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2026年06月23日

セカイ系と文学の困難



* セカイ系とは何だったのか

ゼロ年代の文芸批評シーンを賑わしたキーワードとして「セカイ系」という言葉があります。ここでいう「セカイ系」とはライトノベルとその周辺の独特な想像力を形容するものとして、だいたい2003年ごろから使われるようになった言葉です。これはネットユーザーのあいだで自然発生的に生まれた言葉なので、確かな定義があるわけではないですが、一般的には主人公と(多くは)その恋愛相手とのあいだにおける「ぼくときみ」というべき小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力を意味すると理解されています。

このような構図は現代思想の世界でよく使われるラカン派精神分析の用語を借りていえば「想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」という表現でより一般的に定式化できます。ここでいう「想像界」とは恋人や家族など親密圏内部での幻想の世界を指し「象徴界」とは社会の公共的な約束事や常識をいい「現実界」とはそんな幻想も常識もともに壊すリアルなものです。

セカイ系の初期の代表作としては、高橋しん氏の漫画『最終兵器彼女』、新海誠氏のアニメ『ほしのこえ』、秋山瑞人氏のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』といった作品がよく挙げられます。このようなセカイ系の想像力はゼロ年代の半ばには若者向け小説市場全体に波及し、多くの作品にその特徴が認められるようになります。例えばゼロ代を代表するライトノベルの一つである谷川流氏の〈涼宮ハルヒの憂鬱〉シリーズも、しばしセカイ系に分類されることがあります。

そしてそのようなセカイ系の評価をめぐっては評論家のあいだでも賛否両論、様々な議論がありました。そもそも、この「セカイ系」という言葉自体に「セカイ系の作品は、物語内で世界の危機を描いているようでいて、実際はなんのリアリティもない子どもっぽい設定しか導入していない、それらの作品が描いているのは「世界」ではなく「セカイ」にすぎないのだ」といった揶揄が込められています。つまりセカイ系は売れているわりに必ずしも評判が良くなかったということです。

セカイ系と呼ばれる作品は視点人物のまわりの小さな日常と世界や死をめぐる抽象的な観念ばかりを描き、そのどちらでもない複雑な社会的現実をほとんど描写しません。というより、そこではそんな描写はそもそも必要だと考えられていません。「世界の危機」「この世の終わり」といった構図だけが重要で、それが具体的にどのような事態なのかといった細部の設定は驚くほどなおざりにされています。ではなぜこのようなものがゼロ年代の文芸批評シーンにおいて注目されたのでしょうか。改めてセカイ系とは何だったのでしょうか。


* 虚構と現実の断絶と再縫合

この点『動物化するポストモダン』(2001)や『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)といった著作でゼロ年代批評をリードした批評家の東浩紀氏はゼロ年代におけるこうしたセカイ系的な想像力の台頭には『大きな物語の消尽』『データベース消費』『まんが・アニメ的リアリズム』といった術語で言い表されるポストモダン的な諸々の条件が反映されているという議論を展開しました。つまり、そこで問題とされているのは文学やサブカルチャーにおける一時的な流行ではなく、数十年単位で生じている大きな社会的な変化であるということです。

こうした問題意識から氏は『セカイからもっと近くに』(2013)という文芸評論集において文学やサブカルチャーにおいて「社会を描けない」「社会を描かなくていい」「社会を描く気になれない」という問題を「セカイ系の困難」と呼び、こうした問題は文学やサブカルチャーの領域を超えて、今では日本文化全体に拡がっているといいます。 

「文芸評論という、いまや古びたあまり見向きのされないジャンルがあります。本書はそのジャンルに属する本です」という書き出しで始まる同書の主題は現代において「想像力と現実が関係を持つことのむずかしさ」です。ここでいう想像力を代表する文学はかつて、現実で生きる人々の喜びや苦しみを汲み取り、芸術表現に昇華するという役割を担っており、文学こそが社会改革の原動力になると信じた人々も少なくありませんでした。つまりかつては想像力と現実はきちんと接続されていた(と信じられていた)ということです。

ところが現代日本ではその理想に反して、大衆に支持される創作物は現実の政治的葛藤や社会問題をほとんど反映しておらず、想像力と現実が切り離された時代であり、いまや文学が社会に与える影響はかつてなく小さく、逆に社会が文学に与える影響もかつてなく小さいと同書はいいます(急いで付け加えるとすれば、ここで指摘されているのは、現代の文学が社会問題にまったく向き合っていないとかではなく、あくまで文学をはじめとする創作物がもっぱらエンタメとして消費されてしまう現代の大きな傾向のことだと思います)。

そして同書は以上のような状況認識のもとで、それでも虚構と現実を、あるいは文学と社会を、それぞれの方法で再縫合しようと試みて「しまっている」作家の主要作品の読解を試みます。試みて「しまっている」とは、作家が必ずしもその再縫合の試みを自覚していないことを意味しています。つまり、彼ら彼女らはその作品を虚構として完成させようと試みているにもかかわらず、その作品は虚構としての完成からどうしようもなくずれていってしまい、いつのまにか現実の痕跡が招き入れられているということです。このずれの構造こそが同書が読解を試みる当のものです。

その意味で同書は「普通の」文芸評論ではないと氏は述べます。想像力と現実の結びつきを前提とした「普通の」文芸評論は想像力と現実が結びつかない以上、本来成立しないものですが、同書は「想像力と現実が結びつかない、その現実を想像力の分析を通して浮かびあがらせよう」とする文芸評論であり「文芸評論の不可能性について文芸評論の手法で論じようとしている、かなりねじまがった本」であるということです。


* セカイ系の起源と剰余

こうした観点から同書が取り上げる最初の作家が新井素子氏です。新井氏は1977年に高校生でデビューし、1980年代の半ばに至るまで若い読者に圧倒的な人気を誇り、SF史とライトノベル史に大きな足跡を残した作家として知られています。1990年代以降の活躍は相対的に目立ちませんが、文芸評論家の大塚英志氏による言及がきっかけでキャラクター小説の文法を確立した作家として批評的な注目を浴びています。

新井氏の作品はラカンのいう想像界と現実界が短絡しているように見えるため、しばしセカイ系の起源として挙げられます。例えば1981年刊行の『ひとめあなたに…』にという小説のあらすじは次のようなものです。

主人公である女子大生の山村圭子には森田朗という彫刻家志望の恋人がいますが、朗はある日がんの告知を受けます。もはや余命は幾許もなく、助かったとしても右手切断を免れないという状況で希望を失った朗は圭子に別れ話を持ち出します。混乱した圭子はやけ酒を浴び一夜を過ごしますが、その夜に唐突に地球はあと1週間で巨大な隕石が衝突し、人類は全員滅びるというニュースがもたらされることになります。

圭子はこのニュースをきっかけに自分を取り戻し、もう一度朗に会おうと決意し、世界の破滅を前にした混乱のなか、最初は徒歩で、途中からはバイクに乗って練馬から鎌倉に向かい、果たして浜辺で朗と再会し、2人は愛の言葉を交わし、波の音を聞きながら世界が破滅する時を待ちます。しかしその一方で巨大隕石の詳細は全く明かされず、それが引き起こす社会の混乱もほとんど描写されません。

このように同作は「隕石の衝突」という非社会的な設定(現実界)を、社会の描写(象徴界)をなおざりにして、ただひたすらに圭子と朗の恋愛(想像界)を描くための舞台装置として利用している小説であり、ここにはセカイ系における想像界と現実界の短絡という構図がはっきりと見て取れます。しかし同時にこの作品はこのようなセカイ系的構図から大きく逸脱する剰余を抱えています。


* 社会から家族へ

実は圭子は練馬から鎌倉に向かう途中で由利子、真里、智子、恭子という4人の女性ないし少女に順々に(厳密に言えば恭子の場合はその夫の語りを通して)出会っています。この4人はいずれも表面的には幸福な日常を送っていましたが、世界の破滅を前にしてその基盤の脆弱さが暴かれ(例えば夫の浮気が明らかになるなど)、精神の均衡を失ってしまっています。

つまり、この小説には圭子と朗の恋愛譚とは別に4人の女性ないし少女との出会いが含まれており、圭子は彼女たちの出会いを通じて成長し、恋人と再会を果たすことになります。新井氏自身は同作をあくまで圭子と朗の恋愛譚として描きますが、実際の描写の力点は分量的にも内容的にも明らかに圭子と朗の恋愛より4人との出会いの方に傾いています。

つまりこの小説はセカイ系的な恋愛譚を描こうとしたにもかかわらず、実際のところその大半はセカイに辿り着くまでの話に費やされているということです。ここには明らかにセカイ系の困難(社会を描けない/描かない/描きたくない)に対する作家の無意識的な抵抗(にもかかわらず完全に書かないわけにはいかない)の力学が作用しています。

そして、この4人の物語に共通するのは「崩壊する家族」というモチーフです。同作において世界の破滅(現実界)と小さな恋愛(想像界)は単純に短絡することはなく、両者は家族とその崩壊というモチーフを通じて結び付けられています。さらに同作に限らず新井の小説には家族のモチーフが頻繁に登場します。

このように新井氏はセカイ系の先駆者でありながら、同時に家族というモチーフを執拗に描き続けた作家でもありました。つまり氏は象徴界が抜け落ち、もはや社会をきちん描くことができないという感覚を、のちのセカイ系のように想像界と現実界との短絡で処理するのではなく、家族的想像力によって埋め合わせているということです。それこそが新井素子という作家がセカイ系の困難に対して与えた答えであると東氏は述べています。


* セカイ系と文学の困難

さらに新井氏の中でこの家族的想像力は「拡張された家族」として現れます。1983に公刊された『・・・絶句』という小説では「新井素子」という名の大学2年生の主人公が自宅で小説を書いていると突然、素子が今まさに書き記していた小説の登場人物たちが室内に現れるところから始まります。この小説でも想像力の基本的な軸は象徴界の欠如を「家族」で埋めるという構図で作られていますが、同作における「家族」とは物語から独立したメタ物語的性格を持つ「キャラクター」の集合体(東氏のいうデータベース)として描かれています。

このように新井氏はセカイ系の起源とされる作家でありつつも、セカイ系の困難(社会を描けない/描かない/描きたくない)という虚構と現実の断絶を社会の代わりに「拡張された家族」を描くことで抗おうとした作家であるといえます。ところがゼロ年代におけるセカイ系になるとこうした虚構と現実の断絶に対してもはや何らかの抵抗を試みるのではなく、むしろ両者の断絶という現実それ自体が想像界と現実界の短絡という構図としてあからさまに描かれてしまうことになります。

しかしながら、まさにこの地点にこそゼロ年代におけるセカイ系の革新性を逆説的に見出すことができるでしょう。すなわち、その革新性とは虚構と現実の断絶という現代における文学の困難を想像界と現実界の短絡というアクロバティックな回路を経由することで曲がりなりにもひとつの文学ジャンルへと昇華した点にあるということです。そうであれば、ここからセカイ系の困難としていまや織り込み済みの前提となった文学の困難という問題をいかに深めるか、もしくはいかに乗り越えるか、あるいはいかにやり過ごすかというある種の「ポスト・セカイ系」という批評的観点から現代におけるさまざまな想像力を読み解いていくこともできるのではないでしょうか。






















posted by かがみ at 00:18 | 精神分析