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2024年03月25日
生命の〈あいだ〉
* 木村精神病理学の生命論的転回
日本を代表する精神病理学者である木村敏氏は統合失調症やうつ病をはじめとする様々な精神疾患を〈あいだ〉という独自の概念から読み解いていったことで知られています。ここでいう〈あいだ〉という概念とは個人が存在し、その個人どうしが取り結ぶ関係として成立するものではなく、むしろ個人に構造的に先行して個人の存在を根底で支える何者かを指しています。
そして、この〈あいだ〉という概念は「自己と他者」との関係のみならず「自己と自己」との関係に対しても適用されます。こうしたことから木村氏はうつ病(内因性うつ病)を自己と他者との〈あいだ〉が問題となる病理として捉え、統合失調症を自己と自己との〈あいだ〉が問題となる病理として捉えました。
やがて木村氏は、こうした〈あいだ〉を「時間」として論じられるようになり、氏の名を世に広く知らしめることになった著作である『時間と自己』(1982)においては〈もの〉としての時間と〈こと〉としての時間の〈あいだ〉としての時間が自己との等根源性をなすものとして析出され、時間構造と精神疾患を重ね合わせた「アンテ・フェストゥム(まつりのまえ)」「ポスト・フェストゥム(あとのまつり)」「イントラ・フェストゥム(まつりのさなか)」という三つ組からなる「祝祭論」が展開されることになります。こうして木村精神病理学はある種の人間学として名実とともに成熟期を迎えることになりました。
もっとも同書のあとがきにおいて木村氏はやや唐突に「私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか」「この夢の主は、死という名を持っているのではないのか」と述べています。同書の論旨からすれば逸脱としか思えないこの記述は、今から見ればまさしくその後の木村精神病理学の新たな展開を予告するものであったといえます。
果たしてここからの木村精神病理学は「生と死」をめぐる「生命」の領域へと旋回していくことになります。このような木村精神病理学の「生命論的転回」において特権的に参照される思想家がヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーです。
* ヴァイツゼカーの医学的人間学
ヴァイツゼカーは精神科医ではなく内科医、神経科医であり同時に哲学者でもあった人物ですが、彼は早くから客観主義的な自然科学的医学に対する批判を展開し、医学に「主体」を導入する「医学的人間学」を提唱したことで知られています。このような主張は今日的な医療倫理からみればごくあたりまえのことを言っているようにも聞こえます。しかし、ここでヴァイツゼカーのいう「主体」とはかなり奇妙な概念です。
彼のいう「主体」とは「客体」と対立する項としての「主体」でも、近代的自我という意味での「主体」でもなく、広い意味での「生きもの」とその外部である「環境世界」との邂逅それ自体を指しています。この点、彼は生きものがその生存を保持するため環境世界との間に保っている接触現象のことを「相即 Kohärenz」と呼びます。生きもの自身も環境世界も絶え間なく変転する中で、この「相即」は絶えず繰り返し中断されることになり、そのたびにそれに変わる新たな「相即」が樹立されて、生きものと環境世界との接触は引き続き保たれることになります。
このような「相即」と呼ばれる事態を、それによって生存を保っている当事者である生きものの側から見たものが、彼のいう「主体」ということになります。すなわち、彼のいう「主体」とは「相即」と呼ばれる環境世界との接触現象そのものであり、いわば生きものとその環境との〈あいだ〉の現象であると理解できます。
こうした意味で彼の主体概念において人間的な「意識」は要件とされておらず、その範囲は人間以外の全ての生物、それも随意運動の可能な動物だけではなく、植物から単細胞生物まで拡大されて適用されます。すべての生きものは環境世界と「相即」を成立させている限り「主体」として生きているということです。
こうしたことからヴァイツゼカーの主体概念は生きものが「生きている」という事実から切り離すことができません。「生きている」ということは一定の物質的組成を持った物体が「生命」と呼ばれる活動のうちに身をおき「生命」に根ざしているということです。このような生きものが自らの根拠としての「生命」に根ざしたあり方を、彼は「根拠関係」と呼びます。そして、このような「生命」への「根拠関係」こそが生きものを「主体」たらしめている「主体性」であり、ここから彼は医学への「主体」を導入する上ではこのような「主体」を成立せしめている「主体性」としての「生命」に関与することが必要になると主張します。
* 二重の主体性と生命論的差異
このようにヴァイツゼカーの医学的人間学は「患者さんの主体性を大事にしよう」などという常識的なヒューマニズムではなく、人の生死の問題を個人を超えた「生命」という局面から見ていくという意味ではむしろラディカルなアンチ・ヒューマニズムに立脚するものであるとすらいえます。
この点、木村氏はヴァイツゼカーの医学的人間学を高く評価しつつも「集団的主体性」という概念からその思想をさらに更新しようとします。ここでいう「集団的主体性」とは個人の「個別主体性」に先立つ共同的な主体性であり、このような「集団的主体性」は精神科の臨床はもとより、音楽の合奏や日常的な人間関係にも見出すことができるとして、通常は「個別主体性」の肥大で覆い隠されている「集団的主体性」を考古学的に発掘することによって人間学的な諸問題に新しい光を投げかけることができるのではないかと木村氏はいいます。
こうした「集団的主体性」を軸とした木村氏の生命論は1996年秋に開催された国際シンポジウム「生命論」における二つの講演でまとまったかたちで論じられています(いずれの講演も『こころ・からだ・生命』に収録されています)。
まず第一講演「心身相関と間主観性」で氏は「間主観性」を「公共的間主観性(認識や行動の基盤として客観性の基礎となる通常の意味での間主観性)」と「私的間主観性(本能的な次元で痛みや喜びや悲しみを共有する間主観性)」に区別した上で「公共的間主観性」が複数の主観的経験や主体的行動のあいだでいわば二次的に成立する関係であるのに対して「私的間主観性」とはむしろ〈あいだ〉そのものが個別の主観/主体から独立した独自の主観性/主体性を帯び、それ自体がある意味で独立の主観/主体として働いているような事態であるとします。
ここで氏はヴァイツゼカーの「相即」の概念を援用して〈あいだ〉の主体としての「私的間主観性」を「個別主体性」とは別の「集団的主体性」として位置付け、生きものを「個別主体性」と「集団的主体性」という「二重の主体性」の緊張関係を生きる存在であると捉えます。
さらに第二講演「人間的医学における生と死」で氏はまず「リアリティ」と「アクチュアリティ」の区別から出発して「生命そのもの」は生きている〈もの〉としての実在(リアリティ)ではなく、生きている〈こと〉という現実(アクチュアリティ)として捉えなければならないといいます。
そして、氏はこの生きている〈もの〉と生きている〈こと〉という生命論的差異を、第一講演で提示した「個別主体性」と「集団的主体性」からなる「二重の主体性」へと接続し「個別主体性」は個々の生きものに基盤をもつ「リアルな不連続性」を体現するものであるのに対し「集団的主体性」は「生命そのもの」に基盤をもつ「アクチュアルな非・不連続性」を実現しているとして、生きている〈もの〉としての個別的な生命が「自と他」の区別とともに「生と死」の区別を抱え込まざるをえないのに対して、生きている〈こと〉としての「生命そのもの」には「自と他」の区別も「生と死」の区別も存在しないと述べています。こうしたことから「生命そのもの」はヴァイツゼカーの言っているとおり(個の生死を問題とする限りにおいては)けっして死なないと木村氏は述べてます。
* 木村生命論の問題点と可能性
このようにおそろしく並外れたスケールで展開されていく木村氏の生命論に対しては当然のことながら「生命を実体化し過ぎている」という批判が向けられます。例えば山竹伸二氏は日本を代表するセラピストを論じた著作である『こころの病に挑んだ知の巨人−−森田正馬・土居健郎・河合隼雄・木村敏・中井久夫』(2018)において木村氏の生命論を「自己」が「自己ならざるもの」としての自他未分の「生命」から分離する物語になっていると捉えた上で、確かに「自己」は最初からあったわけではなく、どこかの時点で成立し、意識されるようになったに違いないけれど、こうした自己形成のプロセスを証明することは決してできないし、自他未分の「生命」の存在も仮説でしかありえないように思えるといいます。
この点、木村氏は「生命を実体化し過ぎている」という批判につき、ここでいう「生命」とはリアリティとして対象化された生命ではなく、アクチュアリティにおける生命を語っていることから、このような批判は見当違いであり〈もの〉の世界であるリアリティと異なり〈こと〉の世界であるアクチュアリティは主観的に関わる中でしか感じ取ることができないといいます
これに対して山竹氏は誰しも世界の中に生き生きした生命的なものを感じる瞬間はあるだろうし、木村氏の主張するアクチュアリティの世界について共感できる部分も少なくないとしつつも、木村氏の語る「生命」が対象化され得ないアクチュアリティにおける「生命」だとしても、その連続的な生命からの個別化を「自己」の形成として語るのは、やはり証明できない仮説といえるのではないかといいます。
ただその一方で山竹氏は木村氏自身の実存的な実感や体験に根ざしたその生命論は精神病理学でいうところの「自然な自明性(ブランケンブルグ)」や「現実との生ける接触(ミンコフスキー)」と同じ経験を指しているとして、こうした意味での生命を感じる経験の喪失は現象学的・人間学的精神病理学者たちが共通して重視してきたものであると述べています。確かに現象学が木村氏がいうところの「自分自身の経験に直接映ってくる景色をありのままに写生する」ための方法論であるとすれば、氏の生命論はむしろ現象学的精神病理学における可能性を大きく開いたものであったともいえるでしょう。
* 生命の〈あいだ〉
ところで木村氏は生きている〈こと〉と生きている〈もの〉の差異を神話学者カール・ケレーニイの知見に倣い、ディオニュソス的な生そのものとしての「ゾーエー Zoe」とアポロン的な個々の生命としての「ビオス Bios」の差異としても捉えています。
ここでいう「ゾーエー」も「ビオス」もともに「生」を意味するギリシア語ですが「ゾーエー」が今の英語の「動物学 Zoology」の語源になっており「ビオス」が同じく「伝記 Biography」の語幹になっているように、前者は「動物的/身体的」という含意があり、後者は「人間的/精神的」という含意があります。この意味で木村氏の生命論は人間と動物という生命の〈あいだ〉を論じたものであるともいえます。
この点、例えばハンナ・アーレントが公共性の概念をめぐる古典『人間の条件』(1958)において人間の生におけるゾーエーとビオスの位相をそれぞれ私的領域(オイコス)と公的領域(ポリス)の区別に重ねていたように、近代思想の基本的枠組みは人は私的には動物として生きて公的には人間として生きるという二項対立の上に成り立っていました。
しかしながら、その一方でアレクサンドル・コジューヴがヘーゲル的な「歴史」が終焉した後の人間の「動物化」を論じ、ミシェル・フーコーが「近代」の終焉としての「人間の消滅」を予告したように、現代思想の領域において動物と人間という二項対立に依拠した公共性のパラダイムは常に問いに付されてきました。
そして、現代ではフーコーのいう生政治の肥大化や生物工学や情報工学の飛躍的発展により、動物と人間の二項対立はまさしく現実的なレベルにおいて揺らぎを見せているといえます。こうした意味でこれからますます加速するであろう「ポスト・ヒューマニズム」とも呼びうる状況の中で、動物と人間の二項対立を超えたところで生命の〈あいだ〉を深くまなざす木村生命論は、あるいはこれまでとは全く異なる新たな輝きを見せてくれるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 23:51
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