【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2019年07月29日

宮廷愛とセカイ系




* 不可能なものとしての宮廷愛

宮廷愛とは12世紀ヨーロッパに起源を持つ詩歌の一つのジャンルのなかで歌われる愛の形式をいいます。だいたいの特徴として、さる高貴な既婚女性を対象として、その愛は騎士道的な愛で、対象たる女性への肉体的接触は一切断念されている点があります。

この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンはセミネール7「精神分析の倫理(1959〜1960)」の中で宮廷愛を精神分析における「昇華」の形式の一つに位置付けています。

心理学でいう一般的意味の昇華は「実現不可能な欲求を別の社会的に望ましい行為を通じて実現すること」などと定義されますが、ここでラカンが言う「昇華」とは「ある任意の対象を〈もの〉の尊厳まで引き上げる営為」を指しています。

〈もの〉というのは、外界からの刺激を受けた心的装置がその翻訳過程で決定的に取り逃がした部分です。つまりシニフィアンよって象徴化不能な何かが〈もの〉として現実界の境域を構成します。

心的装置.png


象徴界における法の導入は〈もの〉への接近を禁止しますが、むしろ法の導入とは人が〈もの〉への接近不可能であるがゆえに要請されるものです。法の導入により、その法さえ侵犯すれば禁じられた〈もの〉という桃源郷に到達できるのではないかという錯覚が可能となるからです。ここに人は快楽原則の彼岸としての「享楽」を想定します。

つまり「昇華」とは〈もの〉への到達不可能性を「芸術」や「愛」などといった何やら尊いものへと高揚せんとする創造的営みであり、ここでいう宮廷愛とは、ある女性との想像的関係を〈もの〉という現実的極限として見立てているわけです。

もっともその後、ラカンは「対象 a 」という概念を駆使して現実界へのより能動的なコミットメントを試みます。こうした理論的変遷に伴い宮廷愛の位置付けも変化することになります。


* 享楽・不安・欲望

「対象 a 」が全面的に導入されたのがセミネール10「不安(1962〜1963)」です。このセミネールにおいては「享楽・不安・欲望」の三つ組が取り上げられます。

不安の三つ組.png

原初の神話的段階においては欠如なき享楽の主体(S)と、これまた欠如なき〈他者〉(A)が想定されます。こうした「享楽」の段階と「欲望」の段階の中間項に「不安」が位置付けられます。

この点、フロイトは前期においては「抑圧が不安を生み出す」と述べていますが、後期に至っては「不安が抑圧を生み出す」と立場を翻しています。これがいわゆる不安信号説です。この立場からすると不安とはエディプス・コンプレックス以前のものであるということになります。セミネール「不安」におけるラカンの解釈もこの後期フロイト理論に依拠したものです。

ラカンは「不安に対象がないわけではない」といいます。つまり不安とは一般的な意味での対象はないけれど、ある特殊なものを対象としているということです。

ここで「不安の対象」となるのが〈他者〉の欠如(Ⱥ)に相当する( a )です。すなわち、シニフィアンによって象徴化不能な何かはここでは対象、つまり「対象 a 」として把握されることになります。

この対象 a が充溢して作用する時、主体は「欠如の欠如」というべき、よるべなき事態に直面することになります。これがラカンのいう「不安」です。端的に言えば「世界中どこにもお前の居場所など無い」ということです。

そこでこうした不安を逃れる為、主体はどうにか対象 a を切り出して、その間に幻想($♢a)を作りだします。この幻想を支えとして主体は欲望の主体($)となります。

つまり欲望の根本には〈他者〉の欠如を見出すことで、この世界における自分の居場所を獲得するという幻想が働いている。このように対象 a は「欲望の原因」として機能します。しかしこのような主体の幻想は所詮文字通りの幻想なのでその幻想が破綻した時、まさに不安が現前化してくるわけです。

こうした対象 a の機能をめぐる議論は後年、一つの定式として示されることになります。これが「性別化の式」です。


* 性別化の式(男性側の式)

ラカンはセミネール20「アンコール(1972〜1973)」において「性別化の式」を完成させます。ここで、男性側の式は以下のように定式化されています。

性別化の式.png



⑴ 「全ての男性はファルス関数に従う(∀xΦx)」

「全ての男性はファルス関数に従う(∀xΦx)」とは「普遍」に関する命題になります(普遍肯定命題)。

「∀x」とは「全てのxは〜である」という量化記号であり「Φx」とは「xはファルス関数に従う」ことを示しています。

ここで「ファルス関数」というよくわからない言葉が登場しますが、これは絶対的享楽を禁止する「欠如」を創設する機能であり「象徴的去勢」「言語による疎外」に相当するものです。

つまり(精神分析的意味での)男性は完全にファルス関数によって定義されることになります。結果「〈他〉なる性としての女性」はフェティッシュとしての対象 a という部分対象へと還元され、男性の享楽は畢竟、自分自身の身体器官を享楽しているに過ぎない倒錯的享楽となります。これを「ファルス享楽($→a)」といいます。

このように男性はファルス関数に完全に定義されることにより、対象 a を超えて「〈他〉なる性」としての「La femme−女性なるもの」へ到達することは不可能となります。こうした状態を表した後期ラカンの有名なテーゼが「女性なるものは存在しない」「性関係は存在しない」ということになります。

そこで男性はこのようなアポリアから逃れる為、この世界の何処かには絶対的享楽が存在するという「例外」の幻想を作り上げることになります(〈他なる〉享楽の想定)。すなわち「普遍」の側から「例外」を夢想するということです。


⑵ 「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する(∃xΦx)」

「ファルス関数に従わない男性が少なくとも一人存在する(∃xΦx)」とは「例外」に関する命題です(個別否定命題)。

「∃x」とは「少なくとも一人のxが存在する」ということであり、「Φx」とは「xはファルス関数に従わない」ことを示しています。

ここで示されているのは、ファルス関数に従属しない例外的男性が少なくとも一人存在し、この例外者だけはファルス享楽ではない絶対的享楽を得ているということです。

こうして男性側の論理式は外在する「例外」が「普遍」を安定化させるという論理となります。これはすべてのxをΦで拘束するにはΦに拘束されていないxが外部に一つあればいいという論理です。

いわゆる古典的ラカン理論は男性側の式に収められます。例えば「主人のディスクール」との関係で言えば「S2」は「∀xΦx(普遍)」に「S1」は「∃xΦx(例外)」がそれぞれ対応するでしょう。


* 例外としての「La femme−女性なるもの」

ここで「例外」として機能する典型例はフロイトの論文「トーテムとタブー」に登場する原始部族社会の部族長=原父のごとき全ての女性を独占的に享楽する存在です。しかし男性にとって「例外」として機能するのは何も原父だけではありません。宮廷愛における「La femme−女性なるもの」も「〈父〉のバージョン違い(version du Pe’re)」として機能します。

「アンコール」においてラカンは宮廷愛を再度取り上げています。先に述べたように「精神分析の倫理」の中でラカンは宮廷愛を対象を〈もの〉の尊厳まで引き上げるという「昇華」の形式の一つに位置付けていました。これに対して「アンコール」における宮廷愛は「性関係はない」という真理の隠蔽装置として機能しているという位置付けになります。

すなわち、ある任意の対象との間にあえて障壁を置くことで「La femme」への接近不可能性という問題を「その障壁さえなければいいのに」という禁止の問題に置き換えて、その禁止の向こう側にありもしない「La femme」を想定することを可能にしているわけです。


* 現代の宮廷愛としてのセカイ系

こうした宮廷愛は12世紀ヨーロッパに限らず、現代でもありふれた物語として現れます。例えば「セカイ系」という想像力は現代における宮廷愛の一つの様式と言えるでしょう。

「セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つです。典型的なセカイ系作品として「最終兵器彼女(2000)」「イリヤの空、UFOの夏(2001)」「ほしのこえ(2002)」などが挙げられます。

セカイ系という言葉は当初、インターネット掲示板界隈の議論の中で過剰な自意識語りが激しい作品を揶揄的に指していましたが、のちにセカイ系作品群が文芸批評の分野で取り上げられるようになるにつれて、定義が以下のように構造化されることになります。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく『世界の危機』『この世の終わり』など抽象的大問題に直結する作品群」

ややこしい定義ですが、これは要するに「ヒロインからの承認(想像的関係)」が「社会的承認(象徴的秩序)」を通り越し「世界からの承認(現実的極限)」まで格上げされている状態を言っているわけです。


* 「世界か少女か」

このようにセカイ系作品においては想像的関係と現実的極限の直結という特異的構造から、その末路は多くの場合、宮廷愛の様相を帯びてきます。こうした不可能性はしばし物語の中で「世界か少女か」というセカイ系二択として現れます。

例えば「ほしのこえ」を手がけた新海誠監督初の長編アニメーション映画である「雲のむこう、約束の場所(2004)」という作品では、ヒロインの沢渡佐由理は南北に分断された世界の命運を握る「塔」の抑制装置として夢の世界に閉じ込められている。

ここで佐由理の目覚めは世界の滅亡と同義であるというセカイ系二択が示されます。

この点、主人公の藤沢浩紀は南北開戦の間隙を縫って、自作飛行機ヴェラシーラで佐由理との「約束の場所」である「塔」へと飛び、佐由理を夢の世界から連れ戻すと同時に「塔」をPL外殻爆弾で破壊する。

けれども佐由理は目が覚めると夢の世界で抱いていた浩紀への想いも全て忘れてしまっていた。要するに、浩紀は世界を救った代償として佐由理のセカイを救えなかったということです。


* セカイ系という処方箋

こうしたセカイ系作品が一斉を風靡した背景には当時の時代状況というものを考えるべきでしょう。90年代後半からゼロ年代初頭という時期、就職氷河期は長期化し、戦後日本を曲がりなりにも支えていた終身雇用や年功序列といった昭和的ロールモデルも破綻の兆しを見せ始めていた。

これはいわば「父になる」というひとつの幻想の破綻です。すなわち、セカイ系とはある意味で「世界の命運を左右する少女」という「例外」を仮構する物語によって、様々な不遇により父になり損なった人達の男性式における「普遍」と「例外」の論理を救済しようとした試みとも言えます。

時としてオタク的想像力とか引きこもり的想像力などと言われるセカイ系ですが、こうした時代の急性期を乗り切る処方箋としての側面があった事は確かであり、その功績は決して否定できないと思います。


* もはや「世界か少女か」ではない

ただ一方で、セカイ系の示す「世界か少女か」という二択がいまや完全に陳腐化した事もまた疑いのない事実です。今月公開された新海監督の最新作「天気の子」はこうしたセカイ系構造の更新が多分に意識されています。

すなわち、もはや問題は「世界か少女か」などという白か黒かの青臭い二択ではないということです。「天気の子」が問うのは、端的に人ひとり救うために世界を「部分的に」壊すという決断を我々は倫理の問題として「どの程度まで」受け入れるべきかという極めて現実的な問いです。

世界は狂っている。これはある意味で現代の現実そのものでしょう。グローバリズムとネットワークの拡大で世界は次々と接続され続け、貧困の不安や暴力の脅威が絶えず日常に紛れて混んでくる。けれどもそれでも我々はこの狂った世界の中でそれぞれの信じるセカイを主体的な選択として引き受けて生きて行くしかないんです。

「天気の子」という作品は「いま」という時代の気分を描き出すと同時に、かつてのセカイ系的なものを正しく葬送したと言えるでしょう。つまり端的に言えば、もはや呑気に宮廷愛などやっている場合ではないという事です。





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posted by かがみ at 22:20 | 心理療法