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2025年10月25日

超越論的経験論と快原理の彼岸



* ドゥルーズの哲学原理としての超越論的経験論

20世紀を代表する哲学者の1人であるジル・ドゥルーズの仕事は哲学にとどまらず、精神分析、文学、絵画、映画といった諸領域を変幻自在に横断するものであり、そこではさまざまな革新的な概念が創出されることになります。そして、このようなドゥルーズ哲学の枢要部にある哲学原理を國分功一郎氏は『ドゥルーズの哲学原理』(2013)において「超越論的経験論 L'empirisme transcendantal」と呼んでいます。この一見する語義矛盾のように思われる表現はいわばディヴィッド・ヒュームの経験論哲学とイマヌエル・カントの超越論哲学を総合するものであるといえます。

よく知られるようにヒュームは経験論という哲学を説きました。経験論とはその名の通り、人間の知性や認識の基礎を経験に求める哲学です。ドゥルーズは最初の著作である『経験論と主体性』(1953)においてヒューム哲学の根本にある問いを極めて簡潔な一文で説明しています。「ヒュームが取り組むことになる問いはこうなる−−精神はどのようにして一つの人間的自然に生成するのか?」ということです。同じ問いは「精神はどのようにして一つの主体へと生成するのか?」とも言い換えられています。すなわち、ここでドゥルーズがヒュームに見出しているのは主体を所与の前提とせず、その発生を問う哲学です。

この点、ヒュームによれば精神とは互いに関連を持たないバラバラな観念の集合にすぎず、従って精神はその状態ではいかなる認識も持っていません。この精神が何らかの認識を持つのは、そうしたバラバラな諸観念を関係づけ、連合させる時です。例えば我々が毎朝、太陽が昇るの見るとして、その知覚は「今朝太陽が登った」「昨日も太陽が昇った」「その前も太陽が昇った」といったバラバラな諸観念を形成しますが、そのバラバラな諸観念が或る時に連合され「明日も太陽が昇るだろう」という認識が成立します。認識とはそのようにして我々が経験したことのないものを肯定=信じる事態を指しています。つまり認識とは所与の経験を越え出ています。諸観念が連合されることでこうした「信念」が発生し、所与の経験を超出することで認識が成立します。それはつまりは精神が一つの主体へと生成することに他なりません。

このようにヒュームは人間の知性や認識の基礎を経験に求めました。これに対してカントはこのような経験そのものを可能とする条件を問います。このようなカントの問いは経験に先立つ先験的な「超越論的」と呼ばれる領域を切り開くことになります。これについてドゥルーズは『カントの批判哲学』(1963)において「超越論的とは、経験が必然的に我々のア・プリオリな表象に従う際の原理を指す」と定義しています。

ドゥルーズはカントによる超越論的なものの発見を高く評価します。しかしそれと同時にカントによる超越論哲学の運用上の欠点を明らかにします。ドゥルーズによればカントの超越論哲学においては経験的領野を基礎付けるはずの超越論的領野に経験的領野を「引き写す」ように「自我」や「超越論的統覚」が見出されており、さらにこのような自我や超越論的統覚を想定するだけで、その発生を問うていません。

その一方でドゥルーズはヒュームにこのようなカントが問うことをやめてしまった発生の問いを見出しています。こうしたことからドゥルーズはカント的な超越論的哲学の可能性を引き継ぐとともに、そこで喪われた発生の問いをヒューム的な経験論哲学によって補完します。これがいわば「発生を問う超越論哲学」としての「超越論的経験論」と呼ばれるものです。


* 原光景としての「無人島」

このようにドゥルーズの超越論的経験論は超越論哲学のカント的な運用を批判する形で構想されました。カント流の超越論哲学は「自我」や超越論的統覚を想定しているだけでその発生を問うていません。ならばその発生を問うとき、その根源には一体何があるのでしょうか。

まずドゥルーズは自我に先立つ世界を「無人島」という奇妙な形象を通じて極めて早い段階から論じています。1950年代に書かれ長らく未発表であった草稿「無人島の原因と理由」において「或る島が無人であるということは、我々にとって哲学的には正常なことと思われて然るべきなのだ」「或る島が無人島でなくなるには、そこに人が住めば済むわけではない」「いかなる島も、理論的には無人であり、またそうであり続ける」というなにやら哲学的なテーゼらしきものから無人島なる形象に独自の視点で迫ります。

ここでドゥルーズが言わんとしていることは無人状態の島に誰かが1人ぽつんと置かれたとしても、直ちにこの無人状態が崩壊するかどうかは疑わしいということです。ここでいう無人状態とは「哲学的」に考えれば主体と客体の区分のない世界に他なりません。そこに人が住まうだけでは無人状態は崩壊しないのである。ではどうすればこの無人状態が崩壊し主体と客体の区分がある世界が現れ出るのでしょうか。

この点、後にドゥルーズは同じテーマを『意味の論理学』(1969)の補遺として収録された「ミシェル・トゥルニエと他者のない世界」という論文でより理論的に論じています。ここでドゥルーズは無人島を「他者のいない島」と定義します。我々は普段「他者」がいる非-無人状態の世界を生きています。このような非-無人状態は「他者」の存在を前提としており「他者」によってもたらされる何らかの効果の中にいます。

こうした意味での「他者」がもたらす効果とは我々が知覚する対象や観念に沿って「周縁的な世界」を組織することにあります。人は一度に見ることができる範囲は限られています。例えば我々が通りに立って建物を見たとき、当たり前ですが見えるのは建物の正面だけであり、その裏側や内部を見ることはできません。にもかかわらず人はその建物には裏側や内部があると当然に思っています。なぜならば「対象の中で私が見ていない部分を、私は同時に、他者には見えるものとして考えるから」です。

このように「他者」というものを想定することではじめて、人は見えない部分を「他者」には見える部分として処理し、それが恒常的に存在していると考えることができます。つまり見えていない「周縁的な世界」を組織することができると言うことです。すなわち、ここでいう「他者」とは、対象の対象性を保証し知覚領域そのものを成立させる「知覚領域の構造 structure du champ perceptif」であると定義されます。そしてこのような対象化作用があって初めて〈私〉なるものが対象として措定され自我というものが発生することになります。つまり、ここで他者によって知覚する主体と客体という構図そのものが成立します。

こうしたことからドゥルーズのいう「無人島=他者がいない島」とはこうした知覚を支えてくれる存在がいない場所であり、そこでは人にとって見えていないものは端的に存在しないことになります。そして外部からくる「他者」によって初めてカントが想定したような自我や超越論的統覚が発生するということになります。

そして、以上のような理論の根幹にはヒューム的な発想があります。「対象の中で私が見ていない部分を、私は同時に、他者には見えるものとして考える」とはヒュームのいう「信念」に属しています。先述のようにヒュームは「信念」によって人間の認識が所与を超出すると考えました。もっともヒュームはそれはあくまで認識の事実として−−どうしてかはよくわからないが、認識を調べてみると出てくる事実として−−提示していたに過ぎませんでしたが、ドゥルーズはここでヒュームのいう「信念」を「他者」のもたらす効果として捉えているということです。


* 超越論的なものとしての「出来事」

このように「無人島」とはドゥルーズの超越論的経験論にとって原光景となります。そこに「他者」が現れることによって我々のよく知る経験世界が成立します。ではこのようにして超越論哲学が再構成されるとき、そこでいう超越論的なものとは一体何なのでしょうか。

結論からいえばドゥルーズにとって超越論的なものとは「出来事 événement」です。ドゥルーズはこれを「特異性 singularité」とも呼びます。この両者は完全に同一視され二つをハイフンで繋いだ「特異性-出来事」という表現もドゥルーズは用いています。

このような「特異性-出来事」という概念が構築される出発点は17世紀の哲学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツが打ち出した可能世界論です。例えば「シーザーはルビコン河を渡った」という事実があるとすれば、その反対の「シーザーはルビコン河を渡らなかった」という世界線を考えうることができるでしょう。この「シーザーはルビコン河を渡らなかった」という世界線がライプニッツのいう可能世界です。

そして「シーザーはルビコン河を渡った」という「出来事」において分岐が生じており「シーザーはルビコン河を渡らなかった」という可能世界では我々の知るこの現実世界では現実化しなかった別の出来事の系列が伸びていることになります。この分岐した諸系列の間の両立不可能性をライプニッツは「非共可能性」と呼びます。換言すればこの現実世界は共可能的な出来事の諸系列だけが現実化しているということです。

ところで「出来事」において系列が分岐するということは、そこで別の個体が発生することを意味しています。すなわち「シーザーはルビコン河を渡った」という「出来事」において、一方では「ルビコン河を渡る」という述語=出来事を内包する現実世界の「シーザー」が発生し、他方では「ルビコン河を渡らない」という述語=出来事を内包する可能世界の「シーザー」が発生しています。つまり「出来事」とは個体に先行し、個体を発生させるジェネレーター(発生素)になるということです。

このようなライプニッツが可能世界論で描いたような発生のメカニズムをドゥルーズこの現実世界に見出そうとします。この課題から要請されたものがドゥルーズ哲学の代名詞といえる「潜在性 virtualité」という概念です。

この点、ドゥルーズは可能世界論における「可能性と実在性」という対に対して「潜在性と現働性」という別の対を提示します。しばしこの現実はいくつかの「可能性」の中の一つとして選択されたものと考えられがちですが、この考え方は実は転倒しており、常にある事柄が実現された後に初めて「そうはならなかった可能性」が見出されています。すなわち「可能性/実在性」を軸とする発生は真の発生ではなく、むしろ潜在的なものが現働化することでこの現実は構成されるのであり、系列化に先立つ「特異性-出来事」が大域的にひとまとまりにされるときに発生が起きるということです。

なおドゥルーズはこのような「特異性-出来事」の着想をライプニッツのいう「微細表象 petite perception 」から得ています。ライプニッツは無数の微細な知覚を無理矢理一括りにすることで意識という統覚が発生するプロセスを論じていますが、それはつまり潜在的な領域にあった発生素としての微細表象(特異性-出来事)が現働化することで統覚(意識)が発生するというプロセスに他なりません。


* 超越論的経験論から読むフロイトの第二局所論

以上のようにドゥルーズの超越論的経験論は「無人島」という舞台と「特異性-出来事」という発生素から構成されることになります。ここからドゥルーズはこうした超越論的経験論が実際に作動する場面として彼が「出来事の科学」と呼ぶ精神分析を検討することになります。

オーストリアの精神科医ジークムント・フロイトが20世紀初頭に創始した精神分析は「エディプス・コンプレックス」の発見で知られています。フロイトによれば幼児は母親に対する近親相姦の欲望と、それを阻む父親に対する尊属殺人の欲望に貫かれていますが、これら無意識の欲望は達成されることがなく、その断念こそが主体を生成することになります。

もっともドゥルーズが注目するのはこのエディプス・コンプレックスではなく、フロイトが後期に展開した「快原理の彼岸」の問題です。フロイトは当初「意識/前意識/無意識」の三つ組から人間の精神生活を描き出していました。これは第一局所論と呼ばれるものです。ところがそこからフロイトはあらたに「エス/自我/超自我」という三つ組を構想することになります。これが第二局所論と呼ばれるものです。

「エス」とはドイツ語でまさしく「それ」としか名指せないような生命エネルギーの塊であり、これは「快原理」と呼ばれる原理に従って動きます。この点、フロイトによれば「快」とは興奮量の減少であり「不快」とは興奮量の増加をいいます。すなわち、ここでいう「快原理」とは心的装置が不快(興奮量の増加)を避けて快(興奮量の減少)を求めることで自らを恒常的なままに保つ原理を指しており、この「快原理」こそがエスを突き動かす唯一無二の行動原理です。ところが幼児は次第にこの行動原理では現実にはうまく立ち回れないことを理解していき、不快を避けて快を求める衝動を延期することを学びます。

このような「延期された快原理」のことを「現実原理」といいます。この「現実原理」を担うのが「自我」です。つまりフロイトのいう「自我」とは、あらかじめ主体に与えられた機能ではなく「エス」が現実と葛藤する中で分化して発生する審級に他なりません。このようにフロイトはカントが「想定」しただけの自我のその「発生」を描き出します。

さらにこうした「自我」の発生にやや遅れて「超自我」と呼ばれる審級も登場します。「自我」が自分が現実世界の中で大変弱い存在であること、自分には到底敵わない外部の権威が存在することを学んでいく中で、そのような権威を取り込むことで発生するのが「超自我」です。

この点、フロイトは「超自我」こそがカントの述べていた「良心」のことだろうと述べています。カントによればどんな悪人でも悪いことをするときには「これは悪いことだ」と思っているのであって、その意味で人間は誰でも「良心」を持っているということになります。そしてフロイトの超自我の理論はカントが単に想定しただけの「良心」なるものの発生をも説明しているということです。

こうして「自我」は「超自我」に監視されつつ「エス」を手懐けながら、自らの欲望の達成を目指すことになります。これがフロイトによって説明された人間の精神生活の概要です。この点「意識/前意識/無意識」という三つ組からなる第一局所論はフロイトの臨床経験から「想定」されたものにすぎませんでした。これに対して「エス/自我/超自我」という三つ組からなる第二局所論は実に発生論的な発想で描かれています。そればかりではなく第二局所論はライプニッツ経由の微細表象論と直結しています。

ドゥルーズはエスと自我の関係について「エスには諸々の局所的な自我がひしめき合っている」といいます。あるひとつの自我が成立する前の段階、つまり主体の構成の最初の段階では自我に統合されうる要素としての断片が「局所的な自我」としてエスの中でひしめいているということです。これらの局所的な自我はそれぞれが「部分対象」によって駆動されています。ここでいう「部分対象」とは乳房、指、口唇、肛門など、人体の形に統合されていない欲望の原初的な対象をいいます。

そしてドゥルーズ=フロイトの説明によれば、部分対象によって駆動されつつエスに同居しているバラバラで局所的な自我が大域的に統合されるとき、エスから析出される形で一つの自我が発生することになります。この議論は潜在的な水準にある微細表象の現働化というライプニッツ経由の議論とまったく同型をなしています。実際にドゥルーズの部分対象を微細表象に準えています。つまりドゥルーズはフロイトの中に微細表象論、つまりは大域的な自我を生成する非系列的な「特異性-出来事」の議論を読み取っているということです。


* 快原理の「彼岸」とは何か

そこで問題となるのはこの大域的な自我の発生そのものです。フロイトによればこの発生は快原理によって制御されているとされます。先述のように現実原理は延期された快原理であり、快原理と対立するものではなく、いわば「快原理の部分」です。ではこの快原理なるものはいったい何に由来するのでしょうか。それは単に人の心の本質としてフロイトが想定したものなのかというともちろんそうではありません。この快原理の由来を問うところからフロイトの真に哲学的思惟、超越論的探求が始まることになります。

周知のようにフロイトは後期の著作『快原理の彼岸』(1920)の中で快原理の起源を説明し「死の本能」という考えを打ち出しました。そしてドゥルーズは「死の本能」をめぐるフロイトの「思弁」を高く評価すると同時に、ある重要な修正を提案することになります。

この点、この『快原理の彼岸』という著作は概ね次のように理解されています。フロイトはある時期まで不快を避けて快を求めるという快原理が心的過程を支配していると考えていましたが、不快でしかありえないことを執拗に繰り返す反復強迫、とりわけ戦争神経症などの外傷性神経症に見られる反復強迫(思い出したくないはずの心的外傷を受けた場面が夢の中に執拗に再来しえ眠れない等)の症例によって、その原理の限界を突きつけられることになります。

そこからフロイトは心的過程においては生を求める「生の本能」と死を求める「死の本能」の二つが対立して作用しており、時に一方が時に他方が現れるという仮説を提示するに至ります。つまりそこには快原理の統御が及ばない「彼岸」があるということです。

ところがドゥルーズが最初に強調するのは快原理の「彼岸」とはこの原理にとっての「例外」ではないということです。どういうことでしょうか。この点、フロイトによれば心的装置は外的なショックにより流入する外部からの過剰なエネルギーに比しうるだけのエネルギーを流入箇所にあらかじめ「備給」することで流入したエネルギーを「拘束」し、外的ショックに対処する刺激保護の機能を持っているとされます。そのような機能のうちの一つが「不安」です。すなわち「不安」とは心的エネルギーが一箇所に過剰に備給された状態をいい、それは畢竟、心が外的ショックから自らを守るための防衛機制であるということです。

しかし、これがうまく作動できない時があります。災害や戦争などでの突発的事態においては不安の準備が整っていないところに突如、強力なショックが生じます。この場合、心的装置は流入するエネルギーを拘束できません。そして拘束できないエネルギーがあまりに多いと刺激保護の機能そのものが破綻してしまいます。これがフロイトのいう外傷性神経症の発症メカニズムです。

ではこの後、心的装置はどう振る舞うのでしょうか?フロイトによれば心的装置はわざと不安な状態を作り出し、また外傷を与えた場面を想起させ、流入するエネルギーの拘束を心の中でシュミレートしようとします。つまり外部からのエネルギーに不安が対処するという事態の再現を繰り返すことで、そのエネルギーの統御を実現しようとします。もちろんこの統御は簡単には実現しないから、外傷的な場面が夢の中に何度も再来することになります。これが反復強迫のメカニズムです。

この点、先述したようにフロイトによれば快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増加であり、快原理とは心的装置が不快を避けて快を求める行動原理を指しています。つまり、流入したエネルギーを拘束するために不安によって外的なショックに備えるという一連のプロセスはこの快原理の実現を目指すものであり、反復強迫もまたこの原理の実現を目指すものに他なりません。では快原理の実現はなぜ目指されるのでしょうか。フロイトの「思弁」はここから始まります。


* 超越論的経験論と快原理の彼岸

まずフロイトは外傷神経症を通じて発見したメカニズムを精神生活一般に拡張することを試みます。反復強迫は外部からの刺激によって引き起こされるだけでなく子供の遊びや治療中の神経症患者まで幅広く見出される現象です。ということは外傷性神経症を引き起こすエネルギー流入に比しうる何らかの興奮が内部から起こっていることが予想されます。そしてフロイトによればこの内部興奮の源泉こそ、有機体の「本能 trieb」に他なりません。

フロイトはこの本能を「より以前の状態を回復しようとする、生命ある有機体に内属する衝迫である」と説明します。有機体が緊張を排し、平衡を取り戻そうとするのはそのためだと考えられます。そしてここでいう「より以前の状態」を「思弁」するフロイトは「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという仮定が許されるなら、我々はただ、あらゆる生物の目標は死である(…)としか言えない」と述べます。これがフロイトのいう「死の本能」です。

もちろんこの「思弁」にはすぐさまにごく単純な疑問が呈されるでしょう。ではあらゆる生命の目標が死であるのならば、なぜあらゆる生命には自己保存本能、すなわち生の本能が見出されうるのかという疑問です。フロイトの答えは極めてシンプルです。生の本能は死の本能の部分に過ぎないからです。生命は外から与えられる死ではない、あくまでも「自分自身の死」を目指しており「有機体はただ自分のやり方でのみ死のう」とします。これが「死の本能」です。従ってそのような「自分自身の死」を目指す生の長い過程を邪魔するものは全力で排除します。これが「生の本能」です。つまり「生の本能」とは「死の本能」の部分を近視眼的に見た時に見出されるものに過ぎないということです。

以上のようなフロイトの「思弁」をドゥルーズは高く評価します。けれども同時にドゥルーズは「超越論的探求の特徴は、ここでやめたいと思うところでやめるわけにはいかないというところにある」と述べています。フロイトは経験領域を支配している快原理について考えを突き詰め、それを基礎付ける超越論的原理である「死の本能」へと到達しました。しかしフロイトはこの「死の本能」を「想定」したところでその探求をやめてしまいます。そこでドゥルーズはこの超越論的探求の後を継ぎ「死の本能」という超越論的原理そのものの「発生」の解明に取り組むことになります。

こうしたことからドゥルーズは『差異と反復』(1968)において「フロイトは、リビドーは自我に逆流すると、必ず己を脱性化し、タナトスへ奉仕することが本質的にできる移動性の中性エネルギーを必然的に形成する、と述べている。けれども、なぜフロイトは、そのようにして死の本能を、そうした脱性化されたエネルギーに先立って存在するものとして、つまりそのエネルギーから原則的に独立したものとして提起するのだろうか」と述べ、ここから「タナトスは、エロスの脱性化と、すなわち、フロイトが語っているそのような中性的で移動性のエネルギーの形成と、完全に混じり合っていると思われる。このエネルギーは、タナトスへの奉仕に移行するのではなく、タナトスを構成するものである」という解釈を提案します。

つまり快原理の作動により「脱性化」された「中性エネルギー」はフロイトのいうようにタナトスに「奉仕」するのではなく、この「中性エネルギー」こそがタナトスそれ自体を「構成」するということです。換言すれば、ここでドゥルーズは死の本能、つまりタナトスという超越論的原理は快原理という経験的原理の要請に従って生成すると考えているということです。確かに経験領域を支配する経験的原理は超越論的原理に基礎付けられています。しかし超越論的原理は経験的原理から独立して存在するのではなく経験的原理と不可分の形でそれと並んで生成されるものであるということです。

このようにドゥルーズはカントが想定しただけの自我の発生を問い、そこから自我を形成する経験的原理としての快原理を駆動させる超越論的原理としての死の本能の発生を問いました。もちろんドゥルーズのフロイト読解には異論もあるでしょう。しかしドゥルーズがフロイトを読み抜いた先にフロイト本人も問わなかった問いを開いたことは確かでしょう。超越論的探求の特徴は、ここでやめたいと思うところでやめるわけにはいかないのです。そして、このようなドゥルーズが開いた超越論的探求の問いの系譜からは近代哲学と精神分析を接続し、両者を統合的に理解するための視座を得ることができるのではないでしょうか。




















posted by かがみ at 23:48 | 精神分析