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2026年03月20日

権力とセクシュアリティ



* アセクシュアルとアロマンティック 

近年においては「LBGT」や「LGBTQ」といった言葉で性的マイノリティの認知度が高まり、そうした人々に対する差別を問題視する考え方も広まりつつあります。その一方で従来の性的マイノリティに関する議論から取りこぼされてきたセクシュアリティとして「アセクシュアル」と呼ばれる人々や「アロマンティック」と呼ばれる人々がいます。

「アセクシュアル」とは「他者に性的に惹かれないという性的指向」のことをいいます。これは世界最大規模のセクシュアルコミュニティであるAVEN(Asexual Visibility and Education Network)のウェブサイトで掲げられている定義です。アセクシュアルの「ア a」という接頭辞は「否定」を意味しています。つまり文法的にいえば「セクシュアルではない」という意味です。またここでいう「性的指向 sexual orientaion」とは「どの性別の人に対して性的に惹かれるのか」を表す言葉であり、異性愛や同性愛、バイセクシュアルやパンセクシュアル(性的に惹かれるかどうかの基準に性別が無関係であるセクシュアリティ)などが含まれます。

「アロマンティック」とは「他者に恋愛的に惹かれないという恋愛的指向」のことをいいます。ここで重要なのは「性的」ではなく「恋愛的」という言葉が使われている点です。ここでいう「恋愛的指向 romantic orientation」とはどの性別の人に対して恋愛的に惹かれるのかを表す言葉です。そしてこの恋愛的指向と性的指向の区別は両者が必ずしも一致しないということを意味しています。恋愛的惹かれはないけれど性的に惹かれることがある場合や、逆に性的惹かれはないけれど恋愛的に惹かれることがある場合や、性的に惹かれる対象と恋愛的に惹かれる対象が異なる場合もあるということです。

これに対してアセクシュアルやアロマンティックではない人は「アローセクシュアル」「アローロマンティック」と呼ばれます。ここでいう「アロー allo」という接頭辞は「他のものに向かう」という意味で用いられています。異性に惹かれる人のみならず同性に惹かれる人であっても他者に惹かれるという意味では同じ括りに入ります。

なぜわざわざアローという言葉が使われるのかというと、アセクシュアルやアロマンティックでは「ない」人は「普通」であるという発想を問い直すためです。すなわち「普通」とされるマジョリティの人々のあり方も性的指向や恋愛的指向の一つとして位置付けられるものにすぎないということです。

またアセクシュアル/アロマンティックとアローセクシュアル/アローロマンティックの間を連続的なスペクトラムとして捉える言葉として「グレーセクシュアル」や「グレーロマンティック」という言葉があります。さらに詳しい要素を言い表す言葉(マイクロラベル)として「デミセクシュアル/デミロマンティック(基本的に他者に性的/恋愛的に惹かれることはなく、情緒的なつながりができた相手にのみ性的/恋愛的惹かれを抱くことがある)」「リスセクシュアル/リスロマンティック(他者に性的/恋愛的に惹かれることはあるが、相手からその感情を返してほしいとは感じない)」「エーゴセクシュアル/エーゴロマンティック(性的/恋愛的表現を愛好したり性的/恋愛的空想をしたりするが、自ら性愛/恋愛に参与したいとは望まない)」などがあります。

そしてこのような様々なマイクロラベルを含めた総称としてAro/Aceという言葉が使われることがあります。アセクシュアル・スペクトラムについて包括的に表す言葉がAceであり、アロマンテック・スペクトラムを包括的に表すのがAroです。このように一方でマイクロラベルの細分化によって多様な経験を言語化しつつ、他方でさまざまなマイクロラベルを包括する総称によって連帯を志向するというAro/Aceにおける実践はセクシュアリティをめぐる様々な常識を根本的に問い直す実践であるともいえます。


* 病理化から性的指向へ

性的欲望が低い状態は19世紀ごろから精神医学の中で「冷感症 frigidity」や「性的不感症 sexual anesthesia」などとみなされ病理化されてきました。このような理解を提示している典型例が性的倒錯の研究で知られる19世紀の精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの著作であり、この議論は日本でも精神医学的な知識として輸入・翻訳されてきました。ここでは性的欲望を欠いている人は端的に病気であり、治療すべきものだとみなされていました。

これに対して20世紀中頃になると、性科学の領域でもアセクシュアルに近い概念が生み出されることになります。その初期の例がアルフレッド・キンゼイの研究です。キンゼイは人間の性的指向は異性愛から同性愛まで連続的なものだという発想から「キンゼイ・スケール」を提示したことでも知られています。この理論は完全な異性愛(0)から完全な同性愛(6)まで7段階のグラデーションがあるというものです。

ところがこの議論の中でキンゼイは7段階のスケールのどこにも当てはまらない人々がいると指摘しています。それが「社交的性的接触または反応でないもの」を指すグループ「X」です。ここではアセクシュアルという単語自体は出ていませんが、性的接触や性的反応を欠いている人々が異性愛-同性愛のグラデーションの外側として位置付けられたことになります。

1970年代後半から1980年ごろになるとアセクシュアルという言葉を性的なあり方のひとつに明示的に位置付ける研究が登場します。そのひとつがマイケル・ストームスの研究です。ストームスは異性に対する性的欲望の程度を横軸に、同性に対する性的欲望の程度を縦軸にしたふたつの軸による四象限図式を提示し、この四象限のうち、異性への欲望も同性への欲望も「低い」という位置が「無性的」と表記されました。この時期からアセクシュアルな人々の存在が意識されるようになったといえます。

その後、アセクシュアルをめぐる議論に大きな影響を与えたのがカナダの心理学者アンソニー・ボガートの研究です。これは1994年にイギリスで行われた全国調査を再分析したもので「誰に対しても性的惹かれをまったく感じたことが一度もない」人の割合が約1パーセントだということを示したものです。この数値をもとにボガードはイギリスのアセクシュアル人口は約1%だと論じています。

これはアセクシュアルの人口割合を計量的に示した画期的な研究であり、アセクシュアルに関する研究や議論を活発化させる大きなきっかけとなりました。そして現在ではアセクシュアルは性的指向のひとつとして扱われており、アセクシュアルを病理とみなす発想が明確に批判されています(もっともボガードが「真の」アセクシュアルは「性的惹かれや性的関心の完全な欠如」であり「ハードコアなアセクシュアル」であると定義した点にはアセクシュアル(あるいはセクシュアリティ一般)の実態に即しておらず、さらに何らかの基準でアセクシュアルを「本物」か「偽物」かに二分することでスペクトラムの人々を無視することになるという批判もあります)。


* DSMの変遷とアセクシュアル

こうした性科学の議論は精神医療の臨床にも影響を与えてきました。そのことを見て取れるのがアメリカ精神医学会が出版している『精神疾患の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :DSM』です。このマニュアルは何度か改訂されており、2013年に第5版(DSM-V)が刊行され、現在ではその修正版(DSM-V-TR)が最新版として使われていますが、第5版に改訂されるまでアセクシュアルは実質的には病気として扱われていました。

まず1952年の第1版(DSM-T)と1968年の第2版(DSM-U)では「冷感症 frigidity」や「膣けいれん vaginismus」や「性交疼痛症 dyspareunia」といった用語が掲載されています。だた、この時期には「性欲がない」状態は治療対象として扱われていませんでした。しかし1980年の第3版(DSM-V)では「性心理的障害 psychosexual disorders」という項目が導入され、そのなかに「機能性不感症」「機能的膣けいれん」「性的欲求の抑制」といったものが含まれていました。

そして1987年に第3版の改訂版が出版されますが、その時に「性的欲求低下障害 Hypoactive Sexual Desire Disorder:HSDD」が記載され、診断すべき病気として扱われるようになります。ここでいうHSDDとは「持続的または再発的に性的な空想や性行為への欲求が欠落している、または欠如している」と定義されていました。その後、1994年の第4版(DSM-W)ではHSDDは「苦痛」を伴うものであるという要件が追加され、当人が苦痛を感じていなければHSDDとは診断しないと明示されました。

こうしたHSDDの診断基準にはアセクシュアルの立場から批判がなされていました。HSDDとアセクシュアルがいずれも「性的関心の欠如」という点で一致していることから、両者が混同されやすいという問題があるからです。また「苦痛」という要件にも疑問が提起されていました。「性的欲望を欠いていることで苦痛を感じる」といっても、その苦痛の原因は「性的欲望を欠いていること」それ自体ではなく、性的欲望があることを「当たり前」で「望ましい」ものとみなす社会的風潮にあるのではないかということです。

こうしたことからアセクシュアルの当事者団体であるAVENはアセクシュアル研究者やフェミニスト研究者とともにDSMの改訂に向けた働きかけを行い、2008年に始まったDSM改訂会議においてアセクシュアルに関する調査報告と提言を行います。そのような活動を通じて第5版(DSM-V)においてはHSDDの代わりに「女性の性的興奮/関心の障害」と「男性の性欲低下障害」という診断項目がそれぞれ設定されることになります。そしてそこでは「アセクシュアルを自認する人は診断されない」という例外規定が明記され、アセクシュアルは「病気ではなく性的指向」して位置付けられることになります。


* 周縁化と規範性

以上で見たようにアセクシュアルは近年まで実質的に「病気」であるとみなされており、現在においても社会では医療や教育の現場を含め、依然としてこうした見方が存在しています。松浦優氏が昨年上梓したAro/Aceについての包括的な概説書である『アセクシュアル/アロマンティック入門』(2025)では英語圏での調査をもとに、こうしたAro/Aceが被る差別や困難を@病理化、A性的/恋愛的衝突、B社会的孤立、C認識的不正義として整理しています。

最後の認識的不正義とはイギリスの哲学者ミランダ・フリッカーの造語で「人種、民族、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、国籍などの社会的アイデンティティに対する悪質なステレオタイプが原因で、一部の人々が知識の主体としての能力を貶められる不正のこと」と定義されます。現在では様々なタイプの認識的不正義があると指摘されていますが、フリッカーが当初に挙げたのが証言的不正義と解釈的不正義です。

まず証言的不正義とは「聞き手、偏見のせいで話し手の言葉に与える信用性 credibility を過度に低くしてしまう」というものであり、Aro/Aceにおける典型例としてはカミングアウトした当事者が「まだいい人に会っていないだけ」などと相手に打ち消されてしまうケースです。次に解釈的不正義とは「人々が自分たちの社会的経験を意味づける際に、集団的な解釈資源にあるギャップのせいで、不利な立場に立たされてしまう」というものであり、Aro/Aceにおける典型例としてはアセクシュアルやアロマンティックという言葉を知る機会がなかったため、自分の経験や感覚をうまく言語化できず思い悩むというケースが挙げられるでしょう。

こうしたAro/Aceが社会の中で周縁化されてしまう背景には恋愛や性愛を「あたりまえ」のものとみなす社会規範があることはいうまでもありません。同書は性的なマイノリティについての研究分野であるクィア・スタディーズの知見をもとに、こうしたAro/Aceを取り巻く「〜べきである」という様々な規範を取り上げています。

この点、クィア・スタディーズにおいてセクシュアリティに関する規範としてまず挙げられるのが「異性愛を当然のものとして誰もが異性愛者であるはずだ」とみなす「異性愛規範 heteronormativity」です。もっとも異性愛が相対化され同性愛差別が批判されたとしても、それでもなお取りこぼされる「誰もがセックスを欲望するはずだ」という思い込みを問い直すため生まれた概念が「強制的性愛 compulsory sexuality」です。また「一対一の恋愛や結婚には特別な価値がある」という思い込みは「恋愛伴侶規範 amatonormativity」と呼ばれます。

これらの概念は英語圏に由来するものですが、日本語圏でも草の根的に提起されてきた関連概念として「対人性愛中心主義」が挙げられます。これはマンガやアニメなどのいわゆる「二次元」の性的創作物を愛好しつつ生身の人間に性的惹かれを経験しないという人々が使い始めた言葉です。本書がいうように、こうした人々は一見するとアセクシュアルとは無縁のように思われるかもしれませんが「生身の人間には性的惹かれを経験しない」という点でアセクシュアルの人々と重なる部分があるといえます。


* 性の言説化とセクシュアリティの装置

では、このようなセクシュアリティや恋愛に関する規範性はどのようにして存在するのでしょうか。またどのようにすれば変化させることができるのでしょうか。こうした規範性を把握するための理論を打ち出した重要な論者として同書はミシェル・フーコーを取り上げます。フーコーは西洋におけるセクシュアリティの歴史を分析した『性の歴史T』(1976)において近代社会においてはセクシュアリティに関する言説が激増したことを指摘しています。例えば「同性愛は抑圧すべきだ」と主張する言説も「同性愛を抑圧することは不当だ」と主張する言説も、その内容は相反していますがどちらも同性愛について積極的に語っています。近代社会では同性愛に限らずさまざまなセクシュアリティについて、こうした性の「言説化」という現象が生じたとフーコーはいいます。

そしてフーコーはこうした性の「言説化」のメカニズムとして人々は性について語ることを「権力」によって煽り立てられていると主張します。ここでいう「権力」の典型例がキリスト教における「告解」です。「告解」というのは司祭に向かって自らの罪を洗いざらい告白するという実践です。告解そのものはカトリックの伝統として近代以前から行われてきましたが、17世紀になると性的なことがらが告解のなかで非常に重大なものとみなされるようになり、自らの性的な行為や欲望について包み隠さず言語化するよう極めて執拗に促されるようになります。さらに18世紀になると性について語らせる仕組みが宗教的なものから科学的なものに広がっていき、性的な事柄は特に医学、精神病理学、教育学、犯罪学などの学問の対象となります。こうした学問をフーコーは「告白という科学」と呼びます。

そしてこうした言説の中で例えば「同性愛者」といった概念が生み出され、こうした分類が出来上がることで同性と性行為をする人々は「同性愛者」という分類を押し付けられ、その結果、彼らに「同性愛者」というアイデンティティが生じることになると同時に「同性愛者」と分類された人々をターゲットとして例えば治療や差別といった形で権力による介入が行われることになります。もちろんこれは同性愛者だけに限った話ではなく、そもそもセクシュアリティなる領域そのものがこうした言説と権力の絡み合いを通して生み出されてきたといえます。こうして誰もがセクシュアリティを内に秘めているという発想とともに「私は何者か」というアイデンティティ問題が性的なことがらと強く紐づけられることになりました。

以上のような事態をフーコーは「セクシュアリティの装置」と呼んでいます。「装置」といっても何かしらの物理的な機械ではなく「性についての言説を生産する仕組み」のことを指しています。こうした意味でのセクシュアリティの装置は様々なものによって構成されており、制度、施設、社会通念、学術的な知識などが要素として挙げられています。


* 権力とセクシュアリティ

では、フーコーはこうした状況を変えるにはどのような抵抗をすればよいと考えていたのでしょうか。この問題についてはフーコーが「権力」というものをどう考えていたかが重要になってきます。権力というと支配者が弱い人を力づくで一方的に従わせるというイメージが強いかもしれませんが、フーコーの考える権力とは「無数の力関係」のことです。フーコーは権力を数多くのモノや人が関わる錯綜した網の目の中を色々な「力」が流れているというイメージで捉えています。

それゆえに権力は変化する可能性に開かれています。一見、強固な権力もいくつかの力の流れが合流することで結果的に出来上がるものであり、水路の水の流れを変えるように、新しい流れを生み出したり、流れの量を調整することで、こうした権力もゆっくりではあるかもしれないけれども変わっていく可能性があるということです。

こうした権力観を踏まえた上でフーコーが提示する抵抗戦略の一つが支配的な言説を逆手に取るというものです。その例としてフーコーが挙げるのが同性愛者の社会運動です。同性愛者の社会運動は精神医学の言説によって生じた「同性愛者」という概念を当事者が奪い取って自分達の反差別運動へと流用することで展開されました。こういった抵抗の重要性をフーコーは高く評価します。

ただし同時にフーコーはこうした戦略の限界も指摘しています。セクシュアリティをめぐる言説を逆手にとって流用するという戦略は依然としてセクシュアリティの装置の内部で起きるものであり、セクシュアリティの装置を構成している個々の要素は変化するかもしれませんが、あくまでセクシュアリティの装置そのものは温存されることになります。

では、セクシュアリティの装置はどうすれば解体できるのでしょうか。換言すれば誰もがセクシュアリティなるものに囲い込まれる状況はどうすれば崩すことができるのでしょうか。この問題についてフーコーは即効的な特効薬は示していませんが、いくつかのヒントや方向性を提示していると同書はいいます。

その一つがセクシュアリティの装置がどのようなあり方をしているのか、精緻に捉えていくというものです。セクシュアリティが重要なものと見做されている状況そのものを、じっくりと分析し、セクシュアリティの装置をメタ的に捉え直すことで、そこから距離をとることが可能となります。フーコーが『性の歴史T』で行ったことはまさしくこの作業であったといえます。

こうしてみるとアセクシュアルやアロマンティックについての議論は例外的な少数者に関する議論ではなく実は多くの人々にも深く関わってくるものといえるでしょう。そもそも人が誰か「好きになる」とはどういうことなのでしょうか。答えはいろいろあるでしょう。性的に魅力を感じる、恋愛感情を抱く、美しいと感じる、面白いと思う、尊敬や憧れを覚える等々。「好き」という言葉には様々な要素が含まれています。そしてこれらの要素は必ずしも結びついているとは限りません。例えば性的魅力と恋愛感情は必ずしも結びついているとは限りません。あるいは性的欲望は必ずしも実際の性交渉への欲望に結びついているとは限りません。

そしてアセクシュアルやアロマンティックと呼ばれる人々はこうした「好きになる」という漠然とした枠組みでは捉えられないような経験を言語化していく過程で性や恋愛に関する認識を精緻化してきました。それゆえにアセクシュアルやアロマンティックに関する議論は一見ありふれた日常的な営みであるとみなされがちな「性」や「恋」をより深く理解する契機にもつながってくるといえるでしょう。























posted by かがみ at 00:17 | 精神分析