【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2018年10月31日

自己の修復とゼロ年代の想像力、あるいは「かがみの孤城」



* 鏡映・理想・双子

自己愛性パーソナリティ障害の研究で著名なアメリカの精神科医、ハインツ・コフートは、人が自らの「パーソナルな現実」を成らしめている源泉を「自己」といいます。

コフートによれば自己の中心(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」から二つの極から成り立つ構造を持っているという。

子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ、「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。

この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。

自己対象とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。

「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」という。「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」という。

こうした「自己対象」に恵まれなければ人は不安に満ちて傷つきやすく尊大な人間になってしまう。つまり健全な「自己」を確立するには「自己対象」の存在が必要不可欠ということになります。

さらに、コフートは晩年、鏡映自己対象・理想化自己対象とは別の第三の自己対象の存在を指摘する。これが「双子自己対象」と呼ばれるものです。

双子自己対象は、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ「私もあの人も同じ境遇の人間なんだ」と実感させてくれる自己対象です。

つまりコフートのいう、健全な「自己」とは、「鏡映自己対象」により「野心の極」が確立し、「理想化自己対象」により「理想の極」が確立し、「双子自己対象」によって「技倆と才能の中間領域」が活性化する事で成り立つものだといういうことである。

逆にいうと、これらの三極が機能不全に陥る事で「自己の断片化」が起こり、結果、数々の精神疾患が生じてくるということです。

つまり「病んだ心を治療する」という事は、治療者が患者の自己対象になる事で、患者の断片化した自己を修復し、再び構造化させると同時に、治療者以外の他者を自己対象として上手に依存していく術を学んで貰う過程に他ならない。

* ポストモダン状況下における文化的想像力の変遷

こういったコフートの「自己の修復」というプロセスは、ポストモダン状況下における文化的想像力の変遷にも当てはまると思います。

ポストモダンとは「大きな物語」が機能しなくなった社会状況をいいます。ここでいう 「大きな物語」というのは「正しさ」について社会全体が共有するイデオロギーです。

日本の場合、阪神大震災が起きた1995年前後辺りが、ポストモダン状況の進行という点において重要な節目であると言われています。

一方で平成不況の長期化がジャパン・アズ・ナンバーワンの経済成長神話を崩壊させ、他方でオウム真理教による地下鉄サリン事件が若年世代の「生きづらさ」の問題を前景化させた。結果、90年代後半は戦後史上最も社会的自己実現への信頼が低下した時代となるわけです。

つまり「大きな物語」の失墜という価値観の転換が起きた事で、社会的レベルで「自己の断片化」が起きているわけです。

こうして「大きな物語」が失墜した現代においては、各個人はそれぞれが「小さな物語」を選択して生きて行かざるを得なくなるわけです。

すなわち、文化的想像力の変遷とは、個人がどのような「小さな物語」をどのように選択し、そこでどのように生きて行くかという態度の問題に他なりません。

この点、宇野常寛氏は「ゼロ年代の想像力」おいて、以下のような文化的想像力の変遷を示しています。

⑴ 引きこもり/心理主義

まず、何が正しいのかわからなくなった時代において、最もわかりやすい「小さな物語」は「何が正しいのかわからないから、とりあえず引きこもる」ということです。

つまり、他者を拒絶し「母親的承認」による全能感の下で生き延びるという態度です。こういった態度を「引きこもり/心理主義」と呼びます。ここでいう「母親的承認」は「鏡映自己対象」に相当します。

95年に放映された「新世紀エヴァンゲリオン」で描かれる「人類補完計画」の後景にある思想はまさに「何が正しいのかわからないので、だれかを傷つけるくらいなら何もしないで引きこもる」という「引きこもり/心理主義」的態度に他ならなりません。

これに対し、97年に公開されたエヴァ劇場版「Air / まごころを、君に」においてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストは、上記の「引きこもり/心理主義」を解毒するための一つの処方箋でもあったわけです。

けれどもエヴァ劇場版の示す回答は当時においてはあまりにも時代を先取りしすぎしており、TV版の結末に共感した「エヴァの子供達」から拒絶され「引きこもり/心理主義」的想像力を色濃く引き継いでいる作品群が一世を風靡する。

このような想像力が色濃く現れている作品群を「セカイ系」といいます。典型的な「セカイ系」の作品として「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」などが挙げられます。

セカイ系においては「ヒロインからの承認」が「社会的承認」を通り越して「世界からの承認」と直結関係となっているわけです。別言すればセカイ系とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」であるということです。

⑵ 決断主義

ところがゼロ年代に入り、上記のような「引きこもり/心理主義」モードは徐々に解除されていくことになる。

2001年9月11日に発生した米同時多発テロ、小泉構造改革路線により格差社会拡大といった社会情勢を受けて、「何が正しいのかわからないが、このまま引きこもっていては殺される」という新しい想像力が台頭して来ることになる。

つまり、他者を傷つけることを厭わず、何がしかの「中心的価値感」を「小さな物語」として、あえて自己責任で選び取り生き延びるという態度です。こうした態度を「決断主義」と呼びます。ここでいう「中心的価値観」は「理想化自己対象」に相当します。

現代において我々は不可避的に決断主義者とならざるを得ない。まさに正義無き時代に正義を執行するという矛盾を抱えて生きていくわけです。

このような想像力が色濃く現れている作品群を「サヴァイブ系」といいます。典型的な「サヴァイブ系」の作品として「DEATH NOTE」「コードギアス・反逆のルルーシュ」などが挙げられます。

⑶ 決断主義の克服としての次世代の想像力

以上のように「大きな物語」無き現代においては人は誰もが「大きな非物語=データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成し、「無自覚的」に、あるいは「あえて」特定の価値観を選択している。決断主義とは、このようなメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況をいうわけです。

では「決断主義」はいかに乗り越えられるのでしょうか?この点、宇野氏はひとつのキーワードとして「コミュニケーション」をあげています。

すなわち、異なる「小さな物語」を生きる他者と、どのように「コミュニケーション」して繋がっていくかという問題が「決断主義の克服としての次世代の想像力」を語る上で重要な鍵となるわけです。ここでいう「他者」こそ、まさに「双子自己対象」です。


* 次世代の想像力の到達点としての「かがみの孤城」



かがみの孤城
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本年の本屋大賞受賞作「かがみの孤城」は、アニメ的/ゲーム的リアリズムによる世界観を持ちつつ、現代の子供達が抱える様々な「生きづらさ」を瑞々しい文体で紡いでいく物語です。

同時に、本作では「決断主義の克服としての次世代の想像力」のひとつの到達点が示されているといっても過言ではないと思います。

本作のあらすじはこうです。中学生の少女、安西こころは中学入学後まもなくして、とある些細なきっかけから学校での居場所をなくし、家に引きこもることを余儀なくされる。そんなある日、突然、こころの部屋の鏡が不思議な光を放ち始める。鏡をくぐり抜けた先には、まさにアニメやゲームに出てくるファンタスティックなお城のような不思議な建物があった。そこにはちょうど、こころと同じような境遇の7人の子供達が集められていた。

そして、7人を集めた城の主である「オオカミさま」は次のように宣う。

お前たちは今日から三月まで、この城の中で”願いの部屋”に入る鍵探しをしてもらう。見つけたヤツ一人だけが、扉を開けて願いを叶える権利がある。

(辻村深月「かがみの孤城」より)


要するに、外の世界に居場所を失った子供達が、外界から隔絶された孤城というゆりかごの中で、願いが叶う鍵というアイテムを争奪するという基本設定があるわけです。ここでは「大きな物語」の失墜から「引きこもり/心理主義」を経て「決断主義」へと至る想像力の遷移の流れが見事にトレースされています。

ではここから暴力と謀略に満ちた血みどろのバトルロワイヤルが展開されるのかというと、そうはならない。

一応、各々それなりに鍵探しはするんですが、別に血眼になって探すというわけでもなく、むしろ、ゲームをしたりお茶会をしたりと、多少の人間関係の軋轢はありつつも、基本的にはゆるゆるとした日常が三月まで過ぎていく。

こうした過程の中で彼らは、この城で皆と過ごす時間は鍵探し以上にかけがえのないものであり、お互いが「助け合える存在」であるということに自ずと気付いていく。

つまり、異なる「小さな物語」を生きる「他者=双子自己対象」とのつながりにこそ、代え難い価値があるという「決断主義の克服としての次世代の想像力」がここでは示されているわけです。

物語終盤における、こころの次のような心情の吐露は、この感覚を悲壮なまでによく表しています。

この一年近く、ここで過ごしたこと。友達ができたことはは、これから先もこころを支えてくれる。私は、友達がいないわけじゃない。この先一生、たとえ誰とも友達になれなかったとしても、私には友達がいたこともあるんだと、そう思って生きていくことができる。

(辻村深月「かがみの孤城」より)


最後、7人のうちの1人が決断主義的に「ルール破り」をして「オオカミさま」に食べられるんですが、結局、その子は皆から手を差し伸べられ、救われます。そしてその子は今度を皆を救う側に回って生きていく。こうして物語は様々な余韻を含ませつつ、静かに幕を閉じます。

* おわりに

このように、想像力のパラダイムの変遷とは「大きな物語」が失墜した社会において、人々が傷ついた「自己」を修復していく過程であり、我々が人生において経験する「他者」との関係性の在り方そのものを示しているわけです。

いずれにせよもはや「大きな物語」が「〈他者〉の承認」や「生きる意味」を与えてくれる時代は終わったことは明らかでしょう。我々はこのありきたりな日常の中でこれらのものを自らの手で掴みとって行かなければならないということです。


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2018年09月30日

「データベース消費」というディスクール



* 4つのディスクール

ジャック=ラカンはセミネール17巻「精神分析の裏面」において、我々が生きる社会における様々な言説を分類した「4つのディスクール」を示します。

4つのディスクール.png

これは、真理(左下)、動因(左上)、他者(右上)、生産物(右下)という4つの位置に、主人(S1)、知(S2)、主体($)、対象(a)の4つの項がどのように配置されるかによって、それぞれのディスクールが規定されるものです。

基本的な法則は「真理」によって支えられた「動因」が「他者」に命令し、結果、「生産物」ができるというものです。もっとも、「真理」と「生産物」の間は遮蔽されており、両者を一致させることは構造的に不可能とされます。

主人のディスクールは主体の構造を、大学のディスクールは強迫神経症者のあり方を、ヒステリー者のディスクールはヒステリー者のあり方を、分析家のディスクールは精神分析の構造を、それぞれ示しています。


* 資本主義のディスクールによる剰余享楽の氾濫

上記の4つのディスクールが出そろったのちの1972年、ラカンは「新しい主人のディスクール」ともいうべき「資本主義のディスクール」を示します。

これは主人のディスクールを左側を反転させ、$とaを直結させたものです。

資本主義のディスクール.png

上図のように資本主義のディスクールとは主人のディスクールを基本としつつ、そこにヒステリー者のディスクールと大学のディスクールの特徴を組み合わせたものになります。

資本主義のディスクールが氾濫する社会は糸井重里氏の「欲しいものが欲しいわ」というキャッチコピーが的確に言い表しているように「欲望の搾取」が発生します。

「欲望」とは「喪失/回復」の過程で発生するものです。人は乳幼児期において、外界から得られた満足体験の記号を記憶痕迹(シニフィアン)に置き換える。ここで我々はもはや満足体験そのものにはアクセスできず欠如(喪失)を抱え込むことになる。

それゆえに、人の無意識下においては、この欠如した対象を追い求める運動が永続的に展開されることになる。これが欲望です。

主人のディスクールはシニフィアン連鎖(S1→S2)により欠如した主体($)と対象( a )が出現する構造になっており、まさにこの「喪失/回復」の過程を示しています。

ところが、資本主義のディスクールでは喪失の側面がなくなっている。そして喪失抜きに享楽の復元が可能であるという空想が主体に与えられてしまっている。

こうして資本主義のディスクールが際限なく回り続ける時、我々は欲望するヒマもなく、そこらかしこに氾濫する剰余享楽を摂取し続けることを強いられる羽目になります。「新型うつ病」や「発達障害」の増加はこのような文脈からも読み解くことができるでしょう。


* 「データベース消費」というディスクール

資本主義のディスクールの典型的な例として、東浩紀氏がいう「データベース消費」をあげることができるでしょう。

氏が「動物化するポストモダン」で述べるように、ポストモダンにおいては「歴史」や「社会」が与える「大きな物語」は失墜し、その代わりに「情報の海」として静的に存在する「大きな非物語=データベース」が存在感を増してくる。

ここでは人々は「データベース」から自分好みの「小さな物語」を自身で生成することになります。

つまり、現代においては人は誰もがデータベースから欲望するままに「小さな物語」を読み込み、あるいは「無自覚的」に、またあるいはそれが究極的には無根拠である事を織り込み済みで「あえて」特定の価値観を選択する。

こうしてメタレベルで複数の「小さな物語」が乱立する動員ゲーム的状況が成立する。

これはまさしく資本主義のディスクールの典型例でしょう。つまりこういうことです。我々、ポストモダンを生きる主体($)が抱く自体性愛的享楽(S1)は、速やかにデータベース(S2)に登録され、ここから生成される「小さな物語(a)」を享楽する事で生きることになる。


* 「小さな物語」をどう生きるのかということ

では、このような「小さな物語」が乱立する現代の動員ゲーム状況をどのように生きていけばいいのでしょうか?換言すれば資本主義のディスクールが支配する世界における欲望と享楽のあり方の問題です。

一つは、自らが信じる「小さな物語」の中に引きこもり「小さな物語」が与えてくれる母親的全能感の中で生き延びるという態度があるでしょう。

あるいは、自らが信じる「小さな物語」を頼みに、異なる「小さな物語」を信じる他者との間で熾烈な闘争を繰り広げる態度があるでしょう。

またあるいは、異なる「小さな物語」を生きる他者に手を伸ばし、時に傷つきながらも、他者との間の共感やつながりといったコミュニケーションを試みる態度もあるでしょう。

いずれにせよ確かなことは、今やもはや「正しい物語」など、どこにも無いということです。かといって、人は「物語の重力」から逃れられるほど軽くも強くもありません。

結局のところ、我々は自らが選び取った根拠なき「小さな物語」の中で生きていかなければならないわけです。そこでは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」が問われているということになります。




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2018年08月29日

「〈他者〉の欲望」と発達障害



* 精神病圏・神経症圏・倒錯圏 

ラカン派精神分析の臨床構造は3つに大別されます。精神病圏、神経症圏、倒錯圏です。

これらの臨床構造は「父=〈父の名〉」に対する態度によって切り分けられます。

精神病圏の主体は父がいない事に苦しみます。これに対して、神経症圏の主体は父がいる事に苦しみ、倒錯圏の主体は父がバカにしか見えない事に苦しむわけです。

* 「否認」とは何か

この点、神経症圏の主体は何だかんだと言いつつも〈父の名〉によってもたらされる「〈他者〉のファルスの欠如(現実的穴)=〈他者〉の欲望」を引き受けることになります。

これに対して、倒錯圏の主体は「〈他者〉の欲望」を「否認」するわけです。

「否認」とはなんでしょうか?これは「〈他者〉の欲望」を「引き受けつつも認めない」というパラドキシカルな態度をいいます。

すなわち、倒錯圏の主体は「〈他者〉の欲望」を隠蔽するヴェールを張り巡らし、ここに任意のフェティシズム的対象を投影し、当該対象に想像的(鏡像的)に同一化する。

フェティシズム的対象は、身体、服装、素材、道具、状態、言葉など多岐に渡ります。こうしたものを利用することで倒錯圏の主体は「〈他者〉の欲望」を「否認」し〈他者〉を「享楽を想定された主体」として位置付けます。

そして同時に「〈他者〉の欲望」に対する自らの無知をも「否認」することで、自らを「知を想定された主体」に位置付けるわけです。

* 倒錯的フェティシズムの一つの発現としての「自閉症スペクトラム障害」

倒錯の現代的論点として発達障害の問題を考えることができるでしょう。発達障害、とりわけ自閉症スペクトラム障害の症状は倒錯的フェティシズムの一つの発現として理解可能であるからです。

「自閉症スペクトラム障害(ASD)」とは、2013年のDSM改訂により、自閉症やアスペルガー症候群などが統合されてできた診断名です(DSM-W-TRにおける広汎性発達障害にほぼ相当します)。その診断基準は以下の通りです。


以下のA、B、C、Dを満たしていること。

A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)

1 社会的・情緒的な相互関係の障害。
2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。
3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。

B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される))

1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。
2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。
3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。
4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。

C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。

D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。


* 「〈他者〉の欲望」の「わからなさ」

ASDの特徴である「社会的コミュニケーションの持続的障害「常動的反復的な行動・関心」に共通するのは「〈他者〉の欲望」と関係することの困難性の表れと言えるでしょう。

すなわち、ASDの場合、ある特定のフェティシズム的対象を参照点として利用することで、「〈他者〉の欲望」の「わからなさ」から生じる不安を囲い込み無効化を試みていると言えるわけです。

そしてそれは本質的に〈他者〉を必要としない一種の自己完結性によって特徴付けられる解決ということになります。

ゆえに、このフェティシズム的対象が失われるや否や「〈他者〉の欲望」がたちまち前景化して、彼ら/彼女らにとって世界は不安と混沌に満ち溢れたものになってしまうことになります。

* 資本主義のディスクールと発達障害

こうした事から、ASDを特徴付けるとすれば、それは「〈他者〉欲望」を引き受け続ける困難性にあると言えないでしょうか。

ラカンが「疎外と分離」の演算において示すように、主体は「自らの欠如」と「〈他者〉の欠如」の重なり合いの中に、支えとしての対象 a を作り出し「〈他者〉の欲望」を引き受けるわけです。

例えば、ラカンは「愛とは常に持っていないものを与えることである」「ただ愛のみが、享楽が欲望に譲ることを可能とする」といいます。

主体と他者はお互いに「欠如した存在」として愛を求め、その欠如を埋めんと欲望するわけです。

ところが、資本主義のディスクールによって特徴付けられる現代社会はさまざまな剰余享楽が氾濫し、その際限ない消費に人々は駆り立てられるわけです。

つまりここでは主体と剰余享楽が直結関係にあるかの如き観を呈しているわけです。

この点において、資本主義のディスクールは、主体と他者との間の欠如を介した関係に大きな困難が生じさせる可能性を孕んでいるわけです。

最後はなかなか乱雑な素描になってしまいましたが、要するに現代は「愛するヒマのない時代」「欲望するヒマのない時代」であるということです。

こうしてみると、近年における発達障害の増加は資本主義のディスクールという時代のカナリアという事になるではないでしょうか。




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2018年07月23日

享楽の在処としての〈もの〉、あるいは神尾観鈴の不安発作



* 不安の時代

ソーシャルネットワークの爆発的普及による情報過多、ライフスタイルの急速な変化、コミュニケーション能力の重視、そして何かと「イノベーション」や「価値創造性」が求められる昨今。

およそ現代は「不安の時代」と言って良いのかもしれません。精神医学的に「不安障害」という診断名がつくかどうかはともかくとして、我々は程度の差はあれ、日々否応なくわき起こる不安とどう向き合っていくかを問われているとも言えます。


* 享楽の在処としての〈もの〉

このような不安という感情はどこから来るのでしょうか?ラカン派精神分析の観点からは、これは〈もの〉の回帰に対する防衛のモードとして理解します。

セミネールZ「精神分析の倫理」においてラカンは〈もの〉という概念を取り上げます。


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〈もの〉とは、人が感覚器官を通じて捉えた外的刺激を心的装置に記録する過程で決定的に取り逃がした「何か」です。

周知の通り、ラカンの有名な標語からすれば「無意識とは言語によって構造化されたものである」ということになります。つまり外的刺激は「言語=シニフィアン」に変換され、言語的な無意識である「象徴界」を構成する。

けれども、この分節化の過程でどうしてもシニフィアンによって補足し切れなかった残滓が生じるわけです。これらが〈もの〉として「現実界」を構成する。

我々は身体に言語を刻み込まれ象徴界の主体として生きている。つまり主体と〈もの〉の間には「言葉」という壁がある。そうである以上、我々は〈もの〉に到達することは不可能です。そこは内的な外部であると言うことになります(外密性)。

この点、象徴界は不快を避けて快楽を追求する快楽原理のシステムで駆動しています。従って〈もの〉とは快楽原理では処理不能な過剰快楽である「享楽」の在処ということになります。

また、これをエディプスコンプレックスの観点からいえば、通常〈父の名〉という法を受け入れることで我々は〈もの〉への到達を禁じられていると言えるでしょう。これを一般的な精神分析用語で「去勢」とか「原抑圧」などと言うわけです。

人はしばし享楽を快楽原理の彼岸にある絶頂をもたらすような究極的快楽と想定する。そして〈父の名〉という法を侵犯しさえすれば〈もの〉へ到達できるのではないかという幻想に魅せられる。

こうして人は原理的に到達不可能な〈もの〉へ至らんとする永続的徒労に人生を費やすことになる。これを称して「欲望」というわけです。


* 防衛としての症状

今しがた述べたように我々は〈もの〉に到達することは不可能です。それにもかかわらず、我々はその日常において、かつて喪失したはずの「〈もの〉の痕跡」にしばし遭遇することになります。

例えば「罪悪感」として、あるいは「不気味なもの」として、もしくは「崇高なもの」として「〈もの〉の痕跡」は快楽原理を撹乱するような「過剰なもの」として断片的に侵入してくる。

これらは〈もの〉そのものではありませんが、かつてあった〈もの〉を想起させるものです。そして、そのような「〈もの〉の痕跡」を防衛するための一つの処方。これがまさに不安という症状に他なりません。

つまり人は「〈もの〉の痕跡」の前に症状を置くことで「この症状さえなければきっと幸せが手に入るのに」という、ある種の享楽を引き出しているわけです。

なお、ラカンはその後「転移」「同一化」「不安」とセミネールを重ねていくごとに、このような「〈もの〉の痕跡」を例の、後に名高き「対象 a 」の概念に洗練させていくわけです。


* 神尾観鈴の不安発作

このような「〈もの〉の痕跡」との遭遇を描いた例として 「AIR」における神尾観鈴の不安発作があります。


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『AIR』(エアー)は、Keyが制作した2作目の恋愛アドベンチャーゲーム、およびそれを原作としてメディアミックス的展開がなされたアニメやコミックなどの作品群。

前作『Kanon』と同様に少年少女の恋愛劇に不可思議要素を絡めたアドベンチャーゲームであり、シナリオが感動に特化した泣きゲーとして支持を集めた。

Wikipedia


観鈴ちゃんには友達がいません。その理由は誰かと仲良くなれそうになる時に限って起きるーーー癇癪を起こしたように泣きじゃくってしまうーーーあの不安発作によるものです。

これは観鈴が最後の翼人である神奈備命の転生体であることに由来しています。

1000年前の当時、翼人は人に不幸をもたらすものとして畏れられており、それゆえに神奈には呪いが掛けられていた。それは親しくした他者を死に至らしめるという、呪い。

翼人とは星の記憶を継ぐ者であり、最後の翼人は幸せな記憶を星に返す必要があった。けれども、この呪いによって親しい者を作ることができない為、幸せな記憶を星に返すことができず、神奈は延々と輪廻を繰り返すことになる。

ともかくもこういったことから観鈴の身体は翼人の呪いに蝕まれており、誰かと親しくすれば、その誰かを不幸してしまう。

すなわち、観鈴にとって「誰かと仲良くなること」というのは禁じられた〈もの〉の体験に等しいものです。

こうしたことから彼女が誰かと仲良くなろうとして〈もの〉への到達不可能性を否定する度に、それは罪責感という「〈もの〉の痕跡」という形をとって回帰してくる。

ここでいう罪責感とは〈もの〉との結合を断罪する内なる非難によるものです。結果、その防衛行動として、あの不安発作が発症するわけです。


* 言葉という呪い

ところで観鈴ちゃんの不安発作は症状だけみればSAD(社交性不安障害)辺りに近いものがあるでしょう。

つまり、我々も日常において「観鈴の病理」に直面することがしばしあるということです。翼人の呪いなどなくとも、人はどこかで任意の誰かと親しくなることで「本当の自分」を知られる事に恐れを抱いている。

例えば親しい人の不可解な行動や理不尽な感情に当惑した時の事を想起してみればいいでしょう。もしも、その原因に全く思い当たる節がないのであれば、背景にはこういう「観鈴の病理」が潜んでいるのかもしれません。

こうして考えると「言葉」とは我々と〈もの〉との間を断絶させるという意味においてある種の「呪い」ということになるのかもしれませんね。



posted by かがみ at 03:17 | 心理療法

2018年06月29日

「La femme」あるいは「普遍」から「例外」を夢想すること。


性別化の式.png

* 男性側の論理式と女性側の論理式

セミネールXX「アンコール」において、ラカンは性別化の式の完成形を提示しています。性別化の式は上記図のように左側の男性側の論理式と右側の女性の論理式によって構成されています。

まず、男性側の論理式は以下の通りです。

・∀xΦx(普遍肯定命題)・・・「全ての男性はファルス関数に従う」

・∃xΦx(個別否定命題)・・・「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する」

そして、男性側の論理式を反転させる事で女性の論理式が得られます。

∃xΦx(個別否定命題の否定)・・・「ファルス関数に従わない女性がいるわけではない」

∀xΦx(普遍肯定命題の否定)・・・「全ての女性がファルス関数に従うわけではない」

古典的ラカン理論は男性側の論理式に収められます。男性側の論理式は「トーテムとタブー」に出てくる原父のような「例外」が「普遍」を安定化させるという否定神学です。

「∀x」とは「全てのxは〜である」という量化記号であり「Φx」とは「xはファルス関数に従う(去勢されている)」ことを示しています。

最初の「∀xΦx(全ての男性はファルス関数に従う)」とは男性が得ることができる享楽はファルス享楽だけであるという「普遍」に関する命題です。つまり、男性の享楽はファルス関数に制御された身体的享楽(ファルス享楽)に留まり、対象 a を超えて「La femme=女性なるもの」に到達するような享楽(絶対的享楽)ではありえない。

そこで男性はこのようなファルス享楽のアポリアから逃れる為、この世界の何処かには絶対的享楽がきっとあるという「例外」のファンタスムを作り上げる。

このような「普遍」の側に立ちながら「例外」を夢想することを「〈他〉の享楽の想定」といいます。

* 「La femme=女性なるもの

例外として機能する典型例は「トーテムとタブー」に出てくる原父のような全能者ですが、その他にも例外として機能するものとして「La femme=女性なるもの」があります(〈父〉のバージョン違い)。

この「La femme=女性なるもの」への到達を夢想する一つの形式としていわゆる宮廷愛が考えられます。

宮廷愛とは12世紀ヨーロッパに始まる詩歌の一つのジャンルの中で歌い上げられる愛の形式です。多くの場合、ある高貴な女性(大体は既婚)を対象としています。そして、その愛は騎士道的な愛であり、その対象たる女性への肉体的接触は一切断念されているのが特徴です。

すなわち、ある任意の対象との間にあえて障壁を置くことで「La femmeへの接近不可能性」という問題を、「その障壁さえなければいいのに、という禁止」の問題に置き換え、その禁止の向こう側に「La femme」を想定することを可能にしているわけです。

例えば「猫物語〈黒〉(西尾維新)」において阿良々木暦は羽川翼に「失恋」していますが、これは宮廷愛の形式から読むことができます。阿良々木が羽川の中に「La femme」を見出したが故の表裏の関係として彼は「失恋」しているわけです。



「あいつのことがたまらなく好きだけれど─ ─でも、この気持ちは恋じゃあないな」  

呟き続けながら─ ─決意を。  

ひとつの決意を、新たにする。  

それは多分、最初から決まっていることだった。  

決まりきっていることに─ ─僕は今更気付いたのだ。  

僕の羽川への想いは、募り過ぎて─ ─  

もうとっくに恋を越えていた。  

一生一緒にいたい、どころか。

「だって僕は、 羽川のために死にたいって思ってるんだもん」

(西尾維新「猫物語(黒)」)



* 例外そのものになること

なお、男性側の式における宮廷愛的なリミットを超える道は一応あることはあります。すなわち、例外を空想するのにとどまらず、自ら「例外そのもの」になり切ってしまうことです。

しかし「例外そのもの」になるとは「アンドロメダの支配者」とか「神の女」などという自らの妄想の世界の中だけで生きることに他なりません。そして我々はこれを称して「精神病」と呼ぶわけです。


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posted by かがみ at 20:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理療法