【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集 現代アニメーションのいくつかの断章

2020年04月27日

自閉的技法としての「勉強」




* 「自閉」から「自閉症スペクトラム障害」へ

「自閉(Autism)」という言葉の起源は1911年、スイスの精神科医、オイゲン・ブロイラーの統合失調症論に見出されます。ここで「自閉」とは、外界との接触が減少して内面生活が病的なほど優位になり、現実からの遊離が生じることを指しています。

それからおよそ30年後の1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが「早期幼児自閉症」という論文を発表し、ここで「自閉」という言葉は単独の疾患概念となります。

もっとも当時は自閉症は幼児期に発症した統合失調症と考える見解が依然として多数でした。ところがその後、認知領域・言語発達領域における研究の進展に伴い、1970年代には自閉症は脳の器質的障害であり、統合失調症とは別の疾患だと考えられるようになります。

その一方でカナー論文の翌年、1944年にはオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによる「小児期の自閉的精神病質」という論文が発表されています。このアスペルガー論文は諸般の事情があり長らく日の目を見ることがなかったわけですが、1980年代になってイギリスの精神科医ローナ・ウィングにより再発見されます。そして、ここで自閉症は「社会性障害」「コミュニケーション障害」「イマジネーション障害」として再定義されます(ウィングの三つ組)。

こうしたことから自閉症を「スペクトラム(連続体)」と捉える考え方が有力となり、2013年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-X)」において、カナー型自閉症とアスペルガー型自閉症は「自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder)」として統合されることになります。その診断基準は以下の通りです。




以下のA、B、C、Dを満たしていること。

A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)

 1 社会的・情緒的な相互関係の障害。

 2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。

 3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。

B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)

 1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。

 2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。

 3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。

 4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。

C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。

D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。




* 現代ラカン派における自閉症論

端的にいうと、ASDの特性とは「社会的コミュニケーションの持続的障害」と「常同的反復的行動・関心」という2点から成り立ちます。

具体的には「相手の気持ちや場の空気を読めない」「言葉をそのままの意味で受け取ってしまう」「他人の表情や態度などの意味が理解できない」「相手が2人以上になるとわけがわからなくなる」「独自のルール・こだわりに執着する」といった特性をいいます。

こうした特徴は「〈他者〉の拒絶」として理解できます。ここでいう〈他者〉とは言語、そして声やまなざしの事です。

この点、ラカン派精神分析では自閉症を「シニフィアン」と「享楽」の2つの側面から把握します。

まず、自閉症をもっぱら「シニフィアン」の側面のみで捉えた時、それはラカン派のタームでいうところの原初的象徴化の失敗、疎外の拒絶に他ならず、この限りにおいては自閉症と精神病は同一圏内にあるということになります。

ところが自閉症を「享楽」の側面から捉える時、そこには精神病とは明らかに異なる独自の享楽の回帰モードが見出せます。

こうした観点から現代ラカン派における自閉症論を「縁の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」という三つ組の概念により体系化したのがジャン=クロード・マルヴァルです。すなわち、自閉症者は「縁の上の享楽の回帰」によって〈他者〉を拒絶しつつ、その上で「分身」の助けを借りながら「合成〈他者〉」の創発という形で〈他者〉への再接続を試みているという事です。

〈他者〉の拒絶と〈他者〉への特異的な仕方での再接続。こうした「自閉的技法」ともいえる試みは時として驚異的な能力として発現したり、独創的な創造として結実することになります。


* ドゥルーズの文学論

この点、ポスト・構造主義の代表と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、その主著の一つである「意味の論理学」において、典型的な統合失調症者であるアントナン・アルトーと、現代では自閉症スペクトラム障害と診断されうるであろうルイス・キャロルの文学論を並走させています。

ここでドゥルーズはアルトーの文学は「深層」にあり、キャロルの文学は「表面」にあるといいます。そして「意味の論理学」以降、ドゥルーズ哲学は「深層」を拒絶し「表面」を偏愛する方向に向かっていきます。

キャロルの代表作「不思議の国のアリス」の「かばん語」をはじめとして、キャロル作品の中には、言葉の解釈を次々とずらしながら物語が展開していく技法が頻繁に見られます。これはASD的な言葉の解釈のずれを逆手に取り、創作へ応用した技法と言えます。

ドゥルーズは後期の主著「批評と臨床」において、キャロルは「表面」の言語を獲得することでアルトー的な「深層」から華麗に逃れることができたといいます。そしてドゥルーズはこうした「表面」の言語によって書かれた文学こそが、文学の描く世界のすべてになりうると断言します。

こうして「批評と臨床」においてドゥルーズは、キャロルの他に、やはり自閉症スペクトラム障害の特徴を持つレーモン・ルーセルやルイス・ウルフソンといった作家を評価しています。

彼らはアルトーのように言語の「深層」に魅入られるのではなく、言語の「表面」をある種の情報の束、データベースとして捉えて、これにハッキングをかけていくわけです。これは〈他者〉を拒絶した上で、自らの特異的な仕方で〈他者〉への再接続を果たす自閉的技法が独創的な創造として結実した例と言えます。


* 特異性と一般性

では、こうした自閉症における構造と可能性の中に我々は何を発見できるのでしょうか。この点、人はそれぞれ、その人だけの特異性をもった存在として〈他者〉という一般性の中で折り合いをつけながら生きているわけです。

そして、こうした特異性と一般性の巡り合わせが良ければ、それは「個性」として承認されますが、その巡り合わせが悪ければ「不適合者」として排除されてしまいます。

いわゆる発達障害の明と暗の問題は、特異性と一般性の巡り合わせの悪さが、一周回って別の一般性の文脈において「個性」だと承認されるかされないかという側面もあると思うんです。

こうした意味において、人は皆、潜在的な意味で自閉的存在と言えます。では、我々はいかなる自閉的技法を日常において実践できるのでしょうか。一つの方法論として、私はここで「勉強」を考えてみたいと思います。


* 自閉的技法としての「勉強」

我々は社会生活を送る上で多かれ少なかれ「勉強」をしています。入学試験や資格試験など、わかりやすい「勉強」の他にも、新しい仕事の手順を覚えたり、新しい料理の作り方を覚えたり、新しいスマホの操作を覚えたり、こんな風に何気なく日々「勉強」してるわけです。いわば「勉強」するというのは「生活」と表裏の関係とさえ言えます。

この点、千葉雅也氏は「勉強の哲学」において「深い勉強=ラディカル・ラーニング」を提唱します。

我々は日々「学校」「会社」「家庭」など、ある一定の「こういうもんだ」という「環境のコード」の中で生きています。「ラディカル・ラーニング」はこうした「環境のコード」に縛られず、逆にこれを弄ぶことの出来る存在、同書のいう「来るべきバカ」に変身するための方法論です。

その委細は是非とも同書を読んでいただきたいところですが、同書の提唱する方法論は「環境のコード」という〈他者〉を一旦は切断し、その上で〈他者〉へ特異的な仕方によって再接続する試みに他なりません。

「勉強」という営みの中に「アイロニー(懐疑:そうなのか)」「ユーモア(連想:こうもいえる)」「享楽(中断:これでよい)」を頂点とした「勉強の三角形」というサイクルを導入することで「環境のコード」から「器官なき言語」を切り出し「享楽的こだわり」を深化させていく。

同書のいう「享楽的こだわり」による「ユーモアの有限化」とは自閉症でいう「縁」に重なるものがあります。すなわち、ラディカル・ラーニングは自閉的技法の日常的実践であり、特異性を一般性の中で消極的に「折り合いをつける」のではなく、一歩進んで積極的に「うまくやる」ための実践とも言えるでしょう。

そして、こうした実践の中で出会うのは「思考する快楽」「自己破壊の快楽」「生成変化の快楽」です。同書が提唱する方法論は受験勉強的な意味での「合理的勉強法」から見ればやや迂遠な方法論なのかもしれません。それでも一度はこうした「まっとうな勉強」をやってみる事をお勧めしたい。世俗的な何かを成し遂げる為の「努力としての勉強」ではなく、それ自体が自己目的的な「快楽としての勉強」は、世界の見え方を、そして自由と幸福の在り処を、確実に変えていくと思います。









posted by かがみ at 21:57 | 心理療法

2020年03月26日

共同幻想論とボロメオの環



* 自己幻想・対幻想・共同幻想

戦後最大の思想家とも呼ばれる吉本隆明氏の主著「共同幻想論」は「全共闘」と総称される全国的な学生運動の盛り上がりを見せていた1968年に刊行されました。

「共同幻想論」は「遠野物語」と「古事記」という二つの古典を素材として国家の成立条件を論じたものです。すなわち、人間の社会像は「自己幻想(個人)」「対幻想(家族的関係)」「共同幻想(国家的共同体)」から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになるという事です。

この点、家族を成立させている「対幻想」は二種類あります。「夫婦/親子的対幻想」と「兄弟/姉妹的対幻想」です。子を再生産する前者は時間的永続性を司り、子を再生産しない後者は空間的永続性を司ります。

そしてこの二種類の対幻想を「宗教」とか「イデオロギー」などと呼ばれる操作で組み合わせる事で、対幻想は共同幻想に拡大されます。すなわち、人は疑似人格としての国家との間に国民として「夫婦/親子関係」を結び、そして国民相互は同じ親(国家)を持つ「兄弟/姉妹関係」となるわけです。


* 「大衆の原像」とは何か

「政治の季節」の極相を迎えていた当時、吉本氏は「天皇制」や「戦後民主主義」といった「共同幻想」に回収されない個の「自立」を模索していく「第三の道」を唱導しました。

この点、吉本氏は「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」の各幻想は原理的には「逆立」するものと考えました。「逆立」とは各幻想が反発しつつも独立している状態の事です。そして、ここで氏は「自己幻想」が「共同幻想」に「逆立」する為の起点として「夫婦/親子的対幻想」に着目します。

「夫婦/親子的対幻想」はそれ自体で二者間の閉じた世界の中に完結します。端的に言うとここでは「あなたさえいれば世界などどうでもいい」という物語が機能するわけです。吉本氏はこうした対幻想を起点とした自立を「大衆の原像」と呼びました。

これは言うなれば「愛の力でイデオロギーを内破する」というレトリックです。今考えれば相当にベタな戦略ですが、これは当時「革命の夢」に敗北した全共闘の学生達に、自分達の敗北を正当化する為の物語として受容されました。

こうして、かつて革命を志した学生達はゲバ棒を捨てヘルメットを脱ぎ、愛する家族と紡ぎ出す小さな幸せの営みを守る為、組織の歯車となって働きに働き、結果「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された80年代の日本経済の繁栄を築き上げました。

「革命という非日常」から「生活という日常」へ。共同幻想論はそれなりに誰かの背中を押し、誰かの人生を救い、一旦はその使命を全うしたわけです。


* しかし人は「自立」できなかった

ところが実際のところ、こうした吉本氏の戦略がもたらしたのは個の「自立」ではなく所属共同体への「埋没」でしかなかった。かつての革命学生の多くは企業戦士として横並びと前例踏襲を重んじる日本的企業文化に同一化していく。この時、吉本氏の対幻想を起点とした自立の処方箋は、こうした思考停止に「愛する家族を守るため」という大義名分を与えてしまいました。

そしてこのような思考停止こそが、集団主義と同調圧力による組織体系の硬直化と創発性の阻害を招く最たる要因であることは言うまでもないでしょう。果たして多くの日本企業が90年代以後、規律重視の工業社会からイノベーション重視の情報社会へという、世界的な産業構造の急速な変化に対応できず、バブル崩壊以後の日本経済は低迷の一途を辿っていきました。

こうしていまや「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は遠い過去となり、貧困と格差が進む中、経済的豊かさの指標とされる国民1人当たりのGDPは1988年には2位だったのが2019年にはなんと26位にまで転落する事になります。

一方で、世界的なグローバル化、ネットワーク化の進展は国家という共同幻想を零落させ、人々の自己幻想の肥大化を促進しました。スマートフォンの進化とソーシャルメディアの発達により、いまや人々は自分が見たい現実だけを見て信じたい物語だけを信じる事のできる情報環境を手に入れました。

そして、こうした母胎の如き環境下で幼児的に肥大化した自己幻想は今や零落した共同幻想へと容易く同致してしまいます。いわゆる「ポスト・トルゥース」と呼ばれる、事実が軽視されフェイクニュースが幅を利かすという今日のディストピア的状況の背後にはこうした構造があるわけです。

こうしてかつて半世紀前、吉本氏が提示した「自立」の戦略は今日において完全に破綻していると言わざるを得ないでしょう。では、現代における「自立」の方策はあるのでしょうか。


* 性愛的対幻想から友愛的対幻想へ

この点、宇野常寛氏は今日における「肥大化した母性(母胎の如き情報環境)」と「矮小な父性(自己幻想の肥大化)」の結託を「母性のディストピア(ボトムアップ的に醸成される共同幻想)」と呼びます。

そして氏はこうした「母性のディストピア」を解除する鍵を「もう一つの対幻想」に、すなわち「兄弟/姉妹的対幻想」に見出します。その論理は大まかに言えば以下のようなものです。

まず、グローバリズムとネットワークが極まった現代社会においては「国家という共同幻想」が零落する一方「市場という非幻想」が浮上する。

これは言うなれば市場という「ゲームボード」上に、個人、組織、国家が「ゲームプレイヤー」として配置されると同時に「ゲームデザイナー」として参加しているという事態を意味している。

そして、かつての「国家という共同幻想」が書き手と読み手が固定化された一方通行的な「物語的存在」であったとすれば「市場という非幻想」とはプレイヤーとデザイナーが常に流動的に入れ替わる双方向的な「ゲーム的存在」という事になる。

すなわち、ここで世界と我々は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」によって接続される事になります。

そして、こうした「市場とゲーム」において、もし我々が他のプレイヤーに「夫婦/親子的対幻想(性愛的対幻想)」を見出すのであれば、それは「家族」「国家」といった相対的に零落した共同幻想へと回収される事になる。

しかし一方、我々が他のプレイヤーに「兄弟/姉妹的対幻想(友愛的対幻想)」を見出すのであれば、それは共同幻想に回収される事なく、対幻想のままに対象を拡大させる事が可能となる。こうした関係性を宇野氏は「相補性の片割れたちによる、寄り添いのアイデンティティ・ゲーム」と言います。

かつて吉本氏が提唱した「性愛的対幻想」を起点とした自立戦略はいわば「愛の力でイデオロギーを内破する」というレトリックでした。そしてまた、宇野氏が提唱する「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略もその言葉だけを読むと「きずなの力でゲームを勝ち抜く」とか、何かそういう風にも読めてしまいますが、もちろんそういう陳腐な構想ではないわけです。ではその具体化なイメージはどのように捉えるべきなのでしょうか。


* ボロメオの環という参照点

まず吉本氏の「共同幻想論」と同様に、人の心的構造を三つの位相で把握する理論として、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが示す「ボロメオの環」が知られています。

ラカンは人の心的構造を「想像的なもの(想像界)」「象徴的なもの(象徴界)」「現実的なもの(現実界)」という三つの異なる位相の上に成立するものとして捉えます。

すなわち、我々は生の現実をイメージと言語で捉えて、パーソナルな現実を創り出しているという事です。そして、この三つの位相が如何なる関係にあるかを示したものが晩年のラカンが探求した「ボロメオの環」と言われるものです。

もっとも当初、ボロメオの環は、後に見るように「想像界」「象徴界」「現実界」と紐付けられてはおらず、次々に与えられるシニフィアンがいかにして一つの構造の中で意味を担うのかという、シニフィアンの自己構造化の論理を示すものとして捉えられていました。

しかしその後、ラカンはボロメオの環を単にシニフィアンの構造を示すものとしてではなく「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの領域と紐付けます。ここでボロメオの環は現在広く知られる姿となります。

ボロメオの環.png



* ファルス享楽と〈他〉なる享楽

「共同幻想論」と「ボロメオの環」はどちらも三位一体構造を持つことから、両者の間には共通の発想を多く発見できます。まず、自己幻想と現実界、共同幻想と象徴界、対幻想と想像界の間には、少なくとも比喩的な意味での重なり合いを見出す事が可能です。そして、今日における「共同幻想の零落/自己幻想の肥大」という事象は現代ラカン派の文脈でいうところの「象徴界の失墜」という議論に重なります。

こうした点から言えば、かつて吉本氏が提唱した「性愛的対幻想」を起点とした自立戦略は、ボロメオ上では「対象 a 」を媒介として象徴界と現実界の境界で「性愛的な享楽=ファルス享楽」を得る動線に近接します。

これに対して、宇野氏が提唱する「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略は、ボロメオ上ではやはり「対象 a 」から想像界と現実界の境界線上の「非-性愛的な享楽=〈他〉なる享楽」へ至る動線に近接します。


* ぎりぎりの自己破壊の饗宴

そして、こうした「〈他〉なる享楽」を千葉雅也氏は「ファルス享楽の分身」として位置付け「パラマウンド」と名付けます。そして氏は「〈他〉なる享楽」へ至る経路(享楽のジェンダー・トラブル)の例として「プロレス」について論じます。

氏はプロレスには一般スポーツにおける「記録」「勝敗」には回収されない「贅沢」があるといいます。プロレスラーの不敵な睨みと笑み、挑発する言葉の応酬、大げさで演技的な技の連結等々・・・プロレスは「結果のすべてではなさ」という夢を観客に与えるわけです。

この点、千葉氏はプロレスとは「ぎりぎりの自己破壊の饗宴」であるといます。すなわち、プロレスのリングには「自己破壊のマゾヒズム」が満ちている。この「自己破壊のマゾヒズム」とは畢竟、子どもが持つ原初的エロティシズムに通じます。すなわち、プロレスラーの強さは子供の持つ弱さであり、それは同時に子どもの持つ強さでもあります。

ゆえに我々が潜在的にプロレスラーになろうとするのであれば、それはいわば「自己破壊のマゾヒズム」へ回帰する事に他ならない。男女の性別が曖昧であった思春期以前、ジェンダー以前の状況への回帰、日常のあらゆる経験が自己破壊的である子どもの弱さのただなかに回帰するということです。


* 「子どもの弱さ=強さ」への回帰

今日において世界を席巻する「市場という非幻想」とはまさしくプロレスのリングに準えることもできるでしょう。そうであれば、宇野氏の言う「友愛的対幻想」を起点とする自立戦略とは、千葉氏の言う「プロレス=ぎりぎりの自己破壊の饗宴」というイメージで捉えることが可能ではないでしょうか。

すなわち、現代における「自立」とは「肥大化した母性」の中で「矮小な父」を演じるのではなく、むしろ他者との間の「ぎりぎりの自己破壊の饗宴」によって「子どもの弱さ=強さ」へ回帰するという事です。

「ここではない、どこか」という虚構への超越ではなく「いま、ここ」という現実から別の「いま、ここ」という現実へ突き抜けるという事。

こうした自己破壊的生成変化のプロセスの中にこそ「市場とゲーム」によって常時接続された現代における倫理的作用点としての「弱さ=強さ」という「自立」があるのでしょう。












posted by かがみ at 23:11 | 心理療法

2020年02月27日

不在の神からデータベースへ



* 統合失調症中心主義

統合失調症は多くの場合に思春期から青年期に発症し、その後その人の人生に内面的・外面的な様々な重大な影響を及ぼす極めて厄介な精神疾患です。そして、その症状といえば、自分に向かって他者が命令してくる「幻聴」や、周囲の出来事などが全て自分に向けられていると感じる「関係妄想」が有名でしょう。ただ、これらの症状は他の精神疾患でも見られるものであり、統合失調症特有のものというわけではありません。

統合失調症の症状は患者ごとに多種多様ですが、どの症例にも認められる共通点として「不確実な自己性」があると言われています。患者の自己が確実な自己性を有していないという事です。この「不確実な自己性」は患者の日常的意識や行動において独特の不自然さを作り出します。

この「不確実な自己性」をはっきりと反映する臨床症状として「作為体験」「させられ体験」などと呼ばれる自分の意思や感情や思考が他者によって操られているという体験、「思考奪取」「思考伝播」「思考察知」などと呼ばれる自分自身の意思や感情や思考が勝手に他者に筒抜けになっている体験があげられます。

この点、精神病理学者の木村敏氏は統合失調症者の時間意識について「アンテ・フェストゥム的(前夜祭的)」と呼びます。これは常に未来を先取りし現在より一歩先を読もうとする時間意識です。裏返せば統合失調症者は現在に棲まえていないという事です。こうした独特な時間意識が「不確実な自己性」となって立ち現れると言われます。

ところで統合失調症はしばし偉大な創造を可能とする特権的な狂気として語られる事があります。これを「統合失調症中心主義」といいます。

「統合失調症中心主義」は長きにわたり精神病理学や病跡学の支配的言説の位置にありました。しかし一方、現代の精神科臨床において顕著な傾向と言えば統合失調症の軽症化と自閉症スペクトラム障害の前景化です。このような状況の中で未だに「統合失調症中心主義」は妥当性を維持しているのでしょうか?


* 否定神学構造

まず「統合失調症中心主義」はいかにして形成されたのか。この点、統合失調症は近代以降に出現した精神疾患と考えられています。その最初期の統合失調症患者と言われるのが「狂気の詩人」として知られるフリードリヒ・ヘルダーリンです。

ヘルダーリンという人は同時代の大詩人シラーという理想へとまさにアンテ・フェストゥム的に跳躍しようとして統合失調症を発症させてしまうわけですが、その結果、人格荒廃を代償に精神病理学者ヤスパースの言うところの「形而上学的な深淵」が啓示され、これが数々の特異的な詩作を紡ぎ出す源泉となったと言われます。

そしてこのヘルダーリンの詩作と人生に真理を見出したのが、かのマルティン・ハイデガーです。ハイデガーによれば、ヘルダーリンの詩は「不在の神」を歌っているといいます。すなわち優れた詩人とは逃げ去った神々の痕跡に名を与えることで、将来において再び神々が到来する可能性を見い出す人であるということです。

こうしてヘルダーリンに導かれるようにハイデガー哲学はいわば「統合失調症化」する。その特徴はいわゆる「否定神学構造」にあります。「否定神学」とは「神は不在という仕方で現前する」という神学における議論であり、より一般的に言えば「ある構造において、中心にあるべきものが欠如しているが、それが欠如しているがゆえにその構造はより強力に機能する」という思考様式です。


* 〈父の名〉の排除と外の思考

このような否定神学構造を基盤として精神病論を構築したのがフランスの精神分析医、ジャック・ラカンです。精神病(統合失調症)の発症は、進学、就職、昇進、結婚、出産といったライフイベントの際によく観察されることが知られています。ラカンの精神病論はこのメカニズムを「〈父の名〉の排除」に起因するものだと考えます。

ラカンによれば人間には「象徴界」と呼ばれる言葉の秩序があり、その秩序においては様々な言葉(シニフィアン)が相互にネットワークを作っていると考えます。このネットワークの中であるシニフィアンの意味は他のシニフィアンによって決定されるわけです。そして、ラカンはこのシニフィアンのネットワークそれ自体を固定させる為の中心的なシニフィアンを〈父の名〉と呼びます。

ところが精神病構造においては、この〈父の名〉のシニフィアンが排除されており、いわば象徴界に穴が空いているという状態と言えます。それでも思春期くらいまでは「想像的杖」となる他者の行動や発言の模倣によってなんとか適応できていたりするわけです(かようなパーソナリティ)。しかしいよいよ進学、就職、昇進、結婚、出産といったライフイベントを迎えた時にはどうしても〈父の名〉を参照する必要がある。

この時点でそれまでは漠然と「あそこにあるのだろう」と思っていた〈父の名〉が実は無かったという事実が明らかになってしまう。するとこれまで仮固定のような形でネットワークを形成していた諸々のシニフィアンがバラバラになり、多くの場合、幻聴という形で不在の〈父の名〉の在り処を示すかの如く歌い始めてしまう。これが精神病(統合失調症)の発症という事です。

そしてラカンの弟子にあたるジャン・ラプランシュはヘルダーリンの狂気の詩作をラカンの理論で読み解き、さらにミシェル・フーコーはこうした一連の議論を「外の思考」として整理し、これを19世紀から20世紀に至る現代文学の主要な特徴とみなしました。

こうした過程を経て確立したのが「統合失調症中心主義」です。そして、ここから導かれるのは真の創造とは理性の解体と引き換えにしか手に出来ないという悲劇主義的なパラダイムに他なりません。


* 深層から表面へ

けれどもこうした「統合失調症中心主義」は前述したような統合失調症の軽症化と自閉症スペクトラム障害の前景化という臨床的現実から遊離したものになりつつあります。そしてそもそも「統合失調症中心主義」は創造の源泉を「形而上学的な深淵」とか「不在の神」とか「〈父の名〉の排除」などといった単一の特異点に求めているため、ジャック・デリダが批判するように、個々の作家の特異性が完全に無視される金太郎飴的言説に陥る憾みがあります。では「統合失調症中心主義」のオルタナティブとなる現代的な創造の源泉はどこに求めるべきなのでしょうか。

この点、ポスト・構造主義の代表的論客と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは、その主著の一つである「意味の論理学」において、典型的な統合失調症者であるアントナン・アルトーと現代では自閉症スペクトラム障害と診断されうるであろうルイス・キャロルの文学論を並走させています。

ここでドゥルーズはアルトーの文学は「深層」にあり、キャロルの文学は「表面」にあるといいます。そして「意味の論理学」以降、ドゥルーズ哲学は「深層」を拒絶し「表面」を偏愛する方向に向かっていきます。

そしてドゥルーズ後期の代表作「批評と臨床」ではキャロルの他、やはり自閉症スペクトラム障害の特徴を持つレーモン・ルーセルやルイス・ウルフソンといった作家をドゥルーズは評価します。

キャロルの代表作「不思議の国のアリス」の「かばん語」などがその典型ですが、彼らはアルトーのように言語の「深層」に不在の神を見出すのではなく、言語の「表面」をある種の情報の束、データベースとして捉え、これをハッキングしようとする。これは言語を一旦拒絶した上で、自らの特異的な仕方で言語に再接続する試みに他ならない。ドゥルーズはここに単一的な特異点に回収されない個別的な特異性を見出しているわけです。


* 幸福の在り方を創造するということ

統合失調症から自閉症スペクトラム障害へ。深層から表面へ。不在の神からデータベースへ。こうした創造のパラダイム転換は芸術論に留まらず、現代を生きる我々が生のリアリズムを獲得する上で参照点の在り処を示します。規範的幸福のロールモデルが失墜した現代においては、我々もまたそれぞれの幸福の在り方を自ら「創造」していかなければならないということです。










posted by かがみ at 22:56 | 心理療法

2020年01月30日

資本主義のディスクールと生の物語




* 理想・夢・虚構

人はその想像力をもって世界を照らし出し、自分なりの「生の物語」を紡ぎ出すことで、世界の中に自らの居場所を作りだす。

いわば人は「物語」の中で生きているということです。こうした「物語」を紡ぎだす想像力は、それぞれの時代において共有される想像力にある程度は規定されることになります。

戦後社会学の泰斗である見田宗介氏はこのような時代的想像力を「反現実」と呼びます。すなわち、我々の「現実」は「反現実」によって規定されているということです。

こうした観点から、見田氏は戦後日本史を3つの時期に区切り「プレ高度成長期(1945年〜1960年頃)」は「理想の時代」であり「高度成長期(1960年頃〜1970年前半)」は「夢の時代」であり「ポスト高度成長期(1970年後半以降)」は「虚構の時代」であると、それぞれ規定しました。


* ポスト・虚構の時代における「反現実」

そして戦後50年目、阪神大震災が起きた1995年は、戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であり、国内思想史においてもある種の特異点に位置付けられています。

この年、一方で平成不況の長期化により社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した。

こうして高度成長期以後、かろうじて日本社会を支えていた「理想・夢の残骸としての虚構」も、それはまさに文字通りの「虚構」でしかないことが明らかになった。こうして、ここで「虚構の時代」は臨界点を迎えたとひとまずは言えます。では、こうしたポスト・虚構の時代における「反現実」はどのように捉えるべきなのでしょうか?


* 動物の時代と不可能性の時代

1995年以降、日本社会においてはいわゆるポストモダン状況が大きく加速したと言われます。「ポストモダンの条件(1979)」を著したフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは「ポストモダンとは大きな物語の失墜である」と規定します。ここでいう「大きな物語」とは宗教やイデオロギーなど社会を規定する大きな価値体系の事です。

すなわち、現代は「大きな物語」の失墜した時代と言えるでしょう。この点、東浩紀氏は「物語消費」から「データベース消費」への移行という現代における消費行動分析を切り口として、人間的欲望よりも動物的欲求を優先させる現代的主体を「データベース的動物」と名付け、1995年以降の現代を「動物の時代」であると規定します。

そして、大澤真幸氏は東氏がいう「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言います。大澤氏によれば「虚構の時代」は⑴「虚構」に反するかのような「現実への回帰」⑵「虚構」を強化するかのような「極端な虚構化」という一見相反する二つの傾向の間で分裂・解消されているという。そして、大澤氏はそこに「他者性なき他者」という「不可能性」を隠蔽する構造があるといい、1995年以降の現代を「不可能性の時代」であると規定します。


* 資本主義のディスクールと享楽社会

このように1995年以降の日本で加速したのは「大きな物語の失墜」「動物の時代」であり、ここで時代を規定する「反現実」とは「不可能性の時代」にあるとひとまずは捉えられます。そして、こうした時代の「反現実=内的現実」と照応する「実際の現実=外的現実」はフランスの精神分析医、ジャック・ラカンの提出した「資本主義のディスクール」によって記述する事ができます。

精神分析の創始者、ジークムント・フロイトは人の中に内在する根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そしてラカンはその欲動満足を「享楽」と呼びました。

ラカンは当初「享楽」とは本来的には到達不可能なものであり、人は「対象 a 」を通じて辛うじて部分的侵犯が可能であると捉えていました。ところが70年代以降の消費化情報化社会の進行は享楽の性質に変容をもたらします。これは端的に言えば享楽のデフレーションです。消費化情報化社会の進行の中、もはや享楽とは到達不可能なジュイッサンスではなく、計量可能なエンジョイメントへと変質し始めます。

こうした時代の変化を早々に察知したラカンが、かつて示した「4つのディスクールの理論」を更新すべく1972年に提出したものが「資本主義のディスクール」です。

資本主義のディスクール.png


資本主義のディスクールが表すのは資本主義システムが生み出す際限なき享楽の氾濫と個人の生を支える幻想の失墜です。こうして「享楽せよ!」という超自我が支配する社会が到来し、溢れんばかりの対象 a の洪水の中、我々はネズミのように「資本主義のディスクール」という回し車を回し続けることを強いられる。「大きな物語の失墜」とは、いよいよ「資本主義のディスクール」が前景化して「享楽せよ!」が規範化されてしまった「享楽社会」に他なりません。



* エヴァが描き出した「他者の両義性」

以上に見たように現代とは内的には「大きな物語の失墜/動物の時代/不可能性の時代」によって規定され、外的には「資本主義のディスクール」によって規定された時代であるといえます。いずれにせよ、もはや何が「正しい生き方」なのかよくわからなくなった時代が幕を開けたということです。では、そうした時代において、人は「他者」とどのように関係して行けばよいのでしょうか?

こうした現代における「他者」との関係性を、あの時代の変わり目において真正面から問いに付した作品が「新世紀エヴァンゲリオン」でした。周知の通りエヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作が公開されました。この二つのエヴァの物語において提示されたのは両極端な「他者」のモデルでした。

すなわち「おめでとう」という承認を与える「反現実の他者=他者性なき他者」と「キモチワルイ」という拒絶を貫く「現実の他者=異質な他者」です。そしてこの両者は、実際問題として同一の他者の中に同居する。すなわち、我々はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないということです。


* ゼロ年代の想像力は「他者」をいかに描いたか

こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」に規定されることになります。

この点、最もわかりやすい答えは、エヴァTV版のような「他者性なき他者」を幼児的に希求する態度です。こうしてゼロ年代前期には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡しました。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力です。

ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。2000年以降、米国同時多発テロ、構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、グローバル化とネットワーク化が極まった世界において「異質な他者」は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。

こうして時代は剥き出しの欲望がしのぎを削るバトル・ロワイヤルへと突入する。そこにもはや普遍的な正義が無いのであれば、人は自ら正義をでっち上げて生き延びるしかない。こうしてゼロ年代中期には「異質な他者」との間に正義の簒奪ゲームを繰り広げる「決断主義」と呼ばれる想像力が台頭する。

けれども「決断主義」の台頭は同時に、このある意味で不毛な簒奪ゲームをいかにして乗り越えるのかという問題意識をもたらしました。こうしてゼロ年代後期には「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく「ポスト・決断主義」というべき想像力が前景化していきます。


* 「きずな」と「生きづらさ」

こうした「他者」をめぐる様々な想像力が錯綜する状況で2007年、エヴァは全4部作の新劇場版として再起動しました。総監督を務める庵野秀明氏はその所信表明において、エヴァという作品を「曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話」だと再定義します。

その第1部「序」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成ですが、その後に続く「破」は驚きを、そして「Q」は困惑を、多くの観客にもたらしました。

すなわち「破」が「異質な他者」との間に「他者性なき他者」を発見していくというゼロ年代的想像力を体現する「きずなの物語」だったのに対し「Q」は様々なクラスターや格差によってズタズタに寸断されていくゼロ年代的現実を告発する「生きづらさの物語」だったとも言えるわけです。


* 時に、西暦2020年

この「破」から「Q」に至る流れはかつてのTV版から劇場版へ至る流れを想起させます。かつてエヴァ劇場版はエヴァTV版に共感する「エヴァの子供達」に冷や水をぶっかけるような結末を提示しました。ここで示されたのも「おめでとう」という幻想ではなく「キモチワルイ」という現実を見ろという警鐘ではなかったでしょうか。

「おめでとう」から「キモチワルイ」へ。「きずな」から「生きづらさ」へ。こうしてみると庵野氏の立ち位置はある意味で一貫しているといえるでしょう。

そしていま、平成から令和へと移り変わったこの時に、新劇場版が完結を迎えるのは一つのめぐりあわせのように思えます。かつて時代の変わり目において巨大な「問い」を突きつけたこの作品は、いま再び時代の変わり目においていかなる「答え」を見せてくれるのでしょうか。


* もう一つの「反現実」

こうして我々は「大きな物語の失墜」という内的現実と「資本主義のディスクール」という外的現実の下で、「きずな」と「生きづらさ」の間にある隘路を行くことになる。すなわち、こうした時代性を逆手に取る想像力こそがいま必要とされているということです。

この点、宇野常寛氏は見田氏や大澤氏の議論を引き継ぎつつ、グローバル化とネットワーク化の極まったこの現代における「反現実」とは、理想や夢や虚構、あるいは不可能性といった「ここではない、どこか」を夢想する「仮想現実」ではなく、我々が生きる「いま、ここ」を多重化していく「拡張現実」であると言います。

こうした「拡張現実」を「反現実」に位置付けることで、ある種の価値観の転換が可能となるでしょう。人はこの何気ないありきたりな「いま、ここ」の現実に深く潜っていく事で様々な豊かな「生の物語」をいくらでも紡ぎ出していけるということです。


* 物語を書き換えていく知

人は「物語」の中で生きています。これまで人の「生の物語」を基礎付けていた「大きな物語の失墜」は我々に「不安」をもたらしたことは確かです。けれどその反面で、人は多様な「小さな物語」の中で自分だけの「生の物語」を選択していく「自由」を手にしたことも確かです。また「資本主義のディスクール」から日々産出される様々なガジェットやコンテンツ達は使い方次第で現実を拡張していく上で良き媒介にもなるでしょう。

こうした時代の闇と光を見はるかし、内的-外的な現実における様々なめぐりあわせの中で自らの「生の物語」を自在に書き換えていく。このような「物語」に対するリテラシーこそが、享楽のデフレーション、幸福の規制緩和の時代ともいうべき現代を生きる上での知となるのではないでしょうか。













posted by かがみ at 23:15 | 心理療法

2019年12月31日

「現実界」と「生の現実」



* 帝国の体制と制御社会

今世紀初頭に出版され世界中でベストセラーとなった「〈帝国〉」において、その共著者であるアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは「国民国家の体制」と「帝国の体制」を対置して「国民国家」の衰退が「帝国」の到来を告げる主要な兆候の一つであると指摘しています。

つまり現代においては「国民国家(ナショナリズム)」というイデオロギーに代わり「帝国(グローバリズム)」というシステムが世界を席巻しつつあるということです。

この点「国民国家の体制」と「帝国の体制」では作動する権力の質が異なります。ミシェル・フーコーの分類に準拠すれば、前者では権力者が命令、懲罰を与える事で対象者を望ましい態度へ矯正する「規律訓練」が優位となりますが、後者では対象者の自由意志を尊重しつつその生活環境に介入する事で結果的に権力者の目的通りに対象者を動かす「生権力(環境管理型権力)」が優位となります。

そして後者が優位になる時、アーキテクチャによる統制の下、人間がモルモットのように飼い殺されていく社会、ジル・ドゥルーズの言うところの「制御社会」が出現します。


* 現代における「悪」の病理

こうして、いまや「帝国の体制=制御社会」というシステムの下、ヒト・モノ・カネの流動化・情報化は日々際限なく加速し続け、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん社会的弱者へと転嫁されていく。そしてそのコストは時に悲惨な形で無関係な人々にさらに転嫁されてしまう。

これが現代における「悪」の病理です。それは例えば、世界レベルで見ればグローバル化の反作用としての原理主義者のテロリズム、国内レベルで見れば格差社会の不適応としての「無敵の人」の無差別殺人事件という形で噴出する。

今年秋に公開され世界中で物議を醸し出した映画「JOKER」はまさにこうした現代的な「悪」の病理を描き出した作品と言えます。社会の「ババ」を押し付けられた存在として、あるいはもはや何も失うものがない「最強の存在」として、多くの人にドミノ的に災厄をばら撒く「悪い冗談」として。こうした何重の意味においてジョーカーは文字通りの「ジョーカー」として君臨する。

けれども当然のことながら、我々はジョーカーになるわけにはいかない。こうして現代に生きる我々にはシステムに飼い殺される事なく生のリアリズムを見出すための想像力が求められることになります。


* 現実界と対象 a

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンが「精神分析の四基本概念(1964)」において提示した理論は近代哲学の一つの到達点を示しています。

イマヌエル・カントによって確立された近代哲学は、認識システムで捕捉可能な「現象」の外部にある不可知の「物自体」に人の超越性を見出しました。そして、ここでラカンが示したのはこの超越性を操作するための理論装置と言えます。

ラカンは人の精神活動を以下の3つの次元で捉えます。イメージの次元である「想像界」、言語の次元である「象徴界」、そして、イメージでも言語でも捕捉不可能な「現実界」です。

つまり「想像界」「象徴界」から構成される我々の認識システムは「現実界」という「穴」を中心にぐるぐると旋回しているということです。

ここでラカンのいう「現実界」とは、カント哲学における「物自体」に相当します。ラカンはこうした本来不可知の「現実界」を「欲動の往還運動」の中に囲い込むことで「欲動の対象=対象 a 」として切り出します。つまり精神分析においては、分析家が「対象 a 」の場を演じることで、分析主体の症状を規定する「幻想=$♢a」へ介入が可能となるわけです。


* 幻想と生きづらさ

ここで示されたラカンの理論は、当時の最も革新的な精神分析理論であると同時に、最も洗練された近代哲学でもありました。そしてその有効性と輝きは現在においても未だ失われてはいないでしょう。

けれども一方、これだけではあらゆる状況や価値観が夥しく出現しては目まぐるしく流転していく現代に対応する想像力としては不十分です。

わかりやすい例でいうと「一流大学を出て一流企業に入り、それなりの恋愛を経てそれなりの家庭を持つ」などという、もはや古色蒼然というしかないロールモデルに「幻想」を見出してしまい、そのプロセスのどこかで挫折した時、多くの場合、その「幻想」は「生きづらさ」として跳ね返ってくるでしょう。

いまや、何かしらの特定の「幻想」に夢を見出して、人生全てを預けてしまうかの如き態度は、相当にリスクを伴う生き方と言わざるを得ない。こうして現代における想像力は、ラカン的「現実界」の外側にある何かに求められることになります。


* 否定神学システムと郵便的誤配

この点、東浩紀氏は「存在論的、郵便的(1998)」において、上に述べたようなラカン理論を「否定神学システム」と呼び「現実界」から脱出する思考として「郵便的誤配」の概念を提出しました。

かつてラカンは人の認識システムが「現実界」を中心に巡る必然性を「手紙は常に宛先に届く」と表現しました。これに対して、ポスト構造主義を代表するフランスの哲学者、ジャック・デリダは「手紙は宛先に届かないことが常にありうる」と応答しています。

そして、東氏はある時期のデリダの著作の読解を通じて、単数的穴である「現実界」ではなく、複数的他者の交差する「端的な現実」におけるコミュニケーションの「誤配=すれ違い」の中に超越性を見出すことでラカン的否定神学システムの乗り越えを試みます。


* 物質界と思弁的実在

またゼロ年代以降のフランス現代思想の潮流も、東氏とは別のアプローチで「否定神学システム」からの脱出を試みます。

例えば、カトリーヌ・マラブーは、脳神経に物質的な変化や障害が起きれば、その「可塑性(外因的変化)」によって精神は変容を強いられるといい、ラカン的「現実界」とは別に「物質界」を位置付けます。

また、カンタン・メイヤスーは、カント的な認識論(つまりはラカン的否定神学システム)を「相関主義」といい、この相関主義の外部にある「思考不可能な実在」が非合理的な「信仰主義」の拠点となるとする。

そして、メイヤスーは「思考不可能な実在」とは別に「思考不可能ではない実在(物質的世界)」を措定し、この世界のあり方に必然性はなく、全くの偶然性で別様の世界に変化する可能性もあるし、このまま世界が維持されるとしてもそれは偶然の結果に過ぎないという思弁的な結論を導き出す。こうした考え方は「思弁的実在論」と呼ばれており、現代哲学における新しい潮流として注目を集めています。


* サントーム

さらに、近年はラカン派内部でも、ラカンが1970年代に行ったセミネールの再検証が進んでおり、晩年のラカンも、かつて自らが構築した「否定神学システム」の外側に精神分析の終結条件を見出していた事が明らかになっています。

ラカンは精神分析の終結条件について「主体の歴史の書き直し」「幻想の横断」「主体の廃位」「対象 a の転落」と様々な角度からの説明を試みていますが、1977年に決定的な定式を与えます。すなわち「症状への同一化」です。

ここでいう「症状」とは分析の果てに見出されたその人だけがもつ特異性あるいは単独性の結晶、すなわちラカンのいう「サントーム」です。

ここでラカンは「否定神学システム」の外側に「症状=サントーム」を見出していることになります。すなわち、人は自らの中にサントームを発見し、あるいは発明することで「否定神学システム」の呪縛を解き放ち、その人なりの幸福を生きていくことができるという事です。


* 特異点としての「生の現実」

誤配、物質界、思弁的実在、そしてサントーム。ここで共通する発想は「現実界」から自由になるための特異点を人それぞれ固有の「生の現実」に求めているところにあります。

「生の現実」。それは「象徴界のリミット」「不可能な領域」「世界の果て」という意味での「現実界」とは位相を異にする「いま、生きている」という「あたりまえの現実」です。

一見、ある種の開き直りとも取れる発想です。これはバカバカしいことなのでしょうか?2016年に映画化され、大きな反響を呼び起こした「この世界の片隅に」の作者、こうの史代さんは原作のあとがきで次のように書いてます。

「平成一八年から二一年の『漫画アクション』に、昭和一八年から二一年のちいさな物語の居場所があった事。のうのうと利き手で漫画を描ける平和。そして今、ここまで見届けてくれている貴方が居るという事。すべては奇蹟であると思います。」

(「この世界の片隅に(下)」より)


本作の主人公、北條すずは太平洋戦争末期に時限爆弾の炸裂に巻き込まれ、自分を慕っていた義理の姪と右手を一瞬のうちに喪ってしまいます。こうした悲劇は決して遠い昔の他人事ではない。マラブーの「可塑性」やメイヤスーの「思考不可能ではない実在」ではないですが、我々は次の瞬間も生きているという保証はどこにもないし、もしかして次の瞬間にこの日常が灰燼に帰している可能性だってある。

そうであれば次の瞬間も「のうのうと」と生きていられる「あたりまえの現実」があるという事は「すべては奇蹟である」という事ではないでしょうか。

こうして我々の前には、一方で日常的に生起する困難や理不尽な現実があり、一方で「いま、生きている」という瑞やかな現実があるということです。世界がディストピアになるか、可能性に満ちたものになるかの分岐点は、まさにこのどちらの「現実」を引き受けるかという選択にかかっているのでしょう。










posted by かがみ at 01:56 | 心理療法