【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2019年06月30日

鏡像段階の遁走曲



* stade du miroir

鏡像段階(stade du miroir)の概念は、私が13年前のこの学会で紹介したものですが、それ以来この概念はフランス語圏のグループでは多少とも慣用のものとなってきていますので、ここで再びそれに注意を向けていただくのも無駄ではないと思われました。今日はとりわけ、精神分析がわれわれにあたえる経験のなかでこの鏡像段階が〈わたし〉の機能について明らかにしているところを考えてみたいと思います。(E93)


生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は鏡に映った自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せる。このような子どもの発達過程をフランスの精神分析医、ジャック・ラカンは鏡像段階と名付けました。

ラカンという名前は難解な著作や晦渋な語り口といった悪名と共に、精神分析を想像界・象徴界・現実界からなる独創的なシステムとして再発明した業績で知られています。鏡像段階理論はその出発点とも言える概念です。

鏡像段階理論が初めて世に問われたのは1936年、マリエンバードで行われた国際精神分析学会でした。もっともこの時のラカンの発表は制限時間を大幅にオーバーし、座長のアーネスト・ジョーンズの介入により中止の憂き目を見る。

この仕打ちにぶち切れたラカンが発表原稿を学会に提出しなかった為、最初の鏡像段階理論がどういうものだったのか今となってはよくわかりません。今日よく知られている鏡像段階理論とは1949年、チューリッヒで行われた国際精神分析学会での発表「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」以降のものです。


* イマーゴとしての鏡像段階 

鏡像段階は「身体」や「自我」と言ったイメージ、つまり想像界の起源となります。

生後しばらくの間、乳幼児は脳や脊髄などの中枢神経系統が未発達であるため、目や口や耳などの感覚器官から得られる身体興奮の束からなる「寸断された身体像」の中に生きています。

この点、発達心理学における一般的理解によれば、子どもは中枢神経系統の発達過程の何処かで「統合的な身体像=身体」を獲得すると言われます。ところがラカンは、こうした中枢神経系統の発達以前に、既に子どもは自身の「身体」を視覚的イメージとして先取りしていると主張します。

こうした視覚的イメージ化を助けるためのメディアの一つとして「鏡」があるわけです。もっとも鏡に映された自身の鏡像は反転した自分であり、いわば自分そのものではない「他者」と言える存在です。

つまり、鏡というのはあくまで一つの媒体であり、より本質的に言えば子どもは他者のイメージの中に自身の「身体」を発見しこれに同一化を試みているということです。

こうしたイメージ形成作用を「イマーゴ」といいます。ラカンはイマーゴの果たす作用を動物行動学から例証しています。例えば、ハトの生殖腺は雄雌を問わず同類のハトのイメージを見せることで成熟すると言い、また、トビイナゴが孤棲型から群棲型への移行は、ある生育段階において類似のイメージを見ることで起きると言います。

そして、ラカンは鏡像段階をイマーゴの特殊なケースだといいます。人は鏡像イメージをキーとして、寸断された身体像の総和を超えたゲシュタルトを起動させる能力を種として備えているということです。

「自我」の起源もここにあります。こうして、子どもはその後も他者を自らの鏡像(理想自我)として二次的同一化を続けていきます。

すなわち自我とは同一化の集積体であり、玉ねぎの皮として例えられます。この同一化の反復運動は死ぬまで継続する。こうした外部のイメージを内化する操作をラカンは「疎外」と呼びます(狭義の疎外)。


* 鏡像段階とエディプス・コンプレックス

このように鏡像段階において子どもの中で「身体」と「自我」のイメージが起動するわけですが、同時に鏡像段階はある種の不協和をもたらします。

他者のイメージが自分のイメージであるというのであれば、逆に自分のイメージは他者のイメージであり、ここに他者との間で鏡像を奪い合う競合関係が生じる。これを「双数関係」といいます。

鏡像段階における自我は不安定なパラノイア的自我であり、自我の敵意が他者に投影され反転し、他者が自我に向ける敵意となってしまいます。幼児が他の子供を叩いておいて「あの子がぶった」などという転嫁現象はこうしたことに由来すると言われています。

こうして鏡像は愛の対象であると同時に憎しみの対象ともなるわけです。想像界は常に「お前か私か」の二者択一な不安定な世界です。かかる混乱を調停する役割を担うのが象徴的秩序を体現する第三者、すなわち〈他者〉です。

鏡像段階の子供にとって母親をはじめとした養育者は絶対的な〈他者〉です。こうした〈他者〉が鏡の前で「(象徴的に)これはあなたですよ」と承認することで、子どもははじめて鏡像を自らのイメージとして内化し、安定した自我を得ることができると言われます。

すなわち、鏡像段階とは想像界の起源ですが、あくまで象徴界によって統御されているという事です。換言すれば鏡像段階とはエディプス・コンプレックスの最初の段階となります。つまり鏡像とは〈他者〉の現前不在という原初的シニフィアン連鎖のシニフィエ(想像的ファルス)として機能するわけです。


* シェーマL

後年、鏡像段階理論をもとにした一つの図式が構築されます。いわゆるシェーマLです。この図式は自我(a)と鏡像(a’)を結ぶ想像的関係と、主体(S)と〈他者〉(A)を結ぶ象徴的関係により構成されてます。


L図.png


主体(S)に向けて〈他者〉(A)から発信される「充溢したパロール」は自我(a)と鏡像(a’)の間で交わされる「空虚なパロール」によって遮断されます。フロイト的な格言でいうと「自我が無意識的願望を抑圧する」ということになります。

こうした自我(a)と鏡像(a’)からなる想像的関係を整理することで、主体(S)は〈他者〉(A)から発信された「充溢したパロール」を受信可能となります。こうした作業により無意識は更新されていくわけです。


* 理想と対決するということ

このように鏡像段階は乳幼児の一時期の出来事ではありません。人は大人になってもどこかで鏡像段階の夢に囚われて生きています。

例えば我々は日々、他者に対して「あいつは口だけだ」「あいつは外面だけだ」「あいつは上から目線だ」「あいつはいい加減な奴だ」などとイライラした感情を覚えたりするわけです。

ではこうしたイライラはなぜ起きるのか?よくよく胸に手を当てて考えてみると、案外と自身の隠れた理想が反転した形であることが実に多かったりもします。我々はまさに自身の理想を他者に奪われているからこそ、双数関係的にイライラするわけです。

けれど、こうした感情はむしろ人として自然なことだと思います。何をやっても上手くいかない時はある。人はそんなに強くはできていないし、世の中努力は必ずしも報われない。「あいつさえいなければ」と、誰かを恨みつらむことでしか心の平衡を保てない時期もあるでしょう。

もちろんこれは本質的な解決ではありません。結局のところ、人は自らの理想と対決していかなければならない。

この点、想像界は象徴界によって統御されています。鏡像が示すのは確かに自らの理想ですが、その理想とは、あくまでその時の象徴的立ち位置(自我理想)から眺めた想像的イメージ(理想自我)に過ぎません。つまり自身の立ち位置を変える事で当然、理想のイメージは相対的に変わって来るわけです。

我々はある意味で鏡の世界を生きています。他者という鏡像は道を照らす光にもなれば歩みを縛る鎖にもなる。重要なのは自らの理想の正しさを時には疑い、あるいは破棄し、更新していく営みであるということです。


主体から主体へという訴えを我々が維持するなかで、精神分析は患者を《これこそ君だ》というぎりぎりの限界まで伴っていくことができ、そこで彼の死すべき運命の暗号が示されるわけですが、しかし、本当の旅が始まるこの瞬間まで患者をみちびいていくのは、実地家としてのわれわれの力だけでは及ばないのであります。(E100)



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posted by かがみ at 01:06 | 心理療法

2019年05月30日

享楽の幻想と欲望の倫理



* 享楽のデフレーション

精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは人の中に内在する根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そして、フランスの精神分析医ジャック・ラカンはその欲動の満足状態を「享楽」と呼びました。

もっとも欲動はその性質上、完全な「満足」ということはあり得ません。もしもあるとすれば、欲動がその活動を完全に停止した時だけでしょう。それゆえに欲動の本質は「死の欲動」であり、享楽とは不可能だからこそ甘美なまでに破滅的なのです。

こうしてラカンのいう「享楽」とはそもそもの意味では「不可能」と同義でした。人の欲望や神経症、あるいは様々な芸術的創作やイノベーションはこうした「不可能」の関数として産み出されるわけです。

ところが1970年以降の消費化/情報化社会の進行は享楽の性質に変化をもたらします。それは端的に言えば享楽のデフレーションです。享楽とはもはや「禁じられた遊び」ではなく「押し売られる商品」へと変わっていきます。


* 〈もの〉の享楽から剰余享楽へ

ラカンがまず最初に想定したオリジナルの享楽は「〈もの〉の享楽」と呼ばれるものです。ラカンはセミネールZ「精神分析の倫理(1959〜1960)」において〈もの〉の概念を取り上げます。

〈もの〉とは、外界からの刺激を受けた心的装置がその翻訳過程で決定的に取り逃がした象徴化不能な何かです。

心的装置.png

心的装置に記録できるものはシニフィアンに変換可能なものだけです。こうしてシニフィアンから〈もの〉が切り離させる事で「欲望」が構成されます。目前のシニフィアンの壁さえ乗り越えればそこには快楽原理の彼岸という桃源郷があるのではないかというファンタジーが生じるからです。

その後、ラカンはシニフィアンの間隙を縫って出現してくる〈もの〉のごとき断片を「対象 a 」という概念で捉えるようになります。そしてセミネールⅪ「精神分析の四基本概念(1964)」においては「疎外と分離」の図式により、シニフィアンの枠組みの中での対象 a の位置が明らかになります。

疎外と分離.png

けれども、ここでも享楽とはあくまで〈もの〉の側にあり、シニフィアンの世界からは対象 a を通じて辛うじて「侵犯」することができるものとして捉えられていました。

ところが、ラカンは1960年代後半から、ディスクールの理論を導入する事で、享楽とはむしろシニフィアンという装置により「生産」されるものとして捉えます。

すなわち、シニフィアンの導入は、主体に〈もの〉の享楽を禁止すると同時に、新たな別の享楽の可能性を与えることになります。この別の享楽を「剰余享楽」といいます。


* plus-de-jouirの二面性

セミネールXVI「ある〈他者〉から他者へ(1968〜1969)」において、ラカンはカール・マルクスの剰余価値説の読解を通じ、剰余享楽の概念を導きだします。

マルクスによれば、一つの商品に使用価値と交換価値という二つの価値があります。使用価値は例えば小麦を焼いてパンにして食べるような時に問題となります。他方で交換価値はその小麦を布地と交換するような時に問題になります。

ここで一定の小麦=一定の布地の交換が成り立つのは、両者の労働量が等価とみなされるからです。この労働量を具体的/一般的に表したものが貨幣です。

ところで商品の中には特別の性質を有するものがある。それは「労働力」という商品です。

資本家は貨幣と交換で労働力を購入します。労働力を使用すると労働量になります。そしてなぜか労働力の使用価値は交換価値以上の労働量を生み出すことができます。

つまりここに使用価値と交換価値のギャップが発生します。このギャップが「剰余価値」です。これが資本家にとっては利益となり労働者にとっては搾取となります。

ラカンは以上のマルクスの論理をシニフィアンの論理に当てはめ、剰余価値ならぬ剰余享楽と呼ぶものを導き出します。

つまり、人はある満足体験を使用価値(それ自体の反復)ではなく交換価値(シニフィアンの獲得)として使用することで、両者のギャップから剰余享楽が生まれるという論理です。

このように、我々はシニフィアンと関係し主体となった瞬間に「〈もの〉の享楽」を禁じられる同時に剰余享楽の可能性が与えられる。ラカンはその瞬間について「シニフィアンが享楽の装置として導入されるとき、エントロピーに関係する何かが出現する」と述べています。

つまり、剰余享楽(plus-de-jouir)には「喪失=もはや享楽しない(プリユ・ド・ジユイール)」と「回復=もっと享楽する(プリユス・ド・ジユイール)」の二つの側面があります。


* 4つのディスクール

剰余享楽の導入は、シニフィアンと享楽の関係を統合的に捉えることを可能とします。こうした新たな観点からセミネールXVII「精神分析の裏面(1969〜1970年)」において「4つのデイスクール」の理論が展開されます。主人のディスクール、大学のディスクール、ヒステリー者のディスクール、分析家のディスクールです。

4つのディスクール.png

主人のディスクールにおいては、主人(S1)が奴隷(S2)に労働させることで、剰余享楽( a )が産出され、欲望の主体($)が成立する。

大学のディスクールにおいては、教師(S2)が学生( a )を教導する事で、疎外の主体($)が産出され、主人(S1)が温存される。

ヒステリー者のディスクールにおいては、神経症者($)が主人(S1)を問い詰める事で、知(S2)が産出され、剰余享楽( a )が隠蔽される。

分析家のディスクールにおいては、分析家( a )が分析主体($)の発話の意味を切る事で、主体的差異を示すシニフィアン(S1)が産出され、知(S2)が想定される。

ディスクールの理論が示しているのは、ある社会的紐帯によって何が産み出され、結果、何が真理とされるのかという一つの構造です。これは1968年の5月革命における「構造は街頭に繰り出さない」というアジテーションに対するラカンからの反論でもあります。


* ジュイッサンスからエンジョイメントへ

そしてさらに1972年、ラカンは「新しい主人のディスクール」と言うべき「資本主義のディスクール」を提出します。

資本主義のディスクール.png

資本主義のディスクールにおいては主体と対象 a は遮蔽線ではなく実線で結ばれています。つまり、ここでは剰余享楽の「喪失」なき「回復」が生じていることになります。

高度に消費化/情報化された資本主義システムの下では、人々の要求は、速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解は新製品や新サービスとして次々と市場に供給されます。結果、人々は「もっと享楽できる/しなければならない」という歪んだ幻想を生きることになります。

資本主義のディスクールは人の欲望を搾取します。主体の要求が速やかに最適化されて満たされる以上、欲望の弁証法化が起きないからです。いうまでもなく欲望とは生のリアリティの根幹をなすものです。新型うつ病やパーソナリティ障害といった現代的病理はこうした文脈からも理解できるでしょう。

こうしていまや享楽は不可能なジュイッサンスから計量可能なエンジョイメントへと変容し、資本主義のディスクールに無自覚でいる限り、我々はただわけもわからず享楽させられる消費者として、資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。



* 〈幸福の原層/単純な至福〉を自在に見い出していくということ

ラカンは精神分析を「資本主義からの出口」として位置づけます。確かに分析家のディスクールは資本主義のディスクールと共通する特徴を一切持っていません。そして精神分析とは主体の絶対的差異を示す特異的/単独的享楽を目指す営みであり、そこには必然的に欲望の主体を奪還する契機が内在されています。

すなわち、資本主義のディスクールを内破する鍵は、分析家のディスクールの中にあります。

この点、ラカンは分析家のディスクールにおいて、分析家が対象 a の位置を占めることで、分析主体は構造の中における自らの位置を問い直すことが可能となるといいます。

構造の中における自らの位置を問い直す。こうした意味では、分析家のディスクールは精神分析の臨床そのものに限らず、その断片ならば日々の生活空間の至る所に現れてくるという言い方もできるでしょう。

例えば、社会学者の見田宗介氏は、現代において人が生のリアリティを獲得する上で重要なのは、経済成長による物理的富の増大以上に、物、他者、自然といった周囲の環境との交歓を通じた〈幸福の原層/単純な至福〉を自在に見い出していける「幸福感受性」であると言います。

ここでいう〈幸福の原層/単純な至福〉とは他ならぬ対象 a です。つまり、それこそありふれた日常の中に自らの特異的/単独的な瞬間である「いま、ここ」を見いだしていく「洗練された幸福の感性」こそが現代的な成熟観であり、幸せの在り処であるということです。

享楽のバーゲンセールの中で我々はせめて賢い消費者であらねばならない。そこで求められるのはまさに欲望に対して譲らないという倫理です。つまり問題は我々が構造の中における自らの位置をいかに自覚的に生きられるかどうかということになります。そこに気づくか気づかないかでパーソナルな現実と生のリアリティは全く違うものになるではないでしょうか。




享楽社会論: 現代ラカン派の展開
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posted by かがみ at 21:14 | 心理療法

2019年04月27日

「こころのおと」を紡ぎ出すということ



* ラカンは自閉症をどのように捉えていたか

フランスの精神科医、ジャック・ラカンはフロイトの精神分析理論を精神病の方面から読み直すことで独創的な理論体系を築き上げたことで知られています。ではラカンは「自閉症」についてはどのように考えていたのでしょうか?

アメリカの児童精神科医レオ・カナーの論文「早期幼児自閉症」が発表されておよそ10年後、ラカンは早くもセミネール1「フロイトの技法論(1954年)」において、現代であれば「自閉症」と診断されるであろう症例を取り上げています。いわゆる症例ディックと症例ロベールです。

ここでラカンは自閉症をスキゾフレニーに近縁の精神病的構造をもっていたと考えていたようです。例えば、ロベールが発する「狼!(loup!)」というシニフィアンは、精神病における幻聴のシニフィアンと同じような他のシニフィアンから切り離された「ひとつっきりのシニフィアン」として捉えることも可能です。

時代は下り、ラカンはセミネール11「精神分析の四基本概念(1964年)」の中でディックやロベールが用いていた上記のような言語使用の特徴を「オロフラーズ(一語文)」として把握する。

ラカンが言う「オロフラーズ」とは二つのシニフィアンS1とS2を分節化することなく凝集し、一つの塊として用いる語の使用です。例えばテンプル・グランディンの伝記映画では、彼女が出会う人に次々と「ワタシノナマエハテンプルグランディンデスハジメマシテ」と挨拶する場面があります。

また、シニフィアン連鎖のオロフラーズ化は、他人の言葉も一言文に凝集して理解してしまうので「空気を読む」といったコミュニケーション上の困難が生じます。

そして1970年代に入り、ラカンは「症状についてのジュネーヴでのシンポジウム(1975年)」という講演において「自閉症」という言葉をはじめて疾患の意味で使用しています。

ここでもやはりラカンは自閉症をスキゾフレニーと近縁のものとして捉えてはいますが、自閉症者に現れる諸現象を対象 a としての「声」という観点から新たに捉えようとも試みています。

この点、精神病者に生じる言語性幻覚(幻聴)は「声」を「外部の他者から到来したもの」として聞いているのに対して、自閉症者は「自分自身から来るもの」として聞いているわけです。

ここでラカンは自閉症における声が持つ自体性愛的な性格を指摘しています。つまり彼らにとって「声」とは〈他者〉との間のやり取りのために用いられるのではなく、その「声」を対象 a として自身の身体に保持し自閉的享楽を得るために用いているということです。

このように晩年のラカンは自閉症の特異性に気がついていた節はあるようです。しかし自閉症をもっぱら「シニフィアンの病理」という側面のみで捉えた時、それは原初的象徴化の失敗、疎外の拒絶に他ならず、この限りにおいては自閉症と精神病は同一圏内にある、ということになります。


* 現代ラカン派の自閉症論

こうしたことからラカン派において自閉症は長らく「子どもの精神病」と考えられてきました。

ところが1980年代以降、テンプル・グランディンの『我、自閉症に生まれて』や、ドナ・ウィリアウズの『自閉症だった私へ』といった自閉症者の伝記出版が相次ぎ、自閉症者の内的世界が徐々にあきらかになります。

そしてラカン派内部でも、自閉症を「シニフィアンの病理」のみならず「享楽の病理」という側面から仔細な検討が加えられ、ルフォール夫妻による「〈他者〉の不在」とエリック・ロランによる「縁の上への享楽の回帰」という概念の導入によって、自閉症は精神病から決定的に切り離されることになります。

こうしてゼロ年代後半、ジャン=クロード・マルヴァルの手により、現代ラカン派の自閉症論は体系化されることになります。マルヴァルの自閉症論の体系はドナ・ウィリアムスの次の言葉に集約されています。

これはふたつの闘いの物語である。ひとつは、「世の中」と呼ばれている「外の世界」から、私が身を守ろうとする闘い。もうひとつは、その反面なんとかそこに加わろうとする闘いである。

(自閉症だった私へ:24頁)


すなわち、自閉症者はシニフィアンや享楽から身を守りつつ〈他者〉との関係性を特異的な方法で創造しようと試みているということです。こうした営みをラカン派の理論体系から把握しようとした時「緑の上の享楽の回帰」「分身」「合成〈他者〉」の三つ組の概念が導き出されることになります。


⑴ 縁の上への享楽の回帰

自閉症者は原初的象徴化が上手くいっていない為、欠如という概念を持て余し、それはしばし「現実的な穴」として根源的不安を引き起こします。

これはいわゆる「ブラックホール体験」と呼ばれるものであり、享楽の観点から言えば、子供にとっての原初のトラウマ的シニフィアンであるララングの反復が生み出す「不定形の享楽」の侵襲として捉えられます。

そこで彼らは目や口や耳といった「縁取り構造」を持つ身体器官に殻を作り上げ、身体を襲う不定形の享楽をその中に閉じ込めようとするわけです。

例えばドナはしばし激しい「まばたき」を行っており、彼女曰くその反復運動は「物事のスピードを緩め、自分の周りのものを、自分からより遠ざかったものにするため」であったと言います。こうすることで「あたりがコマ送りの映画のようになって現実感が薄れるので、恐怖心もやわらぐ」とドナは語っています。

また「緑の構造」の例としては「声の保持」を挙げることができます。マルヴァルは自閉症者の言語使用は「声」という対象 a を〈他者〉に手渡そうとせず、むしろ保持しておこうとすることから帰結すると考えています。ロベールの例の「狼!」といったオロフラーズは「不定形の享楽」から身を守るための「一つの現実的穴に見合うシニフィアン」と言えますし、自閉症における場面緘黙はこうした観点から理解できるでしょう。

自閉症者にとって「縁」は、安心できる既知の世界と理解不能な混沌な世界(ブラックホール)を分割し、外的世界と関わるための基点となります。彼らはこの「縁」から出発し、より高次のコミュニケーションの可能性を拓いていくわけです。

⑵ 分身

自閉症者は言表行為の主体を持って応答すべき状況に置かれたときしばし混乱を伴います。このような状況の際に自閉症者を補助してくれる装置が自らの「分身」になります。

ドナは他者とのコミュニケーションを取ることが難しい時、ウィリー、キャロルといった自らの分身となる空想上の存在の助けを借りていました。分身はドナにとっては周りの子供たちよりずっと信頼でき、絶対的な安心感を得られる存在であったということです。

このような空想的(想像的)な存在との関係のあり方は精神病と自閉症では大きく異なっています。

精神病では想像界の増殖の結果、空想的(想像的)他者が現れます。けれども、その他者は主体を迫害する他者であったり、主体の享楽を強奪する他者であったりするわけです。このように精神病における他者への関係は双数的、決闘的な鏡像関係に支配された悪意に満ちたものになります。

これと反対に、自閉症における空想的(想像的)他者はむしろ自閉症者を助けてくれる補助的自我として機能することになります。

⑶ 合成〈他者〉

高機能自閉症やアスペルガー症候群の患者さんにおいては、幼児期に示した特異的な能力や極端なこだわりを高度なものに発展させていくという例がよく見られます。

自閉症者は、例えば時刻表、電話帳、カレンダーの丸暗記など、特異的な能力を持っていることがあります。こうした「島状に点在する能力」を次第に発展させていくことで、彼らなりの個人的な秩序が作りだされていきます。

断片的な「点」でしかなかった世界は、いつしか「線」となり、やがて「面」にもなる。

そして、このような自閉症者の能力の発展は時にイノベーションと呼ぶべき創造的効果を生じさせることがあります。

ここには自閉症圏における一般的な〈他者〉構造に依拠しない特異的な構造化を見いだすことができるでしょう。このようにして創り出された特異的な〈他者〉を「合成〈他者〉」と言います。


* 精神分析の彼岸としての「洗練された自閉症」

ともすれば自閉症圏の主体ははたから見れば自らの世界だけを生きているようにも見えるかもしれません。しかし、上記のドナの言葉にもあるように、その世界は決して閉じたものではない。

そこには、日常的に現れる底なしのブラックホールを自分なりの秩序で囲い込み、他者との間にとぎれとぎれに結びついていく試行錯誤があるということです。

こうした自閉症圏における「切断と再接続」の営みはラカンが精神分析の終結条件とした「症状とうまくやっていくこと」とはどういうことなのかを、もっとも鮮明な形で我々に教えてくれます。

自閉症に限らず人は誰しもその人固有の〈一者〉というべき自閉的な享楽を抱えています。つまり「症状とうまくやっていくこと」とは、こうした〈一者〉を一旦「切断」し、その上で〈他者〉と「再接続」することにより自由な社会的紐帯を紡ぎ出す「洗練された自閉症(ジャック・アラン・ミレール)」としての生き方に他なりません。

いわばラカンは精神分析を自閉症化する事でかつてフロイトが陥った「終わりなき分析」のアポリアを乗り越えたというべきでしょう。


* 「こころのおと」という〈一者〉

「発達障害のピアニスト」として知られる野田あすかさんは、22歳の時に短期留学先のウィーンで広汎性発達障害(自閉症スペクトラム障害)と診断されたのがきっかけで、小さい頃からずっとやってきたピアノを頑張ってみようと発達障害の持つ「明」の部分に賭ける決意をします。

この点、長い間、あすかさんにとってピアノはやらされるもの、譜面どおり弾かなければならないものでした。まさに「〈他者〉の欲望」のピアノです。

しかし、恩師となる田中幸子先生の出会いがあすかさんとピアノの関係を変え、ひいてはあすかさんの生き方自体を変えていきます。

田中先生の「あなたは、あなたの音のままでとても素敵よ。あなたは、あなたのままでいいのよ!」という言葉に導かれ、あすかさんは自らの中にある「こころのおと」に向き合うことでピアニストとしての才能を開花させます。

小さい頃は、コンクールに入賞するために、その曲にあった音色通りに引かなければと、自分をおさえるピアノをやるしかありませんでした。まねごとのピアノはつらかったです。

でも、田中先生に教えてもらうようになってからは、良くても悪くても自分の「こころのおと」を出せるようになって、ありのままの自分でいいと思えるようになりました。

(発達障害のピアニストからの手紙:168頁)


おそらく田中先生の言葉はあすかさんの「こころのおと」という〈一者〉をうまく刺し留めることができたのでしょう。

こうして自分の「こころのおと」を聴いてもらうことで皆に希望を与えていく新たな未来の可能性があすかさんの前に切り開かれてきたわけです。これはひとつの「切断と再接続」の営みではないでしょうか。

今、学校や職場で障害があることでつらい思いをしている方々に、

「きっとこれから先、いいことが待っている」

そう感じてもらえる演奏をするのが、私の理想です。

私は何もできませんが、でもあなたの心に希望は与えられます。言葉ではなくて、音で、みんなに思いを伝えられて、みんながしあわせになるピアノの音を出せる。そんなピアニストになるのが理想です。

(発達障害のピアニストからの手紙:181頁)






* 幸せの青い鳥はいつも「いま、ここ」にいる

近年、自閉症をはじめとした発達障害は「個性」という風潮もなきにしもあらずですが、障害自体はその人の「特異性」であり、それ以上でも以下でもありません。

その「特異性」を「個性」に昇華するためには、あくまで本人の努力と周囲の環境のめぐりあわせが必要になってくるわけです。

また、発達障害傾向があるものの診断名が付かない「発達障害グレーゾーン」の場合、発達障害という診断名がないだけに、ただただ「普通に空気が読めない人」「普通にミスが多い人」として周りから蔑まれ、自身を責め続けてしまう別の「生きづらさ」があるでしょう。

そもそも「定型発達」というものが本当に存在するのでしょうか?仮に「理想的な定型発達」のモデルがあって、そのモデルに寸分違わずぴったりな人がいたとしても、その人は果たして「生きづらさ」とは無縁の幸福な人生を送れるのでしょうか?

もとより発達過程は人それぞれであり、皆それぞれ何がしかの特異性を抱え込んでいるという意味では人は皆、発達障害と言えなくもないわけです。

何となく我々は自分は「普通」だと思い込んでいたりするわけですが、それはこれまでたまたま運良く環境に恵まれていただけかもしれません。

もしかして、ほんのちょっとした環境の変化でたちまち「生きづらさ」を感じる境遇に追い込まれる可能性だってあるわけです。そういう意味で、発達障害とは決して「どこか誰かの他人事」の話ではなく、我々の日常と地続きの問題でもあります。

新しい時代が始まります。生きていればいろいろと嫌なこと、不安なこと、大変なこともあるでしょう。けれども、外的な現実を懸命にやり抜きつつも、内的な現実との対話を重ねていく。そういった営みの積み重ねこそがまさに「生きていく」ということなんだと思います。

幸せの青い鳥は「ここではないどこか」はなく、いつも「いま、ここ」にいます。日々生起する困難とめぐりあわせの中で鳴り響く、自分だけの「こころのおと」にしっかりと耳を傾けて、この日常を生きていきましょうね。




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2019年03月30日

ララングの生理と病理



* 「欲望」から「享楽」へ

1950年代までのジャック・ラカンの精神分析理論は「欲望」を中心概念として構築されてきました。ところが1960年代に入り、徐々に「欲望」は背後に退き、入れ替わるように「享楽」という概念が前景化してきました。

この点、ラカンは当初「対象 a 」という概念を通じて享楽を捉えました。しかし、1970年代になるとラカンはその対象 a ですらも「みせかけ」であると言い出すようになります。

では「みせかけ」ではない享楽があるとすれば、それは何処にあるのでしょうか?ここでラカンが導入したのが「ララング」の概念です。


* 〈一者〉

ラカンは、セミネール19「ウ・ピール(1971〜1972)」において、症状の「象徴的側面」を問題とする存在論を使う限り、症状の「現実的側面」を捉えることはできないと述べ、次にセミネール20「アンコール(1972〜1973)」における性別化の式の構築過程で従来の「ファルス的享楽」とは異なる「〈他なる〉享楽」を発見し、存在論から〈一者〉論へ軸足を移します。

〈一者〉とは子どもが初めて言語と遭遇した時、その身体にトラウマ的に刻まれる原初的満足体験の痕跡をいい、ここで齎される満足を「〈一者〉の享楽」といいます。

そしてこの「〈一者〉の享楽」は子どもが最初に遭遇するシニフィアンである「ララング(S1)」に紐付けられる事になります。


* ララング

「ララング(lalangue)」とはラカンの造語で、冠詞付きの国語(la langue)の冠詞と名詞を一語に融合させたものです。

子どもの身体がララングと遭遇した時、その痕跡は「一の印」としてトラウマ的に身体に刻み込まれ「〈一者〉の享楽」がもたらされます。

つまり、子どもにとってこのララングはコミュニケーション手段ではなく「〈一者〉の享楽」の再現手段としての私的言語ということになります。

その後、多くの子どもはコミュニケーション手段としての言語(langage)の世界(象徴界)へと参入し、次第にララングと折り合いをつけていった結果、例の「言語によって構造化された無意識(S2)」というものが形成されるわけです。

しかし一方でララングに刻まれた「〈一者〉の享楽」は、シニフィアンの構造化に回収されることはなく、対象 a の形をとって回帰し、症状の「現実的側面(症状の根)」を構成します。

心を病んでしまった人がリストカットを繰り返したり、ギャンブル、アルコール、薬物への依存からなかなか抜け出すことができないのは、その根本において「〈一者〉の享楽」の反復があるからです。


* 逆方向の解釈

「〈一者〉の享楽」の前では「欲望」は二次的な概念に過ぎなくなります。「欲望」とは周知の通り象徴的秩序を前提として生み出された「〈他者〉の欲望」であり、いくら「〈他者〉の欲望」を弁証法化させたところで主体における特異的(単独的)な「〈一者〉の享楽」を捉えることはできないからです。

こうして現代ラカン派の臨床においては、症状にS3、S4と意味を付け加え続ける古典的解釈(順方向の解釈)ではなく、逆に症状の意味を削減してS1を析出させる「逆方向の解釈」が重視されることになります。

そしてそこでは最晩年のラカンが言うように、主体自身が「症状とうまくやっていく」という特異的(単独的)な解決が目指されているわけです。


* 「これでよい」と思えるということ

「症状とうまくやっていく」。ラカンはここで別に奇抜な主張をしているわけではなく、むしろ人生論的意味ではきわめてまっとうなことを言っていると思います。

我々はいつのまにか「普通こうである」という「〈他者〉の欲望」をあたかも自分の欲望であるかの如く思い込んで生きているわけです。

普通の感性、普通の意見、普通の生活、普通の人生。

もちろん、人は社会とのつながりの中で生きていくわけですから「〈他者〉の欲望」というのもある程度は大事です。

けれど「みんなやってるから私もしなくちゃ」「みんなできているのに私はできない」といった、本来ありもしない「みんな」などという〈他者〉が産み出す幻想に囚われてしまえばそこから様々な生きづらさが生じてくるわけです。

臨床心理学者の河合隼雄氏は「心」を超えた「たましい」の重要性を強調します。ユング派の分析家である河合氏はおそらくユングの言う「自己」を念頭に置かれていると思いますが、ここでいう「たましい」とはフロイトがいう「エス」、そしてラカンがいう「ララング」に通じるものがあります。

つまり、その時その時において、自分が執着しているもの、囚われているものは本当に自分の「たましい」に響く何かなのか?を問い続ける事が自らの内にある「〈一者〉の享楽」を追求していく営みになるという事です。

こうした営みを積み重ね「〈他者〉の欲望」と「〈一者〉の享楽」との間の何処かに「これでよい」と思える自分なりの特異的な調和点を見出す事が出来た時、人はきっと、その人なりの幸福を生きていけるのではないでしょうか。





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posted by かがみ at 20:53 | 心理療法

2019年01月31日

精神病圏の諸相



* はじめに

1998年、École de la cause freudienne(フロイト大義学派)において、かのジャック=ラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールにより「ふつうの精神病」なるカテゴリが提唱されます。ミレールは次のように言います。

精神分析の歴史においては、並外れた精神病に、ほんとうに何もかもぶち壊すような人々に、監視が向けられてきたことは言うまでもない。

シュレーバーがわれわれの間で精神病の「顔」になってどれくらいの時間がたつだろう。ところが、われわれがここで注目しているのはもっと控えめな精神病者たちであり、彼らはあっと驚かせるというのではなく、ある種の凡庸さの中に溶け込んでしまいうる。

代償機能がうまく働いている精神病、サプリメント入りの精神病、発症せざる精神病、加療された精神病、セラピー中の精神病、分析中の精神病、進行しつつある精神病、サントームつきの精神病ーーーそんな言い方ができるだろう。

〜「La psyshose ordinaire,Agalma/Seuil」より


「ふつうの精神病」とはなんでしょうか?従来の精神病とは何が違うのでしょうか?


* 鏡像・エディプス・去勢

まずはおさらいです。ラカン派精神分析においては、人は鏡像段階、エディプス段階、去勢段階を経由することで精神病圏から神経症圏へと遷移するとされています。

鏡像段階とは、生後6ヶ月から18ヶ月の間の時期の乳幼児が鏡を見て自我を獲得するという発達段階概念です。鏡像段階においては、依然として自己統一感を与えうるほど神経系が発達していないにもかかわらず、自我や自己身体像が形成されると言われています。

次いで、エディプス段階において子どもと〈母親〉の二者関係に〈父親〉が第三項として介入してきます。そして、去勢段階において、子どもは〈父の名〉を受け入れることでファルス機能を授かります。これがラカン派的「正常な」発達段階論ということになります。


* 従来型精神病〜並外れた精神病

〈父の名〉とは、現前不在を繰り返す「母の欲望」を置き換えることで象徴界を統御するシニフィアンです。そして、ファルスとは、異性愛を可能とし現実感を獲得する為のシニフィアンです。

つまり、エディプス段階を経由できていない場合、〈父の名〉が排除されており、ファルスも機能していないわけです。

結果、現実感や自明性の喪失に晒され、異性愛を築く上でも困難を抱えることになる。これが精神病圏です。

発病前の精神病圏者とは3本足でかろうじて安定しているテーブルのようなもので、欠けている4本目の足こそが〈父の名〉です。この〈父の名〉の参照エラーにより、3本足のテーブルが引っくり返った段階がまさに精神病発症の時です。

この時、主体は「ひそやかな圧倒」により前鏡像段階への退行が生じ身体寸断状態となり、一方で排除された〈父の名〉は外部から幻覚として回帰してきます。

もっとも精神病の中でも比較的軽症のパラノイアの場合「ひそやかな圧倒」に対し妄想が防波堤として機能することで前鏡像段階への退行を免れ、一応の人格レベルはある程度は維持されます。


* 症例シュレーバー

有名なパラノイアの症例として、いわゆる「症例シュレーバー」があります。ダニエル・パウル・シュレーバーという人は19世紀末の法律家で、1893年、ドレスデン控訴院長に昇進した直後に精神病を発病させています。

精神病を発症させてからも、シュレーバーは知能に障害なく意識は清明で周囲と如才のない会話ができる一方、彼の心的世界は常に病的な妄想に支配されていました。以下、1903年に出版された自身の回想録からの一部引用です。

しかし今や、私が個人的に好むと好まざるとにかかわらず、世界秩序が有無を言わさずに脱男性化を欲していること、そして私には、理性の根拠からして、ひとりの女に変身するという思想に親しむ以外に何も残されていないことが疑う余地もなく私に自覚されたのである。脱男性化のさらなる結果として、当然ながら、新たな人間の創造を目的とする、神の光線による受胎のみが問題となりえた。私は当時まだ私以外の本当の人間というものの存在を信じておらず、私が見た人間の形姿をしたすべての者たちを「束の間に組み立てられた」ものとしかみなしていなかったが、このことによって私の意志の方向の変化は、私にとって楽なものとなった。つまり、脱男性化の中に存在する何がしかの恥辱が問題になり得なかったのである。

〜ダニエル・パウル・シュレーバー「ある神経病者の回想録」より


シュレーバーの妄想というのは要するに、⑴自分は世界を救済し、失われた幸福を再びこの世にもたらすことこそが自分の使命である。⑵そのためには何より、彼が女性に性を転換させ「神の女」にならなければならない、というものです。

シュレーバーの場合「神の女」という妄想を構築することで、精神病の症状をかろうじて制御していたわけです。この場合、ファルス機能の排除を反映する女性化という妄想が、排除された〈父の名〉の代替物として機能することで、現実感が回帰している図式になります。


* 「ふつうの精神病」の前景化

ところが近年になると、こうしたシュレーバー的な華々しい妄想を持つパラノイア患者は影を潜めていく一方で、妄想らしい妄想、幻覚らしい幻覚を持たず、さりとて神経症的葛藤も持たないという奇妙な症候を持つ患者群が前景化してきます。

こういった一群の症例を暫定的にカテゴライズする為「ふつうの精神病」というネーミングが考案されたわけです。精神分析の予備面接において、神経症であるという確たる決め手がなく「ふつうの精神病」の特徴が見られる場合、寝椅子に寝かせて自由連想をさせることを控えるべきであるとミレールは言います。


* 「ふつうの精神病」の臨床

「ふつうの精神病」の主体はシュレーバーのように華々しい妄想や奇抜な行動を示す代わりに、社会的、身体的、主体的といったものの外部へと「脱接続」するという特徴があります。

「ふつうの精神病」の臨床的特徴として、子どもの精神病のための精神分析的治療相談施設「クルティル」をブリュッセルに立ち上げたアレクサンドル・ステヴェンスの次のような5つの指標を挙げています。

⑴ 想像的同一化に基づく社会的紐帯の調節

神経症の場合、社会的役割は象徴的同一化、すなわち「〜という役割は本来こうあるべきだ」という言語によって規定されたものへの同一化を介して引き受けられますが、「ふつうの精神病」の場合、社会的役割はおよそ想像的同一化、すなわち「あの人があるいは、みんながこうしているから自分もこうしなければならない」という自分と等しいと看做される想像的他者への同一化によって果たされます。

このことが「ふつうの精神病」の主体が社会関係から切断されやすい要因となります。安定した社会的機能を持続的に果たすことが得意でないことが、「ふつうの精神病」の主体が定職を持たない、あるいは持てない一因として考えられます。反対に職場に過剰に同一化する形式での「ふつうの精神病」もありえます。この場合職を失うことが発病の契機になるわけです。

⑵ 主体の内的生(内面的生活)における空虚感

「ふつうの精神病」では独特の空虚感、具体的には「身体境界の曖昧さ」「身体的現実感」の希薄さが見られます。なお「ふつうの精神病」の主体にとって性関係はエロティックなものにならないばかりか、しばし迫害的性格を持つことが一般的であると言われます。性行為は多くの場合、快楽を伴わず、却って破壊的な効果(気分や私生活の混乱)をもたらします。けれどもそれは、主体がもともと抱えているこうした空虚感を補う意味合いを持つことがあります。

⑶ ある種の身体現象

これは器質的障害とは明らかに異なる、奇妙な説明のつかない痛みや違和感のことです。「ふつうの精神病」では身体に自己が接続されずズレを孕み、自己の身体が崩れ落ちるような体験が見られます。そこでタトゥーを彫るといった対処行動に出たりするわけです。

⑷ 様々な形を取る彷徨い

「彷徨い」とは実際に該当を彷徨うこともありますし、内面的な彷徨いとして現れる場合もあります。精神病を患っているホームレスも少なくなく、また薬物やアルコールなどの依存症に伴う彷徨いは精神病のサインである場合が多いと言われます。

⑸ 象徴界のポワン・ド・キャピトンに見られる奇妙さ

ポワン・ド・キャピトンとは「言語を通じて把握される出来事の連鎖を適当に区切り、ひとまとめに理解することを可能とする知的枠組み」のことを言います。

ステヴェンスが取り挙げているのは、薬物依存から回復して「クリーン」になった男性のケースです。彼は完全にドラッグから足を洗ったにも関わらず、ある日施設にドラッグを持ち帰った。どういうことかというと、彼はドラッグを買いに出かける別の患者をみて、その人が犯罪から「クリーン」でいられるようにと、代わりにドラッグを買い求めたということです。


* 「ふつうの精神病」とサントーム


「ふつうの精神病」についてはラカンが最晩年に示したサントームの理論で説明可能でしょう。

サントームとはボロメオの解けをつなぎとめる〈父の名〉に代替する第四の輪のことです。いわゆる「症状」が言語の次元を孕む象徴的な症状だとすれば、サントームは享楽の側面を孕む現実的な症状に当たります。前者が象徴的無意識(S1→S2)の観点から症状を捉えるのに対して、後者は現実的無意識(S1)の観点から症状を捉えようとしています。

主体がボロメオの輪の解体を防ぐために無意識的に作り上げるサントームは「主体の真の固有名」にあたり、そこには各々の主体において異なる特異的/単独的/自体性愛的な享楽のモードが刻み込まれていると考えられています。サントームの例はタトゥー、ボディーピアス、その他インターネット世界への没入、発表する予定のない小説や曲作りへの没頭など様々です。

つまり「ふつうの精神病」とは、ボロメオの環を解体し前鏡像段階にまで押しもどそうとする精神病的力動と、各人が生み出した自体性愛的なサントームが拮抗している状態をいうわけです。

サントームの理論には〈父の名〉の失墜した現代ポストモダン社会の様々な病理を解明するヒントがあると思います。例えばソーシャルゲームへの廃課金や、ブラック企業にしがみ付くと言った病理的とも言える行動もある種のサントームとして説明できる場合があるのではないでしょうか。



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posted by かがみ at 03:24 | 心理療法