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現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2024年07月26日

多重見当識と対人性愛中心主義



* セクシュアリティにおける多重見当識

精神医学用語に「二重見当識」というものがあります。これは統合失調症の患者などにみられるとされるもので、例えば「自分は東京都知事だ、資産数十兆円だ」といった妄想を語りながら、看護スタッフの指示で病棟の掃除を手伝ったりしているような事態を指しています。自分の立場を理解することを「見当識」といいますが、いかに重症の妄想型分裂病患者といえども、妄想の立場と患者の立場を区別できることは案外多く、こういう患者は「二重見当識」を持つといわれます。

この点、ひきこもり臨床で知られる精神科医の斎藤環氏は日本におけるオタク系文化を論じた古典的名著『戦闘美少女の精神分析』(2000)において、こうした「二重見当識」に示唆された「多重見当識」という概念からオタク(同書で斎藤氏は「おたく」とひらがなで書きます)の心理あるいは行動を論じています。

斎藤氏によれば「コアなおたく」というものは「虚構」へのスタンスが独特であり、アニメ作品にしても複数のレヴェルで楽しむことができるといった「虚構コンテクスト」のレヴェルを自在に切り替えることができる素養を持っているとされます。

また氏は彼らは現実を虚構の一種と見做しており、必ずしも現実を特権化していないけれども、このことは彼らが別に虚構と現実を混同しているわけではなく、むしろ虚構にも現実にもひとしくリアリティを見出すことができる「おたくの特殊能力」であるといいます。それゆえにオタク(おたく)は「二重」ならぬ「多重見当識」を持つと比喩的にいうことができると氏はいいます。

さらに斎藤氏はオタク(おたく)について決定的であるのは「想像的な倒錯傾向と日常における「健常」なセクシュアリティの乖離ではないか」といいます。すなわち、彼らはここでも「欲望の見当識」をやすやすと切り替えているということです。

このような同書の議論は東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(2001)をはじめとして、ゼロ年代初頭から現在に至るまでオタク系文化をめぐる批評に大きな影響を与えており、近年においては斎藤氏がもっぱらオタク(おたく)を念頭に置いていた「多重見当識」の理論をより広いパースペクティヴへと開く議論が現れています。以下では斎藤氏のいう「多重見当識」をクィアな視点から読み直した松浦優氏の論考「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向−−仲谷鳰『やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から(『現代思想』2021年9月号「〈恋愛〉の現在」所収)」を見ていきたいと思います。


* 性愛規範とアセクシュアルな読解実践

本論考はまず冒頭で「異性愛/同性愛」という二項対立から抹消されているさまざまな非-セクシュアリティの可能性に注目します。例えば他者へ恋愛的に惹かれることと性的に惹かれることは(人によっては分かちがたく結びついているとはいえ)必ずしも一致しないことから「性的指向 sexual orientation」と「恋愛的指向 romantic orientation」を区別し、他者に対する性的惹かれを経験しないことを「アセクシュアル」を呼び、他者に対して恋愛的に惹かれないことを「アロマンティック」と呼びます。

またアセクシュアル・コミュニティにおいては「アセクシュアル」と「非アセクシュアル」の間を連続的に捉える見方から、両者の間の領域としての「グレーセクシュアル」や「グレーアセクシュアル」を見出す「アセクシュアル・スペクトラム」という考え方があります。

さらに近年では実在の他者ではなく架空のキャラクターに惹かれることを「フィクトセクシュアル fictosexual」という造語を用いる人々がいます。こうした人々もまた「性愛を当たり前のものとみなす価値観のもとで周縁化される」ことがあり、しばしばアセクシュアル・スペクトラムとして捉えられています。

このようにアセクシュアル/アロマンティックの観点から提示される語彙や見方はセクシュアリティをめぐる従来の解釈図式を問い直すものとなります。本論考はこうした問い直しを引き受けつつ、クリスティーナ・グプタらの整理を参照し「性愛規範」と「アセクシュアルな読解実践」という視角から、性愛をめぐる実践について従来の議論とは異なる考察を行います。

ここでいう「性愛規範」とは「欲望する主体として自身を経験することや、性的アイデンティティを引き受けること、そして性的活動に従事することなどを矯正する規範と実践」および「さまざまな形態の非-セクシュアリティ(性的関心の欠如、性的行為の欠如、またはセクシュアリティの喪失)を周縁化する規範と実践」を指す概念です。端的にいえば当然誰もが他者に惹かれるものだという想定です。

次に「アセクシュアルな読解実践」とは「生物学的に同定可能なアセクシュアリティや身体の欲望に規定されたアセクシュアリティを求めるのではなく、非-セクシュアルな表現が意味を持つ瞬間のための読解」をいいいます。換言すれば「クィアとアセクシュアルを結びつけて、思いがけない多様な場所にアセクシュアルを見出す」という読解です。


* 恋愛を「する」と「見る」の破れ目からみる対人性愛中心主義

以上の観点から本論考は仲谷鳰氏の『やがて君になる』という作品を読解していきます。同作は他者に恋愛感情を抱けないことに悩む小糸侑と、自分を肯定できないことで他者からの好意を受け入れられずにいる七海燈子と、七海に恋をする佐伯沙弥香との関係を描く百合漫画です。同作では「恋愛とは何か」という問いがテーマとなっており、恋愛を自明のものとして扱っておらず、作中では恋愛は誰もが当然するものだという固定観念を相対化する場面がいくつか描かれています。

本論考はこうした同作のテーマを考える上で槙聖司というキャラに注目します。槙は他人の恋愛を見たり恋愛相談に乗ったりするのが好きですが、自分が恋愛をしたいという欲望はなく、また恋愛感情を経験しないことを素直に肯定しています。彼が好んでいるのは「舞台の上の物語」としての「役者」がする恋愛であり、それゆえに自身が他人から恋愛感情を向けられた時には「役者が観客に恋するなんて、がっかりだ そんなのはいらない 僕は客席にいてただ舞台の上の物語を見ていたい」と拒否感を露わにします。

ここで描かれているのは恋愛を「する」と「見る」の間にある「破れ目」であると本論考はいいます。このことは性愛規範と創作物との関係を考える上で極めて重要な意味を持ちます。すなわち、恋愛要素のある創作物を求める欲望はしばしば漠然と「恋愛に対する欲望」として認識されてしまいます。この漠然とした認識のもとでは「恋愛に対する欲望」は「恋愛をしたいという欲望」へと両者の差異が認識されないまま還元されることになります。これに対して「する」と「見る」の間の破れ目が突きつけられるとき、恋愛は必ずしも「する」ものではないということが露わになります。

このように同作は性愛を実践する営みを基準とした枠組みに基づいて性愛/恋愛的創作物の受容者を解釈することは、ある意味で性愛規範的なのではないかという問題を提起しています。そしてこうした問題は現実においても、例えば「二次元の性的表現を愛好しつつ、現実の他者への性的惹かれを経験しない」人々の中から「性愛は現実の他者と実践されるのが当然だ」という想定を批判する声として現れています。

そしてそのような批判では「生身の他者に対する性的な要求を伴う」ような「生身の他者に対して性的に惹かれるセクシュアリティ」が「対人性愛」という造語で名指されています。こうした造語実践を踏まえて本論考は「生身の他者に対して性的-恋愛的に惹かれることが規範的なセクシュアリティとされること」を「対人性愛中心主義」と呼びます。

ここで本論考は斎藤氏による多重見当識=複数的指向 multiple orientationsの議論を参照します。先述のように斎藤氏はオタク(おたく)における「想像的な倒錯傾向と日常における「健常」なセクシュアリティの乖離」を挙げています。このような「乖離」は多重見当識がセクシュアリティの領域で作用してものと位置付けられます。そうであれば『やがて君になる』が詳らかにした「する」と「見る」の間の破れ目とは、まさにこのような「乖離」の一例として理解できるということです。


* 引き受けないという仕方で引き受けられている

このような本論考が展開する議論はクィア批評はもちろんのこと、ポストモダンにおける主体をめぐる議論にも大きなパラダイム転換をもたらす射程を持っています。

例えば東浩紀氏は『動物化するポストモダン』において近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘し、オタク系文化における「シュミラークル(コンテンツ)」と「データベース(コンテンツを生成する「萌え要素」など非物語的な情報の束)」の二層構造はポストモダンにおける世界構造と対応しているといい、このようなポストモダンにおける主体もまた「シュミラークル」に没入する動物的欲求と「データベース」に介入する人間的欲望を解離的に共存させたポストモダン的主体を「データベース的動物」と名付けました。

もっともその一方で東氏はこのような動物的欲求と人間的欲望の区別になぞらえて「性器的な欲求」と「主体的な「セクシュアリティ」」を区別したうえで、二次元の性的表現を愛好することは「ほとんどの場合」「主体的な「セクシュアリティ」」として(とりわけ男性オタクにとっては)引き受けられていないとしています。

けれども本論考はこうした営みはフィクトセクシュアルあるいはアセクシュアル・スペクトラムとして引き受けられることもあるといい、東氏のいう動物的欲求あるいは「性器的な欲求」は「主体的な「セクシュアリティ」」として、あるいは本論考の文脈でいう「対人性愛の自明性を揺さぶるようなセクシュアリティ」として「引き受けないという仕方で引き受けられている(あるいは引き受けさせられている)」と捉えられるべきであり、そこにはセクシュアリティの装置=性愛規範が作用していることを見て取る必要があるといいます。


* ポスト神経症的欲望と対人性愛中心主義

このような視座はここからさらにフィクトセクシュアルあるいはアセクシュアル・スペクトラムといった「対人性愛の自明性を揺さぶるようなセクシュアリティ」における主体の欲望をいかに捉えるかという大きな問いを開くことができるでしょう。

例えば現代思想の領域において大きな影響力を行使するラカン派精神分析では周知のように人の心的構造を「神経症」「精神病」「倒錯」のいずれかに分類した上で、人の「欲望」の標準形を「神経症的欲望」であると見做しています。これに対して1970年代において精神分析に対して真っ向から反旗を翻し大陸哲学に大きなインパクトを与えたジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著『アンチ・オイディプス』(1972)は「神経症の精神病化」というべきプロセスをいわば「ポスト神経症的欲望」として肯定的に描き出しました。また近年のラカン派においても従来の精神病や倒錯には収まらない「ふつうの精神病」や「ふつうの倒錯」といったカテゴリーが提唱され、従来のように「欲望」の標準形を「神経症的欲望」と見做すモデルはかなり揺らぎを見せています。

そして、ドゥルーズ=ガタリの強い影響下に置かれている日本の現代思想シーンにおいても「ポスト神経症的欲望」をめぐる議論が従来より活発になされており、1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代における宮台真司氏のコギャル支持、そしてゼロ年代における東氏のオタク支持といった言説はまさにこうした流れの中に位置づけることができるでしょう。

こうした議論を総括する形で千葉雅也氏は「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−−倒錯の強い定義(『意味がない無意味』(2018)所収)」という論考で「ポスト神経症的欲望」を「別のしかたでの欲望」と名指し、この「別のしかたでの欲望」を(a)まったく精神分析的ではない「動物的な欲求」へと振り切れさせるパターン(東氏の立場)と(b)あくまでも神経症的欲望を前提とした多かれ少なかれの倒錯化として捉えるパターン(斎藤氏の立場)と(c)肯定されるべき「分裂病」の解放とみなすパターン(古典的なドゥルーズ=ガタリ主義の立場)という三類型に整理しています。

ここから千葉氏は古典的なドゥルーズ=ガタリ主義における「神経症の精神病化」を「倒錯的な精神病」と解釈し直した上で「別のしかたでの欲望」をめぐる上記の三類型を「神経症的欲望」を「無効化せずに否認する」という「メタ倒錯=倒錯の強い定義」という論理で連結させています。

フィクトセクシュアルあるいはアセクシュアル・スペクトラムといった「対人性愛の自明性を揺さぶるようなセクシュアリティ」がこうした「ポスト神経症的欲望=別のしかたでの欲望」のどこに位置づけられるかについては依然として問いは開かれているといえるでしょう。いずれにせよ「対人性愛中心主義」という視座は「ポスト神経症的欲望=別のしかたでの欲望」をめぐる議論を新たな局面へと導くのではないでしょうか。






















posted by かがみ at 23:19 | 精神分析