2017年08月31日

ラカン派精神分析と自閉症圏



疎外と分離

まずはおさらいですが、ラカン派精神分析においては人の精神構造は概ね3つに分類されます。すなわち精神病圏、神経症圏、倒錯圏です。

そして、ある主体が精神病圏から神経症圏へ遷移するには心的な母子分離が必要とされます。この点、1950年代のラカンはフロイトのエディプスコンプレックスを構造化して〈父の名〉というシニフィアンの有無で神経症と精神病を鑑別していました。すなわち〈父の名〉を持っていれば神経症、持っていなければ精神病、ということになる。

ところが、シニフィアンという「象徴界」の水準のみでは精神病内部でパラノイアとスキゾフレニアを鑑別するのは不十分だという憾みが残るわけです。そこで1960年代のラカンは享楽や対象 a という「現実界」の水準を視野に入れて鑑別診断を再構成することになります。これが「疎外と分離」の理論です。

「疎外」が主体の象徴界への参入の過程であるとすれば、「分離」とは主体が再び現実界に(部分的に)回帰する過程ということになります。

われわれは「原生的主体=S」として現実界に一つの生命として生まれ落ちる。その後、Sは「疎外」の操作によって象徴界に参入すると同時に、代価として「欲動の満足=享楽」を喪失し「失われた主体=$」となってしまう。

もっとも$は「分離」の操作によって、失った「享楽」の一部を「欲動の対象/欲望の原因=対象 a 」を通じて再び回復し得る。こうして「対象 a 」に急き立てられる「欲望する主体=神経症的主体」が出来上がる。

以上のような「疎外と分離」の観点から、「享楽」が「対象 a 」として切り出されていれば神経症、「享楽」が〈他者〉に回帰すればパラノイア、「享楽」が身体全域に回帰していればスキゾフレニアという鑑別診断が帰結されるわけです。


疎外を拒絶する子供たち

さて、このようなラカン派の鑑別診断の中で「自閉症」はどこに位置付けられるのでしょうか?かつて自閉症はスキゾフレニアの早期発症、あるいは精神遅滞と混同されるような存在でしたが、ブルーノ・ベッテルハイムの母原病説が退けられる一方、ローナ・ウィングによる「3つ組の障害」の定式化を経て、2013年のDSM-Vにおいてはカナー型とアスペルガー型が「自閉症スペクトラム」として統合され、自閉症は一つの独立的なカテゴリーを形成します。

ラカン本人は自閉症をスキゾフレニアと近縁のものとして捉えていた節があるようですが、上記のような歴史的経緯を踏まえ、現代ラカン派においては、もはや自閉症を精神病の一種とは考えません。

確かに自閉症者もスキゾフレニアも原初的象徴化に失敗している点では同様であり、いわゆる「排除」の範疇ということになるでしょう。このようにシニフィアンの水準のみから言えば自閉症とスキゾフレニアを切り離すことができません。しかし、享楽や対象 a の観点から言えば、決してこの限りではないということです。

まず、「疎外と分離」の図式において、自閉症者は「疎外の入り口」に位置付けられます。つまり、自体性愛的享楽に結びついた原初的言語である「ララング=S1」と、知的言語体系を織り成す「その他のシニフィアン=S2」の連携が切断されている状態にあるということです。

定型発達過程においてはS1にS2を付け加えていく作業がなされ、次第にララングとの折り合いがついていくわけですが、自閉症はS1のみを常同反復し自閉的な享楽を得ていると解釈される。いわば、自閉症者とは疎外の入り口に立ちつつも、疎外の領野に入ることを拒絶した、あるいはせざるを得なかった子供たちと言えるでしょう。

このように自閉症者は疎外においてS1とS2の連携が機能していないため、カナー型にせよアスペルガー型にせよ、その言語使用は自ずと「S1かS2か」の二者択一関係となる。アスペルガー型の自閉症者が定型発達者を凌駕するような豊富な語彙量を有する一方で、方言や比喩・皮肉が理解できなかったりする現象はかような点から了解され得ます。

また、自閉症とスキゾフレニアは享楽の回帰モードで区別されます。スキゾフレニアにおいては享楽が身体全域に回帰するのに対し、自閉症では享楽は身体の中でも「縁」の上に焦点化されている。

「緑」とは口や耳といった縁取り構造を持つ身体器官のことです。自閉症に見られる場面緘黙は「声」という対象 a を〈他者〉に手渡そうとせずに保持しておこうとする一種の防衛ともいえるでしょう。

すなわち、自閉症者にとっての「縁」は、安心できる既知の世界と、混沌とした外の世界を分割する境界線であり、外的世界へ関わるための起点でもあるということです。


自閉症は「個性」なのか

ところで、自閉症の遺伝子がいつまでたっても進化論的に淘汰されない理由として人類という種のニューロダイバーシティを確保するためという説があります。

つまり、自閉症者は想像力や共感能力に欠けるのではなく、定型発達者が「社会」に対して、自閉症者は「自然」に対して、それぞれ想像性・共感性が優れているという「質の違い」に過ぎないと言うわけです。

この説の真偽のほどは専門外なのでよくわかりません。ただ、これまで見てきたように精神分析的観点からは自閉症は最も「現実界」に近い存在であることは確かです。

けど、このような「特性」を「個性」と言って良いのか?というと躊躇を覚えます。自閉症は「障害」ではなく「個性」とラベリングすることで、今度はそれを活かしきれてないのは「自己責任」みたいなところに議論がスライドしやすくなってしまうからです。

思うに、自閉症という「特性」は、能力や社会的実績がある程度の「閾値」に達した時、初めて「個性」として花開くものだと思うんですよ。

例えば同じくらいの演奏レベルのプロのピアニストが2人いたとします。ひとりは「ただのピアニスト」、もう一人は「自閉症スペクトラムのピアニスト」。この場合、後者がある意味で「個性的」なのは確かでしょう。

けど、そこまでの「閾値」に達していない場合、自閉症からくる生きづらさはただただ、逆風そのものでしょう。ゆえに「自閉症は個性」などという一見するとポジティブな響きを持つ言葉の取り扱いにはゆめゆめ気をつけないといけないということです。「障害か個性か」などといったあまり生産性のないラベリングよりも、彼ら彼女らがいま何に困っているのか、そしてどのような支援を必要としているのか、結局そういった視点こそが本当に大事なことではないでしょうか。



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posted by かがみ at 21:37 | 心理療法