* デプレッションとメランコリー
「新型うつ病」という言葉が定着してそろそろ久しいかと思います。また最近は「コロナうつ」という言葉も聞くことが多いでしょう。これらの「うつ病」は古典的な精神医学用語においてデプレッションに分類されてきました。そして、もう一つの「うつ病」にメランコリーというものがあります。実は両者はまったく出自の異なる概念です。
この点、デプレッションの範例となるのはアメリカの神経学者、ジョージ・ビアードの「神経衰弱」という概念です。ビアードは疲労、不安、頭痛、神経痛、抑うつ気分などを特徴とする神経疲弊状態を「神経衰弱」と名指し、その原因を19世紀中盤のアメリカの産業革命下における非人間的な工場労働に帰しています。
これに対してメランコリーは、18世紀末のフランスにおいて近代精神医学の父と呼ばれるフィリップ・ピネルによって見出され、19世紀末のドイツにおいて現代精神医学を確立したエミール・クレペリンによって体系的位置を与えられました。
* 両者の統合と差異
このような歴史的経緯から、かつてデプレッションといえば内科外来で治療しうる「ストレス反応」であり、かたやメランコリーは精神病院への入院必須な「狂気」という大まかなイメージがありました。けれども三環系抗うつ薬イミプラミンの登場を期に、近年ではメランコリーの中でも外来において治療可能な症例が増加します(イミプラミンはその製品名「トフラニール」として広く知られています)。
こうしてデプレッションとメランコリーは重症度以外では本質的に同じものであるとする見解が主流になっていきます。1980年に改訂された「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)」の第三版においては、デプレッションとメランコリーは一括して「感情障害」に分類され、以降両者の鑑別診断を不問とする臨床と研究が世界中を席巻することになります。
もっとも、いかにデプレッションとメランコリーが接近したとしても両者は鑑別可能です。両者を鑑別するための最も有用な特徴とされてきたのは「アンヘドニア」と呼ばれる症状です。
通常デプレッションでは何か楽しいことがあったり、患者を苦痛に至らしめた状況が好転したりすれば、患者は喜びを感じて病それ自体も好転する傾向にあります。他方、メランコリーではどんなに楽しいことがあろうとも、たとえ発病の誘引となった状況が変わろうとも症状は変化しません。「アンヘドニア」とはこのような事態をいいます。
すなわち、デプレッションが「悲しみ」という感情の病であるとすれば、メランコリーとは「感情」それ自体が廃棄された病ともいえます。
* フロイトのデプレッション論
精神分析の始祖であるジークムント・フロイトもまた、デプレッションとメランコリーを峻別する立場を取っています。そして実はフロイトはかなり早い段階でデプレッションへ注目しています。1890年代においてフロイトは、ビアードが「神経衰弱」と名指した雑多な集団から、ある共通した特徴を持つ病態を「不安神経症」として切り離すことに成功しています。
この「不安神経症」の諸特徴(全般的な易刺激性、予期不安、不安発作など)は現代で言われる「パニック障害」のそれとほとんど一致しています。そしてこの分離作業によって「不安神経症」を除く「真の神経衰弱」が残ります。デプレッションとは、この「真の神経衰弱」の中に数多く含まれていると考えられます。そしてフロイトは、このような「不安神経症」と「真の神経衰弱」を合わせた診断カテゴリーを「現勢神経症」と呼びました。
この点、フロイトは(真の)神経衰弱の病因として「自慰」や「夢精」を挙げ、不安神経症の病因として「禁欲」や「中絶性交」を挙げています。ここでフロイトの挙げる病因は現代からすれば何とも奇天烈なものに聞こえてしまいますが、むしろここで注目すべきは、すぐれて「身体」にまつわる事柄が現勢神経症の病因として想定されている点です。
* 欲動の処理不全
この点、フロイトは「身体的な性的興奮の処理」という考えから現勢神経症のメカニズムを説明しています。フロイトによれば(真の)神経衰弱は「(身体的な性的興奮によって生じた緊張状態に対する)十分な加重の解除が不十分な加重の解除によって代替された場合」に起きると言います。フロイトにとって、ここでいう「十分な加重の解除」とは「正常な性交」であり「不十分な加重の解除」が「自慰」や「夢精」ということになります。
ところで、ここで言われている「身体的な性的興奮」とはフロイトによれば「内因性に出現する(性的な)興奮」であり、一定に閾値に達すると心的興奮へと変化することができるという性質を持っています。これは後に「欲動」と名指されるものに相当します。
端的にいえば現勢神経症とは「欲動の処理不全」によって引き起こされるある種の「生活習慣病」ということです。そして、こうした「生活習慣病」を引き起こす要因は個人の側だけでなく社会の側にもあると言わざるを得ないでしょう。
* 資本主義のディスクール
この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンが1972年〜73年のイタリア講演および「テレヴィジオン」の中で「資本主義のディスクール」と名指した図式は資本主義システムによる享楽と欲望の制御が人をこうした「欲動の処理不全」に否応なしに陥らせているものとして読むことができます。

「資本主義のディスクール」が引き起こすのは享楽の氾濫と欲望の搾取です。高度に消費化/情報化された資本主義システムの下では、人々の要求は、速やかに統計学的処理によりデータベース化され、その最適解は新製品や新サービスとして次々と市場に供給されます。いまや享楽は到達不可能なジュイッサンスから計量可能なエンジョイメントへと変容し、人々は獰猛な超自我に「享楽せよ!」と命じられ、ただわけもわからず資本主義システムという回し車を回し続けるネズミのような人生を送る事になるわけです。
まさにこれはフロイトが指摘した「十分な加重の解除が不十分な加重の解除によって代替された場合」に相当する事態であるといえるでしょう。すなわち、デプレッションを一種の生活習慣病だというのであれば、それはまさに享楽と欲望に関する生活習慣病といえるのではないでしょうか。
* 紛い物の享楽の洪水の中で
こうしてみるとラカンのいう「資本主義のディスクール」から排出される紛い物の享楽の洪水はフロイトが「不十分な加重の解除」の例として挙げる「自慰」「夢精」の現代版と言えなくもないでしょう。では、こうした「不十分な加重の解除」を超えた処にある「十分な加重の解除」に到達するにはどうすればいいのでしょうか。
先に述べた通り、フロイトならばそれは「正常な性交」であると答えるのでしょう。けれども「性関係はない」というラカンの有名なテーゼを経由したところに立つ我々はむしろ、性関係に依存しないひとつきりのシニフィアンと特異的享楽の奪還こそに「十分な加重の解除」を、すなわち資本主義のディスクールを逃れるための道標を見出すべきなのでしょう。
ひとつきりのシニフィアンと特異的享楽の奪還。おそらくその過程は時には壁に突き当たり、時には同じ場所を堂々巡りする困難な道となるでしょう。けれども、そんな傷だらけにして泥まみれの試行錯誤の中にこそ、我々は自らの中に「欲望する主体」を発見する事ができるのではないでしょうか。