制度後退禁止原則とは何か
生存権における制度後退禁止原則というのは、各種社会保障制度が当たり前のように年々切り下がっていく昨今においては、なかなか魅力的な議論ではあります。この制度後退禁止原則というのは定義自体も論者によって微妙に異なってくるんですが、あえて最大公約数的にいえば社会保障給付水準を切り下げることは原則としては許されない、少なくとも合理的な根拠を要するという憲法原則をいいます。
生存権の法的性格論争の限界性
生存権を謳った日本国憲法25条については周知の通りその法的性格について従来からプログラム規定説と抽象的権利説と具体的権利説が三つ巴で凌ぎを削ってきた歴史がありますが、よしんばこの中で1番権利性を強く打ち出している具体的権利説に立ったとしてもせいぜい立法不作為確認訴訟が成立するくらいで「政府はこういう法律を作れ」っていうドラスティックな立法義務付け訴訟が可能というわけでもないんですよね。
憲法は攻撃呪文ではなく防御魔法
要するに憲法は本質的には攻撃呪文ではなく防御魔法なんですよ。例えば表現の自由のように「政府は何々をするな」という妨害排除請求権であれば「禁止されたことをしたかしないか」という白黒の問題になりますので裁判所は普通に公共の福祉からくる必要最小限度の規制かを違憲審査すればいい。
ところが、まさに生存権がそうであるように「政府は何々をしろ」という立法請求権については「何をどうするか」の問題があるわけです。
そこには色々な要素を考慮した専門的技術的判断を要する。なのでこれをよく成しうるのは誰かというと、憲法の教科書によく書かれている例の「代表機関である立法府あるいは専門技術性に優れた行政府の判断が尊重され、非民主的でかつ手続き的制約のある裁判所としては緩やかな違憲審査とならざるを得ない」という説明になるわけです。長らく学会を支配したいわゆる二重の基準論というのは本質的にはそういうことなんです。なので具体的権利説をあたかも真理の託宣のごとく述べたところで、トリクルダウンとかいう美名のもとで年々切り下がる福祉の水準と貧困の現実に抗う処方箋となるわけでもなく、つまるところそれは畢竟、正義の代弁者気取りの自己満足にしかならないのです。
憲法学サイドにとってもある意味でチャンス
こういう状況で学会の主流たる抽象的権利説に立ちつつ、その妙味を活かしてより実効性のある議論を提供する意図で出てきたのが、かかる制度後退禁止原則です。もちろん難点もありますよ。既得権益擁護の理論に堕しはしないか、或いは健康的文化的な最低限を下回る切り下げと下回らない切り下げを区別すべきか、そもそもそれらは区別できるものなのか云々・・・しかしながら、少なくとも生存権の法的性格などという華々しいかもしれないけど非生産的な論争に終始するよりははるかにプラクティカルな議論になることは間違いない。何と言っても社会保障の問題を公共政策論ではなく、より強く権利保護の原理が作動する憲法論の領域に転移できるのは抗し難い魅力です。戦後70年あまり、よくわからない神学論争ばっかりに虚しく明け暮れてきた憲法学がもっと普通の人の暮らしに寄り添った学問になれる一つのチャンスなのではないでしょうか。