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現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2023年08月23日

祭りのかなた−−現代の病理における時間構造



* 木村精神病理学における祝祭論

日本を代表する精神病理学者、木村敏氏はさまざまな精神病理を「自己」という問題から統合的に考察したことで知られています。この点、木村氏はうつ病者においては「自己」と他者との「あいだ」が問題となり、統合失調症者においては「自己」の成立そのものが問題となるといいます。すなわち、統合失調症者においては自己と他者が同時に発生する場としての「あいだ」が極めて不安的であることから、木村氏のいう「ノエマ的自己(意識対象)」が対象化されておらず「ノエシス的自己(意識作用)」が成立していない状態にあるということです。

そして次に木村氏はこうした「自己」をめぐる問題を「時間」の問題として捉えました。これが木村精神病理学における「祝祭論」として知られる一連の有名な議論です。


* あとの祭り−−うつ病における時間構造

かつて「うつ病」といえばもっぱら「内因性うつ病(メランコリー親和型うつ病)」を指していました。このタイプのうつ病者は一般的にその発症前から几帳面、凝り性、責任感旺盛で、秩序を重んじ、自分への要求水準が高く堅実、誠実、世話好きといった性格を持つことで知られています。

この点「メランコリー親和型うつ病」という疾患概念の提唱者であるドイツの精神病理学者フーベルトゥル・テレンバッハは内因性うつ病者が持つ特徴を「インクルデンツ(秩序のなかに閉じ込められている状態)」と「レマネンツ(自分自身に常に負い目のある状態)」と呼んでいます。また同じくドイツの精神病理学者アルフレッド・クラウスは個人のアイデンティティ(自己同一性)を「自我アイデンティティ(純粋に自分自身について持つアイデンティティ)」と「役割アイデンティティ(社会の中での自分の役割について持つアイデンティティ)」の二重構造から成り立っているとして、内因性うつ病者は「自我アイデンティティ」の形成が不十分であるため「役割アイデンティティ」が優勢となり、社会的・対人的な役割関係を守ることに自分の価値を見出していると考えました。

このように内因性うつ病者は社会の中で規定された秩序や役割に縛られており、彼ら/彼女らが自分自身に課された秩序や役割に対して負い目を感じたとき、症状としてうつ病が発症することになります。こうしたテレンバッハ/クラウスの議論を受けて木村氏は内因性うつ病患者の病前性格の基本的特徴を「現状維持への活動的執着」であると捉え、それが様々な事情によって維持できなくなった時「取り返しがつかない」という抑うつ気分が生じるとして、また、いわゆるうつ病の三大妄想と呼ばれる「罪責妄想」「心気妄想」「貧困妄想」も、やはり「取り返しがつかない」という意味方向を持っているといいます。

そして、このようなうつ病者における「取り返しがつかない」という根本気分が回復不能なまでに棄損されたとすれば、それはまさしく「あとの祭り」というべき事態となります。こうしたことから木村氏はこの内因性うつ病における時間構造を「あとの祭り」のラテン語である「ポスト・フェストゥム(post festum)」と呼びます。


* 祭りの前−−統合失調症における時間構造

これに対して統合失調症者における時間体制はまったく異なる位相にあります。統合失調症の中核症状である被害妄想は「誰かに狙われている」という追跡妄想や「周囲の人たちに見られている」という注察妄想という形を取りますが、このように自分を迫害してくる他者とは誰それという具体的個人ではなく、たいていは漠然とした「人びと」であり、多少具体的になっても「正体不明の組織」であったりします。

いずれにしても統合失調症者が何らかの被害妄想を持つとき、実際には具体的な他者が怪しい態度をとっていたり自分の生活環境に不審な変化があったりするわけではなく、まず本人が何かの被害を被っているという恐怖感を持ち、そこから二次的に周囲の他者や環境が不審に思えてくるわけです。そして、そのような被害妄想に対して統合失調症者は反撃することも無視することもできず、迫害してくる相手は「絶対的な他性」ともいうべき抗い難い力を持って現れます。

このような圧倒的な「絶対的な他性」を前にして統合失調症患者は「何かが起こるのではないか」という不安と警戒のなかで日々を過ごすことになります。とりわけ「この世の終わり」とでもいうべき破滅的状況が起こりそうだという統合失調症的体験は特に「世界没落体験」と呼ばれます。

いずれにせよ統合失調症患者は常に周囲世界から何かを感じ取り、先へ先へと行動しなければいけないと気分の中で生活してます。いわば統合失調症患者は、未来先取的、予感的、先走り的な時間の中に生きているといえます。木村はこの統合失調症患者特有の時間構造を「祭りの前」を意味するラテン語である「アンテ・フェストゥム(ante festum)」と呼びます。


* 祭りのさなか−−てんかん・躁うつ病における時間構造

精神疾患の中には脳の神経伝達が一時的に乱れることで意識や身体に障害が生じる「てんかん」と呼ばれる疾患があります。この疾患はまず「いつもと何かが違う」という落ち着かない気分が生じ、そのうち両腕両足が硬く突っ張ったのちに大きく痙攣して意識を喪失する発作を起こす、いわゆる「アウラ体験」で知られています(もっともこれはあくまで典型例な発作例です)。

このような「アウラ体験」では通常、意識が朦朧とするため、大抵はその時のことを覚えていませんが、原因不明の脳波の乱れが脳全体で生じる突発性全般てんかんの一種で朝方の覚醒直後に発作を起こす「覚醒てんかん」においては、ほんの僅かな時間の「アウラ体験」を覚えている患者もいます。

それはまさに生の実感と死の境域が同時に立ち現れる体験であり、自分と世界が渾然一体となっているかのようなヌミノーゼ的な体験であり、その瞬間には過去も未来もない「永遠の現在」が出現しているといわれます。これこそまさに「祝祭」そのものの体験であり、このようなてんかん患者に特有の「永遠の現在」というべき時間構造を木村氏は「祭りのさなか」を意味するラテン語である「イントラ・フェストゥム(intra festum)」と呼びました。

この点、木村氏によればアンテ・フェストゥムとポスト・フェストゥムのあいだには質的な差異がありますが、これに対してイントラ・フェストゥムは量的な差異であるとされます。例えば躁うつ病(双極性感情障害)では現在中心のイントラ・フェストゥム的特徴が認められると同時に、内因性うつ病との連続性においてポスト・フェストゥム的特徴も併存しています。そして、このようなイントラ・フェストゥム的特徴を示す精神疾患として覚醒てんかんや躁鬱病の他にも非定型精神病、境界例、ヒステリーなどがあげられます。


* 祭りのかなた−−現代の病理における時間構造

このように木村氏の「祝祭論」はあらゆる精神疾患を−−さらにはあらゆる人間存在を−−その体験の基盤にある時間構造によって切り分けた点で卓越しています。もっとも木村氏がはじめて「祝祭論」を世に問うてから40年以上の歳月が経過しています。この点、精神病理学者の野間俊一氏は『身体の時間』(2012)において2000年型抑うつ(新型うつ病)、解離性障害、摂食障害、自傷行為、広汎性発達障害(自閉症スペクトラム障害)といった現代的な病理の中に木村氏の「祝祭論」を位置付け直す議論を展開しています。

まず同書で野間氏はこれらの現代的な病理がいずれも木村氏の「祝祭論」におけるイントラ・フェストゥムの枠内にあることを確認する一方で、その時間構造は木村氏の記述したイントラ・フェストゥムのような生き生きとした「いま」に満ちた「永遠の現在」とは真逆ともいえる、ただただ空虚な「いま」が流れては消えていくような単なる「瞬間の継起」であることを指摘します。

永遠の現在と瞬間の継起。この両者を区別するのは何なのでしょうか。野間氏によればこの両者を隔てているのはその身体性(身体感覚の総体)に対応する空間性(身体が働きかける諸事物の総体)であるということです。

我々はそれぞれ固有の身体を持つがゆえに我々にはそれぞれ個別の空間のあり方があり、また時代によって異なったそれぞれの空間のあり方があります。こうしたことから木村氏のいう本来のイントラ・フェストゥムでは「飛翔」する身体性に対応する「充溢」した空間性が想定されているのに対して、現代の病理は「浮遊」する身体性に対応する「空疎」な空間性の中にあるということです。

もっとも、こうした現代の病理を生きる人々が常に「空疎」な空間性を生きているわけではなく、瞬間的には例えば解離性障害における不穏状態や、広汎性発達障害における予期せぬ事態に対するパニックなどという形で「充溢」した空間性を体験することもあります。けれどもこうした「充溢」は長く続くことはなく、あくまで基調は「空疎」であるということです。

この点、木村氏のいうイントラ・フェストゥムは「祭りのさなか」という字義通り、まさに我を忘れて祭りの中で皆が入り乱れて踊り狂っているようなイメージです。これに対して現代の病理を生きる人々からは決して「祭り」の中に身を投じない、あるいは体は「祭り」の狂乱と喧騒の中にあったとしても心は「祭り」から切り離されて、ひとり遠く異次元に取り残されているというイメージが浮かび上がります。

こうしたことから現代の病理における時間構造を野間氏は「祭りのかなた」を意味するラテン語である「コントラ・フェストゥム(contra festum)」と呼びます。すなわち、ここでは時間体制としてのイントラ・フェストゥムはその空間様式において「狭義のイントラ・フェストゥム(充溢した空間様式)」と「コントラ・フェストゥム(空疎な空間様式)」に二分されることになります。

なお、この「コントラ・フェストゥム」について木村氏は1988年のある座談会で既に言及しており、そこで氏は「シラケ人間」と形容されるある種の人々における時間は「コントラ・フェストゥム」と呼びうると指摘し「アレキシサイミア(失感情症・感情失読症)」との関連を示唆しています。そして野間氏によれば、この「コントラ・フェストゥム」という時間構造こそがまさに現代の病理の枢要部に位置しているということになります。


* 近代の時間からポストモダンの時間へ

木村氏の提唱したアンテ・フェストゥム、ポスト・フェストゥム、イントラ・フェストゥムの三つ組に加えて、野間氏が提唱したコントラ・フェストゥムを加えると四者の関係は次のように示すことができます。

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(野間俊一『身体の時間』より)



こうして見ると現代における時間体制はアンテ・フェストゥムやポスト・フェストゥムからイントラ・フェストゥムへと遷移しており、なおかつ空間様式は狭義のイントラ・フェストゥムからコントラ・フェストゥムへ遷移していることがわかります。そして、このような時間体制と空間様式の遷移は大きくいえば「ここではないどこか(過去・未来)」に規定されていた「近代の時間」から「いまここ(現在)」が全面化した「ポストモダンの時間」への遷移ともある程度対応しているともいえそうです。

すなわち、一つの社会をまとめ上げる「大きな物語」が機能していた近代において個人は自身を生を基礎付ける「小さな物語」を「大きな物語」と同調させることで自己を自己としてあらしめていました。そうであればアンテ・フェストゥムは「大きな物語」が不在の時間であり、ポスト・フェストゥムは「大きな物語」から逸脱する時間であり、イントラ・フェストゥムは「大きな物語」に叛逆する時間であるともいえるでしょう。

そして「大きな物語」が失効したポストモダンにおいて個人は任意の「小さな物語」を選択して別の「小さな物語」を生きる他者の承認を得ることで自己を自己としてあらしめることになります。そうであればコントラ・フェストゥムとはこうした「小さな物語」同士による終わりなき承認ゲームという「祭り」から切断された「かなた」にある時間であるともいえます。こうした意味で現代の病理を規定するコントラ・フェストゥムという時間構造はポストモダンにおける個人の生のリアリティを裏面から照射しているともいえるのではないでしょうか。























posted by かがみ at 00:51 | 精神分析