【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2019年08月31日

「ドゥルーズの世紀」におけるラカン派精神分析



* 理想・虚構・症状

精神分析を想像界・象徴界・現実界からなる独創的なシステムとして再発明した事で知られるフランスの精神分析医、ジャック・ラカンの名前はその難解な著作、晦渋な語り口と共に「ラカン対ラカン」という言葉があるように晩年に至るまで絶えず自らの理論を更新し続けた事でも知られています。

こうしたラカン理論の変遷を跡づけていく営みからは、単なる学説史研究に止まらない、社会のあり方、あるいは個人の生き方を論じる上で有益な理論装置を生み出す事ができるのではないでしょうか。

この点につき、精神病理学者の松本卓也氏はこうしたラカン理論の変遷をミシェル・フーコーの権力装置論やジル・ドゥルーズの制御社会論と連携させて、様々な社会統制のメカニズムを考察していく議論を展開しています。

以下では松本氏の議論を参照枠としていわゆる「享楽社会」の病理と倫理に関する多少の整理を行ってみたいと思います。

まず、50年代から70年代の間のラカン理論の変遷を〈父の名〉という概念を中心として(図式的になる事を承知であえて)示すとすれば、以下のようになります。

⑴ 50年代のラカン理論〜理想としての〈父〉

1950年代のラカンは精神分析に構造主義的言語学の考え方を導入し、神経症と精神病を鮮明に鑑別する手法をもたらしました。

当時、英米圏の精神分析臨床において大きな影響力を持っていたメラニー・クラインの理論によれば、全ての主体は原初的対象関係として「妄想分裂ポジション」と「抑鬱ポジション」からなる二つのポジションを抱え込んでおり、症状とはこの二つのポジションの様々な形での発現あるいは遷移の結果に他ならないとされる。従ってクライン派の理論によればある分析主体はある時は神経症的であり、ある時は精神病的であるということになります。

これに対して、ラカンは人間は神経症、精神病、倒錯という三つの構造のどれかに属し、これら構造の間には移行領域や中間形態は無いというラディカルな主体構造論を打ち出します。なぜならばこの三つの構造はそれぞれ抑圧、排除、否認という互いに区別される三つの否定メカニズムによって構造化されているからです。

ここでラカンが主体構造を鑑別するためのメルクマールとして持ち出すのは、主体にとっての「〈他者〉=象徴界」を統御するシニフィアンである「〈父の名〉(le Nom-du-Pe’re)」です。こうして50年代のラカン理論においては〈父の名〉によって象徴界が統御されている者は神経症であり〈父の名〉が排除されている者は精神病であるとされました。

こうした〈父の名〉が主体から排除されているかどうかは臨床的には「シニフィアン」と「隠喩」という二つの方向性から捉える事が可能です。すなわち⑴〈父の名〉の排除の証拠となる「要素現象」の有無と、⑵〈父の名〉の排除を間接的に示す「ファリックな意味作用」の成立の有無です。

この二つは1958年に発表された論文「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題」におけるシェーマIの二つの穴「P0(〈父の名〉の不在の効果)」と「Φ0(ファリックな意味作用の不在の効果)」に概ね対応します。50年代のラカン理論は臨床的に最も鋭くパラノイア(妄想型統合失調症)を鑑別できる理論と言われます。

⑵ 60年代のラカン理論〜虚構としての〈父〉

このように1950年代のラカン理論において、少なくとも「前提的問題」までは〈他者〉を根拠づける「〈他者〉の〈他者〉=〈父の名〉」を中心にその理論が構築されていました。

ところが1950年代終わりのセミネール6「欲望とその解釈(1958〜1959)」において、ラカンは「〈他者〉の〈他者〉はない」と言い出します。

つまりここでは精神病、神経症問わず〈父の名〉は排除されており〈他者〉はいかなる根拠も持たず、そこには単に「欠如のシニフィアン=S(Ⱥ)」が存在するだけであるということです。

こうした観点からは神経症者は本来存在しない〈父の名〉なる虚構を信じるようペテンにかけられた主体で、逆に精神病者はこうした「父性の欺瞞」を受け入れていない主体ということになります。

現代ラカン派で言われる「排除の一般化」すなわち「父性隠喩は社会的に共有された妄想性隠喩にすぎない」という考えは、この1959年におけるラカンの議論を引き継ぐものです。

こうして60年代のラカンはシニフィアンに還元不能なものとして「享楽」の側面を重視するようになります。

60年代のラカン理論からは享楽の回帰モードからパラノイアとスキゾスレニー(主として破瓜型統合失調症)が鑑別可能となります。すなわち、両者はともに精神病ではありますが、パラノイアでは享楽が「〈他者〉それ自体の場」に見出されるのに対してスキゾフレニーでは享楽は「身体全域」に回帰するという違いがあるということです。

⑶ 70年代のラカン理論〜症状としての〈父〉

このように、50年代ラカンが主としてシニフィアンの領域で神経症と精神病の鑑別を行い、60年代ラカンが主として享楽の領域でこれを行なっていたとすれば、70年代ラカンはこの2つの領域を統合的に論じるようになります。

これに伴って症状は従来のように象徴的意味の側面からではなく現実的享楽の側面から「サントーム」として捉え直されます。

もはや〈父の名〉とはこのサントームの一形式に過ぎず、神経症と精神病の違いとはサントームの形式の違いに過ぎないことになる。すなわち、サントーム概念の導入は、ある意味で神経症と精神病の境界線を消し去ってしまうわけです。


* 君主権・規律権力・安全装置

このようにラカンの中で〈父の名〉というものは年代を経るごとに順調に衰退していくわけですが、こうしたラカン理論の変遷はフーコーの権力装置論と興味深い符号を示しています。

⑴ アルカイックの時代(中世)における君主権

アルカイックの時代(中世)においては、君主が処罰権を独占しており、民衆は犯罪と刑罰の決定に関わることはできなかった。これは50年代ラカン理論に対応する「現前する父が支配する社会」です。

⑵ モダンの時代(近代)における規律権力

モダンの時代(近代)においては、刑務所の中で強制的な訓練・労働を行わせることで犯罪者を法に従属する主体への矯正しようとする規律権力が作動します。この点、モダンにおける権力装置は、それを司る君主はすでに不在であるものの、人々がその空白の中に、権力のまなざしを想定することによって機能する。これは60年代ラカン理論に対応する「不在の父が機能する社会」です。

⑶ コンテンポラリーの時代(現代)における安全装置

コンテンポラリーの時代(現代)においてもモダンの時代の原理である規律権力は維持されています。しかし現代ではそれとは別に「どのような地域でどのような犯罪が多いのか」「どのような刑罰システムを用いれば犯罪の発生率を抑えることができるのか」といった統計学的平均値により集団を制御する権力装置が作動する。これを安全装置といいます。これは70年代ラカン理論に対応する「もはや父とは無関係に作動する社会」です。


* 制御社会/享楽社会の病理

そしてドゥルーズはフーコーのいう安全装置が稼働する社会を「制御社会」といいます。この制御社会においてはかつての規律社会の様に大衆を刑罰の脅しによって従属させるのではなく、人々の生活に24時間恒常的に介入し、その行動を管理するような形で権力は行使されます。

ドゥルーズがいう規律社会から制御社会への移行とは、ラカン派の観点から言えば「享楽を殺す社会」から「享楽を生かす社会」への移行に他なりません。こうした制御社会/享楽社会の特徴として以下の点が挙げられます。

⑴ 享楽のデフレーション

ラカンは当初「享楽」とは本来的には到達不可能なものであり、人は「対象 a 」を通じて辛うじて部分的侵犯が可能であると捉えていました。ところが70年代以降の消費化情報化社会の進行は享楽の性質に変容をもたらします。端的に言えば享楽の規制緩和、あるいはデフレーションです。

享楽とはもはや「禁じられた遊び」ではなく「押し売られる商品」へと変質していく。こうして「享楽せよ!」という超自我が支配する社会が到来し、我々は溢れんばかりの対象 a の洪水の中、その日暮らしの終わりなき転調を踊らされ続ける羽目になる。

現代ラカン派の中で次第に「アディクション(依存症)」が注目されるようになってきたのはこのような文脈においてです。摂食障害、薬物依存といった広義の依存症において観察される特徴はまさしく享楽社会の病理そのものです。

⑵ サーフィン化する社会

ドゥルーズによれば、かつての社会における生き方が「砲丸投げ」のようなスポーツだとすれば、現代社会における生き方は「サーフィン」のようなスポーツであるといいます。要するに現代社会においては「主体とは何か」「症状とは何か」「自由とは何か」「生きるとは何か」という「起源」や「到達」に関する問いが蔑ろにされ、ただとにかく目の前にある波をスマートに乗りこなしていくことこそが最も重要になっているということです。

もっとも、ドゥルーズ自身はこうした「サーフィン化する社会」を肯定的に捉えます。要するに、全ては起源も到達もない中間的なもの、存在の間、間奏曲であり、その中で何が起こっているのかこそが問われるべきであるということです。

このような「サーフィン化する社会」は我々に絶え間なく変化する市場の波の中で、常にフレキシブルにセルフマネジメントし続けることを要求します。こうした社会のあり方と近年における自閉症スペクトラム障害ないし発達障害への注目はもちろん無関係ではないわけです。

⑶ 「鉄の秩序」と「統計学的超自我」

享楽社会の3つ目の特徴はまさしく〈父なるもの〉の回帰に関するものです。この点についてもドゥルーズは「父親の回帰以外に危険など存在しない」と指摘しています。

「〈父の名〉の衰退」とは具体的には〈父の名〉の機能が「命名」から「指名」に取って代わられることです。「命名」は、主体に文字通り「それ以外ではない」という絶対的な「名」を与える隠喩的機能を持ちますが、「指名」は、進学、就職、結婚というようなライフイベントによってどんどん横滑りしていく換喩的機能しか持ちません。

こうして象徴界から排除された〈父の名〉はラカンのいう「鉄の秩序」として現実界に回帰します。〈父の名〉は「それは正しくないからダメだ」という「否」を通じて主体を包摂する「法」ですが、「鉄の秩序」は「とにかくダメだからダメだ」という「否」を羅列して主体を排除する単なる「禁止」です。

ECF(フロイト大義派)の精神分析家、マリー=エレーヌ・ブルースはこのような「鉄の秩序」からなる統制を「統計学的超自我」と呼びます。〈父の名〉は諸々の統計データに基づく規範として回帰し、主体はそのガウス分布の中央値に過剰なまでの象徴的同一化を果たそうとする。現代ラカン派がいう「ふつうの精神病」とはこうした〈父の名〉の機能不全から生じる病理に他なりません。


* それでも享楽しかない

こうして享楽は押し売られる商品となり、〈父〉とはもはやデータの番人に過ぎなくなった。この意味で現代とはかつてフーコーが予言したように「ドゥルーズの世紀」となったわけです。では、こうした享楽社会の中で人が人たりうるための抵抗の拠点、成熟のメカニズムはどこに見出せるのでしょうか?

その答えはある意味でシンプルです。ジャック・アラン・ミレールが言うように、享楽社会における抵抗の拠点はむしろ「享楽しかない」ということです。

これはもちろん享楽社会に対する開き直りではありません。むしろ50〜70年代のラカン理論を反復するかの如き迂路を通り抜けたうえでの「享楽しかない」です。

すなわち、まずはとにかく「必ず享楽はある」という希望と「決して享楽はない」という絶望を正しく相転移させて、そしてその上でなお「それでも享楽しかない」という絶対的差異へ向かう欲望を自らのものにできるのか。「享楽しかない」とはまさにこのプロセスが問われているわけです。

こうして享楽社会を生きる上での倫理とは、まさしく享楽に対して享楽をもって抗うという態度に他ならないという事になります。そしてそれはむしろスマートとは程遠い、曲がりくねったでこぼこ道を泥だらけになりながら歩いていく中にこそあるのでしょう。


参考文献:『Library.iichiko 140-ラカンの剰余享楽/サントーム』113頁〜「享楽社会とは何か?(松本卓也)」


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2019年07月29日

宮廷愛とセカイ系




* 不可能なものとしての宮廷愛

宮廷愛とは12世紀ヨーロッパに起源を持つ詩歌の一つのジャンルのなかで歌われる愛の形式をいいます。だいたいの特徴として、さる高貴な既婚女性を対象として、その愛は騎士道的な愛で、対象たる女性への肉体的接触は一切断念されている点があります。

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンはセミネール7「精神分析の倫理(1959〜1960)」の中で宮廷愛を精神分析における「昇華」の形式の一つに位置付けています。

心理学でいう一般的意味の昇華は「実現不可能な欲求を別の社会的に望ましい行為を通じて実現すること」などと定義されますが、ここでラカンが言う「昇華」とは「ある任意の対象を〈もの〉の尊厳まで引き上げる営為」を指しています。

〈もの〉というのは、外界からの刺激を受けた心的装置がその翻訳過程で決定的に取り逃がした部分です。つまりシニフィアンよって象徴化不能な何かが〈もの〉として現実界の境域を構成します。

心的装置.png


象徴界における法の導入は〈もの〉への接近を禁止しますが、むしろ法の導入とは人が〈もの〉への接近不可能であるがゆえに要請されるものです。法の導入により、その法さえ侵犯すれば禁じられた〈もの〉という桃源郷に到達できるのではないかという錯覚が可能となるからです。ここに人は快楽原則の彼岸としての「享楽」を想定します。

つまり「昇華」とは〈もの〉への到達不可能性を「芸術」や「愛」などといった何やら尊いものへと高揚せんとする創造的営みであり、ここでいう宮廷愛とは、ある女性との想像的関係を〈もの〉という現実的極限として見立てているわけです。

もっともその後、ラカンは「対象 a 」という概念を駆使して現実界へのより能動的なコミットメントを試みます。こうした理論的変遷に伴い宮廷愛の位置付けも変化することになります。


* 享楽・不安・欲望

「対象 a 」が全面的に導入されたのがセミネール10「不安(1962〜1963)」です。このセミネールにおいては「享楽・不安・欲望」の三つ組が取り上げられます。

不安の三つ組.png

原初の神話的段階においては欠如なき享楽の主体(S)と、これまた欠如なき〈他者〉(A)が想定されます。こうした「享楽」の段階と「欲望」の段階の中間項に「不安」が位置付けられます。

この点、フロイトは前期においては「抑圧が不安を生み出す」と述べていますが、後期に至っては「不安が抑圧を生み出す」と立場を翻しています。これがいわゆる不安信号説です。この立場からすると不安とはエディプス・コンプレックス以前のものであるということになります。セミネール「不安」におけるラカンの解釈もこの後期フロイト理論に依拠したものです。

ラカンは「不安に対象がないわけではない」といいます。つまり不安とは一般的な意味での対象はないけれど、ある特殊なものを対象としているということです。

ここで「不安の対象」となるのが〈他者〉の欠如(Ⱥ)に相当する( a )です。すなわち、シニフィアンによって象徴化不能な何かはここでは対象、つまり「対象 a 」として把握されることになります。

この対象 a が充溢して作用する時、主体は「欠如の欠如」というべき、よるべなき事態に直面することになります。これがラカンのいう「不安」です。端的に言えば「世界中どこにもお前の居場所など無い」ということです。

そこでこうした不安を逃れる為、主体はどうにか対象 a を切り出して、その間に幻想($♢a)を作りだします。この幻想を支えとして主体は欲望の主体($)となります。

つまり欲望の根本には〈他者〉の欠如を見出すことで、この世界における自分の居場所を獲得するという幻想が働いている。このように対象 a は「欲望の原因」として機能します。しかしこのような主体の幻想は所詮文字通りの幻想なのでその幻想が破綻した時、まさに不安が現前化してくるわけです。

こうした対象 a の機能をめぐる議論は後年、一つの定式として示されることになります。これが「性別化の式」です。


* 性別化の式(男性側の式)

ラカンはセミネール20「アンコール(1972〜1973)」において「性別化の式」を完成させます。ここで、男性側の式は以下のように定式化されています。

性別化の式.png



⑴ 「全ての男性はファルス関数に従う(∀xΦx)」

「全ての男性はファルス関数に従う(∀xΦx)」とは「普遍」に関する命題になります(普遍肯定命題)。

「∀x」とは「全てのxは〜である」という量化記号であり「Φx」とは「xはファルス関数に従う」ことを示しています。

ここで「ファルス関数」というよくわからない言葉が登場しますが、これは絶対的享楽を禁止する「欠如」を創設する機能であり「象徴的去勢」「言語による疎外」に相当するものです。

つまり(精神分析的意味での)男性は完全にファルス関数によって定義されることになります。結果「〈他〉なる性としての女性」はフェティッシュとしての対象 a という部分対象へと還元され、男性の享楽は畢竟、自分自身の身体器官を享楽しているに過ぎない倒錯的享楽となります。これを「ファルス享楽($→a)」といいます。

このように男性はファルス関数に完全に定義されることにより、対象 a を超えて「〈他〉なる性」としての「La femme−女性なるもの」へ到達することは不可能となります。こうした状態を表した後期ラカンの有名なテーゼが「女性なるものは存在しない」「性関係は存在しない」ということになります。

そこで男性はこのようなアポリアから逃れる為、この世界の何処かには絶対的享楽が存在するという「例外」の幻想を作り上げることになります(〈他なる〉享楽の想定)。すなわち「普遍」の側から「例外」を夢想するということです。


⑵ 「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する(∃xΦx)」

「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する(∃xΦx)」とは「例外」に関する命題です(個別否定命題)。

「∃x」とは「少なくとも一人のxが存在する」ということであり、「Φx」とは「xはファルス関数に従わない」ことを示しています。

ここで示されているのは、ファルス関数に従属しない例外的男性が少なくとも一人存在し、この例外者だけはファルス享楽ではない絶対的享楽を得ているということです。

こうして男性側の論理式は外在する「例外」が「普遍」を安定化させるという論理となります。これはすべてのxをΦで拘束するにはΦに拘束されていないxが外部に一つあればいいという論理です。

いわゆる古典的ラカン理論は男性側の式に収められます。例えば「主人のディスクール」との関係で言えば「S2」は「∀xΦx(普遍)」に「S1」は「∃xΦx(例外)」がそれぞれ対応するでしょう。


* 例外としての「La femme−女性なるもの」

ここで「例外」として機能する典型例はフロイトの論文「トーテムとタブー」に登場する原始部族社会の部族長=原父のごとき全ての女性を独占的に享楽する存在です。しかし男性にとって「例外」として機能するのは何も原父だけではありません。宮廷愛における「La femme−女性なるもの」も「〈父〉のバージョン違い(version du Pe’re)」として機能します。

「アンコール」においてラカンは宮廷愛を再度取り上げています。先に述べたように「精神分析の倫理」の中でラカンは宮廷愛を対象を〈もの〉の尊厳まで引き上げるという「昇華」の形式の一つに位置付けていました。これに対して「アンコール」における宮廷愛は「性関係はない」という真理の隠蔽装置として機能しているという位置付けになります。

すなわち、ある任意の対象との間にあえて障壁を置くことで「La femme」への接近不可能性という問題を「その障壁さえなければいいのに」という禁止の問題に置き換えて、その禁止の向こう側にありもしない「La femme」を想定することを可能にしているわけです。


* 現代の宮廷愛としてのセカイ系

こうした宮廷愛は12世紀ヨーロッパに限らず、現代でもありふれた物語として現れます。例えば「セカイ系」という想像力は現代における宮廷愛の一つの様式と言えるでしょう。

「セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。典型的なセカイ系作品として「最終兵器彼女(2000)」「イリヤの空、UFOの夏(2001)」「ほしのこえ(2002)」などが挙げられます。

セカイ系という言葉は当初、インターネット掲示板界隈の議論の中で過剰な自意識語りが激しい作品を揶揄的に指していましたが、のちにセカイ系作品群が文芸批評の分野で取り上げられるようになるにつれて、定義が以下のように構造化されることになります。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」

ややこしい定義ですが、これは要するに「ヒロインからの承認(想像的関係)」が「社会的承認(象徴的秩序)」を通り越し「世界からの承認(現実的極限)」まで格上げされている状態を言っているわけです。


* 「世界か少女か」

このようにセカイ系作品においては想像的関係と現実的極限の直結という特異的構造から、その末路は多くの場合、宮廷愛の様相を帯びてきます。こうした不可能性はしばし物語の中で「世界か少女か」というセカイ系二択として現れます。

例えば「ほしのこえ」を手がけた新海誠監督初の長編アニメーション映画である「雲のむこう、約束の場所(2004)」という作品では、ヒロインの沢渡佐由理は南北に分断された世界の命運を握る「塔」の抑制装置として夢の世界に閉じ込められている。

ここで佐由理の目覚めは世界の滅亡と同義であるというセカイ系二択が示されます。

この点、主人公の藤沢浩紀は南北開戦の間隙を縫って、自作飛行機ヴェラシーラで佐由理との「約束の場所」である「塔」へと飛び、佐由理を夢の世界から連れ戻すと同時に「塔」をPL外殻爆弾で破壊する。

けれども佐由理は目が覚めると夢の世界で抱いていた浩紀への想いも全て忘れてしまっていた。要するに、浩紀は世界を救った代償として佐由理のセカイを救えなかったということです。


* セカイ系という処方箋

こうしたセカイ系作品が一斉を風靡した背景には当時の時代状況というものを考えるべきでしょう。90年代後半からゼロ年代初頭という時期、就職氷河期は長期化し、戦後日本を曲がりなりにも支えていた終身雇用や年功序列といった昭和的ロールモデルも破綻の兆しを見せ始めていた。

これはいわば「父になる」というひとつの幻想の破綻です。すなわち、セカイ系とはある意味で「世界の命運を左右する少女」という「例外」を仮構する物語によって、様々な不遇により父になり損なった人達の男性式における「普遍」と「例外」の論理を救済しようとした試みとも言えます。

時としてオタク的想像力とか引きこもり的想像力などと言われるセカイ系ですが、こうした時代の急性期を乗り切る処方箋としての側面があった事は確かであり、その功績は決して否定できないと思います。


* もはや「世界か少女か」ではない

ただ一方で、セカイ系の示す「世界か少女か」という二択がいまや完全に陳腐化した事もまた疑いのない事実です。今月公開された新海監督の最新作「天気の子」はこうしたセカイ系構造の更新が多分に意識されています。

すなわち、もはや問題は「世界か少女か」などという白か黒かの青臭い二択ではないということです。「天気の子」が問うのは、端的に人ひとり救うために世界を「部分的に」壊すという決断を我々は倫理の問題として「どの程度まで」受け入れるべきかという極めて現実的な問いです。

世界は狂っている。これはある意味で現代の現実そのものでしょう。グローバリズムとネットワークの拡大で世界は次々と接続され続け、貧困の不安や暴力の脅威が絶えず日常に紛れて混んでくる。けれどもそれでも我々はこの狂った世界の中でそれぞれの信じるセカイを主体的な選択として引き受けて生きて行くしかないんです。

「天気の子」という作品は「いま」という時代の気分を描き出すと同時に、かつてのセカイ系的なものを正しく葬送したと言えるでしょう。つまり端的に言えば、もはや呑気に宮廷愛などやっている場合ではないという事です。





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2019年06月30日

鏡像段階の遁走曲



* stade du miroir

鏡像段階(stade du miroir)の概念は、私が13年前のこの学会で紹介したものですが、それ以来この概念はフランス語圏のグループでは多少とも慣用のものとなってきていますので、ここで再びそれに注意を向けていただくのも無駄ではないと思われました。今日はとりわけ、精神分析がわれわれにあたえる経験のなかでこの鏡像段階が〈わたし〉の機能について明らかにしているところを考えてみたいと思います。(E93)


生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は鏡に映った自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せる。このような子どもの発達過程をフランスの精神分析医、ジャック・ラカンは鏡像段階と名付けました。

ラカンという名前は難解な著作や晦渋な語り口といった悪名と共に、精神分析を想像界・象徴界・現実界からなる独創的なシステムとして再発明した業績で知られています。鏡像段階理論はその出発点とも言える概念です。

鏡像段階理論が初めて世に問われたのは1936年、マリエンバードで行われた国際精神分析学会でした。もっともこの時のラカンの発表は制限時間を大幅にオーバーし、座長のアーネスト・ジョーンズの介入により中止の憂き目を見る。

この仕打ちにぶち切れたラカンが発表原稿を学会に提出しなかった為、最初の鏡像段階理論がどういうものだったのか今となってはよくわかりません。今日よく知られている鏡像段階理論とは1949年、チューリッヒで行われた国際精神分析学会での発表「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」以降のものです。


* イマーゴとしての鏡像段階 

鏡像段階は「身体」や「自我」と言ったイメージ、つまり想像界の起源となります。

生後しばらくの間、乳幼児は脳や脊髄などの中枢神経系統が未発達であるため、目や口や耳などの感覚器官から得られる身体興奮の束からなる「寸断された身体像」の中に生きています。

この点、発達心理学における一般的理解によれば、子どもは中枢神経系統の発達過程の何処かで「統合的な身体像=身体」を獲得すると言われます。ところがラカンは、こうした中枢神経系統の発達以前に、既に子どもは自身の「身体」を視覚的イメージとして先取りしていると主張します。

こうした視覚的イメージ化を助けるためのメディアの一つとして「鏡」があるわけです。もっとも鏡に映された自身の鏡像は反転した自分であり、いわば自分そのものではない「他者」と言える存在です。

つまり、鏡というのはあくまで一つの媒体であり、より本質的に言えば子どもは他者のイメージの中に自身の「身体」を発見しこれに同一化を試みているということです。

こうしたイメージ形成作用を「イマーゴ」といいます。ラカンはイマーゴの果たす作用を動物行動学から例証しています。例えば、ハトの生殖腺は雄雌を問わず同類のハトのイメージを見せることで成熟すると言い、また、トビイナゴが孤棲型から群棲型への移行は、ある生育段階において類似のイメージを見ることで起きると言います。

そして、ラカンは鏡像段階をイマーゴの特殊なケースだといいます。人は鏡像イメージをキーとして、寸断された身体像の総和を超えたゲシュタルトを起動させる能力を種として備えているということです。

「自我」の起源もここにあります。こうして、子どもはその後も他者を自らの鏡像(理想自我)として二次的同一化を続けていきます。

すなわち自我とは同一化の集積体であり、玉ねぎの皮として例えられます。この同一化の反復運動は死ぬまで継続する。こうした外部のイメージを内化する操作をラカンは「疎外」と呼びます(狭義の疎外)。


* 鏡像段階とエディプス・コンプレックス

このように鏡像段階において子どもの中で「身体」と「自我」のイメージが起動するわけですが、同時に鏡像段階はある種の不協和をもたらします。

他者のイメージが自分のイメージであるというのであれば、逆に自分のイメージは他者のイメージであり、ここに他者との間で鏡像を奪い合う競合関係が生じる。これを「双数関係」といいます。

鏡像段階における自我は不安定なパラノイア的自我であり、自我の敵意が他者に投影され反転し、他者が自我に向ける敵意となってしまいます。幼児が他の子供を叩いておいて「あの子がぶった」などという転嫁現象はこうしたことに由来すると言われています。

こうして鏡像は愛の対象であると同時に憎しみの対象ともなるわけです。想像界は常に「お前か私か」の二者択一な不安定な世界です。かかる混乱を調停する役割を担うのが象徴的秩序を体現する第三者、すなわち〈他者〉です。

鏡像段階の子供にとって母親をはじめとした養育者は絶対的な〈他者〉です。こうした〈他者〉が鏡の前で「(象徴的に)これはあなたですよ」と承認することで、子どもははじめて鏡像を自らのイメージとして内化し、安定した自我を得ることができると言われます。

すなわち、鏡像段階とは想像界の起源ですが、あくまで象徴界によって統御されているという事です。換言すれば鏡像段階とはエディプス・コンプレックスの最初の段階となります。つまり鏡像とは〈他者〉の現前不在という原初的シニフィアン連鎖のシニフィエ(想像的ファルス)として機能するわけです。


* シェーマL

後年、鏡像段階理論をもとにした一つの図式が構築されます。いわゆるシェーマLです。この図式は自我(a)と鏡像(a’)を結ぶ想像的関係と、主体(S)と〈他者〉(A)を結ぶ象徴的関係により構成されてます。


L図.png


主体(S)に向けて〈他者〉(A)から発信される「充溢したパロール」は自我(a)と鏡像(a’)の間で交わされる「空虚なパロール」によって遮断されます。フロイト的な格言でいうと「自我が無意識的願望を抑圧する」ということになります。

こうした自我(a)と鏡像(a’)からなる想像的関係を整理することで、主体(S)は〈他者〉(A)から発信された「充溢したパロール」を受信可能となります。こうした作業により無意識は更新されていくわけです。


* 理想と対決するということ

このように鏡像段階は乳幼児の一時期の出来事ではありません。人は大人になってもどこかで鏡像段階の夢に囚われて生きています。

例えば我々は日々、他者に対して「あいつは口だけだ」「あいつは外面だけだ」「あいつは上から目線だ」「あいつはいい加減な奴だ」などとイライラした感情を覚えたりするわけです。

ではこうしたイライラはなぜ起きるのか?よくよく胸に手を当てて考えてみると、案外と自身の隠れた理想が反転した形であることが実に多かったりもします。我々はまさに自身の理想を他者に奪われているからこそ、双数関係的にイライラするわけです。

けれど、こうした感情はむしろ人として自然なことだと思います。何をやっても上手くいかない時はある。人はそんなに強くはできていないし、世の中努力は必ずしも報われない。「あいつさえいなければ」と、誰かを恨みつらむことでしか心の平衡を保てない時期もあるでしょう。

もちろんこれは本質的な解決ではありません。結局のところ、人は自らの理想と対決していかなければならない。

この点、想像界は象徴界によって統御されています。鏡像が示すのは確かに自らの理想ですが、その理想とは、あくまでその時の象徴的立ち位置(自我理想)から眺めた想像的イメージ(理想自我)に過ぎません。つまり自身の立ち位置を変える事で当然、理想のイメージは相対的に変わって来るわけです。

我々はある意味で鏡の世界を生きています。他者という鏡像は道を照らす光にもなれば歩みを縛る鎖にもなる。重要なのは自らの理想の正しさを時には疑い、あるいは破棄し、更新していく営みであるということです。


主体から主体へという訴えを我々が維持するなかで、精神分析は患者を《これこそ君だ》というぎりぎりの限界まで伴っていくことができ、そこで彼の死すべき運命の暗号が示されるわけですが、しかし、本当の旅が始まるこの瞬間まで患者をみちびいていくのは、実地家としてのわれわれの力だけでは及ばないのであります。(E100)



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posted by かがみ at 01:06 | 心理療法

2019年05月30日

享楽の幻想と欲望の倫理



* 享楽のデフレーション

精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは人の中に内在する根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そして、フランスの精神分析医ジャック・ラカンはその欲動の満足状態を「享楽」と呼びました。

もっとも欲動はその性質上、完全な「満足」ということはあり得ません。もしもあるとすれば、欲動がその活動を完全に停止した時だけでしょう。それゆえに欲動の本質は「死の欲動」であり、享楽とは不可能だからこそ甘美なまでに破滅的なのです。

こうしてラカンのいう「享楽」とはそもそもの意味では「不可能」と同義でした。人の欲望や神経症、あるいは様々な芸術的創作やイノベーションはこうした「不可能」の関数として産み出されるわけです。

ところが1970年以降の消費化/情報化社会の進行は享楽の性質に変化をもたらします。それは端的に言えば享楽のデフレーションです。享楽とはもはや「禁じられた遊び」ではなく「押し売られる商品」へと変わっていきます。


* 〈もの〉の享楽から剰余享楽へ

ラカンがまず最初に想定したオリジナルの享楽は「〈もの〉の享楽」と呼ばれるものです。ラカンはセミネールZ「精神分析の倫理(1959〜1960)」において〈もの〉の概念を取り上げます。

〈もの〉とは、外界からの刺激を受けた心的装置がその翻訳過程で決定的に取り逃がした象徴化不能な何かです。

心的装置.png

心的装置に記録できるものはシニフィアンに変換可能なものだけです。こうしてシニフィアンから〈もの〉が切り離させる事で「欲望」が構成されます。目前のシニフィアンの壁さえ乗り越えればそこには快楽原理の彼岸という桃源郷があるのではないかというファンタジーが生じるからです。

その後、ラカンはシニフィアンの間隙を縫って出現してくる〈もの〉のごとき断片を「対象 a 」という概念で捉えるようになります。そしてセミネールⅪ「精神分析の四基本概念(1964)」においては「疎外と分離」の図式により、シニフィアンの枠組みの中での対象 a の位置が明らかになります。

疎外と分離.png

けれども、ここでも享楽とはあくまで〈もの〉の側にあり、シニフィアンの世界からは対象 a を通じて辛うじて「侵犯」することができるものとして捉えられていました。

ところが、ラカンは1960年代後半から、ディスクールの理論を導入する事で、享楽とはむしろシニフィアンという装置により「生産」されるものとして捉えます。

すなわち、シニフィアンの導入は、主体に〈もの〉の享楽を禁止すると同時に、新たな別の享楽の可能性を与えることになります。この別の享楽を「剰余享楽」といいます。


* plus-de-jouirの二面性

セミネールXVI「ある〈他者〉から他者へ(1968〜1969)」において、ラカンはカール・マルクスの剰余価値説の読解を通じ、剰余享楽の概念を導きだします。

マルクスによれば、一つの商品に使用価値と交換価値という二つの価値があります。使用価値は例えば小麦を焼いてパンにして食べるような時に問題となります。他方で交換価値はその小麦を布地と交換するような時に問題になります。

ここで一定の小麦=一定の布地の交換が成り立つのは、両者の労働量が等価とみなされるからです。この労働量を具体的/一般的に表したものが貨幣です。

ところで商品の中には特別の性質を有するものがある。それは「労働力」という商品です。

資本家は貨幣と交換で労働力を購入します。労働力を使用すると労働量になります。そしてなぜか労働力の使用価値は交換価値以上の労働量を生み出すことができます。

つまりここに使用価値と交換価値のギャップが発生します。このギャップが「剰余価値」です。これが資本家にとっては利益となり労働者にとっては搾取となります。

ラカンは以上のマルクスの論理をシニフィアンの論理に当てはめ、剰余価値ならぬ剰余享楽と呼ぶものを導き出します。

つまり、人はある満足体験を使用価値(それ自体の反復)ではなく交換価値(シニフィアンの獲得)として使用することで、両者のギャップから剰余享楽が生まれるという論理です。

このように、我々はシニフィアンと関係し主体となった瞬間に「〈もの〉の享楽」を禁じられる同時に剰余享楽の可能性が与えられる。ラカンはその瞬間について「シニフィアンが享楽の装置として導入されるとき、エントロピーに関係する何かが出現する」と述べています。

つまり、剰余享楽(plus-de-jouir)には「喪失=もはや享楽しない(プリユ・ド・ジユイール)」と「回復=もっと享楽する(プリユス・ド・ジユイール)」の二つの側面があります。


* 4つのディスクール

剰余享楽の導入は、シニフィアンと享楽の関係を統合的に捉えることを可能とします。こうした新たな観点からセミネールXVII「精神分析の裏面(1969〜1970年)」において「4つのデイスクール」の理論が展開されます。主人のディスクール、大学のディスクール、ヒステリー者のディスクール、分析家のディスクールです。

4つのディスクール.png

主人のディスクールにおいては、主人(S1)が奴隷(S2)に労働させることで、剰余享楽( a )が産出され、欲望の主体($)が成立する。

大学のディスクールにおいては、教師(S2)が学生( a )を教導する事で、疎外の主体($)が産出され、主人(S1)が温存される。

ヒステリー者のディスクールにおいては、神経症者($)が主人(S1)を問い詰める事で、知(S2)が産出され、剰余享楽( a )が隠蔽される。

分析家のディスクールにおいては、分析家( a )が分析主体($)の発話の意味を切る事で、主体的差異を示すシニフィアン(S1)が産出され、知(S2)が想定される。

ディスクールの理論が示しているのは、ある社会的紐帯によって何が産み出され、結果、何が真理とされるのかという一つの構造です。これは1968年の5月革命における「構造は街頭に繰り出さない」というアジテーションに対するラカンからの反論でもあります。


* ジュイッサンスからエンジョイメントへ

そしてさらに1972年、ラカンは「新しい主人のディスクール」と言うべき「資本主義のディスクール」を提出します。

資本主義のディスクール.png

資本主義のディスクールにおいては主体と対象 a は遮蔽線ではなく実線で結ばれています。つまり、ここでは剰余享楽の「喪失」なき「回復」が生じていることになります。

高度に消費化/情報化された資本主義システムの下では、人々の要求は、速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解は新製品や新サービスとして次々と市場に供給されます。結果、人々は「もっと享楽できる/しなければならない」という歪んだ幻想を生きることになります。

資本主義のディスクールは人の欲望を搾取します。主体の要求が速やかに最適化されて満たされる以上、欲望の弁証法化が起きないからです。いうまでもなく欲望とは生のリアリティの根幹をなすものです。新型うつ病やパーソナリティ障害といった現代的病理はこうした文脈からも理解できるでしょう。

こうしていまや享楽は不可能なジュイッサンスから計量可能なエンジョイメントへと変容し、資本主義のディスクールに無自覚でいる限り、我々はただわけもわからず享楽させられる消費者として、資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。



* 〈幸福の原層/単純な至福〉を自在に見い出していくということ

ラカンは精神分析を「資本主義からの出口」として位置づけます。確かに分析家のディスクールは資本主義のディスクールと共通する特徴を一切持っていません。そして精神分析とは主体の絶対的差異を示す特異的/単独的享楽を目指す営みであり、そこには必然的に欲望の主体を奪還する契機が内在されています。

すなわち、資本主義のディスクールを内破する鍵は、分析家のディスクールの中にあります。

この点、ラカンは分析家のディスクールにおいて、分析家が対象 a の位置を占めることで、分析主体は構造の中における自らの位置を問い直すことが可能となるといいます。

構造の中における自らの位置を問い直す。こうした意味では、分析家のディスクールは精神分析の臨床そのものに限らず、その断片ならば日々の生活空間の至る所に現れてくるという言い方もできるでしょう。

例えば、社会学者の見田宗介氏は、現代において人が生のリアリティを獲得する上で重要なのは、経済成長による物理的富の増大以上に、物、他者、自然といった周囲の環境との交歓を通じた〈幸福の原層/単純な至福〉を自在に見い出していける「幸福感受性」であると言います。

ここでいう〈幸福の原層/単純な至福〉とは他ならぬ対象 a です。つまり、それこそありふれた日常の中に自らの特異的/単独的な瞬間である「いま、ここ」を見いだしていく「洗練された幸福の感性」こそが現代的な成熟観であり、幸せの在り処であるということです。

享楽のバーゲンセールの中で我々はせめて賢い消費者であらねばならない。そこで求められるのはまさに欲望に対して譲らないという倫理です。つまり問題は我々が構造の中における自らの位置をいかに自覚的に生きられるかどうかということになります。そこに気づくか気づかないかでパーソナルな現実と生のリアリティは全く違うものになるではないでしょうか。




享楽社会論: 現代ラカン派の展開
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posted by かがみ at 21:14 | 心理療法

2019年04月27日

「こころのおと」を紡ぎ出すということ



* ラカンは自閉症をどのように捉えていたか

フランスの精神科医、ジャック・ラカンはフロイトの精神分析理論を精神病の方面から読み直すことで独創的な理論体系を築き上げたことで知られています。ではラカンは「自閉症」についてはどのように考えていたのでしょうか?

アメリカの児童精神科医レオ・カナーの論文「早期幼児自閉症」が発表されておよそ10年後、ラカンは早くもセミネール1「フロイトの技法論(1954年)」において、現代であれば「自閉症」と診断されるであろう症例を取り上げています。いわゆる症例ディックと症例ロベールです。

ここでラカンは自閉症をスキゾフレニーに近縁の精神病的構造をもっていたと考えていたようです。例えば、ロベールが発する「狼!(loup!)」というシニフィアンは、精神病における幻聴のシニフィアンと同じような他のシニフィアンから切り離された「ひとつっきりのシニフィアン」として捉えることも可能です。

時代は下り、ラカンはセミネール11「精神分析の四基本概念(1964年)」の中でディックやロベールが用いていた上記のような言語使用の特徴を「オロフラーズ(一語文)」として把握する。

ラカンが言う「オロフラーズ」とは二つのシニフィアンS1とS2を分節化することなく凝集し、一つの塊として用いる語の使用です。例えばテンプル・グランディンの伝記映画では、彼女が出会う人に次々と「ワタシノナマエハテンプルグランディンデスハジメマシテ」と挨拶する場面があります。

また、シニフィアン連鎖のオロフラーズ化は、他人の言葉も一言文に凝集して理解してしまうので「空気を読む」といったコミュニケーション上の困難が生じます。

そして1970年代に入り、ラカンは「症状についてのジュネーヴでのシンポジウム(1975年)」という講演において「自閉症」という言葉をはじめて疾患の意味で使用しています。

ここでもやはりラカンは自閉症をスキゾフレニーと近縁のものとして捉えてはいますが、自閉症者に現れる諸現象を対象 a としての「声」という観点から新たに捉えようとも試みています。

この点、精神病者に生じる言語性幻覚(幻聴)は「声」を「外部の他者から到来したもの」として聞いているのに対して、自閉症者は「自分自身から来るもの」として聞いているわけです。

ここでラカンは自閉症における声が持つ自体性愛的な性格を指摘しています。つまり彼らにとって「声」とは〈他者〉との間のやり取りのために用いられるのではなく、その「声」を対象 a として自身の身体に保持し自閉的享楽を得るために用いているということです。

このように晩年のラカンは自閉症の特異性に気がついていた節はあるようです。しかし自閉症をもっぱら「シニフィアンの病理」という側面のみで捉えた時、それは原初的象徴化の失敗、疎外の拒絶に他ならず、この限りにおいては自閉症と精神病は同一圏内にある、ということになります。


* 現代ラカン派の自閉症論

こうしたことからラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきました。

ところが1980年代以降、テンプル・グランディンの『我、自閉症に生まれて』や、ドナ・ウィリアウズの『自閉症だった私へ』といった自閉症者の伝記出版が相次ぎ、自閉症者の内的世界が徐々にあきらかになります。

そしてラカン派内部でも、自閉症を「シニフィアンの病理」のみならず「享楽の病理」という側面から仔細な検討が加えられ、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」とエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって、自閉症は精神病から決定的に切り離されることになります。

こうしてゼロ年代後半、ジャン=クロード・マルヴァルの手により、現代ラカン派の自閉症論は体系化されることになります。マルヴァルの自閉症論の体系はドナ・ウィリアムスの次の言葉に集約されています。

これはふたつの闘いの物語である。ひとつは、「世の中」と呼ばれている「外の世界」から、私が身を守ろうとする闘い。もうひとつは、その反面なんとかそこに加わろうとする闘いである。

(自閉症だった私へ:24頁)


すなわち、自閉症者はシニフィアンや享楽から身を守りつつ〈他者〉との関係性を特異的な方法で創造しようと試みているということです。こうした営みをラカン派の理論体系から把握しようとした時「緑の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」の三つ組の概念が導き出されることになります。


⑴ 縁の上への享楽の回帰

自閉症者は原初的象徴化が上手くいっていない為、欠如という概念を持て余し、それはしばし「現実的な穴」として根源的不安を引き起こします。

これはいわゆる「ブラックホール体験」と呼ばれるものであり、享楽の観点から言えば、子供にとっての原初のトラウマ的シニフィアンであるララングの反復が生み出す「不定形の享楽」の侵襲として捉えられます。

そこで彼らは目や口や耳といった「縁取り構造」を持つ身体器官に殻を作り上げ、身体を襲う不定形の享楽をその中に閉じ込めようとするわけです。

例えばドナはしばし激しい「まばたき」を行っており、彼女曰くその反復運動は「物事のスピードを緩め、自分の周りのものを、自分からより遠ざかったものにするため」であったと言います。こうすることで「あたりがコマ送りの映画のようになって現実感が薄れるので、恐怖心もやわらぐ」とドナは語っています。

また「緑の構造」の例としては「声の保持」を挙げることができます。マルヴァルは自閉症者の言語使用は「声」という対象 a を〈他者〉に手渡そうとせず、むしろ保持しておこうとすることから帰結すると考えています。ロベールの例の「狼!」といったオロフラーズは「不定形の享楽」から身を守るための「一つの現実的穴に見合うシニフィアン」と言えますし、自閉症における場面緘黙はこうした観点から理解できるでしょう。

自閉症者にとって「縁」は、安心できる既知の世界と理解不能な混沌な世界(ブラックホール)を分割し、外的世界と関わるための基点となります。彼らはこの「縁」から出発し、より高次のコミュニケーションの可能性を拓いていくわけです。

⑵ 分身

自閉症者は言表行為の主体を持って応答すべき状況に置かれたときしばし混乱を伴います。このような状況の際に自閉症者を補助してくれる装置が自らの「分身」になります。

ドナは他者とのコミュニケーションを取ることが難しい時、ウィリー、キャロルといった自らの分身となる空想上の存在の助けを借りていました。分身はドナにとっては周りの子供たちよりずっと信頼でき、絶対的な安心感を得られる存在であったということです。

このような空想的(想像的)な存在との関係のあり方は精神病と自閉症では大きく異なっています。

精神病では想像界の増殖の結果、空想的(想像的)他者が現れます。けれども、その他者は主体を迫害する他者であったり、主体の享楽を強奪する他者であったりするわけです。このように精神病における他者への関係は双数的、決闘的な鏡像関係に支配された悪意に満ちたものになります。

これと反対に、自閉症における空想的(想像的)他者はむしろ自閉症者を助けてくれる補助的自我として機能することになります。

⑶ 合成〈他者〉

高機能自閉症やアスペルガー症候群の患者さんにおいては、幼児期に示した特異的な能力や極端なこだわりを高度なものに発展させていくという例がよく見られます。

自閉症者は、例えば時刻表、電話帳、カレンダーの丸暗記など、特異的な能力を持っていることがあります。こうした「島状に点在する能力」を次第に発展させていくことで、彼らなりの個人的な秩序が作りだされていきます。

断片的な「点」でしかなかった世界は、いつしか「線」となり、やがて「面」にもなる。

そして、このような自閉症者の能力の発展は時にイノベーションと呼ぶべき創造的効果を生じさせることがあります。

ここには自閉症圏における一般的な〈他者〉構造に依拠しない特異的な構造化を見いだすことができるでしょう。このようにして創り出された特異的な〈他者〉を「合成〈他者〉」と言います。


* 精神分析の彼岸としての「洗練された自閉症」

ともすれば自閉症圏の主体ははたから見れば自らの世界だけを生きているようにも見えるかもしれません。しかし、上記のドナの言葉にもあるように、その世界は決して閉じたものではない。

そこには、日常的に現れる底なしのブラックホールを自分なりの秩序で囲い込み、他者との間にとぎれとぎれに結びついていく試行錯誤があるということです。

こうした自閉症圏における「切断と再接続」の営みはラカンが精神分析の終結条件とした「症状とうまくやっていくこと」とはどういうことなのかを、もっとも鮮明な形で我々に教えてくれます。

自閉症に限らず人は誰しもその人固有の〈一者〉というべき自閉的な享楽を抱えています。つまり「症状とうまくやっていくこと」とは、こうした〈一者〉を一旦「切断」し、その上で〈他者〉と「再接続」することにより自由な社会的紐帯を紡ぎ出す「洗練された自閉症(ジャック・アラン・ミレール)」としての生き方に他なりません。

いわばラカンは精神分析を自閉症化する事でかつてフロイトが陥った「終わりなき分析」のアポリアを乗り越えたというべきでしょう。


* 「こころのおと」という〈一者〉

「発達障害のピアニスト」として知られる野田あすかさんは、22歳の時に短期留学先のウィーンで広汎性発達障害(自閉症スペクトラム障害)と診断されたのがきっかけで、小さい頃からずっとやってきたピアノを頑張ってみようと発達障害の持つ「明」の部分に賭ける決意をします。

この点、長い間、あすかさんにとってピアノはやらされるもの、譜面どおり弾かなければならないものでした。まさに「〈他者〉の欲望」のピアノです。

しかし、恩師となる田中幸子先生の出会いがあすかさんとピアノの関係を変え、ひいてはあすかさんの生き方自体を変えていきます。

田中先生の「あなたは、あなたの音のままでとても素敵よ。あなたは、あなたのままでいいのよ!」という言葉に導かれ、あすかさんは自らの中にある「こころのおと」に向き合うことでピアニストとしての才能を開花させます。

小さい頃は、コンクールに入賞するために、その曲にあった音色通りに引かなければと、自分をおさえるピアノをやるしかありませんでした。まねごとのピアノはつらかったです。

でも、田中先生に教えてもらうようになってからは、良くても悪くても自分の「こころのおと」を出せるようになって、ありのままの自分でいいと思えるようになりました。

(発達障害のピアニストからの手紙:168頁)


おそらく田中先生の言葉はあすかさんの「こころのおと」という〈一者〉をうまく刺し留めることができたのでしょう。

こうして自分の「こころのおと」を聴いてもらうことで皆に希望を与えていく新たな未来の可能性があすかさんの前に切り開かれてきたわけです。これはひとつの「切断と再接続」の営みではないでしょうか。

今、学校や職場で障害があることでつらい思いをしている方々に、

「きっとこれから先、いいことが待っている」

そう感じてもらえる演奏をするのが、私の理想です。

私は何もできませんが、でもあなたの心に希望は与えられます。言葉ではなくて、音で、みんなに思いを伝えられて、みんながしあわせになるピアノの音を出せる。そんなピアニストになるのが理想です。

(発達障害のピアニストからの手紙:181頁)






* 幸せの青い鳥はいつも「いま、ここ」にいる

近年、自閉症をはじめとした発達障害は「個性」という風潮もなきにしもあらずですが、障害自体はその人の「特異性」であり、それ以上でも以下でもありません。

その「特異性」を「個性」に昇華するためには、あくまで本人の努力と周囲の環境のめぐりあわせが必要になってくるわけです。

また、発達障害傾向があるものの診断名が付かない「発達障害グレーゾーン」の場合、発達障害という診断名がないだけに、ただただ「普通に空気が読めない人」「普通にミスが多い人」として周りから蔑まれ、自身を責め続けてしまう別の「生きづらさ」があるでしょう。

そもそも「定型発達」というものが本当に存在するのでしょうか?仮に「理想的な定型発達」のモデルがあって、そのモデルに寸分違わずぴったりな人がいたとしても、その人は果たして「生きづらさ」とは無縁の幸福な人生を送れるのでしょうか?

もとより発達過程は人それぞれであり、皆それぞれ何がしかの特異性を抱え込んでいるという意味では人は皆、発達障害と言えなくもないわけです。

何となく我々は自分は「普通」だと思い込んでいたりするわけですが、それはこれまでたまたま運良く環境に恵まれていただけかもしれません。

もしかして、ほんのちょっとした環境の変化でたちまち「生きづらさ」を感じる境遇に追い込まれる可能性だってあるわけです。そういう意味で、発達障害とは決して「どこか誰かの他人事」の話ではなく、我々の日常と地続きの問題でもあります。

新しい時代が始まります。生きていればいろいろと嫌なこと、不安なこと、大変なこともあるでしょう。けれども、外的な現実を懸命にやり抜きつつも、内的な現実との対話を重ねていく。そういった営みの積み重ねこそがまさに「生きていく」ということなんだと思います。

幸せの青い鳥は「ここではないどこか」はなく、いつも「いま、ここ」にいます。日々生起する困難とめぐりあわせの中で鳴り響く、自分だけの「こころのおと」にしっかりと耳を傾けて、この日常を生きていきましょうね。




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posted by かがみ at 22:15 | 心理療法