【参考リンク】

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2023年11月25日

認知症の時間論



* 認知症における「回復の試み」としてのBPSD

認知症(神経認知障害群)とは一度獲得された認知機能が脳の器質的病変によって持続的に変化した状態をいいます。かつて認知症は知能の低下や人格の荒廃を想起させる「痴呆」とも呼ばれていましたが、近年において認知症とは様々な認知機能の変化であることが明らかになりました。認知症の下位分類としては一般的に次のような4つが知られています。

認知症の中で一番多いアルツハイマー型認知症は脳の全般的な萎縮、神経原繊維変化、アミロイドβ蛋白の沈着といった脳病理所見が確認されており、主な症状は記憶や学習を中心とする認知機能の慢性かつ進行性の低下です。血管性認知症は脳梗塞などの脳の血管の変化によって生じた脳実質の障害によるものであり、その発症は脳梗塞や脳出血などと時期を同じくすることが多く、症状としてはかつて「まだら痴呆」と呼ばれたように認知機能の低下が起きる部分とそうでない部分に差が見られ、同じことをするにしても一日の中でも差が見られることがあります。

前頭側頭型認知症は前頭葉や側頭葉の萎縮によって起きる認知症であり、記憶の障害よりも脱抑制や人格変化が目立ち、典型的には礼儀を欠いた行動や悪ふざけ、万引きや痴漢といった行動の障害が見られます。レビー小体型認知症は進行性の認知機能の障害の他に認知機能の動揺(短いスパンでの日内変動)、幻視(具体的で人物や小動物が家に入ってくると訴えられることが多い)、パーキンソニズム(寡動や筋固縮、振戦など)、レム睡眠行動障害(レム睡眠の時期に見ている夢の通りに体が動いてしまう)という4つの中核症状が見られます。

超高齢化社会を迎えた現代において認知症は「正常ならざるもの」として対象化されるだけではなく、いつかは誰もが「それとともに生きていかなければならないもの」「それ自体を生き抜かなければならないもの」となりつつあります。このような認知症の全般化は人がどうしようもない不可逆的な「老い」を生きていかなければならないということを文字通りに突きつけることになります。

この点、近年では認知症の症状を記憶障害や見当識障害といった中核症状と妄想や作話や徘徊といった周辺症状に分けて、後者を認知症の行動・心理症状(behavioral and psychological symptoms of dementia :BPSD)と呼ぶ理解が広まっています。もっとも、こうしたBPSDと呼ばれる認知症における周辺症状はある意味で当事者の「回復の試み」であるともいえます。

すなわち、認知症の当事者は記憶障害や見当識障害といった自らが抱える症状に困惑しながらも、責任ある主体として行動しなければならないという思いを持っており、その結果としてなされた「回復の試み」が時として周囲から妄想とか作話とか徘徊などと呼ばれることになるわけです。

このような認知症における「回復の試み」を「時間」という観点からいえば、認知症の当事者はいまにもばらばらになりそうな自身の「時間」を通常とは別の仕方で再びひとつの「時間」としてまとめ上げようとしているといえそうです。認知症を生きる当事者の「時間」とはいかなるものでしょうか。

* 時間の三つの総合

ポスト構造主義を代表する論客の1人でもあるフランスの哲学者ジル・ドゥルーズは前期の主著である『差異と反復』(1968)において「時間の三つの総合」という議論を展開しています。これは人の精神において「時間」が発生するプロセスを論じるものです。

まず、ここでいう「時間」の前段階となる非時間的位相は「反復における不連続性と瞬間性」と呼ばれます。すなわち、これは経験に与えられる諸要素は原則としてそれぞれ不連続的かつ瞬間的であり、ある要素は次の要素が提示された時点では既に消えてしまい保持されていないという位相です。

つまり、この非時間的位相において与えられた諸要素は「1、2、3・・・」と先行する要素を踏まえながら展開していくことができず、あたかも瞬きするたびに記憶喪失するかのようにその都度その都度「1、1、1・・・」がひたすら生じることになります。

通常、人は「私」という主体がまず自明なものとしてあって、その「私」が何か色々と経験して、その経験のもろもろが「私」においてまとめ上げられていると考えがちですが、ドゥルーズにとっては経験の連続性とその統一を保証する、あるいはその統一性そのものである「私」という主体自体が決して自明の前提ではないわけです。

それゆえにドゥルーズは互いに独立した不連続的瞬間が結びつけられて関係づけられ、何かしらのまとまりを得るというプロセスを問い直します。それは非時間的位相からの「時間」の根源的な総合を論じることであり、また、そのような総合とともに立ち上がる主体を論じることでもあります。

* 生ける現在−−時間の第一の総合

この点、まず「時間の第一の総合」においては「想像」という作用が重要な役割を演じることになります。一般的に「想像」といえば現前しないものをいまここにありありと思い描くことをいいますが、ここで重要なのは「想像」が「新しいものが現れたときに以前のものを保持する」という点です。

こうして非時間的位相おいては「1、1、1・・・」とその都度消え去る不連続瞬間が「想像」によって縮約されて、先行する瞬間が次の瞬間に保持され「1、2、3・・・」と系列的に展開していくことになります。

このように「想像」は直前の瞬間を把持して直後の瞬間を期待することで、直近の過去と未来を含み込んだ厚みのある「生ける現在」という最小限の時間的シークエンスからなる原初的な「時間」の単位=統一性を構成します。すなわち、このような「生ける現在」の構成が非時間的位相としての不連続的瞬間からの「時間の第一の総合」です。

そして「私」という主体もまた「生ける現在」と同じく「想像」によるばらばらな諸要素が暫定的な縮約されたもの(習慣づけられたもの)として誕生することになります。それは文字通り暫定的な「縮約」のまとまりとして受動的に構成された主体であるということです。

ドゥルーズはこのような主体を「幼生の主体」と呼びます。未だ恒常性なき瞬間ごとに転変する世界に生まれ落ちた人間存在はまず「想像」によって自らに暫定的なまとまりを与えながら、その生へと乗り出していくわけです。

* 純粋過去−−時間の第二の総合

しかし、このような「生ける現在」と「幼生の主体」はあくまで局所的で有限的なものです。「想像」による諸要素の縮約は、直前直後の要素のみを保持しておくことができるに過ぎず、それを超えて永続することはありません。とりあえず縮約された現在、習慣づけられた主体はその限りでは永続することなく、やがて再び不連続的瞬間へと解けていくことになります。ドゥルーズはこれを「疲労」と呼びます。

それゆえに時間の総合はさらに不連続的瞬間を縮約した現在が尽き果てることなく、その中を過ぎ去り、その中で保存されていくような大域的な時間形式を要請します。ここにドゥルーズは「生の哲学」として知られるフランスの哲学者アンリ・ベルクソンがいうところの「純粋過去」を位置付けます。

ここでいう「純粋過去」とは新たに生じる「現在」をその先端として、過去に生じた様々な「現在」を水準の差異としてその中に保存する「巨大な時間の器」として機能します。この「生ける現在」から「純粋過去」への乗り越えが、すなわち「想像」から「記憶」への乗り越えが「時間の第二の総合」です。

つまり「時間の三つの総合」とは非時間的位相である不連続的瞬間が、まず⑴「想像」によって「現在」に縮約され、次に⑵「記憶」によって「過去」として保存され、さらに⑶「思考」によって「未来」が到来するという現象発生の内的論理を説明するものです。

*「疲労」の全面化としての「老い」

そして、こうした『差異と反復』において展開された時間論はドゥルーズ晩年の著作である『哲学とは何か』(1991)において別の観点から光が当て直されることになります。この点、ドゥルーズ研究者の小倉拓也氏は「老いにおける仮構−−ドゥルーズと老いの哲学」という論考において『哲学とは何か』で提示される「仮構」という概念に注目し、ドゥルーズとともに、ひとつの「老いの哲学」を試みています。

まず『差異と反復』における非時間的位相としての不連続的瞬間は『哲学とは何か』では「カオス」と呼ばれ概念化されることになります。ここでいう「カオス」とは経験に与えられる諸要素がドゥルーズがいうところの「誕生と消滅の無限速度」で「1、1、1・・・」というように、ただ現れては消えていくだけでいかなる結果ももたらさない状態です。

そして『哲学とは何か』においてもやはり『差異と反復』同様の枠組みから、カオスの把握の一つの仕方として無限速度で流産し続ける諸要素を縮約する「想像」が位置付けられます。

しかしながら、この二つの著作のあいだにはある決定的な差異があり、これこそが『哲学とは何か』の独自性を構成します。『哲学とは何か』における「カオス」は確かに『差異と反復』における不連続的瞬間と同じく「想像」により縮約される位相としても論じられていますが、それ以上に「想像」による縮約がままらなくなり崩壊していく位相としての意味合いを強く持っています。

すなわち『差異と反復』では時間や主体といった何かが「生み出されること」が論じられました。しかし『哲学とは何か』では『差異と反復』と同様の枠組みを用いながらも、時間や主体といったものが不可逆的かつ再開不能な仕方で「終わっていくこと」が強調されます。そして、そのような『哲学とは何か』における議論の萌芽は既に『差異と反復』おける「疲労」という概念に見出すことができます。このような「疲労」の全面化を『哲学とは何か』は「老い」として定義します。

* 記憶なき現在の仮構

では、このような「老い」の果てにいったい何が残されているというのでしょうか。そもそも『差異と反復』の議論でも「想像」により縮約された「現在」はそれだけでは永続し得ず「疲労」によって再び不連続的瞬間への解けていくのでした。しかしながら「現在」がそのように尽き果てることなく保存されるのは、もっぱらそれが「記憶」によって純粋過去へと乗り越えられたからです。

だとすれば「疲労」の全面化である「老い」においてまず損なわれるのは「現在」における縮約ではなく「過去」をなす「記憶」なのであり、むしろそれによって「現在」はたとえ今まさに消え去りながらも、剥き出しの状態で現出することになります。

このような意味での「記憶」によることなく、おのれだけで持ちこたえる「現在」をドゥルーズは「モニュメント」と呼びます。そしてこのような「モニュメント」の行為として「記憶」から解放され、自分で打ち立て持ちこたえる「現在」の縮約をドゥルーズは「仮構 fabulation」といいます。

ここでいう「仮構」とはやはりベルクソンから援用された概念であり「想像」の一種ですが、ベルクソンによれば「仮構」は「想像」の中でも社会的紐帯の解体に反発して宗教的、迷信的な絆を構成するものであり、また、死などの意気消沈させるものの表象に対抗する表象を創り出すことで抗うものと限定されています。

こうしたことからドゥルーズにおける「仮構」とは社会や個人が直面する耐え難いものに対して自然が用意した防御反応であり、それは「老い」において不可逆的にほどけていく世界を「記憶」から解放されたかたちで縮約し、迷信のようなまがいものの絆を与えることで当の耐えがたい崩壊に抗う行為である、と小倉氏はいいます。

* 創造としての作話=仮構

そしてこの「仮構」という概念はしばし「作話」という日本語に訳されます。そこで認知症における周辺症状としての「作話」をドゥルーズのいう「仮構」に代入してみると、この「作話=仮構」という営為が新たな相貌を持って現れてきます。すなわち「作話」とは認知症における病理現象などではなく、むしろ当事者が「記憶」の後ろ盾なく「現在」を「想像」ならぬ「創造」していこうとする「仮構」であり、それはドゥルーズに倣えば「カオスに抗う闘い」であるということです。

近年、認知症におけるケアとして「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの基本動作の中に徹底的に「あなたのことを大切に思っています」というメッセージを入れていく「ユマニチュード humanitude」という技法が日本でも導入されつつあります。

この「ユマニチュード」という言葉には「人間らしさを取り戻す」という意味が込められています。こうした意味で、ユマニチュードの理念を実践する上で当事者が生きている「時間」がどのようなものかに思いを致すことは「あなたのことを大切に思っています」というメッセージが持つ響きをより豊かで、より生きたものにするのではないでしょうか。





























posted by かがみ at 22:03 | 精神分析