2017年04月01日

対象 a ・承認欲求・絶対だいじょうぶの魔法。

ラカン派精神分析の理解によれば、子どもは「疎外と分離」という母子分離の過程を経ることで、母子一体的な欲動満足である「享楽」の喪失と引き換えに「言語」を獲得し「欲望する主体」となり、精神病圏から神経症圏へと遷移するわけですが、「疎外と分離」の、特に「分離」の成否は、かつての享楽の残骸が「欲望の原因」として機能するかどうかにかかってきます。

この「欲望の原因」をラカンは「対象 a」と呼びます。子どもはいわば対象 a を抱えることで初めて母の世界を脱出できるわけです。

対象 a とは、かつてあった「享楽=母なるもの」すなわち「乳房、排泄物、声、眼差し」の代理物、すなわち欲動の対象に値するものをいいます。ひとがアプリオリに人肌を求め、あるいは善行を為し、あるいは詩、音楽、絵画、映像などの芸術作品をこよなく愛するのはそれらが対象 a だからです。いわゆる欲望とは享楽を可及的に回復しようとする決して満たされることのない永久反復運動に他ならないということです。

だから最近よく言われる「承認欲求」と呼ばれるものの正体も結局はこの「対象 a」なんですよ 。他者からの賞賛の声、羨望のまなざし。「承認欲求を否定せよ」などという流行りのキラキラワードがありますが、ラカン的には承認欲求というのは少なくとも神経症圏の人間(いわゆる一般人)にとっては己の存立を支える根源的な欲望であり決して否定できるものではないということになります。

このような観点から言えば、承認欲求とは「否定する」すべきものではなく「操作する」すべきものです。仮に誰からも承認されないのであれば、自分で自分を自己承認すればいいということになります(理論的には。実践は難しいでしょうが・・・)。

例えば、先日読んだマインドフルネス関連本の中で、感情がイライラした際には呼吸に集中するとともに「かならずよくなる」などとポジティブワードを呟いてみる方法が推奨されてたんですが、こういうのも自分で自分に声をかけてまなざして、対象 a の享楽を作り出す自己承認の方法と言えますね。

さて。今日はエイプリルフールですが、そんなことよりも「カードキャプターさくら」の主人公・木之本さくらちゃんの誕生日ですね。

さくらちゃんといえば名台詞「絶対だいじょうぶの魔法」。さくらちゃんはカードキャプターとしてバラバラになったクロウカードを集める使命をケロベロスから無理矢理押し付けられますが、途中、もう一人のクロウカードの守護者ユエの第一配下カード「闇」に飲み込まれそうになった時「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」と自分に言い聞かせて窮地を乗り切ります。これを「闇」と対になるクロウカードの「光」は「絶対だいじょうぶの魔法」と評します。

「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」。これ以上にシンプルで力強い響きもそうそうないでしょう。日々の暮らしで気が滅入った時に、自己承認の魔法の言葉としては何気につぶやいてみる習慣というのもいいかもしれませんね。


posted by かがみ at 23:04 | 心理療法

2017年02月14日

ドラマ版「嫌われる勇気」に日本アドラー心理学会が抗議文

ドラマ版「嫌われる勇気」を最初観たときは完全に口開けてポカンの状態でして、なんというか、よくまあ、ここまで思い切った改変をしたものだと別の意味で制作サイドの「嫌われる勇気」を見た気がしましたが、ここに来てやっぱり日本アドラー心理学会から抗議が来た模様です。

香里奈主演「嫌われる勇気」に「日本アドラー心理学会」が抗議文 - ライブドアニュース

日本アドラー心理学会のホームページ|INDIVIDUAL PSYCHOLOGY

株式会社フジテレビジョン 『嫌われる勇気』製作責任者御机下

抗議文は「放映の中止か、あるいは脚本の大幅な見直しをお願いしたいと思っております 」と結ばれており、まさにドラマ版主人公の庵堂蘭子の決め台詞である「明確に否定します」と言わんばかりです。

この抗議は極めて正当だと思います。ドラマ版はキャストの誰某の演技が大根だとか、事件解決にアドラー心理学がまったく絡んでいないとか、巷ではそういうところでも辛辣に批判されているみたいですが、アドラー心理学という観点からの本質的な批判はもっと別のところにあります。

それは抗議文にあるように、現状、ドラマ版においては、アドラー心理学の生命線ともいえるべき概念である「共同体感覚」「勇気づけ」の視点が完全に欠落している点に他なりません。この点、抗議文ではわりと端的な指摘に留まっているので、ここで大変僭越ながらも、ざっくりと私なりの理解から書いてみたいと思います。


劣等コンプレックスと共同体感覚

まずはそもそも論というか、アドラー心理学の基礎理論の整理から始めます。

精神分析の創始者でおなじみのジークムント・フロイトは人の根本衝動を「性欲動」だと規定しましたが、これに対して、アルフレッド・アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償」による「優越性の追求」だと主張します。要するに、人は無力な寄る辺ない存在としてこの世に生を受けるが故に「もっと成長したい、もっとあるべき理想に近づきたい」という動機が生まれてくるということです。

人は無力な存在としてこの世に生を受けます。そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。

(嫌われる勇気:79頁)


こうした劣等感の補償ないし優越性の追求に駆動されていった結果、形成されていく個人的な信念・世界観といった個人のパーソナリティをアドラーは「ライフスタイル」と呼びます。

ライフスタイルというのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って差し支えないでしょう。人は知らず知らずのうち、自らのライフスタイルを正当化し維持する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)

よく言われる「トラウマは存在しない」というのは、過去の出来事は現在のライススタイルに整合する形で認知されるため、結果、同じ事実が「美しい思い出」にも「忌むべきトラウマ」にも、可能性としてはどちらにもなり得るいうことでしょう。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)

つまり主体としての個人の有り様によってライフスタイルはいつでも変えられるというわけです。「ライフスタイル」という呼び方もその着せ替えできるような「軽さ」を強調するためと言われます。

そして、ある人がいかなるライフスタイルを形成するかは、その人が「対人関係」をどのように捉えるかにかかってきます(対人関係論)

対人関係を「縦の関係」、すなわち支配、評価の関係として捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成されていきます。逆に対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、感謝の関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成されていくわけです。

課題の分離の二つの側面

以上から、共同体感覚の涵養こそがアドラー心理学の目標となります。そしてその実践プロセスは以下のとおりです。

まず、自他の問題領域を切り分けます。いわゆる「課題の分離」です。

実は課題の分離には二つの側面があります。まず第一に「他者の課題に踏み込まないこと」。これはわかりますよね??庵堂さんがたまにドヤ顔で言い放つ「それはあなたの課題です」というアレですよ。(原作の)「嫌われる勇気」でも強調されている通り、他者からの評価というのも「他者の課題」ですから、いわゆる「承認欲求を否定する」というのもここに通じるものがあります。

そしてもうひとつ、第二に「自分の課題に誠実にとり組むこと」。これは巷のアドラー解説本ではあまり強調されていない気もしますが、普通に考えれば第一の点と密接な関係になるはずです。だってそうでしょう??「相手の課題に踏み込まないこと」だけだと、単なる自分の殻に閉じこもって何もしない人と何ら変わらないじゃないですか??

では自分の課題とは何でしょうか?私の理解ではこれこそが「勇気づけ」の実践です

「勇気づけ」の実践その1〜自分を勇気づける

勇気づけとは「横の関係に基づく援助」と呼ばれますが、基本言葉が「ありがとう」「嬉しいです」「助かります」とあるように、より端的に言えば尊敬・感謝の表明です。勇気づけの実践は、まずはいまの自分を勇気づけるところから始まります。

自分なりの言葉で、いまのありのままの「交換不能なわたし」を直視し受け入れて、いわば自分で自分を援助するということなんですよ。これを「自己受容」といいます。(原作の)哲人の言葉で言えば「肯定的なあきらめ」。「あきらめ」というのはもともと「明らかに見る」という意味合いだそうです。カウンセリングにおけるロジャーズ三原則でいえば「自己一致」という概念に近いでしょう。

「勇気づけ」の実践その2〜他者を勇気づける

そういうわけで、自分を勇気づけることができるようになれば、次のステップとして他者を勇気づけます。他者を尊敬し感謝の念を表明する。「他者信頼」「他者貢献」です。

「他者信頼」というのは他者にイエスマンのごとく追従する態度とは全く異なります。アドラー派に「結末技法」というものがありますが、相手の存在を尊敬・信頼することと、相手の間違った行為を間違っているときっぱり断じ去ることは全く別のことです。「明確に否定します」という言葉はここに通じます(ただ原作の哲人がいう「明確に否定します」とドラマ版の庵堂さんがいう「明確に否定します」は相当ニュアンスが違ってますが・・・)。ロジャーズ三原則でいえば「無条件受容」「共感的理解」に相当するものでしょう。

「他者貢献」は最も重要です。実際に何かを貢献したかどうかではなく、重要なのは「貢献感」が得られたかどうかです。人は「貢献感」を得ることで自分の価値を実感できるというわけです。こういう風に書くと何か胡散臭い雰囲気を感じる方もいるでしょうが、このメカニズムの神経学的な解明は現代においてかなり進んでおり、例えば「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンという神経伝達物質は、親しい相手とのスキンシップ、優しい言葉、温かいまなざしといった物理的、精神的接触の他にも、誰かに対する親切心によって分泌が促進されるそうです。

兎も角も、こうして「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。この三つの要件が揃って初めて、人は劣等コンプレックスの磁場を抜け出し、共同体感覚(=横の関係)の領域に遷移するということができます。

本当に難しいのは共同体感覚を「持ち続けること」

そして大事なのはこれを継続することです。実は、共同体感覚を瞬間的に得ること自体はそんなに難しくないんですよ。誰だって自分がうまくいっているときは余裕がありますから、周りに受容的な態度をとることはそんなに難しいことではないでしょう。

けど、一度上手くいかなくなれば、やっぱり妬みや僻みという負の感情が出てきます。いったんは共同体感覚に遷移しても、簡単に劣等コンプレックスに転落してしまいます。

それでも、どんな苦境に立たされようが、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を一貫して維持し続ける。これはもはや至難の技と言わざるを得ない。だからこそ共同体感覚というのはアドラーの言うように「到達できない理想」なのです。

世界はシンプルであり、人生もまた同じである。しかし、「シンプルであり続けることはむずかしい」と。そこには「なんでもない日々」が試練となるのです。

(幸せになる勇気:275頁)


我々凡人は劣等コンプレックスと共同体感覚という二つの両極の間をウロウロするのが実際のところなんでしょう。そんな中、せめて少しでも、共同体感覚寄りの「斜めの関係」を維持できれば、まあ御の字なのかもしれませんね。

嫌われる勇気とは自己中心的な生き方ではない

さて、これでもう明らかだと思いますが、要するにドラマ版はこれまで観た限りでは、庵堂さんの振舞いには「他者を勇気づけること」、すなわち共同体感覚中核三要件の「他者信頼」「他者貢献」が欠落していると言わざるを得ない。

これは片手落ちどころの話ではないでしょう。そんな主人公を哲人ポジションにいる人が「ナチュラル・ボーン・アドラー」などと持ち上げるわけです。

そうすると当然、原作未読の視聴者から「嫌われる勇気というのはこの女みたいな周りを顧みない自己中心的な生き方か、これがアドラー心理学か」と、こういう風に認識されても仕方がないでしょう。

もしかしたらあるいは万が一、今後の展開で、そういう共同体感覚的な側面が出てくる予定の構成になっているのかもしれません。けど百歩譲って仮にそうだとしても、最初の数話で呆れて視聴をやめてしまった人の中にはやっぱり、上に書いたような誤解がずっと残ってしまうことになるわけです。こうなるとアドラー心理学の普及団体としては苦情のひとつも言いたくなるでしょうね。

香里奈「嫌われる勇気」に放映中止要求 本家・アドラー心理学会の抗議理由 : J-CASTニュース

今のところ、制作サイドとしては放映中止は考えてない模様。最初、原作サイドの監修はなかったのか疑問でしたが、一応、岸見先生がアドラー理論の解釈部分のチェックは行っていたみたいですね。岸見先生的にはドラマのストーリーがどう作られるかについては、あくまで「他者の課題」というご認識なのかもしれませんね。

長くなったので要旨をまとめておきます。

【まとめ】

・(動因)劣等感の補償/優越性の追求→(形成物)ライフスタイル

・対人関係を縦に捉える(支配・評価の関係)ライフスタイル=劣等コンプレックス

・対人関係を横に捉える(尊敬・感謝の関係)ライフスタイル=共同体感覚

・課題の分離=他者の課題に踏み込まない(承認欲求の否定)+自分の課題に誠実に取り込む(勇気づけの実践)

・勇気づけ=自分を勇気づける(自己受容)+他者を勇気づける(他者信頼・他者貢献)→共同体感覚


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posted by かがみ at 19:47 | 心理療法

2016年12月31日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)



エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)

前回述べたように、劣等コンプレックスというのは説明として直感的にわかりやすいけれども、一方、一部のケースはエディプスコンプレックスからの方が上手く説明できる事例もまた確かに存在し、一概にどちらが根源的なコンプレックスだと云い難いものがあるということです。

従って、この両者はいかなる関係に立つと考えるべきか、という問題が生じることになりますが、この点、ジャック・ラカンによる「疎外と分離」「対象 a と根源的幻想」という理論的整理が、一応の整合的説明として成功しているというべきでしょう。

疎外と分離〜欲動と欲望の相転移

まず、フロイトの規定する根源的衝動は周知の通り「欲動」です。もっとも一般的なフロイト理解では「性欲」などと言われますが、性欲といっても幼児性欲のそれであり、むしろ「愛情衝動」と言った方が適当と言えるでしょう。

このあたりの誤解がフロイトという人の不遇たる所以でもあるわけですが、それはともかくいずれにせよ、我々は原則としてこの欲動を完全円満に満足させた状態でこの世に生を受けているということです。これは一人の例外もありません。何となれば、母の胎内は新しい命に必要なすべてが満たされているからです。これはラカンがいう「享楽」と呼べる状態です。

ところが、そこにずかずかと邪魔者が入ってくることで「享楽」は霧消してしまいます。子どもは自らと母親は〈他者〉であり渾然一体でも何でもないことを悟ります(疎外)。そして次に、それどころか母親の関心の対象は自分ではなく、まさにその邪魔者であることに気づくわけです(分離)。

こうして当初の「享楽」は失われてしまい、もはやすべてが満たされることはなくなったのです。しかしこの時に子どもの中には、これを少しでも奪回したいという願いが生じる。

これを称して「欲望」という。これが「母に欲望されたいという母への欲望」という「〈他者〉(へ)の欲望」です。

よくわからないけれども満たされている享楽と異なり、欲望は「〜がしたい」という「言葉」、すなわちシニフィアンで表現されます。いわば人は欲望を持つ者となり初めて「象徴界=理性の世界」へ参入できると言えるでしょう。ここにフロイト第二局所論でいう「超自我」の形成を見出すことができるわけです。

対象 a と根源的幻想

こうして、子どもの中に芽生えた「欲望」は、以降、かつての享楽の残滓物達、すなわち「欲望の原因=対象 a 」により駆動され、死ぬまで満たされない永久運動に従事することになります。ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは「乳房、糞便、声、まなざし」の4つあり、以降の人生で見出す様々な対象 a はこれら4つのバリエーションと言えるでしょう。

そしてこの欲望と対象 a の関係性を規定する態度をラカンは「根源的幻想」と呼びます。ヒステリー者と強迫神経症者の根源的幻想は対象 a に対する両極的アプローチといえます。疎外以前に逆行して「対象 a を完全に所有したい」と欲望するのが強迫神経症者である、他方で、分離に執着して「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」と欲望するのがヒステリー者です。


いずれにせよ「欲望」とは「欲動」を禁じられ初めて生じるものであり、両者は相転移の関係にあると言えるのです。

例えば、の話ですが、生まれてからずっと絶海の孤島に絶世の美少女と二人っきりで、それが当たり前の暮らしだった所に、ある日突然、イケメンが現れたとします。

少女はそのイケメンを未だ見せたことのない恍惚の眼差しでうっとりと見つめている・・・そんな情景を思い浮かべてみて下さい。そうすれば、それまでなんとも感じなかった少女との関係性が、たちまちにして、これ以上なく掛け替えの無い大切な物だったように感じらませんか?要するに、その時、湧き上がるであろう何とも名状しがたい感情、これが「欲望」の正体です。

こういう風に説明すれば、少しは想像できるかとは思いましたが・・・却って、わかりにくかったらごめんなさい。

第三項としての〈父の名〉

ともかくも、このように「満たされた享楽」の禁止と相転移的に「満たされない欲望」が生成されるわけです。この一連の疎外と分離の過程において、母と子の「享楽」を切り裂く邪魔者こそが、エディプスコンプレックスを引き起こす第三項、すなわち〈父の名〉に他ならないのです。

要するにフロイトがエディプスコンプレックスと呼んだものは、子供の発達過程における母子分離の神話的表現なんですよ。この世に生まれ落ちた時は動物となんら変わりない「エスの塊」である赤ちゃんに「超自我=理性」を内在させる力動作用と言い得るでしょう。つまり〈父の名〉を担うのは現実的な父親に限りません。

〈父の名〉とは「母の欲望」を名付ける「シニフィアン」という一種の概念であり、母と子を分かつ第三的力動作用であればそれは現実の父親どころか人でさえある必要はなく、例えば母子家庭における母のパート労働による日常的な不在も、そういいう意味で〈父の名〉として機能すると言えるでしょう。

エデイプスコンプレックスVS劣等コンプレックス

このようにして見てみると、「疎外と分離」により「欲望」の萌芽から「根源的幻想」の形成に至るまでの論理の動線はアドラーの優越性の追求からライフスタイルに至るそれと極めて近似していることに気付かされます。

まず、母子分離の過程においてエディプスコンプレックスによる欲動が抑圧されることで、欲望=優越性の追求が発生し、根源的幻想=ライフスタイルが形成されます。

そして、この根源的幻想=ライフスタイルが何らかの挫折経験などで著しく歪んだ時、アドラーが言うところの「〜だから〜できないという偽の因果律」である合理化作用によって劣等コンプレックスが形成されます。

ものすごく端的に言えば、エディプスコンプレックスは欲動の抑圧作用であり、劣等コンプレックスは欲望の合理化作用といえるでしょう。つまり両者は構造的には似ているものの作動する位相が全く異なっているというわけです。

なお、強迫神経症者もヒステリー者も「対象 a を完全に所有したい」「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」という支配関係、つまり縦の関係であり、端的な劣等コンプレックスと言えるでしょう。

つまり、劣等コンプレックスというのは神経症圏においては根源的コンプレックスではあることは間違いない。なので神経症圏を生きる大多数者にとって劣等コンプレックスが直感的に響く説明であることはある意味当然であるといえるのです。

また、劣等コンプレックスは多種多様な亜種を生み出します。カインコンプレックス、学歴コンプレックス、メサイアコンプレックス、クリスマスコンプレックスなどなど・・・学童期以降の子供が同性親に抱くエディプス的な愛憎も理論的には劣等コンプレックスということになります。

この点、エディプスコンプレックスは「異性親への愛情と同性親への憎悪」という、このひとつだけです。つまり言い換えればエディプスコンプレックスというのは多くの人に共通する精神力動と言えるでしょう。

これはユング心理学の個人的無意識と集合的無意識を想起させるものがあります。すなわち、ユングの理論体系に従えば、神経症圏=個人的無意識、精神病圏=集合的無意識、という対応関係となり、個人的無意識というのはエディプスコンプレックス=父性原理による切断により発生するという理解を導き出すことができるわけです。

結語〜根源的幻想の横断と共同体感覚の獲得

さて。最後はなんだかとっ散らかった印象論を並べただけではありますが、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスというものが決して対立するものでないという趣旨がなんとか伝わったのであれば幸いです。

ところで精神分析が目指す分析目標は「根源的幻想の横断(ラカン)」であり、これは畢竟、「〈他者〉との分離」だといえるでしょう。

他方、アドラーの個人心理学の治療目標は「共同体感覚の獲得」であり、これはどちらかといえば「〈他者〉との調和」に重きをおいているように見受けられます。

もちろん「課題の分離」「勇気付け」を始めとするアドラーの数々の技法が日々の暮らしにも簡単に応用できる実用性に優れたものであることは言うに及ばないことですが、これだけアドラー理論が多くの共感を集めるというのは「自己責任」とか「空気を読む」ということが折に触れ強調される現代日本社会の精神病理を端的に例証しているような気がするんですよね。

そういうわけで、今年もいよいよ年の瀬、なんかあっという間でしたね。皆様におかれましてもどうか、よいよいお年を。

【関連】

しあわせ・享楽・対象 a

神託的発話としての解釈と根源的幻想の横断、あるいは「この世界の片隅に」

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posted by かがみ at 22:08 | 心理療法

2016年12月25日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)



心理療法における一般論としてですが、人の症状や問題行動は、その人に内在するコンプレックスによって引き起こされると言われます。そして、最も根源的なコンプレックスとは何かという問題について、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスがしばし対立的なものとして説明されます。

しかしながら両者はほんとうに「対立」しているのでしょうか?仮にそうでないのであれば両者はどのような関係に立つと言えるのでしょうか?

そういうめんどくさいわりにはあんまり需要のなさそうなテーマについて、自分なりに現時点で整理したことに基づく解釈を2回に分けて書いてみようと思ったのが本稿の着想の発端だったりします。何卒よろしくお願いします。

エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックスとは周知の通り、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの「発見」によるものでして、これを定義的に述べれば「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになります。

フロイトは当初、ヒステリー患者の供述を真に受けて、神経症の原因は幼少期における親からの性的な誘惑体験であるとする「誘惑理論」なる説を唱えていましたが、程なくこれをあっさり放棄してしまいます。何となれば当時のウィーンでは、神経症に苦しむ若い女性が相当数に上っており、彼女たちの父親全員がペドフェリア的な性的倒錯者だと考えるというのはいくら何でも苦しい説明だと言わざるを得ないからです。

誘惑理論を放棄したフロイトは当時の親友ヴィルヘルム・フリースとの幾度とない往復書簡を通じて自己分析を重ねていった結果、自らの内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という秘められた感情を発見するに至ります。

そして、この感情こそ、神経症の原因を形成する「早期幼児期の一般的な出来事」だと看破したフロイトはこれをギリシア神話のエディプス王の悲劇になぞらえて「エディプスコンプレックス」と名付けました。

しかし、現代の日本社会においてエディプスコンプレックスなどと言われても、何か荒唐無稽な御伽噺を聞かされている気分になるでしょう。普通の人に対して「あなたは近親相姦ないし父殺しの願望がある」などと言い放ったところで、多分、困惑されるか、ヘタすれば怒らせてしまうかもしれません。

劣等コンプレックス

これに対してフロイトと並び称される心理学の巨峰、アルフレッド・アドラーが擁する劣等コンプレックスは遥かに解りやすく、シンプルです。

アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償としての優越性の追求」だと規定します。その優越性に追求の駆動された結果として形成される動線、つまり個人的な信念・世界観を「ライフスタイル」と呼びます。ライフスタイルと言うのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と考えて差し支えないでしょう。

人は自らのライフスタイルを正当化し論証する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)。

そして、いかなるライフスタイルを形成するかといういわば「目的の原因」は畢竟、「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくる(対人関係論)。

ここで対人関係を「縦の関係」、すなわち操作したり評価する支配関係として捉えてしまえば、歪んだライフスタイルが形成される。これがアドラーのいう劣等コンプレックスに他ならないのです。

そこでアドラー心理学では対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、共感、感謝といった関係で捉える「共同体感覚」というライフスタイルの涵養が目標とされ、かかる共同体感覚を育むための援助技法を「勇気付け」と呼んでいるわけです。

精神病圏におけるエディプスの欠落

こうして並べてみると、どう考えても劣等コンプレックスの方が説明としてはスマートですよね。例の「嫌われる勇気」の空前の大ヒットを待つまでもなく、日本ではもともと「コンプレックス=劣等感」というイメージが成り立っているので、アドラーの理論は直感的に響くものがあると言えます。

しかしながら、なかなか一筋縄でいかないと言べきでしょうか。一方でエディプスコンプレックスの方がより上手く説明できるケースというのもまた確実に存在します。例えば、パラノイア(妄想性障害)という精神病は、その急性期においては精神自動症や言語性幻覚などと呼ばれる意味不明な幻聴が発生しますが、これらは多くの場合、患者が何らかの社会的責任(昇進・結婚・妊娠)を引き受けた時に発症することが臨床上、確認されています。「社会的責任を負う」とはまさに自らの父性機能(理性やセクシュラリィティ)を参照するべき場面に他なりませんが、パラノイアの場合、参照すべき父性原理がないが故に、その参照エラーが意味不明な幻聴などの形で返ってくるわけです。また、その安定期においては、よく荒唐無稽な妄想的世界観が患者の口から披瀝されることが少なくないですが、これらの妄想も父性原理の不在を自分なりに補完しようとして作り上げた代替原理ということができます。

このような症状はエディプスコンプレックスの欠落という点から初めて合理的に説明ができるでしょう。すなわちエディプスコンプレックスは精神病圏と神経症圏を分かつ重要なメルクマールであり、換言すれば、人はエディプスコンプレックスを経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するということです。そういう意味からいえばエディプスコンプレックスとはむしろ「引き起こされなければならないもの」といえるのです。

神経症圏と精神病圏の鑑別診断

なお、このように神経症圏と精神病圏を区別することは精神分析の臨床上も極めて実際的な問題となります。例えば精神病圏者に自由連想を施して解釈を投与した場合、父の名の参照エラーが生じ精神病的症状が発症してしまう危険があると言われており、このため通常は分析の前段階の予備面接において、精神病圏と神経症圏の鑑別診断が実施されるわけです。

ただ、誤解しないで頂きたいのは、決して精神病圏の人が神経症圏の人に比べ「劣っている」という意味ではない、ということなんですよ。これらの精神構造の相違は「優劣」ではなく、あくまでも「個性」として理解すべきものだということです。このことはどれだけ強調しても、決してし過ぎることはないでしょう。

こうしてみると、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスは「あれかこれか」という二項対立的な関係に立つものではないことが明らかになります。では両者はどのような関係に立つのでしょうか?

(後編に続きます)

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)

【関連】

精神病圏における〈父の名〉の排除、あるいは3月のライオン: かぐらかのん

「叱ってはいけない、褒めてもいけない」というキャッチコピーの功罪: かぐらかのん

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posted by かがみ at 01:30 | 心理療法

2016年10月01日

しあわせ・享楽・対象 a

最近、オキシトシンという神経伝達物質が「幸せホルモン」とか「愛情ホルモン」などと呼ばれて、脚光を浴びるようになりました。

かつてはもっぱら分娩時の子宮収縮薬や陣痛促進剤などが主な用途だったんですが、近年の研究において心筋梗塞の予防、降圧作用、肥満防止や睡眠の質などの体の様々な領域に深く関係することがわかりまして、さらに不安やストレスを緩和させ人間関係に積極的になったり寛容になったりするといった精神に対する作用も認められるようになります。

オキシトシンの点鼻薬投与により、従来から根本的治療がないとされていたアスペルガー症候群などの自閉症スペクトラム障害(ASD)の症状改善が認められたという話題も耳新しいでしょう。

自閉症に効くオキシトシン、使用量増が症状改善 福井大:朝日新聞デジタル

母子の絆の「愛情ホルモン」が自閉症の治療に コミュニケーション力を高める効果に期待 : J-CASTヘルスケア

そもそも、オキシトシンというのは9種のアミノ酸がつながった構造のペプチドホルモンで、下垂体後葉部から分泌され、ドーパミンやセロトニンの調整を担う物質でして、授乳時に大量に分泌されることは古くから知られており、昔はもっぱら母親になった時に初めて分泌されるホルモンだとか思われていたんですね。

ところが90年代半ばからは脳内での働きについての研究が進み、オキシトシンは性別や年齢に関係なく分泌されることが判明しました。親しい相手とのスキンシップといった物理的接触、さらには、例えば優しい言葉、温かいまなざし、あるいは誰かに対する親切心、そういう精神的な触れ合いによっても、オキシトシンは分泌されることがわかった。



それでね、ふと思ったんですが、これって完全にラカンでいう「対象 a 」なんですよね。つまり、ラカン派の精神分析で言う所の「享楽」の正体ってオキシトシンなんじゃないのかなって。

説明します。まず「享楽」というのは、まあ定義的にはいろいろあるんですけど、すごく端的に言えば、胎児期、乳児期における母子が渾然一体となった「求めるだけ与えられる」という万能感に満たされた欠如なき完全円満な世界のことです。

胎児は出産、離乳といった母子分離のイベント(ラカン的にいうと「疎外と分離」)を通じて、この始めの享楽を漸進的に失っていく。そして結局、始めの享楽の残滓ともいうべき欠片だけが僅かに残るのみとなってしまう。

この欠片こそが、あの名高きラカンの「対象 a 」でして、こうして人は、言語の獲得(ラカン的にいうと「象徴界への参入」)と引き換えに始めの享楽を失い、以後の人生に於いては、対象 a を通じて得られる僅かな享楽(より正確には「ファルス的享楽」)を求めて、終わり無き反復運動に終生を費やすことになる。ラカンはこれを称して「欲望」といい、対象 a は「欲望の原因」と呼ばれるわけです。

ある物がある人にとって「それを得る事で僅かでも享楽を回復できるだろうと信じるもの」であれば、なんでもそれは対象 a になります。従って、何が対象 a になるかは人それぞれとしか言いようがないですが、ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは4つ。「乳房、糞便、声、まなざし」です。

この中で糞便というのは一見、異様ですが、排泄物は子どもの母親への最初の贈り物と言われており、他人に対し、優しく親切にするっていう原初的な感情に他ならない。お判りでしょうか?対象 a はオキシトシンの分泌条件と完全に重なっているわけです。

こうして、対象 a を通じて得られる享楽の正体とはまさしく、オキシトシンではないかという仮説が得られることになります。両者ともに最も高まるのはオルガズムの時であるとされるのもやはり強力な傍証たりうるでしょう。

オキシトシンが幸せホルモンとして注目され始める30年以上も前に享楽や対象 a の概念を提唱したラカンの慧眼にはただ脱帽するしかないですね。オキシトシン生成という神経科学の観点から、精神分析はもちろん諸般の心理療法の理論や技法を捉え直すことは面白い試みだと思ったりもするんですが如何でしょうか?と最近、思うんですよね。

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posted by かがみ at 02:22 | 心理療法