【参考リンク】

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2021年03月27日

形而上学・否定神学・郵便空間



* 反-哲学としての脱構築

西洋哲学史はプラトン哲学の註釈史であるという有名な言葉があります。西洋哲学の父は周知の通りプラトンの師であるソクラテスですが、ソクラテス自身は何も書き残さなかった人ですので、ソクラテスの言葉を書き留めたプラトンの哲学をもって西洋哲学は始まったともいえます。
 
そしてプラトンが創始した哲学は別名「形而上学」と呼ばれています。形而上学は世界を「内部/外部」という二項対立へ切り分けることで構築されてきました。近代の自然科学の発展を支えたのも、まさしくこうした形而上学的思考に他なりません。
 
こうした形而上学に対して叛旗を翻したのが、しばし20世紀最大の哲学者と形容されるマルティン・ハイデガーです。ハイデガーの主著である「存在と時間」はこうした形而上学の歴史を「解体」することで、歴史の彼方に置き去りにされた根源的な「存在」の経験を問うという巨大な構想を持つものでした。
 
けれども、ハイデガーは、形而上学の解体をまさに当の形而上学の言葉で行おうとしたため「存在と時間」の構想は破綻し同書は未完の憂き目を見る。その後、同書はハイデガーの意に反して形而上学の極みともいえる「実存哲学の聖典」として祀りあげられた。その一方で、同書の真の目的であった「存在の問い」を遂行し続けた後期ハイデガーの言説は何かわけのわからない秘教的言説のように思われ、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきました。
 
いわばハイデガー哲学とは形而上学の「解体(デストルクチオーン)」を目指した「反-哲学」と呼べるものです。こうしたハイデガーの「反-哲学」を「脱構築(デコンストリュクシオン)」の名において継承したのが、フランスの(反)哲学者、ジャック・デリダです。
 

*「いわゆる脱構築」と「もう一つの脱構築」

「脱構築」とは既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」する事を言います。このような「脱構築」を武器に、1960年代におけるデリダは様々なシステム/テクストにおける「内部/外部」の二項対立を快刀乱麻の如く斬り捨てていきます(「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」)。ところが1970年代になるとデリダは何を思ったのか、これまでの明晰な文体を放棄して、何が言いたいのかよく分からない奇妙なテクストばかり書くようになります(「弔鐘」「絵葉書」)。

70年代におけるデリダのテクスト群は謎の実験文学として、デリダ研究の中でも長らく見て見ぬふりをされてきました。こうした中で「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いに徹底してこだわり、ここからデリダの「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」を取り出すことに成功したのが東浩紀氏のデビュー作「存在論的、郵便的」です。

同書はかつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏の激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の若き俊英として脚光を浴びることになりました。では、ここで示された「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」とは一体何なのでしょうか?


*〈かもしれない〉という幽霊

ある具体的なシステム/テクストの「こうである/そうでなかった」という解釈の背後には「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という「可能性の束」が無数にひしめいています。こうした「可能性の束」をデリダは「幽霊」と呼びます。

「幽霊」とは反復可能性がもたらす「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という変異のことであり、同時に事実としては「こうである/そうでなかった」という唯一性でもあります。所詮「幽霊」は「幽霊」でしかない。けれどこうした〈かもしれない〉という「幽霊」の声に真摯に耳を傾けようとした結果が、まさに70年代におけるデリダの変化でもあります。これがデリダの「郵便空間」です。


* 手紙は宛先に届かないかもしれない

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」はラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られています。

このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものです。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出します。

「言うなれば送信機は受信機から自分自身の伝言を逆さまの形式をとおして受け取るのです。それゆえ〈盗まれた手紙〉さらには〈保管中の手紙〉なる言葉の真意は、手紙というものはいつも送り先に届いているということなのです。(E41)」

これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないかもしれない」というテーゼを提出します。どういうことでしょうか?


* 形而上学・否定神学・郵便空間

この点、東氏によれば「真理の配達人」においてデリダは二重の批判を行なっている事になります。すなわち、それは「形而上学的システム」への批判と「否定神学的システム」への批判ということです。

まず形而上学的システムにおいて、全てのシニフィアンはそれぞれ対応するシニフィエに回付され、こうしたシニフィアンの循環運動は最終的には超越論的シニフィエによって担保されます。ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別される。この認識構造を図式化すれば底面が頂点によって吊り支えられた円錐構造となる。こうした形而上学的システムの例としてルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの論理実証主義やエトムント・フッサールの超越論的現象学があげられます。

これに対して否定神学的システムにおいては、シニフィアンの循環運動の完全性を不可能にする「穴」を発見する。しかしこの「穴」は「シニフィエなきシニフィアン」という超越論的シニフィアンで名指され、全てのシニフィアンの運動はこの超越論的シニフィアンに回収される。ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡される。この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となる。

こうした否定神学システムを整備したのがハイデガーの存在論であり、これをより洗練させたのがラカン派精神分析ということになります。すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事です。

否定神学システムは形而上学システムでは説明できない世界の「限界」や「過剰」を巧妙に説明してくれます。しかし同時に否定神学システムは世界の「限界」や「過剰」を単数的な超越性へと回収してしまいます。ここに複数的な超越性の「可能性の束=幽霊」を導入するのがデリダの郵便空間システムです。

すなわちデリダのいう「手紙は宛先に届かないかもしれない」とは「全てのシニフィアンは想定外のシニフィアンに誤配されるかもしれない」ということです。手紙は宛先に届かない〈かもしれない〉。仮にそれが正しい宛先に届いた時だって、別の宛先に届いた〈かもしれない〉。こうした「可能性の束=幽霊」が常に郵便空間には内在しています。


* 存在論的、郵便的

こうしたことから東氏はデリダの脱構築を二つに分けます。すなわち、まず「差延」などに代表される「いわゆる脱構築」をハイデガー由来の否定神学システムからなる「(論理的-)存在論的脱構築」として名指した上で、ここから逃れる「もう一つの脱構築」の可能性としてフロイト由来の「(精神分析的-)郵便的脱構築」を提示することになります。

この点、存在論的脱構築も郵便的脱構築も世界(Da)から排除された「不可能なもの」を言語化しようとする点では共通します。もっとも存在論的脱構築にとって「不可能なもの」とは単数的な観念です。そして「不可能なもの」の存在論化においては哲学素の固有名化が利用されるため、その言説は後期ハイデガーのようにかなり秘教じみたものになります。

これに対して、郵便的脱構築は「不可能なもの」を複数的な物質として捉えます。そしてここで用いられるのは精神分析における転移のメカニズムです。いわば哲学素の転移化です。

郵便的脱構築において用いられる転移技法は「古名」の操作と呼ばれます。これはまず⑴ある概念に還元される様々な確定記述が抜き取られ、次に⑵残ったその概念の名を利用した確定記述の「接木/拡張」という二段階で行われます。

こうした「古名」の操作を可能とするのが、あらゆるシニフィアン(表象)に宿る確定記述の束に等置不可能な「剰余(plus)」です。そしてこの「剰余(plus)」はあらゆるシニフィアンと、その背後に取り憑いている「コーラ(=器)としてのエクリチュール」との間に生じる差延から生じます。
 

* シニフィアンとエクリチュールの二重性

すなわち、ハイデガーとデリダの世界(Da)の相違は以下のようなものです。ハイデガーの世界(Da)はシニフィアン(存在者)のみで構成されており、そこにはひとつの穴(存在)が空いている。ここからクラインの壺の底面と頂点を短絡させるクラインの管を経由して超越的審級から「存在の声」が降り注ぎます。

これに対してデリダの世界(Da)はシニフィアン(存在)とエクリチュール(幽霊)の二重構造になっており、その二重性の間から崩落したものが無意識という「郵便空間」を経由して「幽霊の声」として再来する。こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」の可能性をあらゆるレベルのコミュニケーションに見出すのが「存在論的、郵便的」の理論的核心となります。


* 「大きな物語」の失墜と郵便的不安

「存在論的、郵便的」は「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いから出発しました。ではなぜ東氏はデリダの奇妙なテクストを読み解くテクストを書いたのでしょうか?それは畢竟、本書が書かれた当時の日本社会がまさにデリダ的な状況にあったからに他なりません。

1995年以降の日本社会は社会共通の価値観である「大きな物語」が失墜した、いわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況へと突入しました。これはラカン派精神分析でいうところの「象徴界の機能不全」と呼ばれる状況です。そして、こうした状況で生じる感覚を東氏は「郵便的不安」と呼びます。それは「大きな物語」という上位審級なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことです。

こうした郵便的不安から逃れるための処方としてひとまず考えられるのは、一方ではフェイクでもなんでもいいから「大きな物語」を強引に捏造する方向性と、他方ではただただ「小さな物語」の中で充足する方向性です。

けれども前者が極端化すればこれはカルト宗教となり、後者が極端化すればこれは引きこもりとなる。結局、一番穏当な処方としては両者の間をいく道でしょう。すなわち「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」の間を横に突き抜けていく契機を作り出すということです。

そこで必要なのは「コミュニケーションの失敗=誤配」から生じる「郵便的不安」から逃げるのではなく、これを反転させて、むしろ「郵便的享楽」とでも呼ぶべきものに変えていく方略です。デビュー以降、東氏の哲学の根底には一貫して、こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」をいかに肯定していくかという問題意識があります。


*「誤配」を歓待するということ

こうした東氏の問題意識は同時にゼロ年代という時代を規定した問題意識でもありました。そして、そのひとつの到達点が「つながり」という名の想像力です。

異なる物語を生きる他者同士の交歓から芽生える可能性への信頼としての「つながり」。それは一見して、異なる物語を生きる他者同士の理想の関係性の有り様に思えます。こうしたことから、ゼロ年代後半から2010年代初頭においては「つながり」こそが世界を変えるというどこか希望めいた空気感がありました。

もちろん、こうした「つながり」自体が直ちに悪いものというわけではありません。けれども、こうした「つながり」が閉じたものになるのであれば、それは自ずから「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動します。そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちによる「動員と分断の時代」でもありました。

人は常に何かしらの物語に囚われてしまう存在です。けれども物語を内に閉じる限り、不可避的に他者は友と敵に切り分けられる。そうならない為には、物語を内に閉じることなく常に外に開き続ける必要がある。それがまさしく「誤配」を歓待するということです。

「誤配」を歓待するということ。物語の外で手を取り合うことで物語は書き換わる。人は物語に囚われてしまう存在です。けれど同時に人は物語を書き換える事ができる存在でもあります。そしてこの「ある物語」から「別の物語」への跳躍の間にこそ、人の実存的な生の輝きの在り処を見ることができるのではないでしょうか。












posted by かがみ at 23:59 | 心理療法

2021年02月26日

別のしかたでの欲望−−アンチ・オイエディプスから動物化するポストモダンへ




* ふつうの精神病とふつうの倒錯

1970年代以降、フランスや日本を含む西側先進諸国では、消費化情報化社会の進展を背景に「ポストモダン」と呼ばれる社会の断片化が加速していきました。「ポストモダン」とはある特定の社会を統合する共通秩序としての「大きな物語」がもはや機能不全となった社会ということです。

こうした「大きな物語」の機能不全をラカン派精神分析では「象徴界」の機能不全として捉えます。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは人の精神活動を「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの位相で捉えました。そしてラカンによれば人の心的構造は「象徴界」を内在化させているか否かで「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに分類されます。

すなわち「大きな物語=象徴界」の機能不全とは「いわゆる正常=神経症」という等式を揺るがせる事態ということです。こうしてラカン派内部では「ポスト神経症時代」の主体をいかに捉えるかという議論が活性化しました。

この点「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるラカンの娘婿、ジャック=アラン・ミレールは「ふつうの精神病」なる暫定的カテゴリーを提唱します。「ふつうの精神病」とは古典的な「並外れた精神病」のような幻覚や妄想はないけれど、その心的構造に明らかな精神病的特徴が見られるような主体を言います。

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」を創設したジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢=享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという「積極的否認」により自らを主体化します。けれども「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという「消極的否認」にその特徴があります。そして、このような「ふつうの倒錯」における主体化を回避した主体を「ネオ主体」と言います。


*「アンチ・オイエディプス」から考える

これに対して「ポスト・構造主義」の代表と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズと精神分析家、フェリックス・ガタリはその共著である「アンチ・オイエディプス−−資本主義と分裂症(1972−−以下AO)」において精神分析における「いわゆる正常=神経症」という等式自体をラディカルに批判し、いわば「神経症の精神病化」を目指す「分裂分析」を提唱しました。

AOはフランス内外で熱狂的に歓迎され1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。日本でも1980年代における「ニュー・アカ」と呼ばれる思想的流行以降、ドゥルーズ&ガタリは現代思想や批評に少なからぬ影響力を行使しています。

そしてその核心にあるのは精神分析的欲望=神経症的欲望から解放された「新たな欲望」の主体の肯定です。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代の宮台真司氏のコギャル支持、そしてゼロ年代の東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代の思想をリードした言説はまさにこうした流れの中に位置づけることができるでしょう。

では、こうした「新たな欲望」の主体はラカン派における「いわゆる正常=神経症」「(ふつうの)精神病」「(ふつうの)倒錯」の枠組みのどこに位置づけられるのでしょうか?この点に関して千葉雅也氏は〈倒錯の強い定義〉という極めて興味深い概念を提示しています。


* 欲望の二重性

まず千葉氏は、精神分析的欲望=神経症的欲望から解放された「新たな欲望」を〈別のしかたでの欲望〉と名指した上で、この「欲望の二重性」のバランスを前者と後者のどちらに寄せるかについて以下の三類型を挙げています。

(a)〈別のしかたでの欲望〉を全く精神分析的ではない「動物的な欲求」へと振り切れさせるパターン。これは東浩紀氏が「動物化するポストモダン(2001)」において展開した議論です。

(b)〈別のしかたでの欲望〉をあくまでも神経症的欲望を前提とした多かれ少なかれの倒錯化として捉えるパターン。これはスラヴォイ・ジジェクや斎藤環氏の立場に近いとされます。

(c)〈別のしかたでの欲望〉を肯定されるべき「分裂病」の解放とみなすパターン。これは古典的なドゥルーズ=ガタリ主義です。

こうした三類型を前提として氏が提示する〈別のしかたでの欲望〉とは「非-精神分析的主義(a)」と「(神経症の前提をカットした)故障させられた精神分析主義(b’)」を「倒錯的な精神病(c’)」を媒介として縫合するという、かなりアクロバティックな議論です。


* 精神病と倒錯のオーバーダブ

ラカンは「欲望とは他者の欲望である」という有名なテーゼを提示しました。すなわち、神経症的欲望とは他者との間主観的なネットワークを前提として、究極的には千葉氏のいう〈性別化のリアル〉に回収される欲望ということです。

これに対してAOにおいてドゥルーズ=ガタリは、他者との間主観的なネットワークから切断された他方向にどうでもよく発散する〈欲望機械〉が〈全体化しない全体=器官なき身体〉として個体化されると主張します。

以上のような「欲望機械→器官なき身体」という説はAO以前にドゥルーズ単著である「ザッヘル=マゾッホ紹介(1967)」において萌芽的に見出される。そこでドゥルーズはマゾヒストが他者からの暴力を勝手に(他者の欲望から切断された)快楽と化してしまうことを欲望のあり方として肯定した。こうした欲望のあり方を千葉氏は〈欲望の間主観的な因果性を「否認」して勝手に享楽する個体性の肯定〉といいます。

すなわち、ドゥルーズ=ガタリはAOにおいて神経症の精神病化を誇張的に肯定しましたが、その背景にはマゾヒズム論としての倒錯論が潜んでいる。この事実は神経症的欲望ではない〈別の仕方での欲望〉をいわば精神病と倒錯のオーバーダブとして捉える立場を示唆しています。


* 否認的な排除−−〈倒錯の強い定義〉

すなわちAOにおいて展開される「分裂症論」はそれ自体、精神病的というわけではない。彼らの理想化する「分裂症者」は〈性別化のリアル〉を初めから排除しているのではなく、排除している「かのように」逃げ続ける主体だと思われる。

この「かのように」という偽装性を「否認」的であると解釈する余地がある。ドゥルーズ=ガタリの言う「神経症の精神病化」とはいわば「否認的な排除」であり、彼らの狙いは〈倒錯的な精神病〉という折衷案であったことになる。

この〈性別化というリアル〉を排除している「かのように」否認するという「否認的な排除」を極めて強く誇張するならば、倒錯は神経症/精神病をベースとした精神分析の有効性を「無効化せずに否認する立場」として再定義されうる。

すなわち「否認的な排除」とは非-精神分析主義における「精神分析はオワコン」というある種の断定に他ならない。こうして倒錯は「精神分析圏内の否認」と、精神分析それ自体の否認により開かれる「精神分析圏外の否認」をショートサーキットすることで〈性別化のリアル〉を「否認的に排除」する態度として再定義される。これが精神分析それ自体に対する「メタ倒錯」としての氏のいう〈倒錯の強い定義〉です。


* 動物化するポストモダン再読−−「クィアな動物化」と「頭空っぽ性」

ここから氏はさらに論を進め、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」における議論を「否認的な排除」の観点から読み直します。すなわち氏によれば、東氏のいう「動物化」とは「非-精神分析主義」の方へ振り切れた動物的な欲求から、文字通り動物的に「異性愛-生殖規範性」をストレートに肯定し、その上に「認知的習慣化」としての対象(二次元美少女)へのアディクション(萌え)が便乗している「異性愛-生殖規範性的な動物化」を言います。

そして、ここから氏は「クィアな動物化」の可能性を思弁して、その範例を「女装する女性」としての「ギャル(男)」に見出します。神経症的囚われを「否認」した軽量化された身体性と有限化された社交性。その欲望の多すぎる理由づけを忘却したかのような「どうでもよさ」の中心にある「どうでもよくなさ」。こうした「ギャル(男)」の特性を氏は「頭空っぽ性 airhead-ness」という言葉で概念化しています。

こうしてみると「否認的な排除」という観点は現代サブカルチャー批評に新たな視界をもたらす可能性があるように思えます。そして、こうした千葉氏の議論を現代ラカン派の枠組みの中に無理やり接続するのであれば、おそらく「(ふつうの)精神病」である「かのように」振る舞う「(ふつうの)倒錯」ということになるのではないでしょうか。だとすれば〈動物化〉とはラカンのいうところの特異性としての「症状」に相当する事になるのではないでしょうか。

いずれにせよ「大きな物語」という規範性が失墜した現代において「神経症から倒錯へ」という流れは避ける事のできない現実と言えます。そして確かに言えることは、こうした現実それ自体を「否認」して従来の「いわゆる正常=神経症」である「かのように」振る舞う態度は、おそらく多くの場合において、様々な「生きづらさ」が降りかかる茨の道となるようにも思えます。



参考:あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−−倒錯の強い定義(千葉雅也「意味のない無意味」より)











posted by かがみ at 19:51 | 心理療法

2021年01月31日

実存と構造



* 果たして主体は存在するのか

我々は普段、自らを自由意志に基づいた主体として行動しているように思い込んでいます。けれど我々は時として、自由意志を超えた「何者か」によって「行動させられている」ようにも感じる事があります。

果たして自由意志に基づいた主体なるものは本当に存在するのでしょうか?ここで問題になるのが「実存」と「構造」の関係です。


* 実存は本質に先立つ

この点、自由意志に基づいた主体の存在を最大限に肯定したのがジャン=ポール・サルトルに代表される「実存主義」です。サルトルは1945年に行われた「実存主義はヒューマニズムか?」と題する講演において、次のように言います。

いま仮にここに1本のペーパーナイフがあるとする。これがどのようにして作られたのかというと、職人がまず頭の中にこれから作るペーパーナイフの姿を、いわばその「本質」を思い浮かべてから制作に取り掛かったはずである。すなわち物品の場合、その「本質」は「実存」に先立つ事になる。

ところが、人間の場合は全く逆である。もし神が天地の創造者だとすれば、神は一人の職人になぞらえることができる。そうであれば神は人間を創造する前に、自分がこれから作り出す人間の「本質」をあらかじめ知っていなければならない。従って人間の「実存」に先立ち、神の思考のうちに人間の「本質」が存在しなければならない。

けれども、今ここで仮に神の存在を括弧に入れるのであれば、全ての人間に共通した一つの「本質」というものが始めに存在することはあり得ないことになる。したがって人間の場合は物品の場合と異なり「実存は本質に先立つ」と言わねばならない。


* 実存とは何か

実存は本質に先立つ。こうしたサルトルのテーゼは、何か我々を勇気づける素晴らしい力を宿しているような気がします。では一体、ここでいう「実存」とは何なのでしょうか?

ここでサルトルが行ったのは「本質(essence)」と「実存(existence)」の区別です。この点「実存(existence)」の語源はラテン語の「existentia」ですが、中世のスコラ哲学は「SはPである=本質存在(essentia)」と「Sがある=現実存在(existentia)」を区別していました。

従って、この区別を踏まえると「実存(existence)=現実存在(existentia)」ということになりそうです。けれどそうだとすれば「実存が本質に先立つ」のは何も人間に限らず、例えばその辺にいる犬だって「実存が本質に先立つ」ことになってしまいます。

しかし当然のことながら、ここでサルトルがいう「実存」は、そういった「本質存在/現実存在」という伝統的形而上学の枠組みに依拠したものではありません。意味合いとしてはむしろマルティン・ハイデガーのいう「現存在(Dasein)」に近いでしょう。

ハイデガーは「存在」と「存在者」を厳格に区別します。この点、その辺にいる犬は「ある」という「存在」を了解していない「存在者」です。これに対して、我々人間は自らが「ある」という「存在」を朧げながらも了解している「存在者」です。そこでハイデガーは人間を「存在が開示される場/存在の現れの場」としての「現存在」として定義します。

この点、フランス語の「existence」という単語は、もともとはドイツ語の「Existenz」と「Dasein」の両方の意味を含んでいましたが、ハイデガーが「Dasein」にこのような特殊な意味を持たせて以降、フランスでは「Dasein」は「existence」ではなく直訳である「être-l à」が当てられています。

この「現存在(être-l à)」という語を、サルトルはその実質的意味である「人間存在(réalité humanine)」と言い換えています。すなわち、この「人間存在」こそが、ここでいう「実存」に相当するということです。

そして、サルトルによれば人間の「実存」とは一つの企てであるといいます。すなわち、事物が単に「あるもの」で「ある」に対して、人間は、自分が現に「あるもの」で「あらぬ」ように、かつ「あらぬもの」で「ある」ように、自己の外にある彼方へ向かって常に「自己」から「脱出」していく「脱自」的な存在であるという事です。


* 野生の思考

こうした「実存主義」に対して真っ向から鋭い批判を提起したのがクロード・レヴィ=ストロースに代表される「構造主義」です。

レヴィ=ストロースは1949年に公刊された学位論文「親族の基本構造」において従来の人類学において難問とされていた2つの謎を解明しています。その一つは「インセスト・タブー」と呼ばれる、なぜ近親間で婚姻が禁止されるのかという謎です。そしてもう一つはなぜ多くの部族で「平行イトコ婚(母の姉妹の子ども、父の兄弟の子ども)」が禁止され「交叉イトコ婚(母の兄弟の子ども、父の姉妹の子ども)」が奨励されるのかという謎です。
 
ここでレヴィ=ストロースはロマーン・ヤコブソンの音韻論を手掛かりに理論を構成し、これをブルバキ派の現代数学によって論証したことで、世界中の様々な親族関係を規定する一連の規則的な変換パターン、すなわち「構造」の存在を明らかにしました。
 
「構造」の発見は、それまで素朴に信じられてきた「進んだ西洋社会」と「遅れた周辺社会」という西洋中心主義的世界観を転倒させることになりました。周辺社会の人々が現代数学でようやく解明できた「構造」に基づく思考によって親族関係を作り上げていた事が明らかになり、もはや知的レベルの優劣で西洋社会と周辺社会を区別する事は適切ではなくなったということです。そしてこうした「構造」に基づく思考をレヴィ=ストロースは「野生の思考」と呼びます。
 
この点、サルトルによれば主体的決断の「正しさ」はマルクス主義という「現代的な思想」が明らかにした「歴史」の審級によって保証されるとされます。けれどレヴィ=ストロースに言わせれば、その「歴史」の「正しさ」など「構造」という点では周辺社会の部族民の掟と何ら変わらないということです。


* 無意識の主体

では、サルトルのいう「実存」とはレヴィ=ストロースのいう「構造」の前では所詮、まやかしに過ぎないのでしょうか?この点、構造主義の枠組みを前提としつつ、その中で「主体」の占める位置を究明したのがジャック・ラカンです。

ラカンは「無意識はひとつのランガージュのように構造化されている」といいます。もっともここでいう「ランガージュ」とは「ラング(既存の言語体系)」としての「言語」ではなく、既存の言語体系を超えた「シニフィアン連鎖(順列組み合わせ)」による自律的な構造化を行う「言語」です。そしてラカンはこうした自律的な構造化の中に「無意識の主体」を認めます。

「無意識の主体」は、語りの中における言い間違い、言い淀み、情動的な反応などの「裂け目」として現れ、次の瞬間消えていく拍動する点のようなものです。そして精神分析は、こうした「無意識の主体」を鋭く捉えて、解釈を投与することで「構造の変化」を引き起こします。

このように、ラカンの構造主義は「構造の変化」を問題にします。すなわち、ラカンの理論はレヴィ=ストロース的な「構造」を前提としつつも、その外部からサルトル的な「実存」のダイナミズムを再導入していると言えるでしょう。


* 実存が構造を乗り越えるということ

多くの人は普通、かけがえのない自らの生を主体的な「実存」として生きたいと思っているでしょう。けれども実際には「実存」は「構造」に規定されているということです。

しかし「構造」は揺り動かす事はできます。その限りで「実存」は「構造」を乗り越ることができる。少なくとも乗り越えたふりをすることができるでしょう。それはもとより錯覚なのかもしれません。けれど、そんな錯覚の中にこそ、生きているという手ごたえがあるのではないでしょうか。














posted by かがみ at 20:55 | 心理療法

2020年12月30日

無意識からララングへ



* ポスト・神経症の時代

1952年の初版発行以来、今や精神医学のグローバル・スタンダードとして君臨する「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」は、1980年発行の第3版において「精神分析の母」とも言える「ヒステリー」を診断カテゴリーから削除しました。ここから「ポスト・神経症」の時代が幕を開けることになります。

ラカン派精神分析の強い影響下にあるフランスにおいても、1990年代後半になると、ラカン派の伝統ともいうべき「神経症」「精神病」「倒錯」という三位一体の構造論を揺るがせる患者群が注目されるようになり、神経症はもはや往時の勢いを失ってしまったことはもはや明らかでした。こうしてラカン派内部で「ポスト・神経症」における新たな主体概念の議論が活性化しました。

この点、ジャック・ラカンの娘婿にしてラカン派の主流「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるジャック=アラン・ミレールは「ふつうの精神病」なるカテゴリーを提唱します。これは、近年、前景化してきた「精神病の軽症化」に対処するための暫定的なカテゴリーです。ミレールは予備面接段階において、幻覚や妄想を伴う古典的な「並外れた精神病」ではないけれど、その心的構造に明らかな精神病的特徴が見られる場合は、ひとまず「ふつうの精神病」として、自由連想などの通常分析を控えるべきであると言います。

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」のジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢」あるいは「享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという「積極的否認」により自らを主体化します。ところが「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという「消極的否認」にその特徴があります。

こうした「消極的否認」の背景には、現代における核家族化や消費化情報化社会の進展があり、このような環境をルブランは「否認共同体」と呼びます。否認共同体の庇護のもと、子どもはいつまでたっても「欠如」に直面することができず「自分は本当はすごいんだ」という幼児的万能感を大人になっても持ち続けることになります。このような「ふつうの倒錯」の主体を「ネオ主体」と言います。


* フロイト的無意識の衰退

また「ヒステリー」の衰退と入れ替わるように顕著になったのが「心身症」の増加です。同じ身体症状でもヒステリーにおける比較的手の込んだ劇的な症状と違い、心身症で顕著なのは、頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気といった、どちらかといえば単純な症状です。

この点、フランスの精神科医、クリストフ・ドゥジュールは「リビドー転覆」の理論によって神経症と心身症を切り分けます。まず、ドゥジュールによれば人は「生物学的身体」と「エロース的身体」という二つの身体を生きているといいます。「生物学的身体」とは人体を構成する臓器や神経系統の物理的総和としての身体であり、これに対して「エロース的身体」とはセクシュアリティと密接に関連した、あらゆる主観的・心理的経験の舞台となる身体です。

そして、ドゥジュールはフロイトの「寄りかかり理論」という欲動論を参照し「エロース的身体」は「生物学的身体」に寄りかかって発達してくるといいます。すなわちエロース的身体は生物学的身体に寄りかかって発達した後、やがて生物学的身体を乗っ取ってしまうということです。これをドゥジュールは「リビドー的転覆」といいます。こうして「リビドー転覆」によりエロース的身体が生じる。そして神経症とはこのエロース的身体の上で形成される病理ということです。

問題は「リビドー的転覆」のプロセスが何らかの事情で停止し、エロース的身体の形成が不十分な場合です。この場合「リビドー的転覆」が及んでいない身体機能は未開発の領域として取り残されることになります。

こうした身体を持つ主体が、なんらかの精神的負荷を負った時、エロース的身体の代わりに当該負荷の受け皿となる生物学的身体は端的な失調状態に陥ります。ここで現れるのが頭痛、胃痛、下痢、便秘、吐き気など、心身症と呼ばれる各種の身体化症状ということです。

この点、ドゥジュールはこうした身体化症状に関わる無意識を「アメンチア無意識(inconscient amentiel)」と呼び「抑圧されたものの場」という意味での従来のフロイト的な「無意識」と区別します(「アメンチア」とはラテン語でいう「a-mens(精神を欠いた)」という意に由来しています)。

このように「リビドー転覆」の理論からすれば、神経症とは「エロース的身体」の上で形成される病理であり、これに対して、心身症とは「生物学的身体」の上で生じる病理ということになります。そして心身症の増加とは「エロース的身体」に関わる従来のフロイト的な「無意識」の割合が低下し、代わりに「生物学的身体」に関わる「アメンチア無意識」の相対的割合が大きくなっていることを意味しています。


* ラカン派における「無意識」

こうした状況を前提にすれば、我々の生きる現代は「無意識」が失墜した時代と言えるでしょう。周知の通り、従来の精神分析的実践とは「無意識の形成物」たる症状に隠された「意味」を読み解く作業でした。では「無意識」が失墜した時代において精神分析はもはや無用の長物なのでしょうか。

少なくともラカン派にあってはそうではないと言えます。では、そもそもラカン派において「無意識」はどのように捉えられているのでしょうか。この点、ラカンは1950年代において「無意識は言語によって構造化されている」という有名なテーゼを提示しました。ここで無意識は一種の言語構造の場として捉えられ、そこでは様々なシニフィアン(表象)の結合が「メノトミー」と「メタファー」という、以下のような異なる二つの様式として現れています。

⑴ メノトミー(換喩)

まず、ラカンによれば「メノトミー」とは「シニフィアンとシニフィアンの連結」を言います。ラカンはメノトミーの例として「30の帆」という表現を引き合いに出します。このメノトミーが表すのは、言うまでもなく「30艘の船」ですが、この両者の連結からは新たなシニフィエ(意味)は生まれてきません。メノトミーにおいてシニフィエはシニフィアン連鎖の上で先送りされていくだけです。ゆえにラカンはメノトミーのアルゴリズムを以下の式で表します。

f(S...S')S≅S(-)s

ここで大文字のSはシニフィアン、小文字のsはシニフィエを指しています。そして左辺のS...S'はシニフィアンの通時的な連結を表わします。すなわち「船→帆→甲板→船員・・・」と伸びていく連想や「私は一人っ子で、いまは祖母と一緒に住んでいて、好きなものは・・・」などという言語連鎖のことです。そして右辺の(-)は「意味形成の抵抗」の横棒とされ、シニフィアンとシニフィエを分かつ断絶が乗り越えられていないことを示しています。

⑵ メタファー(隠喩)

これに対して、ラカンによれば「メタファー」とは「ひとつのシニフィアンの他のシニフィアンへの置き換え」を言います。ラカンはメタファーの例として旧約聖書の「ルツ記」に因んだヴィクトル・ユゴーの詩「眠るボアズ」の一節「彼の麦束はまったくごうつくでもなければ人嫌いでもなかった」を引き合いに出します。

ここで「彼の麦束」が「ボアズ」の名を代理していることは明らかですが、両者の間に換喩的な結びつきはありません。そして、この「置き換え」によって、落ち穂が取り持ったボアズとルツの馴れ初めから、やがてダビデ王を産む系譜へ至る結末までもが一挙に想起されます。すなわち、ここではメノトミーには生じない「意味効果」が生じているということです。ゆえにラカンはメタファーのアルゴリズムを以下の式で表します。

f(S'/S)S≅S(+)s

左辺の分数が「置き換え」に当たります。ここでシニフィアンSはシニフィアンS'に置き換えられてます。そして右辺では括弧の中が−ではなく+である点がメノトミーと異なります。この+が表すのが単にシニフィアンにシニフィエが加算されるのではなく、メノトミーにおける「意味抵抗の横棒」がここでは乗り越えられ、それによって「意味効果」が生じていると言うことです。

そして、ラカンによればメノトミーはメタファーに先行します。そしてメタファーの介入により、置き換えられたシニフィアンはメノトミー的連鎖から弾き出され、ここに詩的意味が生じるということです。こうしたメタファーの詩学は、まさに神経症の構造と同一平面にあります。すなわち各種の神経症的症状とは、一面において無意識に弾き出された欲望の隠喩に他ならないという事です。


* ララングの方へ

このようにラカン派において長らく「無意識」とはもっぱらシニフィアンによって構造化された「言語的無意識」として捉えられていました。ところが1970年代においてラカンは「無意識」における理論を大幅に更新することになります。

70年代におけるラカンはシニフィアン連鎖以前の、言語として構造化されていない「単独のシニフィアン」を重視します。この点、子供が最初に出会うトラウマ的シニフィアンを、ラカンは「ララング(lalangue)」といいます。ララングとはラカンの造語であり、冠詞付きの国語(la langue)の冠詞と名詞を一語に融合させたものです。

子どもの身体がララングと邂逅した時、その痕跡は「一の印」として身体に刻み込まれ、トラウマ的享楽がもたらされることになります。子どもにとってララングとは情報の伝達手段ではなく、トラウマ的享楽を反復するための私的言語に他なりません。そして、ラカンによれば、こうしたララングは「神経症」「精神病」「倒錯」の区別なく、凡そ全ての主体に刻み込まれているということです。

しかしある時から、大多数の子どもはララングを使うことを諦め、情報の伝達手段としての言語(langage)の世界である「象徴界」へ参入します。こうして子供は次第にララングと折り合いをつけ、結果、シニフィアンによって構造化された言語的無意識が形成されるわけです。

換言すれば、従来の言語的無意識の根源にはトラウマ的享楽と結びついたララングがあります。そして、こうしたララングが支配する領域こそがまさにラカンが象徴界のリミットとして位置付ける「現実界」の境位に他ならないということです。


* 逆方向の解釈

こうして晩年のラカンは症状における象徴的側面ではなく、その現実的側面を重視するようになります。ならばその実践としての精神分析的解釈においても従来のような無意識の「意味」を読む解釈(順方向の解釈)とは正反対の技法が要求されることになります。これが現代ラカン派が言うところの「逆方向の解釈」です。

逆方向の解釈は、シニフィアン連鎖を切断し、まさしくララングの方へと向かいます。すなわち、ここで解釈とはもはや症状の「意味」を読む実践ではなく、症状の「無意味」を読む実践に他ならないということです。そして、こうした実践においてはフロイト的な無意識、言語的無意識は二次的な問題に過ぎません。このような現代ラカン派の実践は「ポスト・神経症」の時代、すなわち「無意識」が失墜した時代における精神分析の新たな可能性を示しているといえるでしょう。


* 生きている手ごたえ

臨床心理学者、河合隼雄氏は、不朽のベストセラーとして知られる名著「こころの処方箋」の最終講において、人は誰でも全ての人がその内にその人だけの「創造の種子」を持っているといい、心理療法とはクライエントの「創造の種子」が発芽して伸びてゆくことを援助して、その人の生き方全体をまさに「私が生きた」ものとして創造していく営みであるといいます。

そして、その結びでは「私が生きた」という創造の実感を持った時、あまり社会的評価は気にならなくなり、普遍的な存在の一部としての責任を果たした自己評価につながっていくと、氏は述べています。

ここで述べられていることをラカンの言葉で翻案すれば「創造の種子」とはまさしくその人だけが持つララングに他なりません。それゆえに「私が生きた」といえるには、自らの中にあるララングの方へ向かい、その特異的な創造性を手放さないままに普遍的な一般性へと調和を果たしていく過程が必要となってくるということです。

多くの場合、それは苦しみの伴う試行錯誤の過程となるでしょう。けれども、こうした過程も含めて「創造」される生の中にこそ「私が生きた」という「生きている手ごたえ」と呼ぶべきものがあるのではないでしょうか。













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2020年11月27日

少女のエディプス・コンプレックス−−享楽・純潔・花物語



* 少女のエディプス・コンプレックスが孕む曖昧さ

時は19世紀末、精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは当時、謎の奇病とされていた「ヒステリー」の治療法を試行錯誤する中で、人の無意識の内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という心的葛藤を発見します。そしてフロイトは、このような心的葛藤をギリシアのオイエディプス悲劇になぞらえて「エディプス・コンプレックス」と名付けました。

この「エディプス・コンプレックス」なる仮説によれば、幼児は当初、母親との近親相関的関係の中にあり、やがてこれを禁じる者としての父親がもたらす去勢不安によって、幼児の自我の中に両親の審級が落とし込まれ、ここから自我を統制する超自我が形成されることになります。

そしてフロイトによれば、少年と少女では去勢不安への反応は異なるものとされます。すなわち、少年はペニスの喪失を怖れる結果、父親のような強い存在になろうとする。これに対して、少女はペニスの不在に気付いた結果、父親に愛される存在になろうとする。

こうした相違からフロイトの中では、去勢不安をドラスティックに克服する「少年のエディプス・コンプレックス」こそが「真のエディプス・コンプレックス」であるとされる一方、去勢不安がダイレクトに直撃しない「少女のエディプス・コンプレックス」は、あまりぱっとしない、曖昧な立ち位置に追いやられています。

けれどその一方でフロイトは、女性の夢には少なくとも一箇所、未知なるものにつながっている「臍」のような場所があるという趣旨のことも述べています。ここでフロイトは女性性における「謎」に直面しています。だとすれば現代における「少女のエディプス・コンプレックス」はどういった立ち位置にあるのでしょうか?


* 父性隠喩における女性の論理

エディプス・コンプレックス。現代の発達心理学の知見からすれば、およそまやかしにしか聞こえないようなこのフロイトの神話を構造言語学のアルゴリズムによって解読したものが、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンによる「父性隠喩」と呼ばれる以下の構造式です。

父性隠喩.png


繰り返される母親の現前/不在というセリーに直面した子どもは「母親が不在になる謎=x」をシニフィエとする「原-シニフィアン=母の欲望」を構成し、子どもは「xの想像的形態としてのペニス=想像的ファルス」への同一化を試みることになります。これがいわゆる「鏡像段階」に相当します。

けれどもこの同一化は当然、上手くいかず、やがて「母の欲望」は〈父の名〉という「法のシニフィアン」に隠喩化されることになります。結果「言語構造としての無意識=A」が成立すると同時に、セクシャリティを規範化する「欲望のシニフィアン=象徴的ファルス」が成立します。

そして男女の性差はまさに、この象徴的ファルスに対する態度に関わります。ここで、象徴的ファルスを保有しようとする態度は男性性を構成し、象徴的ファルスを仮想しようとする態度は女性性を構成することになるわけです。これを「象徴的去勢」といいます。

こうした父性隠喩の理論は言語構造の導入やセクシュアリティの規範化の巧妙な説明である事は確かです。のみならず、セックスとジェンダーの区分が曖昧だった1950年代の時点で生物学的差異ではなく言語学的差異から性差を捉えるラカンの着想は注目すべきものがあるでしょう。

けれども、やはり〈父の名〉とか、ファルスなどといった術語から明らかなように、父性隠喩という理論はどうにも父権主義的な色合いの強い言説であることもまた事実です。けれどラカンはこの立場に留まる事なく、その後、セクシュアリティに関する理論を飛躍的に発展させています。そのひとつの到達点が、セミネール20「アンコール(1972〜1973)」において示された「性別化の式」です。


* 性別化の式における女性の論理

性別化の式.png

まず上図左側が男性性の式を表します。この点、先に見た父性隠喩の理論によれば、母の欲望が〈父の名〉によって隠喩化された結果、言語構造としての無意識と象徴的ファルスが成立し、この象徴的ファルスの保持を欲望するのが男性性のあり方でした。

これは性別化の式においては「全ての男性はファルス関数に従う(∀xΦx)」という定式で表されます。そして「全ての男性」という「普遍」が成立するには、集合論的には少なくとも一つの「例外」を必要とするため、ここから「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する(∃xΦx)」という定式が導出されます。

すなわち、男性性はファルス関数による象徴的去勢の結果、欲動満足の極点としての「絶対的享楽」へ達することは決して叶わず、せいぜい「対象 a 」に切り詰められた享楽で満足するしかない。このような享楽を「ファルス享楽」といいます。

これに対して上図右側が女性性の式を表します。この点、女性性といえども男性性同様、ファルス関数による象徴的去勢を逃れるわけではないため「ファルス関数に従わない女性がいるわけではない(∃xΦx)」とされる一方、ここでは男性性のような「普遍」と「例外」の関係が成り立っていないため「全ての女性がファルス関数に従うわけではない(∀xΦx)」という定式が導出されます。

すなわち、女性性においてはファルス享楽にも絶対的享楽にも回収されない、その人だけが持つ特異的な享楽へ向かう可能性が開かれていることになります。このような享楽を「〈他なる〉享楽」といいます。

こうしてみると、かつてフロイトが直面した女性における「謎」としての「臍」のような場所は、ラカンのいう「〈他なる〉享楽」の在り処をすでに示唆していたようにも思えなくもありません。


* 少女小説における女性の論理

このように男性性を規定するのが「ファルス」なる超越論的シニフィアンを中心にすべてのシニフィアンが構造化される論理だとすれば、女性性を規定するのはこうした構造化を解体する可能性を内在させた論理であるという事です。

この点、日本ではすでに大正期において「少女小説」と呼ばれるジャンルの中で、こうした「女性の論理」を胚胎させた優れた物語が多く紡ぎ出されてきました。その例として、少女小説初期の代表作として知られる「花物語(吉屋信子)」に収められた「白百合」という一編を見てみましょう。

物語は主人公「私」の通う女学校に新任の音楽教師がやってくるところから始まります。まだ女学生の初々しい雰囲気を幾許も残し、教師らしさとはまるで程遠く、おずおずとはにかむその姿が印象的な「葉山先生」は瞬く間に女生徒たちの心を囚えてしまいます。

そして「私」も葉山先生に想いを募らせるあまり、その日記には毎日の如く葉山先生の一挙手一投足が偏愛的に書き連ねられていくわけですが、気の弱い「私」は先生とお近づきになりたくともとても近づけず、ただ悶々とした日々をおくります。

そんな折に、上級生の誘いから禁を犯して活動写真へと出かけ、遅い帰宅を寮監に咎められた「私」は、葉山先生が咄嗟に機転を利かした偽りのアリバイ証明のおかげで窮地を救われます。

この御恩は忘れませんと泣き縋る二人に対して、葉山先生は自分もあの日、実は同じ場所に行っていたことを告白した後、次のような後にも先にも一度限りの熱弁を振るいます。

「しかし、この事を、私のこの心を長く忘れないで、どうぞ(純潔)を、常に変わらぬ魂の純潔、行為の純潔を私に誓って守ってください。これが私の対するあなた方お二人の何にも優る報恩ですの、ね、忘れないで、純潔!私の大好きなあの白百合の花言葉の(純潔)をお互い守りましょう、生涯通じて私達は!」


その後、健康を害した葉山先生は教職を辞して故郷に帰り、翌年には帰らぬ人となりました。そして物語は「私」の次のようなモノローグで結ばれます。

「こうして先生のお姿は見えなくなりました。けれども先生の清い愛の生命を形取った白百合の花が(純潔)と囁いてこの土の上で咲く限りは、その花の姿とともに先生の、みこころは私共に永久に生きるのでございます。」


言うまでもなく、白百合の花は「純潔」の象徴として知られています。けれども、ここで葉山先生が言っているのは父権主義的な貞操観念に規定された処女としての「純潔」ではない「魂の純潔、行為の純潔」です。そして「私」は、こうした意味での「純潔」を「清い愛の生命」として称揚するわけです。

このように「白百合」という物語は、同性を思慕する女性の物語として始まりながらも、異性愛のオルタナティブとしての同性愛に回収されることなく、むしろファルス関数を逃れていく「純潔」の物語として幕を閉じていると言えます。


* 特異性を手放さなずに生きるということ

人は本来、ひとりひとりが特異的な存在でありながらも、我々は一般的な規範の中で生きていかなければなりません。

この点、社会共通の規範である「大きな物語」が強力に機能していた近代社会においては、特異性を切り捨てて一般性へと同一化していく「少年のエディプス・コンプレックス」が範例的位置にくるのは確かに不自然なことではありません。

けれども消費化、情報化、ポストモダン化の進行により「大きな物語」が失墜した現代社会においては、特異性を手放さないまま一般性とも調和していく「少女のエディプス・コンプレックス」こそが範例的位置にくるのではないでしょうか。

少年から少女へ−−おそらく葉山先生の言う「純潔」とは、ここでいう「特異性」のことに他ならないでしょう。あるいは晩年のラカンが精神分析の終結条件として「症状への同一化」を宣明して「サントーム」の臨床へと向かったのも、こうした時代の変遷とリンクしていたと言えます。そういった意味で、現代においては男女関わらず、まさしくすべての人に「魂の純潔、行為の純潔」が問われているという事なのでしょう。













posted by かがみ at 00:14 | 心理療法