【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2019年09月29日

「ふつうの倒錯」と揺籃社会




* 神経症の終焉

1952年の初版発行以来、精神科臨床に「合理化」と「平準化」をもたらし、今や精神医学のグローバルスタンダードとして君臨する「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」の改訂史はアメリカ精神医学が精神分析から決別していく過程でもあります。

とりわけ1980年に発行された第3版は「精神分析の母」とも言える「ヒステリー」を診断カテゴリ一覧から削除し、神経症概念を解体したことで知られています。そして残念ながらアメリカの精神分析にはこの時代の趨勢を跳ね返すだけの余力が残されていませんでした。

一方で、ラカン派精神分析の強い影響下にあるフランスでは、少なくとも1990年代中盤まではDSM何するものぞという空気がまだ支配的でした。

ところが、1990年代後半になるとやや事情が変わってきます。それは端的に言うとラカン派の伝統ともいうべき神経症・精神病・倒錯という三位一体の構造論を揺るがせる患者群が注目されるようになったということです。

こうしてDSMからもっとも遠くに立っていたラカン派ですら、神経症はもはや往時の勢いを失ってしまいます。では一体、何が神経症に取って代わったのでしょうか?


* ふつうの精神病

この点、ジャック・ラカンの娘婿にしてラカン派の主流「École de la cause freudienne(フロイト大義学派)」を率いるジャック=アラン・ミレールは1998年「ふつうの精神病」なるカテゴリーを提唱します。

ここでいう「ふつうの精神病」とは正式な診断名ではなく、近年、前景化してきた「精神病の軽症化」に対処するための暫定的なカテゴリーです。

周知の通り、ラカン派ではボーダーラインを認めません。そこで予備面接段階において、神経症であるという確証が得られないケースで「ふつうの精神病」の特徴が見られる場合は、ひとまず自由連想などの通常分析を控えるべきであるとミレールは言います。

その後の臨床経過において、神経症的特徴(エディプスコンプレックスの痕跡、抑圧に由来する葛藤、分析家へのアンヴィバレントな感情転移等々)が判明した場合は通常分析に切り替え、そうでない場合は、改めて古典的カテゴリーに即した鑑別診断が行われることになります。


* ふつうの倒錯

これに対して「Association Lacanienne Internationale(国際ラカン協会)」のジャン=ピエール・ルブランは「ふつうの倒錯」なる概念を提唱します。

ルブランは2007年の著作「ふつうの倒錯」の中で「正常の中に倒錯を組み入れつつ、正常を考える」という自らの立場を明確にしており、これは「正常の中に神経症を組み入れつつ、正常を考える」というフロイトの立場に通じます。

フロイトは言うなれば「ふつうの神経症」というものを考えたわけです。つまり「ふつうの倒錯」はあくまで「正常」の位相に位置付けられる「ふつうの神経症」のオルタナティブであり、この点において「病理」の位相に位置付けられる「ふつうの精神病」とは異なっているということです。


* 否認とは何か

「ふつうの倒錯」は「真正の倒錯」と同様「否認」というメカニズムによって基礎づけられます。「否認」とはなんでしょうか?

この点「象徴界」を中心とした50年代ラカン理論のタームで言えば「否認」とは「象徴的去勢の否認」を言います。

すなわち、神経症者が「〈父の名〉=象徴的父」がもたらす象徴的去勢を止むを得ず是認するのに対して、倒錯者はこれを否認し、ひたすら「〈他者〉=象徴的母」の欲望の対象である想像的ファルスへの同一化に固執します。

また「現実界」を導入した60年代ラカン理論のタームで言えば「否認」とは「享楽喪失の否認」を言います。

すなわち、神経症者がシニフィアンの主体となる事で生じる享楽喪失を止むを得ず是認するのに対して、倒錯者はこれを否認し、迷いなく享楽奪還の道を突き進みます。

このように時期によって理論構成の違いはあるにせよ、ざっくりいえば、神経症者が「そうだな、世界はそういう風にできている」と葛藤を抱えつつも受容する態度だとすれば、倒錯者は「そんなことあるか、狂ってるのは世界の方だ」と確信を持って叛逆する態度という事になります

こうした倒錯者の態度は別に間違っているとかそういう事ではありません。むしろ、ある意味で「知っている主体」として自らを位置付ける倒錯者の態度は精神分析の倫理と通じるものがあるでしょう(倒錯者と分析家のディスクールはマテーム上は同じ「a→$」となります)。


* 否認共同体と資本主義のディスクール

では、こうした「真性の倒錯」とルブランのいう「ふつうの倒錯」はどのように違うのでしょうか?

この点「真性の倒錯」においては「象徴的去勢」あるいは「享楽の喪失」という「欠如」を「拒絶」するという積極的否認により自らを主体化します。

ところが「ふつうの倒錯」の場合、この主体化自体を「回避」するという消極的否認にその特徴があります。

こうした消極的否認は〈他者〉との共犯関係の上で行われます。これがルブランのいう「否認共同体」と呼ばれるものです。

例えば我が子を「溺愛」してやまない母親と存在感の希薄な父親という組み合わせの核家族は典型的な否認共同体として機能します。

こうした否認共同体に庇護されることで、子どもはいつまでたっても「欠如」に直面することができず「自分は本当はすごいんだ」という幼児的万能感を持ち続けることになる。

そして「資本主義のディスクール」が支配する現代社会においては、そこらかしこに溢れるお手軽な剰余享楽の洪水の中で人々はアディクトさせられ続け、いわば社会全体が巨大な否認共同体として機能しています。

このように「ふつうの倒錯」とはいわば「抑圧中心の経済」から「享楽中心の経済」へという社会構造の変化が生み出した新たな主体と言えるでしょう。これを称して「ネオ主体」と言います。


* ネオ主体

「ネオ主体」とはまさに享楽社会の申し子ともいうべき存在です。ネオ主体が最も恐れるのは自らの棲む否認共同体を破綻させる「欠如」であり、故にネオ主体は何かと「過剰なるもの」を求めます。

「廃人」と呼ばれるネットやゲームへの過剰な没入。SNSで散見される「意識の高い」過剰な自分語りや「キラキラ」した過剰な加工画像。巷の広告に踊る「激◯」「爆◯」「ギガ◯」という過剰なキーワード。

そして、周囲の「普通」や「空気」への過剰な同一化。あるいは、自分が「否定」されたと感じた時の過剰な拒否反応。

こんな風に並べてみると、いくつかはなんとなく思い当たる節はないでしょうか?要するにネオ主体とは決して他人事ではない。現代を生きる我々は良くも悪くも倒錯的であると言わざるを得ないと思います。


* 揺籃社会を生きるということ

ルブランの提出する「ふつうの倒錯」概念は、ますます消費化情報化が加速する現代社会の諸相を見はるかす為のひとつの理論装置としても有用でしょう。

例えば、東浩紀氏のいう「データベース消費」に耽溺する動物達。大澤真幸氏のいう「不可能性」を希求する反現実。宇野常寛氏のいう「母性のディストピア」に囚われた矮小な父性。

こうした一見、三者三様の現代社会論はまさに否認共同体の中で生きるネオ主体の生態系をそれぞれが異なる側面から記述しているわけです。

またあるいは、岸見一郎氏の「嫌われる勇気」や渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」といった「決断」を強調する思想がベストセラーになる昨今の「自己啓発ブーム」も、言ってみれば現代社会とはそれだけ「決断」が困難な社会である事を物語っているのでしょう。

いずれにせよその根底にあるものは、ルブランのいうところの「正当性の危機」、すなわち従来、我々の生のリアリティを根拠付けてきた「外部」という超越性の廃位です。

こうして今や社会は「外部」なき巨大な揺籃と化し、我々はどうやってもその構造自体からは逃れられないわけです。

ここで無理矢理にでも構造の「外部」に生のリアリティを求めるような生き方−−例えば従来の昭和的ロールモデルのようなもの−−に拘るとすれば、それは多くの場合「生きづらさ」として跳ね返ってくるでしょう。

むしろこうした構造を逆手に取り、構造の「内部」の中で、いかにして主体的欲望を奪還し、多くの瑞やかな歓びを汲み出しつつ、構造のルールそのものを書き換えていくか。いま問われているのはおそらく、そんな生き方の実践ではないでしょうか。





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posted by かがみ at 20:03 | 心理療法