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2024年05月28日

西田幾多郎の哲学と精神病理学のあいだ



* 日本哲学のはじまりと西田幾多郎

日本における哲学の歴史は一般的にはPhilosophyを「哲学」という日本語に訳したことでも知られる西周が行った哲学講義によって始まったとされています。江戸幕府の洋学研究機関であった蕃書調所(のちの東京大学)の教授手伝並であった西は1862年(文久2年)に軍艦発注のために派遣された幕府の使節に随行し、オランダで法学や経済学と共に哲学を学び、明治維新後「育英舎」という私塾を開き1870年(明治3年)から「百学連環」という題目で哲学を含む学問全体を論じる講義を行っています。

やがて1877年に東京大学が創設された際には文学部に「史学、哲学及政治学科」が置かれ、1881年には独立した形での「哲学科」へと改編されました。この哲学科での教育に大きな役割を果たしたのがフェノロサやブッセやケーベルらの外国人教師であり、彼らの下からは近代日本を担う多くの人材が輩出されました。そして、このような受容期間を経て日本の哲学はついに自らの足で歩き始めます。そのことを示す記念碑的著作が1911年(明治44年)に公刊された西田幾多郎の『善の研究』です。

西田は旧制第四高等学校教授、学習院大学教授などを経て1910年に京都帝国大学文科大学助教授となり、1914年から1928年まで哲学講座の教授を務め「西田哲学」と呼ばれる独自の思想を創り上げ、その周囲には田辺元、和辻哲郎、三木清、九鬼周造、戸坂潤を始めとした錚々たる人材が集まり、いわゆる「京都学派」と呼ばれる一大知的ネットワークが形成されました。

西田の存命中も『善の研究』は繰り返し版を重ねましたが、戦後も特に1950年に岩波文庫版が出て以来、幅広い層に読み継がれて多くの研究書も出され、現在では英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語、韓国語など多くの言語にも翻訳されています。

しばし同書は東洋の思想、特に禅の思想を西洋哲学の術語を用いて表現し直したものであると言われることがあります。もちろん西田は東洋の思想、特に儒教や仏教について深い理解を有していましたが、実際のところ同書はこれらの思想を積極的に論じるものではありません。もっともその一方で同書が問題とした「実在とは何か」「善とは何か」「宗教とは何か」といった問題を自らの力で考えていこうとするときに、東洋の伝統的な思想もまた、西田にとって大きな手がかりとなったことは確かです。いわば「西田哲学」とは西洋と東洋の間で練り上げられた思索であるといえます。


* 主客二元論と純粋経験

『善の研究』は第一編「純粋経験」、第二編「実在」、第三編「善」、第四編「宗教」の四つの部分からなっていますが、その中で最初に書かれたのが第二編「実在」です。そこで西田は同書で明らかにしようとする問題の所在を「天地人生の真相は如何なる者である、真の実在とは如何なる者であるかを明にせねばならぬ」と述べ、この問題に取り組むため「今もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思うたならば、疑いうるだけ疑って、凡ての人工的仮定を去り、疑うにももはや疑い様のない、直接の知識を本として出立せねばならぬ」と述べています。

そして、ここでいう「人工的仮定」について西田は「我々の常識では意識を離れて外界に物が存在し、意識の背後には心なる物があって色々の働をなす様に考えている」と述べています。こうした考え方は哲学において一般的に「主客二元論」と呼ばれます。この「主客二元論」によれば「私」という主観と、その主観が働きかける「対象」としての客観とがそれぞれ独立に存在しており、この二つのあいだでさまざまな関係が成立するとみなされます。

けれども西田はこの「主客二元論」は事実をそのものとして捉えたものではなく、そこに既に「人工的仮定」としての先入観が持ち込まれてしまっており、それを取り除かなければなければ、ものの真のあり方を把握することはできないと主張します。このように同書の意図は西洋哲学を伝統的に規定している思考を根本から問い直すところにあります。

そして同書において西田が出した結論が「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」というものであり、ここでいう「意識現象」「直接経験の事実」を「純粋経験」と呼びます。

この「純粋経験」について西田は第一編「純粋経験」の冒頭で「純粋というのは、普通に経験といって居る者もその実は何らかの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである」と述べています。

これは何か特別な経験のことではなく、単にその辺の道に咲く花を見たりとか遠くから鳥の鳴き声が聞こえたりなどといった日常にありふれたごく普通の経験を指していますが、ここでは「色を見、音を聞く刹那」という点が重要となります。

ふつうに「経験」という場合、そこでは既に何かを見たり聞いたりする「私」というものが想定され、その「私」が見たり聞いたりする「対象」とのあいだに認識が成立するという枠組みが知らず知らずに作り上げられています。つまり、そこにはすでに「思慮分別」が入り込んでおり、そこで捉えられたものは、もうすでに我々はじかに経験したもの、物事の真相から離れているということです。


* 実在の在り処

これに対して物事の真相はその様な「思慮分別」が入り込む以前の「経験其儘の状態」であると言うのが西田の考え方です。我々は普通「私」という意識を持ち、例えば目の前に咲く百合の花を「この花は白い」などと判断したりします。しかし西田は「純粋経験」においてはただそこには白が白として意識されているだけであり、そこには「この花は白い」という判断も花を知覚しているという意識すらもないといいます。これが「色を見、音を聞く刹那」の意味するところです。

我々は通常、一方に自分の外にある対象を表象あるいは認識する「意識」を考え、そして他方でその意識によって表象される「物」を考えて、そのあいだに認識なり行為といった「関係」が成立していると考えます。そのような考えを徹底していくと意識の外部には我々が見たり聴いたり触ったりする以前の単なる物体の世界が広がっており、我々はその外的世界の情報を感覚器官を通して受け取りそれを脳に伝え、そこに色や音や手触りで満たされた内的世界が作りあげられていくことになります。

このような外的世界と内的世界を区別する立場からは当然、後者は前者を原因としてたまたま生じた結果であり、前者こそが第一次的な存在であり、後者は第二次的、あるいは派生的な存在であると考えが帰結されます。また外的世界は誰が計測しても同じ客観的世界であるのに対して、内的世界はそれを見たり聴いたり触ったりする人によって異なる主観的世界であるという見方が生じてきます。

しかし西田はそのような仕方で外的世界と内的世界を対置するのではなく、両者が一体になった世界のことを「経験其儘の状態」と呼び、そこにこそ実在が現前していると考えました。もちろん西田も我々が意識と対象を区別して感覚ないし意識する以前の対象そのものの存在を想定することを否定しているわけではなく、主客二分論的対立を前提とした科学的認識の持つ意義を認めています。西田が批判しようとしたのは意識に対置される対象が第一次的存在であり、我々の意識するものは主観的であやふやな反映に過ぎないという考え方です。 

我々が行っている具体的な経験においては、意識と対象とはひとつになっているし、その一つになった経験のなかにこそ、物のリアリティが現前しているというのが西田の考えです。それは決して主観的であやふやなものとして排除されるべきものではなく、それこそが「実在の真景」であり、そこに現前した物のリアリティこそが我々の生活を豊かにして意義あるものにしているということです。


*「もの」と「こと」

このように西田が『善の研究』において「純粋経験」という術語で展開した思索はいかにも思弁的な議論に聞こえてしまうかもしれません。けれども、我々の普段の認識や行為がこの「純粋経験」といかに密接に関わっているかはある種の精神の不調によって裏側から明らかになります。例えば西田哲学に造詣が深いことでも知られている精神病理学者の木村敏氏は「離人症 depersonalization」と呼ばれる症状との関わりでこの「純粋経験」を「もの」と「こと」の問題として議論しています。

ここでいう「離人症」という症状においては外界の事物や自分自身の身体についての実在感や現実感、充実感、重量感、自己所属感などといった感覚が失われるだけではなく、何よりもまず自分自身の自己がなくなってしまった、あるいは以前とすっかり違ってしまった、感情や性格が失われたという体験が訴えられています。

この点、木村氏は『時間と自己』(1982)においてこのような離人症において欠落する感覚を「こと」の消失として捉えています。すなわち、離人症においてはそれまでの日常において世界の「もの」的な知覚を背後から豊かに支えていた「こと」的な感覚が一挙に喪失して、世界はその表情を失ってしまうということです。

通常、我々が何かしらの対象ないし事物を具体的に見たり聴いたり触ったりするという経験の現場において、その対象ないし事物は我々の存在とはまったく関わりのない物体としてただ客観的に「もの」としてあるのではなく、そこで「もの」は「こと」と共生しており、これが「いま」という「あいだ」を構成することになります。これに対して離人症においては、この「もの」と共生しているはずの「こと」が、すなわち西田のいう「純粋経験」が失われてしまっているわけです。


* マインドフルネスと純粋経験

また西田は禅の思想に通暁し、自身も熱心に禅に取り組んでいたことで知られていますが、現代において禅の思想と実践は「いまこのとき」に意識を向けていくマインドフルネスアプローチとして心理療法の領域にも取り入れられています。

例えば第3世代の行動療法として注目される「アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)」ではさまざまな心理的・行動的な問題を言語と現実を混同した「認知的フュージョン」が引き起こす「体験の回避」の問題として一元的に捉え、マインドフルネスアプローチを基盤としてクライエントが「体験の回避」から「価値ある行動」に踏み出せるよう支援していきます。

このACTにおいては普段「わたし」と呼んでいる自分自身のイメージを「概念化された自己」と呼び、この「概念化された自己」への無自覚的な執着がしばし様々な精神の不調を生み出す原因になるとして、ここから自分自身を外側から客観的に見つめる「プロセスとしての自己」を経て、さらに俯瞰的に世界を眺める「文脈としての自己」への変容を促していきます。これは主客二元論における「わたし」を消去したところで生じる「純粋経験」の全面化であるともいえます。こうした観点からも思弁と実践が表裏一体になった哲学として『善の研究』を読み直すことができるのではないでしょうか。



















posted by かがみ at 22:26 | 精神分析