【参考リンク】

現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2023年07月28日

水平方向のケア論



* 垂直方向から水平方向への方向転換

精神病理学者の松本卓也氏は「水平方向の精神病理学に向けて」という論考において「べてるの家」の活動で知られる向谷地生良氏の次のような言葉を引用して、統合失調症から回復はしばし「垂直方向から水平方向への方向転換」がきっかけとなってはじまることが経験的に知られていると述べています。

向谷地 面白いのはね、そういう(妄想の)話をしていくなかに、(身近な)他者が出てこないんです。さっきの神様とのテレパシーもそうだけど、話題はつねに「テレパシーと神」なんですよ。

−−神と一対一なんですね。

向谷地 リアルワールドじゃない「アナザーワールド」のなかでその関係に苦しんでいるんです。食事がまずいとかおいしいとか、誰々さんのことが好きだとか嫌いだとか、そういうリアルな現実との話がほとんど出てこないんですよ。だから、そういう話が出てくると、「あっ、回復が始まったな」と思う。むしろ、そういうことをいかに起こしていくか、ってことです。

(『精神看護』19巻2号「向谷地さん、幻覚妄想ってどうやって聞いたらいいんですか?・1−−その神様ってどのへんにいるんですか?」より)


ここで向谷地氏が述べている「神様とのテレパシー」という「アナザーワールド」と「食事」「誰々さん」という「リアルワールド」とはそれぞれ、松本氏のいう「垂直方向」と「水平方向」に対応しています。では、このような「垂直方向から水平方向への方向転換」がなぜ統合失調症の回復をもたらすのでしょうか。


* 精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について

統合失調症においては、多くの人にとってはある意味で当たり前な「世界に棲まう」という根本的な様式に何らかの障害があるといわれています。こうした統合失調症が生じる構造的条件をフランスの精神分析家ジャック・ラカンは「〈父の名〉の排除」にあると定式化しました。

1955年から1956年にかけて行われた『精神病』というセミネールにおいてラカンは〈父の名〉なるシニフィアンは通常、人が人生における重大な局面(例えば進学や就職や結婚や昇進といったライフイベント)において参照する幹線道路のようなものであるとして、こうした〈父の名〉がもともと排除されている精神病者(統合失調症者)は人生における重大な局面で父性を担うように呼び掛けられてもその〈父の名〉という幹線道路を利用できず、その周囲に張り巡らされた小道をさまよいながら妄想的な仕方で父性を実現することになるといいます。

そしてこのような『精神病』のセミネールにおける〈父の名〉の排除の議論を体系化すべく、その後ラカンはエディプスコンプレックスの構造論化に取り組み、その一連の議論をもとに1958年に執筆した論文が「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について」です。


* 世界を秩序づける神の女になる

同論文においてラカンは「シェーマI」と呼ばれる次のような図式を用いて精神病における発病と治癒のプロセスを論じています。

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(「水平方向の精神病理学に向けて」より)

ラカンによれば精神病者には元来、象徴界を統御するシニフィアンである〈父の名〉が欠けていますが、発病前の精神病者はその欠陥を、すなわち〈父の名〉の排除を直視せずに済ませており、多くの場合は自分と同性の隣人を一種のロールモデル(想像的杖)とすることによって現実社会に適応しています。しかし、何らかの形で彼/彼女に父性の問いを突きつけるトリガーとなるような父的存在が現れた時、彼/彼女はたったひとりで父性の問題に直面することになり、その際に〈父の名〉の排除が明らかになり、精神病が本格的に発病することになります。

そして精神病者は〈父の名〉の排除(P0)とその帰結であるファルスを起点とするセクシュアリティ形成の失敗(φ0)を、妄想の中で補修することによって神経症者の「父性隠喩」に相当する「妄想性隠喩」を構築するに至ります。

例えば『ある神経病者の回想録』(1903)で知られるダニエル・パウル・シュレーバーの場合(いわゆる症例シュレーバー)では〈父の名〉の排除によって不安定化した象徴界(言語領域)を安定させるため「世界を秩序づける」という妄想の軸(M→I)と、〈父の名〉の排除の帰結としての想像界(イメージ領域)における男性的同一化の失敗を防ぐため「神の女になる」という妄想の軸(i→m)がそれぞれ生じ、この二つの妄想の軸を結合した結果として最終的にあの有名な「世界を秩序づける神の女になる」というシュレーバーの妄想(=妄想性隠喩)が生み出されることになります。

このようにラカンのシェーマIは〈父の名〉の排除(P0)とファルスを起点とするセクシュアリティ形成の失敗(φ0)を補修する一連の妄想形成の作業をそれぞれ右側の象徴界の曲線(M→I)と左側の想像界の曲線(i→m)によって示したものです。それゆえに、ここでのラカンの精神病論は、その発病論(P0/φ0)においても、治療論(M→I/i→m)においても、もっぱら垂直方向の運動を取り扱っているものとしてひとまずは考えられています。


* 私たちに向けられている/妻を愛する

けれども話はここで終わりではありません。このシェーマIにおいて精神病の妄想は象徴界と想像界のそれぞれに空いた二つの穴(P0/φ0)の周囲を二つの曲線(M→I/i→m)が垂直方向に旋回することで生じているように見えますが、その上下にはさらに二つの直線が水平方向に走っています。ラカンはこの「私たちに向けられている/妻を愛する」という二つの直線が「現実が主体のために修復された際の諸条件を表している」のだといいます。

すなわち、シュレーバーの妄想は垂直方向の曲線だけでは際限なく拡大し、現実を極端なほどに歪めてしまう可能性がありますが、水平方向の直線が妄想に一定の枠を与えることで、現実を生き延びる可能性を開くことになります。

こうしてみるとラカン派においてしばしば語られてきた精神病の治癒像としての妄想性隠喩は実は真の治癒像ではないといえます。シェーマIに描かれたシュレーバーの真の治癒は「私たちに向けられている」と「妻を愛する」ことによって起こっています。すなわち、垂直方向の高みにある神のような超越的他者に向かうのではなく、水平方向のフィールドにおいて病者の語りを聴き取る者である「私たち(精神科医/精神分析家)」や、絆をつなぎ止める「妻」に向かうということです。


* 水平方向の治癒論としてのサントーム

もっともラカンは同論文においてこの「私たちに向けられている/妻を愛する」という二つの水平方向の直線を、それぞれ「患者が訴えかける読者としての我々が、彼にとっていったい何であるのか」「彼の妻との関係に関して残っているもの」であると説明するだけでこの話題を終えています。しかしながら松本氏は1970年代において再開される後期ラカンの精神病論を1958年の論文においては十分に扱うことができなかった「水平方向の治癒論」として読解していく道が残されていると述べています。

例えばラカンは1975年から1976年にかけて行われた『サントーム』のセミネールの中で精神病を疑わせる微細な症状を持ちながらも本格的な発病に至らなかったアイルランドの作家のジェイムズ・ジョイスを論じ、ジョイスにとって彼の妻のノラが果たした役割を「サントーム」にあたると述べています。ここでいう「サントーム」とは「症状」の古い綴り方であり、ラカンはこの術語によって自分の症状を社会の中で生きうるようになった神経症者や精神病者のあり方を示そうとしていました。

またこのセミネールでは〈父の名〉の位置付けも大きく変化しており〈父の名〉は「それを使うという条件のもとで、それをやりすごすことができる」ものとされています。これらの記述は父としての機能を果たさない父を持ち、父を否認しながらも父に深く影響されていたジョイスが、本格的な発症を来さずに創造行為を行うことができたことの理由を反-垂直方向において説明しようとすることを試みていると考えることができる、と松本氏は述べます。


* 当事者研究とは何か

そして向谷地氏が設立した「べてるの家」の活動の中にもこうした反-垂直方向ないし水平方向へと向かう運動を見出すことができるでしょう。「べてるの家」は1984年に北海道浦河町に設立された精神障害等を抱える当事者の地域活動拠点であり、今では「当事者研究」の先駆けとしても知られています。

統合失調症の症状に由来する「爆発」がおさまらず行き詰まっていた青年に向井地氏が「一緒に研究してみないか」と声をかけたところからはじまった「当事者研究」とは当事者が自らの「苦労」をグループの前で発表することで参加者と共にその「苦労」のパターンを明らかにしながら自分の助け方を考えて、ソーシャルトレーニング(SST)と呼ばれる当事者主体の運用が可能な訓練技法によって自分の助け方を練習していくという一連の活動を指しています。

このような当事者研究においては、これまで当事者があいまいな形で抱えていた「苦労」をきちんと言語化して仲間とシェアすることにより、例えば自分を侵襲する迫害的な幻聴が対話の相手である「幻聴さん」になっていくというように「症状」と呼ばれていたものの性質が大きく変化することになります。

そしてこうした「苦労」のシェアにより当事者の周囲においても「爆発を繰り返す〇〇さん」という理解から「爆発を止めたいと思っても止まらない苦労を抱えている〇〇さん」という理解に変わり、その人の抱える「問題」がその人自身から切り離されることになります。

また当事者研究のプロセスにおいては、例えば「統合"質"調症・難治性月末金欠型」というような「自己病名」が案出されることがあります。このように自身の「苦労」にオリジナリティを与える「自己病名」は当事者が自分自身の個別性を回復する試みの一環であると同時に、自身の抱える「苦労」をユーモアと共にシェアするきっかけにもなるのでしょう。


* 水平方向のケア論

現象学者の村上靖彦氏は、このような「当事者研究」における営みは投薬や隔離によって当事者の手を離れた「苦労」を、自ら取り組めるものとして本人に取り戻す働きがあり、そこには「苦労をユーモアへと反転する力」があると述べてます。

ここで村上氏のいう「苦労をユーモアへと反転する力」とは、松本氏の述べる「垂直方向から水平方向への方向転換」と軌を一にする運動であるといえるでしょう。あるいは当事者が自身の「苦労」を特異的=単独的なものとして引き受ける「自己病名」とはまさに「サントーム」というべき「症状」の「発明」であるともいえそうです。

村上氏は近著『ケアとは何か』(2021)においてケアとは単なる苦痛緩和や生活支援にとどまらず「生きることを肯定する営み」「病む人と共にある営み」であり、その目的とは「患者や苦境の当事者が自分の力を発揮しながら生き抜き、自らを表現し、自らの願いに沿って行為すること」であると位置付け、同書は精神疾患に限らず身体疾患や終末医療、あるいは在宅介護から児童養護施設やこども食堂にいたる多種多様な領域における対人援助職の語りを現象学的な視点から記述しています。

こうした同書が描き出す理念型としてのケアラーはまさに水平方向における他者(ラカンのシェーマIにおける「私たち」)というべき存在であるといえます。そうであれば、その語りの中からはいわば「水平方向のケア論」と呼ぶべき声を聴き取ることができるのではないでしょうか。





















posted by かがみ at 00:53 | 精神分析