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ラカン派精神分析の基本用語集
2024年10月22日
オイディプスから機械状無意識へ
* 制度論的精神療法とは何か
ポスト構造主義を代表する哲学書『アンチ・オイディプス』(1972)をジル・ドゥルーズと共に世に放ったフェリックス・ガタリはフランスのラボルド精神病院において精神科医ジャン・ウリと共に精神病(統合失調症)の治療実践に取り組んだことでも知られています。ガタリによれば彼がラボルドで働き始めた当時、フランスの精神医療はその多くの場合「ほとんど動物を飼うような管理システムで精神病を扱っていたので、患者は一日中そこいらをぐるぐる歩き回り、頭を壁に打ち付け、叫んだり殴り合ったりし、汚物や糞尿のなかにうずくまっているといった光景が普通」であったとされます。そのような環境を抜本的に見直し、病院の制度や集団性を根本的に改革する運動こそがラボルドでガタリの実践した「制度論的精神療法」です。
この点、ウリによれば「制度論的精神療法」とは異質な諸領域や行動を組み合わせて欲望を循環させるためのさまざまな「仕掛け」を組み立てるための制度分析のことをいいます。そしてラボルドにおいてガタリが取り組んだ仕事とは、まさにこうした領域や行動が常に変化しながら循環する横断的な制度を構成すること、そして常にその制度を見直し、不断に再組織化することでした。
1972年に刊行されたガタリの著作『精神分析と横断性』のなかに収録された「制度論的精神療法入門」「制度論的精神療法に関する哲学者のための考察」「転移」といった論考においてはガタリ自身の実践を通した制度論的精神療法の課題と方法、そしてその哲学的含意が検討されてます。これらの論考はいずれも1950年代の経験を踏まえて1960年代前半に執筆されたものですが、こうしたガタリの実践を踏まえた考察が『アンチ・オイディプス』における革新的な議論へと結実したことは疑いないでしょう。
* 集団における横断性
精神病治療の現場とは大きく精神科医と精神病患者という二つの集団から構成されますが、ガタリは何よりそうした「集団の発話」を問題にしました。すなわち、精神医療において患者は発話へのアクセスを持っているのか、あるいは患者の集団は言表行為の主体でありうるのかという問題です。例えば精神科医が患者の言葉に耳を傾ける時でも、患者の言葉は精神科医という専門家の集団が共有する言語、すなわち「精神医学」における「制度的転移」として表出され、その言葉もあくまで精神医学という枠組みのなかで受容ないし理解されることになります。
そして、このような「集団の発話」の問題は精神分析にも当てはまります。ジークムント・フロイトの創始した精神分析はカウチに横たわる患者が紡ぎ出す自由連想に対して分析家が解釈を投与するという二者関係において展開することになりますが、そこでもやはり患者の言葉は精神分析家という専門家集団が共有する言語、例えば「エディプス・コンプレックス」などという「神話」によって解釈されてしまいます。
このような集団間の構造的格差に基づく発話行為における非対称的な関係性を維持する限り、患者は自らが「「なにごとかをなしうる」ということを本気でうそいつわりなく言うことができるのだろうか」とガタリは問います。それが実際にできないのであれば「なにごとかをなしうる」「うそいつわりなく言うことができる」新たな関係性を構築しなければなりません。そのためには患者と精神科医との上下関係はもちろんのこと、精神科医と施設スタッフとの上下関係をも抜本的に転換し、定型化された役割やプログラムによるのではなく、その時々の不確定な出来事や会話の進行から思いもかけないかたちで生起する相互のコニュニケーションを通じて、患者が「なにごとかをなしうる」と思えるような場を作りだすことが必要となります。
こうしたことからガタリは「集団における横断性」という概念ないし方法論を提起します。すなわち、精神病院における階層化され序列化された集団を解体し、人やモノの空間的・時間的配置を自在に組み直して異質な要素が横断的に結びつく、垂直的にも水平的にも脱中心化した連携からなる環境を創出し、精神科医や精神分析家といった集団の言語に依拠することなく、患者の特異な語りや言葉にすらならない身振りに現れる「結晶化されていないシニフィアン」に照準を合わせることで、患者の実存的生としての「宇宙」を押しつぶすことなく切り開いていく実践の(再)発明が目指されることになります。
* 機械と構造
人やモノの配列を横断的に組み替えて、既存の解釈枠組みによることなく、患者の「宇宙」を切り開くということ。これがガタリがラボルドで得た洞察であったといえます。もっとも1960年代前半の時点では、人やモノの配列の変更による集合的アジャンスマン(アレンジメント)によって患者の言表が産出されるという機序に関する理論的検討は十分なかたちで行われていませんでした。何より患者が自身の内的な声を外に向かって「発する」という、いわば「欲望」の生産の問題に関しては未解明であったといえます。
そこでガタリは無意識(正確には前-意識)のうちに声を発してしまうこと、身体が動き出すことといった欲望の生産を「マシーン=機械」という独自の概念を用いて考察しました。この概念が登場するのは「機械と構造」(1969年)という論考からです。同論考においてガタリは「構造」と「機械」を区別します。まず「構造」とは「それを構成する諸要素の位置を諸要素相互にある反転システムによって決定するもの」と規定し「したがって、構造自身が別の構造に対してひとつの構成要素として関係づけられることもありうる」と述べます。ここでいう「反転システム」とは裏表の反転、明暗の反転、プラスマイナスの反転のような二項の差異によって各要素の相互の機能が決定されるものであり、ここでは構造主義のいうところの「構造」が念頭に置かれています。
またガタリは「主体的行為は構造のなかに包摂される」と指摘し「全体が非全体化される構造的プロセスが主体を取り囲み、そのプロセスは主体をある別の構造的限定の内部に回収しうる場合にしか離そうとしない」と述べます。つまり「構造」が可変的な「非全体化される構造的プロセス」であるにしても、主体は常に何かしらの「構造的限定の内部に回収」されることになるということです。
これに対してガタリは「機械」とは「本質的に主体的行為とは無縁である。主体はどこか他の場所にある」として「機械の浮上は構造的表象とは異質の画期、切断をしるしづけるのである」と指摘します。ここでいう「機械」とはひとまず通常我々が思い浮かべるメカニカルな工業機械や産業機械のみならず、マテリアルな質料を伴う物質すべてを含む概念として定位されています。人間や動物の身体も、植物の根も葉も茎も、そして鉱物や大地もガタリのいう「機械」です。
* 対象-機械 a
そしてガタリは「人間存在は機械と構造の交差のなかにとらわれている」といいます。そしてここでいう「交差」を三つの局面からガタリは捉えています。この点、第一の交差は技術革新による新たな機械の登場によって、従来の安定的な構造が揺らぐ事態をいいます。第二の交差はガタリが「反生産」と呼ぶ機械による切断によってもたらされた不均衡や揺らぎを、機械が登場する以前の過去の賛美や機械の登場によって描かれる未来の賛美といった「想像上の再均衡」による「構造的な空間」が立ち現れる事態をいいます。
第一の交差が機械から構造に差し向けられたベクトルであるとすれば、第二の交差は逆に構造から機械に向けられたベクトルであるといえるでしょう。これに対して第三の交差は第二の交差であった「想像上の再均衡」をはかる「幻想の生産」がなされたとしても「対象 a 」が「個人の構造的均衡のなかに仕掛け爆弾のように嵌入する」ことで「幻想の生産」が切断されるという特殊な交差として出現することになります。
ここでいう「対象 a 」は周知のようにフランスの精神分析家ジャック・ラカンが提唱した概念です(ガタリはもともとラカンに師事していました)。ラカンは主体を斜線を引いた「$」と表記し、この斜線は主体がある種の〈欠如〉を抱えていることを示しており、これを精神分析では「去勢」と呼びます。そして人は欠如を抱えた$として、この欠如を埋めようと欲望することになりますが、畢竟この欠如を完璧に埋めることはできず、欲望する$は欠如のひとまずの覆いとして、何らかの対象にこだわりつづけることになります。このような「欲望の原因」を担う対象をラカンは「対象 a 」と名指し、$が対象 a を捉え損ねて延々と空回りをする構図を「幻想 $♢a」と呼びました。
つまり、ガタリはラカンから対象 a という概念を一旦は継承した上でこれを「機械状化」しようと目論んでいるということです。ガタリは$をラカンのように唯一の欠如にこだわり続ける主体ではなく、自分を切り刻んで n 通りに変化する主体として捉え直し、このような主体の相関者としての対象 a もまた、n 個の「対象-機械 a」として捉え直しました。すなわち、ガタリのいう「対象-機械 a」とは「構造」の、つまり代理-表象作用としてのシニフィアン連鎖の交差点であると同時に、その存在はシニフィアン連鎖から切断された「それ自身でしかないもの」であるということです。
このように「構造」と「機械」との間の交差は上述した三つの局面から把握されます。主体は確かに「構造」の座標軸の中にあり「機械」はとって主体は「他の場所」に存在します。しかしながら主体は「機械」とは無縁ではなく「機械」による「切断」の傍らにあり、かつこの「機械」は「構造」としてのシニフィアン連鎖からの「切断」を促す作動原因として、新たな主観性の生産に直接的に結びついているということです。
* オイディプスから機械状無意識へ
こうしてガタリが「構造と機械」で展開した「機械」の概念はドゥルーズとの共著『アンチ・オイディプス』において発展的に継承されることになります。同書では身体を「器官機械」として、自然界の対象を「源泉機械」として、さらには星や虹や山岳といった景色までも機械として把握され、こうした複数の機械の連結プロセスの総体である「欲望機械」による「欲望生産」が行われることが主張されます。
ここで重要なのは「欲望機械」による「欲望生産」は予め「主体」が存在し、その主体が能動的に欲望を抱くようなプロセスではないということであり、機械と機械が相互に連結する際に生成する欲望はあくまでも意識作用が働く前の前-意識作用の層で生起します。こうした視点から「無意識」を性的抑圧からの帰結として捉え「父-母-子」の三項図式から、つまりオイディプス図式から説明する精神分析の方法が批判されることになります。
すなわち、無意識とは抑圧された性的トラウマが浮上し再演され、さらに精神分析家によって解読される「劇場」なのではなく、何ものかを新たに生産する「工場」であるということです。ガタリとドゥルーズが照準しているのはあくまでこの機械連結から生まれる「機械状無意識」の生成に他なりません。
このような「機械状無意識」は後にガタリの著作『機械状無意識』(1979)では「共立平面 plan de consistance」の問題系として、さらにドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』(1980)では「内在平面 plan d' immanence」の問題系として論じられ、意識作用がはじまる手前の前-意識的な身体の情動が触発される地平が一貫して問題にされていくことになります。
こうしてみると我々の日常はさまざまな「機械」によって成り立っているといえるでしょう。人がその主観性を構成する発端には機械の連結が存在します。すなわち、主観性の構成とは例えば部屋に溢れかえるモノであったり、SNSでたまたま目に留まった何気ないつぶやきであったり、四季をめぐる花々の彩りであったりと、さまざまな機械との連結がその基盤にあるということです。
そして、こうした機械と機械との連結による欲望生産とは自らの「宇宙」を構築できるかという問いにまっすぐにつながります。そうであれば、かつてガタリがラボルドで試行錯誤を繰り返したように、このようなさまざまな「機械」の配列をさまざまに組み替えてみることで、我々は新たな欲望に出会い直し、自らの「宇宙」を切り開いていく日常を(再)発明することができるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 22:17
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