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2026年05月22日
オイディプスと格差社会
* 68年5月とアンチ・オイディプス
1960年代、フランス現代思想のモードは「実存主義」から「構造主義」へと変遷します。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は、人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しました。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義は、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事実を暴き出しました。
1960年代中盤、構造主義の栄華は頂点に達します。多くの知識人や文化人は自らを構造主義者であるとして、中には構造主義的再編でチームの成績向上を図るなどと言いだすサッカーの監督もいたそうです。ところが1960年代後半になると構造主義は早くもその栄華に陰りを見せ始めます。こうした流れを決定的なものにした出来事が1968年に起きた「パリ5月革命」です。
「68年5月」において学生たちが異議を申し立てたのは「Egalité! Liberté! Sexualité!(平等!自由!セクシュアリティ!)」というスローガンが端的に示すように、大学や社会が押し付ける旧態依然とした父権主義的な「構造」に対してでした。ここで構造主義は「構造は街頭に繰り出さない」などとラディカルに批判されることになります。
そしてこの「68年5月」を駆動させた人々の「欲望」を原理的に考察することで構造主義を超出する新たな思想を提示したのがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)です。同書は発売されるや否や若年層を中心に熱狂的に歓迎され、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。こうして「ポスト・構造主義」の時代が幕を開けることになります。
* 欲望諸機械とは何か
同書は端的にいえば「欲望」を起点とする主体と社会の変革の哲学を提示するものであり、その基本的なテーゼは「世界のすべては欲望のフローから構成されている」というものです。ここでドゥルーズ=ガタリは「欲望」を自然、生命、身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な「機械 machine」に宿る非人称的な力の作用として捉えており、こうした機械の接続を「欲望諸機械」と呼びます。
すなわち、同書は構造主義的な差異の体系としての「構造 structure」とその偶然的変動としての「出来事 événement」ではなく「機械」による欲望的生産の絶えざる変容の「過程 processus」を重視しているということです。そして、こうした欲望的生産の過程とは機械と機械を接続し切断する欲望のフローの過程であり、それは社会の絶えざる変容の過程でもあります。このような欲望的生産をドゥルーズ=ガタリは「生産の生産」「登録の生産」「消費の生産」から論じ、欲望諸機械の特性を次の三つに分けています。
第一に「接続的総合(生産の生産)」という特性です。機械は諸々の物質的フローに接続し、そのフローを切断して採取します。「例えば口機械は母乳機械に接続され、そこからミルクのフローを切り取り、採取」します。さらにこうした機械が接続する諸々の物質的なフローそのものもまた、別の機械によって生産される以上、機械とフローの接続は機械同士の接続ということになります。また機械と機械の接続は必ず新たなフローを生産しますが、それは第三の機械に接続され採取されることになります。こうした欲望諸機械相互の接続が欲望の生産性そのものを生産します。これが「接続的総合(生産の生産)」という欲望諸機械の根源的条件です。
第二に「離接的総合(登録の生産)」という特性です。あらゆる機械はその中に一種のコードを組み込んでおり、そのコードは極めて多様な断片を保持しています。そして、それらの断片はコードから自由に離脱してそれぞれ他の機械に接続され、そこからコードの剰余価値を引き出します。その例としてドゥルーズ=ガタリはスズメバチと蘭の間のコードの接続と、それによるコードの剰余価値の生産を挙げています。蘭はスズメバチが花粉を雌しべから雄しべへと運搬することなしには自らの再生産を行うことができません。それゆえに蘭はスズメバチの生殖器を真似てスズメバチのイマージュとなり、スズメバチのコードと接続され、そこから受粉と再生産というコードの剰余価値を生産することになります。
こうした多様なコードが登録される登録平面ないし内在平面の役割を果たすのが「器官なき身体 corps sans organes」です。ここでいう「器官なき身体」とは欲望諸機械の流れが登録されるゼロ強度の「欲望の不動の動者」であり、同時にその流れを引き留め、反発し、組織化しようとする抵抗面でもあります。そして、このような多様なコードとそれらの接続から生まれるものが多様体としての主体です。
ここから「連接的総合(消費の生産)」という第三の特性が導き出されることになります。ドゥルーズ=ガタリにおいて主体とは欲望諸機械が欲望のフローを採取、消費することによってその傍らに残余として生産されるものであり、その意味において主体とは意識によって中心化された人称的主体ではなく、無意識において諸特異性から構成され、生成変化を繰り返す脱中心化された非人称的主体であるということです。
* オイディプスと社会的生産
このように欲望諸機械は常に生産の働きを止めず、相互に接続を繰り返して、非人称的諸特異性から構成された生成変化の主体を生産します。こうした意味で「欲望はその本質において革命的」なのであり、欲望的生産は潜在的に社会を破壊するような強度的力能を持っています。
しかしドゥルーズ=ガタリによれば資本主義下における「オイディプス化」がそのような徹底した生産性を抑圧します。ここでいう「オイディプス化」とは多様な欲望の流れを父・母・子という家族三角形に縮減することで、欲望の多様性を抑圧し、自己同一性自我の形成を促す操作をいいます。
この点、ドゥルーズ=ガタリは社会的「抑制」と心的「抑圧」を区別します。社会的「抑制」は権力諸装置による作用であり、権力に従順な主体を形成して社会構成体の権力関係や抑制的構造を再生産します。そして社会的「抑制」はその道具として心的「抑圧」を、すなわち「オイディプス化」を必要とします。
つまり欲望的生産は社会的生産と表裏一体であり、社会的生産は欲望的生産に働きかけて欲望的生産が自ら「抑制=抑圧」を欲望するような体制を作りあげていきます。こうしたことからドゥルーズ=ガタリは「社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も、欲望によって生産され、欲望から出現する組織において生産される。この組織がどのような条件において出現するかを、まさに私たちは分析しなければならないだろう」と述べています。
それゆえにドゥルーズ=ガタリは政治哲学の根本問題として「人々はなぜ、あたかもそれが自らの救済であるかのように、自らの隷属を求めて闘うのか」「人々はなぜ、より多くの課税を、より少ないパンを、と叫ぶのか」「人々はなぜ数世紀もの間、搾取、屈辱、奴隷状態に耐え、それらを他人だけでなく自分自身にも望んできたのか」という問いを提示します。
この問いはかつてスピノザが『神学政治論』で提出した問いであり、ウィルヘルム・ライヒがそれを大衆のファシズムへの欲望という形で再発見した問いでもあります。「権力への服従化」の社会的生産とは「権力への服従化の欲望」の社会的生産に他なりません。そしてオイディプス的家族はそのような「権力への服従化の欲望」を生産する社会秩序の縮図であるということです。
* オイディプスと服従集団
こうしたことからドゥルーズ=ガタリはオイディプスが欲望的生産に対して心的抑圧を課し、権力への服従化の欲望を生産する過程を次のように説明します。第一に接続的総合のオイディプス化です。接続的総合は欲望諸機械が横断的に互いに接続と切断を繰り返す過程からなるのでした。
彼らはこの過程を接続的総合の「部分的、非特殊的使用」と名付けていますが、この過程がオイディプス化によって「包括的、特殊的使用」へと包摂されます。この接続的総合の「包括的、特殊的使用」によって子供は近親相姦の禁止を通じて同性の親に同一化(オイディプス化)し、さらに自らが親となる異性愛的な婚姻関係においてオイディプスを再生産することになります。
第二に離接的総合のオイディプス化です。欲望諸機械はそれぞれが独自のコードを内包し、そのコードは多様であり、常に断片化されて他のコードと接続され、そこからコードの剰余価値を生み出し得ます。しかしオイディプス化はそのようなコードの多様性を抑圧し、父・母・子という家族三角形に縮減します。
第三に連接的総合のオイディプス化です。欲望諸機械はそれらが接続され、諸々のフローを消費することによって、その傍らに常に変容を続ける非人称的主体を生産します。ドゥルーズ=ガタリはこのような変容の主体の生産を連接的総合の「遊牧的、多義的使用」と名付けています。しかしオイディプス化によってそれは「隔離的、一対一対応的使用」に変容されます。
彼らのいう「隔離的、一対一対応的使用」とは社会野の規定と家族的規定との間に「一対一対応」の関係を形成し、その一対一対応に基づいて欲望的生産にオイディプス関係を写像して、欲望的生産の多様性を抑圧するものであり、それによって諸特異性からなり絶えず変容を繰り返す非人称的主体はオイディプス化された人称的主体へと個体化されることになります。
さらにオイディプス化は人種、国家、宗教といったある一つの超越的シニフィアンの下に統合された「集団」へと諸主体を同一化させることで「服従集団」の形成を導きもします。ここでいう「服従集団」とは「主体集団」に対立する概念であり、いずれもガタリが『精神分析と横断性』(1972)において導入した概念です。そしてドゥルーズ=ガタリは「服従集団」と「主体集団」を集団幻想との関係において定義しており、このような集団幻想としてのオイディプスこそが服従集団の形成に本質的な役割を果たしているということです。
* 資本主義と家族
以上のように欲望諸機械の徹底した生産性は反生産をもたらすオイディプスによって抑制=抑圧され、諸個人は服従集団へと全体化されることになります。そしてドゥルーズ=ガタリはオイディプス化を資本主義体制に固有の抑圧装置であると考えます。彼らによれば資本主義は「貨幣-資本」という形を取る生産のフローと「自由な労働者」という形を取る労働のフローとの出会いによって発生します。つまり資本主義は前資本主義におけるコード化や超コード化に代わる脱コード化の運動によって定義されることになります。
資本主義はこのようにフローの脱コード化という絶対的極限へと向かう分裂症的運動によって定義されます。しかし、その一方で資本主義は自らが解放したフローを公理系によって抑制し、内在的な相対的極限へと閉じ込めます。つまり国家とはこのような資本の公理系に要請されて脱コード化した諸々のフローを調整する装置に他なりません。こうした国家の役割は社会主義国家でも福祉国家でもさらには新自由主義国家においても同様に要請されることになります。
そして資本主義によって社会体が「貨幣-資本」として純粋に経済的なもの、抽象的なものとなることによって、家族は社会の外に置かれることになります。ドゥルーズ=ガタリはこれを家族の「私域化 privatisation」と呼びます。こうして家族が社会の外に置かれることで資本主義の公理系によって生み出された個人の社会的イメージ(言表の主体)はオイディプス化によって私的=家族的イメージ(言表行為の主体)へと「写像」されることになります。
このようなオイディプス化された主体の形成により、言表の主体(意識の主体)である社会的自我が言表行為(無意識の主体)である超越論的自我によって統御されるミシェル・フーコーのいうところの「経験的-超越論的二重体」としての「人間」が成立することになります。この経験的-超越論的二重体は権力に従順な仕方で自己を統治する服従化された主体そのものであり、そうした主体は欲望の生産性を自ら心的に抑圧することによって社会的抑制のメカニズムに自ら服従することを欲望します。この意味でオイディプス化は社会的統治のメカニズムであり、服従化の、そして服従集団の形成メカニズムであるといえます。
このようにオイディプス化は資本主義社会の再生産を欲望の水準において確保する、社会的統治のメカニズムであるといえます。しかしドゥルーズ=ガタリによればオイディプス化された主体が欲望の分子状多様体へと変容し、ヒエラルキー的な「服従集団」が横断的な「主体集団」へと変容するとき、資本主義はその下部から掘り崩されるといいます。そしてそのような変容は資本主義社会の再生産の「因果性の破断」、すなわち利害の水準における革命を通じて実現されることになります。
この点、革命的ポテンシャルをプロレタリアートに求める『アンチ・オイディプス』では服従集団から主体集団への変容はブルジョワジーに対するプロレタリアートの階級利害の追求を通じて実現されるということになります。こうした意味で服従化された諸主体としてのプロレタリアートは階級としての利害追求という革命的契機、いわゆる「レーニン的切断」によって、それまで社会体に服従させられていた欲望の生産的力能を発見します。
しかし同時にプロレタリアートが階級利害の追求に留まる限り、資本主義的利害に従属した服従集団から脱することはありません。けれどもプロレタリアートが階級利害の追求から欲望的生産を解き放つ「切断の切断」によって階級外集団である分裂者の主体集団を形成するとき、資本主義はその下部から掘り崩されることになります。
* オイディプスと格差社会
では、このようにドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で提示した「利害から欲望へ」という政治プログラムは現代においてはいかなる局面で発動するのでしょうか。例えばドゥルーズ=ガタリの著作を「切断の哲学」という観点から論じた佐藤嘉幸氏と廣瀬純氏の共著『三つの革命−−ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(2017)はこうした階級の二極化(新たな階級の構成)を、2000年代以降の日本におけるプレカリアート運動の中に見出しています。
小泉政権の新自由主義改革の一環として雇用規制緩和が急速かつ強力に推し進められる中で、2000年代中頃に非正規雇用労働者の労組が複数創設されるなど日本でも本格化したプレカリアートの運動は、世界的経済危機が始まった2008年に「反貧困」の旗印の下で一気に可視性を獲得することになります。さらに2010年代になってアベノミクスが開始されると彼らは「反貧困」に変わる新たなスローガンとして「反富裕」を掲げるようになります。
この点「反貧困」がプレカリアート運動を「利害の水準」で規定するものだったとすれば「反富裕」は同じ運動を「欲望の水準」で規定し直すものであったといえます。今日の日本のプレカリアート運動において「反富裕」は互いに対立する二つの異なる意味を付与されています。一方は運動を「反貧困」と連続させ、他方は運動を「反貧困」から切断し、一方は労働者階級に敵対する新たな階級(プレカリアート)として割って出るアンダークラスの階級利害を強調し、他方はプレカリアートからさらに分裂者が階級外主体集団として割って出る欲望を表現します。
すなわち「反富裕」とは第一に貧者の富を収奪する富者への敵対を意味します。ここでいう「富者」とはブルジョワジーだけではなく、ブルジョワジーとの個別的な労働力の売買が従来通り等価交換にとどまっているタイプの労働者(主として正規雇用労働者)も含まれます。こうした今日的「富裕」に反対することが「反富裕」の第一の意味であり、これは「反貧困」のうちに既にそのネガとして含意されるものでした。
しかし「反富裕」はまた、労働者階級からプレカリアートが割って出る敵対的切断としての「反貧困」のさらなる切断(切断の切断)という意味でも語られます。常にいっそう豊かになりたい、常にいっそう富を蓄積したいというのは畢竟「欲望」の問題であって、その当人が富者であるか貧者であるは関係がありません。そして資本主義はこの欲望(オイディプス化)を社会的に生産し、家族や学校、マスメディア、ソーシャルメディアなどの装置を通じて一人ひとりの個人に刻みつけます。
「反富裕」の第二の意味はここから生じることになります。それはすなわち「反貧困」においてはまだ温存されていたオイディプス化との決別に他なりません。換言すればプレカリアート運動とは文字通りの「アンチ・オイディプス」として「反富裕」から資本主義をその下部から掘り崩していく創造的過程であるともいえるでしょう。こうした観点からいえばドゥルーズ=ガタリが提示した「切断の哲学」は様々な文脈において格差が拡大しつつある今日の社会における人々の欲望を問い直すための処方箋としても読めるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 22:55
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