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フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

現代アニメーションのいくつかの断章

2021年06月26日

リゾーム・接続と切断・世界を有限化するということ



* ファルス−−〈欠如〉としての欲望

人間とは無限に欲望する生き物です。あれをしたい、これをしたい、あんな風になりたい、この人に愛されたい・・・といったように、人はある欲望を成就させても必ず次の欲望を産み出します。こうした欲望の無限連鎖をフランスの精神分析家ジャック・ラカンは〈欠如〉への欲望として捉えました。そして、ラカンはこのような〈欠如〉を示すシニフィアンである「ファルス」へと向かう欲望を「純粋欲望」と呼びました。

1950年代のラカンは「純粋欲望」を欲望の理念形として捉えていました。けれどもラカンがその範例として取り上げたアンティゴネーの悲劇がまさにそうであるように「純粋欲望」の実践は端的に人としての破滅を意味します。そこで1960年代になるとラカンはむしろ純粋欲望からの退避を強調するようになります。ここで「純粋欲望」に至る手前で欲望の無限連鎖を有限化する安全装置としての役目を果たすのが「対象 a 」です。

「対象 a 」は人や物や出来事といった様々な表象に宿り「欲望の原因」として機能します。こうして人は「ファルス」という究極的な欲望を憧憬しつつも、実際はその周囲で「対象 a 」を日常的に欲望し続けることを欲望することになる。そして、このような純粋欲望との「絶対的な差異」を得ようとする欲望こそ精神分析における欲望に他ならないとラカンはいいます。


* リゾーム−−別のしかたでの欲望

もっとも、こうしたラカン的欲望は「ファルス」という単一の超越論的シニフィアンが欲望の無限連鎖を吊り支える否定神学構造となっています。これに対してフランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析家フェリックス・ガタリはラカン的欲望とは異なる「別のしかたでの欲望」を提示しました。

いわゆる「1968年5月革命」において人々が求めていた「何か」を理論的に究明したドゥルーズ=ガタリの共著「アンチ・オイエディプス(1972)」は、 1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。そして、その続編「千のプラトー(1980)」においては「ファルス」に対するオルタナティヴとして「リゾーム」という概念が打ち出されます。

「リゾーム」とはタケやハスやフキのように横に這って根のように見える茎、地下茎のことをいいます。このような「リゾーム(根茎)」は「ツリー(樹木)」と異なり全体を統合する特権的な中心も階層もなく、ただただ限りなく連結し、飛躍し、逸脱し、横断する諸要素の連鎖からなります。いかなる事物もリゾーム上に接続されており、あらゆる事物は相互に生成変化し続けていくということです。


* リゾームにおける接続と切断

こうしてみるとリゾームとはあらゆる事物が渾然一体となった「万物斉同の世界」のように見えます。そして実際、ありがちなドゥルーズ=ガタリ主義においてリゾームは概ねこうした「接続の原理」によって一元的に把握されてきました。けれども、そのようにリゾームを捉えてしまうと、単一の原理で全体を統制するという意味では結局のところラカン的ファルスと選ぶところがないということになってしまいます。

この点、気鋭のドゥルーズ研究者として知られる千葉雅也氏は晩年におけるドゥルーズの「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を導きの糸として、リゾームにおける「非意味的切断」を際立たせる読解を提示します。

確かにドゥルーズ=ガタリの魅力はあらゆる事物が渾然一体となった「万物斉同の世界」へと向かう華やかさと危うさにあります。けれどもドゥルーズは「華やかさ」と「危うさ」の裏で、同時に「慎重さ」をも求めています。持続可能な生成変化を行う上では「接続過剰」によるオーバードーズの手前での「いい加/減な切断=非意味的切断」が必要となるということです。

こうした観点からすれば、リゾームにおける生成変化は「接続の原理」と「切断の原理」のせめぎあいによって駆動しているという事になります。リゾームは多方向に接続されていくと同時に多方向に切断されていく。ではその具体的な過程はどのようなものでしょうか?


* 生成変化の原理

ドゥルーズ=ガタリによれば、ある事物Nへの生成変化とは、Nを模倣することでもNに同一化することでもありません。Nへの生成変化とは識別不可能かつ非人称的な〈知覚しえぬもの〉としての「x」への生成変化をいいます。

こうして我々はリゾームの中で潜在的に、言ってみれば「猫」になったり「トマト」になったり「魔法少女」になったりする事ができるわけですが、こうした様々な生成変化はいずれも〈知覚しえぬもの〉としての「x」へと「消去/匿名化」されることになる(Nになる=Nでなくなる)。けれどもその一方で「猫」とか「トマト」とか「魔法少女」などといった具体的な名辞は依然として「反復/維持」されることになる(Nになる=Nである)。

つまりドゥルーズ=ガタリにおいて「猫」とか「トマト」とか「魔法少女」などと言い表される「何か」への生成変化は、単数的な〈知覚しえぬもの〉としての「X」へ接続された「万物斉同の匿名化」ではなく、複数的な〈知覚しえぬもの〉としての「x」「y」「z」へと切断された「区別のある匿名化」であるということです。

要するに、ある事物Nへの生成変化とは「いわゆるN」とはズレた「分身としてのN’」の増殖であるということです。

この点、ドゥルーズ=ガタリは「区別のある匿名性」を「微粒子」と呼びます。すなわち、生成変化の原理は微粒子群を成立させる関係束(出来事=述語の束)の組み変わり(アレンジメント)にあります。

そして生成変化の実践は「モル状」ではなく「分子状」に行われます。ここでいう「モル状」とは「いわゆる〜」という粗雑なステレオタイプであり、これに対して「分子状」とはそのモル状の「いわゆる〜」を成り立たせる関係束が限定されずに、組み変わりへ開かれている状態をいいます。


* 身体と無意識

そして、こうした「関係束の組み変わり」としての生成変化は単なるパフォーマンスのレベルの変化に止まらず、脳神経のシナプス結合といった身体的なレベルの変化を引き起こします。

こうした生成変化論における心身問題の背景には、近世を代表する大哲学者の一人に数えられるバールーフ・デ・スピノザの心身並行論があります。スピノザはその主著「エチカ(1677)」において「精神」と「身体」は存在論的なレベルで全く対等に、同じ出来事をそれぞれ表現するといいます。

この点、ドゥルーズは「自らの認識の所与の制約を超えた身体の力能」を掴むことが、我々にもしできるようになるとすれば、同様の運動によって「自らの意識の所与の制約を超えた精神の力能」を掴むことができるようになるだろうと述べ「身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分」が、ここに発見されるといいます。

すなわち、生成変化に伴う身体の変容は、新たなる無意識の生産とパラレルの関係に立つということです。すなわちここにラカン的ファルスに回収されない「別のしかたでの欲望」との出会いが見出される事になります。


* 世界を有限化するということ

こうしたドゥルーズ=ガタリの生成変化論はある種の世界を有限化するアプローチでもあります。様々なネットワークによってリゾーム化した現代社会において我々の日常は放っておいても勝手に接続過剰になってしまう。そして我々はこうした接続過剰に耐えきれず、しばし自身の思い込みで世界を色々と決めつけてしまう。けれども決めつけた世界と現実は当然整合しない。このような決断主義的な有限化は生きづらさと隣合わせです。

これに対して、接続過剰に対する非意味的切断とはある種、自身と世界を「無関係化」する事で有限化するアプローチです。動きすぎるのでも動かないのでもなく、動きすぎないということ。世界とは無関係に普段の日常を半歩ずつずらす事で様々に関係束の組み変わりを繰り返していくということ。こうしたしなやかな有限化のアプローチとしてもドゥルーズ=ガタリの生成変化論は読めるように思います。












posted by かがみ at 21:39 | 心理療法