【参考リンク】

現代思想の諸論点

精神病理学の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2025年07月27日

リゾームとアーキテクチャ



* アンチ・オイディプスの衝撃

フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス−−資本主義と分裂症』(1972)は1968年にフランスで起きたいわゆる「5月革命」を駆動させた「欲望」の奔流を原理的に考察して1970年代の大陸哲学最大のムーブメントを巻き起こしました。

同書の主旋律を成すのはその極めて激越なまでの精神分析批判です。この点、精神分析を創始したオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトは19世紀末、当時謎の奇病とされたヒステリーをはじめとする神経症の治療法を試行錯誤する中で、その原因が幼児期の性生活に由来する性的欲望と性的空想のなかにある事を突き止めて、幼児期の性生活の中核には、異性の親に愛着を持つ一方で同性の親に対する憎悪を抱くという「エディプス・コンプレックス」なる心的葛藤があることを発見しました。

この一見して奇怪なフロイト神話を構造言語学の知見を用いて再解釈したのがフランスの精神分析家ジャック・ラカンです。ラカン理論の最も大きな特徴は人の精神活動を「想像界(イメージ領域)」「象徴界(言語領域)」「現実界(外部)」という三つの位相によって把握する点にあります。そして、ラカンはエディプス・コンプレックスを「象徴界」という「シニフィアンの構造」を統御するシニフィアンである〈父の名〉の導入として捉え、この〈父の名〉が正常に導入されているか否かを基準として、人の心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかへと鑑別しました。

これに対してドゥルーズ&ガタリはフロイト=ラカンが提示するエディプス・コンプレックスに規定された「神経症=いわゆる正常」という構図を真正面から批判します。この点、ドゥルーズ&ガタリは「欲望機械」という奇妙な概念を提示します。彼らによれば「欲望」とは自然、生命、身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な「機械」に宿る非主体的な力の作用であり、これら「欲望機械」は、それぞれ相互に連結して作動する一方、同時にその連結に必然性はなくたちまち断絶し、別のものへと向かい新たな連結を作りだすといいます。こうした矛盾した二面性からなるプロセスを彼らは「結びつきの不在によって結びつく」「現に区別されているかぎりで一緒に作動する」といった両義的な表現で定式化しました。

この「欲望機械」なる概念はガタリが提示した「機械-対象 a 」という概念に由来します。ガタリは「機械と構造」(1969)という論文において「構造」を重視する1950年代のラカンを批判しつつ「構造を超えるもの」として1960年代のラカンが提示した「対象 a 」に注目し「機械-対象 a 」という概念を提示しました。この点、ラカンのいう「対象 a 」とは「構造を越えるもの」として「構造」を安定させる装置であり、そこに「構造」それ自体を変革する契機は存在しません。これに対して、ガタリのいう「機械-対象 a 」は「構造」という名の因果の連関を多様多彩な形へと切断して「構造」に規定された「一般性」に回収不能な個々の「特異性」を切り出す機能を担っています。すなわち「機械-対象 a 」はいわば「構造」を常に脱構築していく装置です。このような「機械-対象 a 」の持つ機能をさらに拡大したものがドゥルーズ&ガタリのいう「欲望機械」です。

こうしたことから、ドゥルーズ&ガタリにとって「欲望」とは本来的に「こうあるべき」という「コード(規則)」に囚われない多様多彩な「脱コード的」な性格を持っているものとして捉えられます。それゆえに彼らは「欲望は本質的に革命的である」という基本的テーゼを打ち出すことになります。


* ツリーからリゾームへ

こうした本来的に脱コード的ないし革命的な欲望に対して、これを規制して秩序化する社会様式をドゥルーズ&ガタリは「原始共同体」「専制君主国家」「近代資本主義」という三段階に区分しました。そして、これらの社会様式を欲望の側から見た場合、それぞれの特質は「コード化」「超コード化」「脱コード化」にあるといいます。

すなわち、近代資本主義というシステムは外部の多様多彩な脱コード的な欲望によって駆動しつつも、これらの欲望を「代理-表象」として整流して内部に還流させることでシステムを安定させようとする「公理系(パラノイア)」として作動していることになります。こうした意味において、幼児の多様多彩な欲望を「父ー母ー子」のオイディプス三角形へと整流する精神分析とは、システムの安全装置以外の何物でもなく、それゆえに彼らはラディカルな批判を浴びせます。

そしてドゥルーズ&ガタリはシステムを内破するモデルを「分裂症(スキゾフレニア)」に求めました。資本主義システムが排除する分裂症はまさにシステムの外部をなしています。すなわち、この世界を分裂症の側からみるということは欲望における本来的な外部性を奪還するということに他なりません。こうしたことからドゥルーズ&ガタリは精神分析のオルタナティブとして、いわば「神経症の精神病化」を目論む「分裂分析」を提唱します。

このように『アンチ・オイディプス』においてドゥルーズ&ガタリが目指したのはいわば千の欲望の表出であり、これはやがて同書の続編として公刊された『千のプラトー』(1980)において打ち出された「ツリーからリゾームへ」というテーゼへと昇華されることになります。

ここでいう「ツリー(樹木)」とは1本の幹を中心に根や枝葉が広がり階層化されており、我々が一般的に「秩序」と呼ぶものの特性を備えています。これに対して「リゾーム(根茎)」とは全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただ限りなく連結して、飛躍し、逸脱し、横断する要素の連鎖からなります。こうした「リゾーム」という言葉によってドゥルーズ&ガタリは旧来の家父長的規範性からの逃走と偶然的接続による多様な生のなかに、単なるカオスではない別の秩序の多様な可能性を見出していくのでした。


*『構造と力』とニュー・アカデミズム

オイディプスの首を切り飛ばし、千の欲望を表出せよ!こうしたドゥルーズ&ガタリの激越なメッセージは1970年代という革命の夢が潰えた時代においてはある種の解毒剤の役割を果たし、フランス内外で熱狂的な反響を呼び起こしました。そして日本でも1980年代以降における国内批評シーンにおいて彼らは少なからぬ影響力を行使しています。

日本経済が空前のバブル景気へ向かいつつあった1983年9月、勁草書房という人文系出版社から一冊の本が出版されました。タイトルは『構造と力』。著者は浅田彰。当時、京都大学人文科学研究所助手のポストにあった弱冠26歳の青年が著したこの本はフランス現代思想を題材にした難解な思想書にもかかわらず15万部を超えるベストセラーとなり、世の中に「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる空前の現代思想ブームを巻き起こします。

同書は「序に代えて《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み−−千の否のあと大学の可能性を問う」において、いま大学という場で真に学ぶべき知とは何かという問いにつき、重要なのは「感性によるスタイルの選択」であり「言ってしまえばシラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである」と主張します。こうした観点から同書の第T部においては構造主義とポスト・構造主義のパースペクティヴが素描され、第U部においては構造主義のリミットとしてラカンが位置づけられ、その後いよいよポスト・構造主義の大本命としてドゥルーズ&ガタリが登場します。

この点、同書はドゥルーズ&ガタリの「コード化」「超コード化」「脱コード化」という三段階説に依拠した上で、脱コード化を極限まで推し進め「内部」から「外部」に出よと力説します。もっとも、ドゥルーズ&ガタリがいうところの「オイディプス的三角形」をはじめとする近代資本社会に実装された様々な「整流器」は「脱コード化」を促す過剰の奔出をなし崩し的に解消して、同書が「クラインの壺」と呼ぶ無限循環回路へと還流させていくことになります。腰を落ち着けたが最後「外部」は新たな「内部」になります。こうした「クラインの壺」の中でなお「外部」へ突き抜けようとするのであれば、重要なのは「常に外へ出続ける」というプロセスに他ならないということです。


* パラノ・ドライヴとスキゾ・キッズ

こうして同書終盤で示された「パラノイアックな競争/スキゾフレニックな逃走」というコントラストは浅田氏の次著「逃走論(1984)」においてポストモダン社会における「若者の生き方論」へと接続されることになります。

同書は「過去のすべてを統合化=積分して背負いこみ、それにしがみついている」ことを偏執型(パラノイア)に準えて「パラノ型」と呼び、これに対して「そのつど時点ゼロにおいて微分=差異化している」ことを分裂症(スキゾフレニー)に準えて「スキゾ型」と呼びます。

そして「パラノ人間」が「《追いつけ追いこせ》競争の熱心なランナー」であり、これに対して「スキゾ人間」は「《追いつけ追いこせ》競争に追い込まれたとしても、すぐにキョロキョロあたりを見回してとんでもない方向に走り去ってしまう」のであり「《追いつけ追いこせ》のパラノ・ドライブによって動いている近代社会は、そうしたスキゾ・キッズを強引にパラノ化して競争過程に引きずり込むことを存立条件としており、エディプス的家族をはじめとする装置は、そのための整流器のようなものである」といいます。

こうして浅田氏は今こそ「パラノ・ドライブ」の外に出て「スキゾ・キッズ」の本領を発揮し、メディア・スペースで遊び戯れる時が来たと力説します。つまり既存の秩序である「ツリー」から逃走し、自在に「リゾーム」を作り出す「スキゾ・キッズ」への生成変化こそがポストモダン社会における若者の生き方であるということです。

こうした考え方は消費化情報化社会が爛熟し、バブル景気へと突入しつつあった1980年代中盤の日本社会の気分と見事に同調することになりました。「パラノ/スキゾ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞し、浅田氏は自らその「逃走」を実践するかのようにマスメディアの寵児となっていくのでした。


* 管理社会の拡大

ではオイディプスなる近代の亡霊が退場したのであれば、後はリゾームが自在に広がっていく自由で開放的な社会が実現されるのでしょうか。もちろん事態はそう単純ではありません。この点、ドゥルーズは1990年に公刊した『記号と事件』に収録されたテクスト「追伸−−管理社会について」においてオイディプスが失墜した後に到来するであろう未来図を「より悪いもの」が出現したある種のディストピアとして描き出しました。

同テクストでドゥルーズはミシェル・フーコーの権力論を参照し、現代はフーコーのいう規律訓練型権力が中心的に作動する「規律社会」にとって変わり管理型権力が中心的に作動する「管理社会」に変わりつつあると主張します。

同テクストが前提とするフーコーの権力論とは次のようなものです。フーコーは1975年に公刊した『監獄の誕生』において近代社会の権力は、もはや国家から市民に対して一方的に働くものではなく、市民ひとりひとりの価値観を変え、国家的な目的に自発的に従っていくような行動様式を作り上げる複雑な装置として機能していると主張しました。すなわち、権力には人々に特定の行動を選ばせる「強制的」な側面だけではなく、その行動様式を選ぶように価値観を変えていく「構成的」な側面があるということです。

そしてフーコーは、このような権力は「規律訓練」の場を通じて作動すると論じました。彼がその典型としてあげるのがイギリスの社会思想家ジェレミー・ベンサムが18世紀末に考案した「一望監視施設(パノプティコン)」です。この施設では中心にある塔の周囲に牢獄が円環状に配置されており、この牢獄は独房に区切られ、それぞれの独房は塔に向かって窓が開かれています。塔からは独房が監視できますが光量と角度の関係で独房からは塔の内部は見えません。

つまり、この「一望監視施設(パノプティコン)」において囚人はつねに監視される可能性に曝されていますが、現実に監視されているかどうかは分からず、つねに架空の視線に怯えて暮らさねばなりません。結果として彼らは監視の視線を徐々に内面化させていくことになり、自分で自分を監視するようになります。フーコーによれば、この「視線の内面化」こそが規律訓練型権力の雛型をなしています。監視される対象のなかに監視の視線が内面化されたとき、そのときこそ監視はもっとも効率よく機能することになります。

例えばジョージ・オーウェルが1949年に公刊した『1984年』は、こうした権力と視線の関係をそのまま小説化したような作品です。そこで描かれる未来社会では、公共空間と私室とを問わず、あらゆる場所に「テレスクリーン」と呼ばれる監視カメラ兼スクリーンが設置されています。街のそこかしこには「ビッグ・ブラザーはあなたを見ている」という標語が貼られ、人々はつねに監視に怯えていますが、肝心のビッグ・ブラザーは実在しません。

そして、この世界ではビッグ・ブラザーに服従するだけでは十分ではなく、彼を内面から愛さなければなりません。このように同作ではフーコーが『監獄の誕生』を公刊した四半世紀以上前に一望監視施設の構造と規律訓練の本質が明確に描かれています。


* パノプティコンからコンピュータへ

こうしたことからフーコーは現代社会においても多くの制度が一望監視施設の応用で作られていると考えていました。これに対してドゥルーズは同テクストにおいて規律訓練という権力形式は二十世紀の初めに頂点に達して現在はすでに衰退しており、かわりに台頭しつつあるのは情報処理とコンピュータ・ネットワークに支えられた「管理型」と呼ぶべき新しい形式であると主張します。彼によれば規律訓練型権力は人々に規範を植え付けるため学校や工場のような監禁環境を必要としましたが、管理型権力はそのような場を必要とせず、個人の行動を数字に置き換えて直接に制御するとされます。

たとえばドゥルーズが例に挙げたのは、位置情報と個人認証を結びつけた緩やかな監視システムの可能性です。そこでは、決められた障壁を解除する電子カードを所持することで、各人が自分のマンションや地域に自由に出入りすることができます。しかし特定の日や時間帯には同じカードが拒絶されることもあります。このような秩序維持の方法は門番や警備員が巡回しているわけではなく、かつ住人のいかなる自己監視(視線の内面化)も必要としないという点で強制型とも規律訓練型とも異なるものです。

そして、このようにドゥルーズが管理社会を語る時に念頭にあるのが資本主義の変化です。つまり規律社会から管理社会への移行とは「生産を目指す資本主義」から「販売や市場を目指す資本主義」への変化、つまり消費社会や情報社会への変化に対応しています。そして、こうした管理社会では個々人の個人情報は情報収集のためのデータとして、例えば乗客のデータとして、小売店のデータとして、飲食店のデータとして、金融機関のデータとしてさまざまな断片に分割されていきます。したがって管理社会において個人情報は断片的なデータとしてユビキタスに管理され、しかも管理は終わることなく続いていくことになります。

まだインターネットがほとんど一般的ではなかった当時においてドゥルーズは現代社会の未来図をほとんど的確に予言しているといえるでしょう。現代社会において個々人の行動は至るところで捕捉され、記録保存されていき、しかもその情報は相互に流通し合い、蓄積されていくことになります。このようなシステムから現代人はどこまでも逃れることができません。

しかしながらその一方でドゥルーズはこうした管理社会を憂いつつも、その対応策を何ら提示することなくテクストを閉じています。オイディプスについてはあれだけ饒舌に語り倒すことができたドゥルーズが管理社会についてはほとんど沈黙を強いられたというこの事実は、管理社会がもたらす問題の複雑さと深刻さを何よりも雄弁に物語っているといえるでしょう。


* リゾームとアーキテクチャ

このドゥルーズの管理社会論は多くの研究者の関心を惹きつけ、その後も様々な議論が提示されることになります。ここでは東浩紀氏が2002年から2003年にかけて中央公論で連載した「情報自由論」をみてみましょう。周知のように氏はゼロ年代の批評シーンを切り開いた『動物化するポストモダン』(2001)の著者として知られており、氏によれば同論考は「2000年代はじめの僕は、第1章でポストモダンの理論的な問題を扱い、第2章でその情報社会における展開を扱い、第3章でそのサブカルチャーにおける展開を扱う大部の著作を夢見ていたことがありました。『動物化するポストモダン』はその第3章が、「情報自由論」は第2章が変形したものです。したがって、この論考は、『動物化するポストモダン』と双子の関係にあると言えます」ということです。

現代情報社会における「自由」を問い直すことを主題とする同論考はアメリカの憲法学者ローレンス・レッシグの著書『CODE』(1999)に依拠し、人間の行動を制限するには「法」「社会的規範」「市場」「アーキテクチャ」の4つの方法があり、この4つ目の「アーキテクチャ」を「環境」と意訳して、ドゥルーズのいう管理社会における権力の作動様式を「環境管理」と呼びます。

このような「環境管理型社会」は当然、両義的な意味を持っています。規律訓練型社会は社会をまとめ上げる「大きな物語」によるイデオロギーの統一を必要としますが、環境管理型社会はそのようなイデオロギーの統一を必要としません。換言すれば後者の社会では特定のイデオロギーと秩序維持の目的が切り離されているということです。

したがって、「大きな物語」が機能不全に陥るポストモダン状況が加速する現代社会は厄介な二面性を帯びることになります。それは一方では一つの「大きな物語」の強制を放棄し、多様な価値観を歓迎する寛容な社会であると言えます(多文化主義)。ところが他方ではそのような多様性を担保するため絶えず個人認証と相互監視を必要とする強力な管理社会でもあります(セキュリティ化=排除社会)。このどちらかに注目するかでポストモダンの捉え方は全く変わってしまうと同論考は述べます。

こうした観点からいえば、かつてニューアカデミズムが言祝いだ「リゾーム」とはポストモダン社会の多様性のみに注目した一面的な見方だったということになります。つまりドゥルーズ&ガタリのいう「脱コード化」された社会としての「リゾーム」は、ある意味で実現されたかもしれませんが、そこにはカオスと紙一重であるリゾームの多様性を円滑に問題なく維持するためレッシグのいう「アーキテクチャ」が必要になってくるということです。


* 現代情報環境における自由の在り処

では、こうしたアーキテクチャがもたらす「自由」とは本当の自由なのでしょうか。この点、同論考はレッシグと大澤真幸氏の議論を参照し、ポストモダンにおいては選択肢の多様性としての「消極的自由」が拡大する一方で、個人の価値基準を規定する「大きな物語」が機能不全に陥った結果、選択肢を選ぶ動機としての「積極的自由」もまた機能不全に陥っているとした上で、こうした「積極的自由」を情報技術によって補完するものとしてユーザーに最適化された選択肢を絞り込むフィルタリングシステムの普及を位置付けています。

2002年時点におけるこの指摘が極めて的を得ていた事は日常のあらゆるところでフィルターバブルが前面化した2020年代におけるプラットフォームの現実を見れば明らかでしょう。我々は自由に選択しているように見えて実は知らず知らずにアーキテクチャによって選択させられているということです。

そして、このようなアーキテクチャに管理された「自由」とはユーザーの個人情報の蓄積によって実現されるものであり、いわば「匿名性」を放棄した「顕名性」によって得られるものです。こうした観点から同論考はハンナ・アーレントが『人間の条件』で提示した「活動」「制作」「労働=消費」という枠組みを再解釈します。

情報技術の発達はこのアーレントの提示した三領域の全てを拡張します。それは一方で新たな公共空間を開くこともあれば(活動)、新たな協働のモデルを用意することもあるでしょう(製作)。しかしそれは他方でセキュリティとマーケティングの精緻化を介して秩序維持の媒体にもなり得ます(労働=消費)。

この点、アーレントはコミュニケーション(活動)の場を「顕名性」の領域として捉え、日常生活(労働=消費)の場を「匿名性」の領域として捉えていました。しかし同論考は人々がアーキテクチャに無自覚に個人情報を差し出している現代においては、前者を「能動的な顕名性」の領域として捉え、後者を「受動的な顕名性」の領域として捉え直す必要があるといいます。すなわち、現代の情報環境において人はもはやユビキタスな顕名社会から逃れることはできないということです。

このように同論考は『動物化するポストモダン』で提示したシミュラークルの層とデータベースの層からなるポストモダンの二層構造の裏側に、リゾームの層とアーキテクチャの層、イデオロギーの層とセキュリティの層、多様性の層と情報管理の層、寛容の原理が支配する層と排除の原理が支配する層という二層構造があることを明らかにしていきます。

そしてそれは活動の層と労働=消費の層、能動的な顕名性の層と受動的な顕名性の層、人格が問われる層とユビキタス技術で常時監視される層であるともいえます。こうしたことからポストモダンの二層構造とは「人間が人間でいられる層」と「人間が動物として管理される層」の二層構造であり、ポストモダン状況の加速とは前者の層の拡大というよりも、むしろ後者の層のますますの肥大化であるといえるでしょう。






















posted by かがみ at 22:30 | 精神分析