【参考リンク】 ラカン派精神分析の基本用語集

2018年07月23日

享楽の在処としての〈もの〉、あるいは神尾観鈴の不安発作



* 不安の時代

ソーシャルネットワークの爆発的普及による情報過多、ライフスタイルの急速な変化、コミュニケーション能力の重視、そして何かと「イノベーション」や「価値創造性」が求められる昨今。

およそ現代は「不安の時代」と言って良いのかもしれません。精神医学的に「不安障害」という診断名がつくかどうかはともかくとして、我々は程度の差はあれ、日々否応なくわき起こる不安とどう向き合っていくかを問われているとも言えます。


* 享楽の在処としての〈もの〉

このような不安という感情はどこから来るのでしょうか?ラカン派精神分析の観点からは、これは〈もの〉の回帰に対する防衛のモードとして理解します。

セミネールZ「精神分析の倫理」においてラカンは〈もの〉という概念を取り上げます。


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〈もの〉とは、人が感覚器官を通じて捉えた外的刺激を心的装置に記録する過程で決定的に取り逃がした「何か」です。

周知の通り、ラカンの有名な標語からすれば「無意識とは言語によって構造化されたものである」ということになります。つまり外的刺激は「言語=シニフィアン」に変換され、言語的な無意識である「象徴界」を構成する。

けれども、この分節化の過程でどうしてもシニフィアンによって補足し切れなかった残滓が生じるわけです。これらが〈もの〉として「現実界」を構成する。

我々は身体に言語を刻み込まれ象徴界の主体として生きている。つまり主体と〈もの〉の間には「言葉」という壁がある。そうである以上、我々は〈もの〉に到達することは不可能です。そこは内的な外部であると言うことになります(外密性)。

この点、象徴界は不快を避けて快楽を追求する快楽原理のシステムで駆動しています。従って〈もの〉とは快楽原理では処理不能な過剰快楽である「享楽」の在処ということになります。

また、これをエディプスコンプレックスの観点からいえば、通常〈父の名〉という法を受け入れることで我々は〈もの〉への到達を禁じられていると言えるでしょう。これを一般的な精神分析用語で「去勢」とか「原抑圧」などと言うわけです。

人はしばし享楽を快楽原理の彼岸にある絶頂をもたらすような究極的快楽と想定する。そして〈父の名〉という法を侵犯しさえすれば〈もの〉へ到達できるのではないかという幻想に魅せられる。

こうして人は原理的に到達不可能な〈もの〉へ至らんとする永続的徒労に人生を費やすことになる。これを称して「欲望」というわけです。


* 防衛としての症状

今しがた述べたように我々は〈もの〉に到達することは不可能です。それにもかかわらず、我々はその日常において、かつて喪失したはずの「〈もの〉の痕跡」にしばし遭遇することになります。

例えば「罪悪感」として、あるいは「不気味なもの」として、もしくは「崇高なもの」として「〈もの〉の痕跡」は快楽原理を撹乱するような「過剰なもの」として断片的に侵入してくる。

これらは〈もの〉そのものではありませんが、かつてあった〈もの〉を想起させるものです。そして、そのような「〈もの〉の痕跡」を防衛するための一つの処方。これがまさに不安という症状に他なりません。

つまり人は「〈もの〉の痕跡」の前に症状を置くことで「この症状さえなければきっと幸せが手に入るのに」という、ある種の享楽を引き出しているわけです。

なお、ラカンはその後「転移」「同一化」「不安」とセミネールを重ねていくごとに、このような「〈もの〉の痕跡」を例の、後に名高き「対象 a 」の概念に洗練させていくわけです。


* 神尾観鈴の不安発作

このような「〈もの〉の痕跡」との遭遇を描いた例として 「AIR」における神尾観鈴の不安発作があります。


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『AIR』(エアー)は、Keyが制作した2作目の恋愛アドベンチャーゲーム、およびそれを原作としてメディアミックス的展開がなされたアニメやコミックなどの作品群。

前作『Kanon』と同様に少年少女の恋愛劇に不可思議要素を絡めたアドベンチャーゲームであり、シナリオが感動に特化した泣きゲーとして支持を集めた。

Wikipedia


観鈴ちゃんには友達がいません。その理由は誰かと仲良くなれそうになる時に限って起きるーーー癇癪を起こしたように泣きじゃくってしまうーーーあの不安発作によるものです。

これは観鈴が最後の翼人である神奈備命の転生体であることに由来しています。

1000年前の当時、翼人は人に不幸をもたらすものとして畏れられており、それゆえに神奈には呪いが掛けられていた。それは親しくした他者を死に至らしめるという、呪い。

翼人とは星の記憶を継ぐ者であり、最後の翼人は幸せな記憶を星に返す必要があった。けれども、この呪いによって親しい者を作ることができない為、幸せな記憶を星に返すことができず、神奈は延々と輪廻を繰り返すことになる。

ともかくもこういったことから観鈴の身体は翼人の呪いに蝕まれており、誰かと親しくすれば、その誰かを不幸してしまう。

すなわち、観鈴にとって「誰かと仲良くなること」というのは禁じられた〈もの〉の体験に等しいものです。

こうしたことから彼女が誰かと仲良くなろうとして〈もの〉への到達不可能性を否定する度に、それは罪責感という「〈もの〉の痕跡」という形をとって回帰してくる。

ここでいう罪責感とは〈もの〉との結合を断罪する内なる非難によるものです。結果、その防衛行動として、あの不安発作が発症するわけです。


* 言葉という呪い

ところで観鈴ちゃんの不安発作は症状だけみればSAD(社交性不安障害)辺りに近いものがあるでしょう。

つまり、我々も日常において「観鈴の病理」に直面することがしばしあるということです。翼人の呪いなどなくとも、人はどこかで任意の誰かと親しくなることで「本当の自分」を知られる事に恐れを抱いている。

例えば親しい人の不可解な行動や理不尽な感情に当惑した時の事を想起してみればいいでしょう。もしも、その原因に全く思い当たる節がないのであれば、背景にはこういう「観鈴の病理」が潜んでいるのかもしれません。

こうして考えると「言葉」とは我々と〈もの〉との間を断絶させるという意味においてある種の「呪い」ということになるのかもしれませんね。



posted by かがみ at 03:17 | 心理療法