【参考リンク】

現代思想の諸論点

現代批評理論の諸相

現代文学/アニメーション論のいくつかの断章

フランス現代思想概論

ラカン派精神分析の基本用語集

2020年05月30日

エディプス・リゾーム・サントーム




* 「ツリー」から「リゾーム」へ

「ポスト・構造主義」の代表と目されるフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズと精神分析家、フェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイエディプス−−資本主義と分裂症(1972)」は、1968年5月のフランスで起きたいわゆる「5月革命」と呼ばれる学生運動/労働運動を駆動させた「多方向への欲望」を究明し、1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。

ここで示された「多方向への欲望」は「アンチ・オイエディプス」の続編にあたる「千のプラトー(1980)」において「リゾーム」という概念で再定義されます。「リゾーム(根茎)」とは「ツリー(樹木)」に対する概念です。これまでの社会(=モダン)は、国家や家父長といった特権的中心点(根・幹)へ派生的要素(枝・葉)が垂直的に従属する「ツリー」によって規定されていました。これに対して、これからの社会(=ポストモダン)は、特権的中心点なくして様々な関係性が水平的に展開する「リゾーム」によって言い表せるということです。

ツリーからリゾームへ。リゾーム的に思考せよ。こうした企てこそが、古い社会を解体して新しいポストモダンの地平を切り開く。こうしたドゥルーズ&ガタリのメッセージは革命の夢が潰えた時代の閉塞感に対する解毒剤となりました。


* 「スキゾ・キッズ」という逃走

そして日本でも「80年代ニュー・アカデミズム」という思想的流行の中でドゥルーズ&ガタリは多大なインパクトをもたらしました。その導線となったのは言うまでもなく、浅田彰氏の「構造と力(1983)」と「逃走論(1984)」です。

浅田氏は、多方向へ逃走しリゾーム的に生成変化する主体を「スキゾ・キッズ」と呼びます。「スキゾ」とはスキゾフレニー(分裂症)を理想化したものです。これに対して(体制/反体制にかかわらず)ひとつの排他的イデオロギーに執着する事をパラノイア(妄想症)に擬え「パラノ」と言います。

こうして氏は「健康化された分裂症」としての「スキゾ・キッズ」への生成変化を現代的な生き方として称えます。近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へ。氏の提唱する軽やかな生き方はバブル景気へと向かいつつあった80年代消費社会の爛熟とも同調し「スキゾ/パラノ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞しました。


* アンチ・オイエディプスとラカン派精神分析

「アンチ・オイエディプス(以下ではAO)」において企てられているのは題名の通りフロイト精神分析の乗り越えです。同書において精神分析は、人の中に蠢く多様多彩な欲望を「エディプス・コンプレックス」なる画一的な規範へと回収する装置としてラディカルに批判されることになります。

これはフランス現代思想史の文脈の中では一般に「ラカンに対する抵抗」として位置付けられます。ラカンとはもちろんあの構造主義のカリスマにして精神分析中興の祖として知られるジャック・ラカンのことです。しかし果たしてAOとラカン派精神分析は真っ向から対立するのでしょうか?事情はそう単純ではありません。なぜならラカン自身もまた、50年代、60年代、70年代を通じて変化し続けてきた人だからです。


* 50年代/60年代ラカン−−神経症と精神病

1950年代のラカンは「無意識は言語によって構造化されている」という有名なテーゼに要約される構造論の立場を取っていました。ここで打ち出されたのがエディプス・コンプレックスを構造化させた「父性隠喩」というモデルです。子どもは母親(=〈他者〉)の現前不在運動の根源(=〈他者〉の〈他者〉)を問い、やがてこの現前不在運動は〈父の名〉というシニフィアンによって隠喩化され象徴的秩序の統御が完了する。

このモデルでは〈父の名〉による隠喩化が成功していれば「神経症(いわゆる正常)」であり、失敗していれば「精神病(いわゆる異常)」ということになります。ここで〈父の名〉はある種の「規範性=正常性」として現れているわけです。

そして1960年代になると、ラカンは「構造」と「構造を超えるもの」の絡み合いを理論の中心に据えることになります。ここで導入されるのが「疎外と分離」という新たなモデルです。ここでは50年代に〈父の名〉と呼ばれていたものが「分離の原理」として捉えられるようになります。すなわち「分離」による「対象 a 」の切り出しに成功していれば神経症、失敗していれば精神病ということになります。


* 機械-対象 a

このように1950年代から1960年代にかけてのラカン派精神分析では神経症と精神病は排他的な対立項として捉えられていました。

これに対してAOが提唱する「分裂分析」の狙いは「神経症の精神病化」というべき点にあります。ここで鍵となるのは共著者の一人であるガタリが導入した「機械」という概念です。

ガタリは69年の論文「機械と構造」において「構造」を重視する50年代ラカンを批判しつつ「構造を超えるもの」としての60年代ラカンが提出した「対象 a 」に注目します。

ただ、この時点でのラカンのいう「対象 a 」には「構造」それ自体を変革する契機は存在しません。ここでいう「対象 a 」はいわば構造の安全装置です。

これに対して、ガタリのいう「機械-対象 a 」は「構造」の中に侵入し、その因果を切断し「一般性」に回収不能な個々の「特異性」を切り出す機能を担います。すなわち「機械-対象 a 」はいわば構造の爆破装置ということです。

ガタリはこのような構造変動モデルを精神病の一種であるスキゾフレニーに求め、神経症と精神病の対立項を「原-精神病」とでも呼ぶべき上位カテゴリーを開くことで脱構築します。後々のドゥルーズ&ガタリ主義における「多方向への欲望」「リゾーム」「逃走」「スキゾ・キッズ」という様々なタームは、こうした「原-精神病」への志向を言い表しているわけです。


* 70年代ラカン−−エディプスからサントームへ

こうした面では確かにドゥルーズ&ガタリは50年代/60年代のラカン理論を乗り越えていると言えます。では70年代ラカン理論はどうでしょうか?

この点、ドゥルーズ&ガタリを含む70年代のフランス現代思想のトレンドが「ラカンへの抵抗」だとすれば、最も強力にラカンに抵抗していたのは他ならぬラカン自身でもありました。

1970年代のラカンが提示したのは「R(現実界)」「S(象徴界)」「I(想像界)」という三つの位相からなる「ボロメオの環」と呼ばれるモデルです。そして1974年以後はこのボロメオの環に「サントーム」と呼ばれる第四の輪が導入され、神経症と精神病は一元的に把握されることになります。

この考え方によれば〈父の名〉とはもはや「サントーム」の一種であり、神経症は精神病の部分集合ということになります。ここにガタリの「原-精神病」との親近性を見て取れるでしょう。

こうして70年代ラカンはエディプス・コンプレックスを相対化して「サントーム」の臨床へと向かいます。サントームとはその人だけが持つ「固有の享楽のモード=特異性としての症状」のことであり、精神分析はこうした人それぞれが持つ「特異性」と「同一化する/上手くやる」ことで終結することになります。


* 「或るめちゃくちゃ」と「別のめちゃくちゃ」の間

こうしてみるとドゥルーズ&ガタリと70年代ラカンは共に「一般性」に回収されない個々の「特異性」を重視した点で共通している一方で、前者はこの「特異性」を多方向に解放する「終わりなき過程」を志向し、後者はこの「特異性」と「同一化する/上手くやる」ことで「終わりある分析」を目指している点で相違していることになります。そういった意味で両者の差異は理論面というよりむしろ実践面にあるとひとまずは言えるでしょう。

もっとも、晩年のドゥルーズは「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を残しています。この点、千葉雅也氏はドゥルーズ哲学の緻密な読み直しを通じて「単独のドゥルーズ」に伏在する「非意味的切断」の面を際立たせる読解を提示します。

ツリーからの切断を「意味的切断」だとすれば、リゾームからの切断は「非意味的切断」です。ドゥルーズ&ガタリの魅力は「リゾーム」という一語に極まる「めちゃくちゃ」へと向かう華やかさと危うさにあります。けれども千葉氏によれば少なくともドゥルーズは「華やかさ」と「危うさ」の裏で、同時に「慎重さ」をも求めています。持続可能な生成変化を行う上では「接続過剰」によるオーバードーズの手前での「いい加/減な切断=非意味的切断」が必要となるということです。

この「非意味的切断」には現代ラカン派における「逆方向の解釈」と共通する要素があります。ここにドゥルーズ&ガタリが示す「終わりなき過程」に「ひとまずの終わり」の契機を差し込む余地もあるでしょう。あらゆる事物が渾然一体となった「極限のめちゃくちゃ」ではない「或るめちゃくちゃ」と「別のめちゃくちゃ」の間にあるものへ。こうした視点からポスト・構造主義の思潮を照らし返してみるとまた新たな発見があるかもしれません。



posted by かがみ at 00:23 | 精神分析