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ラカン派精神分析の基本用語集

2018年04月30日

シニフィアンと享楽の関係



1970年代に展開されることになるいわゆる後期ラカン理論とは一体何なのでしょうか?当然のことながら多彩な論点と観点は数限りなくあるでしょう。けれどここでは差し当たり「シニフィアン」と「享楽」の関係ついて書いてみたいと思います。

* 1950年代〜相反関係としてのシニフィアンと享楽

1950年代のジャック・ラカンは神経症圏と精神病圏を〈父の名〉の有無により切り分け、フロイトのエディプスコンプレックスを構造化する事によって神経症圏の成立を論証しました。

すなわち、母親の現前不在が〈父の名〉へと隠喩化されることで象徴的秩序が統御され、その意味作用としてのファルスはセクシュアリティを規範化するということです。

この点からいうと「症状」とはもっぱら「シニフィアン」によって構成される象徴的なものであり、隠喩によって作られるファリックな意味作用を孕むものであると捉えられます。

ところが症状の象徴的側面だけであらゆる症例を説明することは困難です。分析主体が症状をなかなか手放そうせず、分析の進展にもかかわらず症状が延々と反復する現象は、症状が「シニフィアン」だけではなく「享楽」とも関係を持っている事に起因します。

そこで、症状の把握にあたっては「シニフィアン」という象徴界の観点のみならず「享楽」という現実界の視点が不可欠となるわけです。

この点、セミネールVII「精神分析の倫理(1960)」の時点では、シニフィアンと享楽は本来的には二律背反する相反関係(あれかこれか)に立ち、享楽の回帰は「〈もの〉の侵入」としか言いようのないイレギュラーという扱いでした。

* 1960年代〜主従関係としてのシニフィアンと享楽

そこで、1960年代のラカン理論においては、臨床において享楽を操作可能とすることに主眼が置かれ、享楽は「〈もの〉の侵入」から「対象 a」へと洗練されていきます。

そして、セミネールXI「精神分析の四基本概念(1964)」において「疎外」と「分離」という二つの演算が示され、分析における主体と対象 a の関係が定式化されるに至ります。

「疎外」が主体の象徴界への参入の過程(S1→S2)であるとすれば、「分離」とは主体が対象 a を通じて再び現実界に(部分的)に回帰する過程($→a)です。

そして、主体は対象 a との関係性を再定義する事で〈他者〉とつながりつつも〈他者〉からの自由を獲得する事が可能となる。これを「根源的幻想の横断」といいます。

これは確かに一つの到達点です。けれど、まだこの時点では依然として、シニフィアンが主で享楽は従という関係(あれとこれと)になっているわけです。

* 1970年代〜統合関係としてのシニフィアンと享楽

しかしながらその後、ラカンはセミネールXVII「精神分析の裏面(1970)」において、ディスクールの理論を導入することで、シニフィアンそれ自体が剰余享楽を生み出す装置として扱うようになります。

さらには、セミネールXX「アンコール(1973)」においては一般的な「ファルス享楽」とは異なる「〈他〉の享楽」の可能性が論じられ、これを契機にラカンは「知のシニフィアン=S2」を重視する「存在論」から「〈一者〉のシニフィアン=S1」を優位に置く〈一者〉論への転回を果たします。

つまり、この一連の流れではシニフィアンと享楽は統合的に捕捉される関係(あれもこれも)に立っているわけです。

こうして見ると各年代毎にかなり鮮明なコントラストが生じているのがわかるでしょう。このように、1970年代のラカン理論というのは、シニフィアンと享楽を相反するものでも主従としてでもなく、まさに統合的に捕捉する試みであると言えるわけです。

そしてそれはエディプスコンプレックスを相対化し、フロイトの「終わりなき分析」のアポリアを乗り越える試みであるとも言えるのではないでしょうか。



posted by かがみ at 22:22 | 精神分析