2017年11月29日

「全体性の回復」としての影とアニマ、あるいは「Fate/stay night」



Fate/stay night [Heaven's Feel] (5) (角川コミックス・エース)
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ジークムント・フロイトによれば、人の心は意識(前意識)と無意識に分けられるとされます。これに対して、フロイトと一時期盟友関係にあったカール・グスタフ・ユングは無意識をさらに「個人的無意識」と「集合的無意識」に分けることを提唱し、フロイトとその袂を分かちました。

集合的無意識というのは、ユングによれば個人的体験を超えた人類に共通する先天的な精神力動作用である「元型」によって構成されるといいます。世界中の神話、伝説、昔話の間に何らかの一定の共通した典型的なイメージが認められるのは、この「元型」の作用に他ならないということです。

典型的な元型として例えば「グレートマザー」という「母性の元型」があります。母性はその根源において「何かを産み育ていく」という肯定的な側面と、そして「何もかもを呑み込んでしまう」という否定的な側面を併せ持ちます。ユング派の分析家である河合隼雄氏は、いわゆる対人恐怖症は母性原理の強い日本社会の特質に根ざしていると指摘しています。

さらにユングは意識体系の中心をなす「自我」に対して、無意識をも含めた心の全体の枢要に「自己」という元型を仮定しました。そして自我と自己との間に適切な相互作用関係を確立する過程を称して「自己実現」といいます。

自己実現の過程とは自己がまさにその全体性を回復していく個性化の過程であり、そこには相対立ものを円環的に統合していく相補性の原理が作用しています。

つまり、このユング的な「自己実現」とは、その辺のキラキラワードとして安易に用いられる「自己実現(笑)」とは違い、自分の心の奥底に潜む「元型との対決」に他なりません。

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「Fate/stay night」という物語は衛宮士郎という自我に歪みを抱えた人間がその全体性を回復していく物語として読むことができます。

あらすじはこうです。とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨み、最後の一組となるまで互いに殺し合う。

10年前、第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害の唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた魔術師である衛宮切嗣に憧れ、いつかは切嗣のような「正義の味方」となって困っている人を救い、誰もが幸せな世界を作るという理想を本気で追いかけていた。

しかしこれは「自分だけが生き残ってしまった」という罪悪感の裏返しにすぎないのです。「正義の味方」とは彼にとっては「願い」というより「呪い」ともいうべきものであった。

「Fate/stay night」の原作はどの選択肢を選ぶかで展開が変わってくるビジュアルノベルゲームです。ルートはメインヒロイン毎に大きく3つに分岐します。

3ルート合わせて総プレイ時間は平均60時間という、この壮大な物語は、衛宮士郎が「影」や「アニマ」という元型との対決を通じて、自己の全体性を回復していく過程を見事に描き切っています。

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士郎はまず、いわゆる凛ルートである「Unlimited Blade Works」において、自らの「影の元型」と相対します。

影とは自我からみて受け入れ難い人格傾向をいいますが、士郎にとってアーチャーは自らの理想に絶望した未来の自分の成れの果てであり、まさに影といえる存在です。

かつて自ら抱いた「正義の味方」という理想が不可能な偽善であることを身を以て知り尽くしているアーチャーは、過去の自分である士郎に「理想を抱いて溺死しろ」と言い放つ。

これに対し、士郎は自らの理想は借り物であり偽善であると認めた上で、それでもそれは決して間違いではなかったことを再確認することで、自分の影を自我に統合していくことになる。

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そして、いわゆる桜ルートである「Heaven’s Feel」において、士郎は自らの「アニマの元型」と相対することになります。

アニマとは男性がペルソナ形成の過程で切り捨ててきた女性的要素をいいます(女性にとってのそれはアニムスです)。そして、ここでアニマを演じるのは間桐桜という少女です。

桜はこれまでのルートにおいて「穏やかな日常の象徴」として描かれてきましたが、実はその体内には聖杯(小聖杯)の器としての機能を宿しており、桜ルートではこの機能が覚醒し、桜は聖杯の器として、大聖杯の中に潜む反英雄アンリマユとリンクしてしまう。

このまま桜を放置すれば「この世全ての悪」と呼ばれる災厄が顕現することになる。そのため桜の実姉である遠坂凛は魔術師としての立場を貫き「桜を殺す」と言う。そこで士郎は「正義の味方か、桜の味方か」というという極めて困難な問いをつきつけられる。

この点、原作ゲームは士郎が桜の味方となる選択を物語のトゥルーエンドとします。確かにここは賛否の分かれるところであり、Fate/stay nightを一つの英雄譚として読むとき、これまでの信念を放棄して1人の女の子を救おうとする行為は「変節」あるいは「挫折」にも映るでしょう。

けれども「全体性の回復」というユングの視点から言えば、士郎にとって桜と最後まで真摯に向き合っていくことは、「アニマの元型」を受け入れていく道と言えるでしょう。

アニマと向き合うことは影との対決以上に困難を伴います。アニマの起源は「太母の元型」であり、アニマを求めるということは同時にグレートマザーに飲まれる危険も伴うということです。実際、桜もその強い依存心の裏返しからあらゆる形で士郎を飲み込もうとしています。

けれども、それでも士郎は言う。自分を殺したがっている桜もひっくるめた全てから桜を守る、と。こうして彼はどこまでも桜の味方であり続けることによって、借り物でも偽善でもない彼だけの正義を手に入れて、ようやく10年前から続く「正義の味方という呪い」から救われたわけです。

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このようにユング的な自己実現の道とは自らの「影」や「アニマ(アニムス)」から目を背けず、正面から対決することであり、それは痛みを伴ういばらの道です。

これはなかなか厳しい考え方ではありますが、見方を変えると、人生で出会う困難に肯定的な意味合いを付与する考え方とも言えるかもしれません。

人は時として内的に凄まじい体験をしつつも、この日常を生き抜くことによって、自我はより高次の統合へ導かれ、そこから実り多い、豊かで素敵な人生というものが開けてくるということなんでしょうか。

posted by かがみ at 21:30 | 文化論