* シニフィアンとシニフィエ
「作詞や創作にみられる意味作用の効果が生じてくるのは、別の言葉で言えば、問題となっている意味作用の出現の効果が生じてくるのは、記号表現と記号表現の置き換えによっていることを示しています」
(ジャック=ラカン「無意識における文字の審級」〜エクリ516頁より)
近代言語学の祖であるフェルディナン・ド・ソシュールによれば、ある言葉の「シニフィアン(音響イメージ)」と「シニフィエ(概念)」は不可分に結び付いているとされます。
これに対してフランスの精神分析医ジャック=ラカンは、ソシュールのダイヤグラムを逆転させ、シニフィアンとシニフィエを切り離した上で、シニフィアンの優位性を強調します。
ラカンの有名なテーゼの一つに「無意識とは言語のように構造化されている」というものがあります。ラカンのいう無意識とは単なる本能や欲動の座ではなく言語構造全体の座あるいは場だということです。
ラカンによれば無意識においてシニフィアンは互いに結び合い一つの網目のような構造をなしており、その効果には隠喩と換喩という二つの側面があります。
この点、換喩とは、例えば「船」を「帆」で表すような、あるシニフィアン(船)から、関連する他のシニフィアン(帆)への置き換えをいいます。これは単なる横滑りであり新たな意味を創造している訳ではありません。
これに対して、隠喩は「ボアズ」を「麦束」で表すように、あるシニフィアン(ボアズ)を、全く関連のない他のシニフィアン(麦束)への置き換えをいいます。
この時、元々のシニフィアン(ボアズ)は新たに置かれたシニフィアン(麦束)の中に保存され、これが新たな意味作用の創造へとつながるわけです。そして諸々の神経症的症状もラカンからすれば、ひとつの隠喩であるということになります。
また、後年、ラカンは無意識を「時間的拍動」として捉えます。すなわち、無意識は「言違い」「機知」「夢」など「無意識の形成物」を通じて一瞬の裂け目として開かれるも、そこに意味が与えらるや否や再び閉じてしまうという開閉運動を繰り返しているということです。
* 「体重=おもい」と『感情=おもい」
この点、「化物語(西尾維新)」の冒頭を飾る「ひたぎクラブ」は極めて寓話的です。体重を失った少女、戦場ヶ原ひたぎは、ずっと抑圧していたかつての性的虐待経験を言葉した時、怪異「おもし蟹」に直面することになる。これは端的に、無意識の顕現を表しています。つまり、彼女が失った「体重=おもい」は「感情=おもい」の隠喩であるということです。
「おもし蟹」を目の当たりにしたひたぎは一瞬立ち竦んでしまいます。これは「時間的拍動」としての「無意識の閉鎖の時」と言えるでしょう。無意識はそれを意識した瞬間、無意識ではなくなり、人は無意識の外部に主体として排出される、すなわち疎外されるということです。
ここで忍野メメはすかさず「おもし蟹」を踏みつけにする行動に出ます。この忍野のトリックスター的な振る舞いはひたぎにとって「対象 a =欲望の原因」として作用しています。まさに彼が踏みつけにしているそれはひたぎの「無意識=抑圧された母親への想い」に他ならないからです。
結果、ひたぎの中で「母親への想い」を取り戻したいという欲望が弁証法化される。こうして、彼女は「感情=おもい」を取り戻す事で「体重=おもい」を取り戻すことができたわけです。
* 「無意識」という〈他者〉
我々は自らの存在を何となく「我思う。ゆえに我あり」といったデカルト的主体だと理解する一方、思わぬ言い間違い、見たくもない悪夢、そして不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状といった、まさしく「何者か」によって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥ってしまうわけです。
この「何者か」の正体こそが自我の制御の及ばない領域、すなわち「無意識」という〈他者〉に他なりません。
要するに、我々も「無意識という怪異」に住み憑かれているということです。そういう意味で、不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状を抱え思い悩んでいる人に向かって「自信を持って」「大丈夫だよ」などという、上から目線の根拠無きアドバイスは無益どころか迫害的ですらあるというわけです。