【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2018年11月29日

「〈一者〉の享楽」を生きるということ



* 「生の現実」と「パーソナルな現実」

ジャック=ラカンによれば、人の精神構造は「想像界」「象徴界」「現実界」というそれぞれ異なった3つの位相によって構成されているといわれます。

「想像界」とは感覚器官が捉える「イメージ」であり「象徴界」とはシニフィアンで構成された「ことば」です。これに対して「現実界」とは「イメージ」や「ことば」で把握する以前の「生の現実」をいいます。

つまるところ我々は「生の現実」を「イメージ」と「ことば」によって「パーソナルな現実」として把握しているということです。言い換えれば、我々が「現実らしきもの」と信じ込んでいるこの世界は所詮は自らが創り上げた虚構に過ぎないという事になります。


* 自我・欲望・享楽

では「想像界」「象徴界」「現実界」はそれぞれどのようにして導入されるのでしょうか?

まず「想像界」は生後6〜18ヶ月の「鏡像段階」によって導入されます。ここで子どもは「鏡像」を通じて「自我」を得る。

次に「象徴界」は「父性隠喩」によって導入されます。ここで子どもは「大他者」を通じて「欲望」を得る。

一方「現実界」は「疎外と分離 」によって導入されます。ここで子どもは「対象 a 」を通じて「享楽」を得る。

こうして「享楽」を目指す主体の「欲望」のあり方こそが「自我」を統御することになる。このような「欲望」のあり方を「根源的幻想」といいます。

精神分析とは、このような「根源的幻想」をアップデートする営みとも言えるでしょう。ラカンはセミネール11「精神分析の四基本概念」において精神分析の目標は「根源的幻想の横断」にあると言います。

では、根源的幻想の横断のその先には何があるのでしょうか?晩年のラカンの思索は精神分析の終局点を模索する営みであったとも言えるでしょう。そしてそれは端的に言えば「〈一者〉の享楽」を生きるということです。


* 「〈一者〉の享楽」の発見

まずラカンはセミネール17「精神分析の裏面」において、「疎外と分離」の演算を「主人のディスクール」として一つに統合します。

そして「主人のディスクール」を展開させ「大学のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」、そして「分析家のディスクール」という4つのディスクールを導きます。

4つのディスクール.png

この点「分析家のディスクール」とは精神分析の臨床を定式化したものと言えます。すなわち、分析家が分析主体$に対して対象 a の位置を取ることで、無意識という知S2が想定され、分析主体$は新たな主人のシニフィアンS1を析出する事になるわけです。

次にラカンはセミネール20「アンコール」において性別化の論理式を構築していく中、対象 a を通じて得られる従来の「ファルス享楽」とは異なる非エディプス的な享楽を発見する。

性別化の式.png

この新たに発見された特異的/単独的な自体性愛的享楽をラカンは享楽それ自体の体制へ一般化します。これが「〈一者〉の享楽」と呼ばれるものです。

この「〈一者〉の享楽」は子供が初めて出逢う原初的なシニフィアンである「ララング」と結びついた享楽であり、このことから「〈一者〉の享楽」は分析家のディスクールにおけるS1に紐付けられることになります。


* S1→S2

こうして「症状」とは神経症も精神病も同じく「S1→S2」と書き表す事ができるようになる。これが症状の一般理論と呼ばれるものです。

つまり、あらゆる「症状の意味=S2」は「症状の根=S1」から発展して出来上がっているということです。

「症状の意味=S2」とは、まさに無意識の形成物であり、象徴的な意味を持っている。そこで、症状がその奥に隠し持つメッセージを解釈するで症状は消失するとされてきた。

しかし実際には、どれだけ解釈しても症状が消失しない症例や、たとえある症状が消失しても、すぐに別の症状が生み出される症例も多く存在する。

症状の意味をどれだけ解釈しても、主体がその症状を手放そうとしないのは、症状は主体になんらかの享楽をもたらしているからに他ならない。このような症状の持つ享楽の側面を「症状の根=S1」という。

そして「症状の根=S1」にある享楽こそがまさしく、各人それぞれが持つ特異的/単独的な自体性愛的享楽、すなわち「〈一者〉の享楽」ということです。

神経症者や精神病者の症状は多様ではありますが、その症状の多様性は「症状の意味」の側にあるのではなく「症状の根」の側に、すなわち症状が持つ享楽のモードにあるというわけです。

こうして晩年のラカンはS2よりもS1を重視した臨床に傾いていく。つまり精神分析の終局点があるとすれば、それは「〈一者〉の享楽」と上手くやっていく事にあるということになります。


* 茶の湯とマインドフルネス

「〈一者〉の享楽」と上手くやっていく。このようなラカン的観点は、我々が日々の暮らしで直面する様々な「生きづらさ」から脱却できる重要な視座を提示しているように思えます。

実際、この日常において、我々は自分の中にある「〈一者〉の享楽」の鳴動を感じる場面に多々遭遇します。

例えば、茶の湯などはそうなのかもしれません。森下典子さんの自伝的エッセイ「日日是好日」においては、一見、意味不明としか言いようのない数々の茶の湯の所作を集中することで、なんとも言えない不思議な法悦に満たされる瞬間が多く描かれています。

あるいは、最近注目されるマインドフルネスにおいてもそうなのでしょう。呼吸をはじめとする普段の何気無い動作を「今、ここ」に注意を向けて行うことで「ピーク・モーメント」という、釈迦が「悟り」と呼んだ至高体験が瞬間的にではあるものの訪れることが、多くの臨床で実証されています。

茶の湯もマインドフルネスも、ひとつひとつの動作をていねいに行う事によって「思考」を手離し「意識」を「現実」に直結させるという点で共通しています。

こうした営みを重ねる中で何気ない一瞬が輝き出し、その先にはとてつもない自由な境地が立ち現れてくるわけです。


* 「パーソナルな現実」は変える事ができる

また繰り返し申し上げる事になりますが、我々は「生の現実」を「イメージ」と「ことば」によって「パーソナルな現実」として把握している。

そして「生の現実」は変えられませんが、その向き合い方によって「パーソナルな現実」は変える事ができるわけです。

奇跡か何かを待っているだけでは世界も人生も一ミリも変わらない。けれども自分を変える事は今すぐ出来る。日々の小さな積み重ねこそが周囲の世界とこれからの人生を変えていくと言っても別に大げさなことではないという事です。

この日常が灰色のディストピアになるか、色鮮やかなきらめきに満ちた日々になるか。両者を分かつのは結局のところ、もしかするとほんの僅かな紙一重の差なのかもしれませんね。






posted by かがみ at 23:38 | 心理療法