2017年07月28日

欲望とは〈他者〉の欲望である・エロマンガ先生・それは貴方だけの夢じゃない




ジャック=ラカンの示す有名なテーゼの一つに「欲望とは〈他者〉の欲望である」というものがあるわけです。

つまり、人の欲望というのは自然発生的に湧いてくるわけではなく、常に「〈他者〉からもらうもの」だということです。

例えば、なぜ皆がiPhoneの最新機種を欲しいと思うのでしょうか?それを皆が欲しがっているからでしょう。あるいはなぜ誰も路傍に打ち捨てられたゴミを欲しいと思わないのでしょうか?それを誰も欲しがっていないからでしょう。


「欲求不満」から「欲望」へ


では、なぜ「欲望とは〈他者〉の欲望」なのでしょうか?これは欲望の生成過程に深く関わる問題です。

ヒトの子供は、他のほとんどすべての動物と異なり、未熟な状態で誕生して自立まで長い期間を要します。寄る辺ない存在である子どもはその間の身の回りの世話を養育者である〈他者〉(多くは母親)に頼らざるを得ない。

子どもは母親に生理的な「欲求」を伝達するため、例えば「おぎゃあ」という「ことば」を発する。ここで「欲求」が〈ことば〉によって剪定され「要求」となった結果、この「要求」には「生理的な要求(ミルクがほしい)」と「愛の要求(あなたが側にいてほしい)」という二重の意味が含意されることになる。

母親が常に子どもの側にいれば両方の要求は満たされますが、母親も別に四六時中、子どものそばにいるわけでもなく「現前-不在」を繰り返しているわけです。従って二つの要求は両方とも拒絶されることがあれば、どちらかだけが満たされることもあるでしょう。

そこで二つの要求の間には一つの裂け目が生じることになり、子どもはよくわからない不快と不安に満ちたイライラを感じることになる。これを「欲求不満」という。

子どもは当然このイライラをなんとかして解消しようと母子一体の回復を目指すことになります。これをラカン的に言うと「子どもは母親の想像的ファルスになろうとする」ということです。

しかし実際問題、どうやっても母親の現前不在は終わらないわけです。そこで子どもは必然的に自分と母親以外の第三者の存在を帰結する。つまり母親は持ってないものがあり、それがほしいから、「それ」を持っている何者かのところに行くので不在になるという論理です。

この第三者の機能を担う存在を便宜上「父親」と呼びます。そして父親の持つ「それ」こそが、母親の現前不在を「欲望」として象徴的に名付ける「欲望の名前」であり、これをラカン的に言うと「象徴的ファルス」といいます。

こうして子どもは決して想像的ファルスになれない事実に直面する。つまりこのよくわからないイライラがこれから先もずっと続くということです。

この現実をどうにか受け入れるために想像的ファルスが無理なら、せめて母親を欲望させる象徴的ファルスをいつか自分も手に入れようと自分も「欲望」するしかない。つまり「これ(欲求不満)はこういうこと(欲望)なんだ」という理解を強制的に強いられるわけです。

このように子どもは「母親の欲望」を発見することで、自らの「欲求不満」を「欲望」に変換することができるわけです。従って「欲望とは〈他者〉の欲望である」ということです。

いちいち難解奇怪な理論でおなじみのラカンですが、その治療方針は普通にシンプルでして、ひとまず目指すのはクライエントの「欲望の活性化(弁証法化)」にあります。


なぜマサムネは沙霧ちゃんを「エロマンガ先生」と呼ぶのか?



「なあ、沙霧・・・俺にも夢ができたぞ。すっげえビッグな夢。俺はこの原稿を本にする。このままじゃあ話にならないから、練り直して企画書を書いて、担当編集に認めさせて、そんなところからだけど・・・でも、必ず本にするよ。たくさんの人を面白がらせて、主人公やヒロインを好きになってもらって、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらい、お金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!・・・こんなんは前準備だ!うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、バカ高いスピーカーも用意して、豪華なケーキにロウソク立ててさ、お前を部屋から連れ出して、2人でアニメを観るんだ!俺が原作でお前がイラストを描いた、俺たちのアニメだ!そうしたら、きっとスッゲー楽しいと思うんだよ!悲しいことなんて吹っ飛んじまうかもしんねえぜ!?それが俺の夢だ!絶対に叶える目標だ!!どうだ!?スッゲーだろ!?」

「貴方は昔からそうだね。和泉先生・・・いつもオレに夢をくれる。いいぜ、和泉先生。やってやろうじゃん!そんな面白そうなこと、一人でやらせてたまるかよ!それは貴方だけの夢じゃない。オレたち2人の夢にしよう!」

(エロマンガ先生第4話)



エロマンガ先生(アニメ公式)

沙霧ちゃんはDSM的に言えばおそらく社交性不安障害の診断基準に該当すると思われますが、「引きこもり」のケースというのは、ラカン的な視点で言えば、欲望が停滞・固着している状態に他なりません。精神科医の斎藤環氏が言うように、引きこもり本人に欲望を持ってほしいのであれば、家族が率先して〈他者〉として欲望を表明することが大事になってくるわけです。

義兄であるマサムネは沙霧ちゃんのことを時折、エロマンガ先生と呼ぶことで、作家とイラストレーターという社会的な〈他者〉性を強調し、愛憎渦巻くドロドロの想像的関係に転落することを防ぐ一方で、沙霧ちゃんの「妹」ではなく「女の子」としてみてほしいという「要求」に対して「ラノベ主人公」的態度で沙霧ちゃんを常に「欲求不満」の状態で宙吊りにする。

そして、その裂け目のなかに「世界一の妹ラノベを書いて、そのアニメを妹と家の居間で見る」などという強烈な「〈他者〉の欲望」を投入することで、沙霧ちゃんのなかにも「私もそれが欲しい」という「欲望」を生み出し、これが治療的な方向にも作用している。上記のマサムネと沙霧ちゃんの台詞は「欲望とは〈他者〉の欲望」の適切な範例といえるでしょう。



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posted by かがみ at 04:19 | 心理療法

2017年05月27日

受容・共感・自己一致

日常の社会生活を送っていると、他人の「悩み相談」に出くわす場面は多いですよね。そんなときどう接すればいいのでしょうか?やっぱり折角の機会だし、何か気の利いた「アドバイス」をしたい、そういった誘惑に駆られることも多いでしょう。

しかしアドバイスというのはこういう時あんまり役に立ちません。多くの場合、アドバイスした側の自己満足で終わります。

実はこういった日常の「悩み相談」の場合、相手は「解決」ではなく「共感」を求めていることの方が多いわけです。従って、こういう時は妙なアドバイスをするより相手の話にただただ聴いてあげたほうがよっぽど「役に立った」といえるでしょう。

ロジャーズの中核三原則

ところで、傾聴やコミュニケーションの本ではよく「ロジャーズの中核三原則」というものが出てきます。これはカウンセリングの神様とまでいわれたアメリカの心理学者カール・ロジャーズの提唱したセラピストの基本的態度のことです。カウンセリングや心理療法をちょっとでも勉強したことのある人でしたら、だいたいご存知かとは思われますが、改めて定義的に整理すると次のようなものです。


無条件受容・・・クライエントの表現したものがどんな内容であろうとも、それはその人の体験に基づいたその人なりの言葉であるということを認め、批判や評価などの一切の価値判断をせず、ありのままに受容すること。


共感的理解・・・クライエントの「いま、ここ」にある私的な内面世界を、「as if(あたかも自分の事の様に)」感じ取ること。そして「as if(あたかも自分の事の様に感じ取る)」という態度をどこまでも失わないこと。


自己一致・・・自身のなかに流れる感情や思考と云った体験に対して在るがままに、驚く時は驚き、悲しむ時は悲しむ、と云った自身の内的体験と自己表出のとの間に不一致がないこと。



ロジャーズの説くところによれば、人は誰しも先天的に「自己を成長させ、実現する力(自己実現傾向)」そして「自らの力で心と体を治していく力(自己治癒能力)」を持っているそうです。

なので、植物が光・水・養分・空気があれば、生命のもつ本来の力でひとりでに育っていくように、人も心に適した環境さえあれば、その人の自己実現傾向・自己治癒能力が発現して症状や悩みが解消に向かうということになる、ということになります。

そして、ここでいう「光・水・養分・空気」に当たるものが、セラピストの態度としての「受容・共感・自己一致」ということになります。

中核三原則の孕む理論的ディレンマ

受容・共感・自己一致。これらはひとつひとつはそれ自体疑いなく正しいものだと思いますし、なんかこれだけ聞けば誰でもカウンセリングができそうな気もしないでもない(笑)

けれども例えば、相手が「死にたい」とか「私は生きている価値がない人間なの」などと、ネガティブなことを延々と繰り述べている場合どうすればいいんでしょうね?

どうも相手の話に同調し難いが、ともかく「無条件受容」や「共感的理解」に努めないと、などと思いながら、表面上取り繕って「うん、うん」などと返している。でもこれって内心と態度が「自己一致」していないんじゃないでしょうか?

こうして受容・共感・自己一致を誠実に意識すればするほど「私はあの人の話を聴けていなかった、気持ちにしっかりと寄り添えていなかった・・・」などと自己嫌悪に陥ってしまう可能性もあるでしょう。こういう風に中核三原則というのはかなり理論的なディレンマを孕んでいるわけです。

ゆえに中核三原則は一種の理想あるいは解脱の境地のようなものであり、その趣旨はひとつの理想として意識しつつも、ある程度は距離を置いて、日々の現実の中で生起する問題と適当に折り合いをつけていかなければならない・・・これも一つの然るべき態度ということになります。

傾聴における「想像的水準」と「象徴的水準」

ただね、中核三原則が一見矛盾に満ちているように見えるのは、畢竟、我々が人の話を「想像的水準」で聴いていることに起因するようにも思われるんですよ。

想像的水準とは「わたし」や「あなた」といった自我意識の水準をいい、「わたしと、あなた」あるいは「わたしか、あなた」という愛憎入り混じる関係になります。

「わたしと、あなた」のうちはまだいいんですが、「わたしか、あなた」になってしまえば「想像的軸上における食うか食われるかの双数関係」に陥ってしまいます。

このような想像的水準から離脱し「象徴的水準」で聴くことで初めて中核三原則は矛盾なく機能し始めると言えるでしょう。すなわち、言葉の「シニフィエ(意味)」ではなく「シニフィアン(音)」の水準で受け止めるということになります。

新米の分析家にとって、語られている話に囚われてしまうことが最も大きな罠である。新米の分析家達は、自分の関心に近いとか、個人であれ臨床家としてであれ彼らに関わっていたり、影響することのように思えると、それだけその話にたやすくとらわれてしまう。

(中略)

分析主体は、自分が話していることのうち、意識的に理解してもらおうと考えていること以外のことを分析家に聞き取ってほしいなどという期待をはっきり抱いて分析を始めることはほとんどない。

一方、分析家は通常の習慣的な仕方で話を聞く態度から離れること、話の内容を理解することより、むしろその話が語られる仕方を聞くことが重要であることを自覚しなければならない。

(ブルース・フィンク「精神分析技法の基礎〜ラカン派臨床の実際」15頁)


つまり話し手の「ことば」の「意味」はひとまず括弧に入れ、価値判断などを一切加えず、言い間違いなども含めたあらゆる「音」を「平等に漂う注意」で拾い上げ、聴取し、句読点を打ち込み区切っていく。

そして、聴き手は一個の自我を離れて、話し手の「無意識」を投影する「鏡」もしくは「スクリーン」としての役割に徹することになります。

ラカン派の臨床においては、このように分析家が分析主体の「無意識のスクリーン」を演じることで、徐々に分析主体の抑圧が解除され、無意識的なものが意識化されてくると言われています。

そしてこの過程が分析主体のパーソナリティの変容、ラカンの用語でいえば「幻想の横断」に繋がっていくのであり、これはロジャーズの説く「自己実現傾向」「自己治癒能力」と軌を一にしたものだと言えるでしょう。

傾聴における「現実的水準」

さらにここから踏み込んで「現実的水準」で聴くという態度も考えられるでしょう。

「言葉から出る」というのは、「ぼくは学校へ行っていないんです」ときいて、「学校」や「ぼく」ということから離れて、いっぺん外へ出るということです。離れて、「おお!」と思わないといけないのです。「おお!」というところへ出てから、その次に、もの(言葉)を言っていかないといけない。

(河合隼雄「カウンセリング講話」113頁)


言葉を言葉以前の「おお!」としか言いようがない境域で一度受け止める感覚は、これは象徴化される以前の現実的水準、〈もの〉の水準に相当するでしょう。もっと言えば、話し手の言葉を「欲望の原因としての声」、ラカンでいう対象 a のレベルにまで昇華させることにより、「あなたをもっと理解したい」という聴き手のメッセージ(欲望)をより強力に発信することが可能となるわけです。

何れにせよ今述べたことは理論上のものであり、実践の困難さはまた別のところにあるのは言うまでもあります。

しかし日常的な対人関係の中においても誰かの声に真摯に耳を傾けてあげないといけない時というのは必ずあるでしょうから、そういう時のためにも、自分なりの中核三原則の理解をもっておくのがいいのかもしれませんね。



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posted by かがみ at 22:53 | 心理療法

2017年04月01日

対象 a ・承認欲求・絶対だいじょうぶの魔法。

ラカン派精神分析の理解によれば、子どもは「疎外と分離」という母子分離の過程を経ることで、母子一体的な欲動満足である「享楽」の喪失と引き換えに「言語」を獲得し「欲望する主体」となり、精神病圏から神経症圏へと遷移するわけですが、「疎外と分離」の、特に「分離」の成否は、かつての享楽の残骸が「欲望の原因」として機能するかどうかにかかってきます。

この「欲望の原因」をラカンは「対象 a」と呼びます。子どもはいわば対象 a を抱えることで初めて母の世界を脱出できるわけです。

対象 a とは、かつてあった「享楽=母なるもの」すなわち「乳房、排泄物、声、眼差し」の代理物、すなわち欲動の対象に値するものをいいます。ひとがアプリオリに人肌を求め、あるいは善行を為し、あるいは詩、音楽、絵画、映像などの芸術作品をこよなく愛するのはそれらが対象 a だからです。いわゆる欲望とは享楽を可及的に回復しようとする決して満たされることのない永久反復運動に他ならないということです。

だから最近よく言われる「承認欲求」と呼ばれるものの正体も結局はこの「対象 a」なんですよ 。他者からの賞賛の声、羨望のまなざし。「承認欲求を否定せよ」などという流行りのキラキラワードがありますが、ラカン的には承認欲求というのは少なくとも神経症圏の人間(いわゆる一般人)にとっては己の存立を支える根源的な欲望であり決して否定できるものではないということになります。

このような観点から言えば、承認欲求とは「否定する」すべきものではなく「操作する」すべきものです。仮に誰からも承認されないのであれば、自分で自分を自己承認すればいいということになります(理論的には。実践は難しいでしょうが・・・)。

例えば、先日読んだマインドフルネス関連本の中で、感情がイライラした際には呼吸に集中するとともに「かならずよくなる」などとポジティブワードを呟いてみる方法が推奨されてたんですが、こういうのも自分で自分に声をかけてまなざして、対象 a の享楽を作り出す自己承認の方法と言えますね。

さて。今日はエイプリルフールですが、そんなことよりも「カードキャプターさくら」の主人公・木之本さくらちゃんの誕生日ですね。

さくらちゃんといえば名台詞「絶対だいじょうぶの魔法」。さくらちゃんはカードキャプターとしてバラバラになったクロウカードを集める使命をケロベロスから無理矢理押し付けられますが、途中、もう一人のクロウカードの守護者ユエの第一配下カード「闇」に飲み込まれそうになった時「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」と自分に言い聞かせて窮地を乗り切ります。これを「闇」と対になるクロウカードの「光」は「絶対だいじょうぶの魔法」と評します。

「なんとかなるよ、絶対だいじょうぶだよ」。これ以上にシンプルで力強い響きもそうそうないでしょう。日々の暮らしで気が滅入った時に、自己承認の魔法の言葉としては何気につぶやいてみる習慣というのもいいかもしれませんね。


posted by かがみ at 23:04 | 心理療法

2017年02月14日

ドラマ版「嫌われる勇気」に日本アドラー心理学会が抗議文

ドラマ版「嫌われる勇気」を最初観たときは完全に口開けてポカンの状態でして、なんというか、よくまあ、ここまで思い切った改変をしたものだと別の意味で制作サイドの「嫌われる勇気」を見た気がしましたが、ここに来てやっぱり日本アドラー心理学会から抗議が来た模様です。

香里奈主演「嫌われる勇気」に「日本アドラー心理学会」が抗議文 - ライブドアニュース

日本アドラー心理学会のホームページ|INDIVIDUAL PSYCHOLOGY

株式会社フジテレビジョン 『嫌われる勇気』製作責任者御机下

抗議文は「放映の中止か、あるいは脚本の大幅な見直しをお願いしたいと思っております 」と結ばれており、まさにドラマ版主人公の庵堂蘭子の決め台詞である「明確に否定します」と言わんばかりです。

この抗議は極めて正当だと思います。ドラマ版はキャストの誰某の演技が大根だとか、事件解決にアドラー心理学がまったく絡んでいないとか、巷ではそういうところでも辛辣に批判されているみたいですが、アドラー心理学という観点からの本質的な批判はもっと別のところにあります。

それは抗議文にあるように、現状、ドラマ版においては、アドラー心理学の生命線ともいえるべき概念である「共同体感覚」「勇気づけ」の視点が完全に欠落している点に他なりません。この点、抗議文ではわりと端的な指摘に留まっているので、ここで大変僭越ながらも、ざっくりと私なりの理解から書いてみたいと思います。


劣等コンプレックスと共同体感覚

まずはそもそも論というか、アドラー心理学の基礎理論の整理から始めます。

精神分析の創始者でおなじみのジークムント・フロイトは人の根本衝動を「性欲動」だと規定しましたが、これに対して、アルフレッド・アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償」による「優越性の追求」だと主張します。要するに、人は無力な寄る辺ない存在としてこの世に生を受けるが故に「もっと成長したい、もっとあるべき理想に近づきたい」という動機が生まれてくるということです。

人は無力な存在としてこの世に生を受けます。そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。

(嫌われる勇気:79頁)


こうした劣等感の補償ないし優越性の追求に駆動されていった結果、形成されていく個人的な信念・世界観といった個人のパーソナリティをアドラーは「ライフスタイル」と呼びます。

ライフスタイルというのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念と思って差し支えないでしょう。人は知らず知らずのうち、自らのライフスタイルを正当化し維持する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)

よく言われる「トラウマは存在しない」というのは、過去の出来事は現在のライススタイルに整合する形で認知されるため、結果、同じ事実が「美しい思い出」にも「忌むべきトラウマ」にも、可能性としてはどちらにもなり得るいうことでしょう。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)

つまり主体としての個人の有り様によってライフスタイルはいつでも変えられるというわけです。「ライフスタイル」という呼び方もその着せ替えできるような「軽さ」を強調するためと言われます。

そして、ある人がいかなるライフスタイルを形成するかは、その人が「対人関係」をどのように捉えるかにかかってきます(対人関係論)

対人関係を「縦の関係」、すなわち支配、評価の関係として捉えれば、「劣等コンプレックス」という歪んだライフスタイルが形成されていきます。逆に対人関係を「横の関係」、すなわち、尊敬、感謝の関係で捉えれば、「共同体感覚」という適正なライフスタイルが形成されていくわけです。

課題の分離の二つの側面

以上から、共同体感覚の涵養こそがアドラー心理学の目標となります。そしてその実践プロセスは以下のとおりです。

まず、自他の問題領域を切り分けます。いわゆる「課題の分離」です。

実は課題の分離には二つの側面があります。まず第一に「他者の課題に踏み込まないこと」。これはわかりますよね??庵堂さんがたまにドヤ顔で言い放つ「それはあなたの課題です」というアレですよ。(原作の)「嫌われる勇気」でも強調されている通り、他者からの評価というのも「他者の課題」ですから、いわゆる「承認欲求を否定する」というのもここに通じるものがあります。

そしてもうひとつ、第二に「自分の課題に誠実にとり組むこと」。これは巷のアドラー解説本ではあまり強調されていない気もしますが、普通に考えれば第一の点と密接な関係になるはずです。だってそうでしょう??「相手の課題に踏み込まないこと」だけだと、単なる自分の殻に閉じこもって何もしない人と何ら変わらないじゃないですか??

では自分の課題とは何でしょうか?私の理解ではこれこそが「勇気づけ」の実践です

「勇気づけ」の実践その1〜自分を勇気づける

勇気づけとは「横の関係に基づく援助」と呼ばれますが、基本言葉が「ありがとう」「嬉しいです」「助かります」とあるように、より端的に言えば尊敬・感謝の表明です。勇気づけの実践は、まずはいまの自分を勇気づけるところから始まります。

自分なりの言葉で、いまのありのままの「交換不能なわたし」を直視し受け入れて、いわば自分で自分を援助するということなんですよ。これを「自己受容」といいます。(原作の)哲人の言葉で言えば「肯定的なあきらめ」。「あきらめ」というのはもともと「明らかに見る」という意味合いだそうです。カウンセリングにおけるロジャーズ三原則でいえば「自己一致」という概念に近いでしょう。

「勇気づけ」の実践その2〜他者を勇気づける

そういうわけで、自分を勇気づけることができるようになれば、次のステップとして他者を勇気づけます。他者を尊敬し感謝の念を表明する。「他者信頼」「他者貢献」です。

「他者信頼」というのは他者にイエスマンのごとく追従する態度とは全く異なります。アドラー派に「結末技法」というものがありますが、相手の存在を尊敬・信頼することと、相手の間違った行為を間違っているときっぱり断じ去ることは全く別のことです。「明確に否定します」という言葉はここに通じます(ただ原作の哲人がいう「明確に否定します」とドラマ版の庵堂さんがいう「明確に否定します」は相当ニュアンスが違ってますが・・・)。ロジャーズ三原則でいえば「無条件受容」「共感的理解」に相当するものでしょう。

「他者貢献」は最も重要です。実際に何かを貢献したかどうかではなく、重要なのは「貢献感」が得られたかどうかです。人は「貢献感」を得ることで自分の価値を実感できるというわけです。こういう風に書くと何か胡散臭い雰囲気を感じる方もいるでしょうが、このメカニズムの神経学的な解明は現代においてかなり進んでおり、例えば「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンという神経伝達物質は、親しい相手とのスキンシップ、優しい言葉、温かいまなざしといった物理的、精神的接触の他にも、誰かに対する親切心によって分泌が促進されるそうです。

兎も角も、こうして「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。この三つの要件が揃って初めて、人は劣等コンプレックスの磁場を抜け出し、共同体感覚(=横の関係)の領域に遷移するということができます。

本当に難しいのは共同体感覚を「持ち続けること」

そして大事なのはこれを継続することです。実は、共同体感覚を瞬間的に得ること自体はそんなに難しくないんですよ。誰だって自分がうまくいっているときは余裕がありますから、周りに受容的な態度をとることはそんなに難しいことではないでしょう。

けど、一度上手くいかなくなれば、やっぱり妬みや僻みという負の感情が出てきます。いったんは共同体感覚に遷移しても、簡単に劣等コンプレックスに転落してしまいます。

それでも、どんな苦境に立たされようが、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を一貫して維持し続ける。これはもはや至難の技と言わざるを得ない。だからこそ共同体感覚というのはアドラーの言うように「到達できない理想」なのです。

世界はシンプルであり、人生もまた同じである。しかし、「シンプルであり続けることはむずかしい」と。そこには「なんでもない日々」が試練となるのです。

(幸せになる勇気:275頁)


我々凡人は劣等コンプレックスと共同体感覚という二つの両極の間をウロウロするのが実際のところなんでしょう。そんな中、せめて少しでも、共同体感覚寄りの「斜めの関係」を維持できれば、まあ御の字なのかもしれませんね。

嫌われる勇気とは自己中心的な生き方ではない

さて、これでもう明らかだと思いますが、要するにドラマ版はこれまで観た限りでは、庵堂さんの振舞いには「他者を勇気づけること」、すなわち共同体感覚中核三要件の「他者信頼」「他者貢献」が欠落していると言わざるを得ない。

これは片手落ちどころの話ではないでしょう。そんな主人公を哲人ポジションにいる人が「ナチュラル・ボーン・アドラー」などと持ち上げるわけです。

そうすると当然、原作未読の視聴者から「嫌われる勇気というのはこの女みたいな周りを顧みない自己中心的な生き方か、これがアドラー心理学か」と、こういう風に認識されても仕方がないでしょう。

もしかしたらあるいは万が一、今後の展開で、そういう共同体感覚的な側面が出てくる予定の構成になっているのかもしれません。けど百歩譲って仮にそうだとしても、最初の数話で呆れて視聴をやめてしまった人の中にはやっぱり、上に書いたような誤解がずっと残ってしまうことになるわけです。こうなるとアドラー心理学の普及団体としては苦情のひとつも言いたくなるでしょうね。

香里奈「嫌われる勇気」に放映中止要求 本家・アドラー心理学会の抗議理由 : J-CASTニュース

今のところ、制作サイドとしては放映中止は考えてない模様。最初、原作サイドの監修はなかったのか疑問でしたが、一応、岸見先生がアドラー理論の解釈部分のチェックは行っていたみたいですね。岸見先生的にはドラマのストーリーがどう作られるかについては、あくまで「他者の課題」というご認識なのかもしれませんね。

長くなったので要旨をまとめておきます。

【まとめ】

・(動因)劣等感の補償/優越性の追求→(形成物)ライフスタイル

・対人関係を縦に捉える(支配・評価の関係)ライフスタイル=劣等コンプレックス

・対人関係を横に捉える(尊敬・感謝の関係)ライフスタイル=共同体感覚

・課題の分離=他者の課題に踏み込まない(承認欲求の否定)+自分の課題に誠実に取り込む(勇気づけの実践)

・勇気づけ=自分を勇気づける(自己受容)+他者を勇気づける(他者信頼・他者貢献)→共同体感覚


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posted by かがみ at 19:47 | 心理療法

2016年12月31日

エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(後編)



エディプスコンプレックスVS劣等コンプレックス(前編)

前回述べたように、劣等コンプレックスというのは説明として直感的にわかりやすいけれども、一方、一部のケースはエディプスコンプレックスからの方が上手く説明できる事例もまた確かに存在し、一概にどちらが根源的なコンプレックスだと云い難いものがあるということです。

従って、この両者はいかなる関係に立つと考えるべきか、という問題が生じることになりますが、この点、ジャック・ラカンによる「疎外と分離」「対象 a と根源的幻想」という理論的整理が、一応の整合的説明として成功しているというべきでしょう。

疎外と分離〜欲動と欲望の相転移

まず、フロイトの規定する根源的衝動は周知の通り「欲動」です。もっとも一般的なフロイト理解では「性欲」などと言われますが、性欲といっても幼児性欲のそれであり、むしろ「愛情衝動」と言った方が適当と言えるでしょう。

このあたりの誤解がフロイトという人の不遇たる所以でもあるわけですが、それはともかくいずれにせよ、我々は原則としてこの欲動を完全円満に満足させた状態でこの世に生を受けているということです。これは一人の例外もありません。何となれば、母の胎内は新しい命に必要なすべてが満たされているからです。これはラカンがいう「享楽」と呼べる状態です。

ところが、そこにずかずかと邪魔者が入ってくることで「享楽」は霧消してしまいます。子どもは自らと母親は〈他者〉であり渾然一体でも何でもないことを悟ります(疎外)。そして次に、それどころか母親の関心の対象は自分ではなく、まさにその邪魔者であることに気づくわけです(分離)。

こうして当初の「享楽」は失われてしまい、もはやすべてが満たされることはなくなったのです。しかしこの時に子どもの中には、これを少しでも奪回したいという願いが生じる。

これを称して「欲望」という。これが「母に欲望されたいという母への欲望」という「〈他者〉(へ)の欲望」です。

よくわからないけれども満たされている享楽と異なり、欲望は「〜がしたい」という「言葉」、すなわちシニフィアンで表現されます。いわば人は欲望を持つ者となり初めて「象徴界=理性の世界」へ参入できると言えるでしょう。ここにフロイト第二局所論でいう「超自我」の形成を見出すことができるわけです。

対象 a と根源的幻想

こうして、子どもの中に芽生えた「欲望」は、以降、かつての享楽の残滓物達、すなわち「欲望の原因=対象 a 」により駆動され、死ぬまで満たされない永久運動に従事することになります。ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは「乳房、糞便、声、まなざし」の4つあり、以降の人生で見出す様々な対象 a はこれら4つのバリエーションと言えるでしょう。

そしてこの欲望と対象 a の関係性を規定する態度をラカンは「根源的幻想」と呼びます。ヒステリー者と強迫神経症者の根源的幻想は対象 a に対する両極的アプローチといえます。疎外以前に逆行して「対象 a を完全に所有したい」と欲望するのが強迫神経症者である、他方で、分離に執着して「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」と欲望するのがヒステリー者です。


いずれにせよ「欲望」とは「欲動」を禁じられ初めて生じるものであり、両者は相転移の関係にあると言えるのです。

例えば、の話ですが、生まれてからずっと絶海の孤島に絶世の美少女と二人っきりで、それが当たり前の暮らしだった所に、ある日突然、イケメンが現れたとします。

少女はそのイケメンを未だ見せたことのない恍惚の眼差しでうっとりと見つめている・・・そんな情景を思い浮かべてみて下さい。そうすれば、それまでなんとも感じなかった少女との関係性が、たちまちにして、これ以上なく掛け替えの無い大切な物だったように感じらませんか?要するに、その時、湧き上がるであろう何とも名状しがたい感情、これが「欲望」の正体です。

こういう風に説明すれば、少しは想像できるかとは思いましたが・・・却って、わかりにくかったらごめんなさい。

第三項としての〈父の名〉

ともかくも、このように「満たされた享楽」の禁止と相転移的に「満たされない欲望」が生成されるわけです。この一連の疎外と分離の過程において、母と子の「享楽」を切り裂く邪魔者こそが、エディプスコンプレックスを引き起こす第三項、すなわち〈父の名〉に他ならないのです。

要するにフロイトがエディプスコンプレックスと呼んだものは、子供の発達過程における母子分離の神話的表現なんですよ。この世に生まれ落ちた時は動物となんら変わりない「エスの塊」である赤ちゃんに「超自我=理性」を内在させる力動作用と言い得るでしょう。つまり〈父の名〉を担うのは現実的な父親に限りません。

〈父の名〉とは「母の欲望」を名付ける「シニフィアン」という一種の概念であり、母と子を分かつ第三的力動作用であればそれは現実の父親どころか人でさえある必要はなく、例えば母子家庭における母のパート労働による日常的な不在も、そういいう意味で〈父の名〉として機能すると言えるでしょう。

エデイプスコンプレックスVS劣等コンプレックス

このようにして見てみると、「疎外と分離」により「欲望」の萌芽から「根源的幻想」の形成に至るまでの論理の動線はアドラーの優越性の追求からライフスタイルに至るそれと極めて近似していることに気付かされます。

まず、母子分離の過程においてエディプスコンプレックスによる欲動が抑圧されることで、欲望=優越性の追求が発生し、根源的幻想=ライフスタイルが形成されます。

そして、この根源的幻想=ライフスタイルが何らかの挫折経験などで著しく歪んだ時、アドラーが言うところの「〜だから〜できないという偽の因果律」である合理化作用によって劣等コンプレックスが形成されます。

ものすごく端的に言えば、エディプスコンプレックスは欲動の抑圧作用であり、劣等コンプレックスは欲望の合理化作用といえるでしょう。つまり両者は構造的には似ているものの作動する位相が全く異なっているというわけです。

なお、強迫神経症者もヒステリー者も「対象 a を完全に所有したい」「対象 a そのものとして〈他者〉に欲望されたい」という支配関係、つまり縦の関係であり、端的な劣等コンプレックスと言えるでしょう。

つまり、劣等コンプレックスというのは神経症圏においては根源的コンプレックスではあることは間違いない。なので神経症圏を生きる大多数者にとって劣等コンプレックスが直感的に響く説明であることはある意味当然であるといえるのです。

また、劣等コンプレックスは多種多様な亜種を生み出します。カインコンプレックス、学歴コンプレックス、メサイアコンプレックス、クリスマスコンプレックスなどなど・・・学童期以降の子供が同性親に抱くエディプス的な愛憎も理論的には劣等コンプレックスということになります。

この点、エディプスコンプレックスは「異性親への愛情と同性親への憎悪」という、このひとつだけです。つまり言い換えればエディプスコンプレックスというのは多くの人に共通する精神力動と言えるでしょう。

これはユング心理学の個人的無意識と集合的無意識を想起させるものがあります。すなわち、ユングの理論体系に従えば、神経症圏=個人的無意識、精神病圏=集合的無意識、という対応関係となり、個人的無意識というのはエディプスコンプレックス=父性原理による切断により発生するという理解を導き出すことができるわけです。

結語〜根源的幻想の横断と共同体感覚の獲得

さて。最後はなんだかとっ散らかった印象論を並べただけではありますが、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスというものが決して対立するものでないという趣旨がなんとか伝わったのであれば幸いです。

ところで精神分析が目指す分析目標は「根源的幻想の横断(ラカン)」であり、これは畢竟、「〈他者〉との分離」だといえるでしょう。

他方、アドラーの個人心理学の治療目標は「共同体感覚の獲得」であり、これはどちらかといえば「〈他者〉との調和」に重きをおいているように見受けられます。

もちろん「課題の分離」「勇気付け」を始めとするアドラーの数々の技法が日々の暮らしにも簡単に応用できる実用性に優れたものであることは言うに及ばないことですが、これだけアドラー理論が多くの共感を集めるというのは「自己責任」とか「空気を読む」ということが折に触れ強調される現代日本社会の精神病理を端的に例証しているような気がするんですよね。

そういうわけで、今年もいよいよ年の瀬、なんかあっという間でしたね。皆様におかれましてもどうか、よいよいお年を。

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