから演奏する音や休止を先取り的に予期することで現在演奏中の音楽に一定の方向を与える作業です。
その上で氏は音楽を演奏する行為的な側面を音楽の「ノエシス的」な面と呼び、その時に我々が意識している音楽の演奏を音楽の「ノエマ的」な面と呼びます。いままさに音楽を演奏するという第一の契機は音楽のノエシス的な面にほぼ相当し、これまで演奏された音楽を参照する第二の契機とこれから演奏される音楽を先取りする第三の契機は音楽のノエマ的な面に相当します。
音楽のノエシス的な面であるその都度の演奏行為がそれ自体として独立に意識されることは決してなく、我々が経験できるのはいつもこれまでに演奏された音楽かこれから演奏する音楽のどちらでしかなく、これはいずれも音楽のノエマ面の意識に他ならりません。
つまり我々は演奏という行為と聴覚という感覚の両面で音楽の世界と関わっているということです。これは知覚と運動を一元的に把握するヴァイツゼッカーのいう「ゲシュタルトクライス」の格好の実例であるといえます。すなわち、ここで演奏者は絶えず「世界とのかかわり=主体」というものに直面すると同時に「生命とのつながり=主体性」を見出すことができているということです。
* ノエシス・ノエマ・メタノエシス
これは何も音楽だけではなく、例えばわれわれが何か話したりする時や本を読んだりする時にも当てはまります。これらの場合も「話し手/読み手」の意識に表象されたノエマ面である「話された内容/読んだ文章」が「次の話/次の読み」を限定するノエシス的な作用を営むことになります。
すなわち、ここでは「話し手/読み手」の意識の中には現在「話している/読んでいる」という「第一の主体」の他に「話された内容/読んだ文章」そのものが「第二の主体」としてノエシス的な作用を営んでいることになります。
このような直接的に世界と出会って音楽や言葉や文字を作り出し意識の中にノエマ的表象を送り込んでいる「第一の主体」も、すでに「作られた」ものの背後から働いてその「作る」行為に一定の方向を指示する「第二の主体」もいずれも意識のノエシス面に位置していますが、この二つの関係は決して互いに平等ではなく「第二の主体」は「第一の主体」に対して「ノエシスのノエシス」としての間主体的な「メタノエシス」の立場にあります。
つまり二つの主体が別々に存在するわけではなく「第二の主体」がその一局面として「第一の主体」を包摂しているということです。すなわち、ヴァイツゼッカーのいうところの「根拠関係」としての「主体性」は「世界との出会いの原理」としての「主体」を包含して限定しており「ゲシュタルトクライス」の究極の根源は生命一般の根拠とのつながりの中に見出されることになります。
* 生命の円環
以上の議論の全体の構造はほぼ次のようになっています。人間は生物として生命一般の根拠との「あいだ」に絶えず関係を持ち続けています。この関係は世界との「あいだ」の瞬間瞬間のノエシス的・実践的な行為的関係を通じて保持されています。この刻々のノエシス的行為は、そのつど意識の中に認知対象として個々のノエマ的表象を送り込みます。
そして、このノエマ的表象は、そのつどのノエシス的行為が全体的な生命一般の根拠とのつながりから外れないようにこれを制御する標識として役立っています。それゆえにこのつながりが個々のノエシスを包む高次のメタノエシスとして作用する際にも、個々のノエマ的表象の複合的な全体、つまり世界表象のようなものが制御の標識の役目を果たすことになります。
このノエシス的行為面とノエマ的意識面との「あいだ」でノエシスがノエマを生み出すそれ自体ノエシス的な働きが、いわゆる「自己=我」を成立させる場面ということになります。つまり「自己=我」という概念はノエマ的意識を抜きにしては考えられません。それゆえに我々はこうしたノエマ的意識を滅却した純粋なノエシス的な行動を通常「無我」とか「忘我」などと呼んでいます。
こうしてノエシスとノエマはひとつの円環を描きだすことになります。このような円環を西田は「作られたもの」と「作るもの」からなる「行為的直観」として捉え、ヴァイツゼッカーは知覚と運動からなる「ゲシュタルトクライス」として捉えました。そして、このような円環を駆動させているものこそがヴァイツゼッカーのいう生命との「根拠関係」であり、木村氏のいう「生命一般の根拠とのつながり」ということになるでしょう。
こうした意味で我々が日々において固執する「自己=我」とは、いわば「生命の円環」というべき、より大きな存在様式の中から産み出されたものであるといえるでしょう。そして、こうした根源的な関係をあえて比較的、馴染みのある日本語に言い換えるとすれば、それはおそらく「物語」と呼ぶことができるようにも思えます。社会共通の「大きな物語」が失われ、人間の固有性が問い直されつつあるポストモダン/ポストヒューマニズムにおいてはより一層なお、こうした人の生のアクチュアリティを基礎付ける「物語」としての生命の存在様式を直視する必要があるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 22:45
| 精神分析
2024年07月26日
多重見当識と対人性愛中心主義
* セクシュアリティにおける多重見当識
精神医学用語に「二重見当識」というものがあります。これは統合失調症の患者などにみられるとされるもので、例えば「自分は東京都知事だ、資産数十兆円だ」といった妄想を語りながら、看護スタッフの指示で病棟の掃除を手伝ったりしているような事態を指しています。自分の立場を理解することを「見当識」といいますが、いかに重症の妄想型分裂病患者といえども、妄想の立場と患者の立場を区別できることは案外多く、こういう患者は「二重見当識」を持つといわれます。
この点、ひきこもり臨床で知られる精神科医の斎藤環氏は日本におけるオタク系文化を論じた古典的名著『戦闘美少女の精神分析』(2000)において、こうした「二重見当識」に示唆された「多重見当識」という概念からオタク(同書で斎藤氏は「おたく」とひらがなで書きます)の心理あるいは行動を論じています。
斎藤氏によれば「コアなおたく」というものは「虚構」へのスタンスが独特であり、アニメ作品にしても複数のレヴェルで楽しむことができるといった「虚構コンテクスト」のレヴェルを自在に切り替えることができる素養を持っているとされます。
また氏は彼らは現実を虚構の一種と見做しており、必ずしも現実を特権化していないけれども、このことは彼らが別に虚構と現実を混同しているわけではなく、むしろ虚構にも現実にもひとしくリアリティを見出すことができる「おたくの特殊能力」であるといいます。それゆえにオタク(おたく)は「二重」ならぬ「多重見当識」を持つと比喩的にいうことができると氏はいいます。
さらに斎藤氏はオタク(おたく)について決定的であるのは「想像的な倒錯傾向と日常における「健常」なセクシュアリティの乖離ではないか」といいます。すなわち、彼らはここでも「欲望の見当識」をやすやすと切り替えているということです。
このような同書の議論は東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(2001)をはじめとして、ゼロ年代初頭から現在に至るまでオタク系文化をめぐる批評に大きな影響を与えており、近年においては斎藤氏がもっぱらオタク(おたく)を念頭に置いていた「多重見当識」の理論をより広いパースペクティヴへと開く議論が現れています。以下では斎藤氏のいう「多重見当識」をクィアな視点から読み直した松浦優氏の論考「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向−−仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から(『現代思想』2021年9月号「〈恋愛〉の現在」所収)」を見ていきたいと思います。
* 性愛規範とアセクシュアルな読解実践
本論考はまず冒頭で「異性愛/同性愛」という二項対立から抹消されているさまざまな非-セクシュアリティの可能性に注目します。例えば他者へ恋愛的に惹かれることと性的に惹かれることは(人によっては分かちがたく結びついているとはいえ)必ずしも一致しないことから「性的指向 sexual orientation」と「恋愛的指向 romantic orientation」を区別し、他者に対する性的惹かれを経験しないことを「アセクシュアル」を呼び、他者に対して恋愛的に惹かれないことを「アロマンティック」と呼びます。
またアセクシュアル・コミュニティにおいては「アセクシュアル」と「非アセクシュアル」の間を連続的に捉える見方から、両者の間の領域としての「グレーセクシュアル」や「グレーアセクシュアル」を見出す「アセクシュアル・スペクトラム」という考え方があります。
さらに近年では実在の他者ではなく架空のキャラクターに惹かれることを「フィクトセクシュアル fictosexual」という造語を用いる人々がいます。こうした人々もまた「性愛を当たり前のものとみなす価値観のもとで周縁化される」ことがあり、しばしばアセクシュアル・スペクトラムとして捉えられています。
このようにアセクシュアル/アロマンティックの観点から提示される語彙や見方はセクシュアリティをめぐる従来の解釈図式を問い直すものとなります。本論考はこうした問い直しを引き受けつつ、クリスティーナ・グプタらの整理を参照し「性愛規範」と「アセクシュアルな読解実践」という視角から、性愛をめぐる実践について従来の議論とは異なる考察を行います。
ここでいう「性愛規範」とは「欲望する主体として自身を経験することや、性的アイデンティティを引き受けること、そして性的活動に従事することなどを矯正する規範と実践」および「さまざまな形態の非-セクシュアリティ(性的関心の欠如、性的行為の欠如、またはセクシュアリティの喪失)を周縁化する規範と実践」を指す概念です。端的にいえば当然誰もが他者に惹かれるものだという想定です。
次に「アセクシュアルな読解実践」とは「生物学的に同定可能なアセクシュアリティや身体の欲望に規定されたアセクシュアリティを求めるのではなく、非-セクシュアルな表現が意味を持つ瞬間のための読解」をいいいます。換言すれば「クィアとアセクシュアルを結びつけて、思いがけない多様な場所にアセクシュアルを見出す」という読解です。
* 恋愛を「する」と「見る」の破れ目からみる対人性愛中心主義
以上の観点から本論考は仲谷鳰氏の『やがて君になる』という作品を読解していきます。同作は他者に恋愛感情を抱けないことに悩む小糸侑と、自分を肯定できないことで他者からの好意を受け入れられずにいる七海燈子と、七海に恋をする佐伯沙弥香との関係を描く百合漫画です。同作では「恋愛とは何か」という問いがテーマとなっており、恋愛を自明のものとして扱っておらず、作中では恋愛は誰もが当然するものだという固定観念を相対化する場面がいくつか描かれています。
本論考はこうした同作のテーマを考える上で槙聖司というキャラに注目します。槙は他人の恋愛を見たり恋愛相談に乗ったりするのが好きですが、自分が恋愛をしたいという欲望はなく、また恋愛感情を経験しないことを素直に肯定しています。彼が好んでいるのは「舞台の上の物語」としての「役者」がする恋愛であり、それゆえに自身が他人から恋愛感情を向けられた時には「役者が観客に恋するなんて、がっかりだ そんなのはいらない 僕は客席にいてただ舞台の上の物語を見ていたい」と拒否感を露わにします。
ここで描かれているのは恋愛を「する」と「見る」の間にある「破れ目」であると本論考はいいます。このことは性愛規範と創作物との関係を考える上で極めて重要な意味を持ちます。すなわち、恋愛要素のある創作物を求める欲望はしばしば漠然と「恋愛に対する欲望」として認識されてしまいます。この漠然とした認識のもとでは「恋愛に対する欲望」は「恋愛をしたいという欲望」へと両者の差異が認識されないまま還元されることになります。これに対して「する」と「見る」の間の破れ目が突きつけられるとき、恋愛は必ずしも「する」ものではないということが露わになります。
このように同作は性愛を実践する営みを基準とした枠組みに基づいて性愛/恋愛的創作物の受容者を解釈することは、ある意味で性愛規範的なのではないかという問題を提起しています。そしてこうした問題は現実においても、例えば「二次元の性的表現を愛好しつつ、現実の他者への性的惹かれを経験しない」人々の中から「性愛は現実の他者と実践されるのが当然だ」という想定を批判する声として現れています。
そしてそのような批判では「生身の他者に対する性的な要求を伴う」ような「生身の他者に対して性的に惹かれるセクシュアリティ」が「対人性愛」という造語で名指されています。こうした造語実践を踏まえて本論考は「生身の他者に対して性的-恋愛的に惹かれることが規範的なセクシュアリティとされること」を「対人性愛中心主義」と呼びます。
ここで本論考は斎藤氏による多重見当識=複数的指向 multiple orientationsの議論を参照します。先述のように斎藤氏はオタク(おたく)における「想像的な倒錯傾向と日常における「健常」なセクシュアリティの乖離」を挙げています。このような「乖離」は多重見当識がセクシュアリティの領域で作用してものと位置付けられます。そうであれば『やがて君になる』が詳らかにした「する」と「見る」の間の破れ目とは、まさにこのような「乖離」の一例として理解できるということです。
* 引き受けないという仕方で引き受けられている
このような本論考が展開する議論はクィア批評はもちろんのこと、ポストモダンにおける主体をめぐる議論にも大きなパラダイム転換をもたらす射程を持っています。
例えば東浩紀氏は『動物化するポストモダン』において近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘し、オタク系文化における「シュミラークル(コンテンツ)」と「データベース(コンテンツを生成する「萌え要素」など非物語的な情報の束)」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しているといい、このようなポストモダンにおける主体もまた「シュミラークル」に没入する動物的欲求と「データベース」に介入する人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けました。
もっともその一方で東氏はこのような動物的欲求と人間的欲望の区別になぞらえて「性器的な欲求」と「主体的な「セクシュアリティ」」を区別したうえで、二次元の性的表現を愛好することは「ほとんどの場合」「主体的な「セクシュアリティ」」として(とりわけ男性オタクにとっては)引き受けられていないとしています。
けれども本論考はこうした営みはフィクトセクシュアルあるいはアセクシュアル・スペクトラムとして引き受けられることもあるといい、東氏のいう動物的欲求あるいは「性器的な欲求」は「主体的な「セクシュアリティ」」として、あるいは本論考の文脈でいう「対人性愛の自明性を揺さぶるようなセクシュアリティ」として「引き受けないという仕方で引き受けられている(あるいは引き受けさせられている)」と捉えられるべきであり、そこにはセクシュアリティの装置=性愛規範が作用していることを見て取る必要があるといいます。
* ポスト神経症的欲望と対人性愛中心主義
このような視座はここからさらにフィクトセクシュアルあるいはアセクシュアル・スペクトラムといった「対人性愛の自明性を揺さぶるようなセクシュアリティ」における主体の欲望をいかに捉えるかという大きな問いを開くことができるでしょう。
例えば現代思想の領域において大きな影響力を行使するラカン派精神分析では周知のように人の心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに分類した上で、人の「欲望」の標準形を「神経症的欲望」であると見做しています。これに対して1970年代において精神分析に対して真っ向から反旗を翻し大陸哲学に大きなインパクトを与えたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)は「神経症の精神病化」というべきプロセスをいわば「ポスト神経症的欲望」として肯定的に描き出しました。また近年のラカン派においても従来の精神病や倒錯には収まらない「ふつうの精神病」や「ふつうの倒錯」といったカテゴリーが提唱され、従来のように「欲望」の標準形を「神経症的欲望」と見做すモデルはかなり揺らぎを見せています。
そして、ドゥルーズ=ガタリの強い影響下に置かれている日本の現代思想シーンにおいても「ポスト神経症的欲望」をめぐる議論が従来より活発になされており、1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代における宮台真司氏のコギャル支持、そしてゼロ年代における東氏のオタク支持といった言説はまさにこうした流れの中に位置づけることができるでしょう。
こうした議論を総括する形で千葉雅也氏は「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−−倒錯の強い定義(『意味がない無意味』(2018)所収)」という論考で「ポスト神経症的欲望」を「別のしかたでの欲望」と名指し、この「別のしかたでの欲望」を(a)まったく精神分析的ではない「動物的な欲求」へと振り切れさせるパターン(東氏の立場)と(b)あくまでも神経症的欲望を前提とした多かれ少なかれの倒錯化として捉えるパターン(斎藤氏の立場)と(c)肯定されるべき「分裂病」の解放とみなすパターン(古典的なドゥルーズ=ガタリ主義の立場)という三類型に整理しています。
ここから千葉氏は古典的なドゥルーズ=ガタリ主義における「神経症の精神病化」を「倒錯的な精神病」と解釈し直した上で「別のしかたでの欲望」をめぐる上記の三類型を「神経症的欲望」を「無効化せずに否認する」という「メタ倒錯=倒錯の強い定義」という論理で連結させています。
フィクトセクシュアルあるいはアセクシュアル・スペクトラムといった「対人性愛の自明性を揺さぶるようなセクシュアリティ」がこうした「ポスト神経症的欲望=別のしかたでの欲望」のどこに位置づけられるかについては依然として問いは開かれているといえるでしょう。いずれにせよ「対人性愛中心主義」という視座は「ポスト神経症的欲望=別のしかたでの欲望」をめぐる議論を新たな局面へと導くのではないでしょうか。
posted by かがみ at 23:19
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