【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2018年08月29日

「〈他者〉の欲望」と発達障害



* 精神病圏・神経症圏・倒錯圏 

ラカン派精神分析の臨床構造は3つに大別されます。精神病圏、神経症圏、倒錯圏です。

これらの臨床構造は「父=〈父の名〉」に対する態度によって切り分けられます。

精神病圏の主体は父がいない事に苦しみます。これに対して、神経症圏の主体は父がいる事に苦しみ、倒錯圏の主体は父がバカにしか見えない事に苦しむわけです。

* 「否認」とは何か

この点、神経症圏の主体は何だかんだと言いつつも〈父の名〉によってもたらされる「〈他者〉のファルスの欠如(現実的穴)=〈他者〉の欲望」を引き受けることになります。

これに対して、倒錯圏の主体は「〈他者〉の欲望」を「否認」するわけです。

「否認」とはなんでしょうか?これは「〈他者〉の欲望」を「引き受けつつも認めない」というパラドキシカルな態度をいいます。

すなわち、倒錯圏の主体は「〈他者〉の欲望」を隠蔽するヴェールを張り巡らし、ここに任意のフェティシズム的対象を投影し、当該対象に想像的(鏡像的)に同一化する。

フェティシズム的対象は、身体、服装、素材、道具、状態、言葉など多岐に渡ります。こうしたものを利用することで倒錯圏の主体は「〈他者〉の欲望」を「否認」し〈他者〉を「享楽を想定された主体」として位置付けます。

そして同時に「〈他者〉の欲望」に対する自らの無知をも「否認」することで、自らを「知を想定された主体」に位置付けるわけです。

* 倒錯的フェティシズムの一つの発現としての「自閉症スペクトラム障害」

倒錯の現代的論点として発達障害の問題を考えることができるでしょう。発達障害、とりわけ自閉症スペクトラム障害の症状は倒錯的フェティシズムの一つの発現として理解可能であるからです。

「自閉症スペクトラム障害(ASD)」とは、2013年のDSM改訂により、自閉症やアスペルガー症候群などが統合されてできた診断名です(DSM-W-TRにおける広汎性発達障害にほぼ相当します)。その診断基準は以下の通りです。


以下のA、B、C、Dを満たしていること。

A 社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)

1 社会的・情緒的な相互関係の障害。
2 他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)の障害。
3 年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。

B 限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される))

1 常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。
2 同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、言語・非言語上の儀式的な行動パターン。
3 集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。
4 感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。

C 症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。

D 症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。


* 「〈他者〉の欲望」の「わからなさ」

ASDの特徴である「社会的コミュニケーションの持続的障害「常動的反復的な行動・関心」に共通するのは「〈他者〉の欲望」と関係することの困難性の表れと言えるでしょう。

すなわち、ASDの場合、ある特定のフェティシズム的対象を参照点として利用することで、「〈他者〉の欲望」の「わからなさ」から生じる不安を囲い込み無効化を試みていると言えるわけです。

そしてそれは本質的に〈他者〉を必要としない一種の自己完結性によって特徴付けられる解決ということになります。

ゆえに、このフェティシズム的対象が失われるや否や「〈他者〉の欲望」がたちまち前景化して、彼ら/彼女らにとって世界は不安と混沌に満ち溢れたものになってしまうことになります。

* 資本主義のディスクールと発達障害

こうした事から、ASDを特徴付けるとすれば、それは「〈他者〉欲望」を引き受け続ける困難性にあると言えないでしょうか。

ラカンが「疎外と分離」の演算において示すように、主体は「自らの欠如」と「〈他者〉の欠如」の重なり合いの中に、支えとしての対象 a を作り出し「〈他者〉の欲望」を引き受けるわけです。

例えば、ラカンは「愛とは常に持っていないものを与えることである」「ただ愛のみが、享楽が欲望に譲ることを可能とする」といいます。

主体と他者はお互いに「欠如した存在」として愛を求め、その欠如を埋めんと欲望するわけです。

ところが、資本主義のディスクールによって特徴付けられる現代社会はさまざまな剰余享楽が氾濫し、その際限ない消費に人々は駆り立てられるわけです。

つまりここでは主体と剰余享楽が直結関係にあるかの如き観を呈しているわけです。

この点において、資本主義のディスクールは、主体と他者との間の欠如を介した関係に大きな困難が生じさせる可能性を孕んでいるわけです。

最後はなかなか乱雑な素描になってしまいましたが、要するに現代は「愛するヒマのない時代」「欲望するヒマのない時代」であるということです。

こうしてみると、近年における発達障害の増加は資本主義のディスクールという時代のカナリアという事になるではないでしょうか。




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posted by かがみ at 18:49 | 心理療法