カードキャプターさくら 連載開始20周年記念 イラスト集
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CLAMP
講談社
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「フロイトは、非常に早くから、転移の中で生じる愛は真正のものかどうかという問題を提起しました。一般的には、それは端的に言うと一種の偽の愛、愛の影であると考えられています。」
(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」162頁より)
「転移」とは一般的には精神分析の場において、両親などの過去の人物との間の感情を反復することなどと言われますが、より本質的なことを言えば「象徴的他者=〈他者〉」に対する「わたしを愛して」という「要求」に他なりません。
では〈他者〉とはなんでしょうか?〈他者〉とはその辺の「他人」とはまた違う、ある人にとって絶対的な象徴的秩序を体現する存在をいいます。
一般的に言えば、人生最初の〈他者〉は「〈母親〉=実母あるいは養育者」ということになるでしょう。ヒトの子どもは出生を経て現実界から象徴界に参入する代償として「享楽」を決定的に失うため、これを回復するための運動を試みます。これがフロイトが規定した人間の根本衝動、つまり「欲動」です。
ゆえに子どもは「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象を媒介として「わたしを愛してね」と〈母親〉に「欲動の言葉」を以って「要求」し、自らの欲動を満たそうとする。
これが転移の起源に他なりません。その後、子どもは後に見るように「das Ding」に直面した後も「要求」の水準にある程度の固着を残しているため、以後の人生において、誰か他人の中に〈他者〉のイメージを投影した時、やはり彼に対して「わたしを愛してね」と「要求」するわけです。
そういう意味において精神分析における「無意識のスクリーン」としての分析家、つまり「知っていると想定された主体(sujet suppose savoir)」としての分析家はまさに転移の対象となる〈他者〉の典型と言えるでしょう。
ところで上記の引用のようにラカンは転移を「偽の愛」であるといいます。では、転移ではない純粋な意味での「愛」とやらは果たして何処にあるのでしょうか?
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CLAMPさんの不世出の名作「カードキャプターさくら」は、この「転移」と「愛」という似て非なる2つの感情の差異を大変繊細な筆致で、かつ明確に描き分けることに成功した作品の一つでしょう。
「カードキャプターさくら」という作品は大きく分けると「クロウカード編」と「さくらカード編」という二部構成となっています。まず「クロウカード編」のあらすじは、主人公の木之本さくらが、相棒のケルベロス、親友の大道寺知世、そして後に相手役となる李小狼とともに伝説の魔術師クロウ・リードの作り出した「クロウカード」を全て集め、カードの正式な主となる・・・というものです。
そしてその後、さくらの前に謎めいた転校生柊沢エリオルが現れ、その直後より奇妙の事象が続けて発生する。クロウカードはなぜか事象に対して効果が無効化されてしまう。そこでさくらは「クロウカード」を自らの魔力を込めた「さくらカード」にアップデートすることで事件を解決していく・・・これが「さくらカード編」のあらすじとなります。
こうして物語も佳境に入りつつある中、さくらの通う小学校の模擬店大会が開催され、その日、さくらは兄の桃矢の親友であり、ずっと慕っていた存在だった雪兎へその想いを告げる。これに対し、雪兎は次のような言葉を返します。
雪兎「…ぼくもさくらちゃんが好きだよ」
雪兎「でも…さくらちゃんの一番はぼくじゃないから」
雪兎「さくらちゃん、お父さんのこと大好きだよね?」
さくら「はい」
雪兎「ぼくのことは?」
さくら「…好きです」
雪兎「その気持ちは同じじゃない?」
雪兎「お父さんが大好きな気持ちと、ぼくを好きだと思ってくれてる気持ち、すごく似ていない?」
さくら「…似てます」
(CLAMP「カードキャプターさくら」より)
物心つく前に母親を亡くしているさくらにとって、父親である藤隆は父親であると同時に母親でもある、つまり、象徴的秩序を体現する〈他者〉というべき存在です。
雪兎はさくらの自分への想いが〈他者〉に対する「転移」であることを見抜いていたからこそ、そのことをさくらに気づかせるため、このような言葉を返したわけです。
雪兎「ぼくを好きな気持ちのせいで、さくらちゃんの本当の一番を見つけるが遅れちゃいけない……」
(CLAMP「カードキャプターさくら」より)
もっともこの時、さくらは雪兎への感情の中に、父へのそれと同じではない、つまり転移以外の別の感情を抱いていたことに気づく。これが後々の展開におけるアリアドネの糸となる。
さくら「…でもね、そうじゃない『好き』も雪兎さんにはあったの…」
さくら「ほんのちょっとだけど…お父さんとは違った『好き』が…」
(CLAMP「カードキャプターさくら」より)
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そしてその後、さくらは一連の騒動の黒幕であったエリオルと東京タワーで対峙。エリオルの正体は伝説の魔術師クロウ・リードその人であった。闇を呼び、知世や桃矢を含めた街中の人を眠らせてしまうエリオル。そこから3×3の頂上決戦の末、小狼の助力もあり、さくらは最後まで残っていた「光」と「闇」のカードをさくらカードへアップデートを果たし、なんとかエリオルの魔法を破り事態を収拾します。
なんでエリオル、というかクロウ・リードがこういう回りくどいことを企てたのかという経緯はここでは触れませんが、ともかくも目的を達したエリオルはイギリスへ帰国することになります。そして出立の際、さくらにこう告げます。
エリオル「さくらさん、僕がイギリスに帰るって聞いてどう思いました?」
さくら「え?」
さくら「残念だなあって…」
エリオル「………お願いがあるんです」
エリオル「同じことが起こった時に…あなたのそばにいるひとが遠くへ行ってしまう前にあなたがどう思うか」
エリオル「その気持ちは僕の時とどう違うかよく考えてください」
エリオル「そうすれば、あなたが本当に誰を『一番』だと思っているかが、わかりますから」
(CLAMP「カードキャプターさくら」より)
この直後、さくらは小狼から告白されるわけですが、しばらくの間、さくらは自分の中にある感情の正体をうまく言語化することができません。その正体がはっきりと分かるのは小狼が香港に帰ることを知った時です。
さくら「エリオル君がイギリスに帰っちゃうってわかった時はすごく残念だった」
さくら「また会えるといいなとか、お手紙書こうとか、いろんなこと考えていた」
さくら「でも小狼君の時は…」
さくら「そんなのやだ…やだよ…」
(CLAMP「カードキャプターさくら」より)
ここでさくらは「das Ding」に直面しているわけです。
先に見たように、子どもの「欲動」はまず第一次的には「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象に結びつきますが、「欲動」とは本質的に「死の欲動」であり、その究極的な対象は母子一体的な「享楽」の在処、つまり「das Ding」といういわば「無の場所」です。
しかしながらフロイトが「快楽原則の彼岸」で述べるように「死の欲動」は「生の欲動」によって抑止される関係に立つことから、人は生きている限り「das Ding」への到達は原理的に不可能ということになります。つまり欲動それ自体は決して満足することはなく、ゆえに「das Ding」とは子どもにとって一種の煉獄の場と言えます。
そこで、子どもは「das Ding」に到達する不可能性を一つの「禁止」とみなすことで、その禁止の遥か彼方に一つの可能性を見出そうとする。これが「欲望」と呼ばれるものの本質に他なりません。
これは何も幼児期の発達過程に限った話ではなく、我々は日々、何かの不可能性に直面することで生起する感情に「欲望」の名前を無自覚的につけています。とりわけ、その「禁止のヴェール」に「das Ding」を描き出し、その不可能性を何か尊いものへと昇華させようとする営為を我々は「芸術」とか「愛」などと呼ぶわけです。
従って、もし仮に「転移」ではない純粋な意味での「愛」というものがあるとすれば、それは「わたしを愛してね」という「要求」の水準ではなく、「わたしは愛してる」という「欲望」の水準にあるということです。
さくら「ちゃんとわかったよ」
さくら「私が小狼君のこと、どう思っているか」
(CLAMP「カードキャプターさくら」より)
こうして、さくらは小狼の帰国という「das Ding」に直面することにより、これまで形にならなかった自分の中にある想いを初めて言葉にすることができた。これは一つの欲望が生成される瞬間をよく表していると言えるでしょう。
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このように「転移」と「愛」はその概念として截然と区別されることになる。もちろん実際問題として誰かが誰かに恋愛感情を懐く時、この二つは無い混ぜとなり、渾然一体となった和音として鳴り響くのでしょう。
けれどもその時、どの音階が自分の心の中で一番高鳴っているかを理解することは決して無益なことではないでしょう。
むしろ、そうすることによって、人は「私を愛してくれないこの苦しみ」を「それでも私はあなたを愛している」へと転回し、昇華することができる、ある一つの道標を得ることができるのではないでしょうか。