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フランス現代思想概論
ラカン派精神分析の基本用語集
2020年10月27日
流動化・幽霊化・生成変化
* アンチ・オイエディプスとは何だったのか
フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズと精神分析家、フェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイエディプス−−資本主義と分裂症(1972)」は、1968年にフランスで起きたいわゆる「5月革命」と呼ばれる学生運動/労働運動を駆動させた多様多彩な「欲望」を原理的に考察した哲学書として知られています。
同書(以下AO)は発売されるや否や、新たな時代のあり方を示す思想として若年層を中心に熱狂的に歓迎されました。AOで展開されるのは激烈な近代資本主義批判、精神分析批判です。オイエディプスの首を切り飛ばし、千の欲望を表出せよ!ドゥルーズ=ガタリのメッセージは1970年代当時、革命の夢が潰えた時代において、ある種の解毒剤の役割を果たしました。こうしてフランス現代思想のモードは「構造主義」から「ポスト・構造主義」へと遷移します。
そしてその後、オイエディプス的価値観はポストモダン状況の進行の中で失墜し、いまや切り飛ばそうにもその首自体が無いという状況ですらあります。公刊から半世紀近くが経ち「68年5月」も遠い記憶となりました。では今日においてAOを読むのはもはや単なる懐古趣味かといえば、もちろんそうではありません。
この点、AOにおいて究明されたテーマは「欲望」でした。ここでドゥルーズ=ガタリは「欲望機械」という奇妙な概念を提示します。つまり「欲望」とは自然、生命、身体、あるいは言語、商品、貨幣といった様々な「機械」に宿る非主体的、非人称的な力の作用のことを言います。
これら「欲望機械」の動きをドゥルーズ=ガタリは「結びつきの不在によって結びつく」「現に区別されているかぎりで一緒に作動する」といった表現で定式化します。このようにAOにおいて欲望機械は「接続」と同時に「切断」するという両義的な動きとして記述されています。この欲望機械の動きをどのように捉えるかによって多様な解釈が導き出されることになります。では現代思想の俊英たちはAOをどのように解釈してきたのでしょうか。
*「構造と力」におけるAO解釈
⑴ コード化・超コード化・脱コード化
まず「欲望機械」の「接続」の動きを重視しているのが浅田彰氏の「構造と力(1983)」におけるAO解釈です。
同書を貫通するのは「差異化」というキーワードです。浅田氏は同書の冒頭「序に代えて」でフランスの人類学者、クロード・レヴィ=ストロースが理念化した「冷たい社会」と「熱い社会」という分類を「差異」と「差異化」という二項対置へ抽象化します。
この点「差異」とはスタティック(静態的)な秩序であり「差異化」とはダイナミック(動態的)な運動をいいます。そして氏は同書においてその表題通り、安定した「差異=構造」に対して、果てしなき「差異化=力」によって孕まれる過剰性を肯定していきます。
こうした視野から同書の第T部においては構造主義とポスト・構造主義のパースペクティヴが素描され、第U部においては構造主義のリミットとしてフランスの精神分析医、ジャック・ラカンが位置づけられ、その後いよいよポスト・構造主義の大本命としてドゥルーズ=ガタリが登場します。
この点、同書はドゥルーズ=ガタリの「コード化」「超コード化」「脱コード化」という三段解説に依拠した上で、浅田氏は脱コード化を極限まで推し進め「内部」から「外部」に出よと力説します。
もっとも、オイエディプス的家族をはじめとする近代資本社会に実装された様々な「整流器/加速器/安全装置」は「脱コード化」を促す過剰の奔出をなし崩し的に解消して、同書が「クラインの壺」と呼ぶ無限循環回路へと還流させていきます。腰を落ち着けたが最後「外部」は新たな「内部」になる。こうしたクラインの壺の中でなお「外部」へ突き抜けようとするのであれば、重要なのは「常に外へ出続ける」というプロセスに他ならないということです。
⑵ 流動化するドゥルーズ=ガタリ
こうして同書終盤で示された「パラノイアックな競争/スキゾフレニックな逃走」というコントラストは浅田氏の次書「逃走論(1984)」において「若者の生き方論」へと接続されます。
この点「パラノ」とはパラノイア(偏執狂)の略で、これまでの過去の全てを「積分=統合化」して囲い込む生き方です。他方「スキゾ」とはスキゾフレニー(分裂症)の略で、いまここの現在をアドホックに「微分=差異化」し続ける生き方です。
浅田氏は今こそ「パラノ・ドライヴ」の外に出て「スキゾ・キッズ」の本領を発揮し、メディア・スペースで遊び戯れる時が来たといいます。こうして「スキゾ・キッズ」は当時の流行語となり、浅田氏は自らその「逃走」を実践するかのようにマスメディアの寵児となっていきました。
差異から差異化へ。「構造と力」が描き出すのはいわば「流動化するドゥルーズ=ガタリ」です。こうした考え方は消費化情報化社会が爛熟し、バブル景気へと突入しつつあった1980年代中盤の日本社会の気分と見事に同調したのでした。
*「存在論的、郵便的」におけるAO解釈
⑴ 否定神学と郵便=誤配
次に欲望機械の「接続」の動きを重視しつつ「切断」の動きから生じる効果にも注目するのが東浩紀氏の「存在論的、郵便的(1998)」におけるAO解釈です。
同書の主題は「脱構築」で知られるフランスの哲学者、ジャック・デリダのテクスト読解にあります。東氏によれば「真理の配達人」をはじめとする70年代デリダのテクストにおいて遂行されているのは「否定神学システム」の批判と、これに代わる「郵便=誤配システム」の提出に他ならないという。
すなわち「否定神学システム」によれば、シニフィアンの循環運動は不完全であり、最終的には「単一の超越論的シニフィアン=シニフィエなきシニフィアン」によって担保されることになります。こうした「否定神学的システム」に依拠した思考は1960年代のフランス現代思想を強く規定していました。「象徴界」のリミットとしての「現実界」を想定するラカン派精神分析はその典型例と言えます。また、ドゥルーズのいう「差異化」も「対象=x」といった一義的な存在を想定する点でやはり否定神学的色彩を帯びていると言えます。
否定神学的思考は単数の超越論的シニフィアンを想定することで、オブジェクトレベルでシステムを解体したと見せかけて、メタレベルで再びシステムに全体性を付与してしまいます。これは浅田氏のいう「脱コード化」を阻む「クラインの壺」の構図そのものです。まさにデリダはこの点を批判しているわけです。
そしてデリダが提出した「郵便=誤配システム」とは、シニフィアン循環運動の決定不可能性を様々なコミュニケーションの失敗に求め、超越論的シニフィアンを複数化=幽霊化する思考です。そして東氏によれば、AOもまたデリダ同様の郵便的思考によって駆動しているということです。
⑵ 幽霊化するドゥルーズ=ガタリ
この点、氏はAOの郵便化においては「機械」「モル的」「分子的」といった概念を持ち込んだガタリの理論的役割が決定的だったと推測する一方で、ドゥルーズのテクストにもまた、否定神学的思考に回収されない契機が多く含まれていると言います。
特に、AOの3年前に公刊されたドゥルーズの単著「意味の論理学(1969)」ではその傾向がはっきり見て取れます。同書は第26セリーまでは実在性と潜在性という二つのセリーから成る「表面」の構造が考察され、この二つのセリーを共鳴させる媒介項として「対象=x」が位置付けられます(静的生成論)。ところが第27セリー以下、最後の8セリーでは「表面」が「深層」から生成される過程が考察されます(動的生成論)。そして東氏はこの最後の8セリーにおいてはまさに「否定神学システム(表層)」と「郵便=誤配システム(深層)」という二つのシステムの関係が主題となっていると把握しています。
単数的超越性から複数的超越性へ。「存在論的、郵便的」が描き出すのはいわば「幽霊化するドゥルーズ=ガタリ」です。こうした考え方は大きな物語が失墜し、小さな物語が乱立するというポストモダン状況が加速し始めた1990年代後半という時代状況に相応しいものでした。
*「動きすぎてはいけない」におけるAO解釈
⑴ 非意味的切断の原理
そして「欲望機械」の「切断」の動きを強く際立たせたのが千葉雅也氏の「動きすぎてはいけない(2013)」におけるAO解釈です。
ここで氏が注目するのがドゥルーズのデビュー作「経験論と主体性(1953)」以来、幾度となく再浮上を繰り返すことになるデイヴィット・ヒュームの経験論的哲学、いわゆる「ヒューム主義」です。
ヒューム主義において志向されるのは、バラバラな断片的所与の仮設的な連合と、それらの偶然的な解離からなる多元論的な世界です。これを「連合-解離説」といいます。こうしたヒューム主義からドゥルーズを再読解する事で取り出されるのが「非意味的切断の原理」です。
こうした「非意味的切断の原理」から「意味の論理学」を読み解く時、同書は第13セリー「分裂症と少女」を境に前半と後半に分けられます。すなわち、前半は「表面」の「意味=出来事」を扱ったシニフィアンの哲学であり、後半は「深層」の「非意味=物体」が露わにされシニフィアン以前の身体の哲学です。
この点、前半を体現する作家としてルイス・キャロルが、後半を体現する作家としてアントナン・アルトーが位置付けられます。そしてドゥルーズは第13セリーの最後において「キャロルの全てを引き換えにしても我々はアントナン・アルトーの1頁も与えないだろう」と述べます。
アルトー的な深層にあるのはシニフィアン以前の非意味的な物体達に他ならない。こうした物体達はキャロル的ノンセンスを生産しない一方、聴覚イメージによるメレオロジカルな〈まとまり〉を形成します。これを同書はアルトーに倣い「器官なき身体」といいます。すなわち、ここでドゥルーズのヒューム的主義的な主体化は「器官なき身体」における個体化に呼応しているということです。
⑵ サンボリックに超克されなくても良い鏡像段階
そして同書は、この「器官なき身体」を第27セリー以降の動的発生論において〈サンボリックに超克されなくても良い鏡像段階〉として位置付けます。
鏡像段階とは周知の通り、先に何度か言及したジャック・ラカンが提唱した発達段階概念です。ラカンによれば、生後6ヶ月から18ヶ月の時期を迎えた乳幼児は鏡に映った自身の姿を始めとした鏡像的他者のイメージを通じて身体像と自我を獲得するという。
この鏡像段階は後のラカンによるエディプス・コンプレックスの議論の中では想像的ファルスへの同一化の段階に相当します。そしてラカンからすれば、ここからさらに象徴的ファルスを受け入れて自我を象徴界に登録することで子どもは主体化を完了することになります。
これに対してドゥルーズはイギリスの精神分析家、メラニー・クラインの理論をやや変形しながら援用し、クラインのいう部分対象が、ラカンのいう象徴的ファルスへ回収される手前の状況に注目します。これが、諸々の部分対象が想像的ファルスによって「器官なき身体」としてまとまっている〈サンボリックに超克されなくても良い鏡像段階〉です。同書はこうした発達状況を肛門期と性器期の中間にあるいわば「尿道的」な状況だといいます。
こうした点で「意味の論理学」とはラカンに強く影響された書物であると同時にラカンから分離する書物でもあるということです。そして部分対象が象徴的ファルスに回収される手前で「器官なき身体」としてまとまっている状況は、ラカン派の精神病/倒錯/神経症という切り分けから言えば半ば倒錯的な状況にあると言えます。
⑶ 生成変化するドゥルーズ=ガタリ
こうした観点から千葉氏は、AOをある種の倒錯論として解釈します。すなわち、同書における健康化された分裂症の核心とは、まずは精神病と倒錯のオーバーダブを神経症から切断する事であるということです。
或るまとまりから別のまとまりへ。「動きすぎてはいけない」が描き出すのはいわば「生成変化するドゥルーズ=ガタリ」です。こうした考え方は、ソーシャルメディアが日常に普及し「共感」「きずな」「つながり」といった「接続過剰」な言葉が何かと強調される2010年代以降の社会におけるひとつの処方箋とも言えるでしょう。
* オイエディプスよりも「さらに悪いもの」
流動化・幽霊化・生成変化。こうしてみるとAOは極めて複雑な響きの上に成り立っていることがわかります。確かに今やオイエディプス的価値観は失墜したことは疑いないでしょう。けれど現代とはオイエディプスよりも「さらに悪いもの」が出現した世界でもあります。
こうした世界の到来をかつてドゥルーズは「制御社会」として的確に予見していました。制御社会においては、人々を命令と懲罰で従属させる「規律権力」よりも、人々の生活環境に恒常的に介入する「生権力(環境管理型権力)」が優位となり、様々なアーキテクチャによる統制の下、個人はデータベース化され、あたかもモルモットか何かのように飼い殺されていくことになります。
もっとも、制御社会というのはかつてのオイエディプスがアーキテクチャへと置き換わっただけであり、その構造自体はクラインの壺=否定神学システムである事に変わりはありません。むしろ制御社会において人の欲望はより巧妙な形で平準化されているとすら言えるでしょう。
すなわち、ここでもAOが提出したシステムに内部化された欲望の外部性をいかに奪還するかという問題がそのまま反復される事になります。こうした視点から再びAOを読み直すとき、そこにはかつてとはまた違う、新たな輝きを発見することもできるでしょう。
posted by かがみ at 23:23
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