現代思想の諸論点
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フランス現代思想概論
ラカン派精神分析の基本用語集
2025年08月24日
不気味なものと不気味でないもの
* 快感原則の彼岸と不気味なもの
精神分析を創始したジークムント・フロイトは1919年に「不気味なもの Das Unheimliche」と題される論文を発表しています。この1919年という年はフロイトが「快感原則」を根底におく前期の理論体系から「快感原則の彼岸」としての「死の欲動」の存在を仮定する後期の思想に移行する過度期に位置しています。ここでいう「快感原則」とは心的エネルギーの恒常性(ホメオスタシス)を保つための自動調整作用をいいます。フロイトによれば「快」とは興奮量の低い状態を指し、反対に「不快」とは興奮量の高い状態を指し、興奮量が低い方が心は安定するため人は快を好むということになります。
そしてフロイトはこの快感原則に1人の人間の心的統一性を保証する機能を見出しています。よく知られるように精神分析の革新性は1人の人間の中に知覚と運動を制御する複数の審級を見出し、それら諸審級の争いを発見した点にあり、この複数の審級は前期のフロイトにおいては「意識/前意識/無意識」からなる第一局所論として、後期フロイトにおいては「自我/超自我/エス」からなる第二局所論としてモデル化されています。つまり1人の人間の中に複数の心的人格が競合する場=空間があり、これらの心的人格の競合を調停して個人の心的統一性を保証するものこそが快感原則であるということです。
このようにフロイトはその前期においては人は畢竟、快のみのために生きると考えました。ところがその後期になると人は快のみのために生きるのではなく、そこにはしばしば、あるズレが忍び込み、人は不快へと駆動されると考えるようになります。
フロイトは1920年の著作『快感原則の彼岸』で、そのズレを「反復強迫」に見出しています。この点、ある種の神経症患者や幼児においては、しばしば同じ外傷ないし苦痛の感覚を飽きることなく反復することが観察されていますが、彼らのその行動を快感原則から解釈することは困難です。では彼らを駆動するものは何なのか。この問いは後期フロイトの精神分析理論の中核に位置することになり「不気味なもの」という論文もまたこうした問題意識から記されています。
* フロイトの不気味な経験
この「不気味なもの」という論文でフロイトは「不気味さ」の本質は親しく熟知しているはずのものが突然に疎遠な対象に変わるその逆転のメカニズムにあると述べています。そして同論文は「不気味なもの」の感情の起源についていくつかの仮説を検討したのち、最終的に「反復強迫を思い出させるものこそが不気味に感じられる」と結論づけています。このように「不気味さ」とはフロイトによれば快感原則からの逸脱の想起にともなう感情であるということになります。
フロイトがそこで挙げる「不気味なもの」の典型例はそれ自体では無意味な出来事の偶然的な反復、例えば1日の間に同じ数字に何度も出会うといった現象ですが、同時に彼は「不気味なもの」の例として神経症患者が「自分たちが考えていたその人間に決まって出会う」という体験を挙げています。
事実上の偶然としか言いようがない数の反復と異なり「自分たちが考えていたその人間に決まって出会う」という体験が生じる理由はある程度分析できます。もとよりフロイトは「自分たちが考えていたその人間に決まって出会う」という体験について1901年の著作『日常生活の精神病理学』においてフロイトは街頭で不愉快な友人について考えていた直後にその当人に出会うという自身の経験を次のように分析しています。
フロイトは2人の距離がまだ遠く離れている時点でその友人がこちらに歩いてくる姿を知覚しますが、その知覚自体は感情的な動機により抑圧され、意識にのぼりません。にもかかわらず他方でその情報を受け取った無意識は独自に連想の糸を辿り、その友人を空想のかたちで意識にのぼらせます。
つまり、ここでは一つの情報が二つに分割され、そののちに別々に処理されていることになります。そして、その間にフロイトと友人との距離は縮まっており、結果としてフロイトはちょうど友人のことについて考えていたときにまさにその当人から声をかけられるという「不気味な」体験をすることになるということです。
* 不気味なものと無意識
こうした初期フロイトの仕事を手がかりとして東浩紀氏は「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」(1997〜2000)という論考においてフロイトのいう「不気味なもの」が生じるメカニズムを次のように解釈します。
まず同論考は『日常生活の精神病理学』におけるフロイトの分析が人の心の内部で稼働している複数の情報処理装置の衝突(より正確にはその処理経路とその中を通過する速度の衝突)への着目によって成立している点を挙げます。すなわち、人の心は「意識」という情報処理装置のバックグラウンドで「意識」とは異なる演算速度を持つ「無意識」という情報処理装置が稼働しており、我々は一つの情報を常に同時に複数の経路を通じて処理しているということです。従ってその演算結果も複数出力されることになり、それらの出力結果が相互に矛盾し衝突することでヒステリーといった症状や夢内容や失錯行為が生じることになります。
『ヒステリー研究』(1985年)から『夢判断』(1900年)、そして『日常生活の精神病理学』へと至る世紀転換期のフロイトは一貫してこの演算結果の衝突の問題を扱っていたと同論考はいいます。また『ヒステリー研究』の出版とほぼ同時にフロイトが書き記していたとされる『科学的心理学草稿』においては既に心のメカニズムを説明するための中心概念として「経路」という発想が持ち出されています。
この『科学的心理学草稿』によれば情報=知覚はニューロンの興奮を引き起こし、次にその興奮は移動してニューラル・ネットワークの中にそれが通過した痕跡を残し、それが「経路」になり、この「経路」の深さや大きさは各興奮に与えられたエネルギーの量(備給)により決定されることになります。そして、このテクストでフロイトは不条理な夢内容やヒステリー症状が複数の経路の存在によって生まれることをはっきりと述べています。
初期フロイトにおけるこうした生理学かつ機械論的な心のモデルはやがて主体間の言語コミュニケーションに基礎を置いた解釈学的方法としての精神分析の確立により表面的には放棄されてしまいます。しかしその発想はフロイトの仕事の根底に常に潜在していたと同論考はいいます。
すなわち、この文脈において「不気味なもの」との出会いという体験は、人の心の内部を走る諸経路の複数性、情報処理の並行性をその人自身がはっきりと自覚する体験として解釈できます。我々は通常、自分を1人の人間だと考えていますが、それは畢竟、心に宿る情報処理装置が一つだと考えていることを意味しています。しかしながら前述のような「不気味な」体験において人はしばし意識とは無関係に処理された別の情報がやや遅れて意識へと回帰する現象に出会うことになり、その時、我々は心が分散されているという事実に直面し、その分散状態の再認こそが「不気味さ」と呼ばれる特殊な感情を引き起こすことになります。
* 不気味なものとソーシャルメディア空間
以上のようにフロイトは快感原則から逸脱する存在を「不気味なもの」と名付けました。そして東氏によれば、それは心の内部を走る諸経路の複数性、情報処理の並行性から生じるものであるとされます。そして氏は今日における情報社会論の基礎にはこうした「不気味なもの」の感覚を置くべきであると主張しました。
この点「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」において氏は「分身」と「不気味なもの」を対置し、その対立をさらにウィリアム・ギブスンの小説とフィリップ・K・ディックの小説に重ねるという議論を展開しています。
まず氏はギブスンを「分身」の作家として位置付けます。なぜならば彼のいう「サイバースペース」とは人々が「分身(アバター)」を送り込む仮想空間のことだからです。「サイバースペース」という言葉が広く人口に膾炙するきっかけとなったギブスンの小説『ニューロマンサー』は情報社会の主体はネットワークに触れることで物理的身体と電子的身体に分裂し、後者をサイバースペースに送り込むというイメージの上で語られており、そこでは情報技術の本質は自分の電子的分身を生み出すことにあると考えられています。
これに対してディックの小説で重要な役割を果たすモチーフが「不気味なもの」です。それは例えば『火星のタイムスリップ』であれば時間感覚を変容させる幻覚剤であり『パマー・エルドリッチの三つの聖痕』であれば幻覚剤とジオラマを組み合わせた仮想現実キットであり『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』であればアンドロイドであり『ユービック』であれば死者の脳を活性化する技術です。そしてこのような「不気味なもの」との接触によって登場人物が現実感を失っていく経験をディックは繰り返し描いており、その世界観はしばし「悪夢的」とも形容されます。
以上のようにギブスンが「分身」によって此方(=現実)と彼方(=サイバースペース)とをきっちり区別した世界を描いたのに対して、ディックは「不気味なもの」によって此方と彼方の境界が融解していくような経験を現代社会の本質として捉えているということです。
そして東氏は後に『観光客の哲学』(2017)において「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか?」の議論を更新しており、そこで同論考の主張は20年が経ったいま多く人が体感できる話なのではないかと述べています。例えば現代のSNSのユーザーはしばしば現実に紐づいた実名アカウントである「本アカ」と、現実から切り離された匿名アカウントである「裏アカ」を使い分けていますが、この区別を援用して説明すれば、ギブスンが描いたのはいわば本アカと裏アカがきちんと区別できている世界であるといえます。
しかし実際問題、本アカと裏アカを使い分けているうちに、その当人もその使いわけがだんだんできなくなってくることがしばし生じます。裏アカで吐いた毒はまさに「不気味なもの」として、徐々に本アカのコミュニケーションに歪みを与えていくことになります。我々はいままさにそのような事例をヘイトやフェイクニュースの隆盛という形で日常的に目にしているように思われます。ディックの小説はその「悪夢」を正確に予見しており、それゆえに氏は情報社会論はギブスンのいう「サイバースペース」のうえにではなく、ディックが描いた「悪夢」のうえに設立すべきだといいます。
確かにこのような「悪夢」的な傾向はコロナ・パンデミックを経てますます加速しているといえるでしょう。今日のソーシャルメディア空間におけるアテンション・エコノミーの加速とポピュリズムの台頭は様々な局面における社会の分断と民主主義の機能不全を引き起こし、いまやSNSは一方でフェイクニュースや陰謀論の温床となり、もう一方では正義の名の下に失敗した他人に安全圏から石を投げつける安価で高性能な投石機と化していると言わざるを得ないでしょう。
そして、こうしたソーシャルメディア空間に広がる病理はまさに「不気味なもの」への過剰なコミットメントによって生じているといえます。今日の情報社会において人はどうあっても「不気味なもの」から逃れられません。ではこうした「不気味なもの」に対処するにはどうすればよいのでしょうか。答えはある意味で極めて単純です。「不気味なもの」を「不気味でないもの」に変えてしまえばいいということです。
* 無意味の諸相と不気味でないもの
この「不気味でないもの」を哲学的な概念として提示する千葉雅也氏は『意味がない無意味』(2018)という論集の冒頭に置いた総論的な論考「意味がない無意味−−自明性の過剰」で「意味」に対する「無意味」を〈意味がある無意味〉と〈意味がない無意味〉から論じています。
まず、ここでいう〈意味がある無意味〉とはある対象(例:トマト)から様々な意味(例:トマトは赤い/夏野菜である/栄養がある/美味しい/たくさん品種がある/庭で栽培している・・・etc)を汲み尽くしてもなお「いわく言いがたさ」が残る「謎のx」としての「無限の多義性としての無意味」のことをいいます。
つまり、あらゆる対象は有限に有意味なものとして現前すると同時に無限の多義性としての〈意味がある無意味〉を持つ「謎のx」なのであり、我々はその周りを「空回り」するようにして意味を生産し続けているということです。同論考は〈意味がある無意味〉とは意味の世界に空いた「穴」のようなものであるといいます。そして、この「最強の重力を持つ中心点」に向かって「意味の雨」が降り続け、その「穴」は決して埋まることはありません。
このような〈意味がある無意味〉の典型例がフランスの精神分析家ジャック・ラカンのいうところの「現実界」です。よく知られるようにラカンは人間の精神活動を「想像界(イメージの次元)」「象徴界(言語の次元)」「現実界(イメージと言語の外部の次元)」という三つの次元から説明していますが、このようなラカン的構図において「想像界」と「象徴界」の外部に位置する「現実界」は「謎のx」として無限に「意味」を産出する「意味の彼岸」としての〈意味のある無意味〉に位置付けられます。
これに対して〈意味がある無意味〉へ向けて降り注ぐ「意味の雨」を堰き止めるような無意味が〈意味がない無意味〉です。同論考は〈意味がない無意味〉とは意味の世界に開いた「穴」に蓋をする「石」のようなものであるといいます。つまり〈意味がある無意味〉とは「もっと何かを言いたくさせるような無意味」であり〈意味がない無意味〉とは「我々を言葉少なにさせ、絶句に至らせる無意味」であるということです。
もっとも同論考は二つの無意味は同じ場所で重なっているかもしれないといいます。すなわち、同じ場所が同時に「穴」であり、かつその「穴」に蓋をする「石」であり、しばし意味を発生する何かが意味を遮断する何かにすり替わり、あるいは意味を遮断する何かが意味を発生する何かにすり替わることになるということです。
そして同論考は〈意味がない無意味〉を「身体」の問題として論じます。つまり〈意味がある無意味〉から〈意味がない無意味〉への転換とは、無限の多義性に溺れる「考えすぎること」から無限に降り注ぐ意味の雨を跳ね返す「行為する身体」への転換であるということです。
例えば千葉氏の最初の著作である『動きすぎてはいけない』(2013)が打ち出した「接続過剰から非意味的切断へ」というテーマはこうした思考から身体への転換に相当し、ここでいう「非意味的切断」の「非意味」が〈意味がない無意味〉に相当します。
なお、ここでの「身体」という言葉は人間や動物の「からだ」のみならず、英語の「body」が意味するところの「物体」や「物質」、あるいは「集団」をも含み、さらには同論考はイメージや絵画における「形態」も、音楽における「メロディー」や「リズム」も「身体 body」として捉えています。そして、こうした意味での「行為する身体」を捉えるために千葉氏が提示する概念が「不気味でないもの das Un-unheimliche」です。
* 不気味なものと不気味でないもの
この点、フロイトのいう「不気味なもの das Unheimliche」はラカンにおいては「不安」の現象として捉えられます。それは「馴染み heimliche」であるはずの事物の状態が、ふとした瞬間に、漠然とした違和感を呈する事態をいいます。すなわち、ラカン的構図における「不気味なもの」とは「現実界」つまり〈意味がある無意味〉が急に意味(想像的かつ象徴的)の地平に迫り出してくる事態であるといえます。
このことを千葉氏は次のように再解釈します。「馴染みのもの」とは有限に有意味な事物のことであり、それは〈意味がある無意味〉の無限の多義性の減算によって生じています。他方「不気味なもの」とは、通常は身体によって抑圧されている〈意味がある無意味〉の無限の多義性がにわかに浮上し、つまり身体性が弱まることによって、意味の有限性が不安定になるという事態であるということです。
このように「馴染みのもの」と「不気味なもの」は互いを前提し合う=相関性を成しています。そこで氏は馴染みのものと不気味なものの相関性の外部に〈意味がない無意味〉に相当する第三項として「不気味ではないもの」を想定します。それは有限化を引き起こす「身体」それ自体の性質です。
フロイトのいう「不気味さ」とは、いわば無限性の迫り出しによる有限性の破れですが、ここでは立場が逆転してます。千葉氏のいう「不気味でなさ」とは有限性の迫り出しによる無限性の破れであるということです。
それはもはや無限性と相関しない「ラディカルな有限性」であり、不安の反対の極端である「馴染み以上」のものであり、通常の「(不安の反対としての)馴染みさ」を「自明性」と呼ぶのであれば、不気味でないものとは「自明性の過剰」であるといえます(この用語法は統合失調症における「自明性の喪失(ブランケンブルク)」という事態が念頭に置かれています)。このような「自明性の過剰」とは「現実性の過剰」であり、それは行為の純粋化に他ならないということです。
そして、このような「ラディカルな有限性」に至るための技法として千葉氏が『勉強の哲学』(2017)で提唱した「ラディカル・ラーニング(深い勉強)」を位置付けることができるでしょう。
この点「勉強」というのは基本的に「馴染みのもの」へ「アイロニー」を入れて「不気味なもの」に変える営為であるといえます。しかし人はしばしこの「不気味なもの」の中に何か「至高なもの」を見出してしまいます。こうした「アイロニーの有限化」を同書は「決断主義」と呼びます。そしてソーシャルメディアの様々な病理の根源にあるのはこうした意味での「決断主義」に他なりません。
そこで同書は「勉強」を「ユーモア」によって多重化し、さらに「享楽的こだわり」による「ユーモアの有限化」により思考の足場を「仮固定」することを勧めます。こうした「アイロニーからユーモアへの折り返し」は、いわば「不気味なもの」から生じる無限の意味を蒸発させ「不気味でないもの」に変える営為であるといえるでしょう。
こうしてみると同書の提唱する「ラディカル・ラーニング」は「不気味なもの」が跋扈する現代情報環境に対する優れた処方箋でもあります。すなわち、情報社会論の基礎に「不気味なもの」の経験があるとすれば、その突破口は「不気味でないもの」によって切り開かれるといえるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 22:11
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