現行民法典は法律婚主義をとっており、各種の社会制度もそれを前提に成り立っているが、法律婚主義の根幹を支えるのは 、民法上の嫡出子は配偶者との間に産まれた子女である「はずだ」というあまりにも脆い想定です。言い換えればそういうある種の共同幻想の上に構築された法律婚主義が今日まで何とか維持できたのは、いわゆる「あの人は酒も女も賭博もやらず真面目だけが取り柄の・・」などという「真面目な生き方」が社会的美徳とされたことによるという仮説もまた成り立ちうる。
「真面目」という人的属性が美徳か欠陥かというのは時代性に規定される。昔の重化学工業主体の時代とは違い、高度コミュニケーション社会である現代は真面目なだけでは報われない時代といえる。真面目と柔軟性がないというのは表裏の関係に立つ。真面目であるが故に視野狭窄と罵倒され、真面目であるが故に貧乏くじをいつも引き、真面目であるが故に好きな人に気の利いた愛の言葉の一つだって囁けない。
そういう意味合いから言えば、わりと制度論的な側面から言及される少子化問題なども、その根底に沈澱する諸般の要素を濾過してみれば、こういうどちらかといえばロジカルでは処理できない理不尽な真実が出てきたりもするんでしょうか。