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現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2023年08月23日

祭りのかなた−−現代の病理における時間構造



* 木村精神病理学における祝祭論

日本を代表する精神病理学者、木村敏氏はさまざまな精神病理を「自己」という問題から統合的に考察したことで知られています。この点、木村氏はうつ病者においては「自己」と他者との「あいだ」が問題となり、統合失調症者においては「自己」の成立そのものが問題となるといいます。すなわち、統合失調症者においては自己と他者が同時に発生する場としての「あいだ」が極めて不安的であることから、木村氏のいう「ノエマ的自己(意識対象)」が対象化されておらず「ノエシス的自己(意識作用)」が成立していない状態にあるということです。

そして次に木村氏はこうした「自己」をめぐる問題を「時間」の問題として捉えました。これが木村精神病理学における「祝祭論」として知られる一連の有名な議論です。


* あとの祭り−−うつ病における時間構造

かつて「うつ病」といえばもっぱら「内因性うつ病(メランコリー親和型うつ病)」を指していました。このタイプのうつ病者は一般的にその発症前から几帳面、凝り性、責任感旺盛で、秩序を重んじ、自分への要求水準が高く堅実、誠実、世話好きといった性格を持つことで知られています。

この点「メランコリー親和型うつ病」という疾患概念の提唱者であるドイツの精神病理学者フーベルトゥル・テレンバッハは内因性うつ病者が持つ特徴を「インクルデンツ(秩序のなかに閉じ込められている状態)」と「レマネンツ(自分自身に常に負い目のある状態)」と呼んでいます。また同じくドイツの精神病理学者アルフレッド・クラウスは個人のアイデンティティ(自己同一性)を「自我アイデンティティ(純粋に自分自身について持つアイデンティティ)」と「役割アイデンティティ(社会の中での自分の役割について持つアイデンティティ)」の二重構造から成り立っているとして、内因性うつ病者は「自我アイデンティティ」の形成が不十分であるため「役割アイデンティティ」が優勢となり、社会的・対人的な役割関係を守ることに自分の価値を見出していると考えました。

このように内因性うつ病者は社会の中で規定された秩序や役割に縛られており、彼ら/彼女らが自分自身に課された秩序や役割に対して負い目を感じたとき、症状としてうつ病が発症することになります。こうしたテレンバッハ/クラウスの議論を受けて木村氏は内因性うつ病患者の病前性格の基本的特徴を「現状維持への活動的執着」であると捉え、それが様々な事情によって維持できなくなった時「取り返しがつかない」という抑うつ気分が生じるとして、また、いわゆるうつ病の三大妄想と呼ばれる「罪責妄想」「心気妄想」「貧困妄想」も、やはり「取り返しがつかない」という意味方向を持っているといいます。

そして、このようなうつ病者における「取り返しがつかない」という根本気分が回復不能なまでに棄損されたとすれば、それはまさしく「あとの祭り」というべき事態となります。こうしたことから木村氏はこの内因性うつ病における時間構造を「あとの祭り」のラテン語である「ポスト・フェストゥム(post festum)」と呼びます。


* 祭りの前−−統合失調症における時間構造

これに対して統合失調症者における時間体制はまったく異なる位相にあります。統合失調症の中核症状である被害妄想は「誰かに狙われている」という追跡妄想や「周囲の人たちに見られている」という注察妄想という形を取りますが、このように自分を迫害してくる他者とは誰それという具体的個人ではなく、たいていは漠然とした「人びと」であり、多少具体的になっても「正体不明の組織」であったりします。

いずれにしても統合失調症者が何らかの被害妄想を持つとき、実際には具体的な他者が怪しい態度をとっていたり自分の生活環境に不審な変化があったりするわけではなく、まず本人が何かの被害を被っているという恐怖感を持ち、そこから二次的に周囲の他者や環境が不審に思えてくるわけです。そして、そのような被害妄想に対して統合失調症者は反撃することも無視することもできず、迫害してくる相手は「絶対的な他性」ともいうべき抗い難い力を持って現れます。

このような圧倒的な「絶対的な他性」を前にして統合失調症患者は「何かが起こるのではないか」という不安と警戒のなかで日々を過ごすことになります。とりわけ「この世の終わり」とでもいうべき破滅的状況が起こりそうだという統合失調症的体験は特に「世界没落体験」と呼ばれます。

いずれにせよ統合失調症患者は常に周囲世界から何かを感じ取り、先へ先へと行動しなければいけないと気分の中で生活してます。いわば統合失調症患者は、未来先取的、予感的、先走り的な時間の中に生きているといえます。木村はこの統合失調症患者特有の時間構造を「祭りの前」を意味するラテン語である「アンテ・フェストゥム(ante festum)」と呼びます。


* 祭りのさなか−−てんかん・躁うつ病における時間構造

精神疾患の中には脳の神経伝達が一時的に乱れることで意識や身体に障害が生じる「てんかん」と呼ばれる疾患があります。この疾患はまず「いつもと何かが違う」という落ち着かない気分が生じ、そのうち両腕両足が硬く突っ張ったのちに大きく痙攣して意識を喪失する発作を起こす、いわゆる「アウラ体験」で知られています(もっともこれはあくまで典型例な発作例です)。

このような「アウラ体験」では通常、意識が朦朧とするため、大抵はその時のことを覚えていませんが、原因不明の脳波の乱れが脳全体で生じる突発性全般てんかんの一種で朝方の覚醒直後に発作を起こす「覚醒てんかん」においては、ほんの僅かな時間の「アウラ体験」を覚えている患者もいます。

それはまさに生の実感と死の境域が同時に立ち現れる体験であり、自分と世界が渾然一体となっているかのようなヌミノーゼ的な体験であり、その瞬間には過去も未来もない「永遠の現在」が出現しているといわれます。これこそまさに「祝祭」そのものの体験であり、このようなてんかん患者に特有の「永遠の現在」というべき時間構造を木村氏は「祭りのさなか」を意味するラテン語である「イントラ・フェストゥム(intra festum)」と呼びました。

この点、木村氏によればアンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥムのあいだには質的な差異がありますが、これに対してイントラ・フェストゥムは量的な差異であるとされます。例えば躁うつ病(双極性感情障害)では現在中心のイントラ・フェストゥム的特徴が認められると同時に、内因性うつ病との連続性においてポスト・フェストゥム的特徴も併存しています。そして、このようなイントラ・フェストゥム的特徴を示す精神疾患として覚醒てんかんや躁鬱病の他にも非定型精神病、境界例、ヒステリーなどがあげられます。


* 祭りのかなた−−現代の病理における時間構造

このように木村氏の「祝祭論」はあらゆる精神疾患を−−さらにはあらゆる人間存在を−−その体験の基盤にある時間構造によって切り分けた点で卓越しています。もっとも木村氏がはじめて「祝祭論」を世に問うてから40年以上の歳月が経過しています。この点、精神病理学者の野間俊一氏は『身体の時間』(2012)において2000年型抑うつ(新型うつ病)、解離性障害、摂食障害、自傷行為、広汎性発達障害(自閉症スペクトラム障害)といった現代的な病理の中に木村氏の「祝祭論」を位置付け直す議論を展開しています。

まず同書で野間氏はこれらの現代的な病理がいずれも木村氏の「祝祭論」におけるイントラ・フェストゥムの枠内にあることを確認する一方で、その時間構造は木村氏の記述したイントラ・フェストゥムのような生き生きとした「いま」に満ちた「永遠の現在」とは真逆ともいえる、ただただ空虚な「いま」が流れては消えていくような単なる「瞬間の継起」であることを指摘します。

永遠の現在と瞬間の継起。この両者を区別するのは何なのでしょうか。野間氏によればこの両者を隔てているのはその身体性(身体感覚の総体)に対応する空間性(身体が働きかける諸事物の総体)であるということです。

我々はそれぞれ固有の身体を持つがゆえに我々にはそれぞれ個別の空間のあり方があり、また時代によって異なったそれぞれの空間のあり方があります。こうしたことから木村氏のいう本来のイントラ・フェストゥムでは「飛翔」する身体性に対応する「充溢」した空間性が想定されているのに対して、現代の病理は「浮遊」する身体性に対応する「空疎」な空間性の中にあるということです。

もっとも、こうした現代の病理を生きる人々が常に「空疎」な空間性を生きているわけではなく、瞬間的には例えば解離性障害における不穏状態や、広汎性発達障害における予期せぬ事態に対するパニックなどという形で「充溢」した空間性を体験することもあります。けれどもこうした「充溢」は長く続くことはなく、あくまで基調は「空疎」であるということです。

この点、木村氏のいうイントラ・フェストゥムは「祭りのさなか」という字義通り、まさに我を忘れて祭りの中で皆が入り乱れて踊り狂っているようなイメージです。これに対して現代の病理を生きる人々からは決して「祭り」の中に身を投じない、あるいは体は「祭り」の狂乱と喧騒の中にあったとしても心は「祭り」から切り離されて、ひとり遠く異次元に取り残されているというイメージが浮かび上がります。

こうしたことから現代の病理における時間構造を野間氏は「祭りのかなた」を意味するラテン語である「コントラ・フェストゥム(contra festum)」と呼びます。すなわち、ここでは時間体制としてのイントラ・フェストゥムはその空間様式において「狭義のイントラ・フェストゥム(充溢した空間様式)」と「コントラ・フェストゥム(空疎な空間様式)」に二分されることになります。

なお、この「コントラ・フェストゥム」について木村氏は1988年のある座談会で既に言及しており、そこで氏は「シラケ人間」と形容されるある種の人々における時間は「コントラ・フェストゥム」と呼びうると指摘し「アレキシサイミア(失感情症・感情失読症)」との関連を示唆しています。そして野間氏によれば、この「コントラ・フェストゥム」という時間構造こそがまさに現代の病理の枢要部に位置しているということになります。


* 近代の時間からポストモダンの時間へ

木村氏の提唱したアンテ・フェストゥム、ポスト・フェストゥム、イントラ・フェストゥムの三つ組に加えて、野間氏が提唱したコントラ・フェストゥムを加えると四者の関係は次のように示すことができます。

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(野間俊一『身体の時間』より)



こうして見ると現代における時間体制はアンテ・フェストゥムやポスト・フェストゥムからイントラ・フェストゥムへと遷移しており、なおかつ空間様式は狭義のイントラ・フェストゥムからコントラ・フェストゥムへ遷移していることがわかります。そして、このような時間体制と空間様式の遷移は大きくいえば「ここではないどこか(過去・未来)」に規定されていた「近代の時間」から「いまここ(現在)」が全面化した「ポストモダンの時間」への遷移ともある程度対応しているともいえそうです。

すなわち、一つの社会をまとめ上げる「大きな物語」が機能していた近代において個人は自身を生を基礎付ける「小さな物語」を「大きな物語」と同調させることで自己を自己としてあらしめていました。そうであればアンテ・フェストゥムは「大きな物語」が不在の時間であり、ポスト・フェストゥムは「大きな物語」から逸脱する時間であり、イントラ・フェストゥムは「大きな物語」に叛逆する時間であるともいえるでしょう。

そして「大きな物語」が失効したポストモダンにおいて個人は任意の「小さな物語」を選択して別の「小さな物語」を生きる他者の承認を得ることで自己を自己としてあらしめることになります。そうであればコントラ・フェストゥムとはこうした「小さな物語」同士による終わりなき承認ゲームという「祭り」から切断された「かなた」にある時間であるともいえます。こうした意味で現代の病理を規定するコントラ・フェストゥムという時間構造はポストモダンにおける個人の生のリアリティを裏面から照射しているともいえるのではないでしょうか。























posted by かがみ at 00:51 | 精神分析

2023年07月28日

水平方向のケア論



* 垂直方向から水平方向への方向転換

精神病理学者の松本卓也氏は「水平方向の精神病理学に向けて」という論考において「べてるの家」の活動で知られる向谷地生良氏の次のような言葉を引用して、統合失調症から回復はしばし「垂直方向から水平方向への方向転換」がきっかけとなってはじまることが経験的に知られていると述べています。

向谷地 面白いのはね、そういう(妄想の)話をしていくなかに、(身近な)他者が出てこないんです。さっきの神様とのテレパシーもそうだけど、話題はつねに「テレパシーと神」なんですよ。

−−神と一対一なんですね。

向谷地 リアルワールドじゃない「アナザーワールド」のなかでその関係に苦しんでいるんです。食事がまずいとかおいしいとか、誰々さんのことが好きだとか嫌いだとか、そういうリアルな現実との話がほとんど出てこないんですよ。だから、そういう話が出てくると、「あっ、回復が始まったな」と思う。むしろ、そういうことをいかに起こしていくか、ってことです。

(『精神看護』19巻2号「向谷地さん、幻覚妄想ってどうやって聞いたらいいんですか?・1−−その神様ってどのへんにいるんですか?」より)


ここで向谷地氏が述べている「神様とのテレパシー」という「アナザーワールド」と「食事」「誰々さん」という「リアルワールド」とはそれぞれ、松本氏のいう「垂直方向」と「水平方向」に対応しています。では、このような「垂直方向から水平方向への方向転換」がなぜ統合失調症の回復をもたらすのでしょうか。


* 精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について

統合失調症においては、多くの人にとってはある意味で当たり前な「世界に棲まう」という根本的な様式に何らかの障害があるといわれています。こうした統合失調症が生じる構造的条件をフランスの精神分析家ジャック・ラカンは「〈父の名〉の排除」にあると定式化しました。

1955年から1956年にかけて行われた『精神病』というセミネールにおいてラカンは〈父の名〉なるシニフィアンは通常、人が人生における重大な局面(例えば進学や就職や結婚や昇進といったライフイベント)において参照する幹線道路のようなものであるとして、こうした〈父の名〉がもともと排除されている精神病者(統合失調症者)は人生における重大な局面で父性を担うように呼び掛けられてもその〈父の名〉という幹線道路を利用できず、その周囲に張り巡らされた小道をさまよいながら妄想的な仕方で父性を実現することになるといいます。

そしてこのような『精神病』のセミネールにおける〈父の名〉の排除の議論を体系化すべく、その後ラカンはエディプスコンプレックスの構造論化に取り組み、その一連の議論をもとに1958年に執筆した論文が「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について」です。


* 世界を秩序づける神の女になる

同論文においてラカンは「シェーマI」と呼ばれる次のような図式を用いて精神病における発病と治癒のプロセスを論じています。

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(「水平方向の精神病理学に向けて」より)

ラカンによれば精神病者には元来、象徴界を統御するシニフィアンである〈父の名〉が欠けていますが、発病前の精神病者はその欠陥を、すなわち〈父の名〉の排除を直視せずに済ませており、多くの場合は自分と同性の隣人を一種のロールモデル(想像的杖)とすることによって現実社会に適応しています。しかし、何らかの形で彼/彼女に父性の問いを突きつけるトリガーとなるような父的存在が現れた時、彼/彼女はたったひとりで父性の問題に直面することになり、その際に〈父の名〉の排除が明らかになり、精神病が本格的に発病することになります。

そして精神病者は〈父の名〉の排除(P0)とその帰結であるファルスを起点とするセクシュアリティ形成の失敗(φ0)を、妄想の中で補修することによって神経症者の「父性隠喩」に相当する「妄想性隠喩」を構築するに至ります。

例えば『ある神経病者の回想録』(1903)で知られるダニエル・パウル・シュレーバーの場合(いわゆる症例シュレーバー)では〈父の名〉の排除によって不安定化した象徴界(言語領域)を安定させるため「世界を秩序づける」という妄想の軸(M→I)と、〈父の名〉の排除の帰結としての想像界(イメージ領域)における男性的同一化の失敗を防ぐため「神の女になる」という妄想の軸(i→m)がそれぞれ生じ、この二つの妄想の軸を結合した結果として最終的にあの有名な「世界を秩序づける神の女になる」というシュレーバーの妄想(=妄想性隠喩)が生み出されることになります。

このようにラカンのシェーマIは〈父の名〉の排除(P0)とファルスを起点とするセクシュアリティ形成の失敗(φ0)を補修する一連の妄想形成の作業をそれぞれ右側の象徴界の曲線(M→I)と左側の想像界の曲線(i→m)によって示したものです。それゆえに、ここでのラカンの精神病論は、その発病論(P0/φ0)においても、治療論(M→I/i→m)においても、もっぱら垂直方向の運動を取り扱っているものとしてひとまずは考えられています。


* 私たちに向けられている/妻を愛する

けれども話はここで終わりではありません。このシェーマIにおいて精神病の妄想は象徴界と想像界のそれぞれに空いた二つの穴(P0/φ0)の周囲を二つの曲線(M→I/i→m)が垂直方向に旋回することで生じているように見えますが、その上下にはさらに二つの直線が水平方向に走っています。ラカンはこの「私たちに向けられている/妻を愛する」という二つの直線が「現実が主体のために修復された際の諸条件を表している」のだといいます。

すなわち、シュレーバーの妄想は垂直方向の曲線だけでは際限なく拡大し、現実を極端なほどに歪めてしまう可能性がありますが、水平方向の直線が妄想に一定の枠を与えることで、現実を生き延びる可能性を開くことになります。

こうしてみるとラカン派においてしばしば語られてきた精神病の治癒像としての妄想性隠喩は実は真の治癒像ではないといえます。シェーマIに描かれたシュレーバーの真の治癒は「私たちに向けられている」と「妻を愛する」ことによって起こっています。すなわち、垂直方向の高みにある神のような超越的他者に向かうのではなく、水平方向のフィールドにおいて病者の語りを聴き取る者である「私たち(精神科医/精神分析家)」や、絆をつなぎ止める「妻」に向かうということです。


* 水平方向の治癒論としてのサントーム

もっともラカンは同論文においてこの「私たちに向けられている/妻を愛する」という二つの水平方向の直線を、それぞれ「患者が訴えかける読者としての我々が、彼にとっていったい何であるのか」「彼の妻との関係に関して残っているもの」であると説明するだけでこの話題を終えています。しかしながら松本氏は1970年代において再開される後期ラカンの精神病論を1958年の論文においては十分に扱うことができなかった「水平方向の治癒論」として読解していく道が残されていると述べています。

例えばラカンは1975年から1976年にかけて行われた『サントーム』のセミネールの中で精神病を疑わせる微細な症状を持ちながらも本格的な発病に至らなかったアイルランドの作家のジェイムズ・ジョイスを論じ、ジョイスにとって彼の妻のノラが果たした役割を「サントーム」にあたると述べています。ここでいう「サントーム」とは「症状」の古い綴り方であり、ラカンはこの術語によって自分の症状を社会の中で生きうるようになった神経症者や精神病者のあり方を示そうとしていました。

またこのセミネールでは〈父の名〉の位置付けも大きく変化しており〈父の名〉は「それを使うという条件のもとで、それをやりすごすことができる」ものとされています。これらの記述は父としての機能を果たさない父を持ち、父を否認しながらも父に深く影響されていたジョイスが、本格的な発症を来さずに創造行為を行うことができたことの理由を反-垂直方向において説明しようとすることを試みていると考えることができる、と松本氏は述べます。


* 当事者研究とは何か

そして向谷地氏が設立した「べてるの家」の活動の中にもこうした反-垂直方向ないし水平方向へと向かう運動を見出すことができるでしょう。「べてるの家」は1984年に北海道浦河町に設立された精神障害等を抱える当事者の地域活動拠点であり、今では「当事者研究」の先駆けとしても知られています。

統合失調症の症状に由来する「爆発」がおさまらず行き詰まっていた青年に向井地氏が「一緒に研究してみないか」と声をかけたところからはじまった「当事者研究」とは当事者が自らの「苦労」をグループの前で発表することで参加者と共にその「苦労」のパターンを明らかにしながら自分の助け方を考えて、ソーシャルトレーニング(SST)と呼ばれる当事者主体の運用が可能な訓練技法によって自分の助け方を練習していくという一連の活動を指しています。

このような当事者研究においては、これまで当事者があいまいな形で抱えていた「苦労」をきちんと言語化して仲間とシェアすることにより、例えば自分を侵襲する迫害的な幻聴が対話の相手である「幻聴さん」になっていくというように「症状」と呼ばれていたものの性質が大きく変化することになります。

そしてこうした「苦労」のシェアにより当事者の周囲においても「爆発を繰り返す〇〇さん」という理解から「爆発を止めたいと思っても止まらない苦労を抱えている〇〇さん」という理解に変わり、その人の抱える「問題」がその人自身から切り離されることになります。

また当事者研究のプロセスにおいては、例えば「統合"質"調症・難治性月末金欠型」というような「自己病名」が案出されることがあります。このように自身の「苦労」にオリジナリティを与える「自己病名」は当事者が自分自身の個別性を回復する試みの一環であると同時に、自身の抱える「苦労」をユーモアと共にシェアするきっかけにもなるのでしょう。


* 水平方向のケア論

現象学者の村上靖彦氏は、このような「当事者研究」における営みは投薬や隔離によって当事者の手を離れた「苦労」を、自ら取り組めるものとして本人に取り戻す働きがあり、そこには「苦労をユーモアへと反転する力」があると述べてます。

ここで村上氏のいう「苦労をユーモアへと反転する力」とは、松本氏の述べる「垂直方向から水平方向への方向転換」と軌を一にする運動であるといえるでしょう。あるいは当事者が自身の「苦労」を特異的=単独的なものとして引き受ける「自己病名」とはまさに「サントーム」というべき「症状」の「発明」であるともいえそうです。

村上氏は近著『ケアとは何か』(2021)においてケアとは単なる苦痛緩和や生活支援にとどまらず「生きることを肯定する営み」「病む人と共にある営み」であり、その目的とは「患者や苦境の当事者が自分の力を発揮しながら生き抜き、自らを表現し、自らの願いに沿って行為すること」であると位置付け、同書は精神疾患に限らず身体疾患や終末医療、あるいは在宅介護から児童養護施設やこども食堂にいたる多種多様な領域における対人援助職の語りを現象学的な視点から記述しています。

こうした同書が描き出す理念型としてのケアラーはまさに水平方向における他者(ラカンのシェーマIにおける「私たち」)というべき存在であるといえます。そうであれば、その語りの中からはいわば「水平方向のケア論」と呼ぶべき声を聴き取ることができるのではないでしょうか。





















posted by かがみ at 00:53 | 精神分析

2023年06月27日

精神病における「排除」の諸相



* 統合失調症の構造的条件

統合失調症は2002年までは「精神分裂病」と呼ばれていた精神疾患です。主な症状として「妄想」「幻覚」のような陽性症状と「意欲低下」「感情鈍麻」「無為自閉」といった陰性症状があります。これらの症状のほかに患者の社会的、職業的生活における機能のレベルが低下していること、そして、この症状がある程度の期間(6ヶ月以上)持続しており、他の障害ではうまく説明できない場合、統合失調症と診断されます。

このように統合失調症といえば一般的に「妄想」と「幻覚」の二大症状がまずは思い浮かべられるでしょう。もっとも統合失調症の概念を基礎付けたエミール・クレペリンやオイゲン・ブロイラーは知性、思考、感情、意志といった精神機能の衰退ないし分裂を統合失調症の特異的な症状として考えており「妄想」や「幻覚」といった症状はむしろ統合失調症以外でも見られる非特異的な症状として考えていました。

すなわち、統合失調症においては、多くの人にとってはある意味で当たり前な「世界に棲まう」という根本的な様式に何らかの障害があり、そこから派生して様々な幻覚や妄想といった症状が出現しているということです。

この点、現象学的精神病理学に多大な影響を残したスイスの精神病理学者ルートヴィヒ・ビンスワンガーは統合失調症の精神病理を主に「空間」の観点から論じました。ビンスワンガーによれば我々が生きる生の空間には自身を理想の極みに導こうとする「垂直方向」と、自身の経験や視野を広げていこうとする「水平方向」という二つの方向があり、通常ではこの二つの方向が「人間学的均衡(Anthropologische Proportion)」と呼ばれる適度なバランスを保ちながら拡大・縮小を繰り返していますが、統合失調症者においてはこの「人間学的均衡」が崩れ「水平方向」が痩せ細る一方で「垂直方向」が過剰に肥大化してしまっている状態にあるということです。

また、日本を代表する精神病理学者である木村敏氏は統合失調症の精神病理を主に「時間」の観点から論じました。木村氏によれば統合失調症者が理解し難い理想をたちどころに実現しようとする傾向は、そこには「それ」さえ実現すれば「いままで(過去)」や「いま(現在)」とは根本的に違った〈何か〉が開けるに違いないという「いまから(未来)」への憧れの現れがあり、このため彼らの自己理解はしばしば予感的、先走り的な時間性の構造となっているとして、こうした統合失調症における未来先取的なあり方を木村氏は「アンテ・フェストゥム(まつりの前)」と呼んでいます。

ではこうした統合失調症における特異な「空間」や「時間」の感覚はいかなる構造的条件から生じるのでしょうか。こうした統合失調症が生じる構造的条件を「言語」の観点から論じたのが精神分析中興の祖にして構造主義を代表する思想家でもあるフランスの精神分析家ジャック・ラカンです。

* 抑圧と排除

1951年からラカンは後に「セミネール」と呼ばれる通年講義を自宅で開始します。ついで1953年から1963年までの10年にわたってその講義はサンタンヌ病院で行われるようになります。このセミネールにおいてラカンが初めて本格的に精神病(統合失調症)の構造について論じたのが1955年から1956年にかけて行われた第3回目のセミネール『精神病』です。

まずラカンは『精神病』の初回講義から神経症と精神病における主要なメカニズムとしてそれぞれ「抑圧」と「排除」を位置付けています。ではここでは一体何が「抑圧」されたり「排除」されたりしているのでしょうか。ラカンによればひとまずそれは「去勢の脅威」であるとされます。

すなわち、神経症では「去勢の脅威」が「抑圧」されています。神経症の場合「抑圧」は幼児期の子どもが「去勢の脅威」を経験することで生じます。そして無意識下に「抑圧」されて潜在的なシニフィアンとして存在することが「是認」された「去勢の脅威」が後のトラウマ的出来事と事後的に結びつくことで象徴的に加工され別のものとして表現されることになります。

例えば抑圧されたものが身体の上に表現されれば、それはヒステリーの転換症状となります。そして、このような神経症の症状が持つ意味作用は象徴的に加工されているものであることから、つねに他の意味作用へ回付が可能となります(それゆえに神経症の症状は精神分析的な解釈が可能となります)。すなわち神経症の症状とは「抑圧されたものの象徴界への回帰」であるいうことです。

これに対して精神病では「去勢の脅威」が「是認」されることなく「排除」されています。精神病の場合「排除」された「去勢の脅威」はその発病時に排除されたものが(神経症のような象徴的な加工を受けることなく)そのままの形で出現します。つまり精神病において「去勢の脅威」は他の意味作用に回付することができない「謎めいた意味作用」として再出現することになります。そしてこのような精神病における「謎めいた意味作用」は象徴界のネットワークから切断されたものとして「ひとつきり」で存在します。このような存在の仕方をラカンは「(象徴界の外部としての)現実界のなかに出現する」といいます。

例えば精神病の症例として有名なダニエル・パウル・シュレーバーの回想録(いわゆる症例シュレーバー)では「性交を受け入れる側である女になってみることも元来なかなか素敵なことに違いない」という考えが突然意識の中に現れる事象が記されていますが、これはまさに「去勢の脅威(=女になることの脅威)」が「謎めいた意味作用」として現実界の中に再出現する現象であったと言えるでしょう。すなわち精神病における「謎めいた意味作用」とは「排除されたもの現実界への再出現」であるいうことです。

このように神経症における「抑圧」と精神病における「排除」の違いは「去勢の脅威」の処理の仕方の違いにあります。そしてこうした「去勢の脅威」の処理の仕方の違いが症状の持つ意味作用の違いとして臨床的に現れてくることになります。

精神病発症初期の患者はよく「何が起こったかわからないが、確実に何かが起こっていて不気味である」と語りますが、それはすなわち、世界の中に何か謎めいた意味作用があるということです。そして彼はそれがどんな意味作用かはわからないにも関わらず、その意味作用が重要なものであることは十分に理解しており、さらにその意味作用が自分(主体)に関係するものであることをはっきりと確信しています。

このような現象はラカン派では「困惑」と呼ばれており、一般的な精神病理学でいう「意味妄想(妄想気分)」「妄想知覚」にほぼ相当するものです。この「困惑」は、意味がわからない現象として何度も主体の前に現れます。そして、しばらくの間、彼はこの現象を加工することも統合することもできない状態に置かれます。それは、この現象の核にある「謎めいた意味作用」は象徴化のシステムにそれまで一度も参入したことがない意味作用であるため、それを他の意味作用へと回付させることができないからです。

そのため彼はこの現象をどれだけ否定しようとしても否定できず、それを信じざるを得ないことになります。そのことをラカンは「弁証法の停止」という風に表現しています。すなわち、主体が「困惑」という精神病現象を信じ込んでしまい、それを訂正できないのは、その訂正を可能ならしめる対立項(弁証法における反)が最初から欠けているからです。

このように精神病の症状が持つ謎めいた意味作用は象徴界(言語領域)で処理され得ないものであり、その結果、この謎めいた意味作用は想像界(イメージ領域)へと向かい、そこで処理されることになります。例えば発病時のシュレーバーの「性交を受け入れる側である女になってみることも外来なかなか素敵なことにちがいない」という考え(謎めいた意味作用)が想像界の中で連鎖反応を引き起こした結果が、彼の妄想の完成期に見られる「神の女になり、世界秩序を救う」という誇大妄想です。

* もうひとつの排除

ここまでのラカンの精神病論は⑴精神病では「去勢の脅威」が「排除」され、排除されたものは謎めいた意味作用として現実界に再出現し、主体はその再出現に対して「困惑」させられるという点と⑵精神病者は再出現した謎めいた意味作用を象徴的に仲介(他の意味作用へ回付)することができず、そのためその意味作用は想像的な増殖(妄想形成)によって処理されるという点に要約されます。ところがセミネールの後半になるとラカンはこれまでの「排除」とは異なる位相での「排除」から新たな精神病論を論じ始めます。

まずラカンは「謎めいた意味作用」の出現であるとされていた「困惑」を精神病の発病との関係から新たに位置付け直しています。すなわち、精神病の発病時にはラカンが「禁止された領野」「何一つとして語られることのできない領野」と呼ぶ一つの「穴」が主体に迫ってくるのであって「困惑」はその「穴」の接近の前兆であるといいます。つまりここでラカンは精神病における「語り得ないシニフィアン(シニフィアンの欠如)」を問題にしています。

このような「穴」の接近はいかなる言葉によっても言語化ができないため、その「穴」の周囲(縁)における活発な反応を生み出すことになります。具体的には、その「穴」の存在を暗示するかのようなシニフィアンが頭の中に乱舞する精神自動症や無意味な言葉が次々と聞こえてくる幻聴が生じます。ラカンはそれを「縁取り現象」と呼んでいます。

通常、神経症者においてはシニフィアンはお互いに連鎖したネットワークを形成しており、その中心点にはこのネットワークを束ねる一つのシニフィアン(仮にXとします)があります。しかし精神病者においてはその中心点にあるはずのシニフィアン(X)が欠如している(=「穴」が空いている)ため、そのシニフィアン(X)と連鎖するはずの周囲(縁)のシニフィアンが連鎖を外れてバラバラになってしまいます。

ここで重要なのは穴の周囲のシニフィアンがバラバラになり、それらのシニフィアンが精神自動症や幻聴という形で主体を襲うのに対して、中心が欠けている「穴」そのものはシニフィアンとしては全く−−排除されたものの回帰や再出現としてさえも−−現れてこないということです。

精神病の発病はこの欠如したシニフィアン(X)が何らかの形で呼びかけられることから始まります。この呼びかけは主体がシニフィアン(X)に近接することを要請しますがシニフィアン(X)は象徴界の中に欠けているために、主体はその呼びかけに応答することができません。結果、シニフィアン(X)の周囲(縁)の諸々のシニフィアンの解体が露呈し、その解体したシニフィアンがバラバラとなって主体を襲うことになります。

ラカンはこのような「あるシニフィアンそれ自体に患者が接近する」にもかかわらず「その接近が不可能である」という現象が精神病では頻繁に見られることに注目し、この現象を「排除」と呼ぶようになります。

ではここでは「排除」されているシニフィアンとは一体何なのでしょうか。この点、ラカンはシュレーバーの回想録においてシュレーバーの父親が一回だけしか引用されていないことに注目しています。その唯一の引用も性交に際して最適な姿勢を調べるために父親の著作を調べるという実に奇妙なものであり、ラカンはここにシュレーバーにおける父性機能の不在を見て取っています。

こうしたことから、ラカンは「シュレーバー議長には、どうみても『父である』というこの基本的シニフィアンが欠けている」と結論づけます。つまり、ここで「排除」されているのは「父である」というシニフィアンです。すなわち、精神病の構造的条件とは「〈父の名〉の排除」であるということです。

*〈父の名〉のシニフィアンとかのようなパーソナリティ

この点、ラカンは人間の精神生活を道路に例えることで精神病者の発病とその後の経過を説明しています。その比喩によれば「父である」というシニフィアンは人生の重大な局面において頻繁に参照される「幹線道路」のようなものです。例えば結婚を機に夫となることや、子供を持つことは「父である(家族に対して責任を負う)」という家父長制的シニフィアンを参照することなしには非常に困難であるからです。

しかしシュレーバーのような精神病者においてはこの幹線道路となる家父長制的シニフィアンが「排除」されています。その結果、シュレーバーは父性を担うよう呼び掛けられた際にこの幹線道路を利用することができず、代わりに彼はその周囲(縁)に張り巡らされた小道をさまよいながら妄想的な仕方で父性を実現させることになります。すなわち「神の女となり、世界秩序を救う」というシュレーバーの妄想は、彼が想像界の小道を通って父性をなんとか実現しようとする彷徨の軌跡であるということです。

このように〈父の名〉のシニフィアンを欠いている精神病者は父性が要求されるライフイベントにおいて〈父の名〉のシニフィアンを行使するよう呼び掛けられた時、そのシニフィアンの代わりに「穴」を持って応答することになり〈父の名〉の不在が露呈します。すると穴の周囲(縁)にある一連のシニフィアンが穴それ自体を暗示するような形で出現し一挙に主体を襲うことになります(縁取り現象)。

そしてこれらのシニフィアンはシニフィアン連鎖を解かれた「ひとつきりのシニフィアン」として主体に押し寄せます。そのため主体はこのシニフィアンが産み出す意味作用を他の意味作用へと回付させることができずに、その「謎めいた意味作用」に「困惑」することになります。

なお、ラカンは精神病の構造を持つ人物は発病前には「かのようなパーソナリティ」を獲得することによって日々の生活を送っているといいます。ここでいう「かのようなパーソナリティ」とは1934年にへレーヌ・ドイチュが提唱した概念ですが、ラカンはこの概念を参照しながら精神病の構造を持つ主体のありようを説明しています。

先に述べたように精神病者には人間の精神生活の中心を担う〈父の名〉のシニフィアンが欠如しているため、シニフィアンの全体が何かの拍子に崩壊してしまう危険があります。そのため、前精神病者は同性の友人や兄弟姉妹など特定の人物へ同一化することで〈父の名〉のシニフィアンがある「かのような」振る舞いを行います。

つまり「かのようなパーソナリティ」とは〈父の名〉のいわば想像的な代償です。ラカンは前精神病者におけるこのような代償を「想像的杖」と呼んでいます。すなわち、精神病の発病はこの想像的杖がうまく機能しなくなった時に生じると考えられます。

* エディプス・コンプレックスと精神病

このようにラカンは精神病が発病するのは〈父の名〉のシニフィアンの欠如が露呈する時点であることを明らかにしました。そして、こうした『精神病』における議論を体系化するため以降数年にわたりラカンは「エディプス・コンプレックス」の構造論化に取り組むことになります。

周知の通り精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは神経症の治療法を試行錯誤する中で、人の無意識の内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という心的葛藤を発見し、このような心的葛藤をギリシアのオイディプス悲劇になぞらえて「エディプス・コンプレックス」と名付けました。

この「エディプス・コンプレックス」なる仮説によれば、幼児は当初、母親との近親相関的関係の中にあり、やがてこれを禁じる者としての父親がもたらす去勢不安によって、幼児の自我の中に両親の審級が落とし込まれ、ここから自我を統制する超自我が形成されることになります。そしてフロイトによれば、男児と女児では去勢不安への反応は異なるものとされます。すなわち、男児はペニスの喪失を怖れる結果、父親のような強い存在になろうとします。これに対して、女児はペニスの不在に気付いた結果、父親に愛される存在になろうとします。

このような一見すると荒唐無稽としか思えない「エディプス・コンプレックス」なるフロイトの神話をラカンは構造言語学の知見を援用してもっぱら精神病の側面から読み直したことになります。こうした意味でラカンの精神病論は人の欲望やセクシャリティの条件をいわば裏側から照らし出している議論であると言えるでしょう。















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2023年05月26日

自己・時間・生命−−木村精神病理学の軌跡



*「あいだ」の精神病理学

日本を代表する精神病理学者である木村敏氏の名は「あいだ」の思想とともに広く知られています。この「あいだ」の思想の原点は木村氏の学生時代に見出すことができます。当時音楽に熱中していた氏はコンクールで合奏する機会も多く、この時の経験について氏は後年、次のように述べています。

数人で合わせている合奏音楽の全体が、個人の意志を超えたひとつの強大な意志を持ちはじめ、まるで一個の生き物であるかのように感じられてくる。そしてその大きな意志が、私個人のテンポやリズムだけでなく、私がひとつひとつの音に与えるもっと微妙な表情にいたるまで、私自身の演奏行為を支配し、操作するようになる。

(『心の病理を考える』)


木村氏によれば、ここでいう「大きな意志」は「なまなましい実体性」を帯びた「まるで目に見えない生きもの」のようであり、その時に合奏全体を支配する「大きな意志」と私という「個人の意志」は渾然一体となり、いわば二つの意志がひとつになっているように感じられたといいます。

このような「二重意志」は音楽の合奏といった特殊な場のみならず、ありきたりな日常においてもしばし我々の前に姿を表します。例えば多人数でのコミュニケーションにおいて我々は自身の発言の調子や内容がそのコミュニケーションの場全体から規制されているような時です。すなわち「あいだ」とはこのような複数の人間が集まった「場」に宿るものです。

そして木村氏によれば、この「あいだ」とは「リアリティ(理性的な認識対象としての現実)」の境域において認識対象として把握されるものではなく「アクチュアリティ(行為をしている最中に感じられる現実)」の境域において実体的経験として把握されるものであるとされます。では、こうした「あいだ」の思想がどのように精神病理学の理論に結びついていくのでしょうか。

*「あいだ」の病理としての統合失調症

木村精神病理学は大きくいえば「自己論」から「時間論」を経て、やがて「生命論」へと展開されていきます。若き日の木村氏はまず「自己の存在が感じられない」という離人症における問題から出発し、他の精神病理の場合もこうした「自己」の問題を考えようとしました。この点、木村氏によればうつ病ではすでに「自己」が成立しており、その自己と他者の「あいだ」が問題となりますが、統合失調症においては「自己」の成立そのものが問題となります。

「自己・あいだ・分裂病」という論文において木村氏は統合失調症における「自己」の確立に焦点を当て、その自己形成の歴史において何が問題だったかを以下のように説明します。

そもそも「自己」は「自己ならざるもの」とともに、主客未分の根源的自発性から発生しますが「自己」の側の差異化によって「自己」と「自己ならざるもの」が分離されます。こうして「自己」はその都度「自己ならざるもの」を分離しながら、その同一性を反復し続け、その主体性と固有性はこの反復によって維持され、その内面の歴史を形成していきます。

こうした「自己」の内面の歴史は多くの人々や物事との「あいだ」の歴史でもあり、そうした「あいだ」は一旦反復されて歴史を形成すると、それ以降は「自己」の一部となって生き続けます。このように「自己」の歴史は「あいだ」の歴史とともに始まります。生まれたばかりの赤ん坊に「自己」はありませんが、母親との「あいだ」に最初の自他の区別をした時点から「自己ならざるもの」との「あいだ」の歴史がはじまり「自己」が成立し始めるということです

ところが統合失調症の場合、こうした「あいだ」が極めて不安定で、結果として「自己」はその同一性を反復できずその形成は不完全なものとなります。このような事態を木村氏は「ノエマ的自己(意識対象)」が対象化されておらず「ノエシス的自己(意識作用)」が成立していないと説明しています。すなわち、統合失調症とは「自己」と「自己ならざるもの」が同時に発生する場所である「あいだ」の病理であるということです。

*「あいだ」としての「いま」

次に木村氏はこうした「自己」についての問いを「時間」の問題として捉えようとしました。木村氏の代表作である『時間と自己(1982)』においては人間の時間性というあり方と精神病理の問題が現象学的観点から論じられています。その概要は以下のようのものです。

通俗的な時間の観念では「いま」とは時計が指し示す特定の瞬間を言いますが、我々の日常においては「いま」は瞬間ではなく、一定の広がりを持っています。このような「いま」には「私」という主体の行為が含まれており、こうした行為の中に身を置いた「私」のアクチュアリティにおいてこそ「いま」は「過去」と「未来」の「あいだ」の広がりとして感じられることになります。

しかし、離人症という精神疾患においてはこうした「いま」の自明な感覚が消失してしまいます。離人症においてはある瞬間との印象と次の瞬間の印象を「時間」という観点で結びつけることができず、一瞬一瞬の「いま」が無数に出現することになります。すなわち、そこでは「私」のアクチュアリティにおける感覚が失われ「あいだ」としての「いま」が成立していないということです。

* アンテ・フェストゥム

これは「自己」の成立していない統合失調症にも同じことがいえます。統合失調症になる人は青年期に成熟した人間関係や将来を決定する重大な場面に直面すると、それに対処できず、激しい絶望感に襲われ症状が発現します。そして「自己」に対する確実な認知(自己認知)がないため、それが意識や行動にも現れ、独特な雰囲気を醸し出します。

このような「自己」の不確実性を反映した統合失調症の症状として「被影響体験(自分の意志や思考や感情が他者のように思えたり、他者に操られていると感じる体験)」と「つつぬけ体験(自分の意志や思考や感情が他者に伝わってしまっていると感じる体験)」が挙げられます。また統合失調症の典型的症状としての「関係妄想(周囲の出来事が自分に関係していると感じること)」や「幻聴(自分への批評や命令が聞こえること)なども「自己」の不確実さを示しています。

このように統合失調症においては自己認知がうまくいっていないため病者は現在の自己を否定し、実現不可能な未来の可能性に憧れるようになり、理解し難い理想をたちどころに実現しようとします。そこには「それ」さえ実現すれば今までの人生とは根本的に違った〈何か〉が開けるだろうという思考があります。

これは「いままで(過去)」の自己と「いま(現在)」の自己を認知できていないことによる「いまから(未来)」の自己への憧れの現れと言えます。このため彼らの自己理解はしばしば予感的、先走り的な時間性の構造となっています。こうした統合失調症の未来先取的なあり方を木村氏は「アンテ・フェストゥム的(前夜祭的)」と呼んでいます。

* ポスト・フェストゥム

このように統合失調症の時間意識が未来志向だとすればうつ病の時間意識は過去志向であるといえます。うつ病者は未来に目を向けず過去に積み上げてきたものを保守的に維持する傾向があり、うつ病になりやすい人の病前性格として几帳面で真面目で周囲の人間に気を使いすぎる面が挙げられます。そしてこのような行動パターンが破綻するとき、抑うつ気分、抑止症状、焦燥感、不安感、絶望感などうつ病の症状が生じてくることになりますが、その根底には「とりかえしののつかぬことになった」という後悔の意識、負い目があります。

つまり、うつ病においては「あとのまつり」という意識の構造が支配的であるということです。そこで木村氏はこうしたうつ病特有な過去にこだわる時間意識を「ポスト・フェストゥム(後の祭り)」と呼んでいます。

統合失調症では自己が確立される以前に自己の確立そのものが問題になりますが、うつ病においては自己が同一化すべき役割が問題となります。すなわち、うつ病者においては他者が自分に期待する役割に同一化する「役割同一性」が繰り返し再確認され、それまでの過去の在り方が将来のあり方を一方的に規定しており、その状態が危機に陥ると「とりかえしのつかない」「あとのまつり」として体験されることになります。

* イントラ・フェストゥム

このように統合失調症が「未来」にこだわる存在構造でありうつ病が「過去」にこだわる存在構造だとすれば「現在」にこだわる存在構造の精神病理も存在します。その例として木村氏は「癲癇」と「躁病」を挙げています。

この点「癲癇」においては突然何かに襲われたように意識を失って全身を痙攣させるような発作が現れ「躁病」においては感情を抑制できないまま誇大的な気分に任せた行動が見られますが、これらの症状の本質的な特徴を「祝祭的な現在の優位」としてみれば、それは「イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)」と呼ぶことができます。

そして、この場合の「現在」は「未来」や「過去」と並列されうるものではなく、むしろ「未来」や「過去」を生み出す源泉ともいえます。すなわち「イントラ・フェストゥム」における「自己」はもはや個別的な自我としては成立せず、宇宙大に拡大した「自己」が自然との和解の祝祭に酔いしれるような状態となり、このときもはや客観的時間軸上の「過去」や「未来」は消滅し、ただただ「永遠の現在」だけが存在します。

そもそも、このような「永遠の現在」は個別的な自我の誕生以前には唯一の時間であったはずですが、やがて人が自己の一回限りの生と死を学び個人間の差異が自覚されるようになったとき「未来」と「過去」という観念が生まれ、客観的時間の起源とも言えるような共同体に共有される時間が成立することになります。

こうした時間の起源からいえば「アンテ・フェストゥム」も「ポスト・フェストゥム」も、もともとは「イントラ・フェストゥム」から生じたことになります。もっとも「アンテ・フェストゥム」的な意識がなければ未来を考慮した行動はできませんし「ポスト・フェストゥム」的な意識なしには社会の秩序は保たれず伝統や慣習の形成は不可能です。こうした意味で我々の世界と日常はこの二つの意識が相補的に作用し合うことにより構成されているといえるでしょう。

*「あいだ」から紡ぎ直される物語

後年の木村氏はヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーの医学的人間学を参照した独自の生命論を展開するようになります。この点、ヴァイツゼッカーによれば「主体」とは個体内部にあるのではなく「生命それ自身」との「あいだ」の関係を維持しようとするある種の生命維持機構のようなものであり、個別の生命体はいついかなるときにもこの「生命それ自身」との関わりを保つことによってしか生きることができないといいます。すなわち「主体」を主体たらしめているものとは「生命それ自身」との「あいだ」であるということです。

木村氏はこうしたヴァイツゼッカーの思想を高く評価し、様々な精神病理の根底にはこの「生命それ自身」との関係が失われた状態があるのではないかと考えるようになります。そして個人ごとに区切られた個別的でな生命を「ビオス」と呼び、個人を超えた生きとし生きるものすべてに受け継がれてきた根源的な生命を「ゾーエー」と呼びます。

つまり「私」とは個別的な生命である「ビオス」であると同時に根源的な生命である「ゾーエー」にも属しており、個別の身体を持った「ビオス」は「ゾーエー」との関係を保ちながら対象化された「リアリティ」を生み出すことになります。これが「私」の個別化、自己化、主体性の成立ということです。そして、この「リアリティ」が形成されることで「アクチュアリティ」が事後的に発見され「アクチュアリティ」と「リアリティ」の差異が生じることになります。

こうしてみると木村精神病理学は「自己」「時間」「生命」という観点から一貫して「あいだ」の実相をまなざしているといえます。普段、我々はもっぱら「リアリティ」の位相からこの世界を観ています。しかし様々なこころの不調の問題にはこの「あいだ」が支配する「アクチュアリティ」の位相が深く関わっています。そして人がその生の物語を紡ぎ直していく営みもまた、こうした「リアリティ」と「アクチュアリティ」からなる多層的かつ連続的な現実の中に自らを位置付け直していく営みであるといえるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 02:36 | 精神分析

2023年04月25日

精神病理学における垂直方向と水平方向



*「思い上がり」の病としての統合失調症

精神病理学者ルートヴィヒ・ビンスワンガーによれば人間とは本質的に「思い上がる存在」であるとされます。我々が生きる生の空間には自身を理想の極みに導こうとする「垂直方向」と、自身の経験や視野を広げていこうとする「水平方向」という二つの方向があり、通常ではこの二つの方向が「人間学的均衡(Anthropologische Proportion)」と呼ばれる適度なバランスを保ちながら拡大・縮小を繰り返していますが、時に人間は己の「水平方向」の広がり具合に不釣り合いなまでに「垂直方向」が肥大化することがあります。

このような「垂直方向」の肥大化をビンスワンガーは「思い上がり(Verstiegenheit=奇矯な理想形成)」と呼びました。けれども「水平方向」への均衡を欠いた「垂直方向」への「思い上がり」は、あたかも蝋の翼で太陽に接近しようとしたイカロスの如く最終的には墜落=挫折してしまう運命にあります。そして、こうしたビンスワンガーにおける「思い上がり」という空間的モチーフは統合失調症患者の発症状況の綿密な観察によって得られたものでした。

統合失調症は2002年までは「精神分裂病」と呼ばれていた精神疾患です。主な症状として「妄想」「幻覚」のような陽性症状と「意欲低下」「感情鈍麻」「無為自閉」といった陰性症状があります。これらの症状のほかに患者の社会的、職業的生活における機能のレベルが低下していること、そして、この症状がある程度の期間(6ヶ月以上)持続しており、他の障害ではうまく説明できない場合、統合失調症と診断されます。

妄想や幻覚を呈する病が存在することは古代ギリシアの時代から既に知られていました。しかし統合失調症の典型例がはっきりと示された記録が残っているのは19世紀初頭だと言われています。19世末に近代精神医学を確立したドイツの精神科医エミール・クレペリンは当時「緊張病」や「破瓜病」などと呼ばれていた精神機能が急速に衰退する一連の病を「早発性痴呆」という一群へとまとめ上げました。また20世紀初頭、スイスの精神科医オイゲン・ブロイラーはクレペリンのいう早発性痴呆を「スキゾフレニア」と呼称しました。ここでいう「スキゾ」は「分裂」で「フレニア」は「精神」という意味です。そして、このような統合失調症の特徴的な症状である「妄想」と「幻覚」は以下のような形で出現します。

* 統合失調症における妄想と幻覚

統合失調症の多くは「妄想気分」や「妄想知覚」と呼ばれる前駆期を経て発病に至ります。まず「妄想気分」とは目に見えるこの世界は何も変わっていないにも関わらず「何か」が変わったと感じる体験をいいます。次に「妄想知覚」とは正常な知覚に対して誤った意味づけを与える二段構成の体験をいいます。

これら統合失調症の発病時に現れる妄想体験の特徴として「原発性(先行する心的体験から導出されない体験であること)」「無意味性(意味のわからない体験であること)」「無媒介性(患者にとって直接的無媒介的な体験であること)」「圧倒性(圧倒的な力を帯びた異質な体験であること)」「基礎性(のちの症状進展に対する基礎となる体験であること)」が挙げられます。この点、ドイツの精神病理学者カール・ヤスパースはこれらの体験を「要素現象」と総称しています。

そして以後その患者はいわば「妄想的人生」を生きていくことになります。このような経過をヤスパースは「病的過程/過程」と呼びます。そして「病的過程/過程」が始まることによってその人の人生が折れ曲がり妄想人生へと展開した時点を「生活史上の屈曲点」と呼びます。

この点、統合失調症における妄想とは、そのほとんどが多かれ少なかれ「関係妄想」としての性質を有しています。言い換えれば「自分だけが何かに関係している」と確信する「思考の異常」こそが、統合失調症の妄想の基本的な構図を規定しているということです。

そして統合失調症における幻覚とはほぼ「幻聴」のことをいいます。もっとも統合失調症における幻聴は最初から他者の声として現れるのではなく、むしろ頭の中にたくさんの雑念(思考や意志)が湧き始めるという体験として現れます。これを「自生思考」と呼びます。

自生思考の段階ではまだ思考の自己所属性が保たれていますが、この自生思考が他者化されると「他者の声が外から聞こえてくる」という明確な幻聴へ至る事になります。すなわち幻聴は一般に「感覚の異常」と考えられがちですが、妄想と同様に「思考の異常」という事です。

このような幻聴の種類としては「機能幻覚」「対話性幻聴」「命令幻聴」などが挙げられます。「機能幻覚」は現実の生活音の中から何かしらの幻聴が聞こえてくる体験です。かの有名な「症例シュレーバー」においても「機能幻覚」の例が見出されます。「対話性幻聴」は「声同士が対話する形」と「声と患者が患者が対話する形」という二つのパターンが存在します。「命令幻聴」は自分の主体性を簒奪するような命令を患者に下す幻聴をいいます。

* 統合失調症の基本障害としての「自然な経験の非一貫性」

このように統合失調症といえば一般的に「妄想」と「幻覚」の二大症状がまずは思い浮かべられるでしょう。もっとも統合失調症の概念を基礎付けたクレペリンやブロイラーは知性、思考、感情、意志といった精神機能の衰退ないし分裂を統合失調症の特異的な症状として考えており「妄想」や「幻覚」といった症状はむしろ統合失調症以外でも見られる非特異的な症状として考えていました。

すなわち、統合失調症においては、多くの人にとってはある意味で当たり前な「世界に棲まう」という根本的な様式に何らかの障害があり、そこから派生して様々な幻覚や妄想といった症状が出現しているということです。

この点、ビンスワンガーは統合失調症を人間学的視座から徹底的に究明しようとする中で、病者は病前から世界の中の事物のもとに安心して逗留することができておらず、その状況に勝利するか敗北してしまうかという、いわば二項対立的な危機に陥ると考えていました。このような統合失調症の基本障害をビンスワンガーは「自然な経験の非一貫性」と呼んでいます。

この危機的状況において病者が勝利するために選択するのが「思い上がり」という墜落=挫折を運命づけられた理想形成です。病者は世界の水平方向において安らいで住まうことができておらず、垂直方向において文字通り命懸けの跳躍を行いますが、その跳躍は破滅的な急降下へと帰着しまい、病者は自らが高く掲げた理想と矛盾したり理想を拒否したりするような側面に晒され、己の主体としての座を他者に明け渡してしまうことになります。

すなわち、統合失調症という病理はビンスワンガーのいうところの「人間学的均衡」が崩れ「水平方向」が痩せ細る一方で「垂直方向」が過剰に肥大化してしまっている状態にあるということです。

* ハイデガー哲学における頽落と先駆的覚悟性

このようなビンスワンガーによる垂直方向の特権化は彼が自身の精神病理学理論を構築する際に参照した哲学者マルティン・ハイデガーの『存在と時間(1927)』に由来しています。

ハイデガーによれば我々は「現存在(世界内存在)」として世界の中に投げ込まれており、そこで遭遇する他者である「共存在」に「顧慮的気遣い」を行いながら関係することになります。ここでいう「顧慮的気遣い」には、他者を文字通りに気遣い、思いやったり愛したりする態度のみならず、無視したり罵倒したりする態度も含まれます。そして、こうした「気遣い」には二通りの気遣いがハイデガーが「非本来的」「本来的」と呼んでいる「現存在」のあり方に対応しています。

この点、ハイデガーのいう「非本来的」なあり方とは、もっぱら常識的で世俗的な「平均的日常性」を生きる態度です。例えば家族、恋人、友人といった「世人」と面白可笑しく「空談」することで、あるいは美味しいものを食べたり、旅行したりして「好奇心」を満たすことで、我々はやがて到来する「死」から目を背け「生」の安寧を得ています。これはハイデガーに言わせれば「頽落」と呼ばれる「非本来的」なあり方です。

これと反対にハイデガーのいう「本来的」なあり方とは、我々が己が時間との関係の中で本来的な将来としての「死へと関わる存在」であることを了解する「先駆的覚悟性」と呼ばれる態度です。そしてハイデガーによれば、この「先駆的覚悟性」の中でこれまで共同体の中で歴史的に継承されてきたものが伝承される「遺産の伝承」が生じるとされています。

このようにハイデガーにおいては「水平方向」を「非本来的」なものとして価値下げする一方で「垂直方向」を「本来的」なものとして優位に位置付けています。そして、こうしたハイデガーの垂直方向重視のパラダイムをビンスワンガーもまた引き継いでいるということです。

* 症例イルゼ

以上のように要約されるビンスワンガーの統合失調論は以降の精神病理学の思考を決定的に特徴づけることになりました。それは端的にいえば病者の棲まう人間学的空間が自分と超越的他者のあいだの垂直方向の関係で飽和する「垂直方向の精神病理学」と言えます。しかし、このような垂直方向を重視する思考は統合失調症という精神疾患を特権化する「統合失調症中心主義」を招く一方で肝心の「治癒のための理論」としては不十分であったといえます。

事実、ビンスワンガーの主著『精神分裂病(1957)』では綿密な観察に基づく五つの症例が取り上げられていますが、そのうちの四症例が治癒に至っていません。エレン・ウェストは服毒自殺によって命を落とし、ユルク・ツュントはおそらくその一生を精神病院で終えています。また、ローラ・ヴォスは退院はできたもののその妄想は慢性化し、シュザンヌ・ウルバンは姉によって半ば無理やり退院させられたものの人格水準の低下が著名であったといわれています。

もっとも、その一方で同書が取り上げる五つの症例のうちで唯一、治癒に至ったとされる症例がいわゆる「症例イルゼ」です。この症例の概要は次のようなものです。

イルゼという女性患者は幼少期から父に対して熱狂的な愛情を持ち、彼を偶像的に崇拝していました。しかし彼女の父は母に対して日常的に家庭内暴力を働いており、イルゼはそのことに反感を持つようになりました。

父に対する愛情と反抗というこの解決不可能な矛盾がイルゼの生を不調和状態に陥らせ、彼女は世界の中に自然に逗留することができず「自然な経験の非一貫性」に苦しむようになりました。そして彼女は、この不調和状態を燃えさかるかまどの中へ右手をつっこむことによって一挙に解決しようとします。

イルゼのこの「思い上がった」行為は、確かに父の母に対する家庭内暴力を一時的に停止させはするものの、状況にそぐわない突飛なものであったがゆえにその効果は一時的なものでしかありませんでした。そして保養所へと入院した後、幼少期から彼女の人生を規定していた「父への愛」というテーマと、父のために手を焼くという「自己犠牲」のテーマがイルゼ自身を圧倒するようになります。

「父への愛」と「自己犠牲」はかつては「自分が父を愛する」「自分が犠牲となり父の家庭内暴力をやめさせる」という能動的なものでしたが、今や受動的な形を取り「他者たちが自分を愛する(がゆえに自分も他者たちを愛さなければならない)」という形をとる恋愛妄想と、自ら能動的に他者(父)の犠牲になるのではなく受動的に他者たちの犠牲になるという関係妄想として結実します。

しかしイルゼは比較的早期に治癒し、その後、統合失調症を再発することはありませんでした。この点、ビンスワンガーによれば、それは彼女が垂直方向の「理想(父)」に向けた思い上がった理想形成をやめて、その代わりに心理カウンセラーとして水平方向の「隣人」への援助を行うようになったためであると述べています。

もっともビンスワンガーは統合失調症の発病と経過を「思い上がり」という観点から把握することを通じて垂直方向を特権化する一方で肝心の治癒に関わると想定される水平方向についてはほとんど議論を深めることはありませんでした。

* 水平方向の精神病理学とドゥルーズ哲学

こうした中で精神病理学者の松本卓也氏は「症例イルゼ」に伏在していた「水平方向の精神病理学」の構想を提示します。先述したようにビンスワンガーの「垂直方向の精神病理学」はハイデガーの哲学が基盤となっています。これに対して松本氏が「水平方向の精神病理学」において参照するのがフランスのポスト構造主義を代表する哲学者ジル・ドゥルーズです。ハイデガーが20世紀前半を代表する哲学者の1人であったならば、ドゥルーズは20世紀後半を代表する哲学者の1人です。

ドゥルーズはその主著の一つである『意味の論理学(1969)』において我々の生きるこの世界を「高所(真/偽の場)」「深層(物体の場)」「表面(意味=出来事の場)」からなる三層構造で捉えています。そしてドゥルーズはこの三層構造にそれぞれプラトン主義、ニーチェ主義、ストア哲学を対応させています。

この点「高所」への上昇と「深層」への下降は垂直方向への運動といえます。これに対して、ドゥルーズが「表面」と呼んでいるのは「高所と深層から独立し、高所と深層に対抗する」ものでありいわば「反・垂直方向」の哲学が思考するフィールドです。松本氏は『意味の論理学』が「高所」や「深層」ではなく「表面」の追求に向かったものであることを考慮すればドゥルーズの思想ははっきりと「反・垂直方向」に向かうものであると考えられるとします。

また晩年のドゥルーズの著作『批評と臨床(1993)』ではプラトン主義における神々の言葉の吹き込みによって生じる「神的な狂気」と神々とは関わりのない人間的な狂気である「病気としての狂気」の区別を反転させ、むしろ神々によって支えられた垂直方向の狂気こそを「病気としての狂気(思い上がった狂気)」であるとして、反対に神々によって裏打ちされていない水平方向の狂気こそが「健康としての狂気」であると主張します。

なお『意味の論理学』においてドゥルーズは「深層」を体現する作家としてアントナン・アルトーを位置付け「表面」を体現する作家としてルイス・キャロルを位置付けています。同書の第13セリーの最後でドゥルーズは「キャロルの全てを引き換えにしても、われわれはアントナン・アルトーの一頁も与えないだろう」と述べアルトーを称賛する一方で、その直後、すぐさまに「(キャロルが描く)表面には、意味の論理のすべてがある」とも述べています。

そして『批評と臨床』においてドゥルーズはキャロルは「表面」の言語を獲得することで「深層」から華麗に逃れることができたといい、こうした「表面」の言語によって書かれた文学こそが、文学の描く世界のすべてになりうるとまで断言しています。

* オープンダイアローグ

もっとも、松本氏は水平方向を重視するとしても垂直方向が無効化されるべきではないと述べ、むしろ水平方向の重要性が再確認されることで垂直方向と水平方向の新しい「人間学的均衡」が生まれる可能性があるといいます。

ここで氏が取り上げるのが最近注目を集める臨床実践である「オープンダイアローグ」です。

フィンランドの西ラップランド地方トルニオ市にあるケロプダス病院のスタッフを中心に開発された「オープンダイアローグ(OD)」は、従来、薬物や入院が必須と考えられていた急性期の統合失調症を「対話」の力で寛解に導くことで精神医療に大きなインパクトをもたらしました。

ODの実践は一見、極めてシンプルです。クライアントやその家族から電話などで支援要請を受けたら24時間以内に治療チームが結成され、クライアントの自宅を訪問。治療チームと本人、家族、友人知人らの関係者が車座になって対話が行われます。

この対話においてはすべての参加者に平等に発言の機会が与えられます。ミーティングは1回につき1時間から1時間半程度。ミーティングの最後にファシリテーターが結論をまとめます。本人抜きではいかなる決定もされないことも重要な原則です。何も決まらなければ「何も決まらなかったこと」が確認されることになります。このミーティングはクライアントの状態が改善するまで、ほぼ毎日のように続けられる場合もあります。

このようにODの特色は治療者側が「チーム」で介入する点にあります。チームは精神科医、看護師、臨床心理士などで構成されますが、チーム内での序列はありません。皆が自律したセラピストとして対等の立場で対話に加わります。

そして、今後の治療方針を決める治療者同士の話し合いも患者側の前で行われます。これは「リフレクティング」と呼ばれる家族療法家のトム・アンデルセンによって開発された技法です。診断、見通し、治療方針に関する議論を全て患者の前で開示することで、さらなる対話が促進され患者の意思決定も容易になるということです。

こうしてODでは対話の場に参加者の言葉が投入されることで、自律性的に作動する対話システム(対話クラウド)が形成されます。対話システムが作動する目的はその作動それ自体がであり、こうした作動の結果として、患者の中で「新しい現実」が創出され、その副産物、ないし廃棄物として症状の改善や治癒が降ってくるというイメージです。

松本氏によればODは「専門家や患者といった単一の声(モノフォニー)を持つ人物が主体の座を占めることに反対し、多数的な声(ポリフォニー)が鳴り響く空間へと主体を溶解させることを企図するという意味で、反-主体的ないしポスト-主体的な実践なのである」ということになります。

もっとも氏はODは垂直方向の運動すべてを否定するような実践ではなく、むしろ、ODにおいて重要とされる対話には全ての参加者の間で行われる「水平のダイアローグ」と、それによって触発された個人での内部での「内なる声」との「垂直のダイアローグ」の二つがあり、この二つの方向の協働が重要であるといいます。

こうしたことから、松本氏は水平方向における過剰さによる精神医療の平準化やアルゴリズムによる支配を警戒しつつも、現在の精神病理学に必要なことはこれまで注目されてこなかった水平方向の理論を引き出し、そこから新たな「人間学的均衡」としての治療の理論をつくることではないかと述べています。

* 水平方向の精神病理学の可能性

そして、このような松本氏が提唱する「水平方向の精神病理学」における思考は統合失調症論以外のメンタルヘルス一般のケア論にも拡大して適用することができるように思えます。

例えばひきこもり支援の専門家として知られる精神科医の斎藤環氏は思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱しています。

斎藤氏は精神科医として、30年以上に及ぶ臨床経験に基づき「ひきこもり」を「困難な状況にあるまともな人」とみなすことを提唱しています。そして往々にして「ひきこもり」の当事者は、こうした「まとも」であるがゆえに現在の状況が家族の負担になっており世間的な価値観からも批判される状態にあることをよく自覚しており、その結果、彼らは「セルフスティグマ(自分は無価値な人間であるというレッテルの内面化)」を自身に貼り付けてしまい、こうした状況での周囲からの励ましの言葉はしばし逆効果となることがあります。

そして斎藤氏は「ひきこもり」の人々に限らず「自分が嫌い」な人たちというのは、自己愛が弱いのではなくむしろ自己愛が強いのではないかと述べます。つまり、彼らの自己否定的な発言は自己愛の発露としての自傷行為なのではないかということです。その根拠の一つとして氏は彼らが自分自身について、あるいは自分が社会からどう思われているかについて、いつも考え続けているという点を挙げています。だとすれば、それはたとえ否定的な形であり自分に強い関心があるという、紛れもなく自己愛の一つの形といえます。こうした逆説的な感情こそが斎藤氏のいうところの「自傷的自己愛」です。

この点、斎藤氏は自傷的自己愛の歪さを「プライドは高いが自信がない」という端的な言葉で表現しています。ここでいう「プライド」とは「かくあるべき自分(自我理想)」へのこだわりのことをいい「自信」とは「今の自分(理想自我)」に対する無条件の肯定的感情のことをいいます。

これはまさにプライド=垂直方向が肥大化して自信=水平方向が痩せ細っている状態といえます。それゆえに自傷的自己愛の修復においてもやはりまた、垂直方向と水平方向の「人間学的均衡」が必要になってくるといえるでしょう。

また、このような垂直方向と水平方向の二つの相を日本の現代思想シーンの中に位置付けてみると、それは大陸哲学と分析哲学の相であり、また精神分析と認知行動療法の相であり、あるいは否定神学システムと郵便=誤配システムの相であり、同時にアイロニーとユーモアの相であり、さらにはセカイ系と日常系の相であるといえるでしょう。こうしてみると人文知一般を横断的に思考する上でも垂直方向と水平方向という二つの相は極めて強力な参照枠となり得るようにも思われます。

























posted by かがみ at 01:31 | 精神分析