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フランス現代思想概論
ラカン派精神分析の基本用語集
2023年10月28日
解離的な時間としてのポストモダン
* ヒステリーから解離性障害へ
「ヒステリー」とはギリシア語の「子宮 hystera 」に由来する用語であり、古代ギリシアの医師ヒポクラテスが「子宮による窒息(子宮が湿気を求めて女性の体内を動き回ることによって呼吸器が圧迫され窒息をきたすこと)」を記載したことから医学的記述に用いられるようになりました。中世以降、ヒステリーは悪魔と結託した徴候を示すものとされ、近世では魔女狩りの対象となることもありました。しかし近代医学の成立の中で次第にヒステリーは精神障害として捉えなおされるようになります。
本格的なヒステリーの記述を初めて行ったピエール・ブリケによれば、ヒステリーは圧倒的に女性に多く、夫婦間や家族間の確執、夫や肉親の死、夫や親からの虐待などの原因が発症に関与しており、多彩な身体症状がみられるといいいます。もっともヒステリーに見られる身体症状は実際に脳や神経が障害されているわけではないため、筋肉や神経が機能しなくなる(例:手が持ち上げられなくなる)というよりも、その筋肉や神経を使って何らかの行為ができなくなる(例:水が飲めなくなる)と考えられています。
19世紀後半にはフランスの神経科医ジャン=マルタン・シャルコーが意識消失や筋硬直を伴う激しい発作性の病態を「大ヒステリー」と呼んでその概念を整理しました。この頃にはヒステリーは子宮の病気ではないし、男性も罹患しうる病気だと正しく理解されるようになっています。また周知の通り19世紀末から20世紀初頭にかけてオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトはヒステリーの治療法を試行錯誤する中で精神分析という治療実践を確立しました。しかしその後、20世紀中葉にもなるとヒステリーは医学的な関心の衰退と並行して少なくとも病院を訪れる表面的な患者数は減少することになりました。
ところがこのようなヒステリーの現代的回帰ともいえる病態が20世紀後半から注目を集めることになります。これが「解離性障害 dissociative disorders」と呼ばれる病態です。
ここでいう「解離」とは何らかの刺激に反応して意識状態が変容し、現在の知覚や記憶や身体感覚が断片化する状態を指します。過去の辛い出来事を予期せずに思い出してしまうフラッシュバックは最も未分化で原初的な解離症状です。これに対して、本人の意思とは無関係に全く別の人格に入れ替わったかのように態度が豹変する多重人格(解離性同一性障害)は最も症状の分化した解離症状です。その他、解離性障害には一過性健忘や、知らぬ間に遠方に行ってしまう遁走、被害的な幻聴、現実感の喪失、手足の麻痺などさまざな症状が含まれます。
「解離性障害」という概念が使われるようになったのは1970年代になってからのことです。この頃、特にアメリカで多数の多重人格症例が報告され、ヨーロッパもそれに続きました。また日本においても1990年ごろから徐々に多重人格の症例が増え始め今日においてはごく一般的な病態として知られるようになりました。
* 離隔と解離感
この点、イギリスの心理学者エミリー・ホムルズらは「解離」という現象を「区画化 compartmentalization」と「離隔 detachment」に区分しています。「区画化 」とは人格交代、健忘、遁走、転換症状、幻覚など認知行動面で明確な障害が生じる解離症状であり、それに対して「離隔」とは離人、現実感喪失、体外離脱体験、自己像幻視、感情的麻痺など体験基盤の変容が生じる解離症状をいいます。
区画化と離隔は元来は症状を分類する際のカテゴリーとして提唱された概念ですが、区画化の背景には必ず離隔があり、解離の本質病理は区画化ではなく離隔にあるとも言われます。また解離性障害患者一般からしばし感じ取られるいわゆる「解離感」は、こうした離隔という事態に由来するとされます。
そして、このような離隔や解離感の生じるメカニズムを考える上で参考になるのがオノ・ファン・デア・ハートらの「構造的解離理論」です。彼らは慢性外傷を受けた人々の示す解離症状は「一見正常に見える人格部分 Apparently Normal Part of Personality:ANP」と「情動的な人格部分 Emotional Part of Personality:EP」が交代するところから始まると考え、ANPで暮らしているときに瞬間的にEPへの交代が挟まれるのがフラッシュバックであり、ANPとEPが複雑に分裂して行けば多重人格(解離性同一性障害)となるといいます。
こうしたことから解離性障害患者は外傷体験とつながる情動性を遮断するために周囲世界と一線を引き、周囲世界の生き生きした姿に触れることで感情を動かさないよう注意しながら生きることになります(離隔)。それゆえに周囲の人たちはその人がいくら明るく振る舞ってもどこかよそよそしさを感じることになります(解離感)。
* 過度期としての境界例
このようにヒステリーと解離性障害は知覚や記憶や身体感覚が断片化するという点で共通の病理を持っています。そしてヒステリーが表向き減少してから解離性障害が増加する間の時期にはやはり両者と共通項の多い「境界例」と呼ばれる症例が増加しています。
「境界例」とは感情や対人関係が不安定でしばしば衝動的な自殺行動が生じる病態です。この病態はそもそも精神分析の治療経験から誕生した概念です。フロイトによってヒステリーをはじめとする神経症治療に導入された精神分析は患者の無意識的葛藤を意識化させることで症状を軽減することを企図した治療法ですが、一見して神経症に見える患者に精神分析を施した結果、逆に精神病症状を引き出してしまうケースがその導入の当初より相次いで報告されました。こうした病態は神経症と精神病の境界線上に位置する個別的な臨床例として理解され「境界例」と呼ばれることになりました。
精神分析的観点から境界例は幼児期の母親から分離する時期に安心して母親から自立ができなかったためと説明されることがあり、事実、境界例では身近な他者との二者関係で悩むことが多く見られます。境界例の特徴は常に身近な他者に対して理想化したり罵倒したりを繰り返し、見捨てられないようにしがみついたり激しい怒りをぶつけたりして安定した人間関係を保つことができないことにあります。境界例においては全般的に衝動的刹那的な行為に身を投じることが多く、過食、嘔吐、アルコール依存、薬物依存、性的な乱脈などが見られ、また自殺企図や自傷行為がしばしば認められますが、そこには周囲の人に苦痛を訴える目的が隠されていることが多いと言われます。
境界例の精神病理の根本には周囲世界を経験する際に基礎となる安定感の不在という事態があります。どのようなものを見ても聞いても全てが漠然とした不安に覆われており、患者本人はそれを「慢性的な空虚感」として体験します。この空虚感を満たすため、その都度そばに寄り添い手を差し伸べ、自分の全てを受け止めて承認してくれる他者を必要とします。
そこに境界例特有の二者関係の病の根源があります。彼らは助けてくれると直感した他者に対しては理想化して自分にとっての必要性を全身全霊で訴えかけ、当の他者もそれが必然であるかのような気持ちにさせられますが、その後、本人の期待通りにならないことがあればその他者は一転して最低の人間であるかのように非難され罵倒されることになります。
1960年代から1970年代において境界例に関して活発な議論が行われていましたが、1990年代になると解離性障害の増加とともに境界例の患者は減少に転じるようになりました。なお1980年に改訂されたDSM−V以降では「境界例」は「境界性パーソナリティ障害」に位置付けらていますが、偏った思考や行動のパターンがおそらく終生固定されているとされるパーソナリティ障害と境界例は少し異なるのではないかという意見もあります。
* 世界に対する不信
こうしてみるとヒステリー、境界例、解離性障害という三つの病態は大きくいえば主体の世界に対する不安感ないし空虚感という点で共通しているといえそうです。しかしその一方でこの三つの病態においては主体の世界に対する信頼度という点からそれぞれの差異を見出すことができます。
まずヒステリー患者の場合、その激しい身体症状は他者への依存を表しており、その裏には世界への全面的な信頼感があります。また境界例患者の場合、その怒りの表出は一見、他者への不信と憎悪を表しているかのように思われますが、そのような不信と憎悪は実のところ他者から見捨てられてしまうことの不安の裏返しでもあります。つまり境界例においては世界を十分には信じることができないけれども、怒りを訴えることで何かが変わると信じている点でまだ世界に対するアンビバレントな信頼感が残されているわけです。
ところが解離性障害ではヒステリーや境界例に見られたような激しい情動性は日常的には見られません。短期的なフラッシュバックやパニック発作や錯乱状態を除き、解離性障害の患者は基本的に空虚で平板で虚構的な日常を生きています。そこにあるのは非常に根深い他者への警戒心です。
それは「不信」と言い換えても良いでしょう。解離性障害の患者の場合、目の前の他者に対しても自分の所属する集団や社会に対しても、安心して向かいあって身を委ねることができず、決して本音は見せることなく表面的な関わりに留まっています。彼らは世界に何の希望も見出せず、ただただ今を刹那的にやり過ごしているといえます。
このように19世紀のヒステリーは世界に対する全面的な信頼があり、20世紀の境界例でも世界に対するアンビバレントな信頼が残されていましたが、現代の解離性障害においては世界に対する絶対的な不信が少なくとも前景に立っているといえるでしょう。
* コントラ・フェストゥム
日本を代表する精神病理学者である木村敏氏は様々な精神病理を「ポスト・フェストゥム(あとの祭り)」「アンテ・フェストゥム(祭りのまえ)」「イントラ・フェストゥム(祭りのさなか)」という時間構造から切り分けた「祝祭論」で知られています。ここでいう「ポスト・フェストゥム」は「取り返しがつかない」といううつ病に特徴的な時間構造であり「アンテ・フェストゥム」は未来先取り的な統合失調症に特徴的な時間構造であり「イントラ・フェストゥム」は「永遠の現在」というべき覚醒てんかんや躁鬱病に特徴的な時間構造です。
こうした木村氏の「祝祭論」の現代的展開として精神病理学者の野間俊一氏は「コントラ・フェストゥム(祭りのかなた)」という第四の時間構造を提唱しています。ここでいう「コントラ・フェストゥム」とは時間体制としては木村氏のいうイントラ・フェストゥムと同じく「いま」の枠内にあるものの、本来のイントラ・フェストゥムが生き生きとした「いま」に満ちた「永遠の現在」であるのに対して、コントラ・フェストゥムはただただ空虚な「いま」が流れては消えていくような単なる「瞬間の継起」として捉えられます。
すなわち、本来のイントラ・フェストゥムはまさに我を忘れて「祭り」の中で皆が入り乱れて踊り狂っているようなイメージですが、コントラ・フェストゥムは決して「祭り」の中に身を投じない、あるいは体は「祭り」の狂乱と喧騒の中にあったとしても心は「祭り」から切り離されて、ひとり遠く異次元に取り残されているというようなイメージです。
野間氏によればこの両者を隔てているのはその身体性(身体感覚の総体)に対応する空間性(身体が働きかける諸事物の総体)であり、本来のイントラ・フェストゥムが「飛翔」する身体性に対応する「充溢」した空間性が想定されているのに対して、コントラ・フェストゥムは「浮遊」する身体性に対応する「空疎」な空間性の中に位置しているといいます。
こうして時間体制としてのイントラ・フェストゥムはその空間様式において「狭義のイントラ・フェストゥム(充溢した空間様式)」と「コントラ・フェストゥム(空疎な空間様式)」に二分されることになります。そして下図のように野間氏はヒステリーや境界例を「狭義のイントラ・フェストゥム(充溢した空間様式)」に位置付け、解離性障害を「コントラ・フェストゥム(空疎な空間様式)」に位置付けています。
(野間俊一『身体の時間』より)
* キャラとしての承認
また精神科医の斎藤環氏は戦後の精神史を「神経症の時代(1960年代)」「統合失調症の時代(1970〜80年代中期)」「境界例の時代(1980年代後期)」「解離の時代(1990年代後期)」「発達障害の時代(2000年代後期〜現在)」の五つに区分した上で「解離の時代」以降を「承認の時代」として捉えています。
それまでの「境界例の時代」における若年層の不安は「自分が何者であるか(自分探し)」という「実存不安」が多くを占めていました。けれども「解離の時代」においては、それまでの「実存不安」と入れ代わるようにして「承認不安」が前面に出てくることになります。
これは望ましい自己イメージが「本当の自分」から「他者から承認される自分」にシフトしたことを意味しています。すなわち、現代では若年層を中心にかつてないほど自身の価値を他者からの「承認」に圧倒的に依存しているということです。このような「承認依存」の背景には言うまでもなくスマートフォンの普及やソーシャルメディアの台頭といった情報環境の変化が大きく関わっています。
こうした「承認依存」は若年層の対人評価の基準がほぼコミュニケーションスキルに集約される「コミュ力偏重」というべき事態を生じさせました。ゼロ年代以降の顕著な傾向として「コミュ力」「KY」「コミュ障」「非モテ」「ぼっち」「リア充」「陽キャ」「陰キャ」「パリピ」といったコミュニケーション関連の流行語が急増したことはよく知られるところでしょう。
そして斎藤氏によれば「承認依存」と「コミュ力偏重」という二つを媒介するのが「キャラ」です。ここでいう「キャラ」とは端的にいえば、ある個人における一つの特徴を戯画的に誇張した記号のことをいいます。
学校や職場といったコミュニティ内部で個人は何かしらの「キャラ」を割り振られることになります。この点「キャラ」にはコミュニケーションを円滑にする機能があります。相手のキャラが分かればコミュニケーションのモードも自動的に決まり、その後はそのモードで会話を続ければよく、また互いのキャラの相互確認だけで親密なコミュニケーションが取れているかのような気分にもなります。その意味で「キャラ」はあるコミュニティ内でその人の「居場所」を与えてくれるという機能があります。
さらにいえば「キャラを演じているに過ぎない」という自覚はキャラの背後にある(と想定される)「本当の自分」の存在を信じさせ、また保護さえしてくれます。仮に誰かに傷つけられたとしても所詮それは演じられたキャラなのであり「本当の自分」とは関係ないと割り切ることができるでしょう。
こうしたことから氏は「承認依存」とは実は「キャラとしての承認」への依存を意味しているといいます。ここでの「承認」は「本当の自分を肯定してほしい」という欲望とは異なり「キャラとしての自分を受け入れてほしい」という欲望に近いということです。こうしたある種のコミュニケーションのモードが凝集された擬似人格ともいえるキャラの特徴は多重人格の交代人格の特徴と通じる点があるでしょう。
* 解離的な時間としてのポストモダン
以上のような野間氏のいう「コントラ・フェストゥム」と斎藤氏のいう「キャラとしての承認」はポストモダンと呼ばれる現代の特徴をそれぞれ裏面から照らし出しているように思えます。
社会をまとめ上げる「大きな物語」が失効したポストモダンにおいて個人は任意の「小さな物語」を選択して別の「小さな物語」を生きる他者の承認を得ることでその実存を確保しようとします。すなわち「コントラ・フェストゥム」とはこうした「小さな物語」同士による終わりなき承認ゲームという「祭り」から疎外された「かなた」にいるような空疎な感覚を指しています。
そして、こうした「コントラ・フェストゥム」における空疎な感覚は「キャラとしての承認」に由来します。どれだけ他者から承認を得られようが所詮それはどこまでも「キャラとしての承認」に過ぎず「本当の自分」が承認されていることにはならないからです。すなわち、ここでは「キャラとしての自分」と「本当の自分」が解離的に共存していることになります。
この点、東浩紀氏は『動物化するポストモダン』(2001)においてやはり解離性障害を参照しながらポストモダン的主体を動物的欲求と人間的欲望が解離的に共存した「データベース的動物」として描き出しましたが、これは別の観点からいえば「キャラとしての自分」と「本当の自分」が解離的に共存した主体であるともいえます。こうした意味で現代において人々は多かれ少なかれ「解離的な時間」を生きることを余儀なくされているといえるのではないでしょうか。
posted by かがみ at 00:30
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