【参考リンク】

現代批評理論の諸相

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2017年11月29日

「全体性の回復」としての影とアニマ、あるいは「Fate/stay night」



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ジークムント・フロイトによれば、人の心は意識(前意識)と無意識に分けられるとされます。これに対して、フロイトと一時期盟友関係にあったカール・グスタフ・ユングは無意識をさらに「個人的無意識」と「集合的無意識」に分けることを提唱し、フロイトとその袂を分かちました。

集合的無意識というのは、ユングによれば個人的体験を超えた人類に共通する先天的な精神力動作用である「元型」によって構成されるといいます。世界中の神話、伝説、昔話の間に何らかの一定の共通した典型的なイメージが認められるのは、この「元型」の作用に他ならないということです。

典型的な元型として例えば「グレートマザー」という「母性の元型」があります。母性はその根源において「何かを産み育ていく」という肯定的な側面と、そして「何もかもを呑み込んでしまう」という否定的な側面を併せ持ちます。ユング派の分析家である河合隼雄氏は、いわゆる対人恐怖症は母性原理の強い日本社会の特質に根ざしていると指摘しています。

さらにユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、無意識をも含めた心の全体の枢要に「自己」という元型を仮定しました。そして自我と自己との間に適切な相互作用関係を確立する過程を称して「自己実現」といいます。

自己実現の過程とは自己がまさにその全体性を回復していく個性化の過程であり、そこには相対立ものを円環的に統合していく相補性の原理が作用しています。

つまり、このユング的な「自己実現」とは、その辺のキラキラワードとして安易に用いられる「自己実現(笑)」とは違い、自分の心の奥底に潜む「元型との対決」に他なりません。

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「Fate/stay night」という物語は衛宮士郎という自我に歪みを抱えた人間がその全体性を回復していく物語として読むことができます。

あらすじはこうです。とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨み、最後の一組となるまで互いに殺し合う。

10年前、第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害の唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた魔術師である衛宮切嗣に憧れ、いつかは切嗣のような「正義の味方」となって困っている人を救い、誰もが幸せな世界を作るという理想を本気で追いかけていた。

しかしこれは「自分だけが生き残ってしまった」という罪悪感の裏返しにすぎないのです。「正義の味方」とは彼にとっては「願い」というより「呪い」ともいうべきものであった。

「Fate/stay night」の原作はどの選択肢を選ぶかで展開が変わってくるビジュアルノベルゲームです。ルートはメインヒロイン毎に大きく3つに分岐します。

3ルート合わせて総プレイ時間は平均60時間という、この壮大な物語は、衛宮士郎が「影」や「アニマ」という元型との対決を通じて、自己の全体性を回復していく過程を見事に描き切っています。

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士郎はまず、いわゆる凛ルートである「Unlimited Blade Works」において、自らの「影の元型」と相対します。

影とは自我からみて受け入れ難い人格傾向をいいますが、士郎にとってアーチャーは自らの理想に絶望した未来の自分の成れの果てであり、まさに影といえる存在です。

かつて自ら抱いた「正義の味方」という理想が不可能な偽善であることを身を以て知り尽くしているアーチャーは、過去の自分である士郎に「理想を抱いて溺死しろ」と言い放つ。

これに対し、士郎は自らの理想は借り物であり偽善であると認めた上で、それでもそれは決して間違いではなかったことを再確認することで、自分の影を自我に統合していくことになる。

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そして、いわゆる桜ルートである「Heaven’s Feel」において、士郎は自らの「アニマの元型」と相対することになります。

アニマとは男性がペルソナ形成の過程で切り捨ててきた女性的要素をいいます(女性にとってのそれはアニムスです)。そして、ここでアニマを演じるのは間桐桜という少女です。

桜はこれまでのルートにおいて「穏やかな日常の象徴」として描かれてきましたが、実はその体内には聖杯(小聖杯)の器としての機能を宿しており、桜ルートではこの機能が覚醒し、桜は聖杯の器として、大聖杯の中に潜む反英雄アンリマユとリンクしてしまう。

このまま桜を放置すれば「この世全ての悪」と呼ばれる災厄が顕現することになる。そのため桜の実姉である遠坂凛は魔術師としての立場を貫き「桜を殺す」と言う。そこで士郎は「正義の味方か、桜の味方か」というという極めて困難な問いをつきつけられる。

この点、原作ゲームは士郎が桜の味方となる選択を物語のトゥルーエンドとします。確かにここは賛否の分かれるところであり、Fate/stay nightを一つの英雄譚として読むとき、これまでの信念を放棄して1人の女の子を救おうとする行為は「変節」あるいは「挫折」にも映るでしょう。

けれども「全体性の回復」というユングの視点から言えば、士郎にとって桜と最後まで真摯に向き合っていくことは、「アニマの元型」を受け入れていく道と言えるでしょう。

アニマと向き合うことは影との対決以上に困難を伴います。アニマの起源は「太母の元型」であり、アニマを求めるということは同時にグレートマザーに飲まれる危険も伴うということです。実際、桜もその強い依存心の裏返しからあらゆる形で士郎を飲み込もうとしています。

けれども、それでも士郎は言う。自分を殺したがっている桜もひっくるめた全てから桜を守る、と。こうして彼はどこまでも桜の味方であり続けることによって、借り物でも偽善でもない彼だけの正義を手に入れて、ようやく10年前から続く「正義の味方という呪い」から救われたわけです。

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このようにユング的な自己実現の道とは自らの「影」や「アニマ(アニムス)」から目を背けず、正面から対決することであり、それは痛みを伴ういばらの道です。

これはなかなか厳しい考え方ではありますが、見方を変えると、人生で出会う困難に肯定的な意味合いを付与する考え方とも言えるかもしれません。

人は時として内的に凄まじい体験をしつつも、この日常を生き抜くことによって、自我はより高次の統合へ導かれ、そこから実り多い、豊かで素敵な人生というものが開けてくるということなんでしょうか。

posted by かがみ at 21:30 | 文化論

2017年10月30日

転移の水準と愛の水準、あるいは「カードキャプターさくら」







「フロイトは、非常に早くから、転移の中で生じる愛は真正のものかどうかという問題を提起しました。一般的には、それは端的に言うと一種の偽の愛、愛の影であると考えられています。」

(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」162頁より)


「転移」とは一般的には精神分析の場において、両親などの過去の人物との間の感情を反復することなどと言われますが、より本質的なことを言えば「象徴的他者=〈他者〉」に対する「わたしを愛して」という「要求」に他なりません。

では〈他者〉とはなんでしょうか?〈他者〉とはその辺の「他人」とはまた違う、ある人にとって絶対的な象徴的秩序を体現する存在をいいます。

一般的に言えば、人生最初の〈他者〉は「〈母親〉=実母あるいは養育者」ということになるでしょう。ヒトの子どもは出生を経て現実界から象徴界に参入する代償として「享楽」を決定的に失うため、これを回復するための運動を試みます。これがフロイトが規定した人間の根本衝動、つまり「欲動」です。

ゆえに子どもは「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象を媒介として「わたしを愛してね」と〈母親〉に「欲動の言葉」を以って「要求」し、自らの欲動を満たそうとする。

これが転移の起源に他なりません。その後、子どもは後に見るように「das Ding」に直面した後も「要求」の水準にある程度の固着を残しているため、以後の人生において、誰か他人の中に〈他者〉のイメージを投影した時、やはり彼に対して「わたしを愛してね」と「要求」するわけです。

そういう意味において精神分析における「無意識のスクリーン」としての分析家、つまり「知っていると想定された主体(sujet suppose savoir)」としての分析家はまさに転移の対象となる〈他者〉の典型と言えるでしょう。

ところで上記の引用のようにラカンは転移を「偽の愛」であるといいます。では、転移ではない純粋な意味での「愛」とやらは果たして何処にあるのでしょうか?

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CLAMPさんの不世出の名作「カードキャプターさくら」は、この「転移」と「愛」という似て非なる2つの感情の差異を大変繊細な筆致で、かつ明確に描き分けることに成功した作品の一つでしょう。

「カードキャプターさくら」という作品は大きく分けると「クロウカード編」と「さくらカード編」という二部構成となっています。まず「クロウカード編」のあらすじは、主人公の木之本さくらが、相棒のケルベロス、親友の大道寺知世、そして後に相手役となる李小狼とともに伝説の魔術師クロウ・リードの作り出した「クロウカード」を全て集め、カードの正式な主となる・・・というものです。

そしてその後、さくらの前に謎めいた転校生柊沢エリオルが現れ、その直後より奇妙の事象が続けて発生する。クロウカードはなぜか事象に対して効果が無効化されてしまう。そこでさくらは「クロウカード」を自らの魔力を込めた「さくらカード」にアップデートすることで事件を解決していく・・・これが「さくらカード編」のあらすじとなります。

こうして物語も佳境に入りつつある中、さくらの通う小学校の模擬店大会が開催され、その日、さくらは兄の桃矢の親友であり、ずっと慕っていた存在だった雪兎へその想いを告げる。これに対し、雪兎は次のような言葉を返します。

雪兎「…ぼくもさくらちゃんが好きだよ」

雪兎「でも…さくらちゃんの一番はぼくじゃないから」

雪兎「さくらちゃん、お父さんのこと大好きだよね?」

さくら「はい」

雪兎「ぼくのことは?」

さくら「…好きです」

雪兎「その気持ちは同じじゃない?」

雪兎「お父さんが大好きな気持ちと、ぼくを好きだと思ってくれてる気持ち、すごく似ていない?」

さくら「…似てます」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


物心つく前に母親を亡くしているさくらにとって、父親である藤隆は父親であると同時に母親でもある、つまり、象徴的秩序を体現する〈他者〉というべき存在です。

雪兎はさくらの自分への想いが〈他者〉に対する「転移」であることを見抜いていたからこそ、そのことをさくらに気づかせるため、このような言葉を返したわけです。

雪兎「ぼくを好きな気持ちのせいで、さくらちゃんの本当の一番を見つけるが遅れちゃいけない……」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


もっともこの時、さくらは雪兎への感情の中に、父へのそれと同じではない、つまり転移以外の別の感情を抱いていたことに気づく。これが後々の展開におけるアリアドネの糸となる。

さくら「…でもね、そうじゃない『好き』も雪兎さんにはあったの…」

さくら「ほんのちょっとだけど…お父さんとは違った『好き』が…」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


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そしてその後、さくらは一連の騒動の黒幕であったエリオルと東京タワーで対峙。エリオルの正体は伝説の魔術師クロウ・リードその人であった。闇を呼び、知世や桃矢を含めた街中の人を眠らせてしまうエリオル。そこから3×3の頂上決戦の末、小狼の助力もあり、さくらは最後まで残っていた「光」と「闇」のカードをさくらカードへアップデートを果たし、なんとかエリオルの魔法を破り事態を収拾します。

なんでエリオル、というかクロウ・リードがこういう回りくどいことを企てたのかという経緯はここでは触れませんが、ともかくも目的を達したエリオルはイギリスへ帰国することになります。そして出立の際、さくらにこう告げます。

エリオル「さくらさん、僕がイギリスに帰るって聞いてどう思いました?」

さくら「え?」

さくら「残念だなあって…」

エリオル「………お願いがあるんです」

エリオル「同じことが起こった時に…あなたのそばにいるひとが遠くへ行ってしまう前にあなたがどう思うか」

エリオル「その気持ちは僕の時とどう違うかよく考えてください」

エリオル「そうすれば、あなたが本当に誰を『一番』だと思っているかが、わかりますから」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


この直後、さくらは小狼から告白されるわけですが、しばらくの間、さくらは自分の中にある感情の正体をうまく言語化することができません。その正体がはっきりと分かるのは小狼が香港に帰ることを知った時です。

さくら「エリオル君がイギリスに帰っちゃうってわかった時はすごく残念だった」

さくら「また会えるといいなとか、お手紙書こうとか、いろんなこと考えていた」

さくら「でも小狼君の時は…」

さくら「そんなのやだ…やだよ…」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


ここでさくらは「das Ding」に直面しているわけです。

先に見たように、子どもの「欲動」はまず第一次的には「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象に結びつきますが、「欲動」とは本質的に「死の欲動」であり、その究極的な対象は母子一体的な「享楽」の在処、つまり「das Ding」といういわば「無の場所」です。

しかしながらフロイトが「快楽原則の彼岸」で述べるように「死の欲動」は「生の欲動」によって抑止される関係に立つことから、人は生きている限り「das Ding」への到達は原理的に不可能ということになります。つまり欲動それ自体は決して満足することはなく、ゆえに「das Ding」とは子どもにとって一種の煉獄の場と言えます。

そこで、子どもは「das Ding」に到達する不可能性を一つの「禁止」とみなすことで、その禁止の遥か彼方に一つの可能性を見出そうとする。これが「欲望」と呼ばれるものの本質に他なりません。

これは何も幼児期の発達過程に限った話ではなく、我々は日々、何かの不可能性に直面することで生起する感情に「欲望」の名前を無自覚的につけています。とりわけ、その「禁止のヴェール」に「das Ding」を描き出し、その不可能性を何か尊いものへと昇華させようとする営為を我々は「芸術」とか「愛」などと呼ぶわけです。

従って、もし仮に「転移」ではない純粋な意味での「愛」というものがあるとすれば、それは「わたしを愛してね」という「要求」の水準ではなく、「わたしは愛してる」という「欲望」の水準にあるということです。

さくら「ちゃんとわかったよ」

さくら「私が小狼君のこと、どう思っているか」

(CLAMP「カードキャプターさくら」より)


こうして、さくらは小狼の帰国という「das Ding」に直面することにより、これまで形にならなかった自分の中にある想いを初めて言葉にすることができた。これは一つの欲望が生成される瞬間をよく表していると言えるでしょう。

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このように「転移」と「愛」はその概念として截然と区別されることになる。もちろん実際問題として誰かが誰かに恋愛感情を懐く時、この二つは無い混ぜとなり、渾然一体となった和音として鳴り響くのでしょう。

けれどもその時、どの音階が自分の心の中で一番高鳴っているかを理解することは決して無益なことではないでしょう。

むしろ、そうすることによって、人は「私を愛してくれないこの苦しみ」を「それでも私はあなたを愛している」へと転回し、昇華することができる、ある一つの道標を得ることができるのではないでしょうか。


posted by かがみ at 23:12 | 文化論

2017年09月25日

SsSと欲望の領野、あるいは「君の膵臓をたべたい」




分析家の位置

「分析家とは誰でしょう。それは転移を利用することで解釈をおこなう者なのでしょうか。転移を抵抗として分析する者なのでしょうか。それとも現実性について自分が持っている観念を押しつける者なのでしょうか。」

(ラカン「エクリV」より)


精神分析の臨床において分析家は分析主体にとって「知を想定された主体(SsS)」でなければならないといわれます。なんとなれば、精神分析という営みの場においては分析主体の「無意識」こそが最終的な権威であり、治療の進展の鍵を握るのは分析主体の「無意識の意識化」だからです。

そうである以上、分析主体の「無意識を意識化」促すには、分析家は分析主体の「無意識の代理人」として機能する必要があるということです。

そのためには分析家はーーー句読法、あるいは解釈など諸技法を駆使することでーーー分析主体にとって「知を想定された主体(SsS)」、つまり何か重要なことを知っている、あるいは教えてくれる重要な〈他者〉としての位置を取らなければなりません。

そして、分析家が分析主体にとってのSsSとして位置付けられる時、分析主体の中で分析家に対する特殊な感情が誘発されます。これを「転移」といいます。

ここでSsSとして見做された分析家は、分析主体から突きつけられる様々な「欲求満足の要求」ーーー自分について「どのように思うか」という「評価の要求」や、自分に「どうして欲しいのか」という「要求の要求」ーーーと「何でもいいからとにかく私を認めて欲しい、愛して欲しい」という「愛の要求」を徹底的に切り分けていく。

これはいわゆる「禁欲原則」といわれるものですが、分析家がこのような態度を維持することにより、欲望のグラフが示す通り、分析主体の欲求は「欲求満足の要求」と「愛の要求」に二重化され、その中央に「欲望の領野」が活性化されていくわけです。「欲求→要求→欲望」からなる欲望の弁証法化。これが分析関係の基本的な構造となります。

分析の場以外でも禁欲原則は有効に作用します。例えばラカニアンとして知られる精神科医の斎藤環氏は不登校や引きこもりの問題に関して、家族は本人にとって愛憎入り混じる鏡像ではなく、ルールを介した〈他者〉として振舞わなくてはならないという趣旨のことを書いていますが、これも禁欲原則のひとつの応用例といえるでしょう(斎藤「引きこもりはなぜ「治る」のか?:55頁)。



「君の膵臓をたべたい 」における「禁欲原則」

ではここで、SsSの特性を端的に示している例として「君の膵臓をたべたい 」という作品を取り上げておきましょう。作品のあらすじを簡単に紹介しておきます。クラスでなんとなく孤立している【僕】は偶然「共病文庫」なる日記を目にして、明るくてクラスの人気者の山内桜良が余命僅かな膵臓の難病に罹っていることを知る。こうして彼女との間に親友でも恋人でもない不思議な「なかよし」の関係が始まっていく・・・というものです。


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「君は、 きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。」

「お医者さんは、真実だけしか与えてくれない。 家族は、 私の発言一つ一つに 過剰反応して、 日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、 知ったらそうなると思う。 」

「君だけは真実を知りながら、 私と日常をやってくれてるから、 私は君と遊ぶのが楽しいよ」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


桜良の中には、確実に鳴動を始めた「死」という現実があるわけです。そこで彼女のとった選択は「死の受容」でも「死の抑圧」でもないーーー「死ぬまで元気でいられるようにって」ーーーつまりは「共病文庫」という日記の表題からも明らかなように「死との共存」です。

彼女のとった選択は死を客観的にまなざしつつも生を最大限に「欲望」するということ。それは彼女のひとつの「覚悟」の表れということです。

しかしながら、いずれにせよこの選択は尋常ではないエネルギーを要します。すなわち、彼女を限界まで欲望させてくれる〈他者〉が必要となってくるということです。

残念ながら、彼女の親友であるキョウコにはその役割は担えないのです。仮に彼女が真実を知ったとすれば、それこそ死に物狂いで桜のどんな「要求」でも文字通り叶えようとはするでしょう。しかし、ラカンが述べるように「欲望」が弁証法的なものであるのならば、あらゆる「要求」を悉く叶えるであろうキョウコは桜良の良き鏡像とはなり得ても、彼女を欲望させる〈他者〉とは決してなり得ない。だからこそ桜良はキョウコに真実を告げなかった、あるいは出来なかった。

桜良が自らの「欲望」を全うするには、彼女の死を知りつつも、それでも〈他者〉として彼女に接する存在が必要となる。たまたまこの条件を満たす位置にいたのが【僕】という人間です。

【僕】は彼女の取った「選択」を尊重しつつも、生来の閉じた性格からいつも彼女にシニカルで冷淡な態度をとります。

「僕が人に興味がないからだよ。基本的に人は皆、自分以外に興味がない、つまるところね。 もちろん例外はあるよ。 君みたいに、特殊な事情を抱えてる人間には僕も少し興味はある。でも僕自身は、他の誰かに興味を持たれるような人間じゃない。だから、誰の得にもならないことを喋る気にはならない」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


けれどもその一方、【僕】は桜良の内的世界の探索とその解釈にかけては極めて真摯かつ貪欲な姿勢を見せます。

「春を選んで咲く花の名前は、出会いや出来事を偶然じゃなく選択だと考えてる、君の名前にぴったりだって思ったんだ」

(住野よる「君の膵臓をたべたい 」より)


このような【僕】の二重化された態度は分析家的態度と大きく重なるものがあります。結果、【僕】は桜良にとってSsSとして作用して彼女の欲望の領野を開き続けた。このようにも言えるでしょう。彼女のいう「私に真実と日常を与えてくれる人」とは、つまりは、そういうことです。


出会い損ないの悲劇と生の輝きに満ちたハッピーエンド

ただ【僕】は、無自覚的にSsSに位置付けられただけに過ぎない存在であるがゆえに、もちろん最後までその位置にとどまることは出来ていません。関係性の進展のうち、【僕】も知らずしらずのうち、桜良によって「欲望」させられています。

だから物語クライマックスにおいて【僕】は桜良の中に自らの「欲望の原因=対象 a 」を見出し、その結果、例の「君の膵臓を食べたい」という言葉を紡ぐことになるわけです。

けれども、結局、僕は彼女と「出会い損なう」。その時には既に、彼女は欲望の主体のまま、もうこの世から「勝ち逃げ」してしまっているからです。それはつまり、彼女は「死ぬ前に殺された」ことである意味では「死ななかった」ということです。


このように考えると本作は出会い損ないの悲劇と生の輝きに満ちたハッピーエンドという二重構造を含んでいるとも理解できるでしょう。本作の基本構造が美少女ゲーム的文法に則っているにも関わらず、幅広い層の共感を呼んだ理由というのも、何かその辺りにあるような気もするわけです。


posted by かがみ at 22:43 | 文化論

2017年06月25日

いつも世界は私を拒絶する



認知行動療法の発展に多大なインパクトを与えたアーロン・T・ベック博士によれば、うつ病を引き起こす認知の三大特徴として「自己否定(自分はダメだ)」「過去否定(世の中悪いことばかり)」「将来否定(この先いいことなんかあるわけない)」があると言われます。

ここでいう認知とは知覚した事象の捉え方をいい、人それぞれで異なるものです。認知、行動、気分、生理は円環的に連関しており、どのような認知をもっているかはその人の気分、行動、体調に多大な影響を及ぼすといわれます。

そして認知のレベルは自動思考とスキーマに分けられ、自動思考とはある状況に対して瞬間的に浮かぶ「状況の捉え方」をいい、スキーマとは自動思考の背景にある自己認識、価値観、世界観などの個人的な中核信念、つまり「その人の生き方を規定するルールのようなもの」をいいます。スキーマは精神分析でいうコンプレックスに相当するものであり、「その人にとってあまりにも自明すぎる」が故に、普段は意識に上ることが少ないといわれます。

例えば、職場の同僚に挨拶をして相手が返してくれなかったというよくある場面を想定してみましょう。このとき特に明確な理由もないのに「無視された」「やっぱり嫌われている」と考えてしまうのが自動思考です。その根底には「私は誰からも必要とされてない」「私は欠陥人間だ」という悲観的なスキーマの存在が伺い知れます。

ベックの開発した認知療法は、日々の自身の思考の流れを客観的に観察し記録するなどの外在化を通じ、非適応的認知を見つけ出し、これをより適応的認知へ変容させることで症状を消去することを目標とする。非適応的認知とは事実を歪曲したり、根拠のない憶測を元に物事を判断することをいい、適応的認知とは物事を事実に即して判断することです。

先の例で言えば、「忙しくて気がつかなかったのかもしれない」「今日は体調が悪くて、返事できる気分じゃなかったのかもしれない」「仮にあの人から嫌われていたとしても、別に世界中から嫌われているわけではない」と考えることが適応的認知と言えるでしょう。


だから、いつも世界は私を拒絶する

「私は・・・龍だ」

「龍の死を知った村人は、とても悲しんだ・・・え?」

サクラクエスト11話「忘却のレクイエム」


こういう観点から是非とも、サクラクエスト11話「忘却のレクイエム」を視ていただきたいと思います。

サクラクエストのあらすじをざっと述べますと、就職活動全滅状態だった短大生の木春由乃が、いろいろな手違いを経て、寂れた田舎町、間野山で「国王」として、観光協会職員の四ノ宮しおり、商店会会長の孫である織部凛々子、元女優の緑川真希、WEBデザイナーの香月早苗たちと協力して町おこしに奮闘するという、いわゆる「地方創生」をキーワードとするアニメ作品です。

その11話は凛々子に焦点を当てた回ですが、いま書いた不適応認知から適応認知への変容の流れが僅か20分で物語として見事に纏められています。

高校卒業以来、基本引きこもり気味に過ごしてきた凛々子はなかなか人の輪に入れない自らの境遇を間野山に伝わる「龍の娘」の民話に重ね合わせているところがあります。

精神分析的観点からいえば、この同一化は「私は特別」という凛々子の全能感保存の表れに他ならず、その背景に、彼女の複雑な生い立ちと「ファリックマザー」としての千登勢の存在があることは容易に読み取れるでしょう。

いずれにせよ、何かにつけてネガティブな過去ばかり回想して落ち込むところや、後に触れるように、龍の民話をあまり公にして欲しくない立場である金田一1人の言葉から「誰もそんな話聞きたいと思ってない」と思い込むところなど、先の自動思考で言えば「過度の一般化」「マイナス化思考」「結論の飛躍」といったいわゆる「推論の誤り」が見て取れます。

ところが、図書館で凛々子は龍の娘の民話には別に解釈が存在することを知る。実は村人たちは龍を歓迎しており、龍の死を悲しみ歌を作ったという全く真逆の解釈が。

この「間野山はよそ者を排除する土地ではない」という別の解釈の存在が、竜の娘と自身を同一視している凛々子の自動思考に対して「自分の人生も決して拒絶されてばかりではなかったかもしれない」という反駁として作用する。

その後、凛々子は図書館で知った真実を皆に話そうとするも、ちょうど村おこし婚活イベント真っ最中で間が悪く、金田一から「空気読んでよ」と拒絶されてしまう。


ドラゴンは仲間たちに囲まれて、少しだけ、笑えました


「ずっと変。私は変な子・・・私のことなんか、誰も認めてくれない。誰も理解してくれないって・・・私には無理。由乃みたいになれない。知らない「間野山踊り」を教えてって、何の抵抗もなく言える由乃。田舎から東京に出る事が出来た由乃。自分が普通だってことが、コンプレックスの由乃。全部、私と逆!私が持ってないもの、私が出来なかったことを何でもできる!・・・ごめんなさい。別に私、由乃みたいになりたい訳じゃない。私は私。でも私のことなんか、誰も認めてくれない・・・誰も理解してくれないって」

「みんな凛々子ちゃんのこと、分かってるよ。もちろん私だって。私からすれば、凛々子ちゃんの方が凄いって思う。好きなものがいっぱいあって、周りに簡単に流されたりしなくて、私には真似出来ない。私、そんな凛々子ちゃんが好きだよ。」

サクラクエスト11話「忘却のレクイエム」



由乃の前で珍しく感情をあらわにする凛々子に対して由乃は言葉を紡いでいきます。

これは多分、普通であることを徹底的に嫌う由乃の率直な心境なのかもしれないんですけど、ここでの由乃の介入は凛々子の「私は変な子」という自己スキーマを揺るがして、「自分の世界を持ってる子」という新たなスキーマが対提示されるという、いわゆるリフレイミング効果として作用している。そういえば、龍の民話を、調べようとしたきっかけにも由乃の介入があるといえばあるんですよね。

そしてイベント最終日、蛍の舞う中、皆の前で「龍の唄」を歌唱を披露するという行動を通じて、「いつも世界は私を拒絶する」という非適応的認知から「決して世界は私を拒絶しているわけではない」という適応的認知の再構成へ向けて歩み始めたわけです。


「私もこの歌を伝えたい、何十年、何百年先の、誰かに」

「ドラゴンは仲間たちに囲まれて、少しだけ、笑えました」

サクラクエスト11話「忘却のレクイエム」


地方創生〜保守的な風土が有能なイノベーションの芽を潰す?

TVアニメ「サクラクエスト」公式

サクラクエスト(wikipedia)

「サクラクエスト」は「花咲くいろは」「SHIROBAKO」に続く「P.A.WORKSお仕事シリーズ」第3弾のオリジナル作品。「内定したのは国王だけでした」というキャッチコピーが秀逸。さすがにオリジナルアニメを多く手がけたP.A.WORKSだけあって、実によくまとまっており、安心して観れます。

メインキャラ5人のバランスもいいですね。「普通というコンプレックス」を抱える由乃ちゃんをはじめとして、皆それぞれ際立った個性がありますが、凛々子ちゃんはスピンオフのコミカライズも予定されており、おそらく視聴者の共感を最も多く得たキャラであろうことが窺えます。

物語全体を貫く「地方創生」というキーワードに対してもそれなりの問題提起がされており、作品に一層の奥行きを与えている。

常によくある地方創生論で「保守的な風土が有能なイノベーションの芽を潰す」というのがありますが、所詮、イノベーションというのは後になって遡及的に「あれはイノベーションだった」と初めて評価可能なものであって、それまではただの海のものとも山のものとも分からないに過ぎないということです。

本作において千登勢さんをはじめとした保守的な立場に立つ商店街側を一方的な敵役として描いていないというのは、そういう点を意識しているのではなかろうかと思われます。


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posted by かがみ at 21:14 | 文化論

2017年03月03日

少女のエディプスコンプレックス


さて、本日は桃の節句なので、女の子のエディプスコンプレックスの話でも書いてみたいと思います。エディプスコンプレックスというのは定義的には「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになりますが、その経過は男の子と女の子では若干異なってきます。まずそのあたりの精神分析の説明から始めてみます。

想像的水準と象徴的水準におけるPhallus

ラカンの有名な定式に「人の欲望は他者の欲望」というものがありますが、寄る辺ない存在である子供にとっては他者の欲望というのは重要な関心の対象になります。人という生き物は他の動物と異なり、独りでは生きられない寄る辺無い姿で生まれて来る為、他者の助けなくこの世界では生きていけません。そこで初めて出逢う他者は母親です。

なので、まず男の子も女の子も、この世界で生きていく為に母の欲望を埋める愛情の対象になりたいという欲望を持たざるを得ない。ラカン風に言うと子供は愛情という想像的水準において母のPhallusになろうとしている。

ところが、母親も日常生活の中で四六時中子供と一緒にいるわけではなく、現前-不在を繰り返します。そこで子供の中には次のような心象が沸き起こります・・・なんでお母さんはいつもボク/ワタシと一緒にいてくれないんだろう、ボク/ワタシはお母さんの欲望の対象じゃ無いのかな・・・?お母さん、貴女が欲しいものはボク/ワタシ以外の「何か」なの・・・このように子供は不安に駆られます。

そして、この不安はやがて確信に変わります。母の紡ぎ出す言葉の節々に見え隠れる「オトウサン」なる存在。母曰く「オトウサンに叱ってもらいますからね」「オトウサンが見てなんていうでしょうね」「オトウサンに相談してから買いましょうね」云々・・・つまり、暴力、権力、財力という象徴的水準でのPhallusを保有している絶対的な第三者が「オトウサン」ということになります。

こうして父親は満を持して子供の前に登場し、子供はこれが母の欲望の対象に違い無いと確信し、こうして子供は想像的水準で母のPhallusになれないことに絶望するしかない。

では、自らの存在意義を失った子供はどうすればいいのでしょうか?ここで男女の違いが生じてきます(もちろん現代においては上記のような典型的な母親-父親像は揺らぎつつあります。あくまで子供の心象風景モデルの話です)。

エディプスコンプレックスと去勢コンプレックス

男の子の場合、去勢不安から母親を諦めざるを得ない。結果として多くの場合は父親側に同一化して、象徴的水準でPhallusを所有したいと願う。つまり「父のような人になって母のような人をものにしたい」と欲望することに自らの存在意義を見出す。こうして、男の子の場合、エディプスコンプレックス→去勢コンプレックスと進んでいき、母親を諦めた時点で、エディプスコンプレックスはフロイト曰く「粉々に砕け散る」。以降、男の子は畢竟、(象徴的な)Phallus関数に支配された存在となり果てる。

女の子の場合、最初から去勢されているため、結果として多くの場合は母親側に同一化して象徴的水準でPhallusそれ自体になりたいと願う。つまり「母に成り代わり父に欲望されたい」と欲望することに自らの存在意義を見出す。女の子の場合、男の子とは逆に去勢コンプレックス→エディプスコンプレックスと進んでいく。

つまり、女の子の場合、エディプスコンプレックスは消滅するまでの期間が長いということです。女性のセクシュアリティが男性に比べて遥かに複雑になるのはこういう事情によります。男性は基本的に「Phallus関数に支配される者」と積極的な定義が可能ですが、女性は「Phallus関数に支配される者、とは限らない者」と消極的に定義せざるを得ない。すなわち、女性は「娘」でもあり「妻」でもあり「母」でもあり、さらには「男性」でもあり「それ以外の存在」とも言える。ラカンの「女性なるものは存在しない」という例の悪名高い迷言(?)はそういう観点から理解されるべきなんでしょう。

あかりのケースと香子のケース

ところで、このエディプスコンプレックスの消滅過程で少女が強烈な外傷経験に出会った場合、セクシュアリティの一面が歪んだ形で先鋭化されることがあります。いわば「エディプスコンプレックスの補償」という問題です。

何が言いたいのかというと、「3月のライオン」という作品は、この問題について、かなり自覚的に描き出しているように思えるんですよね。物語のサブヒロイン的な立ち位置にいるあかりと香子は、様々な点で両極に対置されており物語のコントラストをキャラクターレベルで支えていますが、境遇はわりと似ています。同世代であり、長女であり、そして、両者とも思春期の只中で「父に棄てられた存在」という点においても共通した要素を持っているわけです。

あかりの場合、父親である誠二郎に家族ごと放り出されており、「お前を愛してない」という想像的水準で父に棄てられている。そして現在、あかりは妹たちを過剰に溺愛しており、特にモモちゃんに対してはファリックマザーそのものと言っていい一方で、家族以外の人間関係については基本的に禁欲的な態度を貫き通している。当たり前ですが、ひなちゃんもモモちゃんも誠二郎氏の娘です。従って、あかりさんとしては心外かもしれませんが、精神分析の観点から言うと、誠二郎氏という欲望の対象は変わらず、その在り様が象徴的水準におけるファルスへの同一化から想像的水準でのファルスの所有へとスライドしていると言わざるを得ない。

香子の場合、父親である幸田氏から奨励会退会を申し渡され、「お前には期待してない」という象徴的水準で父に棄てられている。そして現在、香子は20も歳上の妻帯者であり、かつ父親の弟弟子でもある後藤正宗に一方的に惚れ込んでいる。つまり、象徴的水準でのファルスへの同一化という欲望の在り様は変わらず、その対象が父と似たような相手にスライドしていると言える。

こうしてみると、父親からの棄てられ方から欲望の有り様まで、あかりの場合は想像的水準で動いており、香子の場合は象徴的水準で動いていることに気付かされます。これは必ずしも理論的な対応関係は無いはずですが、あかりと香子が鮮烈に放つ両極性はこの辺りの差異に起因しているような気がするんですね。

結構強引な解釈なのかもしれませんが、こういう対比を念頭に置きつつ、3月のライオンの原作を読み返してみるとまた違った発見があるのかもしれません。


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posted by かがみ at 23:08 | 文化論