選挙前に人権意識が問題になるなんて(novtan別館)
「権利は義務を伴う」。この言葉自体を道徳律として否定する気はもちろん毛頭ないです。生き方としてそれはそれで美しい。けれども、その思想をいやしくも近代憲法典に取り込むのは本末転倒としか言いようがないでしょう。道徳の話と法律論はどこまでも峻別して考えるべきです。
天賦人権論は真っ当な法思想であって別に宗教でもキャッチフレーズでも何でもないよ。権力抑制装置としての憲法典を別の側面から言い換えただけです。そもそも近代憲法というのは基本的に民主主義というものを信用していない。NSDAPがワイマール憲法下において民主的な手続きによって成立してしまった歴史を考えればそれはよくわかるはずです。大衆の喝采程アテにならないものはないということです。
だから、近代憲法はそういう民主主義の暴走を見越した上で二重三重の防護策を講じている。基本的人権の保障にしろ違憲立法審査権にしても、多数決では救われぬものに救いの手をという弱者救済思想であると同時に、瞬間風速的な「民意」の熱狂によって国家百年の大局を見誤らない為のセキュリティシステムとして憲法典に内包されているわけです。「リベラルでない民主制は、民主制の否定であり、多かれ少なかれ独裁的性格を帯びる。民主制は人権の保障を本質とする。」という宮沢俊義の言葉はいまでも至言でしょう。一元的内在制約説が説く通り、人権を制約できるのは他人の人権だけであり、そこであえて義務を言うのであれば他人の人権を侵さない義務があるだけです。公共の福祉というのはそういうことなんです。幾多の艱難辛苦の結果、生み出された統治機構のバランスを無下に否定すべきではないと思います。
政治家でも官僚でも財界人でも何でもない普通の人がああいう勇ましい言説をネット上で支持するという現象も閉塞した時代だからこそなのかもしれない。けれどもそこから得られる物が何かあるとすれば、ただただ自分はシステムの側にたっているなどという気持ちの良い錯覚だけしかないですよ。