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2026年07月26日

リトルネロと暮らしの哲学



*〈自閉〉とは何を行なっているか

アメリカ精神医学会が刊行している『精神疾患の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :DSM』の最新版(DSM-V-TR)では「自閉スペクトラム症 Autism Spectrum Disorder:ASD」の診断基準となる行動上の特徴として「社会的コミュニケーションおよび対人的相互作用における持続的な欠陥」に加え「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」が記されています。ここでいう「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」とは具体的には⑴常同的、反復的な行動、対象の使用、発話、⑵同一性への固執、ルーティーンへのこだわり、儀式的な行動、⑶きわめて限定的で固定的な関心、⑷感覚刺激に対する過敏と鈍感、環境の感覚的側面に対する並外れた関心をいいます。

こうしたASDにおける行動上の特徴をめぐる従来の議論は、それは治療すべき症状であると否定的にみるにせよ、あるいは反対に、それは才能や美点であると肯定的にみるにせよ、いずれにしても、いわゆる「正常」と比べて何かが決定的に「欠けている」という意味での「異常」として捉える点では一致していると思われています。

これに対して小倉拓也氏は『〈自閉〉の哲学』(2026)において「主体」や「他者」といった特権的な中心を想定することのない主体の生成プロセスを〈自閉〉と呼び、こうした〈自閉〉についてそれが何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を哲学的に洞察していきます。つまり〈自閉〉における常同的、反復的行為には、それ自体は必ずしも欠如ではない「同じでいる力」「反復する力」があると同書は考えます。ここで同書の重要な参照項となるものが「リトルネロ ritournelle」と呼ばれる概念です。

「リトルネロ」とはいわゆる「ポスト構造主義」を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと「制度論的精神療法」の実践で知られる精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『千のプラトー』(1980年)の第11プラトーにおいて大々的に論じた概念です。「リトルネロ」とは本来は音楽用語であり、楽曲のなかの反復し、循環する部分を指すものですが、ドゥルーズ=ガタリは同書においてこれを哲学的な概念へと練成していきます。

『千のプラトー』においてドゥルーズ=ガタリはリトルネロを三つのアスペクトを有するものとして論じています。この三つのアスペクトを『〈自閉〉の哲学』はそれぞれ「T カオスのただなかで中心をつくり出すこと」「U その中心のまわりに輪を描き、限界づけられた空間を組織すること」「V 輪を開き、外に出て、それまでとは異なる運動や身振りや音に接続すること」であると説明します。注意すべきはドゥルーズ=ガタリがこれらは継起的な進展の関係にある三つの段階ではないと主張している点です。まず第一のアスペクトは次のような印象的な文章で描かれる場面です。

T 暗闇に子どもがひとり。恐くても、小声で歌を歌えば安心だ。子どもは歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに静けさをもたらすものだ。子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌そのものがすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスのなかに秩序をつくりはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険もある。

(『千のプラトー』より)


ここで問題になっているのは「カオス」のただなかにおいて、安定した空間の前ぶれとなるような、未だ脆く不確かな中心を作り出すための営みに他なりません。ここでいう「カオス」とは、「暗闇」の例からも分かるように、そこに呑み込まれてしまうようなノッペリとした未分化な深淵(差異の皆無)でもあり、あるいは逆に、まばたきするたびに転変していくような情報過多的、感覚過敏的な状況(差異の過剰)でもあります。こうした差異の皆無、あるいは差異の過剰も、一切がそこに溶け込んだり埋没したりするがゆえに、準拠も分化した方向もなく、自己を位置付けられないという点では同様の事態であるといえます。

そのなかでいつものあの歌を歌うこと、つまり常同的、反復的な行為は、溶け込んだり埋没したりすることのないある際立ちを作りだし、差異の皆無に対しては最小限の差異を、差異の過剰に対しては最小限の同一性を生み出します。こうした一時的な準拠ができ、方向が分化し始めることで、子どもはただ立ち尽くすだけでなく、手探りで歩き出したり立ち止まったりすることができるようになるということです。


* テリトリーを作り、外に出る

ここで述べられている幼い子どもとその歌はあくまでひとつの例であり、子どもであれ、大人であれ、さらにいえば動物であれ、常同的、反復的な行為こそが差異も同一性もないカオスに最小限の差異あるいは同一性を生じさせ、自己の構成を可能にするということです。しかし、ここで構成された自己はあくまでも一時的なものであり「歌には、いつ分解してしまうかもしれないという危険」もあります。このような原理的な一時性が仮に歌を止めてもその中であれば自己が持ちこたえられるような、一つの空間を組織化する第二のアスペクトを要請することになります。 
 
U いまや、反対に、我が家にいる。しかし、我が家はあらかじめ存在しない。脆く不確かな中心のまわりに輪を描き、限界づけられた空間を組織しなければならなかった。あらゆる種類の目印やマークなど、きわめて多様なたくさんの要素が関わってくる。(…)それら要素は、一時的に中心を定めるためのものではなく、ひとつの空間を組織するためのものである。こうして、カオスの力か可能なかぎり外部にとどめ置かれ、内部空間が、遂行すべき課題やなすべき仕事を生み出す力を保護するようになる。

(『千のプラトー』より)


ここでいう「我が家」とは馴染みのある場所という意味であり、ここで特権的に出される例は自分で歌う歌ではなく、テレビやラジオから流れる生活音です。これらの音は自分で歌う歌をいわば肩代わりしてくれるものであり、こうした音が流れる「我が家」の存在がカオスに抵抗するために割かなければならない力を、例えば勉強や創作といった別の営みに利用することを可能とします。

リトルネロはこの第二のアスペクトにおいて厳密な意味でのテリトリーを構築することになり、その中で自己はより明確なものとなります。そしてリトルネロの第三のアスペクトは我が家、すなわちテリトリーを前提にその外に出るということです。

V 最後に、輪を少し開き、解放し、誰かをなかに入れ、誰かに呼びかける。あるいは、自分自身が外に出ていき、駆け出す。輪が開かれるのは、カオスのかつての力が押し寄せてくる側にではなく、輪そのものによって作り出された別の領域のなかにである。あたかも輪が、みずからが保護した活動状態の力によって、自分自身を未来に開こうとしているかのように。(…)ささやかな歌に身をゆだね、我が家の外に出る。子どものいつもの道筋をしるしづける運動や身振りや音の線に、「放浪の線」が接ぎ木され、芽吹きはじめる。それまでとは異なるループ、結び目、速度、運動、身振り、音とともに。

(『千のプラトー』より)


リトルネロの第三のアスペクトは、このようにテリトリー化された力を元手にして、それとはまた別種の力、つまりテリトリーの外の感覚不可能だった力を新たに把握し、感覚可能にする「脱テリトリー化」を引き起こします。そしてドゥルーズ=ガタリはこのようなリトルネロの第三のアスペクトの特権的な形象をカオスに抵抗するささやかな歌でも、カオスを選別し力を蓄える我が家の音でもなく、感覚不可能な力を把握して感覚可能にする「芸術」、とりわけ「音楽」に見出していきます。


* リトルネロの脱〈自然〉化

では〈自閉〉における常同的、反復的行為はこうしたリトルネロにおける「テリトリー」を構築しうるものなのでしょうか。この点、ドゥルーズ=ガタリによればテリトリーとはコード化された環境における「機能」に還元されない脱コード化/再コード化としての「表現」と「所有」の発生により構築されると考えられています。例えば南米に生息するハバシニワシドリは美しい鳴き声で知られる鳥ですが、地面に落ちている葉を裏返すことで「ステージ」を設け、その上で歌うことでテリトリーを主張しますが、この時、地面に落ちている葉は単に地面に落ちている状態から引き離され、独自の質と表現性を持ち始め、固有性を示す事になります。

こうしたドゥルーズ=ガタリの「機能」「表現」「所有」をめぐる議論からすると〈自閉〉の常同的、反復的な行為はコード化された機能的な環境にあまりに密着しているがゆえに、自立した表現的な質を欠きテリトリーを構築し得ないということにないそうです。ですがその一方で〈自閉〉における常同的、反復的な行為は仮に機能からの離脱が不十分で表現的といえる質の発現に至らなくても、例えば「こだわり」というかたちでの「所有」性があればそれをテリトリーとみなすことができるとも考えられそうです。つまりここに「表現なき所有」によるテリトリーの可能性を見出すことができるということです。

リトルネロの三つのアスペクトとはカオスのただ中でのコード化された自然の回路からテリトリー化、脱テリトリー化を通した一連の離脱現象であり、ドゥルーズ=ガタリはこうした離脱現象を通して到達する芸術としての音楽をコード化された自然の回路とは別種の、音楽的に共鳴する大文字の〈自然〉のもとに理解しています。しかしそれは巧妙に隠されたドゥルーズ=ガタリの「正常」イデオロギーであるともいえるでしょう。

『〈自閉〉の哲学』において小倉氏はこれに異を唱え、リトルネロを脱〈自然〉化する理路を探っていきます。それは〈自然〉を最終目標とする機能からの離脱や表現的な質の発現なしに、その〈自然〉な進展なしに、非〈自然〉的な手段で「所有」を作りだす常同的、反復的な行為としてのリトルネロをテリトリーを構築し、自己を構成する営みとして肯定するものとなります。


* 移行対象と自閉対象

そこで同書はまずドゥルーズ=ガタリがこの文脈で言及する「移行対象 transitional object」と、自閉症に特徴的に見られる「自閉対象 autistic object」の差異に注目します。ここでいう移行対象とはドナルド・ウィニコットによる精神分析上の概念であり、幼児にとっての「最初の所有物」にして「内的現実と外的現実を分離しつつも相互に関係させておく」ことを可能にする対象を指しています。

その典型的な例が幼児が肌身離さず持っている毛布とかぬいぐるみですが、ウィニコットは幼児の喃語や子どもが寝ようとしている時に口ずさむ歌や曲のレパートリーも含めており、この意味で移行対象はリトルネロに近い現象だといえます(もっともドゥルーズ=ガタリは移行対象とテリトリー化の要因となる事物である「表現の質料」を区別しています)。

これに対して自閉対象とはイギリスの精神分析家フランセス・タスティンが概念化したものであり、移行対象と同じく幼児がそれによって安心を得る対象でですが、移行対象と異なり、自閉対象は現前と不在、自分と自分でないものといった「全か無か」の二者択一において、それらを媒介するのではなく、その一方である現前や自己に固執し、もう一方である不在や自分でないものをシャットアウトするバリアとして機能します。こうした自閉対象の典型例はミニカー、電車のおもちゃ、金属製の日用品などといった硬質でメカニカルな対象が好まれる傾向にあります。

そして同書は自閉症における自閉対象へのこだわりは内面的な自己同一性を確保することが困難な状況で外面的な安定性に頼って自己を確保しようとするものであり、そこにある種のテリトリーの構築と自己の構成を見出しています。一方でドゥルーズ=ガタリがこうした自閉対象に対するこだわりをテリトリーの構築と自己の構成として容認しないのはそれらはどうしようもなく機能的であり、表現的ではないからです。換言すればそれらがその暫定性と局所性ゆえに持続せずに消失せざるを得ないからです。

暗闇で歌を口ずさんでも、やがてその歌が止まれば、テリトリーと自己は消失してしまいます。それゆえにリトルネロにおいては第一アスペクトに続き第二アスペクトが要請されることになります。それゆえに〈自閉〉の哲学が考えなければならないのは暫定的で局所的なテリトリーと自己を恒常的で帯域的なものへ乗り越えるのではなく、暫定的で局所的なまま持続可能にする具体的な技法であるということです。


* 可能的なものの技法

長年、自閉症のこだわり行動について臨床と研究を行ってきた臨床心理士、白石雅一は定型発達のこだわりの対象を移行対象、自閉症のこだわりの対象を自閉対象と整理し、後者の様態を次のように整理しています。

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(小倉拓也『〈他者〉の哲学』より)

ここで小倉氏はA物に注目します。そこには「物:そのもの 存在 位置 形態 配置 配列 構造 描画」とあります。自閉症において具体的な対象はもちろんのこと空間内の事物の位置や配置が同一であることはよく知られており、ここでいう事物の位置、形態、配置、配列、構造という一連のこだわりの対象に注目すると、そこには単なる観念連合以上の必然性を持つ、ある種の「リズム rythme」を見出すことができます。

リズムとは一般的には音楽における時間や変化に関係した現象だと考えられていますが、フランスの言語学者エミール・パンヴェニストが語源学的な研究で明らかにしたようにリズムの語源である古代ギリシアの「リュトモス」は、音楽における時間や変化ではなく、絶えず流動する世界が瞬間の中で取る「形」、時間的というより空間的な形状や布置を示唆する語です。

そしてフランスの哲学者アンリ・マルディネはこうしたパンヴェニストの議論を踏まえ、リズムを自己がそこに飲み込まれ、失われてしまうような、目が眩むようなカオスのただ中に超越論的審級なしに「とどまり séjour」を生み出し、つまりは「滞在」を可能にするものとして論じています。そしてドゥルーズ=ガタリのリトルネロ論はこのマルディネの議論を応用したものですが、そもそもマルディネはリズムを「非音楽的な空間的なもの」として捉えていることは見過ごせないでしょう。

こうしたことから小倉氏は『〈自閉〉の哲学』においてASDに見られる事物の位置、形態、配置、配列、構造へのこだわりはこのような「非音楽的な空間的なもの」としてのリズムであり、世界のめくるめく転変、その感覚過敏的で情報過多的な状況のなかで「とどまり」を生み出し「滞在」を可能にする「非音楽的な建築術」であるとして、このような「非音楽的な建築術」を「可能的なものの技法」と呼び、その例を自閉症養育プログラムとして知られる「Treatment and Education of Autistic and related Communication-handicapped CHildren:TEACCH」における「構造化」の手法に見出していきます。

ここでいう「構造化」とは具体的にはASDの子どもたちの生活空間にパーティションなどを用いてセクションを設けることで、空間や時間をフレーミングする手法をいいます。ここでASDの子どもたちはいわば場所や時間と活動の1対1の対応をいわば「暗記して覚えられた」ものとして知覚や行動の暫定的で局所的な可能性を確保して行動を組織化していく事になります。


* リトルネロと暮らしの哲学

小倉氏はこうした環境調整と行動学習による療育と教育を志向するTEACCHと内面性ではなく外面的な行動の水準を一貫して強調する〈自閉〉の哲学に共通する部分は多いとする一方で〈自閉〉の哲学がこうした外面的な水準を強調するのは、あくまでそうした水準において形作られるものとして「自己」を、あるいは「心」を捉え直し、別のかたちで肯定するためだからであるといいます。

すなわち〈自閉〉の哲学が教えるのは世界とか自己と呼ばれるものは決して本来的、内面的なものではなく、常同的、反復的な行為をとおして形作られる非本来的、外面的なものの効果しかないかもしれないということです。そして、このような意味での〈自閉〉としてのリトルネロとはTEACCHのような臨床場面に限らず、もっと広く、我々の日常の至るところで何気なく用いられており、ここからある種の「暮らしの哲学」をひらくこともできるでしょう。

その一つのアイデアとしてここでは東洋医学の陰陽五行説における「養育」ならぬ「養生」の知恵をあげておきたいと思います。自然と生命の循環を読み解く陰陽五行説によれば、例えばいまの時期(大暑・桐始結花)は陽気が極まり、体内の「気」と「津液(水分)」が消耗しやすいとされます(気陰両虚)。それゆえにこの時期においては、こまめな水分補給と十分な休息を心がけ、胃腸を冷やしすぎない食事で「気」と「津液」を補い、過度な発汗や疲労を避けることが「養生」の基本とされます。

このような陰陽五行の「養生」とは季節の特性に応じて身体や暮らしのリズムを調律することで自然というカオスのただ中にテリトリーを構成していくという点で、同じでいる力、反復する力としてのリトルネロに通じているといえるでしょう。この意味でリトルネロとは、人が世界のカオスのなかに一時的なとどまりを築き、自己を保ち続ける普遍的な技法であり、陰陽五行説の養生もまた、季節の循環という自然の変化に応じて身体と暮らしのリズムを調律することによって、自然のただなかにテリトリーを築く営みとして、このリトルネロの系譜の中に位置づけられるでしょう。
















posted by かがみ at 23:00 | 精神分析