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現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2026年01月22日

享楽社会と分析家のディスクール



* ジュイサンスからエンジョイメントへ

精神分析を創始したオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトはヒステリーをはじめとする神経症の治療を試行錯誤していく中で神経症患者の心的現実を基礎付ける根源的衝迫を「欲動」と規定しました。そして、フランスの精神分析家ジャック・ラカンはこうした欲動が満たされた状態を「享楽」と名付けました。もっとも、こうしたフロイト=ラカンの観点からすれば欲動の本質とは「死の欲動」であり、その性質上、欲動の完全な満足という事態はあり得ません。それゆえにラカンのいう「享楽」とはそもそもの意味では「不可能」と同義でした。すなわち、人の欲望や神経症、あるいは様々な芸術的創作やイノベーションはこうした「不可能」の関数として産み出されるということです。

こうしたことから1960年代中盤までのラカン理論においてはあくまで享楽とはシニフィアンの取り逃した〈もの〉としての現実界の側にあり、シニフィアンの世界である象徴界からは「対象 a 」を通じて辛うじて「侵犯」することができるものとして捉えられていました。ところがラカンは1960年代後半から、社会における様々な言説(ディスクール)を分類した「4つのディスクール」の理論を導入する事で、享楽とはむしろシニフィアンという装置により「生産」されるものとして捉え直すことになります。

4つのディスクール.png

「4つのディスクール」の理論の基本構造は「真理(左下)」「動因(左上)」「他者(右上)」「生産物(右下)」という4つの位置と「主人(S1)」「知(S2)」「主体($)」「対象( a )」の4つの要素との対応関係を問うものであり、その基本的な法則は「真理」によって支えられた「動因」が「他者」に命令し、結果「生産物」が産出されることになります。もっとも、「真理」と「生産物」の間は遮蔽されており、両者を一致させることは構造的に不可能とされます。

ここでいうディスクールとはその字義通りの言説のみならず広い意味での社会的紐帯のあり方を意味しています。すなわち、主人のディスクールは主体の構造を、大学のディスクールは強迫神経症者のあり方を、ヒステリー者のディスクールはヒステリー者のあり方を、分析家のディスクールは精神分析の構造を、それぞれ示しています。

さらに上記の4つのディスクールが出そろったのちに、ラカンは「新しい主人のディスクール」と言うべき「資本主義のディスクール」を提出します。資本主義のディスクールとは主人のディスクールを基本としつつ、そこに大学のディスクールとヒステリー者のディスクールの特徴を組み合わせたものになります。

資本主義のディスクール.png

まず資本主義のディスクールにおいては主人のディスクール同様「主人(S1)」が「知(S2)」に働き掛け「対象( a )」を生み出す構造をとります。ところが、資本主義のディスクールの「真理」の位置には大学のディスクール同様に「主人(S1)」が来きます。さらに主体と対象 a は遮蔽線ではなく実線で結ばれています。つまり、資本主義のディスクールにおける「主体($)」とは主人のディスクールのように「対象( a )」と遮断された「欲望の主体」ではなく、大学のディスクールのように「対象( a )」から再生産される「疎外された主体」であるということです。そして、このような「主体($)」がヒステリーのディスクールと同様、動因の位置にくることになります。

ここで生じているのは剰余享楽の「喪失」なき「回復」に他なりません。資本主義のディスクールにおいては、「主体($)」が「主人(S1)」に向けて述べたてる要求は統計学的処理によってデータベース的「知(S2)」を構成し、剰余享楽は計量可能なものとなり、その最適解としての新製品や新サービスとして次々と市場に供給されていくことになります。

結果「主体($)」は市場のそこらかしこに氾濫する無数の製品、サービスといった「対象( a )」の終わりなき消費を通じて、資本主義システムという「主人(S1)」の自覚なき奴隷の一人となります。つまり、資本主義のディスクールにおける「主体($)」とはまさに現代を生きる我々消費者の姿そのものに他ならないということです。

こうして資本主義システムにおける享楽とは、もはや到達不可能なジュイサンスではなく大量生産されるエンジョイメントへと変容し、こうした享楽の変容のもと、人々は獰猛な超自我に「享楽せよ!」と命じられるままに市場に氾濫する対象 a の洪水の中でただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送ることになるのでしょう。

この点、現代ラカン派を牽引する精神病理学者の松本卓也氏は鮮烈なデビュー作となったラカン論『人はみな妄想する』(2015)に続けて公刊した『享楽社会論』(2018)において、いま述べたような資本主義のディスクールが前面化した現代社会の病理を論じています。

先述のように1970年代になるとラカンは「享楽」を到達不可能なジュイサンスとしてではなく資本主義システムによって大量生産されるエンジョイメントとして捉え直すようになりました。そして、このようなエンジョイメントとしての「享楽」がいたるところに氾濫する社会を同書は「享楽社会 society of enjoyment」と呼びます。ここから同書は現代ラカン派の展開を踏まえ、こうした「享楽社会」におけるラカン的な〈政治〉はいかにして可能かを論じることになります。


* レイシズムと統計学的超自我

まず同書は「レイシズム2.0?−−現代ラカン派の集団心理学1」において現代におけるレイシズムの発生を「享楽」を鍵概念として論じています。この点、1970年代においてラカンは現代的レイシズムにおける排斥の原因となる文化的差異を「享楽のモード」の差異である考えました。さまざまな人種や民族や出自の人々が共存する世界では飲食や性行為や冠婚葬祭など生活の中で快を得たり不快を処理する方法としての「享楽のモード」には多様なバリエーションが共存することになります。ここでしばしマジョリティはマイノリティの享楽のモードを「発展途上」であると見做して、自分たちの享楽のモードを彼らに押し付けたりもします。ここにレイシズムが発生するとラカンは述べています。

さらにここでラカンは、そもそも人は本質的に自らの享楽を〈他者〉の享楽を介してしか位置付けることができないという逆説を強調します。つまり言語(象徴界)の主体である人にとって言語化不能な領域(現実界)にある完全な享楽は常に既に失われたものでしかなく、それゆえに人はラカンのいう「性関係のなさ(享楽の不可能性)」に悩まされることになり、この「性関係のなさ」は「どこかに十全な享楽を得ている人物=〈他者〉が存在しているにちがいない」という「空想的決めつけ」を生み出してしまうということです。

このように「性関係のなさ」に悩まされている人の前に自分と異なる「享楽のモード」を取る人物が現れた場合、しばし彼/彼女の中で「どこかに十全な享楽を得ている人物=〈他者〉が存在しているにちがいない」という「空想的決めつけ」が活性化してしまいます。そして、ここから「私が十全な享楽に到達できないのは、この人物が私の享楽を盗んでいるからにちがいない」という「妄想的決めつけ」が引き出されるとき、そこにレイシズムが生まれることになります。

次に同書は「享楽の政治−−現代ラカン派の集団心理学2」において現代における「秩序」はどのように基礎付けられるかという問題を「知性」と「享楽」の関係から論じています。まず同書は人は知性では動かされず、むしろ感情や情動や情熱の水準で初めて動かされる存在であるという事実から出発する必要があるという近来の政治理論を踏まえて、今日の非-知性的な政治動向をラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクに倣い「享楽の政治」と名指し、ここから今日におけるレイシズムや極右の言説を想像界における享楽の病理として位置付けています。

そして同書によれば今日におけるレイシズムや極右の言説は「象徴界のフラットな使用」とでも名付けられる手法を用いているとされます。すなわち、彼らは想像界において享楽を動員する一方で、象徴界においては「データ」とか「ファクト」とか「エヴィデンス」という名で呼ばれる「括弧付きの知性」を用いるということです。

こうしてレイシズムや極右の言説における「享楽の病理」は「法は法だ」「事実は事実だ」というフラットな象徴的論理を介しても展開されることになります。そしてこのような享楽を動員するフラットの象徴的論理を支えているものとして同書は精神分析家マリー=エレーヌ・ブルースがいうところの「統計学的超自我 surmoi statistique」をあげています。

今日においてブルースのいう「統計学的超自我」の力は政治、経済、労働、医療、教育、福祉といったあらゆる領域において急速に高まりつつあります。こうしたことから同書はラカンの「世界中が恥ずべき合意形成へと滑り落ちていく際に発せられる『否 non』というシニフィアン」という言葉を引用し「この惨澹たる現状そのものに対して大文字の『否』を突きつけることである」と述べています。


* 大文字の「否」の否定性から肯定性の移行へ

そして同書は一連の論考の締めくくりとなる「ラカン的政治のために」において、こうした大文字の「否」の先にある「ラカン的政治」の可能性を論じています。ここで同書はやはりジジェクを参照し「よく知っている」にもかかわらず「知らないかのように振る舞う」というシニシズムと精神分析における「否認」の構造の類似性を指摘し、現代におけるイデオロギーにおいては、その当のイデオロギーが決して見ようとしない外傷的な穴を塞ぐため何らかのフェティッシュとなる覆いとしての対象 a を用い、何らかの空想(幻想)を作り上げているといいます。

すなわち、こうしたイデオロギーに従属する主体は従属すると同時にイデオロギーの欺瞞性に気づく主体でもあるということです。しかしこの分裂した主体はイデオロギーの欺瞞性を知っている(「私だけは気づいている」)ことを担保にして、自分がイデオロギーの外部に脱出「しうる」こと、そして現行の体制を侵犯「しうる」ことを空想しながら、それゆえにますますイデオロギーに従属する主体になります。このようなラカン=ジジェク的な主体においてはイデオロギーは外部を持たないのではなく、むしろその内部に外部を安全装置として包摂しているということです。

実際に現代の政治状況の悲惨を作り出しているのはレイシズムや極右の言説をあやつる支配者たちであると同程度に、彼ら支配者の言説に対して「それが最悪であることはわかっているが、それでも・・・」というシニカルな論理を用いる大衆の側でもあると同書はいいます。そしてこうしたシニシズムを克服するには当のイデオロギーが覆い隠そうとする耐え難い光景=外傷的な穴を、すなわちそのイデオロギーが依拠する空想に潜む享楽の次元を暴露しなければならないといいます。

もっとも同書は2010年代の日本においてはこうしたシニシズムの終わりが見えつつあるといい、20万人を動員した2012年7月の脱原発デモや2013年ごろから盛り上がり始めた反レイシズムのカウンター・デモにシニシズムを克服するための通路を見出し、こうした運動のひとつの接合点としての2015年8月に行われた安保法案反対デモにラカンがかつて語っていた「世界中が恥ずべき合意形成へと滑り落ちていく際に発せられる『否 non』というシニフィアン」を見出しています。

その一方で同書はこの大文字の「否」というシニフィアンはその否定性の側面が強調されるだけでは安定した政治的アイデンティティを持続的に支えることはおそらくできないとして、この大文字の「否」を契機としてなんらかの肯定性=実定性なものに名前が与えられなければならないといい、そのための政治運動は「オルタナティヴは可能だ」という確信を市民に与えるようなものへと変化していく必要があり、そしてそこで提示されるオルタナティヴとは、人々を享楽の水準において動員する「楽しいもの」でなければならないと述べます。

このように同書は既存の体制に対して刻まれた大文字の「否」のシニフィアンは、実際には否定性を持つものではなく、享楽しうる要素を持つものであることを強調し、その享楽に新しい名前を与え、認識しうるものにしていく必要があるとして、こうした大文字の「否」の否定性から肯定性の移行という議論の重点の移行をラカン左派の政治理論の中に見出していきます。


* ラディカル・デモクラシーとクッションの綴じ目

エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフは『民主主義の革命』(1985)という共著で、かつてのマルクス主義が持っていた階級還元主義を脱色した「ポスト・マルクス主義」を提唱しました。「ラディカル・デモクラシー」という政治的マニフェストに合流した彼らの理論は今日において民主主義の根源的条件を考えようとするものにとって極めて重要な参照軸となっています。

彼らのラディカル・デモクラシーの中心課題は人々が不平等な状態にただ服従している状態から抜け出すために運動し、大文字の「民主主義」が実現されるようになるための条件の理論化にあります。そのため彼らが持ち出すのが「クッションの綴じ目 point de capition」という古いラカンの概念です。

当時のラカンは言語秩序(象徴界)は〈父の名〉という特権的なシニフィアンによって他の全てのシニフィアンがシニフィエとの関係の中で安定化されているとして、もしそのような特権的なシニフィアンによって言語秩序が綴られていなかったとしたら、全てのシニフィアンは孤立してバラバラになってしまい、頭の中で様々な意味不明のシニフィアンが鳴り響く精神自動症が生じてしまうと考えていました。

ラウラクとムフはこのラカンの図式を民主主義論への転用します。すなわち大文字の「民主主義」は複数の社会運動が連鎖を形成し、ある一つの特権的シニフィアン(クッションの綴じ目)によってキルティングされることによって実現するのであるということです。

例えばかつてのマルクス主義の運動では「階級闘争」が「クッションの綴じ目」として機能し、全ての運動の中心点となっていたと考えることができます。すなわち、この「階級闘争」というシニフィアンによって統御された場合、民主主義は「搾取の合法的形態としてのブルジョワ的・形式的民主主義」とは違う「真の民主主義」となり、フェミニズムは「階級に条件づけられた分業の結果としての女性の搾取」への抵抗となり、エコロジー運動は「利益を追求する資本主義的生産の論理的帰結としての自然資源の破壊」への抵抗となり、平和運動は「平和にとっての最大の脅威は冒険主義的な帝国主義」とみなすものになるということです。

つまり何が「クッションの綴じ目」になるかによって我々の政治空間はその装いをがらりと変えうることになります。そしてそのような綴じ目にキルティングされた運動は非常に大きな影響力を発揮することがあります。それゆえに政治運動においてはこうした「クッションの綴じ目」となるような新しい民主主義のシニフィアンを発明しなければならないということです。

もっとも彼らの議論の問題点は、いかなるシニフィアンでもあらゆる社会的要求を束ねる「クッションの綴じ目」となりうるところにあります。すなわち、彼らの議論はどのようなシニフィアンが「クッションの綴じ目」になるのかは全く偶発的であるという点で相対主義的な考えに転落してしまう可能性があるということです。

さらにこのような思考はおよそ60年代のラカン理論に一致することになります。よく知られるようにラカンはセミネール6『欲望とその解釈(1958〜1959)』のなかで「〈他者〉の〈他者〉はある」というこれまでの立場から「〈他者〉の〈他者〉はない」という立場への転回を表明していますが、それは言い換えればどんな主体においても、またどんな社会においても「クッションの綴じ目」としての〈父の名〉は実際に存在せず、もしある主体や社会が実際にそのような特権的なシニフィアンによって統御されているとすれば、それは単に偶発的なことに過ぎず、その体制は常に変わりうる可能性を持っているということです。ゆえに現存の社会的紐帯は「その根底において詐欺」であり正統なものなどなにもなく、このようなある意味で相対主義的な態度をラカンは「イロニー」と呼んでいます。


* ポスト基礎付け主義とサントームの政治

もちろんラカンを援用する政治理論は単にこのような相対主義的な結論に終わるわけではありません。例えばオリヴァー・マーチャートと山本圭氏は、ラカン理論を援用するラクラウとムフなどを「相対主義」とみなす批判に対して彼らを「ポスト基礎付け主義」とみなすことによって応答しています。

ここでは社会や政治を何らかの普遍的な原理によって基礎づけられうるものとみなす立場を「基礎付け主義」と呼び、反対にそのような普遍的原理など存在しないというローティーの相対主義の立場を「反・基礎付け主義」と呼ばれます。この二つの立場の対立は社会や政治を統御する「基礎」が存在するか否かという二者択一における両極端な立場であるといえます。

これに対してポスト基礎付け主義はむしろこの両者の「あわい」に位置付けられるような立場です。ここでマーチャートのいう「ポスト基礎付け主義」とは社会や政治の基礎付けを無批判に前提としているわけではなく、その意味では「反基礎付け主義」同様に基礎付けの不在を認めています。しかし同時に「ポスト基礎付け主義」はその基礎付けの不在に居直るのではなく、むしろ基礎付けの不在を、社会が何らかの基礎を必要としており、さらにはその基礎は最終的なものではなく、堅固さを持たない暫定的な基礎であることを意味すると捉えます。

そして松本氏は基礎づけをめぐるこのような三つの立場を1950年代から1970年代におけるラカン理論の変遷と対応させ⑴基礎付け主義は普遍的な理念(=〈父〉)を存在させようとする前近代的な立場(フロイト理論に依拠した50年代のラカン)を、⑵反基礎付け主義は〈父〉の不在を認め、さまざまな理念や価値観の並立を言祝ぐリベラル・アイロニスト的な立場(戯画化された60年代のラカン)を、⑶ポスト基礎付け主義は〈父〉の不在を認めるけれども、それでも弱毒化された〈父〉を非抑圧的な仕方で利用しようとする「サントームの政治」の立場(70年代ラカン)をそれぞれ想起させると述べます。


* 享楽社会と分析家のディスクール

こうしたことから「ラカン的政治」としての来るべき民主主義の条件とは、さまざまな社会運動を連鎖させ、そこに「クッションの綴じ目」となる新しい民主主義のシニフィアンを発明することだけでなく、そのシニフィアンそれ自体に肯定的な享楽の実体としての価値を持たせ、それをサントーム化することが必要であるということになります。ではそれはどのような実践としてなしえるものなのでしょうか。

ここで同書は柄谷行人氏が『世界史の構造』(2010)で展開した交換様式論を参照します。柄谷氏は同書において世界史を「A互酬(贈与)」「B略取と再分配」「C商品交換」という交換様式から捉えます。大まかに言えば原始的な氏続社会においては贈与と返礼からなる交換様式Aに規定されていましたが、帝国の時代には主権者である王は臣民の生み出した富を略取しその上で再分配を行う交換様式Bが一般的になり、資本主義の時代には商品交換を活発化させる交換様式Cが導入され、現代ではおおむね交換様式BとCが混ぜ合わせた形態をとっているということです。

こうした3つの交換様式の後にくる交換様式Dこそが柄谷氏によれば真にオルタナティブとなる交換様式となります。氏はこうした交換様式Dの範例として定住を開始する前の遊動民にみられる交換様式があります。遊動民においては生産物を蓄積することができないため、生産物は仲間と平等に分配され、また他の部族と遭遇した場合に戦争を避けるために贈与を行うことがあったとしても、その遭遇は一期一会のものであるため、返礼の義務は発生しません。こうしたことから遊動民における交換様式Dは交換様式BやCからなる資本制的な結合体とは無縁なものであるとされています。

そしてこのような交換様式Dを松本氏はラカンが「資本主義からの出口」と評した分析家のディスクールに対応させています。ここでいう分析家のディスクールとは例えば「エディプス・コンプレックス」のような既存の知(S2)の専制を脱し、主体の自体性愛的な享楽(身体の出来事)が刻まれた一つのシニフィアン(S1)を析出させる営為ですが、ここで析出されたシニフィアン(S1)こそがラカンのいう〈一者〉的な、ひとつきりの享楽のシニフィアンであり、新たな主体化の核となり己の人生を非エディプス的なかたちで特異的=単独的なかたちで新たに生き直すことを可能とするものです。

換言すればそれは人々を画一的な「すべて」にしようとするエディプス的な力に抗い「すべてではない(すなわち、決して「すべて」を構成しない)」生のあり方を発明し、それを生きることにつながるであろうと氏は述べています。このように来るべき新たなシニフィアンは「すべて」の論理によって構成される世界を「すべてではない」ないものとして撹乱し、世界の見え方を根底から変えてしまうポテンシャルを持っており、ちょうど革命的な作家がまったく新しい文学を創作するときのように、それを知る前と知った後では世界の見方が一変してしまうようなシニフィアンを到来させることがオルタナティヴを可能にするのであるということです。

以上のような現代ラカン派の議論を日本の現代思想シーンに接続するのであれば、例えば東浩紀氏は『観光客の哲学』(2017)においてラウラクらの系譜を継ぐアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが提唱したグローバル環境下における政治運動の主体である「マルチチュード」を「否定神学的マルチチュード」と名指した上で、そのオルタナティヴとして「郵便的マルチチチュード=観光客」を提示していますが、この両者はそれぞれ松本氏のいう「反基礎付け主義」と「ポスト基礎付け主義」に対応しているといえるでしょう。また東氏は同書において「郵便的マルチチュード=観光客」のもたらす「誤配」の効果を柄谷氏のいう交換様式Dに位置付けていることから、そのメカニズムは分析家のディスクールから理論化することもできるでしょう。

あるいは千葉雅也氏が『勉強の哲学』(2017)において「深い勉強(ラディカル・ラーニング)」として提示する「アイロニー・ユーモア・享楽」という頂点から構成される「勉強の三角形」と呼ばれる「有限化」の技法もこうした分析家のディスクールが基盤となっています。さらに千葉氏がこうした「有限化」の技法を「主体化」の局面において展開したものが『現代思想入門』(2022)であり「制作」の局面において展開したものが『センスの哲学』(2024)であるといえます。また三宅香帆氏が『考察する若者たち』(2025)において「考察」のオルタナティブとして提唱する「批評」もやはり「最適解」という一般性から逸脱する特異的=単独的なかたちを希求する分析家のディスクールから捉えることができるでしょう。

こうしてみるとラカン的政治の実践としての分析家のディスクールとは極めて汎用性の高い実践であるといえるでしょう。そしておそらくそこにはアテンションエコノミーによってますます加速する資本主義のディスクールとプラットフォームアルゴリズムと生成AIという統計学的超自我が猛威を振るう現代情報環境における確かなオルタナティヴのあり方が示されているといえるのではないでしょうか。




























posted by かがみ at 21:16 | 精神分析