2016年10月28日

現実・象徴・想像、あるいは『君の名は。』と『シン・ゴジラ』の間



ラカン派精神分析では、世界を「現実界」「象徴界」「想像界」という3つの異なった位相で把握します。現実界が文字通り、実在する客観的現実であるのに対して、象徴界は言語で構成された世界であり、想像界は意味やイメージといった個人の主観の世界です。我々は「本当の客観的現実」を直視しているわけではなく、常にイメージや言葉によって捉えたものを「現実」だと認識している。ざっくり言うとこんな風になります。


ラカンはフロイトのテクストを構造主義的に解明していった人でして、例えば、フロイトの有名ないわゆる第二局所論、「自我・超自我・エス」もちょうどこの三幅対へ対応している。すなわち、自我は想像界に、超自我は象徴界に、エスは現実界に、といった具合です。


さて、やや面倒な前置きが長くなりましたが、ラカンのこの理論はなかなか便利でして、「現実的なもの」「象徴的なもの」「想像的なもの」という三幅対で文芸作品や社会事象など様々なものを考察することができる。今回はこのラカン的三幅対を使って、「君の名は。」そして「シン・ゴジラ」という、間違いなく今年の日本映画を代表するであろう二大作品を見てみたいと思います。


結論だけを先にいいますと、両作は巨大災厄という「現実的なもの」への対応という点で共通しつつも、綺麗なコンストラストを成しています。すなわち「君の名は。」では「象徴的なもの」を排除することで「現実的なもの」と「想像的なもの」を直結させており、これに対して、「シン・ゴジラ」では「想像的なもの」を抑圧することで「現実的なもの」と「象徴的なもの」を対置させている、かなり圧縮していて言えばそのように言えるでしょう。


ではまず「君の名は。」から見てみますと、これはティアマト彗星という「現実的なもの」と少年少女の関係性という「想像的なもの」が直結しており、いわば本作は「想像対現実の物語」と呼ぶべきものです。

要するに物語の組み方が「セカイ系」なんですよ。クライマックスにおいて、かたわれ時の山頂での邂逅、計画の引き継ぎ、町長である三葉ちゃんの父親の説得、隕石の衝突・・・と場面が遷移していき、全住民が町長の指示により避難訓練を行い奇跡的に難を逃れたと言う結末が8年後の後日談として語られます。ところが、実際の住民の避難の様子については劇中まるで描写されていません。

このシークエンスの不自然な欠落は新海さんのルーツを考えれば、セカイ系に由来するものであることは明らかでしょう。セカイ系の構造的定義はいうまでもなく、「主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、世界の危機などといった抽象的な大問題に直結する作品」です。本作では実際に避難を実施した「町長(行政機関)という具体的な中間項」を意図的に排除することで、瀧君と三葉ちゃんの関係性こそが、糸守というセカイを救ったかの如き詩情として立ち現れている。

これに対して、「シン・ゴジラ」のキャッチコピーはおなじみ「現実対虚構」ですが、ラカン的に言えば、巨大不明生物なる「現実的なもの」と政府・官僚組織機構という「象徴的なもの」が対置されており、本文の文脈でいうと「象徴対現実の物語」といえます。

本作は「もしも巨大不明生物が現代日本に出現したら」という一点のみに焦点が絞り切られ、その過程をこれ以上なく細密に描写し尽くすことで、怪獣映画というカテゴリを脱却し、極上のディザスタームービーへの昇華に成功した。その一方、当然の代価としてヒューマンドラマ的な「想像的なもの」に対しては抑圧的な態度をとらざるを得なかったわけです。



さて。このように見てみると、次のようなことが思い切って言えるかも知れません。つまり「君の名は。」がここまでの、まさに歴史的とも言える興行的成功を成し遂げた一つの大きな要因に、公開が「シン・ゴジラ」公開のちょうど約1ヶ月後のタイミングだった点が挙げられる、ということです。

まず先立って「シン・ゴジラ」が公開され、たちまちシリーズ空前の大ヒットを成し遂げた。日本中がこの「理想のプロジェクトX」に酔いしれ、現職国会議員まで巨大不明生物に対処するための法令解釈を大真面目に語るなど「象徴的なもの」に関する言説が津々浦々に溢れかえった。

けどそれは同時に、あの作品が意図的に抑圧した「想像的なもの」に対する欲望を反動形成的に生じさせる契機ともなった。

人の心は二律背反に満ちています。シン・ゴジラが時代のテーゼとして賛美されればされるほどに、「では、市井に生きる普通の個人の想いや絆の力などどうでもいい事なのか」という、そんな問いと共に、奇しくもかつてセカイ系としてオタク的なカテゴリーへと棄却されたはずの「想像対現実の物語」への希求がアンチテーゼとして回帰してきた。


「君の名は。」はそんなタイミングで公開されたわけです。どこにでもありそうな何気ない日常の営みを繊細で瑞々しく切り出していく極彩色の映像美術。徹底されたというシナリオ開発の賜物か程よく濾過されて、いわば一番綺麗な上澄みだけが上手に掬い出されたセカイ系的ナルシシズム。この理想的とも言える「想像対現実の物語」は、いわば「シン・ゴジラ」が切り開いた想像的欲望の空間に対して鏡像的に投影されることで、その感情量は増幅され、大きく反響したのではないでしょうか。


・・・これは勿論、相当に乱暴な印象論であることは承知です。けど、そのくらい両作品が持つ鮮烈なコントラストに共時的な巡り合わせを感じざるを得ない。もちろん「君の名は。」それ単体でも新海作品の一つの到達点というべき素晴らしい作品であることは、疑いもなく、いうまでもないことです。

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posted by かがみ at 22:40 | 文化論

2016年10月11日

精神病圏における〈父の名〉の排除、あるいは3月のライオン

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いよいよアニメが始まり、来年には実写映画を控え、社会現象の兆しも見せ始めている『3月のライオン』。ようやく原作12巻まで読了したので小感を書いておきます。

誠二郎氏の件の後、物語はあかりさんのパートナー探しへと遷移していきます。読んでいて思ったのは、いまの状態は、精神分析でいうところの「〈父の名〉の排除」の状態にあるのではないか、ということです。

もちろんいうまでも無く、誠二郎氏は、これほど漫画のキャラでイライラするクズも珍しいくらい、どうしようもない人間というのは疑いない。故に御本人に同情する余地は微塵もないことは明白で、娘達からの完膚無き拒絶は当然の結末でしょう。

ただ、かと言って、「私たちはこの3人でいい︎」っていう決断は美しくとも同時に相当に危うさをも孕んでいる状況ともいえる。


先に述べました〈父の名〉というのは現実の父親の名前というよりも母親と子供を切り離す「父性原理」ともいうべき一種の精神力動作用です。これが機能していないと、子どもは母親から心理的に自立ができません。具体的にいうと、言語機能に欠損が生じ、精神構造が精神病圏に留まることになる。

例によってラカン派の理論を参照するのであれば、人の精神構造は神経症圏、精神病圏、倒錯圏のいずれかに必ず帰属します。もちろん、これはあくまで精神構造の問題であり症状として発症するかどうかはまた別問題なんですが、ラカン的な意味での「いわゆる一般人」というのは「症状が顕現していない神経症者」ということになる(現代ラカン派では異論もあります)。

精神病圏とは父性原理の存在しない世界です。これが先に述べた「〈父の名〉の排除」という状態でして、例えばパラノイア患者の諸々の幻覚症状は父性原理の参照に失敗したエラー表示に他ならず、「世界の神になる」とかそういう誇大妄想は父性原理を代替する為に自分なりに作り上げた原理であると理解されうる(妄想性隠喩)。

つまり父性原理の設立により心的な意味での母子分離に成功すれば、子どもの精神構造は神経症圏に遷移し、失敗すれば精神病圏に留まるということになります。フロイトの主張した例の、エディプスコンプレックスなどと言う、一見すると荒唐無稽なストーリーは父性原理設立の神話的表現に他ならないのです。



さてさて。いろいろ長々と回りくどい説明が続いてしまいましたが、要するにはっきり言えば、いまの状況はモモちゃんの発達心理上、非常によろしく無いという事です。

モモちゃんにとってのあかりさんは疑いなく母親で、いい意味で普通の母親以上に母性原理に満ちている。他方、モモちゃんにとっての誠二郎氏は徹頭徹尾、「いきなり闖入したかと思えば、すぐさまつまみ出された『オトウサン』などと呼ばれている、よくわからないオッサン」に過ぎず、父性原理を体現する「父親」にまるで値していない。

要するに問題は目下、あかりさんからモモちゃんを心的に切り離す父性原理を起動させる人物が周りにいないということです。もちろんあかりさんに全然非は無いんですけど、現状このままではモモちゃんはあかりさんの重力圏を脱出できない危険性は極めて高いということです。これは精神分析の見地からのみならず、ユング派からもグレートマザーの脅威として理解可能な事象です。

だから、あえて誤解を恐れずに言うのであれば、早急に探し出さ無いといけないのは「あかりさんのパートナー」というより、「モモちゃんにとっての〈父の名〉」なんですよ。だから多分、羽海野さんはこのタイミングで藤本雷堂と言う、極めて解り易くファルス関数に忠実な「ある父」のエピソードを投入してきたんだと思うんです。

もちろん、藤本棋竜は誠二郎氏と行状こそ多少は似てるけども、対比には全くなってはいません。藤本さんは別居後もきちんと奥さんに生活費を入れて、一応は責任を取り(取らされ?)続けているし、何より御本人が後ろめたさを十分に自覚している。

けどそれでも、この寓話があかりさんとひなたちゃんに与えるインパクトは決して小さくないはずです。騒動の顛末における、あかりさん達のモノローグが仄かしているように「誠二郎は去ったが〈父の名〉という問題自体は全く終わっていない」ということではないでしょうか。

「本当はどうすれば良かったのかな…」

ーなんて問いが

痛みとともによぎるけど

ーどっちにしたって もう

「こっちを選んで正解だった︎」って思えるようなエンディングを目指して

私たちは

精いっぱい泳ぐしかないのだ…

したり顔の「運命」ってやつに

クロールのふりをして

「グー」でパンチを浴びせてやるその日迄……!︎

(Chapter.123)


そういうわけで、11巻が徹底した「〈父の名〉の排除」の物語だとすれば、12巻は「〈父の名〉の探索」へ旋回していく為の過渡期の話だったのかなって、そういう風に読めました。最後に出てきたあの人と、ごく普通にフラグも立ちましたし、月並みな結語ですが、これからの展開が楽しみです。
posted by かがみ at 01:27 | 文化論

2016年07月14日

精神分析の倫理とまどか的享楽



「美の機能は人間が自らの死と関係する場をわれわれに示してくれる 。そしてそれも眩しい光の中でのみである 」 (ラカン『精神分析の倫理』下巻194頁 )


ラカンは『精神分析の倫理』の中で「罪があると言いうる唯一のこととは、少なくとも分析的見地からすると、自らの欲望に関して譲歩したことだ、という命題を私は提出します」と述べています。有名なテーゼ「汝の欲望に譲歩してはならぬ」です。

神経症者というのは精神分析的見地から言うと〈他者(両親)〉の欲望からの分離に失敗している人でして、分析関係とは〈他者〉の欲望からの分離を目指す作業に他ならない。

分析家は自らをして分析主体の欲望の原因(=対象 a)の位置を占めることにより、分析主体の欲望の原因への固着に揺さぶりをかけていくわけです。

そしてこの「汝の欲望に譲歩してはならぬ」という精神分析の倫理を体現するものとしてラカンが引き合いに出すのがギリシャ悲劇「アンティゴネー」です。

アンティゴネーという人は例のエディプス・コンプレックスのモデルとなったエディプス王の娘です。周知の通り、エディプス王は父殺しと近親相姦の罪悪感で自らの目を潰した後で叔父のクレオンによってデーバイを追放されるんですが、その時に付き添ったのがアンティゴネーとイスメーネーの姉妹。父の死後、2人はテーバイに戻ってくるんですけど、アンティゴネーは反逆して戦死した兄のポリュネイケスの亡骸の処遇を巡りクレオンと対立することになる。

クレオンは、ポリュネイケスを国の法を破った者として、彼の亡骸を葬ることを禁じ 、野ざらしのままに腐敗するに任せることを命じます。これに背けば死刑も覚悟しなければならない。にもかかわらずアンティゴネーはポリュネイケスの亡骸を葬ろうとして、結果、彼女は地下に幽閉される。

結局、最後にはクレオンの方が折れてアンティゴネーへの処罰を取り下げるんですが、時は遅く 、彼女は地下で首を吊って死んでいました・・・まあ、こういうあらすじです。

クレオンは 、統治者として万人の幸せを計ろうとし 、そのために法から外れるものを容認できない立場にあります。これは一つの善の体現といえるでしょう。けれどもアンティゴネーにとって重要なことは 、万人のための法ではなく彼女自身の固有な欲望であり、欲望に譲歩しない生き方を選択することである。こうしたアンティゴネーのあり方をラカンは善に対する美の極北として称揚し、精神分析における倫理の体現者として位置づけるわけです。

それでなんかね、これを読んでいて、まどか☆マギカって現代のアンティゴネーの物語なのかも、って思ったんですよ。


キュゥべえというのは魔法少女達にとっては三百代言を弄する悪辣な搾取者そのものですが、そのエコシステム自体は魔法少女が魔女に転じる刹那に発生する莫大な希望と絶望の相転移エネルギーを利用して宇宙の寿命を延ばすという最大多数の最大幸福の為の装置であり、その意味で彼らは善に仕えるクレオンです。

これに対して、まどかちゃんの祈りは魔法少女達の最期に安らかな救済を齎すことになりますが、その祈りの本質はエコシステムの根幹の破壊に他ならない。それはまさしく法に背き死者の亡骸に土をかけるアンティゴネーの欲望であり、QB的善の対極に位置している。

「欲望」って言葉は、日本語にしてしまうと何だか、爛れた感じに響くんですけどね。そもそものフランス語の「désir」はもっと価値中立的な、例えば「望み」とか、あるいは「願い」とか、そういう意味なんですよ。

こうしてみると、まどかちゃんの「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます」という台詞は『精神分析の倫理』における「汝の欲望に譲歩してはならぬ」というテーゼそのものです。

そういう意味で「まどか」というのは、ファリックマザー(=詢子)の下で「良い子」として〈他者〉の欲望を生きて来た女の子が自らの欲望を主体化させ、遂には享楽に至る物語として読むことができるでしょう。

ラカンの言う「享楽」とはあらゆるすべての欲望が満たされた完全な状態を言う、いわば究極のエゴイズムとも言えます。けれどそれは時として、ものすごく禁欲的で、気高いものとして人の心を打つことがあるということです。
posted by かがみ at 07:14 | 文化論

2016年05月24日

アイドルという供給過剰なブラック産業

痛いニュース(ノ∀`) : アイドルがファンに20カ所刺され重体 - ライブドアブログ

なんとも凄惨な事件で、被害に遭われた方には本当にただただお気の毒としか言いようがありませんが・・・

今更こんなところで一般論的な何かを言うのもなんですけど、誤解を恐れずに言えば、今の時代、人並みの容姿の女の子であれば、(食っていけるかどうかは別として)わりと簡単にアイドル(みたいなもの)になれてしまう。これはいわば規制緩和による供給過剰ともいうべき事象でしょう。もともとニッチな業界でメジャー、インディー入り乱れてのパイの仁義なき奪い合いが行なわれた結果、産業構造が加速的にブラック化しているわけでして、この過当競争に生き残るためには、多かれ少なかれ「ファンとの距離の近さ」っていう関係性自体を商品とせざるを得ない。そこに生じる「私は商品として『親しい関係』という幻想を貴方に売りましたけど、売り手の私自身は別に貴方と『親しい関係』になるつもりなんか微塵もありません」という矛盾に満ちた定式に、アイドル、ファンの当事者のどれだけが自覚的かというといささか覚束のない状況のように思えます。

被害に遭われた方はどうやらアイドルというよりもシンガーソングライター的な方向性でやられていたようなので、上記のような定式がそのまま当てはまるわけではないでしょうけど、そもそも論として表現活動全般に大なり小なりこういったリスクが伴うということも事実なんでしょう。一日も早いご回復を祈念しています。


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タグ:社会
posted by かがみ at 01:42 | 文化論

2016年05月20日

音楽という箱入り娘

痛いニュース(ノ∀`) : 「なんで全部無料で聴けないの??」…LINEミュージックのレビューが酷すぎると話題に - ライブドアブログ

なんかLINEミュージックのレビューが酷いとかで。記事中で取り上げられたレビューを見るに「なんでチケット購入しないと聴けんの? 視聴者目線で考えて欲しい」「なぜ30秒しかきけないの? fullだとなんか問題でもあるの?」「急に30秒しか聞けなくなるよ!お金入れないとダメなんて…ラインの人チケットとかやめて全部無料にしてくれよ!」「30日間だけ無料ってのが気に入らない。その半端な数字をやめて、LINEなら、LINEらしく、ずっと無料でいいんじゃないの?? いきなり、1曲に30秒くらいしか聴けなくなったから、アンストしました。」等々。

なかなか理解し難い所ではありますが、けどそう思ってしまうのは我々がCDバブル世代なだけの話でして、むしろこういう反応っていうのは多分、民度とか底辺の問題というよりも、今のデジタルネイティヴ世代のごく普通の感覚なんじゃないでしょうか。

嫌なら聴くなという態度も一つの選択肢ですけど、このままじゃ音楽ビジネスは確実に袋小路に行きあたると思うんですよ。ドラマやアニメも大抵のものは放映後一週間は無料配信されるご時世ですよ?ひとり音楽だけ特別という理由は残念ながら見出し難い。

なので彼らの感覚を嘆いたり嘲笑したりするよりも、そこは割り切って新しいビジネスモデルを模索していくことも大事じゃないでしょうか。例えば無料はフルバージョンだけど冒頭に15秒広告が入って有料で広告解除とか。音楽を「情報」として聞く人達はそのあたりで妥協するんじゃないかという気がします。

著作権の保護と、単純に聴かせないというのはまた違ます。どんな美少女だろうと、箱入り娘のように世俗の手の届かない所に閉じこめているのでは、結局は誰からも見初められず、行き遅れて朽ち果てるという悲劇が待っているわけです。

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タグ:音楽
posted by かがみ at 00:42 | 文化論