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フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2025年06月25日

情報社会と不気味なもの



* ポストモダンにおける主体性

しばし現代は「ポストモダン」の時代と呼ばれることがあります。ここでいう「ポストモダン」とは端的にいえば近代社会をまとめ上げていた「大きな物語」が機能不全に陥り、その結果として個々人が任意に選択した「小さな物語」が相互無関係的に乱立する状態を指しています。この点、東浩紀氏はそのデビュー作である『存在論的、郵便的』(1998)の公刊後に発表した一連のテクストで現代におけるポストモダン状況を次のように論じています。

まず東氏は「棲み分ける批評」において「アカデミックな批評」と「ジャーナリスティックな批評」の「棲み分け」を例に1990年代以降の日本社会では「徹底化されたポストモダン」が進行しつつあるといいます。続いて「ポストモダン再考−−棲み分ける批評U」において「ポストモダニズム」と「ポストモダン」を区別し「近代」の解体や超克を語る一種の「時代精神」としての前者は今やその役割を終えているが、その一方で社会状態の変化としての後者とはいまもますます過激に進んでおり、今後も衰える兆しは全くないと述べます。

そして氏は「郵便的不安たち−−『存在論的、郵便的』からより遠くへ」においてポストモダンにおける「大きな物語」の機能不全をラカン派精神分析における「象徴界(主体が面する情報に「意味」を与える社会的な言語システム)」の機能不全と重ね合わせています。

ではこのような「ポストモダン」と呼ばれる時代状況において人間のあり方は、精神分析でいうところの「主体」はどのように変容を被るのでしょうか。このような問いに対して東氏は上記のテクストと同時期に執筆された「サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか」(1997〜2000)という論考でひとまずの解答を与えています。


* 地球村からサイバースペースへ

同論考のいう「サイバースペース」とはコンピュータをつなぐネットワークを一つの「空間(スペース)」として捉える隠喩的な表現です。このようなネットワークの空間的理解は1962年に公刊されたマーシャル・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』に遡ります。メディア論の起源とされる同書は電子メディアの発展の延長線上に「地球村(グローバル・ヴィレッジ)」なるものの出現を予見していますが、その議論はきわめて両義的な意味を帯びています。

一方で同書は「地球村」を電子メディアの発展による世界の縮小化として捉えつつ、他方で同書は「地球村」を電子メディアによって生み出される新たな「精神圏」としても捉えています。このように同書の特徴はメディアを移動速度や通信速度といった「速度的=距離的」なもののみならず「空間的」な隠喩から捉えている点にあります。つまり同書のいう「地球村」とは現実空間とメディア空間とで同時に構想されているということです。

そして、このようなメディアの空間的理解は1980年代以降「サイバースペース」という語の流通によりますます強化されることになります。この言葉が広く知られるようになったきっかけはウィリアム・ギブスンが1984年に出版した小説『ニューロマンサー』だと言われています。ギブスンはこの小説でネットワークへのアクセスを「没入(ジャック・イン)」という言葉で形容し、そのことによって登場人物の意識が物理的身体から電子的身体へ切り替わるかのように描写しました。

つまり彼は近未来の情報ネットワークを目の前の物理的な現実とは異なるかたちで自立して存在する電子的な並行世界であるかのように描いたわけです。その並行世界が「サイバースペース」と呼ばれています。これは今でこそ古臭く響く言葉ですが、一時はかなり広く普及しており、日本語では「電脳空間」とも訳されていました。今でいえば「VR(仮想現実)」の概念が近いでしょう。

ともあれこの「サイバースペース」という言葉は多くの読者を惹きつけ、多くの小説や映画が似たイメージを採用しています。『ニューロマンサー』が開いたその潮流は文化史では「サイバーパンク」と呼ばれ、例えば日本では士郎正宗氏の漫画を押井守氏が映画化した『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)が有名でしょう。


* 情報社会と不気味なもの

もちろんコンピュータの情報ネットワークは現実には異世界を作り出すわけではありません。にもかかわらず「サイバースペース」なる隠喩は1998年代半ば以降の情報社会論に決定的な影響を与えました。こうしたなかで東氏は同論文で情報技術の本質は「サイバースペース」のような単純な隠喩では捕まえられるようなものではないと主張します。そこで要請されるのが「不気味なもの」という概念です。

ここでいう「不気味なもの」とは精神分析を創始したジークムント・フロイトが提唱した概念です。フロイトは1919年に書いた「不気味なもの」と題する有名な論文で、不気味さの本質は親しく熟知しているはずのものが突然に疎遠な対象に変わるその逆転のメカニズムにあると述べています。

例えばひとつしかないはずのものがたくさんに増殖したり、一度しか起こらないはずのことがなんども続けて起こったりすると、不気味さのメカニズムが発動することになります。そしてそのメカニズムは後期フロイトにおける重要な概念である「死の欲動」や「反復強迫」といった問題にも深い関係にあるとされます。

この点、東氏は同論考において情報社会論の基礎にこの「不気味なもの」の感覚をおくべきだと主張しました。つまり情報技術に接触すると人は「新世界」に行くというよりもむしろ「幽霊」に取り憑かれるのだということです。


* 分身から不気味なものへ

そして同論考で氏は「分身」と「不気味なもの」を対置し、その対立をさらにギブスンの小説とフィリップ・K・ディックの小説に重ねるという議論を展開しています。

まず氏はギブスンを「分身」の作家として位置付けます。なぜならば彼のいう「サイバースペース」とは人々が「分身(アバター)」を送り込む仮想空間のことだからです。『ニューロマンサー』の物語は情報社会の主体はネットワークに触れることで物理的身体と電子的身体に分裂し、後者をサイバースペースに送り込むというイメージの上で語られており、そこでは情報技術の本質は自分の電子的分身を生み出すことにあると考えられています(このような主体を分裂させる想像力はおそらくは同時期に流行した多重人格の現象と深い関連を持っていると氏はいいます)。

ではディックはネットワークとの接触による主体の変容をどのように描写したのでしょうか。この点、ディックは必ずしもコンピュータやインターネットを主題にした作家ではありません。そもそも1982年に亡くなった彼はパーソナルコンピュータの本格的な普及を見ていません。にもかかわらず彼の小説は来るべき情報社会の特徴を捉えた文学として高く評価されています。

このようなディックの小説で重要な役割を果たすモチーフが「不気味なもの」です。それは例えば『火星のタイムスリップ』であれば時間感覚を変容させる幻覚剤であり『パマー・エルドリッチの三つの聖痕』であれば幻覚剤とジオラマを組み合わせた仮想現実キットであり『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』であればアンドロイドであり『ユービック』であれば死者の脳を活性化する技術です。そしてこのような「不気味なもの」との接触によって登場人物は本物か偽物かわからないなにか、人間か非人間かわからないなにか、生物か無生物かわからないなにかに取り囲まれることになります。

このような構図を現代思想の言葉で表現すれば彼らは「シミュラークル」に取り囲まれているといえます。ディックはこうした「不気味なもの=シミュラークル」の出現のため、登場人物が現実感を失っていく経験をディックは繰り返し描いており、その世界観はしばし「悪夢的」とも形容されます。

以上のようにギブスンが「分身」によって此方(=現実)と彼方(=サイバースペース)とをきっちり区別した世界を描いたのに対して、ディックは「不気味なもの」によって此方と彼方の境界が融解していくような経験を現代社会の本質として捉えているということです。

そして東氏はディックの最晩年における作品『ヴァリス』の読解を通じて「分身から不気味なものへ」というテーゼを抽出し、こうしたディックが提示した世界観こそが本当の意味で新しい情報社会論の基礎になるはずだと述べています。


* 想像的同一化と象徴的同一化

ではこのような「不気味なもの」に囲まれた主体とは従来の主体と一体何がどう違うのでしょうか。この点、フランスの精神分析家ジャック・ラカンによれば人間の主体は「想像的同一化」と「象徴的同一化」という二つのメカニズムの組み合わせで構成されることになっています。

まず「想像的同一化」とは目で見ることができるイメージへの同一化を意味しています。もともとこれは幼児が鏡に映る像を自分と認識する働き(鏡像段階)を意味する言葉ですが、ラカンの理論ではより広い文脈でも使われます。

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(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』より引用)

この図においては主体からスクリーンの特定の箇所(イメージ)に矢印が向かっています。この矢印が想像的同一化の作用を表しています。ここでいうスクリーンとは主体から見た世界のことです。子どもは誰でも成長の過程で世界の誰かに同一化します。具体的には両親や教師や先輩といった人物です。このような想像的同一化の対象と自分を重ね、その立ち居振る舞いを模倣することで子どもは成長します。

これに対して「象徴的同一化」とは目で見ることができないシンボルへの同一化を意味しています。

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(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』より引用)

この図は先の図を拡張したものです。この図でも主体はスクリーン=世界を眺めていますが、今度はその背後にスクリーン=世界を成り立たせている秩序が書き込まれている点が異なっています。このようなスクリーン=世界を成り立たせている秩序をラカンの理論では「大文字の他者」と呼ばれます。

そしてこの図では主体からは想像的同一化の矢印の他にもう一つの矢印が描かれています。このもう一つの矢印はスクリーン=世界を飛び越えて「大文字の他者」から主体へと向かう「視線」に宛てられています。この矢印が「象徴的同一化」の作用を表しています。つまり「象徴的同一化」とはスクリーン=世界を成立させるメカニズムそれそのものへの同一化であるということです。

換言すれば人間は「見えるもの(イメージ)」に同一化するだけではなく「見えないもの(シンボル)」に同一化するという二重の同一化によってはじめて主体になるということです。この点、ラカンはこの「見えるもの(イメージ)」を「想像界」と呼び「見えないもの(シンボル)」を「象徴界」と呼んでいます。そしてこの「象徴界」を統御するものが「大文字の他者」であるということです。


* インターフェース的主体とエクリチュール

このようなラカンのいう主体はしばし映画の観客に準えられます。すなわち「想像的同一化」とはいわば観客がスクリーン上に映る俳優に同一化している状態をいい「象徴的同一化」とは観客がその俳優たちをまなざすカメラ、すなわち映画監督の視線に同一化している状態をいいます。そして後者へ同一化することが「成熟した(=主体的な)」映画鑑賞であるとされます。

これに対して東氏はポストモダンの主体をパーソナルコンピュータのGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)を操作するユーザーに準えて「インターフェース的主体」と呼びます。ではそのような「インターフェース的主体」がいかにしてラカンのいう想像的同一化と象徴的同一化の二重性を確保するのでしょうか。このような問いに対する東氏の解答が次の図です。

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(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』より引用)

この図ではもはやスクリーン=世界の背後の構造は描かれていません。それはポストモダンの時代において主体はもはや社会を支える象徴秩序(象徴界=大きな物語)にアクセスすることができず、したがってそこには同一化の欲望を向けることもできないことを意味しています。

ではこのような状況でいかにして主体は想像的同一化と象徴的同一化の二重性を確保するのでしょうか。ここで氏が提示したのが「宛先の二重化」という観点です。この図では一つのスクリーンのうえに想像的同一化の対象(イメージ)と象徴的同一化の対象(シンボル)が等価に並ぶ様子が描かれています。

このようにポストモダンの世界ではスクリーン=世界の上にイメージとシンボル、見えるものと見えないもの、現象とそれを生み出す原理が同時に並び立つことになります。そしてインターフェース的主体はこの二つに同時に同一化することによって構成されることになります。

換言するとインターフェース的主体はスクリーン=世界を「エクリチュール」の集積として捉えているともいえます。この点、東氏が『存在論的、郵便的』で論じたポスト構造主義を代表する思想家ジャック・デリダによれば「エクリチュール」とは、ときに「絵(イメージ)」として見られ、ときに「言語(シンボル)」として聞かれる「目と耳のあいだ」の経験であるとされます。

こうした意味での「エクリチュール」の集積に直面するインターフェイス的主体こそが「大きな物語」を喪い「不気味なもの=シミュラークル」に曝されるポストモダンの主体に他ならないということです。


* 不気味なものとしてのキャラクター

なお付言すれば、このような同論考が提示したインターフェース的主体はゼロ年代において東氏が展開したサブカルチャー論を理論的に準備したといえるでしょう。

まず氏は『動物化するポストモダン』(2001)においては「シミュラークルの全面化」からオタク系文化における漫画やアニメのキャラクターの「データベース消費」を論じ、その続編である『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)においては当時文芸市場を席巻していたライトノベルをキャラクターのデータベースを人工環境として記述される「キャラクター小説」と位置付け、キャラクターの持つメタ物語性から「ゲーム的リアリズム」を提示します。

この点、ポストモダンにおけるインターフェース的主体たるオタクはあるキャラクターが一方でただのイラストであることを理解しているにもかかわらず、他方でそのキャラクターがあたかも実在しているかのような強い感情をしばし向けることがありますが、このような両義性はキャラクターを一方でイメージ(イラスト)として、他方でシンボル(人間を表す記号)として二重に処理するメカニズムから生じています。すなわち、キャラクターをめぐる「データベース消費」や「ゲーム的リアリズム」といった経験は精神分析的見地からいえば畢竟「不気味なもの」の経験に他ならないということです。






























posted by かがみ at 22:07 | 精神分析