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2026年04月25日
リゾームとリトルネロ、あるいは〈自閉〉から世界制作へ
* ハイモダニティとしての現代社会
現代はしばしポストモダンの時代であると呼ばれます。ここでいう「ポストモダン postmoderne」とはフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』(1979)において提示した近代以降の時代を形容する概念です。それによれば近代とは「大きな物語 grand récit」によって意味と方向を与えられていた時代であり、ポストモダンはそうした「大きな物語」の終焉によって特徴づけられます。この概念をリオタール自身は近代の科学的知の正当化と、その基礎や準拠をめぐる議論のなかで用いていましたが、その後、この概念はリオタール自身の意図からある程度独立して近代から区別されるものとしての現代社会のあり方を表現するものとして広く用いられるようになります。
ここでいう「大きな物語」とは例えば、人間が知や啓蒙によって無知や隷属から解放されるという理念や、歴史が必然的に進歩するといった包括的な物語のことをいいます。こうした物語は科学を含む人間のさまざまな営みの正当化の基礎や準拠となり、それらに意味や方向を与えてきました。すなわち「大きな物語」の終焉であるポストモダンは、人間のさまざまな営みから安定した基礎や準拠が、そして統一的な意味や方向が失われる状況を意味しています。
これに対してイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは現代社会の様態を近代における世界像の変化のさらなる徹底と浸透を意味する「ハイモダニティ highmodernity」という概念から把握しています。ギデンズによれば近代以前では人々の営みやアイデンティティは彼らの所属する共同体やその伝統といったローカルで具体的な制度に枠付けられていましたが、近代はこうしたローカルで具体的な制度が諸々のグローバルな「抽象的システム」に変化していくことになります。
ここでいう「抽象的システム」とは特定に時間と場所を超えて流通し、利用、参照されるシステムであり、ギデンズはその例としてさまざまな物の交換を可能にする貨幣のような媒体や専門的な知識やサービスを挙げています。こうした「抽象的システム」のさらなる徹底と浸透した世界のあり方、自己のあり方を形容するのが「ハイモダニティ」です。つまりリオタールのいう「ポストモダン」が近代と現代との間にある種の断絶を見出す概念であるとすれば、ギデンズのいう「ハイモダニティ」は近代と現代を連続的に捉える概念であるといえるでしょう。
そして、こうした「ハイモダニティ」の中核に見出されるメカニズムが「再帰性 reflexivity」と呼ばれるものです。再帰性とは制度であれ人間であれ、自らのあり方を何らかの情報に照らして省りみることをいいます。近代以前には、その参照先は共同体やその伝統であり、これらの制度は当の制度自体に対しても人間に対しても、相対的に変化せず安定したものでしたが「ハイモダニティ」における参照先である「抽象的システム」は高度に専門化され絶えず更新され変動するようになります。
その結果、個人は自らのあり方を省みる上で、多様化を続ける情報を絶えず追跡、選択、フィードバックして、それに対する不断のモニタリングと修正が必要となります。しかも、その試みは当のその試みそのものによっても変化していく情報をさらに考慮に入れなければならず、こうなるともはや把握も統御も困難であり、定まった正解もゴールもないといった状態に陥ります。こうして「ハイモダニティ」における再帰性は個人に方向感覚の喪失をもたらすことになります。
* 存在論的安心と存在論的不安
ギデンズはこうしたハイモダニティにおける世界と自己のあり方を精神分析理論を援用し「存在論的安心 ontological security」と「存在論的不安 ontological enxiety」という観点から論じています。まずギデンズは『近代とはいかなる時代か?』(1990)において「存在論的安心」を「人間が自己アイデンティティの連続性に関して、そして行動の社会的および物質的な周囲環境の恒常性に関して持っている確信」と定義します。
我々は普段、自分の心臓が次の瞬間に鼓動を停止するのではないかとは通常考えません。いま歩いている地面が次の一歩で崩落するのではないかとも普通は考えないでしょう。 目を離して視界から消えた対象は、消滅するわけではなく、再び目を向ければそこにあると思っているし、眠るなどして意識が途切れても、自分というものが消えてなくなるわけではないと思っています。
そうした停止、崩落、消滅の可能性は絶対にないわけではなく、むしろ常にその可能性はあるのですが、そんなことをいちいち考慮していたら日々の生活は成り立たないでしょう。つまり、我々の日常が成り立つには自己の連続性と世界の恒常性はあらゆる検証に先立ってまず信じられていなければならないということです。この連続性や恒常性への意識されざる信頼や確信といったものがギデンズのいう「存在論的安心」です。
このように「存在論的安心」はそれを直視したなら日常が破綻しかねないような停止、崩落、消滅などの可能性を「括弧にくくる」こと、あるいはフィルタリングすることを可能にします。そしてギデンズはアメリカの精神分析家エリク・エリクソンの議論に基づいて、こうした「存在論的安心」の源泉を幼児期に母子関係を通して育まれた「基本的信頼 basic trust」に求めています。
エリクソンは『幼児期と社会』(1950)において人間の発達段階の最初期に達成され、アイデンティティの基礎となるものを「基本的信頼」として定式化しています。それは、幼児のさまざまな要求に、その庇護者たる母親が応答すること(世話を行うこと)を通して確立される信頼であり、こうした「基本的信頼」によって幼児は母親がいないときでも母が戻ってくると信じて耐えることが可能となります。いわば幼児は母が「見えなくても、離れていても大丈夫」というかたちで自己の連続性と世界の恒常性が信じられるようになるということです。
ギデンズはまた、イギリスの精神分析家ドナルド・ウィニコットが、やはり幼児期の母子関係のなかで切り開かれると考えられる「潜在空間 potential space」という概念を援用しています。ウィニコットが『遊ぶことと現実』(1971)で「潜在空間」と呼ぶものは幼児が母から分離するという外傷的で破滅的になりうる出来事に際して、現前と不在のあいだのある種の「緩衝帯」の役割を担い、それらを両立させ、なだらかに移行させる中間領域のことです。こうした「潜在空間」は「基本的信頼」を背景に機能するものであり「いま-ここ」という時-空間にないものを潜在的に携えておく力を育んでいきます。
これに対して「存在論的不安」とは、こうした「存在論的安心」における自己の連続性や世界の恒常性を信じることが困難な事態に他なりません。ギデンズは『モダニティと自己アイデンティティ』(1991)においてスコットランドの精神科医R・D・レインが報告する「根本的な存在論的不安の観点からのみ生じると示唆されるであろう不安や危険」を参照し、そのような不安や危険においては、自己の来歴の継続性についての一貫性の感覚の欠如や実存の危機の懸念への強迫的な固執などが見られるといいます。
そしてギデンズはこうした「存在論的不安」が今や病理や障害に限らず、ハイモダニティとその再帰性ゆえに今や多くの人々が「存在論的不安」を生きつつあるという可能性を示唆しています。ギデンズにおいてその可能性を示唆するのが日常的な習慣としてのルーティーンをめぐる議論です。ここでギデンズはその再帰性の中で「存在論的安心」が当然の前提ではなくなり「存在論的不安」が前景化してくるハイモダニティにおいて「存在論的安心」を維持していくものとしてルーティーンを位置付けています。
*〈自閉〉とリトルネロ
これに対して、小倉拓也氏は『〈自閉〉の哲学』(2026)において「存在論的安心なきルーティーン」から〈自閉〉という概念を問い直します。ここでいう〈自閉 Autismus〉とはかつては統合失調症に顕著な外界から内界への撤退を指す言葉でしたが、その後、それからは区別される症候群を指すものとなり、近年では「発達障害」の社会的な前景化、とりわけ「自閉症 autism」への注目をもとに哲学、とりわけ現代思想において大きな関心を集めています。
アメリカ精神医学会が刊行している『精神疾患の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :DSM』の最新版(DSM-V-TR)では「自閉スペクトラム症 Autism Spectrum Disorder:ASD」の診断基準となる行動上の特徴として「社会的コミュニケーションおよび対人的相互作用における持続的な欠陥」に加え「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」が記されています。ここでいう「限定的で反復的な行動、関心、活動のパターン」とは具体的には⑴常同的、反復的な行動、対象の使用、発話、⑵同一性への固執、ルーティーンへのこだわり、儀式的な行動、⑶きわめて限定的で固定的な関心、⑷感覚刺激に対する過敏と鈍感、環境の感覚的側面に対する並外れた関心です。
こうした〈自閉〉における行動上の特徴をめぐる従来の議論は、それは治療すべき症状であると否定的にみるにせよ、あるいは反対に、それは才能や美点であると肯定的にみるにせよ、いずれにしても、いわゆる「正常」と比べて何かが決定的に「欠けている」という意味での「異常」として捉える点では一致していると思われます。これに対して同書は〈自閉〉についてそれが何が「欠けているか」ではなく、何を「行なっているか」を哲学的に洞察していきます。つまり〈自閉〉における常同的、反復的行為には、それ自体は必ずしも欠如ではない「同じでいる力」「反復する力」があると同書は考えます。
ここで同書の重要な参照項となるものがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリがその共著『千のプラトー』(1980)において提示した「リトルネロ ritournelle」と呼ばれる哲学概念です。「リトルネロ」とは本来は音楽用語であり、楽曲のなかの反復し、循環する部分を指すものですが、ドゥルーズとガタリはこれを独自の哲学的な概念へと練成していきます。
ドゥルーズとガタリは前後左右不覚でただ立ち尽くすしかない「カオス」と呼ばれる状況において我々が自己を確保し、歩き出したり、立ち止まったりすることができるのは、あらかじめ備わった一貫した主体性によってではなく、暫定的で局所的なテリトリーを構築しようとする常同的、反復的行為を通してであると考えます。
こうしたリトルネロという観点からいえば、哲学や精神分析において「主体」とか「他者」などと呼ばれる超越論的審級は本来的なものではなく、むしろ常同的、反復的な行為の効果として、それが構築するテリトリーとともに形成されるものであるということです。このことは本来的でそれゆえに内面的とされる秩序やその中心が、実は非本来的でそれゆえ外面的な水準においてその都度形作られることを示唆しています。
すなわち、同書の問う「存在論的安心なきルーティーン」としての〈自閉〉とは、同書が〈現前〉と呼ぶ世界が自己にあらわとなり自己が世界にさらされる無媒介的かつ情報過多的かつ感覚過敏的な状況において、本来的にインストールされているべき超越論的審級なしに、非本来的な常同的、反復的な行為をとおして、外面的な工夫によって生き抜いていくための生の技法であるといえるでしょう。
* それでもひとりでいる力
このように同書は〈自閉〉における常同的、反復的な行為が何を「欠いているか」ではなく、何を「行なっているか」を問います。もっとも、こうした問題提起をすでにウィニコットが半世紀以上前に「ひとりでいる能力」(1958)という名高い論文において行なっているものです。しかしウィニコットが考える「ひとりでいる能力」と同書のいう〈自閉〉には決定的な違いがあります。
この点、ウィニコットは「ひとりでいる能力」をある種の逆説として提示しています。それは、ひとりでいることが「他の誰かがいるときにひとりでいるという経験」に、より具体的には「幼児や小さな子どものように、母がいるところでひとりでいるという経験」に基づいているという逆説です。このウィニコットの逆説は先述した基本的信頼及び潜在空間と同様の論理に依拠しています。つまりウィニコットのいう「ひとりでいる能力」とはギデンズのいう「存在論的安心」と不可分のものであり、それゆえに「存在論的安心」を欠く場合、人は「ひとりでいる能力」を行使することは原理的にできないということです。
またエリクソンにも同様の問題を見出すことができるでしょう。エリクソンは『幼児期と社会』において、子どもの「ひとり遊び」を自分自身の身体を対象にして遊ぶ「自己宇宙 autocosmos」から始まり、おもちゃを思いのままに操作する「小宇宙 microsphere」を経て、他者と共有する世界である「大宇宙 macrosphere」へ至る展開として把握しています。しかし同時にエリクソンは「自己宇宙」における「母との相互作用」を、子どもの生にとって決定的なものとみなしています。すなわち、エリクソンにとって子どもの「ひとり遊び」とは「ひとり」でいるように見えて実際には母との相互作用からなる「基本的信頼」に支えられて、はじめて可能になっているということです。
こうしたことから同書は〈自閉〉における常同的、反復的な行為が持つ、つまりリトルネロにおける「同じでいる力」「反復する力」を基本的信頼や潜在空間や存在論的安心といたものがなかったとしても「それでもひとりでいる力」であると位置付けます。それはすなわち〈現前〉のなかで〈現前〉に抗して〈現前〉とともに生きる力であるということです。
* リゾームとリトルネロ、あるいは〈自閉〉から世界制作へ
周知のようにドゥルーズとガタリは1970年代の大陸哲学に大きなムーヴメントを巻き起こした『アンチ・オイディプス』(1972)において人間の欲望を「欠如」を埋める運動ではなく、生産する力として捉え直し「欲望機械」という概念を提示しました。ここでいう「欲望機械」とは身体、社会、制度といった諸要素が相互に接続しながら現実を生み出す生成の装置であり、欲望はこうした機械的連結を通じて絶えず流れ、切断され、再び結びつくものであるとされます。
そして『千のプラトー』において、こうした欲望観は「リゾーム」と呼ばれる世界観として提示されることになります。ここでいう「リゾーム」とは中心や階層を持たず、どこからでも接続し増殖していく地下茎のようなネットワークであり、欲望機械の連結が社会、文化、知の配置として広がる様態を示すものです。
こうしたリゾームという世界観の展開を支える脱領土化/再領土化という反復運動がリトルネロであるといえるでしょう。つまりリゾームが無数の接続と展開のネットワークだとすれば、リトルネロはリゾームの展開を実際に駆動させる具体的なプロセスだと言ってよいでしょう。こうした意味で「存在論的安心なきルーティン」としての〈自閉〉がもたらす「それでもひとりでいる力」とは同時に「世界を制作する力」であるといえるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 23:00
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