2013年09月03日

少子化対策が孕む諸論点

経済学者は何故、少子化を問題視しないのか? : 異常な日々の異常な雑記

経済主体にライフサイクルを織り込むモデルというのは確かにちょっとなさそうですが、財政政策の各論的に少子化対策を持ってくる意見は割とあると思います。高速道路を作るか子どもを作るかどっちの乗数効果が高いか、ということなんでしょう。子どもは何も持たずに産まれてくるから消費性向は極めて高いし、関連産業の裾野も幅広いわけですから、少子化対策はマクロ経済的な意味においてある程度高い乗数効果を期待できる。これは間違いないでしょうね。

けれども政策論的にそれはどうすればいいのかっていうと正直わかんないんですよ。国が道路を造るぞって決めてバラマキをやったら多分どこかに道路はできるんでしょうけど、子作りの場合そうはいかないでしょうからね。

もちろん究極的な解決策っていうのはあるんですよ。あえて言わないけど、ちょっと考えれば誰でもわかりますよね?そういう究極的な解決策っていうのはあるんだけれど、いやしくも自由主義社会を自認する我が国でそれをやったらもう終わりっていうのもよくわかるでしょう。

価値観の多様性を認めつつ少子化対策を推進するのであれば、それはいわゆるアーキテクチャの規制に依らざるを得ないんでしょう。でもこれって、ぶっちゃけ何処から手を付けていいのか本当にわかんないんですよねこの問題って。

煎茶さんが時折仰っているように、保育環境、教育環境の整備が重要な課題なのは間違いないでしょうし、労働政策の問題と表裏の関係にあるのも確かなんでしょう。他方で、現代医学の水準を照合させつつフェミニズムや生命倫理といったかなりセンシティブな問題にも手を突っ込まざるを得ない。こないだ独身女性の卵子凍結を容認とかなんとかというニュースがあってましたが、厳然たる事実として出産の当事者はどこまでも女性です。そのフェイズにおいては男なんて所詮部外者ですよ。状況に右往左往するのが関の山です。そういった関係する諸分野を横断的に見通した上で、最適なバランスを見極めて統合した政策をパッケージ的に提示しないといけない。そうやって考え出すと、もう考えれば考える程わけがわからなくなってくるという感じが現状正直なところです。

あと何だろう?ついでの雑感で恐縮ですが、ロスジェネ世代っていうかちょうど幼い頃にバブルの幻想を垣間見た世代なんかだと、どうしてもその時の世の中の幸せの基準で恋愛とか結婚を考えてしまってて、あんなの自分には到底できない、無理だってなっちゃう人って割といると思うんですよ。幸せの基準が過剰なまでに上がってしまっているから不幸になる。お嬢様のつもりが臆病になってるだけという悲劇です。トレンディドラマ(笑)のような恋をしなければいけないとか、もうそういう時代ではないでしょう。

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2013年08月21日

「はだしのゲン」の閉架措置における法的観点

「はだしのゲン」の閉架措置 「子どもの知る権利の侵害だ」 全国集会で批判相次ぐ

知る権利などと言ってしまうと何だかうさんくさいキャッチコピーのように聞こえますが、憲法21条の表現の自由が包摂する憲法上の法的権利です。だからその侵害行為は普通に違憲訴訟の対象となるわけです。

もともと絶対王政批判の歴史から始まった表現の自由の原始形態は「政治的意見表明の自由」という限局されたものだったが、莫大な情報量が流通する現代社会においてその実質は総合的な情報流通権へと変容した。その変容過程で出てきたのが知る権利。

なので、知る権利に対する規制は、表現の自由一般同様、厳格な違憲審査基準が妥当する。ナチスドイツが当時最も民主的とされたワイマール憲法下で出てきたことを考えれば明らかなように、表現行為が規制された社会で民主主義のシステムは正常に作動しない。表現の自由というのは一旦規制されれば民主制の過程でそれを回復するのが困難なため司法権が積極的に介入していかなければならない。いわゆる二重の基準論というやつです。従ってその規制の違憲審査基準に付いては、アメリカの判例理論を引いてCPDの基準(明白かつ現在の危険の法理)やLRAの基準(より制限的でない他の選びうる手段の法理)などといった厳格な違憲審査基準が妥当するとされている。本件閉架処分は図書館という「場所」に対する規制であることからLRAの基準が馴染むと考えられる。そして公共施設たる図書館において閲覧制限および貸出を禁ずる閉架措置というのは、一般論としては、より制限的でない他の選びうる手段が他に無いとはいえまい。

・・・と、まあ別にこういう類いの論点はいまさら議論する程新しいものではないんですけどね。10年前の司法試験で似たような事案が普通に出題されてたりします。

法務省:平成14年度司法試験第二次試験論文式試験問題

もちろん本件の特質として「小中学校の図書館」という環境というものがあります。6歳と15歳はえらい違いだし、繊細な子だっているでしょう。そこのフォローが全く不要とは思わない。ただね。それでも閉架措置っていうのは無いと思うんですよ。考えとして安易すぎる。少なくとも憲法学の立場からいうと、パターナリズムなんてものが許されるのは判断能力が未熟な発達過程における自己加害の危険が明白な場合のみです。本件は果たしてそうなんですか?この漫画はそういう作品なんですか?

「はだしのゲン」閲覧制限は正義か?〜最近の保守派の一部はどうも度量が狭くなってきた - 木走日記

「はだしのゲン」を学校に置くべき理由(Hayato Ikeda) - BLOGOS(ブロゴス)

教育委員会もモンペがめんどくさかったんでしょうけど、「偏向の無い思想」なんて無いですからね。価値観というものは清濁併せ呑んで身に付いていくものです。すべからく世界は綺麗なものだけでできていると信じて育ってしまえばそれはもう悲劇でしかない。その先に待ってるのは絶望と希望の相転移の末路でしょう。いくら憲法をひっくり返しても「自分が見せたくないものを子どもにみせない権利」なんて出てこない。そんなの単なるエゴイズムか責任放棄のどっちかですよ。

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posted by かがみ at 02:19 | 時評/日記

2013年08月10日

残暑見舞い

かぐらかのん

まあ要するにこのブログのことなんですが、暫定的にサイトデザイン変更しました。別にそこまで大改装したとかじゃなくて、さくらのブログのフォーマットのCSSをちょっと弄ったくらいですけど。

ちょっとこじんまりした感じになりましたが、侘び寂びの効いたデザインが、個人的にはお気に入りです。

近いうちにRSSも整理するかも。現状まとめが多すぎる。いつも良くして頂いている煎茶さんのブログ「異常な日々の異常な雑記」など、個人ブログの更新情報が比較的下に埋もれがちなのが前々から忍びないと思ってましたので・・・何とか早いうちにこちらも手をつけたいなと。

暑い日が続いておりますが皆様何とぞご自愛の程を。管理人も最近は何かとバタバタしていますが、更新の方ももう少し頑張ろうかと思います。折角の御縁ですので宜しくお願い致します。


posted by かがみ at 02:15 | 時評/日記

2013年06月24日

なぜブラック企業を簡単に辞めれないのか


ブラック企業、嫌なら辞めれば?(ihayato.書店)

勤めている会社がいわゆるブラック企業だったとした場合どうすればいいのか。すぐにやめればいいじゃないか?なるほど道理ですね。しかしながら多くの人はその道に踏み込めない。なぜか。

もちろん具体的事情は人それぞれでしょうが、この問題の多くは「履歴書を汚したらまずい」っていう固定観念に起因するのではないでしょうか。

【就活】人事「空白期間のある人は雇いません。お帰りください。」 (無内定速報)

どういうわけか履歴書の職歴欄に空白期間は敬遠されるといわれます。会社をやめてから転職活動した場合、この空白期間のリスクが生じてしまいます。すんなり次の転職先が決まればいいんですが、今のご時世なかなかそうはいかない。こうして3ヶ月、半年、1年…と何もない空白の期間が延びていくに従って、その説明も次第に苦しくなってくる。なのでそのリスクを避けるには仕事をしながら転職活動をせざるを得ない。ところが、ブラック企業と呼ばれているからにはサービス残業休日出勤など当然で、有給?何それ美味しいの?というところもザラでしょう。こうして日々の業務に忙殺され続け転職活動など事実上不可能ということになります。

そういうわけで、「なぜブラック企業を簡単に辞めれないのか」という問題は、学歴・職歴を(無職期間も含め)間断なく羅列しなければならない画一的な履歴書の記入形式にひとつはあるような気がします。これがもし仮に履歴書の記入形式が自由であれば、入社数ヶ月でやめた会社や無職期間に付いてわざわざ言及する必要はなく、アピールポイントだけ書けばいいということになりますからね。

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posted by かがみ at 04:54 | 時評/日記

2013年06月23日

子は親を選べないという道徳的恣意

日本を救う方法を考えたので、みんなの力と知恵を貸してほしい(異常な日々の異常な雑記)

相互リンクして頂いている煎茶さんのブログより。熱いタイトルですね。各論ではなかなかアクロバティックなことも仰ってますが、後景にある思考は至極全うなものだと思います。

有効需要の原理を説いたケインズ経済学の基本は乗数理論にあります。つまり財政政策の経済効果は無限等比級数の和である以上、当然、公比に代入すべき限界消費性向が高いところに金をばらまかないといけない。ところが昭和30年代ならいざ知らず、現代日本においてこの限界消費性向の見極めというのは非常に難しい。そこへいくと子どもはいっさい何も持たずに生まれてくるという点では非常に明快な存在ですね。なので煎茶さんは子育てにおける消費性向の高さというマクロ経済の観点から少子化対策を論じているということなんでしょう。

プロテスタンティズムの倫理も何もない我が国の資本主義経済体制において、再配分というのはもう制度的にやるしかないわけです。その意味で社会主義という思想は対抗原理として良くも悪くも一定の意味は持ち得えましたが、ソ連の消滅でそれももはや歴史の徒花となった。いまや要素価格均等化が進むグローバル経済においてトリクルダウンなどを期待するのは広大な砂漠のただ中で雨乞いするようなものです。

残念ながら世界は公平にはできていない。ロールズは個人の社会的評価を出自、才能、あるいは努力(!)といった恣意的に分配された先行要因に規定されるという道徳的恣意性の議論を前提として「最も不利な状況にある人々の利益の最大化のための社会経済的不平等が正当化される」という格差原理を導いた。こういういわば「運も実力のうち」ではなく「実力も運のうち」と断じ去るようなロールズの議論をラディカルに感じる向きもあるかもしれませんが、少なくとも子どもたちは生まれてくる家庭を選べませんからね。人の親であれば我が子の希望は可能な限りかなえてあげたいと思うでしょう。しかしながら現状そのハードルはどんどん上がってきているといわざるを得ない。スーパーマンかロックスターにならなきゃ子育てもまともにできない社会なんてのはどう考えても異常ですよ。


posted by かがみ at 07:54 | 時評/日記