2017年03月03日

少女のエディプスコンプレックス〜あかりのケースと香子のケース

いよいよ実写映画公開が控えた「3月のライオン」ですが、ひとますアニメに関して言えば、本当に素晴らしい出来だと思います。原作の時系列、世界観、さらには空気感という「核心部分」は、それこそ神経質と言えるほどにこだわって大事にしつつも、その周辺の「余白部分」については新房×シャフトのオリジナリティが縦横無尽に炸裂し、原作の持つ魅力を二乗三乗に増幅させていると言えるでしょう

さて、本日は桃の節句なので、この作品を題材にして、女の子のエディプスコンプレックスの話でも書いてみたいと思います。エディプスコンプレックスというのは定義的には「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになりますが、その経過は男の子と女の子では若干異なってきます。まずそのあたりの精神分析の説明から始めてみます。

想像的水準と象徴的水準におけるPhallus

ラカンの有名な定式に「人の欲望は他者の欲望」というものがありますが、寄る辺ない存在である子供にとっては他者の欲望というのは重要な関心の対象になります。人という生き物は他の動物と異なり、独りでは生きられない寄る辺無い姿で生まれて来る為、他者の助けなくこの世界では生きていけません。そこで初めて出逢う他者は母親です。

なので、まず男の子も女の子も、この世界で生きていく為に母の欲望を埋める愛情の対象になりたいという欲望を持たざるを得ない。ラカン風に言うと子供は愛情という想像的水準において母のPhallusになろうとしている。

ところが、母親も日常生活の中で四六時中子供と一緒にいるわけではなく、現前-不在を繰り返します。そこで子供の中には次のような心象が沸き起こります・・・なんでお母さんはいつもボク/ワタシと一緒にいてくれないんだろう、ボク/ワタシはお母さんの欲望の対象じゃ無いのかな・・・?お母さん、貴女が欲しいものはボク/ワタシ以外の「何か」なの・・・このように子供は不安に駆られます。

そして、この不安はやがて確信に変わります。母の紡ぎ出す言葉の節々に見え隠れる「オトウサン」なる存在。母曰く「オトウサンに叱ってもらいますからね」「オトウサンが見てなんていうでしょうね」「オトウサンに相談してから買いましょうね」云々・・・つまり、暴力、権力、財力という象徴的水準でのPhallusを保有している絶対的な第三者が「オトウサン」ということになります。こうして父親は満を持して子供の前に登場し、子供はこれが母の欲望の対象に違い無いと確信し、こうして子供は想像的水準で母のPhallusになれないことに絶望するしかない。

では、自らの存在意義を失った子供はどうすればいいのでしょうか?ここで男女の違いが生じてきます(もちろん現代においては上記のような典型的な母親-父親像は揺らぎつつあります。あくまで子供の心象風景モデルの話です)。

エディプスコンプレックスと去勢コンプレックス

男の子の場合、去勢不安から母親を諦めざるを得ない。結果として多くの場合は父親側に同一化して、象徴的水準でPhallusを所有したいと願う。つまり「父のような人になって母のような人をものにしたい」と欲望することに自らの存在意義を見出す。こうして、男の子の場合、エディプスコンプレックス→去勢コンプレックスと進んでいき、母親を諦めた時点で、エディプスコンプレックスはフロイト曰く「粉々に砕け散る」。以降、男の子は畢竟、(象徴的な)Phallus関数に支配された存在となり果てる。

女の子の場合、最初から去勢されているため、結果として多くの場合は母親側に同一化して象徴的水準でPhallusそれ自体になりたいと願う。つまり「母に成り代わり父に欲望されたい」と欲望することに自らの存在意義を見出す。女の子の場合、男の子とは逆に去勢コンプレックス→エディプスコンプレックスと進んでいく。

つまり、女の子の場合、エディプスコンプレックスは消滅するまでの期間が長いということです。女性のセクシュアリティが男性に比べて遥かに複雑になるのはこういう事情によります。男性は基本的に「Phallus関数に支配される者」と積極的な定義が可能ですが、女性は「Phallus関数に支配される者、とは限らない者」と消極的に定義せざるを得ない。すなわち、女性は「娘」でもあり「妻」でもあり「母」でもあり、さらには「男性」でもあり「それ以外の存在」とも言える。ラカンの「女性なるものは存在しない」という例の悪名高い迷言(?)はそういう観点から理解されるべきなんでしょう。

あかりのケースと香子のケース

ところで、このエディプスコンプレックスの消滅過程で少女が強烈な外傷経験に出会った場合、セクシュアリティの一面が歪んだ形で先鋭化されることがあります。いわば「エディプスコンプレックスの補償」という問題です。

ようやくここで、という感じですが、何が言いたいのかというと、「3月のライオン」という作品は、この問題について、かなり自覚的に描き出しているように思えるんですよね。物語のサブヒロイン的な立ち位置にいるあかりと香子は、様々な点で両極に対置されており物語のコントラストをキャラクターレベルで支えていますが、境遇はわりと似ています。同世代であり、長女であり、そして、両者とも思春期の只中で「父に棄てられた存在」という点においても共通した要素を持っているわけです。

あかりの場合、父親である誠二郎に家族ごと放り出されており、「お前を愛してない」という想像的水準で父に棄てられている。そして現在、あかりは妹たちを過剰に溺愛しており、特にモモちゃんに対してはファリックマザーそのものと言っていい一方で、家族以外の人間関係については基本的に禁欲的な態度を貫き通している。当たり前ですが、ひなちゃんもモモちゃんも誠二郎氏の娘です。従って、あかりさんとしては心外かもしれませんが、精神分析の観点から言うと、誠二郎氏という欲望の対象は変わらず、その在り様が象徴的水準におけるファルスへの同一化から想像的水準でのファルスの所有へとスライドしていると言わざるを得ない。

香子の場合、父親である幸田氏から奨励会退会を申し渡され、「お前には期待してない」という象徴的水準で父に棄てられている。そして現在、香子は20も歳上の妻帯者であり、かつ父親の弟弟子でもある後藤正宗に一方的に惚れ込んでいる。つまり、象徴的水準でのファルスへの同一化という欲望の在り様は変わらず、その対象が父と似たような相手にスライドしていると言える。

こうしてみると、父親からの棄てられ方から欲望の有り様まで、あかりの場合は想像的水準で動いており、香子の場合は象徴的水準で動いていることに気付かされます。これは必ずしも理論的な対応関係は無いはずですが、あかりと香子が鮮烈に放つ両極性はこの辺りの差異に起因しているような気がするんですね。結構強引な解釈なのかもしれませんが、こういう対比を念頭に置きつつ、3月のライオンの原作を読み返してみるとまた違った発見があるのかもしれません。


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posted by かがみ at 23:08 | 文化論