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フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2025年05月26日

郵便化するポストモダン




* デリダはなぜかくも奇妙なテクストを書いたのか

「脱構築」で知られるポスト構造主義を代表するフランスの哲学者ジャック・デリダは当初は現象学の研究者として出発し、1960代にはマルティン・ハイデガーの哲学を継承しつつ構造主義、精神分析、文学などを横断する議論を展開する新進気鋭の思想家として知られるようになります。

ところが1970年代から1980年代中盤のデリダはイェール大学を中心としたフランス国外での「脱構築」の受容になかば応じつつ同時にそれを裏切るかのように、伝統的な哲学のフォーマットにはもはや収まらない奇妙なテクスト実践を展開するようになります。

このようなデリダの奇妙なテクスト実践に光を当て「デリダはなぜかくも奇妙なテクストを書いたのか」という問いを真正面からテーマとした独創的なデリダ論が東浩紀氏のデビュー作となる『存在論的、郵便的』(1998)です。

同書において東氏はデリダの「脱構築」を二つのモデルに分類しています。まず一つめの脱構築のモデルはある表象システム全体の中に存在する表象不可能な「穴=ゲーテル的亀裂」を発見することでシステム全体を解体してしまう「ゲーテル的脱構築=否定神学的/存在論的脱構築」です。そして二つめの脱構築のモデルはその都度のコミュニケーションの経路の不完全性、あるいは送受信の失敗や取り違えに着目する「デリダ的脱構築=精神分析的/郵便的脱構築」です。

前者はあるシステムにおける決定不可能性に依拠することで、その決定不可能性そのものを神秘化してしまいます。これに対して、後者はあるネットワークにおける誤配可能性に注目することで、その誤配可能性から生じる訂正可能性を開いていくものであるといえます。

このように同書は1970年代にデリダが行っていた奇妙なテクスト実践を手がかりに「脱構築」の再解釈を試みた著作ですが、同書は同時に1990年代の日本社会で生じつつあった「ポストモダン」の進行という時代的状況を反映した著作であるともいえます。

ここでいう「ポストモダン」とは端的にいえば社会をまとめ上げる「大きな物語」が機能不全に陥り、その結果として個々人が任意に選択した「小さな物語」が相互無関係的に乱立する状態を指しています。この点、東氏は『存在論的、郵便的』と「ポストモダン」の関係を『郵便的不安たちβ』(2011)の冒頭に置いた「状況論」と題される3つのテクストで次のように論じています。


* 徹底化されたポストモダン

まず東氏は「棲み分ける批評」において「『批評』という言葉は今や形骸化している」といい、その「形骸化」の理由をアカデミックな批評とジャーナリスティックな批評の「棲み分け」に求めています。すなわち一方で主に大学の文学研究者によって担われるアカデミックな批評は確かに高い知的緊張に支えられていますが、今や社会的効果を失っており、他方で職業的な文芸批評家によって担われるジャーナリスティックは批評は社会的効果への強い自覚に支えられていますが、批評文そのものの知的緊張を半ば意図的に欠いているということです。

もっとも同論考によればここで重要なのは「この両者が単純に対立するのではなく、むしろ相補的な役割を担って共存している奇妙な状況」であり、このような両者の「棲み分け」こそが「知的緊張と社会的緊張を同時に担う批評が現れることを妨げる、あるいはそのような批評が書かれない状況を追認する構造にほかならない」として、このような条件が「『批評』の機能から遠く離れていることは明らかである」と述べます。そして、このような「棲み分け」が強力に機能してる理由を氏は1990年代以降の日本社会で進行しつつある「徹底化されたポストモダン」に求めています。

このような「徹底化されたポストモダン」においては、社会全体をひとつにまとめ上げる「大きな物語」という意味づけのネットワークが機能不全に陥った結果、ある言説(メッセージ)の「意味」は社会的に共有されることなく、あらゆる言説(メッセージ)は発信された瞬間に無意味な情報として流通し、その「意味」は受け手が勝手に解釈し、想像的に埋めることになると同書はいいます。だからこそ批評文の「意味」に固執するアカデミックは批評は流通可能性を捨てざるを得ず、流通可能性を重視するジャーナリスティックな批評は「意味」を無視せざるを得ず、かくして両者の「棲み分け」が強力に機能することになります。


* ポストモダンとポストモダニズム

続いて氏は「ポストモダン再考−−棲み分ける批評U」において「ポストモダン」と「ポストモダニズム」という区別を提案します。まず同論考のいう「ポストモダン」とは1970年代から先進国で始まった社会的・文化的・認識論的な変化の総称を指しています。これに対して「ポストモダニズム」とは1970年代から1980年代にかけてアメリカを中心に幅広い地域と領域で猛威を振るった「近代」の解体や超克を語る一種の「時代精神」です。

この区分からいうと社会状態の変化としての「ポストモダン」とは1990年代に入り世界的にも日本的にもますます過激に進んでおり、今後も衰える兆しは全くありません。これが「棲み分ける批評」でいうところの「徹底化されたポストモダン」です。その一方で「時代精神」としての「ポストモダニズム」は1990年代に入りその存在感を低下させ、今やその役割を終えているといえるでしょう。

この点、1990年代においてはこの両者を混同し「ポストモダンはすでに終わった」という言説が広く流布していました。しかしそれは実際のところ「ポストモダン」という時代の始まりを告げる「ポストモダニズム」と呼ばれる「時代精神」が終わったという意味でしかありません。換言すれば「ポストモダニズム」は「ポストモダン」がますます進んだからこそ終わりを迎えたということです。

なお日本における「ポストモダニズム」の流行はプラザ合意に始まりバブル崩壊に終わる断続的な好況期とほぼ重なっています。この時期の日本は膨れ上がる海外資産と右肩上がりの株価、強い円、低い失業率と高い生産性などの経済的な条件を反映して、多幸症的な「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の幻想に陥っていました。1980年代に一世を風靡した「ニュー・アカデミズム」に代表される日本型ポストモダニズムはまさにこのようなナルシシズムを理論的に肯定する言説として現れました。

つまり当時の日本では「ポストモダン的であること」と「日本的であること」がぴったりと一致してたということです。このようなポストモダニズムとナルシシズムの奇妙な融合が英米系のポストモダニズムと異なる日本型ポストモダニズムの特徴であったいえるでしょう。


* 郵便的不安から郵便的享楽へ

そして氏は「郵便的不安たち−−『存在論的、郵便的』からより遠くへ」において『存在論的、郵便的』はどのような社会の現実に対応していたのかという点について次のように論じています。

同論考は1990年代の日本社会においては社会をひとつにまとめ上げる「大きな物語」がいよいよ機能不全に陥り、様々な「小さな物語」が乱立する「(徹底化された)ポストモダン」と呼ばれる現象が急速に進行しているという現状認識から、こうした状況においていまや人々はいつも他者とのコミュニケーションが思わぬ誤配を引き起こしてしまう「郵便的不安」に取り憑かれているといいます。

そして、こうした時代状況において氏が『存在論的、郵便的』を書きつつ考えていたのはそのような「郵便的不安」から逃げるのではなく、それを反転させ、いわば「郵便的享楽」に変えるようなテクストを書けないかということであったということです。

ところでこのような「大きな物語」の機能不全はラカン派精神分析の用語では「象徴界」の機能不全に相当すると同論考はいいます。ここでいう「象徴界」とは主体が面する情報に「意味」を与える社会的な言語システムのことを指しています。

こうした「象徴界」というシンボリックな領域が機能不全に陥った結果、若年層においては「恋愛問題や家族問題といったきわめて身近な問題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な問題が彼らの感覚ではベタッとくっついてしまっている」ようになります。このような感覚をラカン派の用語でいえば「想像界(恋愛問題や家族問題)」と「現実界(世界の破滅)」が直結しているということです(ゼロ年代初頭において一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれる作品群はこのような感覚を直截に描き出しています)。

では、イマジナリーな領域(日常)とリアルな領域(セカイ)しか存在しない世界にどのようにしてシンボリックな領域(社会)を復活させることができるのでしょうか。ひとまず大きく二つの方向性が考えられるでしょう。ひとつは新たなシンボリックな「大きな物語」を捏造してしまうという方向性です。もうひとつはイマジナリーな「小さな物語」に充足してしまうという方向性です。

こうした中で氏はこの両者とは異なる方向性を提示します。すなわち、それは様々に異なる「小さな物語」を生きる他者とのあいだに「大きな物語」という「共通の言葉」を媒介としない新たなコミュニケーションの回路を開くということです。そして氏は『存在論的、郵便的』をその試みの一つとして位置付けています


* 郵便化するポストモダン

この点、同書ではデリダを精神分析でいうところの「転移」を操作する哲学者だったとも述べています。つまり相手によって使う言葉を変え、けれど会話が終わってみると相手が使っていた言葉の意味そのものが変わってしまっている、そんなコミュニケーションをデリダは目指していたということです。氏はこうしたコミュニケーションを「言葉の転移化」と呼びます。

同書のとりあえずの結論は1970年代以降のデリダが奇妙なテクストを書くようになったのは、この「言葉の転移化」にますます敏感になったせいではないかということです。そのようなデリダの戦略が果たして成功していたかどうかはともかく、それ以前に大事なのはポストモダンの断片化した世界においてはそういう哲学のあり方しか成立しないだろうし、それを先駆的に示したデリダに最大限に学べるべきものを学ぶべきだと氏は述べます。

近代社会においては個々人の生を規定する「小さな物語」の上に社会をまとめ上げる「大きな物語」が存在した(と信じられた)ことで「小さな物語」を超出する思考運動としての「超越論性」が確保されていました。しかしポストモダンが加速する現代社会においては「大きな物語」が機能不全に陥った結果、このような「超越論性」もまた機能不全に陥りました。

そうであれば、ポストモダンが加速する現代社会においては「小さな物語」から「大きな物語」へと遡行する思考運動としての「上向きの超越論性」ではなく、複数の「小さな物語」のあいだを突き抜けていく思考運動としての「横向きの超越論性」を実践することが重要になってきます。そして、このような「横向きの超越論性」を氏は「郵便的超越論性」と呼びます。

こうした意味で『存在論的、郵便的』という著作は単なるデリダ研究の枠に止まらず、ポストモダンにおける超越論性を確保するための基礎理論としても読めるでしょう。そして同書が描き出した「存在論的から郵便的へ」というパースペクティヴはゼロ年代以降の国内批評シーンにおいて「物語からデータベースへ」「セカイから日常へ」「消費から浪費=贅沢へ」「アイロニーからユーモアへ」「垂直方向から水平方向へ」といった様々な形で変奏され続けているといえるでしょう。



























posted by かがみ at 22:17 | 精神分析