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フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2023年02月25日

自傷的自己愛と自己心理学



* 自傷的自己愛とは何か

ひきこもり支援の専門家として知られる精神科医の斎藤環氏は近著『「自傷的自己愛」の精神分析(2022)』において、思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱しています。

同書は「はじめに」でいわゆる「インセル」や「無敵の人」が起こしたとされる事件を取り上げます。ここでいう「インセル」とは「インボランタリー・セリベイト(不本意な禁欲主義者)」の略称であり、自分の容姿が醜いために女性から相手にされないと確信する男性たちの呼称として用いられ、しばし彼らは女性への憎悪を募らせる男性優位主義者のヘイトグループとされることがあります。そして「無敵の人」とはかつての2ちゃんねる管理人として知られる西村博之氏が2008年に提唱した言葉であるとされており、元々社会的信用が皆無のため逮捕されることがリスクとならず犯罪を起こすことに何の躊躇もないような人々を指しています。

彼らは最も極端な形で「自傷的自己愛」を象徴していると同書はいいます。すなわち「インセル」や「無敵の人」においてはその自己否定の感情が暴走した結果、拡大自殺のような形で通り魔殺人などの事件を犯すことがある、ということです。こうした犯罪の背景にはしばし何かしらの社会批判が見え隠れたりもしますが、同書によればその大元には「自己否定=社会批判」というショートカットがあるわけです(もちろん、これは同書も釘を刺すように「自傷的自己愛」が強い人の犯罪率が高いという意味ではありません)。


* 自傷的自己愛とひきこもり

そして「自傷的自己愛」は斎藤氏の専門領域である「ひきこもり」にもよく見られるといいます。ここでいう「ひきこもり」の定義とは、6ヶ月以上社会参加をしない状態で、かつ何かしらの精神障害を第一の原因としない状態をいいます。現在日本には内閣府の推計で100万人以上の(斎藤氏の推計によれば200万人以上の)「ひきこもり」の当事者がいると考られており、当事者がその保護者と共に高齢化していることを含めて社会的な問題となっています。

「ひきこもり」はしばし視野の狭さや人格的な偏りなどから一種の病気とみなす主張も聞かれることもありますが、斎藤氏は精神科医として、30年以上に及ぶ臨床経験に基づき「ひきこもり」を「困難な状況にあるまともな人」とみなすことを提唱しています。そもそも「ひきこもり」とは、いじめやハラスメント、ブラックな労働環境といった「異常な状況」に対する「まともな反応」として生じるのであり、その意味で、どんな家庭で育ったどんな人でも、いつでもどこでも何歳からでも「ひきこもり」になる可能性がある、と同書はいいます。

そして往々にして「ひきこもり」の当事者は、こうした「まとも」であるがゆえに現在の状況が家族の負担になっており世間的な価値観からも批判される状態にあることをよく自覚しており、その結果、彼らは「セルフスティグマ(自分は無価値な人間であるというレッテルの内面化)」を自身に貼り付けてしまい、こうした状況での周囲からの励ましの言葉はしばし逆効果となることがあります。


* 自己愛の発露としての自傷行為

そして同書はこういった発言をするのは「ひきこもり」の人々ばかりではなく、メンタルな問題を抱える若年層には「自分が嫌い」な人が多いように思うと述べ、この「自分が嫌い」な人はいわゆる格差社会の「負け組」のみならず、社会からの評価も高くて社交性も収入もある、いわば「勝ち組」の中にもいると述べます。

こうしたことから、同書はこうした「自分が嫌い」な人たちというのは、自己愛が弱いのではなくむしろ自己愛が強いのではないかと述べます。つまり、彼らの自己否定的な発言は自己愛の発露としての自傷行為なのではないかということです。その根拠の一つとして同書は彼らが自分自身について、あるいは自分が社会からどう思われているかについて、いつも考え続けているという点を挙げています。

だとすれば、それはたとえ否定的な形であり自分に強い関心があるという、紛れもなく自己愛の一つの形といえます。こうした逆説的な感情こそが斎藤氏のいうところの「自傷的自己愛」です。


* 自己愛性パーソナリティ障害

この点、同書が第一章で述べるように「自己愛」とは従来の精神医学や精神分析の歴史においてはどちらかというとネガティヴな意味で用いられてきた言葉です。

まず、アメリカ精神医学会の編纂した「精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-5)」には「自己愛性パーソナリティ障害(narcissistic parsonality disorder:NPD)」という診断名があります。

その診断基準とは誇大性、賞賛の要求、および共感の欠如の持続的なパターンであり、このパターンは⑴自分の重要性および才能についての誇大な根拠のない感覚(誇大性)⑵途方もない業績、影響力、権力、知能、美しさ、または無欠の恋という空想にとらわれている⑶自分が特別かつ独特であり、最も優れた人々とのみ付き合うべきであると信じている⑷無条件に賞賛されたいという欲求⑸特権意識⑹目標を達成するために他者を利用する⑺共感の欠如⑻他者への嫉妬および他者が自分を嫉妬していると信じている⑼傲慢、横柄のうち5つ以上が認められる必要があるとされます。

こうしたことから自己中心的な言動を繰り返しながらも我が身を省みず、自分の業績は自画自賛し、少しでも批判されれば激怒して相手を罵倒し、問題が起きてもすべて他人のせいにするような人は、しばしば「自己愛的」と評価されます。日本でも自己愛という言葉は問題行動を起こした著名人や犯罪者を表する際に「精神障害と診断できない困った人」に対するレッテルとして用いられたりもします。


* 精神分析におけるナルシシズム

そして伝統的な精神分析で自己愛とは「ナルシシズム」と呼ばれてきました。周知の通り、この「ナルシシズム」の語源はギリシア神話のナルキッソスの池に映った自分の姿に恋をした話に由来しています。

この点、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトは「自体愛」「一次ナルシシズム」「二次ナルシシズム」という概念を提唱しています。

まず「自体愛」とは、まだ生後間もない乳児がリビドー(心的エネルギー)のすべてを口や肛門、性器など自身の体のどこか一部分に備給(心的エネルギーの移動)している状態を指しています(指しゃぶりとかマスターベーションのような行為は自体愛的な行為とされています)。

次に「一次ナルシシズム」とは自他の区別がまだつかない段階の幼児がリビドーのすべてを意識の枢要部である自我に備給している状態を指しています(もっとも最近の研究では乳幼児がかなりの早期から外的対象を認識できるとされており、今日ではフロイトの説はだいぶ分が悪いようです)。

そして「二次ナルシシズム」とは一旦は外的対象、つまり他者をはじめとする外界へ備給したリビドーを、他者への幻滅から再び自己に向け直した状態を指しています。

斎藤氏はこの「二次的ナルシシズム」を病的、退行的とみなす発想が現在の精神科臨床における「自己愛」の低評価につながっているように思われてならないといい「病的ではない二次的ナルシシズム」を「自己愛」と呼びます。


* ラカンの鏡像段階理論

そして、フロイトの精神分析を体系的に発展させたフランスの精神分析家、ジャック・ラカンもやはり「自己愛」を端的に「未熟なもの」として捉えていた、と同書はいいます。

生後しばらくの間、乳幼児は脳や脊髄などの中枢神経系統が未発達であるため、目や口や耳などの感覚器官から得られる身体興奮の束の中で生きています。この点、発達心理学における一般的理解によれば、子どもは中枢神経系統の発達過程の何処かで統合的な「自己(身体イメージ)」を獲得すると言われています。ところがラカンは、こうした中枢神経系統の発達以前に、既に子どもは自身の「自己」を視覚的イメージとして先取りしていると主張しました。

こうした視覚的イメージ化を助けるためのメディアの一つとして「鏡」があります。この点、ラカンは生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は「鏡」に映った自分の姿を発見し歓喜に満ちた表情を見せるといいます。すなわち、この時に子どもはそれまでバラバラだった身体興奮の束が「鏡」の中でまとまり視覚的イメージとして「自己」を発見するということです。このような発達過程をラカンは「鏡像段階」と名付けました。


* 想像界という嘘の世界

もっとも鏡が映し出す自身の鏡像とは左右が反転した自分であり、いわば自分そのものではない「嘘」の姿です。けれども人は自分の眼で自分を直接眺めることができないので、その代わりに左右反転した鏡像を自分だと思い込んでいます。鏡の力を借りている限り人が真の自分の姿に辿り着くことはできません。このような状態を精神分析では「主体は自我を鏡像の中に疎外する」などと表現します。

このように鏡像段階とはある意味で「嘘」の世界の起源であり、このような「嘘」の世界をラカンは「想像界」と呼んでいます。そして、ラカンは視覚イメージに魅了されることを多かれ少なかれ「ナルシシズム」の作用と見做しており「自己愛」の起源もまたこの鏡像段階にあると考えます。こうしてラカンにおいて「自己愛」とは鏡の中の自分というイメージを愛する「ナルシシズム」として否定の対象となっていきます。

同書は「自己愛」についてのラカンの功績は一見すると自己愛とは何も関係ないような現象や行動にも「自己愛」が宿ると看破した点にあるいい「自傷的自己愛」という概念もラカンの理論がなければ発見できなかもしれないといいます。けれどもその一方で同書は当のラカン派は「ナルシシズム」という言葉をもっとも批判的な意味を込めて使う人々だと思うと述べています。


* コフートの自己心理学

このようにフロイトやラカンが自己愛を否定的に捉えたのに対して、自己愛を肯定的に捉えた精神分析家もいます。斎藤氏がその代表として取り上げるのが米国の精神分析家、ハインツ・コフートです。

コフート理論はまず自己愛性パーソナリティ障害の治療論として世に出て来ます。この点、フロイト以来の伝統的精神分析は、リビドー備給の正常な発達過程として自体愛から自己愛へ、自己愛から対象愛へと進んでいくモデルを想定しています。これに対して、コフートの慧眼はそれとは別に自己愛独自の発達があると考えた点です。すなわち「未熟な自己愛」から「成熟した自己愛」への発展・昇華ということです。

コフートという人は、その前半生においては米国精神分析学会会長などの要職を歴任するも、後半生からは伝統的精神分析に対する疑念から独自の理論を提唱し始めます。そして、最終的には精神分析理論全領域の大改訂を成し遂げて「自己心理学」と呼ばれる全く新しい理論体系を打ち立てます。

伝統的精神分析と自己心理学の間では、その前提とする人間観が根本的に異なっています。伝統的精神分析が「罪責人間」を対象とするものであるのであれば、コフートの掲げる自己心理学は近年増えてきた「悲劇人間」を対象とするものです。

「罪責人間」とは自らの中にある快楽衝動に抗えず罪責感に苦しむ人をいいます。この点、当時の米国精神分析の主流派であった自我心理学は「自我」を強化する事でこのような葛藤を克服する事を目標としていました。

これに対して「悲劇人間」とは「自分のことを分かってくれない」「認めてくれない」という周囲の承認や共感の欠如に苦しむ人のことであり「罪責人間」とは悩みの構造が異なっています。コフートはこういった「悲劇人間」の増加という社会状況の変化を念頭に置いて、従来の精神分析理論を現代社会に相応しい形へアップデートを行なっていくわけです。


* 自己愛構造体と自己愛性パーソナリティ障害

コフートは最初の著作「自己の分析(1971)」において幼い子どもの自己愛について「誇大自己(完全で万能な自己イメージ)」と「理想化された親イマーゴ(完全で万能な親イメージ)」の二つの機制によって構成される「自己愛構造体」を仮定しました。

つまり子どもの心象風景には「わたしは何でもできる存在で、何でもしてくれる神様が、私をいつでもどんな時でも愛してくれるはずだ」という完全に自分本位の物語があるわけです。

もちろん世の中そうはなっていないわけで、成長するにつれて子どもは現実を悟っていき、誇大的な自己イメージは現実に適応した形で成熟していく、あるいはそうあるべきであるということになります。いわゆる「大人になる」ということは、自分は世界の中心でも何でもなく、社会の歯車に過ぎないというこの無情な現実を受け入れるということに他なりません。

ところが、この現実を受け入れることができず、自己愛構造体が子どものまま発達しない場合があります。こうした発達過程の歪みが自己愛性パーソナリティ障害という病理の根幹を形成するということです。

この点、従来の精神分析理論では自己愛性パーソナリティ障害においては治療者への転移(対象転移)が起きないため精神分析は適用できないとされていました。けれども、コフートは対象転移とは別の「自己愛転移」という特異的な転移を利用すれば自己愛性パーソナリテイ障害は治療可能であると主張したわけです。


* 自己と自己対象

続いてコフートは「自己の修復(1977)」において、旧来の精神分析用語を一掃し、「自己」と「自己対象」の関係性からなる「自己心理学」へのモデルチェンジを果たします。

コフートのいう「自己」とは空間的に凝集し、時間的に連続するひとつの単位であり、その人だけが持っている「パーソナルな現実」を産み出す源泉をいいます。

そして自己の枢要(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」という二つの極から成り立つ構造を持っている。これを「双極的自己」と呼びます。

「野心の極」は「自己の分析」でいう「誇大自己」に相当し、「理想の極」は「自己の分析」でいう「理想化された親イマーゴ」に相当します。こうして子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ、「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということです。

そして、この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」です。ここでいう「自己対象」とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいいます。

まず「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象です。これを「鏡映自己対象」といいます。次に「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象です。これを「理想化自己対象」といいます。

コフートによれば、こうした「自己対象」に恵まれなければ人は不安に満ちて傷つきやすく尊大な人間になってしまいます。つまり健全な「自己」を確立するには「自己対象」の存在が必要不可欠ということです。


* 鏡映・理想・双子

さらに、コフートは遺作となる「自己の治癒(1984)」において鏡映自己対象・理想化自己対象とは別の第三の自己対象の存在を指摘しています。これが「双子自己対象」と呼ばれるものです。

「双子自己対象」は、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ「私もあの人も同じ境遇の人間なんだ」と実感させてくれる自己対象です。

ここで前述の双極性自己モデルは修正を加えられることになります。すなわち、コフートの最終的な中核自己モデルは「野心の極」「理想の極」「技倆と才能の中間領域」から構成される「三極性自己」ということになります。

以上から示されるように、健全な「自己」とは、「鏡映自己対象」により「野心の極」が確立し、「理想化自己対象」により「理想の極」が確立し、「双子自己対象」によって「技倆と才能の中間領域」が活性化する事で成り立つものだといういうことです。

逆にいうと、これらの三極が機能不全に陥る事で「自己の断片化」が起こり、結果、数々の精神疾患が生じてくる、ということです。

つまり、病んだ心を治療するという事は、治療者が患者の自己対象になる事で、患者の断片化した自己を再び構造化させると同時に、治療者以外の他者を自己対象として上手に依存していく術を学んでいく過程に他ならなりません。


* 共感の科学としての自己心理学

そして、ここで重要なのが「共感」という営みです。コフートによれば共感には二つのレベルがあるといいます。まず一つは、共感とは、患者の立場に身を置いて患者の代わりに内省し患者の内的世界を探索するツールという捉え方です。そしてもう一つは、共感とは、人と人の繋がりという情緒的な絆を感じられることで得られる心理的な栄養補給という捉え方です。

さらにコフートはこういった「共感」を踏まえて精神分析における「解釈」という営みは、患者の内的世界の「受容」という消極的共感からさらに一歩踏み出し「説明」を与えることで患者の内的世界を再構築していく積極的共感だと位置付けます。

すなわち、病んだ自己を健全な自己へと変えていくにはこうした「甘え(消極的共感=受容)」と「究め(積極的共感=解釈/説明)」が高度に統合された営みが必要であるという事なのでしょう。そして、このような共感による「適量な欲求不満による変容性内在化」こそが、自己対象との関係性を成熟したものへと変えていく、とコフートはいいます。その意味では自己心理学とはまさに「共感の科学」であるともいえるでしょう。


* しなやかに依存するということ

こうして、さまざまな自己対象から多くの機能やスキルを取り込むことで自己の構造は複雑化し、安定したものに変わっていきます。この安定状態をコフートは「融和した自己」と呼びます。そして、この「融和した自己」は一つのシステムとして周囲の他者と関わりながら、さらに他者の機能やスキルを吸収し、さらに安定度を高めていきます。

コフートによれば、自己愛の発達のもっとも望ましい条件は青年期や成人期を通じて自己を支持してくれる対象が持続することです。こうした対象が欠けたままでは自己愛を健全に成熟・成長させることが困難になるからです。この点、斎藤氏は「自立とは依存先を増やすこと」という熊谷晋一郎氏の名言を引き、自己愛の成熟とは良き自己対象を増やすことであるといいます。

そして、おそらくその依存先=自己対象とは決して人に限らず、モノであったりライフワークであったりでも良いはずです。こうした意味で自傷的自己愛を拗らせないために最も必要なスキルとは、言ってみれば「しなやかに依存する能力」なのかもしれません。





















posted by かがみ at 23:54 | 精神分析