【参考リンク】

現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2024年11月23日

いないいないばあの原理



* 生成変化論と存在論

「哲学」なる営為は紀元前6世紀に古代ギリシアのイオニア地方(現在のトルコ西部)から始まったとされています。「万物は水からできている」と考えたタレス(前625頃〜前548頃)を創始者として「万物の始源は無限である」と考えたアナクシマンドロス(前610頃〜前546頃)、「万物の始源は空気である」と考えたアナクシメネス(前578頃〜前527頃)など、当時の哲学者たちはさまざまに生成変化する世界の成り立ちに目を向け、万物の「始源(アルケー)」がなんであるかを説明しようとしました。

彼らはイオニア地方の中心的なポリスであるミレトスで活躍したので「ミレトス学派」と呼ばれています。そしてミレトスより少し北にあるエフェソスではヘラクレイトス(前540頃〜前480頃)が独特の思索を展開し「万物は流転する」というテーゼを提示しました(もっとも「万物は流転する」は後世の作とされており、ヘラクレイトス自身の言葉では「同じ川には二度と入ることができない」という断片が残されています)。

紀元前5世紀に入ると哲学の舞台はイタリアに移り、その思索はより思弁的になっていきます。この点「三平方の定理」の発見者として知られているピュタゴラス(前572頃〜前494頃)は宇宙の調和の根拠を「数」に求めました。そしてエレア出身の哲学者パルメニデス(前520頃〜前450頃)はイオニアの自然哲学から影響を受けながらも、彼らのいうような生成変化を否定して永遠不変の存在が「ある」という想定のもと「あるは、ある。ないは、ない」というテーゼを提示しました。

こうしたことからパルメニデス以降の哲学者たちは「万物は流転する」という立場と「あるは、ある。ないは、ない」という立場を両立させるための説明を試みるようになります。例えばエンペドクレス(前490頃〜前430頃)は「火・土・水・空気」という4つの元素が「愛の力(結びつける力)」と「憎しみの力(引き離す力)」によって集合離散を繰り返すと考えました。さらにデモクリトス(前460頃〜前370頃)をはじめとする原子論者たちは多種多様な「原子(アトム)」が空虚(何もない空間)の中を運動してさまざまに結びつくと考えました。

ともあれ、ここでは世界のあり方として大きく「万物は流転する」と「あるは、ある。ないは、ない」という二つの考え方が提示されていることになります。前者は「生成変化論」と呼ばれ、後者は「存在論」と呼ばれるものです。もっともこの二つの立場のどちらが哲学的あるいは自然科学的に「正しい」かを考えてみたところで(少なくとも日常生活レベルにおいては)あまり実用的な議論になるとはいえないでしょう。けれどもこの二つの立場をこの世界がもたらす二つの異なる「リズム」であると捉えるのであれば、このような古代哲学で展開された思索は我々の日常におけるものの見方や生き方を大きく変革する視点をもたらしてくれるように思えます。


* リズムにおけるうねりとビート

千葉雅也氏は近著『センスの哲学』(2024)において「総合的な判断力」としての「センス」を努力では何ともならないものとは考えずに、むしろ人を解放し、より自由にしてくれる可能性を開くものとして育てていくための方法論を考究しています。まず同書は出発点として「センスが無自覚な状態」を想定します。ここでいう「センスが無自覚な状態」とは何かしらの理想的なモデルを設定し、その再現に無自覚的に失敗してしまっている状態を指しています。そこで同書はまず、このような理想的なモデルを再現するというゲームから降りることを提案します。これが「センスの目覚め」であると同書はいいます。

そして理想的なモデルを再現するゲームから降りるとは、モデルとしての対象を抽象化して扱うということであり、すなわち、それは対象から「意味」を抜き取ることでもあります。つまり対象の「意味」の手前で展開されている形状や運動といった様々な要素の「でこぼこ」としての「リズム」を即物的に捉えるということです。

ここでいう「リズム」とは「強い/弱い」といったテンションのサーフィンとしての「強度」のことであり、同じような刺激が繰り返される「規則性」と、それが中断されたり、あるいは違うタイプの刺激が入ってくる「逸脱」からなる「反復と差異」の組み合わせで成り立っています。こうした意味での「リズム」から、さまざまなものごとを捉えていく感覚こそが「最小限のセンスの良さ」であると同書はいいます。

そしてこの「リズム」とは絶えず生成変化を続ける「うねり」として捉えられると同時に「1=存在」と「0=不在」が明滅する「ビート」としても捉えられます。この二つのリズムの捉え方が冒頭で述べた「生成変化論」と「存在論」という古代哲学の二つの立場に対応しています。

つまり、ここではリズムというのはまずは複雑に絡み合った生成変化であると捉えられます。しかし同時にこのようなリズムを例えば大きさとか長さとか色合いといったなんらかのパラメータに注目して単純化するのであれば、複雑な生成変化も「1=存在」と「0=不在」の明滅に還元できるいうことです。このように対象を「うねり(生成変化論)」と「ビート(存在論)」というダブルから感じるのが千葉氏のいうリズム経験です。


* 欠如を埋めるものとしての物語

このように同書は「リズム」においては原理的には「うねり」が「ビート」に先立つという優劣関係を示しつつも、実際のところ人は小説にせよ絵画にせよ音楽にせよ、ある作品にいかなる意味が「ある」のかといった、あるなしの問題に引っ張られてしまい、このあるなしの切り替わりとしての「ビート」によって喜んだり不快になったりしてしまうといいます(なお、パルメニデスも「あるは、ある。ないは、ない」という真理をしっかりと掴んだと思った刹那にたちまち「ある」と「ない」を混同してしまう思い込みに転落する危険があることを示唆しています)。

この点、小説などの物語では通常、宝物とか勝利とか謎とか愛といったものを追い求めるようなストーリーが展開されます。つまり物語とはなんらかの「存在」を求める「不在」を起点にして進行するということです。そして人間にとって「不在」とは「ただ単にない」のではなく「あって欲しいのにない」というニュアンスを持っていることから、それゆえにここでいう不在とはむしろ「欠如」という言い方がふさわしいでしょう。つまり物語への没入とはそこに「欠如」という大問題を見て、そのビートにシンクロすることで起きるといえます。

こうしたことから小説では「欠如を埋める」ための物語が展開されることになり、この「欠如を埋める」ことをいかに面白く行うかを追求していけばエンターテイメント性の強い作品になります。これに対して「欠如を埋める」ことに直結しない、その脇にあるようなディテールを細かく追求していけば芸術性の強い作品になりますが、その分、娯楽作品としての面白さは分かりにくくなるでしょう。

そして同じことが絵画や音楽についても考えられます。すなわち、芸術においてはどんなジャンルでも「存在/不在(欠如)」というはっきりした「ビート」に注目するか、もっと微妙なところの「うねり」に注目するかという二つの観点があるということです。


* いないいないばあの原理

ここで同書は「いないいないばあ」という子どもの遊びを一つの原理として説明します。この「いないいないばあ」という遊びにおける「いないいない(何かが隠された状態)」から「ばあ(何かが露わにされる状態)」への転換は根本的な「不安(0)」と「安心(1)」の交代を表しています。この遊びを子どもが喜ぶのはそれが人間の根本に触れているからだと同書はいいます。

そして重要なのはこれがあくまで「遊び」であることです。実際に「不安と安心」をじかに経験するのではなく、それを「遊び」というかたちにパッケージして間接化することで、子どもは欠如がもたらす寂しさを引き受けつつも、そこから離れて自立したリズムを生み出していくことになります。

精神分析を創始したジークムント・フロイトは「死の欲動」の概念を打ち出したことで知られる「快原理の彼岸」という論文において、子どもの「糸巻きあそび」を論じています。ここでフロイトは子どもが糸巻きを投げて遠くに転がっていった時に「おーおーおーお(いないいない)」といい、それから糸を引っ張って手元に戻す時に「いた(ばあ)」という反復動作に注目し、このような遊びによって子どもは母の存在と不在(欠如)の反復をみずから上演することによって母の欠如の埋め合わせをしていたと解釈しました。

一般的に生物には安定状態を維持して緊張状態を避けようとするホメオスタシスと呼ばれる傾向がありますが、未成熟な状態で生まれてくる人間の場合は、安定状態を目指すという生物としての傾向が、自身を保護してくれる母親(に代表される他者)を求めるという事態と結びついています。それゆえに「いないいないばあ」における0と1のビートには母(他者)の欠如がもたらす寂しさが表れているといえます。

けれども、やがて子どもはこのような0と1のビートからなる存在論的なリズムがもたらす寂しさを複雑なうねりをなす生成変化のリズムに上書きすることで乗り越えていきます。こうした意味で反復されるものとしてのリズムは人間が安定的に生きていくために必要なものであるといえます。だからこそ我々はあえて安定状態を乱して緊張状態(ストレス)を作り出すシュミレーションのパッケージとしての遊びや芸術を必要としているということです。


* 日常におけるサスペンス=いないいないばあ

つまり、遊びや芸術とは緊張状態(ストレス)をあえて作り出すものであり、小説などの物語における「サスペンス」とは、このような意図的に作り出された緊張状態(ストレス)を指しています。ここでいう「サスペンス」とは英語で「宙吊り」という意味ですが、その解決に至るまでのプロセスが緊張状態として遅延され、小さな山が次々と発生し、その一つ一つには0→1の小さな解決があり、その連続と重なりがうねりを生んで、複雑なリズムになります。すなわち「サスペンス」とは畢竟、母の欠如を埋めようとする「いないいないばあ」の原理によって規定されているということです。

この点、このような「サスペンス=いないいないばあ」としての物語において一般的なわかりやすさを追求するのであれば、もちろん0から1へという移行が強調されることになりますが、その0から1へ移行するあいだにおいてこそ、複雑なリズムが織りなす面白さが見出されることになります。もちろん物語のみならず絵画や音楽の表現においても同じく、こうした「サスペンス=いないいないばあ」の構造を見出すことができます。

さらには日常におけるさまざまな営為の中にも「サスペンス=いないいないばあ」の構造を見出すことができます。例えば料理とか片付けといった日常動作をあえてていねいに行なうことで、そこには日常動作の開始(0)と完了(1)からなるビートには還元されることのない複雑なうねりを見い出すことができるでしょう。こうした意味で近年、精神医療やビジネスシーンで注目を集める「マインドフルネスアプローチ」とは様々な日常動作を徹底して生成変化の側から捉え直したものであるといえます。

もちろん、ありとあらゆる日常動作のすべてをていねいに行なっていたら時間がいくらあっても足りないので、そこはある程度の取捨選択が必要となってきます。しかし少なくとも普段は何気に行っている日常動作をいったん「リズム」として捉え直してみることで新たな気づきに出会うこともあるのではないでしょうか。















posted by かがみ at 23:30 | 精神分析