【参考リンク】

現代批評理論の諸相

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2022年01月30日

等価交換の外部を開くということ−−脱構築の諸相


* 脱構築とは何だったのか

いわゆる「ポスト・構造主義」の代表的論客と目されるフランスの哲学者ジャック・デリダが提唱した「脱構築(デコンストリュクシオン)」とは、文字通り既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」するという哲学的営為です。こうした「脱構築」を武器にデリダは哲学、文学、法律、政治といった古今東西の様々なテクストについて極めて斬新な読解を提示してきました。

やがて脱構築批評は文芸批評の世界で一種の知的流行となり、1970年代のアメリカではイェール大学を中心としたポール・ド・マンら「イェール・ディコンストラクション派」が台頭します。彼らのその主張は概ね次のようなものです。

あらゆる言語はすべからくメタフォリカルなものであり、従って言語が文字通りに「文字通りなもの」と信じるのは誤りである。哲学も法律も政治理論も詩と全く同じようにメタファーに頼った虚構である。メタファーは本質的に無根拠であり、言語は最も強く人を説得しようとするその瞬間にメタファーの塊たる自らの虚構性と恣意性を曝け出さずにいられない。

そして言語のそうした両義性が最もよく表れている領域が「文学」である。読者は「文字通り」の意味と文彩的な意味との間で引き裂かれ、両者いずれも選べないままに「読めないもの」になったテクストの底なしの言語的深淵へと眩惑のうちに投げ入れられる。文学は批評家がわざわざ脱構築してやるには及ばない。文学は最初から自ずから脱構築されており、しかも文学は実際には脱構築そのものについても語るのである。

そして読者は互いに調和もしなければ拒絶もしない二つの意味に挟み撃ちにされ、文芸批評はいきおいアイロニックで不安定な営みとなる。テクストの内なる真空では意味の虚構性、真理の不可能性、あらゆる言説の欺瞞的二枚舌的性格が赤裸々に暴かれる。いまや文学はその言語の無能ぶりの証左になった。文学とは意味指示の廃墟であり、コミュニケーションの墓場である。

こうしてアメリカにおける脱構築批評は文学テクストの意味をひたすら解体し続ける退廃的な知的ゲームと化していきました。ともすればあるテクストを脱構築したはずの批評がその背後からさらに脱構築されるという事もざらにあります。ここでは自分の手持ちのカードを全部捨て去って空手で座り仰せた者が勝者となるということです。


* デリダにおける「剰余」

確かに脱構築という営みが、あるテクスト=システムを規定する階層秩序の決定不可能性を暴露するための思考運動であることは疑いないでしょう。これは形式的にはゲーテル的決定不可能性の問題でもあります。そしてデリダ自身はこうした思考運動を「代補の論理」と呼んでいます。

けれども他面でデリダのテクストには「ゲーテル的決定不可能性=代補の論理」の発見に止まらない「剰余」があります。

例えば、しばしデリダにおける「脱構築」の範例的テクストとして取り上げられる「プラトンのパルケマイアー」において、デリダは「パルマコン」と呼ばれる「薬」と「毒」という両義性を持つ語を代補としてプラトン哲学を脱構築しています。

しかしデリダのテクストはそこで終わりません。彼は「パルマコン」という両義性を持つ語に注目する一方で、その「パルマコン」という「ことば」そのものに執拗に拘り、そこに「真理」「家族」といった問題系など、多くの参照の糸を絡ませていきます。

あるテクスト=システムを形式的に脱構築をするだけであれば、それらの隠喩の配置は必要なかったはずです。これは「プラトンのパルケマイアー」だけの問題ではありません。ではそこでデリダは一体何を行おうとしたのでしょうか?


* ゲーテル的脱構築とデリダ的脱構築

この点、東浩紀氏はデリダの「脱構築」には二つの側面があると言います。まず一般的に「いわゆる脱構築」として理解されている、あるテクスト=システムの最終審級を無効化させる側面と、次にその「いわゆる脱構築」が取り逃がした「剰余=不可能なものの経験」を捉えようとする側面です。

そして東氏は脱構築のこの二つの側面を「ゲーテル的脱構築」と「デリダ的脱構築」と名付けます。前者が「脱構築可能なもの」を扱うとすれば後者は「脱構築不可能なもの」を扱います。

そこで東氏が注目するのがデリダのテクストに初期からしばし出現する「郵便」の隠喩です。ここでデリダのいう「郵便」とは、手紙(情報・記憶)がどこかに行方不明になったり違う人に誤配されたりする不完全な情報空間のことを指しています。では、この「郵便」なる隠喩を用いてデリダは何を行おうとしたのでしょうか?


* 形而上学・否定神学・郵便空間

まず「ゲーテル的脱構築」により「脱構築可能性なもの」を「形而上学システム」と言います。この「形而上学システム」において、すべてのシニフィアンからシニフィエへの循環運動は超越論的シニフィエ(形而上学的原理)という最終審級によって担保されると想定します。

ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別されており、この認識構造を図式化すれば底面が頂点によって吊り支えられた円錐構造となります。

世の中の様々な法律や理論や思想は形而上学なテクスト=システムで記述されています。形而上学的システムは超越論的シニフィエを頂点とした体系的思考を展開します。けれどもいかなるシニフィエも、それは結局シニフィアンによって記述される以上、常に脱構築される可能性に曝されます。

つぎに「ゲーテル的脱構築」における「脱構築不可能なもの」を捉える一つの思考様式を「否定神学システム」と言います。この「否定神学システム」おいては、シニフィアンからシニフィエへの循環運動の「穴=不可能性」が発見されます。しかしこの「不可能性=穴」は「超越論的シニフィアン=シニフィエなきシニフィアン」で名指され、この超越論的シニフィアンが全てのシニフィアンの運動を回収する最終審級として現れます。

ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡されており、この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となります。

いわば「否定神学システム」は表面的には「形而上学的システム」を脱構築する一方で「穴=超越論的シニフィアン」というブラックボックスを経由することで、いわば裏口から「形而上学システム」を再導入してしまう思考ともいえます。

こうした「否定神学システム」の代表例がマルティン・ハイデガーの存在論です。そしてハイデガーの影響を受けた1950〜1960年代のフランス現代思想シーンもまた概ねこの「否定神学システム」の磁場に支配されていました。そしてそれはデリダ自身も例外ではありませんでした。

デリダは自らの思考がしばし「否定神学システム」的なブラックボックスに陥りがちであった事にかなり自覚的であったといわれています。そしてデリダの「郵便」の隠喩はこうした文脈の中に位置付けられます。

すなわち、東氏の仮設する「デリダ的脱構築」とは「ゲーテル的脱構築」の残滓=不可能性を思考し、なおかつ「否定神学システム」から逃れていく、いわば「郵便空間システム」と呼ぶべき思考です。ではデリダはこうした「郵便空間システム」の思考を具体的には、どのように展開したのでしょうか?


* 不可能性の単数化−−盗まれた手紙のセミネール

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」はラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られています。

このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものです。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出しました。

まず、ラカンによるとここでいう「手紙」とは、ラカン派精神心分析でいうところの「ファルス」と「対象 a 」に相当します。「ファルス」とはシニフィアンの循環運動(ラカンのいう象徴界)の「穴=不可能性」を開くシニフィアンであり「対象 a 」とはその「穴=不可能性」を再び閉じるシニフィアンです。

ポーの小説において「盗まれた手紙」は、王から王妃へ、大臣へ、デュパンへ、そして警視総監へと絶えず移動していきます。ここで「手紙 」はオブジェクトレベルではどこにも届いていませんが、メタレベルでは「常に宛先に届く=どこにも届かない」という逆説的位置に必ず届いています。

すなわち、ラカンによれば、分割可能な「主体(脱構築可能なオブジェクトレベル)」の裏側でつねに分割不可能な「穴(脱構築不可能なメタレベル) 」が超越論的シニフィアンとして出現することになります。この単数的な「穴=超越論的シニフィアン」の出現こそがラカンにとっての最終審級です。

超越論的シニフィアンは、それ自身が単数で分割不可能な限り、それは再びシステムの全体性を否定的に表象してしまいます。これはまさしく否定神学システムそのものの思考です。


* 不可能性の複数化−−真理の配達人

これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないことがありうる」というテーゼを提出します。

この点、ラカンは、手紙(=記憶/情報)は「常に宛先に届く=どこにも届かない」という場所に必ず転送されるという誤配なきネットワーク空間を暗黙裡に想定しています。実際、ラカンは様々な哲学的・文学的言説から「不可能性」の痕跡を探し出してきては、それらを単数的な「不可能性」へ再構成します。ラカンの中ではフロイトもハイデガーもポーも皆同じ「不可能性」に直面しているとみなされます。そこで歴史は事実上、抹消されており、それらはすべて「ファルス」や「対象 a 」という「超越論的シニフィアン」をめぐるラカン的問題の反復でしかないということです。

これに対してデリダは「手紙=記憶/情報」は宛先に届かないことが「ありうる=確率可能性/反復可能性」という位相を重視しています。素朴に考えても実際、我々は自身の記憶を忘却したり勘違いをしたり、あるいは様々な情報を読み間違ったり書き間違ったりすることが「ありうる」でしょう。この確率可能性/反復可能性という位相をラカンは取り逃しているといえます。

このような宛先に届かず行方不明になったり誤配されたりする手紙の中にこそデリダは「不可能性」を見出しています。ゆえにデリダの「不可能性」は複数性を帯びています。かつてフロイトたちが直面した「不可能性」とデリダの直面する「不可能性」が同じものである保証はどこにもないということです。


* 等価交換の外部を開くということ

このようなデリダ的な思考からみると「否定神学的システム」における「穴=超越論的シニフィアン」とは「郵便空間システム」の中で生じる仮象的効果として捉えられることになります。

そしてこうしたデリダの「郵便空間システム」が開くのが「幽霊」という位相です。我々は日常的な会話や読書といったコミュニケーションにおいて、もっぱら特定のコンテクストに依存するパロール(発話)の審級にのみ注目しますが、その一方で特定のコンテクストから断絶したエクリチュール(文字)の審級は常に我々の無意識を侵食してきます。

そしてデリダによれば、このようなパロールとエクリチュールの往還運動の中には「散種」が宿るといいます。「散種」とはパロールによっては記述不可能なエクリチュールに固有な意味の多様性をいいます。そしてそこには「過去・現在・未来」という一般的な時間性とは別様の様々な「現前しなかった過去−−〈かもしれない〉」という特殊な時間性が生じます。このような特殊な時間性をしばしデリダは「幽霊」というメタファーで名指します。

「幽霊」はコミュニケーションにおける等価交換の外部を開きます。例えばコミュニケーションにおける「共感」とは一般的に「相手の気持ちを理解する」という等価交換を目指した営みといえるでしょう。けれどもコミュニケーションが「郵便空間システム」に規定されている以上、その中において完全な共感=等価交換は原理的に成立しないことになります。こうした共感=等価交換の誤配のなかで、様々な〈かもしれない〉という幽霊たちが産み出される事になります。

もちろん通常の社会生活を営む上ではひとまず、我々はひとまず共感=等価交換が成立している「ふり」をしないといけないでしょう。けれどもその一方で共感=等価交換の名において切り捨てられた幽霊たちへのまなざしを完全に忘却してしまった時、きっと我々のコミュニケーションにおける創造性や、世界の解像度などといったものはどんどん雑なものになっていくのではないでしょうか。

社会共通のコードが失われ脱コード化が加速する現代はまさに「誤配の時代」といえます。そうした現代におけるコミュニケーションの知を−−そのわかり合えなさをいかに分かり合えるのか、あるいはいかに愛でていけるのかという知を−−問う上で、エクリチュールから産み出される幽霊の位相を無視することは決してできないようにも思います。









posted by かがみ at 22:13 | 精神分析